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日本が日本であるために

主に政治、経済、時事、国家論についてなどを書きます。日本が日本である、ということを主軸に論を展開していきたいです。

 

独占禁止法など 



 多忙のため、更新が滞っております。

 本日は宣伝の表示を回避するために更新いたしますが、大したことは書けません。

 ただ、最近は独占禁止法のことをよく考えています。
 私は、「独占禁止法と公正取引委員会が自由競争を前提づけている」という市場原理主義的ストーリーが嫌いなのです。



 もっとも、私とて「資本の集中による独占を防ぐ」という志向には、文句はありません。

 しかし、企業と企業の間で話合いをもって、価格を維持するための協約を結んだりするといった談合やカルテル的なものを、「自由競争を阻害するもの」として厳しく取り締まろうとする志向には、大いに抵抗したい。

 企業間の談合やカルテル、協約がなくして、単に自由市場で適正価格が均衡するだなんて話はウソっぱちです。経済のモデルの中でしかなしえない机上の空論――お花畑というものです。


 でも、世の中では、こうした「企業の談合や既得権益」が批判にさらされている一方、、独占の話でも「資本集中」の方は大目に見られている傾向が強い。特に2000年代に入って以降。これは「国際競争力」とやらが盾にされて大目に見られているのです。

 でも、「企業の談合」と、「資本の集中」では、どちらがより独占性を強めてしまうかと言えば後者でしょう。
 だのに、談合やカルテルのほうがヤリ玉にあげられるのは、そちら方が威張っている感じがして腹が立つというルサンチマンが根底にあって、それを発露しているだけでしょう。
 また、資本の集中の方は、「市場における消費者一人一人の一票という経済の民主主義」と「効率的資源配分(パレート最適)」が、なんだか自由で民主的に聞こえるという話で大目に見られるのであって、つまりは単なるキレーゴトなのです。



 我々は、「国際競争力とやらのために資本集中を大目に見る」という態度を捨てるべきです。
 そして、国内の各既得権益を守るために、適正な不自由――つまり、政府による規制や、企業間の協定、談合といった人間交際による経済を志向すべきなのです。

 そうなると、われわれは対外的には保護主義を考えるべきだし、保護主義には外交力が必要であり、外交力には軍事力が必要です。
 この場合、軍事力というのは、単に「攻めてきたら守る能力」という話ではなく、「攻撃されたらやりかえす能力」という抑止力を「自前で持つ」ということです。
 つまり、具体的には「核武装」か「徴兵制と本土決戦の覚悟」の少なくともどちらかが必要ということです。

 実のところ、これくらいのことはみんな分かっているのでしょう。でも、世間で核武装を言うのは憚られるし、自分が徴兵されるのは嫌だから、保護主義的政策をとるための軍事力を実現させることも嫌で、だからTPPなどのグローバル化はやむを得ないという話になり、国際競争力のために資本の集中もせざるをえない……こういう筋立てが、半ば無自覚的に前提されていしまっているわけです。

 でも、この筋立て、前提の上では、資本の集中が「孫子の代への負荷」となりますね。

 そこで、資本の集中を大目に見るのは国際競争力のためであり、国際競争力をつけなければならいのは保護主義を回避するためであり、保護主義を回避するのはそうした軍事力を実現するのが嫌だからで、何故軍事力の実現が嫌かというと核武装や徴兵を考えなければならないからだということを考えると、こうなりますでしょう。

 すなわち、今の日本人達は、「今の自分が核武装を考えたり徴兵されたりなどしないために、孫子を犠牲にしている」ということです。
 資本の集中という形でそれをツケておけば、少なくとも自分たちが軍事について関わることをしなくて済む。そして、そのツケが、自分の生きている間に、自分に降りかかってこなければ良しと考えているわけです。

 日本人はおおむねそういう方向で行っているわけですが、何故ここに至ってイイ人ぶるのでしょう。
 みんな「家族が大事、孫子が大事」という価値を口では言うくせに、実際やっている様には「自分の生存期間内だけは平和と飽食が延長されれば良い」という方向性がありありと透けて見えているのです。


 ならばイイ人ぶるのはやめて、「自分の生存期間さえ平和と飽食が享受できればいいのだ」と言いながら、やってもらいたいもんです。
 でも、もしそれでも「良い」ということに帰着したいなら、もう少し「孫子の代」とやらのことを真剣に考えるべきでしょう。

 せめて、どちらかにしてもらいたいです。



(了)


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快調です 


 体調をくずしていましたが、もう快調です。

 ただ、少し忙しいのでポツポツと再開していく感じになると思います。


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体調不良 

体調不良につき更新をお休み中です。

健康だけが取り柄だったのに近年、四半期に一回は倒れている気がする。気合いが足りねえんでしょうね。

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コメント返信や動画について 



 今日は雨が降って、地面が冷やされて涼しかったですね。


 そう言えば、コメントについてですが、記事にて返信することにしています。

 とりあえず、前々回の記事

『黙れ民主主義――庶民、大衆、統治者の定義』

 についてのコメントは答えておくべきだと思いますので、今週中にはご返答申しあげます。



 またポツポツ、ブログの内容をyoutube動画にあげはじめていますのでそちらもご支援賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。



(了)


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海へ行ってきました・日記 



 そういえば、首相の談話が出たそうですが、いまは見る気がしません。
 明日は「敗戦記念日」ですが、これについても何か考える気が起こりません。


 今日は、海へ行ってきました。
 というのも、副業で海水浴場にかんする紹介記事を書いていて、書いていると何だか行きたくなったからです。

 自宅の最寄駅から520円で海水浴場近くの駅へたどり着きます。
 海と言うのは、よく見てみると恐ろしく壮大なものでした。

 海は青くありません。
 幾万、幾億の煌く陽が宝石のように散らばっていて、光色であふれています。
 遠くではいくつかの巨大な荷船が、お風呂のオモチャのようにのっそり浮かんでいました。

 私は、一人浜沿いを歩き、浜で遊ぶ夥しい人々を眺めます。
 家族連れ、刺青を入れた若い男女、子供の集団などなどが夢中になって遊んでいる。
 あるいは声を掛け合い、波を掛け合い、身体を絡めあう。

 そう。
 私はこういうことができない人間でした。
 よしんば、類似の場面にあったとして、私はそれまでの記憶を辿り、引き出しを一つづつ提出するようにしてしかその場にあれなかった。つまり、私は「みんなの遊び」の中で「私」を振る舞わせることはできても、「みんなの遊び」の中へ私が入っていくことはできないのです。

 ですから、私はいつからか、こうやって楽しそうに「みんなの遊び」をやっている人達を見ているだけで良い、と悟ったのでした。
 そういう人たちを見て、彼らの中に光を見るという形でかかわることでしか、私が世界とかかわる方法はないからです。



 さて、海に背を向けて浜沿いの小道をみれば、一つ一つの民家が何らかの売店を開いていた。さすがに大繁盛です。
 浜沿いの土地に民家……なんという既得権益でしょう。
 これは想像ですが、おそらくある種の暴力によって、その既得権益の秩序は保たれている。

 でも、それで良いのだと私は思います。
 彼らの雑多な暮らしと、かき入れ時の活気。
 そこにも光があります。

 私には、なぜ人間がこのような複雑なことをやれるのかが不思議でたまりません。
 人々は、人々自身が自覚していること以上に複雑で難解なことをやっています。


 私のような価値のない人間は、そういうかくも複雑な暮らしや遊びに着いている人々の、その光を崇めることによってしか価値づけられえません。

 たとえば、そこに「戦争の反省」はあるか。
 あるはずありません。
 そこには、ただ八月があるのみです。

 インテリが小賢しく述べたてる「戦争の反省によって統治権力を制限して得る、国民のケンリ」など、ちっとも「光の先」ではありません。価値もありません。

 暮らしや遊びの複雑性は、そんなことは無関係に営まれています。
 そこに戦争の反省はなく、八月があるだけです。


 おおよそ何があろうと、人間は暮らし、遊ぶのでしょう。
 日本列島でもそういう人間の複雑な営みが続いていくに違いない。
 動乱があろうと、平和であろうと、人間はあるようにしてあるし、流れるようにして流れる。


 でも、私は、「なるほど、人間達はそこであるようにしてあるのだから、それで良ござんしょ」とは、どうしても思えないのです。
 このような種類のことは、戦後に、山田風太郎が言っていた。あるいは、坂口安吾も言っていた。
 私は彼らを尊敬するものではあるが、そんな風に「無常の中でも人は人として営んで行くのだ」……というのでは納得が行かない。


 やはり、人間の集団は、信仰や忠義の「正統性」にこだわるということがあって、営みが整えられ、「世界観」を帯びるものでしょう。
 なるほど、人の営みは、どのような世界観の中でも続いていく。しかし、どのような世界観でも良い、というわけにはいかないのです。
 では、その世界観の良し悪しの基準とは何か、と考えた時に、それは過去からやってくる。つまり正統性であります。

 ですから、もし人が知識を究めて何かを言おうとするのなら、「戦争は人がたくさん死んで良くないので、そういうことの起きない楽チンな社会を目指しましょう」と進歩的な光の先を示すのではなく、「過去から今に至るまでの人々の営みを解釈し、信仰と忠義における正統というものを示唆する」ということをやるべきなのです。

 何故なら、人間は、信仰と忠義における正統性にこだわって、場合によっては率先して死ぬ……という絶対的なコアがなければ、それこそ世界観は「どのような世界観でもよろしい」という話になってしまうからです。
 すると、「あるようにしてある」という主観性すら、獲得できなくなっていきます。何故って、無自覚ながら持つ世界観があやふやで、人が「あるようにしてある」なんて想定できませんでしょう。

 よしんば、あるようにしてあれない人が「よし、あるようにしてあろう」と気合いを込めたとしましょう。
 しかし、それは「あるようにしてある」ということを選択している時点で、あるようにしてあるとはなっていないのです。

 つまり、この場合、彼は未だ絶望の中にいる。
 絶望の中にいるのに、絶望の中にいないフリをしているだけです。
 キルケゴール風に言えば、「死に至る病」というやつでありあす。



 なるほど、現代にも「あるようにしてある」という人間の営みはある。そしてそれは崇高なものでありましょう。
 しかし、そうした営みを弁証法的に進歩させていくというような志向だけでは、人間の「あるようにしてある」という崇高性からして霧散させ、死に至る病が蔓延するに決まっているのです。

 そして、日本人として死に至る病を克服するには、やはり信仰と忠義の正統性が重んじられるようにしなければならないのであります。



……こんなようなことを、海を眺めながら考えていました。



(了)


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