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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

  

AIと技術的失業の、ナショナル旧産業への帰結 


 技術が進歩して、技術が人間の仕事を代替するようになって失業が産まれる……という力学を、ケインズは「技術的失業」と呼んだそうです。
 
 たとえば、今まで10人でせんべいを作っていた工場に、全部オートマチックにせんべいを作る機械が開発されたとする。
 
 すると、せんべいを作る上で必要とされる仕事はボタンを一つ押すだけの1人分の仕事だけになり、残りの9人は仕事がなくなりますでしょう。
 
 これを社会全体の話として考えると、要は、技術の進歩に伴う市場における分配の不整合の話ということになります。
 
 
 
 母子

 
 
 ただ、技術的失業は、「残りの9人が新たな職へ就けるようになれば良い」という話に、全体としてはなります。
 
 また、技術は旧来の仕事を減らすかもしれないが、新たな仕事を生み出す……というイメージも共有されていました。
 
 これは実際にそうなって、たとえば、機械が導入されて工場労働者(第二次産業)の必要数が全体として減ったとしても、事務、営業、デスクワークやサービス業(第三次産業)の必要数が増えれば仕事、席は創出されることになる。
 
 ですから、みんな学校では、「経済が進むと、第一次産業→第二次産業→第三次産業……と重点が変わってくる」と習いましたでしょう。
 
 
 
 しかし、今度はコンピューターができて、スマートフォンができて情報社会になると、第三次産業の仕事もコンピューターに奪われることになる。
 
 すなわち、工場労働者が機械に仕事を奪われたのと同じごとく、デスクワークやサービス業がITに仕事を奪われるという話になった。
 
 たとえば、税理士、会計士などは、コンピュータの高度な会計ソフトがこれを代替してしまって厳しい状況が続いている……というのは、もし自分で個人事業などやられていたらすぐわかることでしょう。
 
 だって、個人事業レベルならば帳簿も確定申告も、少しパソコンで伝票を打てば素人にでも簡単に出すことができるご時世ですから。
 
 あるいは、下級役人や会社組織でも数々の人間がやっていた諸事務は、コンピュータのおかげ(せい?)で、以前よりはるかにわずかな人員でこれをこなすことができているのであろうことも容易に想像できることです。
 
 つまり、社会全体で言うと、コンピュータがサラリーマンから仕事を奪ってゆくというのが21世紀の紛れもないイチ力学としてあった。
 
 
 
 では、このサラリーマンの席が減った分、あらたに創出される仕事というのはなんだ……というと、おおよそ
 
「人には、まだそのITを創る側の仕事があるじゃないか」
 
 という話になった。
 
 まして、インターネットだからグローバルで、クリエイティブな感じがしてカッコいいので、期待感は膨れ上がります。
 
 ……そうやって、膨らんでいったのが2000年代のITバブルだった。
 
 時価総額が何百億とか言って、これを背景にベンチャー企業が膨大な資金調達を行って、結局野球チームやテレビ局を買って失敗する、みたいな騒ぎは記憶に新しいはずです。
 
 この00年代の時点で、そもそもIT産業、IT事業に、全体としてはそこまでの席、仕事なんてない……ということがバレていたワケですが、昨今まるでこのことがなかったかのようにITイノベーティヴに浮かれているのは、まったくなんという記憶力の欠如かと驚かれることです。
 
 
 
 しかも、さらに言えば、昨今はAI(人工知能)というのがもてはやされだしました。
 
 これは肯定的にせよ、否定的にせよ、
 
「人の仕事をこれまで以上に劇的に減らす」
 
 ということで、見解は一致しています。
 
 
 
 これを否定的に見る見方は、「とうとう人間のやる仕事がなくなって、みんなが失業者になる」という暗い見方です。
 
 肯定的に見る見方は、単に「とうとう人間のやる仕事がなくなって、みんな遊んで暮らせるようになる」という楽観的な見方です。
 
 後者は、例えば

「人間の仕事がなくなれば、ベーシックインカム(最低所得保障)などの社会保障で分配すればよい」

 というような中学生じみた発想が知識階級にすら(知識階級だからこそ?)まかり通るようになった背景でもある。

(※嘘みたいな話ですが、「AIで失業が増えるからベーシックインカムで解決」みたいな議論は最近随所で見られます。例えば、
AIで失業 ベーシックインカムは正しい解決策か』)


 ◆

 
 しかし、私は、AIがいくら発達しても、人間のやる仕事は「本質的には」充分に残されていると確信しています。
 
 根拠は、「人間が本質的には国家を基礎に生きている」というところにあります。



 具体的に言うと、一つに旧産業の職はむしろ人手不足にあるということ。
 
 土木建築現場の作業員やトラック運転手、あるいは飲食店員など、機械で代替できない現場の肉体労働というものは、この現実の複雑さを見れば無数に残るはずです。
 
 そして、分配というならば、こうした職種に対して給与所得が大きく割り振れるように「政府規制を強化」していく方が、単純な社会保障よりも労働の活力に資す上に、国力の増進にも資するはずなのです。

 
 
 もう一つは、判断する者としての公務員です。
 
 AI(人工知能)やITでは絶対にできないのは、「公に判断したり、需要する」ということでしょう。
 
 だって、AI(人工知能)には、「国家や人間にとってなにが大切か」という価値判断は論理的に言ってできませんから。
 
 仮にしたとて、AIが「超人間的」な判断で「それが国家にとって大切だ」と言っても、人間視点ではその価値判断が正しいかどうかを確かめる術はない以上、これに従うわけにはいきません。
 
 つまり、人間が……というより、有機的な人間組織が「状況判断」するとともに循環するのが国家である以上、それは「我々が判断した」ということそのものが求められるものであり、仕事なのです。
 
 そして、国家は膨大で複雑ですから、多くの部門や地方に分かれ、各単位ごとに微細な判断をしてゆかなければならない。
 
 各省庁、各部門、各地方で、より細かく、さまざまな領域へ「(市場経済から超然した)国家」としての判断の効くよう、人員を増強して行く必要があります。
 
 むしろ、技術の進歩で社会はより複雑になり、グローバル化から国家を守る必要がある中では、より「市場から超然した行政、公共機関」を二重、三重、微細に張り巡らさなければならないはずです。

 つまり、技術が進めば進むほど、より多くの役人が必要になるのは当然の帰結なのです!


 
 すなわち、機械化、IT化、そしてAI化の押し進めてきた、「技術が人間から仕事を奪う」という流れは、「市場経済で必要とされる労働力の需要」を奪うということだけなのです。
 
 でも、それは国家として必要な仕事量を減らしているとは限りません。
 
 ならば、技術の進むことで「市場経済で必要とされる労働力需要を奪われた」後に復活すべきなのは、
 
「旧産業」と「国家」
 
 であり、そうでなければ我々は格差を公正せしめることもできなければ、価値を創出することもできないはずなのです。
 
 
 そして、問題は! その旧産業と国家に「超市場的」な価値基準を、全体として想定できるかどうかであり、これは根源的には一重に「ナショナリズム」の如何で決まる……としか言えないでしょう。
 
 
 
(了)
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Janre: 政治・経済

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「ニュートラルな知識人」こそ、右翼や左翼よりも邪悪 

 

 現今の日本国家を蝕むもの、それは確かに「ウヨク」であったり「サヨク」であったりする部分もあるかもしれません。
 
 でも、そんなニッチな連中よりも、もっと気の遠くなるほど膨大で、低劣で、反国家的なものは、
 
「ニュートラルな知識人(ソフィスト、詭弁家)」
 
 というものです。
 
 
馬2

 
 
 昨今、右や左の時代は終わった……ということが言われたりもする。
 
 なるほど、確かにそれはそうでしょう。
 
 それは、「右は右の狭い世界」で「左は左の狭い世界」で閉じこもり、お互い都合のイイことばっかり言っているので、保守は「愚鈍」に、リベラルは「屁理屈」に堕して、「普通の人」から見れば甚だ非常識に見える……という、かなり昔から生活民の中では察知されているごく常識的な話でもあります。
 
 特に「冷戦」が終わって、「自由主義」と「社会主義」という対立軸すら失われれば(そんなもの失われて良いのですけれど)、左右の議論とは「単なる趣味」に堕す気配が濃厚になることは、論理的必然とも言えるでしょう。
 
 そして、実際そうなのです。
 
 たとえば、「右!」っというメディア、「左!」っというメディアなんて、ハッキリ言ってせまい市場ですよ。
 
 
 どう見ても一般的に、今の世の中の雰囲気を作っているのは、
 
「右とも左ともつかないニュートラルな知識人」
 
 というものです。
 
 
 そりゃあ一般の「社会人的処世」というものを考えれば当然の話です。
 
 だって、現今の社会人的処世では「右っぽい右の議論」「左っぽい左の議論」など、むしろ「場」を凍らせるだけでしょう。
 
 なのだから、狡猾な知識階級の大多数は、
 
「ニュートラルな知性」
 
 を演じるのが最も都合がイイと思うに決まっているじゃあないですか。
 
 
 ◆
 
 
 さて、問題はここです。
 
 と言うのも、確かに、
 
「右や左の時代は終わった」
 
 というところまでは現状認識の再確認であり、何度も再確認すべきところでありましょう。
 
 
 ただ、右や左ではない、
 
「ニュートラルな知性」
 
 というのが、「右」や「左」以上の「邪悪」であることに、これまで我々「日本国民」は無警戒すぎでした。
 
 
 
 そもそも、「ニュートラルな知性」とは言え、それはほんとうにニュートラル(中立)というのではありません。
 
 そんなものは人間に体現しようがありませんから。
 
 ただ、それが(右でも左でもない)「ニュートラルな知性」と前提されるのは、「合理」を「中立」の基準においているからです。
 
 でも、「合理」というのは、合理そのものから「価値」は出てきませんので、ほぼ無自覚に「合理の前提となる価値基準」が暗黙に了解されているワケ。
 
 そして、その暗黙の価値基準には、
 
「単なる一人一人の人間の命や、快楽・不快の総和」
 
 を「最終価値」に置くことになっている。

 
 
 この最終価値を基礎に「合理」を組み立ててゆくのが、
 
「ニュートラル(中立)」
 
 で、
 
「知性的である」
 
 という話に、何となくなってしまっているのです。


 ◆


 そして、この前提に従い合理をしつらえるのが、知識人であり、専門人なのです。
 

 と言うか、我々一人一人は

「イチ社会人」
 
 たるもの、
 
「単なる一人一人の人間の命や、快楽・不快の総和を前提して『合理』を組み立てた体系の流行」

 に敏感でなければならない……ということになっていますでしょう。

 職場や、電車や、喫煙所での「社会人としての処世」をやりくりするためには!



 ので、必然「ニュートラルな知識人」というもののニーズも、こうした大衆社会的に確保される。

 また、政府組織も「民主主義」であるからして、この

「ニュートラルな知識人と、知識の大衆消費の邪悪な循環」(大衆世論)

 に屈服するハメに陥っているワケです。


(これはもちろん、みんな無自覚のことでしょうけれど、「言われりゃあ気づく」という程度には自覚的なんじゃあないですか。)


 ここまで来ると、

「単なる一人一人の人間の命や、快楽・不快の総和という価値前提」

 そのものを問うことは絶望的に困難になってきます。

 もしこの価値前提に刃向かおうとする者があらば、大多数は「わからないフリ」か「キチガイ扱い」してうやむやにするに決まっているのです。


 ◆
 
 
 でも、私から見れば、こうした空疎な前提を基礎に合理をしつらえる
 
「ニュートラルな知識人」
 
 こそキチガイであり、
 
「19世紀以降、せまくなってしまった地球の中で、それでも日本国家を千年先まで続かせようとする正統な全体事業……に仇する者たち」
 
 にしか見えないのです。
 
 
 
 そして、現今では、こうした「ニュートラルな知識人」は、自覚的にせよ無自覚的にせよ、ぼぼ例外なく「土地的、封建的な既得権益」を嫌う「構造改革論者」であり、「国家を時間制限付きのもの」として前提している。

 なるほど、国家は時間制限付きのものかもしれないが、その運命に刃向かうのは「国民の歴史的義務」であり「政府存立の大義」であるはずです。



 でも、大衆はこれを放棄しておける「前提」を基礎にした合理を好むワケ。

 土地や国家に縛られなくって済む前提が合理によって支えられれば、国民の歴史的義務を放棄しても自分で自分をイイ人であると思っておけるから。

 だから、知識人は、大衆の好む前提の上で、自分の専門的見地から合理をしつらえる。

 そして、そのニュートラルな合理が、前提を補強するワケ。

 つまり、「前提によって合理がしつれらる」のではなく、「合理によって前提が補強されている」のです。


 ◆

 
 すなわち、ニュートラルでナチュラルに売国する者たち……それが、
 
「右でも左でもないニュートラルな知識階層」
 
 であり、私の生涯の「敵」なのです。
 
 
 
 この「敵」と闘うためには、むしろ彼らを圧倒するほどの「知性」が必要になる。
 
 でも、問題は、その「知性の積み方」を誤ると「ミイラ取りがミイラ」で、知らず知らずのうちに自分が「ニュートラルな知識人」になっちまう危険性が容易に察知されるのだから、そこには第一級の注意を要するのですけれど……。
 
 
(了)
 
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Janre: 政治・経済

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経産省若手官僚120万DLレポートに見える古くさい平成大衆根性 


 私は昭和59年生まれだから、物心つけば平成で、その後ほとんど平成を生きてきたわけだけれども、

「平成の大衆人」

 というものがこの世で一番大嫌いです。


 ……と言ってもなかなか抽象的でわかりずらいと思うのですが、この度、かっこうの

「古くさい平成大衆サンプル」

 を見つけました。


 それは、経済産業省の若手官僚が

『不安な個人、立ちすくむ国家 ~モデル無き時代をどう前向きに... 』

 と題して発表しているレポートです。


 何やらこのクソレポートがマスコミ、ネット界隈で話題のようなのですが……


橋1



 私、こういうレポートがあるということを今日拝見したばかりで、一読して今まさに

「ゲロ」

 を吐きそうになったばかりのところです。

 誰がこの低劣な心持ちをわかってくれるでしょうか?(反語)

 こうした「知識人の大衆性」に対するムカつき、苛立ちこそ、私がブログなんて書いている根元の理由でもあります。


 ◆


 ざっくり言ってこのレポートは、第一に

A「社会が液状化して、個人がバラバラになって不安が増幅している」

 ということを言う。

 それはそうだからよいとして、だったらどうすべきか……と言えば、

B「バラバラな個人にもっと選択肢を与えなければならない」

 と言うワケ。



 でも、社会が液状化して個人がバラバラになってしまったのだったら、「社会や共同体を再形成して、国家としてまとまっていかなければならない……」と考えるのが、本来の

「統治者目線」

 というものでしょう。

 それが、

「昭和とは違って社会が液状化して『昭和すごろくのコンプリート率が下がっている』から、バラバラの個人のあーしたい、こーしたいをより実現できる社会にしなければならない」

 ということを言っているに過ぎないのは、あえて「テンプレ若者」を演じているようにしか見えぬほど安っぽく、生臭い。

 到底20代、30代の大人の見解とは思えぬガキっぷり。

 だって実際、液状化した社会で、より個人をバラバラにすれば、さらに社会は液状化し、日本国家が溶けて流れていっちまうだけでしょう。


 ◆


 さて、この論筋を下支えしている前提は、

「少子高齢化で人口減少しているから、社会が液状化している」

 という使い古された筋です。


 で、

「世界では少子高齢化に対応して多用な選択肢がしつらえられている一方、日本は年寄りが人口の増えていた旧来的な昭和システムにしがみつき、若者の選択幅が狭められている」

 みたいな話にしたてられているワケ。



 しかし、まずこの、
「少子高齢化だから、社会が液状化するのは必然 」
 みたいな「前提」は根拠薄弱で、薄弱な根拠をとっとと「前提」とすることでゴマカしているところは卑怯というものです。

 もっともこの卑怯はきっと無自覚で、「なんでもかんでも少子高齢化と人口減少のせいにしてりゃ話がまとまる」的な大衆力学が背景にあるからこそ許される前提だから、まさに「平成の優等生的」とコキ下ろしておく他ないでしょう。



 さらに、それでは、かように社会の液状化に対して「個人、個人、個人、個人」とやって、

「狭くなる地球の中で日本国家を千年続かせること」

 は可能なのでしょうか?

 そういう問題意識は「皆無」なのです。

 むしろ、その先に想定されているのは「国家から自由になる個人」であり、「国家はいつかなくなるもので、それで何が問題だ?個人の選択肢のための国家だろ」というような未来観が前提されている。

 公に仕える僕……すなわち、天皇に仕える政府官僚のあり方としては、甚だ軽薄でカッコ悪い「あり方」と評す他ありません。


 ◆


 もし、「少子高齢化」が「社会を液状化」させていて対応が必要なのだとすれば、それは

「そういう世代構造でも共同して国家をやっていける共同体構造を再建すること」

 であり、

「こうした共同体構造を再建するための、大きく、層の厚い政府構造をしつらえること」

 のはずです。



 だのに、彼らの政府観ときたら、

『個人の人生の選択肢を支える』

 ものとしてのみ前提されているのです。

 ハナクソの方がまだ重みがあるというものでしょ。



 また、彼らは、
『共通目標を政府が示す』
 ことも言うには言うが、それも結局、
個人の『多様な人生』
 を最終価値として、
「個人の多様な人生の幸福を実現するサービス機関」
 として、政府の大義を設定しているのです。



 これは暗に、「国家を続かせる」という政府の最大目的を「放棄」していることでもあります。

 彼ら「政府をやっている人」なのに!


 ◆


 ただ、誤解して欲しくないのですが、私は経済産業省(旧・通産省)という組織そのものは、国家にとって非常に大事な官僚組織のひとつであると考えています。


 むしろ、現今こんな稚拙なレポートをやるような若手が30人もばっこするほど官僚組織が(大衆にイジメられて)疲弊しているなら、それこそ「日本ヤバイ」なので、こんなクソレポートに従うよりも、

「官僚の給与と採用を2倍にして、もう少しまともな人材を集める」

 という私の提言に従った方が、絶対に国家のためになると思いますよ?


(了)

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Category: 経産省「次官・若手プロジェクト」批判

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Janre: 政治・経済

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「橋下徹入閣説」や「9条2項据え置き改憲」に見える大衆的改憲論 


 私は、「日本国憲法」というものは、
 
「日本という天下観を時間制限つきにすることと引き換えに、一時一時のニホン人が(属)国民主権のウマ味を当たり前のものとしてしゃぶりつつも、イイ人であるフリをしておくための章典」
 
 と見ています。

 
 つまり、日本国憲法とはクソッタレ憲法なのです。
 
 
 ただ、しかし、だからと言って、
 
「憲法が改正されればなんでも良い」
 
 というわけにはいかないに決まっています。


20170612142005336.jpg


 とりあえず、前提の確認から。

 日本国憲法をどーにかするには理論上、以下の二つの道筋があります。


X 憲法を「超法規的」に廃止する

Y 憲法96条の「改正条項」に従い法的に改正する


 まず私は、Xの「超法規的」な議論がもっと必要だと思うし、それには「暴力による解決」の可能性も、真剣に考えられられていなければならないと思います。

 そもそも、「日本国憲法」が暴力によってしつらえられたものならば、原理的にはその廃棄もまた暴力によってしか成されようもない……ということは、三島由紀夫のクーデター未遂を持ち出すまでもなく、いわば「人類普遍の原則」であり、個人の良心、ヒューマニズムに問えば、ある種常識的なことであります。



 ただ、暴力は痛いし、人を殺すのは怖いので、今生きている我々はイモを引いてヤれていないというだけのことでしょう。

 また、実際に暴力行動を起こしてもいない者がいくら「憲法を廃棄するための暴力」を訴えても、キャンキャン吠えてるだけという話になってしまう……という難しい問題もある。



 ですから、「政治」が法の論理の延長線上で働き、「政治家」の存在が日本国憲法に依拠するものである以上、やむをえず

Y「96条の改正条項」

 に従った改正の議論も経路のひとつとして考えなければならない……というところまでは認めざるをえないでしょう。

 そりゃあ一瞬一瞬の短期的な現実を継続して執り行うための「政治」や「政治家」の「現実」も、とても重要なものだからです。



 しかし、それでも「96条の改正条項」による改正というものは、理論上「日本国憲法の論理の中での憲法改正」に閉じ籠ったものである以上、それ相応の危険性……すなわち、

「日本国憲法を、より日本国憲法にする危険性」

「(属)国民主権の都合を事後承認してしまう危険性」

 を孕むものであることがわかられていなければなりません。



 そういう意味では「96条改正条項」での憲法改正の議論でもやはり、

「本筋であれば、日本国憲法は暴力によって廃棄されるべきである、けれどもそういうわけにもいかないから……」

 という前提を「常識」として共有した上で議論されて然るべきなのです。


 ◆


 さて、そこまで確認した上で、改正条項を見てみましょう。

 皆さんご存じのように、改正条項で謳っている改正の要件は、

・衆議院と参議院の両方で3分の2以上の賛成が必要

・国民投票で過半数の賛成が必要

 ということになっています。



 ここで、まずよくよく考えていただきたいのは、前提がこのような場合、思考経路としてはまた二つの道筋が生じてくるということ。


 すなわち、


a 「~という改正が必要」
   ↓
 だから、
「衆参3分の2」と「国民投票の過半数」を得なければならない」


b 憲法改正には 「衆参3分の2」と「国民投票の過半数」を得なければならない」
   ↓
 だから、
「~という改正にしなければならない」


 という二つの経路。



 で、もし憲法改正議論が「b」の道筋に堕せば、必ず「大衆迎合」が起こることは火を見るより明らかでしょう?

 だって、

「憲法を改正することそのもの」

 が目的化すれば、

「衆参3分の2と、国民投票の過半数を得ること」

 が、目的化することと同義じゃないですか。


 ◆


 そもそも、言うまでもなく「政府の目的」とは、

「狭くなる地球の中で、日本国家を千年先まで継続させようとすること」

 でなくてはなりません。
(※実際には200年先までも続かないとは思いますけれど、「続かせようとすること」にのみ政府の最終的な大義があるということ)

 ですから、憲法をどーにかしようとするその内容もこの大目的に資するものでなくてはならないはず。

 が、

「衆参3分の2と、国民投票の過半数を得るため」

 が目的化してしまうと、むしろ本来の目的を棄損してしまう可能性が非常に高くなる。

 と言うのも、
1「衆参の3分の2を無理矢理まとめようとする力学」
 や
2「国民投票で過半数を動員する大衆迎合の力学」
 が、国家の大義からの乖離として働く危険性が容易に推察できるからです。

(言い換えれば、96条による憲法改正という「強い民主主義」が「国家を棄損する」ということ。)


 ◆


 もちろん、「bの現実」を踏まえての「aの理想」でなければ、

「じゃあ暴力でやれば?」

 という人類的原則論へ戻ってしまいます。
(結論としてそれならそれでも良いですけれど)



 ですから問題は、
「衆参3分の2と、国民投票の過半数を得るため」
 という「目的化」に、どれほどの行きすぎがあるか……つまり、「理想」と「現実」の間で、どれほどの「偏り」が認められるかということになるでしょう。



 で、私から見ると、昨今のそれは明らかに「現実主義」とも言える傾きを強くした改憲論がばっこしているように見えます。

 しかも、それは単に中国や北朝鮮、テロの驚異から

「俺の生命と財産を守れ!政府!」

 と言うだけの「一人一人の日本人の短期的な都合に『迎合』する」という意味での「現実」であるがゆえに、「日本を千年先まで続けようとする」という「日本国民の義務」に反する改憲論である可能性が非常に高い。



 その証拠として提出できるのは、



 官邸の「日本維新の会」との連携に下心を見せ続けている政治的態度。


 安倍首相の言う、
「9条2項を据え置いた上で自衛隊を明記する」
 という属国体制を事後追認する改憲論の内容。

 ……が上げられます。



 Aは 、1「衆参の3分の2を無理矢理まとめようとする力学」 に対応し、

 Bは、 2「国民投票で過半数を動員する大衆迎合の力学」 に対応する。


 その結果、

 Aで「手続き的」に国家を棄損し、
 Bで「内容的」に国家を棄損する改憲論に成り下がっている

 ……と、評すのがだいたい正しい表現のような気がします。


(了)

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Janre: 政治・経済

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そもそも「骨太の方針」は民主主義的すぎる   

 
 今では毎年のように経済財政諮問会議が「骨太の方針」を出して、省庁(役所)を縛る方針を出していますけれど、これはみなさんご存じのように「小泉純一郎首相」の時代からのことです。
 
 だから、別に伝統的な制度でもなんでもない。
 
 
 で、そもそもこの
 
「経済財政諮問会議」
 と
「骨太の方針」
 
 って制度は、良いものなのでしょうか?
 
 
 私はあまり「民主主義的」なこの制度は
 
「不必要かつ有害」
 
 だと思っています。
 
 
 ガール1


 
 
「経済財政諮問会議」と「骨太の方針」が民主主義的すぎる……というのは、小泉政権のことを考えてみればよりわかりやすいです。
 
 
 そもそも経済財政諮問会議で「骨太の方針」を出し、各省庁へ強い影響を及ぼし始めたのは、小泉政権からのこと。
 
 
 これは
 
「聖域なき構造改革」
 
 というヤツの一環だった。
 
 
 どういう意味合いで言われていたかと言うと、
 
A「官僚組織」
 
 への
 
B「抵抗勢力(自民党)」
 
 の影響を排し、
 
C「(支持率の高い首相が率いる)内閣」
 
 が方針を決め、これに従わせる……という話だった。
 
 
 
 そして、こうした話はいわゆる、
 
「既得権益の打破」
 
 として礼賛されてきたワケ。
 
 
 
 これは、例えば「郵政改革」と構造は同じなので、その方がわかりやすいでしょう。
 
 郵政改革とは、
 
1 「自民党の郵政族」と「郵政」が既得権益でケシカラン
 
2 「国民」は「首相の政策」を支持している
 
3 故に、国民の支持する政策によって、既得権益が打破される
 
 というガキのようなストーリーの上で成り立っていました。
 
(そー言えば、今ならみんな「郵政民営化騒ぎは低劣だった」と、口に出さないまでも心うちでは思っているでしょ?でも、同じようなことをそれ以後ずっと続けているのがニッポン人なので、この点において「ニホン死ね」というのはマジで思います。)


 
 で、「経済財政諮問会議」と「骨太の方針」というのもそうなのです。
 
 すなわち、
 
 
1 「旧来的な自民党の各勢力」が「省庁」と繋がると既得権益でケシカラン
 
2 「国民」は「首相」を支持している
 
3 故に、国民の支持する「官邸」によって「省庁」を縛る「太い骨」をめぐらし、「旧来的な自民党」を排除する。
 
 
 
 こういう話だったのですよ。
 
 
 
 その証拠に、2017年の骨太もどのような内容になっているかと言えば、
 
「世論で広く通りの良いものとされる議論」
 
 を全部突っ込んだという形になっている。
 
 
 
 つまり、
 
1 「民主主義」が「官邸」を支配する。
 
2 「官邸」が「自民党」を排除する。
 
3 「官邸」が「官僚」を縛る。
 
 このような形で、おおよそ
 
「直接民主主義」
 
 が、まかり通ってしまっているというのが昨今の出来事なのです。


(了)

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Category: 経済:思想、政府の役割

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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