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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

  

2017年衆議院選挙を前にして(3) 

 
 
 もっとも、今回の選挙には、「小泉郵政選挙」や「民主党政権交代選挙」のような風は吹かないでしょう。
 何故なら、『選択感』が薄いからです。
 希望の党は政権を取るには候補者不足だし、小池百合子は不出馬とのことですから、市民的大衆人たちの多くは家で寝ているのではないでしょうか?
 でも、すべての市民的大衆人たちが家で寝ているというふうにもいかないでしょう。
 で、そういう連中の多くは、目新しさで、おふざけで、退屈しのぎで、この急ごしらえの新党へ投票することでしょう。直近では、都議会議員選挙の例もありましたしね!
 だから、希望の党はそれなりの議席数は確保するんじゃないですか。
 でも、この議会で勢力を持った新党は、選挙後に与党側につこうと、野党側につこうと、大衆を背景とした災い以外の何ものをももたらさないに決まっているのです。
 まあ、それはそうとて、影響力は小さいでしょうから放っておけばよいのかもしれないですけれど、私が気に食わないのは「希望の党そのもの」というよりは、このフザケタ騒ぎの「フザケタ感そのもの」なのです。
 で、そのフザケタ感が許されたのは「民主主義の礼賛」が世論の通底にあるから、というのが透けて見えるからです。
 こんなにフザケているのに
「一人一人が政治選択できる可能性があがることによって、時の政権を制限できる」
 という一事があったので、小池劇場という「現象」として(一瞬ではあったものの)閃光を放ちえたのでしょう!
 私はこういうフザケタのが嫌いであり、我慢がならないのです。
 
 そう言えば少し前に「立憲主義とは政府を制限すること」というような話がまことしやかに囁かれましたけれど、それは間違っています。
 だって、政府、権力を制限していさえすればよいというものではないに決まっているのだし、その制限のケンリが我々一人一人に振り分けられていると考える仕方は市民革命以降のリベラル的法パラダイムにすぎません。
 
 
 ◆
 
 
 我々は庶民として、かすかなシガラミを発見して、シガラミによる投票で、「シガラミの政治」の復活を目指すべきなのです。
 
 確かに、我々はすでに21世紀を生きていて、ほとんどシガラミの希薄なバラバラな市民的大衆人として、無価値な市民的生活を送っているわけですが、それでもまだ我々が日本人である可能性があるのは、シガラミが霧散し切ったわけではないからだと私は信じます。
 
 それでも、「投票する根拠となるようなシガラミがない」というのであれば、あなたのお住まいの選挙区の中で「候補者の人柄」を見て判断するとか、それくらいのケンリならば我々にも付与されているのかもしれません。
 
 でも、「シガラミもないし、よくわからないけれど無理矢理誰かに投票しなければならない」ということはないのであるから、そうした場合は遠慮なく家で寝ていていただければと存じます。
 
 
(了)
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2017年衆議院選挙を前にして(2) 


 例えば、このたびの選挙も同様です。
 みなさんが現政権を支持しているか不支持しているか、何党を支持しているか……は存じませんが、まず我々の一人一人には、
1「具体的な政策」
2「誰が首相なのが良いか」
 といったものを直接選ぶケンリなどないのです。

 まず我々は普段の仕事が忙しいのであり、このように膨大な国家の複雑に互いが絡まり合う諸政策について、全体的に把握し、具体的な政策論を適切に構築できるようなヒマなどあるわけはないでしょう。少なくとも私にはありません。
 また、日本国憲法がなんと言おうと一人一人の人民のケンリは国家を存続するのに資するぶんだけ制限してしかるべきだし、その日本国憲法でさえ、議員内閣制を前提としているのだから、首相は「各地の国民が選んだ代議士……が選んだ者」を天皇が任命してその権威を付与する健全な間接性を担保しうるものなので、「我々一人一人が直接的に首相を選択してしまう力学」は議員内閣制度の健全性すら毀損していることになるのです。

 まあ、私個人は別に安倍首相長期政権が「ベターな解」であるとは思っていません。
 安倍首相は、保守層からの支持以上に、インテリ知識人の雰囲気に迎合して「規制緩和」と「グローバリズム」へ傾きがちであり、規制緩和論とグローバリズムに傾きがちであることの背景には「100%の日米同盟」への依存度の高さを容認しすぎという部分があるのであり、日米同盟への依存度の克服を視野に入れない憲法改正論では、むしろ国家の独立を毀損する可能性が高いというふうに私個人は思っています。その証拠に、アメリカが「失望」すれば、靖国神社へは露ぞ参拝しなくなるのであり、また日韓合意というものがされてしまった背景には当然この力学があるに決まっているでしょう。
 さらに言えば、安易な規制緩和論とグローバリズムは、そのこと自体が、国民の帰着する産業や共同体を破壊するのであるから、国家そのものを空洞化させる力学にもなる。また平成の30年ほどの国力の凋落も「日米構造協議」以降の構造改革路線が、バブル後の長期デフレと絡まりあって起こったのであるから、日本の国力の増進という観点から見ても安倍首相が最適解であるかはかなり疑わしい部分がある。もちろん、アベノミクスという経済政策には「経済に対する強い国家の介入」の可能性があったわけですが、現状はそれも規制緩和路線の焼き回しにより不十分な形に終始してしまったという印象です。

 でも、それは単なる外から見た私個人の見立てであり、私の見立ては間違っているのかもしれないのであり、そうである以上、私の選択権はある範囲で制限されていなければならないということでしょう。

 ですから、「選挙で政権にお灸を据える」というような選挙に対する大衆的な態度にも、私は全然賛成できないのです。
 それはつまり、
「多数の人間が政権の『信任、不信任』を選択することによって、権力に鎖を付ける」
 というような民主主義的な考え方を容認することになってしまうからです。

 もちろん、権力を制限することは「ある程度は」必要なことでしょう。
 でも、その制限するケンリが、何故「多数の人間の選択の集合したもの」なんかに付与されて良い……と前提しているのですか?
 権力の制限は、あらゆる位相の分権的な権力均衡によってなされるべきものです。
 もちろん、その慣習的に分権された勢力均衡を、「首相(総裁)に集中した権力」でもって打ち破ってしまうのが安倍首相なのですけれど、だからと言ってこれに対するパワーとして「多数の人間の選択の集合したもの」にケンリを設定してよい……というわけにはいきません。
 そもそも、昨今の「首相(総裁)に集中した権力」というものも「多数の人間の選択の集合したもの」によって形作られてきたというのが平成の歴史だったではないですか。すなわち、リクルート事件その他の疑獄事件について白も黒も、ミソもクソも、一緒くたに、腑分けなしに、ピーピー芸能不倫スキャンダルを騒ぐがごとく、自民党をイジメ尽くした結果、「政治制度改革」というものが世論的に礼賛されるようになった。
 そして、政治制度改革とは「小選挙区制度」と「政治資金規正法」であり、これらが「自民党や派閥、族議員」に対する「総裁、党執行部」の権限を強化することになり、そして、そのことを小泉政権では「自民党をぶっ壊す」とて国民をあげて礼賛していたではないですか。(今風に言えば、シガラミからの脱却というヤツでしょうか?)

 つまり、少し前の「多数の人間の選択の集合したもの」によって「首相(総裁)に集中した権力」が形成され、加藤の乱などを経て、小泉純一郎という徹底した存在が現れ、その末裔として安倍晋三があるのに、また「今の多数の人間の選択の集合したもの」によってこれを打ち破ったとしても、最高でも同程度の邪悪性を有するものであろうし、そもそも「少し前に選んだ自分たちの選択」にちっとも責任を感じないばかりか、記憶にすらとどめていないような連中に、そんな好き勝手に行使できるケンリが付与せれていて良いと考えるのは傲慢にもほどがあるでしょう。


(続く)

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2017年衆議院選挙を前にして(1) 


 平成29年(2017年)衆議院議員選挙の候補者が10月10日に公示されました。

 そう言えば、私が選挙のあるたびにいつも注目するのは「投票率」です。ただ、こう言うと絶対に誤解されると思うので言っておくと、私は「投票率が高いことを願って、投票率に注目している」のではありません。

 私の注目の仕方は、
「投票率が低いことを願って、投票率に注目している」
 のです!

 世の中では何か、「投票率の高い方が民主主義的で良い」みたいなことが前提されているように思われます。でも、私は「投票率が高い方が民主主義が直接的になってしまう……から悪い」というふうに思うのです。
 
「投票率が高くなると、民主主義が直接的になってしまう」

 というのはこういうことです。
 まず、よくよく考えて欲しいのは、「投票率が高い」ということは「いつもは選挙に行かないヤツが、その時の選挙では投票所へ足を運ぶ」ということを意味するわけでしょう。
 ということは、その率の増えたぶんは「投票する周りのシガラミ」を持たない「市民的大衆人」の(どんなに好意的に言っても)「好き勝手な判断」であることを意味します。
 つまり、これが「浮動票」というものです。
 逆に言うと、浮動票というのは、地域や産業のシガラミを持たない「バラバラな市民的大衆人」の「好き勝手な判断」であるからこそ、一般的に邪悪なものなのであります。
 そもそも、こうしたシガラミを持たない(持てない、可哀想な)彼らの多くは、普通は選挙など行きません。
 で、理論上、こうした人間たちの最もマシな政治判断は、
「選挙へ行かないこと」(あるいは、白票を投じること)
 なのです。
 この場合、当然「投票率」は低くなる。ので、選挙なんて信じない私は、投票率が低いことだけを願って選挙を見ているのです。
 でも、そんな市民的大衆人たち(浮動票)も、自分の無前提で勝手な判断か、メディアの流行に流されてか、選挙へ行くことがある。
 バラバラな市民的大衆人が、日曜日に家で寝ているんではなく、わざわざ投票所へ足を運ぶ状況とは、どんな状況か?
 それは、
「市民的大衆人の関心をくすぐる、なんらかの『選択性』が世論的、政局的に盛り上がった時」
 でしょう。

 具体的にどういう状況がそれにあたるか。
 たとえば、昔、小泉純一郎とかいう輩の「郵政解散選挙」という乱チキ騒ぎがありましたね。(※これは私のちょうど20歳の頃で、悪い意味で鮮烈な印象があります。もう誰も本気で日本をやって行こうとは思っていないことが知れた出来事でした)
 その後、麻生政権を滅ぼし民主党政権を作りだした「政権交代選挙」というのもありましたね。(※あれはリーマンショック後のことでしたから、世の大人は子供世代のことなんぞちっとも考えていないということが分かった出来事でしたね)
 あるいは90年代に遡って、(私は小さくてほぼ記憶にないのですが、)小沢一郎が選挙制度改革を大義に主導した選挙で、非自民連立内閣を形成した時も、おそらくそういうことだったのではないでしょうか?
 これらの選挙は、極めて高い「投票率」があったらしいですが、すべて「大失敗」の選挙でした。
 まあ、もっとも。もし「民主主義」というものが最上の目的として設定されて、
「一人一人の国民が、より多く政治的判断を下す」ことによって「政府を制限する」
 ことが、最も高い価値を有すると思考的に「設定」していれば、「政治制度改革」も「郵政解散選挙」も「民主党政権交代選挙」も、すべて「良いモノ」ということになるでしょう。
 でも、政府、政治の大目的は、
「天皇を中心とした文化圏(日本国家)を、千年先も存続させようとすること」
 なのですから、「民主的な制度」がその「手段」となる位相はあるにせよ、上の例のごとく「民主主義によって政府(権力)を制限することそのもの」が「目的化」してしまった政治力学は、政治s力学としても「大失敗」だし、政策的に見てもやはり大失敗を引き起こしているのです。

 その証拠に、当時はずいぶんと世論で喝采されていたらしい政治制度改革ですが、特に安部政権下になってからはみんなが「小選挙区制度がマズかった」「政治資金規正法がマズかった」と言うようになっていますでしょう。
(※頑固なヤツは知らんですけど)
(※また、今マズかったと言っていたヤツが、当時世論に迎合していなかったかというのも非常に怪しい気がします)

 あるいは、今や郵政民営化がよかったなんて言うヤツはいないし、民主党政権がよかったなんて言うヤツもない。
(※これも頑固なヤツは知らんし、当時世論に迎合していなかったかどうか怪しいというのも同じ)

 で、これらの選挙で投票率が高かったのは、周知の事実でしょう。
 つまり、こうした選挙では、日曜は普段家で寝ている市民的大衆人がたくさん投票所へ行ってしまっていたということになる。
 
 そして、何故、彼らは投票所へ行ったのか。
 そのポイントは世論の盛り上がりの「風」という言われ方もしますが、より根本的に言えば、『選択性』です。
 つまり、
「自民党か、非自民連立か」
「郵政民営化をやるか、やらないか」
「自民党か、民主党か」
 こういう選択性があるときに、市民的大衆人(浮動票)は羽虫のように投票所へ行くのです。

 つまり、近代的な自我の増大した市民、大衆は、「何か直接的に選択したい」のです。
「俺にも何か選ばせろ!」
 と、こういうわけ。
 ゲロ以下の、餓鬼のように、醜く、低劣に。
 また、マスメディアは大衆の消費選好を満たすために番組をしつらえるのであるから、大衆はマスメディアに騙されているのではなく、マスメディアが大衆の求めるところを提供する方が先で、大衆は後から「マスメディアに騙されたのだ!」という保険の効くことを狡猾に意識しながら、ノーリスクで選択権を行使するというわけ。

 一方、毎回ほぼ強制的に投票所へ足を向けざるをえない「庶民」はそうではありません。
 国家、産業、共同体のシガラミ(中間団体)を持った「庶民」というのは、別に自分自身の勝手な判断で投票するのではありませんね。
「あの人は自分の地域に貢献した家の人だから」
「自分の家は代々あの政党に投票しているから」
「家長があの人に投票するから一家で投票する」
「あの人は、自分の会社と繋がりのある人だから」
「自分の所属する産業や組合が支持している政党だから」
 ……庶民は、そういう「シガラミ」によって投票するのであって、だからこそ間接性が担保される。
 で、間接性が担保されて初めて、民主主義という最悪な制度は、かろうじて最悪を免れえる可能性が残るわけです。
 だから、原理的に言って、投票権はそういう「庶民」にだけ与えられているべきなのであって、
「直接的に政治選択をしたい」
 などと構えているゲロ的な「市民的大衆人」からは、そのケンリをはく奪して然るべきなのであります。

 ◆

 まあ、これを区分けする方法がないから不可能なのですが、理論上はそういうことになりますでしょう。

 そして、理論上のことを確認しておくことはとても重要なことです。



(続く)


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寄稿募集の募集 


 最近、『進撃の庶民』様というよそ様の媒体に週1で寄稿させていただいているのですが、私としてはこうした活動をさらに広く行って認知度を高めていきたいと思っています。


 そこで、社会、国家、政治、経済、エッセイなどの文章を、寄稿させていただける場を募集したいと思います。

 この『日本が日本であるために』ブログに書いているような内容を載せても良いという雑誌、Webなどの媒体をお持ちの方(あるいはそうした方をご紹介いただける方)は、ぜひご一報願えればと存じます。

 媒体の論調は問いません。

 右でも左でも、経済系でもIT系でも、政治とあまり関係がなくてもよいです。

 迎合はしませんが、テーマ、媒体に合わせた内容を心がけます。


 経歴は、地方の国立大学卒(学士)で塾講師。1984年生まれ。

 しょぼい経歴なので、言論はこのブログでくらいしかやれておりませんが、ブログの記事は300以上書いてきたことになります。

 とにかく露出を増やしてちょっとでも影響力を高めたいと考えているので、何卒よろしくお願いいたします。


(了)

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21世紀の世代間格差の性質(改) 


 今日は「21世紀の世代間格差の性質」について述べようと思います。

 私が最近「世代間格差」というものに焦点を当てて論じているのは理由があります。
 
 それは昨今、
 
「全世代型の社会保障」
 
 というチープなものがインテリ界隈で流行っているように思え、これがムカつくからです。
 
 果ては、安倍首相までもが選挙で「全世代型の社会保障」を大義に掲げて戦おうとすらしているシマツ。
 
 そう言えば、今年イギリスの保守党が大幅に議席を減らしたのもそれが原因でしたね。
 
 つまりこーゆーのがグローバルにインテリの流行だというわけ。
 
 
 で、私がこの世で一番ムカつくのは、ウヨクでもサヨクでもなく、こーゆー「インテリ流行」の「安っぽさ」なのです。



時計
 
 

 まず、私が前提として強調したいのは、
 
1「現代の世代間格差は、少子高齢化から生じているのではない」
 
2「現代の若者の負担感は、老人福祉に対する税や社会保険料が主たる原因なのではない」
 
 ということです。
 
 
 
 また、もうひとつ強調しておきたい前提は、
 
3「世代間格差というものはいつの時代にもある」
 
 ということです。

 いつの時代の若者にもその時代なりの「苦しみ」と「アドヴァンテージ」があり、「どの時代に若者をやっていた方が特で、損だ……」みたいなことを言うことはできません。

 また、人間にそんな不満を述べたてるケンリなどありはしないでしょう。

 ただ、

「その時代特有の苦しみとアドヴァンテージ」の「性質」

 を見極めることは大切なことだから、論じようとしているだけです。

 だから、私は別に「自分が先の十年間若者をやってきた頃の不満をぶちまけたい」というのではないし、また、「現在の若者に対して媚を売ろうとしている」わけでもない。
(※その点は信用いただく以外にないですけれど)



 ◆



 では、何が「21世紀特有の世代間格差」というべきものなのか。

 
 今日第一に、着目して欲しい点は、
 
「消費者としての私」
 
 と
 
「働く者としての私」
 
 という観点です。
 
 
(※この観点は、「弱者と強者」という観点なんかよりもよっぽど重要な切り口だと、私は考えています。)
 
 
 
 よく言われることですが、現代は「消費者としての私」はますますチヤホヤされて、「働く者の私」はますます追い詰められてゆく時代だ……ということが言われる。
 
 
 例えば、ヤマトとアマゾンの事例などはこれの最も赤裸々に表れた関係でしょう。
 
 すなわち、消費者としての私は、レビューのついた商品を好きに選び、ボタン一つで、玄関まで運んで来てもらえるようになった。
 
 とても便利です。
 
 消費者としての私……としては!
 
 しかし、例えばこうしたアメリカ流の「過剰な消費者目線(市場原理主義)」に基づいた消費慣習の改変(産業構造改革)は、宅配サービスを圧迫し、物流サービス全体をも圧迫してきた。
 
 つまり、「消費者」に対し「事業者、労働者」が「過剰なサービス」を強いられるというわけ。
 
 さらに言うと、例えば、今宅配で過剰なサービスを強いられたAさんも、一時間後には過剰サービスを強いられているコンビニ店員から過剰なサービスを受ける「消費者」となりうる。
 
 また、そのコンビニ店員のBさんが明日役所へ申請へ行けば、世論的な予算の締め付けによって過剰な公サービスを強いられている役人Cさんに受付されることにもなるでしょう。
 
 
 
 しかし、市場原理主義というものを前提すると、これはなんら問題のないことになってしまいます。
 
 何故なら、市場原理「主義」というのは、市場で取引されたということをもって、全体的に、民主的に、あるいは平均的に、「プラス・マイナス過不足なく均衡している」ということを前提する「主義」だからです。
 
 
 
 でも、こうした「消費者に対するチヤホヤ」と「事業者、労働者への圧迫」というベクトルは、21世紀に若者をやってきた私には具体的な経験からヒシヒシと感じ取られる事実でした。


 ◆


 なるほど。こういうことを言うと今の年長者はこう返すでしょう。
 
「その代わりに同じ1万円で手に入れられるものの価値が上がるのであれば良いじゃないか。その証拠に、20年、30年前と比べてもモノの質、サービスの質は各段に向上している。そういう意味で、今は豊かな時代なのだ」
 
 と。
 
 
 でも、そういうことではないのです。
 
 それは年長者が、「もう社会的なポジション」があり、「もう『働く者としての私』よりも『消費者としての私』を気にする年代にある」からでしょ。
 
 
 対して、大人になりゆく若者の最大の問題は、
 
「この国家、共同体で、働く者としての私をどう確立してゆくか」
 
 なのです。
 
 だって、これから国家、社会においてどういう役割(仕事)を担ってゆくか、どういうポジションを確立してゆくか……という問題が、若者にとって切実なのは、人生で一度でも若者をやったことのある人間ならばわかるでしょ。
 
 その時期に、「働く者としての私が蔑ろにされ、締め付けられる」となると、仮に「1円あたりの消費者としての効用」が高くなろうとも、これは非常な苦痛と鬱屈とビハインドとを強いられる環境ということになる。
 
 
 
 逆に言えば、
 
「『働く者としての私』が締め付けられ、蔑ろにされても「消費者としての私」がチヤホヤされるのならイーブンで均衡している」
 
 ……と言って納得できるのは、「市場原理主義」と「働く者としてのポジションがもう確立している大人たち」だけなのです。



 ここが「21世紀の世代間格差」の最も重要なポイントだと、私は考えます。



 ◆



 だから、本当にこれからの若者世代のことを考えるとするならば、彼らに対して
 
「国家、共同体の中で働く者としての私」
 
 の「環境」や「席」をしつらえてやることなのです。
 
 すなわち、

1 短期的には「(特に公共事業を中心とした)政府支出拡大」でデフレを脱却することと、

2 長期的にも「(議員定数や役人、軍備の拡大を含めた)政府機能拡大」で需要飽和状態を緩和すること、

 が必要なのです。

 つまり、「国家の価値に基づく世界観、事業観」と「政府を中心とした国民の経済的団結」という国家社会主義的な方向こそが21世紀の世代間格差を緩和する。

 逆に、そうでなければ、

「日本の年長者は、日本の若者をグローバル市場へ放置している」

 ことになるのです。


 対して、今流行っている全世代型社会保障……すなわちベーシックインカムや若者への福祉的給付、社会保険料の減額によって消費生活をラクにしてやることなどは、私から言わせれば
 
「そーゆーことじゃねーんだよ!」
 
 という感が、すごくあります。
 
 だって、それは
 
「消費者としての私」
 
 の側面からのサポートであり、
 
「働く者としての私の確立」
 
 に対してはなんらの効力も有しないのですから。
 
 
 
 しかし、若者に対して
 
「国家、共同体の中で働く者としての環境や席をしつらえてやる」
 
 ためには、ある種、市場原理主義的なものから距離を取る必要が出てきますでしょう。
 
 たびたび例に取りますが、ヤマトとアマゾンの問題にせよ、あの宅配料の値上げは一種
 
「カルテルじみた価格協定」
 
 が必要だったりするわけ。
 
 つまり、「事業の存立」や「働く者の席を整える」には、消費者に価格を承認させるための
 
「政治や産業構造的な権力」
 
 でもって、市場や価格を「恣意的」に操作する必要が出てくることになる。
 
 
 ヤマトの宅配価格の釣り上げというのは、そういうことをも証拠立てているのです。
 
(※世論は一応これに賛同しておきながら、一方で未だに市場原理を前提してEコマースを礼賛しているので、私にはちょっと理解できないのですが)
 
 

 でも、こうやって本当の意味で「将来世代」のことを考え、市場原理主義から距離を取ろうとすると……

 ……日米構造協議以降の「構造改革路線」からも距離を取らなければならないという話は、切実なものになってくるでしょう。
 
 そして、構造改革路線から距離を取るためには、
 
「アメリカに対する抑止力」
 
 という意味での核戦力や反撃能力を有しなければなりません。
 
 
 
 こうなると、「アメリカ」に対する関係も、世代間で都合が変わってくるということになるでしょう。
 
 つまり、
 
X「年長者で社会的なポジションがあればあるほど、『消費者としての私』の向上のために市場原理主義をエクスキューズにして構造改革に屈服し、アメリカに従属しておいた方が都合が良い」
 
 ということになり、
 
Y「若くこれから社会的なポジションをえなければならない下の世代ほど、『働く者としての私』の向上のために、市場原理主義や構造改革に屈服するわけにはいかないので、アメリカに対する独立が求められる」
 
 ということになる。


 
 まあもちろん。
 これは「理論上は」ということです。

 今の若者世代も「徴兵される確率を1%でも下げておきたい」という下等な計算はほぼ無自覚的に植え付けされているから、経済的に自分の首を絞める要因になろうとも、アメリカに屈服し、市場原理主義と産業構造改革の論筋上で、「自分が席を確保できればよい」と思いつつ、そのことに大義付けするために「核家族主義」と「経済ジャーナリズム的な雰囲気」を理論的支柱にするというゴマカシの成長を遂げるのが一般でしょう。

 だから、若者も若者で、この若者世代というものに何か期待をかけられるかと言えば全然そんなことはない。



 でも逆に、大人の視点の低劣さも見逃してはなりません。

 だって理論上で上記のXとYの関係が明白に日本社会に胚胎している中で、大人が本当に「家族」を愛し、「子供」を愛しているのであれば、Yの立場を考えて、「国家独立」と「産業構造の維持」にそれなりの考を寄せるはずでしょう。
 
 でも実際は、大人はXの立場を狡猾に取り続けてきたのであるから、世の大人たちが子供を可愛がっているように見えるのは、単に「自分の価値喪失」と「アメリカ的な核家族形式の流行」の中でペットや人形のごとく可愛がっていただけという疑義が濃厚に立ち上ってくる。

(※ちなみに、現代の国家や共同体が融けているのであれば、それと連動して家族も融けていると見るのが妥当であり、核家族を源泉に社会価値を組み立てるアメリカ的な仕方は欺瞞であると思います)



 すると、若者は若者で、特に優秀であればあるほど、こんなふうに考えるでしょう。
 
 すなわち、大人がそのつもりならば、
 
「人類に普遍的に通じる技能によって、地球の中の一人として存立できる人間にならなくてはならない」
 
 と。
 
 これが、東大、京大の学生が、外資企業やITベンチャーに就職してしまう精神的経路ではないでしょうか。
 
 私は、「そんな連中は敵だ」と思うけれど、「大人たちがその体であればやむをえないかもしれない」とも思う。
 
 でも、そうやってグローバル人材を目指す高偏差値の若者たちに対して、
 
「お前、本当にソレでイイのかよ」
 
 というふうにも思う。

 だって、そうやってグローバル人材として消費生活を確立し、核家族を形成して作った子供に対して、今度は自分がかつての大人のように……いや、それ以上に「国家、共同体のために働く環境と席」が毀損された世界を下の世代へ提出することになるのであり、しかも子供に対してはそのことについて狡猾な欺瞞で隠蔽しつつも(そして子供側はそのことを察知していることを実はわかっていながら)、ギトギトして甘ったるいアメリカのホームドラマのような演技をこなし続けるという偽愛だけは施していないと、もう価値が空虚で自分自身を存立させることもままならない……という邪悪な大衆市民的な生を生きなければならなくなるのですから!



(了)

 

 
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