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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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「橋下徹入閣説」や「9条2項据え置き改憲」に見える大衆的改憲論 


 私は、「日本国憲法」というものは、
 
「日本という天下観を時間制限つきにすることと引き換えに、一時一時のニホン人が(属)国民主権のウマ味を当たり前のものとしてしゃぶりつつも、イイ人であるフリをしておくための章典」
 
 と見ています。

 
 つまり、日本国憲法とはクソッタレ憲法なのです。
 
 
 ただ、しかし、だからと言って、
 
「憲法が改正されればなんでも良い」
 
 というわけにはいかないに決まっています。


20170612142005336.jpg


 とりあえず、前提の確認から。

 日本国憲法をどーにかするには理論上、以下の二つの道筋があります。


X 憲法を「超法規的」に廃止する

Y 憲法96条の「改正条項」に従い法的に改正する


 まず私は、Xの「超法規的」な議論がもっと必要だと思うし、それには「暴力による解決」の可能性も、真剣に考えられられていなければならないと思います。

 そもそも、「日本国憲法」が暴力によってしつらえられたものならば、原理的にはその廃棄もまた暴力によってしか成されようもない……ということは、三島由紀夫のクーデター未遂を持ち出すまでもなく、いわば「人類普遍の原則」であり、個人の良心、ヒューマニズムに問えば、ある種常識的なことであります。



 ただ、暴力は痛いし、人を殺すのは怖いので、今生きている我々はイモを引いてヤれていないというだけのことでしょう。

 また、実際に暴力行動を起こしてもいない者がいくら「憲法を廃棄するための暴力」を訴えても、キャンキャン吠えてるだけという話になってしまう……という難しい問題もある。



 ですから、「政治」が法の論理の延長線上で働き、「政治家」の存在が日本国憲法に依拠するものである以上、やむをえず

Y「96条の改正条項」

 に従った改正の議論も経路のひとつとして考えなければならない……というところまでは認めざるをえないでしょう。

 そりゃあ一瞬一瞬の短期的な現実を継続して執り行うための「政治」や「政治家」の「現実」も、とても重要なものだからです。



 しかし、それでも「96条の改正条項」による改正というものは、理論上「日本国憲法の論理の中での憲法改正」に閉じ籠ったものである以上、それ相応の危険性……すなわち、

「日本国憲法を、より日本国憲法にする危険性」

「(属)国民主権の都合を事後承認してしまう危険性」

 を孕むものであることがわかられていなければなりません。



 そういう意味では「96条改正条項」での憲法改正の議論でもやはり、

「本筋であれば、日本国憲法は暴力によって廃棄されるべきである、けれどもそういうわけにもいかないから……」

 という前提を「常識」として共有した上で議論されて然るべきなのです。


 ◆


 さて、そこまで確認した上で、改正条項を見てみましょう。

 皆さんご存じのように、改正条項で謳っている改正の要件は、

・衆議院と参議院の両方で3分の2以上の賛成が必要

・国民投票で過半数の賛成が必要

 ということになっています。



 ここで、まずよくよく考えていただきたいのは、前提がこのような場合、思考経路としてはまた二つの道筋が生じてくるということ。


 すなわち、


a 「~という改正が必要」
   ↓
 だから、
「衆参3分の2」と「国民投票の過半数」を得なければならない」


b 憲法改正には 「衆参3分の2」と「国民投票の過半数」を得なければならない」
   ↓
 だから、
「~という改正にしなければならない」


 という二つの経路。



 で、もし憲法改正議論が「b」の道筋に堕せば、必ず「大衆迎合」が起こることは火を見るより明らかでしょう?

 だって、

「憲法を改正することそのもの」

 が目的化すれば、

「衆参3分の2と、国民投票の過半数を得ること」

 が、目的化することと同義じゃないですか。


 ◆


 そもそも、言うまでもなく「政府の目的」とは、

「狭くなる地球の中で、日本国家を千年先まで継続させようとすること」

 でなくてはなりません。
(※実際には200年先までも続かないとは思いますけれど、「続かせようとすること」にのみ政府の最終的な大義があるということ)

 ですから、憲法をどーにかしようとするその内容もこの大目的に資するものでなくてはならないはず。

 が、

「衆参3分の2と、国民投票の過半数を得るため」

 が目的化してしまうと、むしろ本来の目的を棄損してしまう可能性が非常に高くなる。

 と言うのも、
1「衆参の3分の2を無理矢理まとめようとする力学」
 や
2「国民投票で過半数を動員する大衆迎合の力学」
 が、国家の大義からの乖離として働く危険性が容易に推察できるからです。

(言い換えれば、96条による憲法改正という「強い民主主義」が「国家を棄損する」ということ。)


 ◆


 もちろん、「bの現実」を踏まえての「aの理想」でなければ、

「じゃあ暴力でやれば?」

 という人類的原則論へ戻ってしまいます。
(結論としてそれならそれでも良いですけれど)



 ですから問題は、
「衆参3分の2と、国民投票の過半数を得るため」
 という「目的化」に、どれほどの行きすぎがあるか……つまり、「理想」と「現実」の間で、どれほどの「偏り」が認められるかということになるでしょう。



 で、私から見ると、昨今のそれは明らかに「現実主義」とも言える傾きを強くした改憲論がばっこしているように見えます。

 しかも、それは単に中国や北朝鮮、テロの驚異から

「俺の生命と財産を守れ!政府!」

 と言うだけの「一人一人の日本人の短期的な都合に『迎合』する」という意味での「現実」であるがゆえに、「日本を千年先まで続けようとする」という「日本国民の義務」に反する改憲論である可能性が非常に高い。



 その証拠として提出できるのは、



 官邸の「日本維新の会」との連携に下心を見せ続けている政治的態度。


 安倍首相の言う、
「9条2項を据え置いた上で自衛隊を明記する」
 という属国体制を事後追認する改憲論の内容。

 ……が上げられます。



 Aは 、1「衆参の3分の2を無理矢理まとめようとする力学」 に対応し、

 Bは、 2「国民投票で過半数を動員する大衆迎合の力学」 に対応する。


 その結果、

 Aで「手続き的」に国家を棄損し、
 Bで「内容的」に国家を棄損する改憲論に成り下がっている

 ……と、評すのがだいたい正しい表現のような気がします。


(了)

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Category: 憲法:日本国憲法問題

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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憲法問題と属国民のホンネ 

 
 そもそも私は、日本国憲法というシロモノが大っ嫌いなのですが、まずここでその「私なりの憲法の嫌い方」というのを簡単に開陳しておくのも、無駄なことではないでしょう。
 
 と言うのも、世の中の多くでされている九条二項の「非武装、不交戦」と、前文二段落目の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、我らの安全と生存を保持しようと決意した」という二つのポイントは、別に日本国憲法における腐食の震源地ではないと考えるからです。
 
 そして、私から見ると、九条二項や前文二段落目の「平和を愛する諸国民……」の方ばかり論じられて、その腐食の震源地があまり論じられていないというのは、少なからず不満なのです。
 

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 確かに、九条二項の非武装、不交戦は激烈なものがありましょう。
 
 でも実際、今の日本も戦車や鉄砲で武装しているし、平和を愛する諸国民などと本気で信じている者はリベラルですらごく少数だと思います。
 
 リベラル……というより、多くの現代日本人は、「徴兵される確率を一パーセントでも下げておきたい」というような下等な心持ちから、「日本国憲法によって政府を制限しておきたい」と考えていやがるだけでしょ?
 
 だから、自衛隊が国民(自分)の安全と生存を護衛してくれる領分については、リベラルも現代日本人も強いて反対はしないのです。
 
 そんな中、安倍首相を含めて現在の保守の滑稽さは、架空のサヨクを敵に見立て「この憲法では国民の安全と生存を守れない!」とやるところだと思います。
 
 
 
 すなわち、現代の日本人ですら、九条二項と前文二段落目だけはお題目として、実質的にある程度無視する……というような(狡猾な)常識は持ち合わせているのです。
 
 これは現代でも、保守も、リベラルも、フツーの人も、おおよそ一致して、暗黙に了解していることです。
 
 そりゃあそうですよ。
 
 だって、「九条があるけど、外国が攻めてきたらどうするの?」くらいのこと、小学生だって思います。
 
 でも別にそれは「立派な常識」などではなくって、単なる反射的な「生き残り勘定」でしょう。
 
 問題と言えば、まずここが問題なのです。
 
 つまり、現代の日本人も、「外国から攻められた時には、国民(自分)の安全と生存を守れ!政府!」と請求することだけは余念がないということに過ぎないということ。
 
  そしてそれは、自衛隊の最大目的を「日本国民一人一人の安全と生存を守る」ことへ置くことを前提とするような態度を容認してしまうことにもなりかねません。
 
 そもそも、生命以上の価値を設定せず、こうして自衛隊を「公営用心棒」のように前提する仕方は、「日本人の生命によって日本人の生命を守る」ということに最終的な正当性を見出だしえませんから、してはならないやり方だと思うのですが……。
 
 
 
 ただ、このような不道徳な常識の上ではありますが、日本国民は現在であっても「九条二項と平和を愛する諸国民の前提はある程度無視する」という暗黙の了解の上で日本国憲法を使っている。
 
 すると、もし、日本国憲法の根幹が、九条と平和を愛する諸国民にあるのだとすれば、別に憲法がこのままでも問題はないということになりますでしょう。だってそこはある程度無視して使っているんですから。
 
 不都合があれば、内閣法制局の解釈でもっと無視してゆけばいいだけということになる。
 
 
 
 ただ、それでも日本国憲法がクソッタレ憲法なのは、平和を愛する諸国民のタテマエの、さらにもう一つ奥に別の重大な「腐りの震源地」があり、それが我々の『属国民のホンネ』とも言うべきものにとって極めて都合のイイものだからです!
 
 
 
 なるほど、みなさん前文でも二段落目の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、我らの安全と生存を保持しようと決意した……」という部分についてはいろいろおっしゃる。
 
 しかし、ならばそもそも、このあまりにも有名な「平和を愛する諸国民……」という部分は、一体どういう文脈の上で書かれなければならなかったのでしょうか?
 
 当然、ある文章の二段落目を理解するためには、一段落目を読めば良いのです。
 
 そして、前文一段落目の核心部分はここにあります。
 
《政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。》 (日本国憲法・前文 第一段落目)
 
 ここです!ここです!日本国憲法はこのテーゼから始められているのだし、憲法全体のキモ中のキモ、核心中の核心、腐食の震源地もここなのです!
 
 そして、これは「属国民の刻印」とも言うべき「魔の裏取引」の言葉なのです!
 
 
 
 そもそも、(普遍的な体を取り繕おうとはしていますが、)これはどう解釈したって、先の大東亜戦争を指さして言っているとする他ないでしょう。
 
 つまり、『二度と戦争の惨禍が起こらぬよう』と言っているそれは、どう考えたって「大東亜戦争」を引き合いにして言っているのであり、また、その『政府』とは、「大東亜戦争を主導した政府のこと」とする他ない。
 
 すると、もう少し丁寧に表現し直してやればこういうことになりますでしょう。
 
「悲惨なる大東亜戦争を引き起こすような日本の悪い政府は『何者か』にやっつけられて、(平和を愛するはずの)非政府の日本国民はその悪い政府から解放され、解放された人々全員に主権があると確認された」
 
 と。
 
 
 
 ここでとりあえず、有名な憲法前文二段落目「平和を愛する諸国民」のタテマエが、何故必要とされたのかを考えてみましょう。一段落目→二段落目と読み進むのですから、これが正当な順序でしょう。
 
 そもそも、一段落目の「政府の行為によって戦争の惨禍が起こらないようにするよう、国民に主権が存することを確認し……」という裏取引を成立させるためには、「国民に主権があれば悪い戦争は起こらない」という前提が絶対に必要になりますね。
 
 すると、他の国家も「国民に主権がある限り悪い戦争は起こらない」ということにしなければ済まないじゃあないですか。
 
 そうでなければ、日本国民だけがとりわけ平和を愛しまくる国民という話になってしまう。
 
 ならば必然的に「あらゆる国家で、国民に主権がある限り悪い戦争は起こさない」=「あらゆる国家の諸国民は平和を愛する」ということになる。
 
 そして、それでも戦争が起きたのはそうした諸国民の「公正」と「信義」を「信頼」しない日本の「政府」があったからだ……という意味になるのです。
 
 また、これは暗に、「アメリカは民主主義の国であり、国民主権であるから普通にしていれば戦争を起こすはずはなく、日本の「政府」が侵略のために平和を愛する日本国民を戦争に駆り立てたから、アメリカとも戦争になったのである」という理論を支えていることにもなります。
 
 
 
 つまり、この有名な前文二段落目の
 
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した」
 
 という文は、一段落目の
 
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
 
 の流れの上で、これを強く補足するものとしてあるはずだということ。
 
 
 
 要するに日本国憲法というのは、第一にGHQが「アメリカは、『平和を愛する日本国民』を、『戦争を起こす悪い日本政府』から解放した『解放軍』なのだ」と言いたい都合のためにしつらえられたもののはずなのです。
 
 でも、そのこと自体は別にどーでもイイこと。
 
 憲法前文は完全無欠にGHQが書いたものを直訳しただけなんですから、これがアメリカにとって「認めさせたいストーリー」から書き始められているというのは、ごく自然かつ当たり前のことでしょう。
 
 
 
 問題は、第二に、これが日本で生き残った「非政府の日本人」と「その子孫たちすべて」にとっても、一種都合の良いストーリーである可能性があるということです。
 
 その可能性とは、『戦争を起こす悪い日本政府』から解放された側の『非政府の国民』として解放民としての(属)国民主権を謳うことに、ウマ味を感じていやがるという可能性です!
 
 つまり、「解放軍の都合」と「解放民の都合」が合致して、あらゆる瞬間瞬間の戦後日本国籍民とGHQとの間で断続的に「裏取引」が成立してしまっている可能性。
 
 
 これは恐ろしいことです!
 
 
 そもそも、このストーリーを完全に呑んでしまった時点で、我々は『敗戦国民』から『属国民』へと成り下がるわけでしょう?
 
 でも、このストーリーは、我々にとって蜜のごとく甘く、真綿のごとく重たく、傾国の美女のごとく媚びついて、これを保持するためならばあらゆる道徳をズルズル手放してしまえるほど魅力的です。
 
 クセになり、いつの間にか「決して手放したくない」と思う麻薬のようなストーリー。
 
 そして、七十年もたつと、慣性の法則によって、これが当たり前の基準と前提されてしまうようにもなる。
 
 また、このストーリーに反しないという基準の上で道徳がしつらえられるから、かつての道徳が不道徳に、かつての不道徳が道徳に……と、道徳の価値反転現象が起こってくる。
 
 道徳は暴力と切り離され、薄っぺらになり、人間は安っぽくなる。
 
 何故こんなことになるかと言えば、このストーリーが「属国民として安全と生存を保持するため」には極めて都合が良いからです。
 
 あえて、「悪い政府」をやっつけた『何者か』を強調しさえしなければ、『何者か』の暴力的背景の加護の下(あるいは『何者か』をも包摂すると空想された地球、集団安全保障的な国際社会なるものの加護の下)、我々は解放民としての(属)国民主権を謳い続けることができるのですから。
 
 さらに言うと、属国民主権としての最大のウマ味とは、「自分たちで組織した政府によって、暴力に関係する道徳を判断しなくても済む」という怠惰のウマ味です。
 
 そもそも、「暴力に関係する道徳を自分たちで判断するために、国内の最大暴力機関を背景として政府を形作らなければならない」というのが独立国であることの一番の大変さであるわけです。
 
 だが、属国民でありさえすればこれを最終的に政府によって判断しなくても『何者か』が基準を決めてくれるから楽チンというわけです。
 
 でも、これでは人間として死んでいますでしょう。
 
 
 
 私は、この恐ろしさを、昭和時代までの日本人はどこかで察知していたように思われるのです。つまり、「自分のホンネがもしそのような邪悪なモノから来ているのであったらどうしよう……」という恐れです。
 
 これが、昭和期の日本人の、良心と換算して然るべき『常識』というものだったのではないでしょうか?
 
 そして、月視点でこのことを望めば、この常識が霧散した時点で日本は敗戦国から属国に成り下がったのであり、属国に成り下がるということは長期的に見て日本をあきらめるということなのです。
 
 
 
 ・
 
 
 
 上記のごとく、天地に誓って日本国憲法はクソったれ憲法です!
 
 何故なら属国民のホンネにとってこんなに都合のイイものはないからです。
 
 
 
 だから、「このままなんとなく日本国憲法を容認する」という態度だけには抵抗しなければならない。
 
 でも難しいのは、昨今保守派に跋扈するような「日本国憲法を変えれば何かが良くなる」という雰囲気に流されるわけにもいかないということ。
 
 と言うのも、大事なのは「属国民のホンネに逆らうこと」であり、その「改憲」がより属国民のホンネを延長させるためのものであったなら、それは「日本国憲法をより日本国憲法にしている」だけだからです。
 
 たとえば、「9条2項を維持して自衛隊を明記」などという安倍首相の改憲案などはまさにそれです。
 
 これは、「属国民のホンネの都合を補強している」ことであり、すなわち「戦後レジームを補強している」ことに他なりません。
 
 
 
 繰り返しますが、大事なのは「属国民のホンネに逆らう」ということなのです。
 
 改憲の基準はそこにあるべきであり、属国民のホンネに逆らう改憲が「良い改憲」であり、属国民のホンネを補強する改憲が「悪い改憲」なのです!
 
 
 
 ただ、法律上ではこれは無理なのだということはわかっています。
 
 何故なら、日本国憲法には改正条項というのがありますが、ここでは最後に時の国民に対して国民投票にかけることとなっている。
 
 すなわち、国民投票で過半数を得るような改憲しか、法律上はなされないのです。
 
 
 
 しかし、その「時の国民」に対して「属国民のホンネ」という話をしても、みんなニヤニヤと話を逸らしたりしてゴマカすでしょう。
 
 ゴマカしておかないとみんな心が壊れてしまうから。
 
 すると、「属国民のホンネに逆らう改憲」というのは、法律上では論理上、絶対不可能ということになってしまう。
 
 我々は国家が霧散し切るまで属国民をやり続けるほかないということになってしまう。
 
 
 絶望というのは、こういうことを言うのです。
 
 
 ただ、それでも日本をあきらめない以上、我々は我々自身の『属国民のホンネ』と闘い続けなければならないのですけれども。


(了)

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憲法記念日と安倍首相の改憲ビデオレターについて 

 憲法記念日に首相が改憲の意思を明確にするビデオレターを発表されたそうです。

http://m.huffpost.com/jp/entry/16405764

 その内容は、9条に自衛隊を明記するという案でした。(2項は据え置きで)

 これはどう考えても毒にも薬にもならない改憲案です。
(ちなみに、以前言われていた改正条項の改正は「毒」ですからね!)

 意地悪な言い方をすれば、安倍首相はとにかく毒にも薬にもならなくても「憲法改正」という保守っぽい功績が欲しいということでしょう。

 いや、私は別にそれ自体には反対しないのですよ。

 でも、毒にも薬にもならない憲法改正のために犠牲にしてよい見積もり分というものがある……ということは言えますでしょう。

 安倍政権は、かつて
1「改憲のため」
 に
2「維新の会の協力を得るため」
 に
3「大阪都構想に際して大阪の自民党を裏切った」
 という前科があります。

 この場合、もし「前文を破棄する」とか、日本の100年を決定付けるような改憲であるならばまだしも、「毒にも薬にもならない改憲で保守っぽい功績を得るため」の犠牲としてはデカすぎます。
(ちなみに、9条2項破棄や前文破棄では、維新の協力って得られないですからね!)
 大阪都構想は住民投票で否決されたからまだよかったけれど、大阪市という重要な都市の存立と引き換えに「毒にも薬にもならない改憲で保守っぽい功績を得る」のは、マイナスがデカすぎでしょう。
 さらには、自民党の結束を損なっているわけですから。

 毒にも薬にもならない改憲に「一石を投じる」的な意味があったとしても、その引き換え材料の判断基準が狂っているのが問題なのです。

 逆に言えば、こういう安倍政権の「保守っぽい格好つけ」に最大の尽力をつくしまくる性質が問題なので、私は別に改憲の意思の表明そのものは問題だとも思いません。

 ただ、改正目標は「2020年に」ということですが、2018年にはまた自民党総裁選があります。
 自民党の建て直しを思えば、来年はもう引き下がるのが正しいと思うのですが。


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「国が守れない」のは憲法9条のせいではない 



 今日は、憲法9条の話です。

 まず、とても基本的なところから確認しましょう。
 我々が愚かにも「憲法問題とは軍事問題である」とだけ前提して、「改憲」or「護憲」の論をやんやと騒いでいるとき、問題は①項ではなく、その②項におかれているはずですね。

 なぜなら、よく言われていることですが、この①項は、パリ不戦条約という1928年の条約の一部をほとんどそのまま引用しているだけだからです。
 以下をご覧ください。



パリ不戦条約(一部)

批准・アメリカ、日本、イギリス、フランス、ドイツなど15カ国。


第一條

締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス

(締約国は国際紛争解決のため戦争に訴うることを非とし、かつ、その相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言す)




日本国憲法二章9条①項

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。





 要は、双方ともに、「紛争解決手段」として「戦争」を用いることはしない、と謳っているのですね。
 パリ不戦条約は、1928年に締結されているわけですから、当時の列強の、第二次世界大戦にて「正当」だったと結論されている連合国常任理事国側……たとえば戦前のアメリカの振る舞いまでもが、「国際紛争解決のため戦争に訴えたわけではない」ことになります(ならば「日本の戦争も自衛だった」と叫んでやりたいところですが話が逸れるので割愛します)。そもそも、パリ不戦条約に対するアメリカの解釈は、「自衛戦争であればオッケー」というものでありました。つまり、パリ不戦条約は「アメリカがやってきた『自衛戦争』とやらのラインまでならオッケー」ということになるわけです。つまり9条①項もそれだけならば、少なくとも「アメリカがやってきた『自衛戦争』とやらのラインまでならオッケー」と言わなければおかしいでしょう。

 つまり、①項については、あってもなくても、我々の歴史的な『信義』に自信を持っていさえすればいかなる戦争行為も可能ということになる。つまり、「自衛」というものの範囲の見積もりを、我々日本民族の信義に基づいて行い、戦ったり、協和したり、といった主体的な判断を堂々として良いということです。また、ある状況において、「その戦争が我々の信義に基づく戦争かどうか」の判断をするのは、中央政府を通して行われる他ないのであるから、そうした権限も中央政府が堂々と持つべきだということになる。

 こうしたくだらない法律上の話ですら、憲法9条①項はほとんど意味をなしていない。つまり、憲法9条①項は、あってもなくても、法律上にも我々の軍事的権限を制限するものではありえないのです。





 しかし、つづいて憲法9条②項というものがあります。
 これによって、この憲法が「軍隊の保有と交戦権を禁止している」と考えられているわけです。



日本国憲法二章9条②項

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない




 これは単に条文の過激さに驚くだけでなく、少し掘り下げてみると本質的なことが浮き出てきます。

 有名な話ですが、9条②項には「芦田条項」という部分がありますね。
 芦田条項というのは「前項の目的を達するため」という部分で、草案の時にはなかったこの部分を芦田均という男がさっと挟み込んだ。それゆえ、後に「①項に反しないような戦力の保持と交戦権はない」のだと解釈できるようになったというのですが、これは明らかにおかしいですね。
 なぜなら、それならば少なくとも「前項の目的を達するため(の)」という格助詞「の」の連体修飾格が入っていなければおかしいからです。

 こうした芦田条項のようなゴマカシを排し、そもそもこの憲法全体に流れる俗悪な「民主主義イデオロギー」の文脈をもって解釈すればこういうことでしょう。

 すなわち、9条②項では、①項の目的を達成する“ため”に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と言っている。
 ということは、

「中央政府に戦力を与え、交戦権を与えると、①項に反するような『不当な戦争』を起こし、市民社会を巻き込むに違いないので、これを初めから認めない」

 という意味でしょう。

 ここで「認めない」と言っているのは誰かというと、日本国憲法の論筋で言えば「国民が」ということになる。ただ、日本国憲法10条には「国民たる要件は法律でこれを定める」とあるので、(少し端折って言えば)ここで前提されている「国民」とはすなわち「法律で定められた人間」=「単なる非政府の人民」を指していると解釈せざるをえない。
 これは憲法前文の一段落目、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言……」という部分と合致しますね。要は、政府を「権力の乱用によって戦争を起こす者」とし、非政府の人間を「戦争に巻き込まれる者」と前提しているわけです。

 勿論、この憲法の成立過程を見れば、当初は「認めない」と言っていたのは実はアメリカだったということですが、少なくとも日本国憲法は「国民」によって立てられたという体であります。さらに、この憲法を押し付けられたのは70年近く前で、それ以後、日本人はこの憲法を「民主主義の教書」として抱いてきたわけでしょう。これは9条に限らず、「人権、民主主義」といったおぞましいイデオロギーを、戦後市民社会の光の先を示すものとして崇め奉ってきた。何故なら、そのほうがその瞬間瞬間の日本列島に住む個々のホモサピエンスにとって都合が良いということを皆多かれ少なかれ察知していたからです。

(※また、大東亜戦争を悪しきものとして結論づけるのも、多分においてこの「非政府の人間」の文脈に都合が良いからされているのです。つまり、今の日本人にとって、昔の政府のあり方を否定しておく方が都合が良いから「侵略戦争とやらの反省」を一生懸命やっているわけであります。これは、軍事、政治制度、統制的経済などあらゆる領域について現代日本人の底流を流れているものでもある。ですから、自虐史観というのは「中国のせい」でも「アメリカのせい」でも「自虐」でも何でもないのですね)

 ですから、この憲法で描写されているのは「日本列島に住む非政府の人間」が「日本の中央政府」に対して、武力の保持と交戦権という権限を認めない、という論筋なのでありました。というか、日本人の大勢が、70年かけてそういう都合のよい解釈を構築、補強してきたのです。




 しかし、これに対して、誰でも疑問に思うことがあるでしょう。
 それは、中央政府に「軍備や交戦」の権限を与えないと、非政府の人間の命も危機に晒される可能性が高まる、という非常に単純なことです。
 勿論、こうした疑問は、単に「自分の生命」「自分の周りのごく狭い領域の人の安全」を考えているだけなので、ごく「卑俗」な動機からくる疑問ではあります。
 しかし、卑俗である分、世の中の多くの人に理解される事柄ですから、世論の中で明瞭に語られているところでもある。

 そういうわけで、


日本国憲法三章13条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする



 という条文と、9条②項が整合していないのではないかという考えが当然でてくるわけです。

 すなわち、憲法13条は「個人としての尊厳」「幸福追求の権利」「公共の福祉」というものを規定していると一般的に言われていますから、もし9条②項が「それらを保障するための武力も交戦権も放棄する」と述べているのだとすれば、憲法の中で互いが不整合を起こすことになる。よって、9条②項は「国民の個人としての尊厳と、幸福追求の権利と、公共の福祉を保障するための『武力と交戦権』までを制限するものではない」としなければならない……というのが、現行日本で“自衛権”が認められているといわれている有力なゆえんなのであります。

 ただ、「ならばそれで自衛隊は認められ、自衛権も認められるのだからそれで良い」とされては困ります。まだまだ掘り下げなければならない事がたくさんある。

 というのも、世の中ではみんな軽く「自衛」「自衛」と口にしますが、ひとたび「自衛」ということを掘り下げて考えると、これほど厄介な概念もないのです。
 例えば、人は個人個人の間でも「正当防衛」ということを言います。しかし、少し想像してみれば分かるとおり、「正当な防衛」と「過剰防衛」の区別というのはなかなか難しい。
 あるいは、軍事でも、「予防的先制攻撃」というものがあります。つまり、相手がこちらを攻めてきそうなので、先に相手の基地を叩いておくといったような予防としての先制です。これは自衛行為だとみなさなければならないという議論がある。でも、「いや、これは予防的先制なのです」といって侵略をやる可能性もありますね。だからといって予防的先制がありえないというのもおかしい。

 つまり、「自衛」というのは具体的に考えようとするとかなり難しい言葉なのです。
 むしろ人間にはこれを完全に把握することはできないので、「自衛」という言葉は抽象的な指針、象徴として考えられていなければならないのです。

 さらに、「自衛」というからには、もう一つ重要なポイントがあるはずです。
 それは「自」とは何か、ということ。

 例えば、自衛権を「集団的自衛権」と「個別的自衛権」に分ける仕方がされていますが、これは本来おかしいことです。
 というのも、この場合の単位は「国家」ですから、「多国の集団」になった時点で、それは「自」ではありませんね。
 自衛というのは、日本の場合はあくまで徹頭徹尾「日本」を守ることです。もちろん、長期的に日本を守るために、地球上広く軍事展開する必要があるというケースは考えられるし、それを判断できる権限を中央政府が持つことは必要でしょう。しかし、そのことと集団的自衛という考え方は、全然別問題です。
 集団的自衛という考え方で前提とされているような、「多国の国際的集団を守ること」はまったく自衛の範疇ではありません。もちろん、「その時々で、ここの国と協調し、あそこの国と敵対し」という国際関係を組むということはありえるのでしょうが、それはどれも一時的なものであると前提されていなければなりません。何故なら、「国際的なパワーバランスの上で、自分たちがどう振る舞うか」ということを中央政府によって選び取る主体性がなければ「自衛」という概念そのものが意味のないものになってしまうからです。

 つまり、保守派の前提する、いわゆる「集団安全保障」と呼ばれるものは、ある種のキレイ事なのです。「自由と民主主義という価値観を共有する国々による集団安全保障」などお花畑的なキレイ事の一種としか言えないではありませんか。「東側諸国の集団安全保障ではなく、西側自由主義諸国の集団安全保障」といった古カビの生えたような冷戦的世界観では百年単位で国家を連綿させることはできません。そんな「集団」に属していたら、ゆっくりと何世代かかけて日本は溶けて流れてなくなって行くに決まっているじゃないですか。
 まあ、政治家がキレイ事を言うのは仕方ありませんが、その辺のインテリが「集団的自衛権で中国の脅威から国民を守らなければならない」みたいなことを平気で言うのはどうにかしてもらいたいものです。

 対して、左翼的なインテリは、「政府の言う集団的自衛の『集団』とはアメリカとのことを指しているに違いないのでケシカラン」という。勿論、私もその点は全くの同意です。対米従属はケシカランです。が、彼らは集団的自衛の『集団』=『アメリカ』に従属を強めるのではなく、「中国との融和外交をすべきだ」と言う。すると、サヨクも結局、従属しようとする対象が違うというだけですね。

 要は、保守派もサヨクも、「他国家集団の自衛」を前提としている点で、実は同じ穴のムジナなのです。また、歴史認識問題についても、サヨクは中国に気を使うわけですが、ホシュはアメリカに気を使う。そういった歴史における「自」というものがない点でも、左右は同工異曲なのであります。

 つまり、自衛の重大なポイントは「自とは何か」である。そして、我々の「自の範囲」とは徹頭徹尾「日本」以外にはありえないということがまずをもって分かられていなければなりません。





 このことをさらに詳らかにするために、もう一度、憲法13条に戻りましょう。
 というのも、現状、“自衛権”を担保しているのが国民の『個人としての尊厳』『幸福追求の権利』『公共の福祉』ならば、「個人とは何か?」「尊厳とは何か?」「幸福とは何か?」「権利とは何か?」「公共の福祉とは何か?」そして「国民とは何か?」という解釈次第で、「自衛」というものの範囲も変ってくるでしょう?

 このことは非常に重要なことですから、よく考えていただきたいのです。

 もちろん、日本国憲法そのものが特に前文から二章および三章に渡って、社会契約のイデオロギーに満ちているので、その文脈上から言うと、

「単に今の一瞬間にたまたま生きている日本列島にいる人間という動物の生命と財産を守る」

 というのが“自衛権”の範囲ということになってしまう。
 すると、自衛隊とは、「その時々の市民社会の個々人」を、「外敵」や「ならず者」から守るという、単なる「公営用心棒」のようなものであると前提されてしまうわけです。

 なるほど、確かにこの前提の上では、「アメリカ従属的集団安全保障」も「中国融和外交的集団安全保障」も、どちらも理論上に合致することになる。
 何故なら、そうした「長期的な国家の芯を切り売りすること」によって「短期的に、その時々にたまたま生きている日本人の生命を守る」ことができるのであれば、この場合の目的は達成されているでしょう。
 世論調査では、「自衛隊の存在を認める」という意見が多数を占めるらしいですが、この場合の「自衛隊の存在」はこの文脈の限りにおいて認められているに過ぎないのだと私は推察します。




 さて、これに対して例えば、憲法13条の内容を次のように解釈したとすればどうでしょう。

 すなわち、「個人」に「『私』が運命的に引き受けたナショナルな領域」を含め、「尊厳」に「歴史的感覚」を含め、「幸福」に「共同体」を含め、「権利」に「世襲の理」を含め、「公共の福祉」に「文化圏の慣習」を含める、と解釈した場合です。

 この場合の自衛では、単に「日本人の命を守る」という目的だけではなく、「諸個人の中に無意識的に横たわっている日本」や「共同体の連綿の中で体現される幸福」をも『自衛』されなくてはならなくなりますね。
 すると、「日本人の命」そのものは、「自」でも「目的」でもなく、「手段」ということになります。

 そもそも、職業軍人にせよ、徴兵にせよ、「そこにいる人間という動物の命」を最終目的にするのはおかしなことですね。なぜなら、「国内の誰かの命」を使って「国内の誰かの命」を守るということをしているのだから、そこでは命の序列や順序というものが前提されていると考えなければおかしいでしょう。「命の序列や順序」があるのなら、その序列や順序の「基準」が前提としてあるはずなので、つまり「命を超える価値」というものも前提されていなければ論理的におかしいじゃないですか。

 要するに、日本列島に住む人間の命は、「諸個人の中に無意識的に横たわっている日本」や「共同体の連綿の中で体現される幸福」のための手段であるということ。
 であるからして、後者を「自衛」するために、日本人の命を「使う」ということがありえてくるのです。




 ここで注目して欲しいのは、そのような「日本人の命を使って、日本を守る自衛」という意味での「軍隊」の存在も、憲法13条をこのように解釈しさえすれば成り立つということです。
 とどのつまり、個人とは何か、尊厳とは何か、幸福とは何か、権利とは何か、公共の福祉とは何か、そして国民とは何か……といった問いに対して、「日本」というものに焦点が合っていさえすれば、「日本人の命を使って、日本を守る自衛」というものは大義づけられるわけです。




 そして最後にこの事を考えてもらいましょう。
 というのも、上のような論を展開すると、必ず次のように誤解する者が多いからです。
 すなわち、

「憲法13条を上のように解釈するためには、その国民のそれぞれがそのように思っていなければ、そもそも論理的に成り立たない。また、そのように思っているのであれば、国民はそのように行動するはずだから大丈夫なはずだ。また、思っていないのだとすれば、日本人の命を使って日本を守る自衛というのは誰の幸福にもしさないということになる。ようするに、自衛の範囲は国民が決めれば良いのだ」

 と。

 しかし、「自衛の範囲は、国民が決めればよい」という考えは根本的に間違っています。

 何故なら、国民の諸個人の選択は、必ずしも国民諸個人それぞれの心の内を正確に描写したものにはなりえないからです。
 中でも、どの様な範囲を「自分たち」と前提し、どのような時間的範囲を「自分たち」と前提して、自分の心や生活が成り立っているかを把握するのは、たとえ自分自身のことだったとしても非常に難しい。
 つまり、仮に日本国民のすべてに「ナショナリズム」があろうとも、そのことによって「ナショナリズムを活かすような選択や行動ができるかどうか」はまた別問題なのです。

 ですから、我々には「統治者」というものが必要なのであります。
 とりわけ軍事、自衛といった話においては、「統治者が国民のナショナリズムを汲み取る」という風にして取り行われなければなりません。
 また、この文脈の上で、徴兵制が認められることは非常に重要なことだと私は考えるのです。

 私は、「政治家批判」というものが大嫌いなのですが、政治家にも責任があると思うのは、「国民が軍隊を持ってよいと選択したら持ってもよい。国民がそういう選択をしないのであれば持ってはならない」というようなことを平気で言う輩が非常に多いところです。

 しかし、軍隊、自衛のあり方は、「国民の選択」などによって決められてはいけないのです。自衛の範囲とは、国民の歴史的なナショナリズムを汲み取って、中央政府が判断、決定すべきことなのです。国民は、国民としての生活のあり方を通して政府にその基準を示唆していさえすればよいのであって、「自衛すべき『自分の領域』とはこれこれこうだ」と各個が選択しなければならない責任などない。また、そんな権限を振り分けられているべきでもない。




 結論を言うと、今まで日本が「国を守れていなかった」のはこうした国家観の欠乏や民主主義礼賛が原因であり、憲法9条②項のせいではないということであります。

 もし仮に、「国民とは何か?」「個人(私)とは何か?」といった根本が常識として共有されていたら。その上で、「国民」や「個人」を活かすためにも、中央政府に軍事や自衛の範囲を判断する権限が与えられていなければならないという常識も共有されていたら。
 9条②項があろうと、「日本人の命を使って、日本を守る自衛」も認められるはずです。
 つまり、70年間失われ続けてきた国というものの、失われ方に歯止めをかけることができるようになる。

 逆に、そうした地に足のついた歴史的常識の共有がなければ、9条②項の削除が成ったとしても国は守れないのです。
 いいとこ、「その時々の日本人の生命と財産を守る」という用心棒的自衛しか見積もられないでしょう。ならば同じように、国は失われ続けるに決まっているではないですか。

 少なくとも、9条②項の問題というのは、「9条②項の文字列が独立して問題」などという単純な話ではないということだけは、よく考えてもらいたいものです。



(了)


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改憲の基準は何処にあるのか――大阪都構想と憲法改正 



 少しややこしいことを考えてみます。でも、気合を入れて書いたので、どうかお付き合いください。


 まず、いま、保守の言論の中にこういう考え方があるように見受けられます。


「憲法改正のためならある程度のことは許される」

「何故なら、この憲法では国を守れないからだ」


 というような。

 確かにこういう態度は一理はありますよ。
 でも、その「憲法改正」と「ある程度のこと」の天秤が狂っているように私は思われるのです。
 そしてこの天秤が狂っているということは、保守めかして改憲をいったところで、護憲サヨクと同じ穴のムジナということになる。いや、むしろ理屈が通って一貫性のあるだけサヨクの方がマシということにすらなりかねない。もちろん、理屈が通っていて一貫性があっても根本で日本という単位にこだわらないのがサヨクであるからして、結論は間違っているのですよ。でも保守派ないしは一般日本人はサヨクを「お花畑」と、笑えるのか。私は目くそ鼻くそだと思う。

 たとえば、憲法改正のことを言う人は世の中に結構いますね。
 しかし、改憲を言いながら、「憲法をどう変えるのか」「憲法とはどうあるべきか」という基準……すなわち『国家の歴史的規範感覚』を論ずる人は稀です。

 おそらく多くは、「9条のせいで中国の脅威に対抗できない」くらいな漠然としたイメージで「この憲法では国を守れない!」と思っているだけではないでしょうか?
 でも、日本国憲法は9条だけで構成されているわけではありません。また、9条2項に問題があるにしても「国家の法の根本『規範』として、9条2項がどのように問題があるのか」ということを誰も考えないのはどういうことか。
 日本人は、単に「中国が脅威だから」「テロの脅威があるから」という現実の問題から改憲のイメージを都合よく作り上げているだけです。もちろん、現実から法の根本規範を導き出さなければならない部分もある事は認めます。しかし、憲法……あるいは憲法改正の基準というのは基本的には「国家の中に歴史的に蓄積された善悪、道徳の系譜」から『大義』を導いて設定されなければならないはずです。

 そもそも『憲法』とは、法の根本規範であるからして、法を定める基準となるものです。ならばその「法の基準となる憲法の基準は一体どこにあるのか」という事が考えられていなければならないはず。
 だってそうでしょう?
 法の基準のようなものが『文章』として定められているのであれば、何故そんな文章が定められていていいのか、という問題が絶対にあるじゃないですか。これは、もしこの憲法が「占領下に制定された」という「成立過程における大義の欠損」がなかったとしても、この問題だけは絶対にある。
 何故なら、憲法を記すのは、「記す」という行為であるから、どのような場合でも一時の人が記すことになる。すると、記す後に生まれた人、あるいは記す前に死んでしまっている人に対しては、記す権限は直接的に与えられてはいないということになりますでしょう。すると、何故その一時の人達だけに憲法を記す権限が付与されていて良いのか、という問題がでてくる。
 つまり、日本国憲法のように、文字で設定された『成文憲法』には、憲法を越えた崇高な基準……つまり「日本国憲法を超えるもの」があるとされていなければおかしいのです。

 よく言われることですが、例えばイギリスには成文憲法というものがありませんね。つまり、「憲法第一条、第二条」という風に条文は制定されていない。イギリスは不文憲法、つまり「文には定められていないけれど歴史的に我々はこのようにしてきた」とか「歴史の各ターニングポイントに、このような章典が出されている」といった『国家の歴史と伝統』を法の根本規範(憲法)としているのです。つまり、彼らは「彼らのこれまでの事跡と、今の自分たちとの間で整合性を取る」という所に『憲法』を置いているわけですね。

 私は別に、イギリスのようになれ、と言っているわけではないのですよ。
 ただ、日本のように歴史のある一時点から成文憲法が定められたとしても、「成文憲法の上位に不文憲法がある」と考えることはできるし、そうでなくてはならないはずだと言っているのです。
 何故なら、日本国憲法が出来る前から……もっと言えば明治憲法が出来る前からも、『日本』はあったのですから。

 要は基本的に、成文憲法(日本国憲法)の改正は、日本の不文憲法を『基準』として行われるべきだということです。



 こうした『基準』の事を考えずに、単に「憲法改正」の字面だけに涎を垂らす態度は、パブロフの犬が如き獣の振る舞いと言えます。

 だって、これはおそらく人類普遍の法則ですが、何かを「変える」という時は、「良く変わる場合」と「悪く変わる場合」がありますね。
 つまり、改憲と言ったって、「良く変わる改憲」と「悪く変わる改憲」があるはずなのです。

 だのに、「憲法をどう変えるか?」あるいは「その良し悪しの『基準』は何処にあるか?」という議論は誰もしない。
 もっとも、憲法を変える良し悪しの『基準』なんて人間には明らかに出来ないのだとは思いますよ。が、少なくとも変える良し悪しの基準を考えもしないまま「憲法改正」とだけのたまうのは、単なる「保守っぽい層」へ向けての媚びでしかないでしょう。(また逆に、それは良し悪しの基準に思いも馳せずに「護憲」とだけのたまう態度ともなんら変わるところではないです。)

 ですから、私には、どうにも昨今世で言われているような『憲法改正』は、結局の所、憲法改正という語感に一種の夢をのせているに過ぎないように思えてならないのです。



 たとえば、いわゆる大阪都構想の騒ぎがありましたね。これにおいて、

「大阪都構想そのものについてはよく分からないけれど、憲法改正には維新の党の力が必要だから住民投票は可決された方が良い」

 というような言説が至るところでされていたように思えます。
 これの根拠は大きくいって二つ言われてきました。すなわち、


1「大阪都構想が否決されると、憲法改正に協力してくれそうな橋下徹が失脚し、中央議会の維新勢力も護憲にまわってしまうはずだ」

2「大阪都構想の住民投票可決は、国民投票可決の予行演習となるはずだ」


 大抵、こんな調子でした。

 そして、菅官房長官の種々の発言に象徴されるように、内閣は(一枚隠れた形ではあるものの)大阪都構想に協力的でありました。自民党大阪府連は大阪都構想には反対だったのですから、これは「同志を後ろから鉄砲で撃つ行為」と評されて仕方のないものです。
 でも、この内閣による、大阪市や自民党大阪府連に対する不義理を、多くの人々は「憲法改正の為なんだからしかたない」で納得していたわけです。

 要は、「いわゆる大阪都構想は確かに欠陥だらけなのかもしれないけど、憲法改正の為に維新の党の力が必要なのだから大阪がどうこうなどというのは目を瞑っておけよ」ということでしょう。これは結構、多くの人が言っていたと思いますよ。
 さらに日本人が狡猾なのは、「大阪都構想で大阪がどうなるかもやってみなければ分からないのだし……」と裏切り感を緩和させる理屈まで立ててくるところにある。これの欺瞞的なのは、大阪都構想がどのようなものか少しも知らない者でもこういう事を言うからです。知らないのであれば「やってみなければ分からない」と思うのは「知らないから」でしょう。だって、知らないのに、何で「やってみなければ分からない政策」かどうか判断できるのですか。確かに、すべての政策は「やってみなければ分からない」のかもしれませんが、そこまで開き直ったらあらゆる政策に対して良し悪しの判断を下す必要がなくなるという話になるではありませんか。
 もちろん、人は世の中のすべてのことを把握することは出来ないのですが、少なくとも知らないのであれば黙っているべきなのであり、黙るということは「やってみなければ分からない」などと無責任な事を言わないということなのです。

 まあ確かに。もし仮に「大阪の存立」以上の天に則した崇高な目的があるのであれば、「大阪を見捨てる」ことは政治的な振る舞いとして是認しうることだとは思います。
 例えば、これによって「真に日本の脊椎が定まり、百年単位で日本国民全体の統合や信義を保つことができるような憲法ができる」というのであれば、大阪を犠牲にしたってよい……どころか、名古屋を犠牲にしたって、東京を犠牲にしたって、日本人の八割、九割の生命を犠牲にしたって構わないと思いますよ。真に日本の脊椎が定まれば、一割くらいの日本人が生き残っていさえすれば大丈夫でしょうから。

 しかし、大阪都構想のケースで、「大阪市の存立」よりも上位目的だと世で設定された「憲法改正」は、論理関係から言うと非常にチープなものと言わざるをえないところに大問題があります。
 何故なら、第一に、「橋下維新がなければ、憲法改正に協力してくれなくなってしまう」という前提で「憲法改正」を考えるとなると、それは「憲法96条の改正」を言っていることに過ぎなくなるからです。

 橋下系の維新の会が「改憲派なのだ」と人は言います。しかし、その改憲の中身を一度でも気にかけたことはありますか? それは、「首相公選制」や「一院制」といった直接民主主義的な方向性での「改憲」なのです。要は、ただでさえ過激な民主主義を推奨している日本国憲法を、よりいっそう民主的に『進歩』させようという手合いなのであります。
 ちなみに、人は「進歩」というものを何か良い考えのように言うわけですが、進歩という観念こそがサヨクイデオロギーの根本なのですよ? すなわち、人間には理性(悟性)があるので、歴史が進めば進むほど人類は良い社会を手にすることができるはずだ……というのが進歩主義です。すると、弁証法的に進歩する人類の歴史は、いつか『最終到達点』に達すると想定されるでしょう。その最終到達点を光の先として啓蒙するのが、要は左翼イデオロギーなのです。
 また、「民の一人一人に対して、平等に権限を振り分ける」というのが民主主義というイデオロギーですが、これも『進歩』の一つの類型だということは、よく理解されなければならないことです。

 そして、少なくとも『維新の党』に改憲の姿勢があるように見えるのは、この左翼イデオロギーの一つである『民主主義』の『進歩』を押し進めるような『改憲』を言っているからでしょう。勿論、大衆迎合で言っているのでしょうね。(また、このような進歩的改憲は、公明党も主張している「加憲」と何ら性質は変わらないのであります)

 つまり、維新の党については、この文脈上、96条……つまり改正条項を緩和させるという部分については、もしかしたら協力してくれるかもしれないという話に過ぎないわけです。

 そもそも日本国憲法の改正条項は、衆参両院で3分の2を得た所で、国民投票にかけることができるという形になっています。その後、国民投票で過半数を得れば改正ということになる。
 その「衆参両院3分の2」を「2分の1」に変えて、「国民の一人一人に決めてもらえるケースを増やす」というのが、一般的に言われている96条の改正案です。
 ですから、「国民の一人一人に決めさせればよい」という民主主義イデオロギーの発想なのです。また、維新の党としても、これならば維新的に大衆に迎合することもできる。

 そして、この96条の改正は、安倍首相も政権発足以前から言ってきたことでもあります。首相の場合、「大衆に逆らうことなく憲法に手を加える一手」としてこれを位置づけてきたのでしょう。まあこれ自体、非常に疑問視されるべき態度だとは思いますが、ここまで大衆化した日本の中で首相をやるという所を考えれば、こうした発想を持っていたこと自体は寛容に見るべきなのだと思います。

 しかし、そんな「チープな憲法改正」が、「大阪市の存立」と天秤に乗るかどうかといったら話は別です。そんなもの乗るはずはないのです。
 96条を変えるというのは、日本全体の屋台骨に何ら寄与はしません。憲法を変えやすくはするかもしれませんが、「変えてはならないもの」を設定するわけではないからです。

 ここで問題なのは、日本人は憲法についてすら「変えればよい」と思っていて、それを民主主義の原理で押し進めれば何とかなると勘違いしているところです。
 そういう風に勘違いしているから、「橋下維新の力を温存する為に大阪市の存立を犠牲にし、96条の改正を手伝ってもらう」などということが釣り合うと思われてしまうわけでしょう?



 さて、ここまで言ってもおそらくこういう反論がでるでしょう。

「いやいや。96条を改正することは、9条2項の改正に繋がるのである」

 と。

 確かに、私も9条2項は改正すべきだと思いますよ。
 でも、世の中で言われているほど、9条2項はそこまで大した話ではありません。
 つまり、仮に、大阪の犠牲を呑んで9条2項の改正が成ったとしても、これだって到底釣り合うものではないのです。

 あるいは、96条の改正によって、首相公選制や一院制などなど、より民主的な制度を大衆迎合的に設定されてしまう危険性と引き換えにしてまで、9条2項の削除にこだわっても到底釣り合うものではありません。

 というわけで、次かその次には、今回の話を9条2項と安保法制についての論に繋げようと思います。



(了)


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