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日本が日本であるために

主に政治、経済、時事、国家論についてなどを書きます。日本が日本である、ということを主軸に論を展開していきたいです。

 

9.11自爆テロと安保法制 



ご無沙汰しております。

 そう言えば、私の高校生の頃、9.11自爆テロという事件がアメリカで起きました。
 その時、高校生ですから別に何の思想もクソもないのですが、私は確かに、心情的にはテロリスト側に味方していたように思います。

 と言うのも、ニューヨークの巨大ビルディングへ飛行機で突っ込む……という姿は、もっと小さな頃に空想したひとつの英雄的の姿で、そのイメージとピッタリ合致したからです。
 また、私が今も特攻隊を礼賛するのは、そういう「英雄的な死」のイメージが「人間的である」ために必要不可欠であると信じるからです。そういう発想というのは、別に後からつけた小賢しい知識なんかで浮かんだものではなく、子供の時から培った英雄像や「良い」もののイメージの中にある。
 別に、詳しい歴史を知って、英霊を憐れみ「今の我々があるのは彼らのおかげだ」などと感謝するようになった――というのではない。そんな都合の良い理屈から礼賛しているのではないのです。

 だから、弁証法的な知識など持ち合わせない高校生であっても、「9.11自爆テロに味方する」という心情は、「常識人」として持ち合わせうるものだったのです。




 そして多分、こういう発想は、何も私特有のことではなかったように思います。
 というのも、9.11自爆テロ後、当時学校で人気だったのは、小泉首相でもアメリカ軍ではなく、圧倒的にビンラディンだったからです。

 もちろん、高校生はインテリゲンチャのような喋り方はしないし、政治的な用語も使わなければ、まして地政学的見地など求めうるべくもない。
 
 でも、ビンラディンの替え歌はできました。
 メロディはテレビcmの流用だったと思います。

 それは、別にビンラディンを讃える歌でもなければ、イスラム原理主義を讃える歌でもなく、ただ単に「ビンラディンが殺されてしまった」という内容の歌です。
 でも、殺されてザマあ見ろというのでもない。
 殺されて悲しいというものでもないが、一生懸命やって殺された哀愁のようなものが漂う歌でした。

 あれを作ったのは確かに悪ガキのグループです。優等生はあんなもの作りません。
 優等生は大学生になってから「民主主義が云々」と小賢しい理屈をこねるのでしょう。国会の前でデモをやってインテリに褒めてもらっているのかもしれません。

 でも、私は悪ガキの感覚の方が断然好きです。常識的だからです。人間的でもあります。




 最近は、安保法制のことが話題になっていました。

 中には、「アメリカの戦争に巻き込まれる戦争法案」としてこれを反対する人がいます。
 あるいは、「アメリカにくっ付いてリスクを減らす法案」としてこれに賛成する人がいます。

 私にとってはどちらもクソ喰らえです。

 今、我々に必要なのは、
「飛行機でニューヨークの大ビルディングへ突っ込むこと」
 を道徳的と見なすような、人間的英雄像を回復することなのですから。



(了)
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黙れ民主主義――庶民、大衆、統治者の定義 

 今日は、庶民ということと、大衆ということ、そして統治者ということを定義づけながら論じます。

 結論を先に言えば、「庶民」というのは第一、崇高なものである。
 そして、その庶民の崇高性を「発見」する視点にある者が「統治者階級」である。

 こういうことです。

 しかし、近代(モダン)は、庶民が自分自身で自分自身を「庶民」だと発見せざるを得なくなる。
 これが人間に尽大な苦痛を強いる『近代的自我』というものです。

 そして、庶民自らが庶民であることを強烈に認識せざるをえないほど「社会の画一化と情報化」(モダン)が進み、「庶民としてのケンリ」を庶民が請求するようになったら、それは『大衆』になるわけです。

 こうなれば、その文化圏を没落から救う手立ては基本的にありません。





 我々は、「庶民」という言葉を平気で使い、無造作に使っています。
 もちろん、言葉の語法は、厳密の上に厳密を重ねれば、千人千色の語法となっているに決まっている。
 ただ、だからと言って、どのような語法でも良いというわけにはいきませんね。
 言葉というのは、想像力と共に使われて初めて意味がでてくるのです。

 そもそも、「庶民」という種類の言葉が、庶民自身によって使われ始めたはずはありません。
 なぜなら、庶民は、自分を庶民であると認識しながら庶民をやっていたのではなく、ただあるようにあっただけに決まっているからです。
 ようするに、民の一己には、一己の周りに広がる経験世界があり、生活の実践の中で一己の認識は共同組織に埋め込まれ、一己の一生は「あるようにあった」ということであります。

 そして、こうした庶民を「ordinary people(一般の人々)」と考えるのであれば、それは「一般ではない人々」=「統治者」が、「庶民」を発見するのです。

 つまり、「ただあるようにある」という庶民の存在は、統治者的な「一般ではない人々」によって発見されて、初めて崇高性を持つのであります。
 逆に言えば、庶民は、統治者という視点があって初めて存在するということ。
 そして、この関係は人類が存在したその瞬間からあったに違いないのです。


 もっとも、社会が複雑化し、現代に近くなれば、勿論、この庶民と統治者の関係は一国の中で重層(レイヤー)を帯びて展開されてくる。
 たとえば、伝統的な「家」を見れば、統治者は家長であり、場合によっては婦人でありましょう。子らは庶民です。そういう身分があり、持ち場がある。
 あるいは、その家と家が集団を組んでいる場合、統治者であった家長も庶民となります。統治者はその地域をまとめあげる首長ということになる。
 だが、一国という単位で見れば首長も庶民の一ということになります。国の統治者は天皇であり、幕府や中央政府だということになる。
 勿論、これは状況によって変動するものだが、基本的にそういう身分があり持ち場があることによって、発見者である「統治者」と発見される側の「庶民」との関係性が有機的に編み込まれているのです。




 こうした庶民と統治者の関係は、人と人との身分関係がごく秩序だった社会においては、明瞭に見て取れます。
 たとえば、封建の社会では、武士の家に生まれれば武士、~村に生まれたら~村の村民、商家に生まれれば商家、職人の家で育てば職人……といったように、それぞれの身分の「範囲」が一己の一生で完結しているので、これは分かりやすい。もちろん、農民の生まれでも商家の生まれでも、武士になることはあるが、それはそれなりの手続きを踏まえ、正統な過程があってのことであり、また、そうした手続きそのものも人の立場を明瞭にする一つの英知なのでありました。

 しかし、我々の文化圏にとって致命傷だったのは、倒幕・維新という歴史です。

 勿論、封建の世を何から何まで礼賛する必要もないし、地球が狭くなった事に対する処置としての中央集権化が必要であったことは紛れもないが、「幕府を倒し、藩を廃し、封建的階級というものを消し去る」ような暴挙は、やはり致命的なものでありました。

 つまり、我々は、「倒幕・維新」によって、封建的秩序という財産の根幹部分をごっそり放逐してしまったのです。
 



 ただ、こうした封建秩序の制度的な放逐の後も、それは「発見者」としての武士(制度としての封建)が放逐されてしまっただけなので、「あるようにしてある」という庶民側のあり方は、そのまま引き続き「あった」のです。ごくわかりやすく言えば、倒幕後に武士階級がなくなっても、封建的な地方農村は残っていた。

 ですから、そうした封建時代が育んだ庶民の生活があり、常識があり、身分意識があり、前提があり、「封建」はそこに温存されていたわけです。
 また、「封建」が温存されていたからこそ、「近代(モダン)」が機能しえたということでもある。

 しかし、政治制度上では「封建」は解体していますから、庶民の中に温存された封建も世代を重ねるごとに霧散していくのは必定です。世代を重ねるごとに生活に含まれていた常識、身分意識、社会的前提が霧散していき、代わりに一国全体が画一化していく。そして、その「霧散」の歴史こそ明治以来、現在に至るまでの日本の苦難の歴史であります。
 勿論、あいだに大東亜戦争、日米決戦という近代への反逆は起こったが、基本的に「霧散」の歴史は倒幕後から始まった。そして、戦後にはそれがいっそう「進歩」していき、平成に至っては「日本」そのものが霧散し、現今ではついに消滅してしまったというわけであります。


 もっとも、こうした社会の複雑化に伴う「画一化」や「情報化」は徳川時代はおろか、人間の社会が発生したその瞬間よりあった。
 しかし、夏目漱石流に言えば、こうした複雑化が『内発的』に行われるということと、『外発的』に行われるということは決定的に違う。
 幕府を倒した後のそれは、どんなに「和魂洋才」を謳ったところで、所詮は外発的な制度移植であり、その画一化、複雑化に我々のあり方を反映させていくというステップを踏んだものではありませんでした。
 勿論、それは地球が狭くなったことによって、我々がどうしようもなく直面せざるをえなかったことではある。が、この問題を我々は未だにちっとも解決していないということはハッキリ認識すべきなのです。
 逆に、無理やり解決されている風に前提するのは、「近代の徹底」がその解決手段になりえているという進歩主義的な、人間に対する楽観でしかありません。

 つまり、我々は未だに倒幕以来の外発的な「画一化」「情報化」に適応していないどころか、この不適合にかんする整理すらつけていないのです。




 さて、この莫大な画一化、情報化の進歩の中では、人々のそれぞれが画一された形式の中で砂粒のように生きざるをえなくなる。と同時に、いやおうなく、「自分が砂粒にすぎない」ということを自分で強く自覚してしまう。そして、砂粒(平均人)自体が社会の大量な砂粒(平均人)を発見する。こうした自我を、『近代的自我』と呼びます。

 なるほど、近代的自我を持った一粒一粒(平均人たち)には、前近代では考えられないような物質量、利便性、情報量が行き渡ってはいる。
 ただ、その物質、利便、情報の方向性は、封建の世で武士、貴族階級が享受していたものを模範とし、基本線としてはそれをあらゆる階層にも大量に効率的に行き渡らせるという方向で進められてきているのです。
 想像してみてください。18世紀の武士階級、貴族階級が享受したその暮らしと、現在の我々平民の暮らし。一体このどちらが物質的に豊かで、利便性があり、情報量があるか。明らかに後者でしょう。
 ですから、現代は、前近代に比較して、その「生の熱量」の総量においては圧倒している。これだけは確かです。

 ただ、人は生まれ、死ぬので、世代というものが変っていきます。
 つまり、後から生まれた世代にとっては、その「生の熱量」は当たり前のものとして、生まれた時から与えられたものとなりますね。
 以前は、武士階級といった優れた階級の者が勝ち取る生の熱量(ケンリ)であったものが、大量に、効率的に行き渡った生の熱量(ケンリ)においては「享受して当たり前のケンリ」という風に前提されてしまうようになる。この「享受して当たり前のケンリ」というものに装丁を施して提出されているのが、いわゆる「基本的人権」というものです。

 つまり、ホセ・オルテガ流に言えば、「平均人が、平均人としてのケンリを請求する」のであります。

 ようするに「大衆」とは、平均人が平均人としてのケンリを請求する大量の動きのことなのです。
 ただ、一見平均人(ordinary people)のように見える者でも、自分の生活の中に組み込まれ、そして黙ってさえいれば、彼は「崇高なる庶民」であると言えるでしょう。しかし、そんな崇高なる庶民である彼も、一度喫茶店へ行き、「まったく政府は我々庶民の暮らしのことをまったく考えていない云々」などと吐き散らかした時点で、げに醜き『大衆』となるわけです。そして彼は、そうした喫茶店で吐いた自分の文句が、「世論」として政治に反映されていないことに不満を持ちさえする。よしんば反映されたとしても、そんなものが上手くいくはずはないので、また別の文句を吐きちらかす。




 対して、専門人、エリートというものを考えてみましょう。
 たとえば、オルテガはその著書『大衆の叛逆』で「大衆専門人」というものを描写した。
 しかし、この大衆専門人ということを考える際に気をつけてもらいたいことがあります。

 それはすなわち、大衆専門人ということを言うと、

「なるほど。大衆の問題においても、やはり悪いのは頭の固い専門人やエリートであって、我々庶民に責任はないのだ」

 というような、都合の良い捉え方をする連中が少なからずいるという点です。日本人というのはどこまでも狡猾で欺瞞的な民族であるから、すぐにこういう都合の良い捉え方をする。でもそれは間違っています。

 オルテガが言った大衆専門人というのは、すなわちこういうことです。
 まず、近代(モダン)による社会の複雑化と共に、「学問の細分化」という問題が提出されます。
 この「細分化」というものが「専門」の問題の根本なのです。
 細分化された専門領域は、社会のある一側面からの視点を極めるということですね。だから、専門人たちはその領域のことだけは、社会のあらゆる人よりも熟知している。

 しかし、実際のところ、いかなる社会の一側面も、社会全体との関わりによって成立しているわけです。それでも専門人は、自分の専門には熟知しているが、それ以外の視点では世で平均人たちがのたまわっている平均的観相以上のものを持ち合わせていない。すると、彼自身の専門領域についてすら、その平均人たちの観相を下支えし、迎合するような、通りの良い、画一的なものにしかなりません。

 つまり、大衆専門人とは、大衆平均人たちの都合を増幅させる装置なのです。

 ですから、「大衆の問題においても、やはり悪いのは頭の固い専門人やエリートであって、庶民に責任はないのだ」という都合の良い発想は、それこそ大衆専門人的な発想なのであります。言い方を変えれば、狡猾に装丁を施された「大衆迎合」ということになる。




 さて、こうなってしまったら我々は文化圏を救う手立てはないのであるが、原理的に考えれば「どうすれば良いのか」という方向性は考えられえます。

 オルテガはそれを「生の哲学」という形で示しました。

 これは、「一人一人が自分のケンリを請求する」という志向から抜けて、一人一人が「統治者目線」を持ち、そういう「意志」を持つということです。

 言い方を変えれば、庶民からエリートに至るまで、「貴族的であること」を求めたわけです。
 そして、その庶民からエリートに至るまでを貴族的あらしめるためには、共通の『事業』を観相することが必要であると論じた。




 オルテガの「生の哲学」は、なるほど方向性、原則論としては正しいと思う。
 しかし、それを具体化して考えるとなると、やはりオルテガの立場にも楽観があったようにも、私には思われます。

 オルテガは、生の哲学を根拠に「自由民主主義」へ期待をかけた。選挙制度さえ正しければ、自由民主主義は機能する、と。つまり、事を具体的に下ろすと、相当リベラルなことを言っていたわけです。
 そして、具体的な『事業』についても、オルテガは「ヨーロッパ共同体」を提出していた。

 でも、私はヨーロッパ共同体は実現しないと思うし、自由民主主義を機能せしめるような「正しい選挙制度」など人間には確立しえないと思う。



 もう一度言いますが、「生の哲学」の考え方は、抽象的な段階における原則論、方向性としては絶対に正しい。
 しかし、抽象的な方向性を具体化していくにあたっては、様々な現実的問題が出てきます。

 たとえば、「一人一人が自分のケンリを請求する」ということと「共通の事業感を持つ貴族的なあり方」を対比するにしても、実際にはその判断(ジャジ)を社会的にどうやっていくかという問題が出てきますでしょう。

 人間は、おおよそ自分を「良い人」と思うためであるならどこまでも狡猾に頭を使います。
 すなわち「いや、これはみんなのために言っているのだ」と彼自身すら思っていたとしても、実は一皮捲れば「それが自分のケンリ請求に都合が良い」ことを無自覚のうちに察知していて、「みんなのため」という理屈が「自分を自分で良い人であると思っておくため」の単なる装飾である、という可能性もあるわけです。

 その点、人間とはとてつもなく不完全であり、卑怯に流れ、欲情に流れやすい生き物なのです。

 それをどうにか「生の哲学」の貴族的なあり方へと整えるものが、歴史的フォームであり、身分であり、道徳であり、偏見であり……過去から引き継いだ文化圏の英知だと私は考えるのであります。
 言い方を変えれば、いま生きている人間は「我々の未来を形作る意思」という貴族的精神を持ちうるが、生きている人間は心身共にまったく不完全であるので、過去からその枠組みを前提として引用しながらやっていかなければならないということです。

 要するに、生の哲学を真実への意思としての「義」であると考えれば、歴史的な枠組みはそれを整える「礼」です。



 図らずもオルテガに触れることが多くなりましたが、オルテガ自身もこう言っていたと記憶します。

 すなわち。貴族的であることと大衆的であることは、家柄の良し悪しで決まるのではない。生の意思を持っているかいないかで決まるのだ。しかし、家柄の良い者の方が、生の意思を持っている可能性が高いということは言えるだろう。

 と。
 つまり、貴族的であるということは原理的には家柄では決まらないとは言いつつ、その判断を社会的にジャッジする困難がそこにあることは、きちんと示唆されているのです。



 現今は、義を掲げて、統治権力へ向かって「あーでもない、こうでもない」と、右も左も徒党を組む。
 義を想うことは結構なことだが、その義が「一人一人が自分のケンリを請求する」という大衆の都合に迎合したものではないと言えるのでしょうか。
 とりわけ、群れて、通りの良い、画一化された訴えをしているのであれば、それが偽善と欺瞞を孕んでいないはずはないのです。それは世の中で、右派と呼ばれるようなものでも、左派と呼ばれるようなものでも同じです。

 そういう大衆(群れ)を放逐し、本当に「義」を求めようとするのであれば、やはり「礼」が必要なのです。
 この場合、「分や立場をわきまえる」ということです。



 その意味で、封建の世は分や立場に則すという事は知られていた。分や立場が明瞭でわかりやすかったからです。
 しかし、現今であっても、人の「分」や「立場」というものは存在します。
 社会的立場、役職はもちろん、年齢、家柄、性別などなど、歴史的に引き継いだ封建的、社会的偏見というものは微かに残されている。
 もし、残されているものがあまりにも少なくなってしまったと感じるのであれば、それは過去から「封建」を引用する形で、則する「分」や「立場」という前提を想定することもできましょう。あるいは、そこに「運命」というものを持ち出してもいいかもしれません。たとえば、政治家というのは根本的に、運命によってなると考えられるべきものなのです。

 これくらいしか、日本国家の霧散、自然消滅に抗う手段は、私には思いつきません。
 そして、そのためには、そういう「分」や「立場」というものを超え出た言説、振る舞いは徹底的に棄却され、放逐されなければならない。

 もっとも、日本人は臆病ですから、皮膚感覚として一人一人が各個で分や立場を超え出た言説や振る舞いをしたりなどはしません。
 そうした場合は、必ず群れてモノを言う。
 群れて、集団的にモノを言えば、分や立場を超え出た言説や振る舞いも、なるほど気軽にできるというわけです。

 日本人は、こんな下劣で、卑怯で、低劣で、醜く、禍々しく、おどろおどろしく、夥しい平均人の渦を、「民主主義」という言葉で「進歩」と換算してきたわけであります。しばしば「自分で考え、自分を表すことができて、よござんす」というように。でも、それは自分を表しているのではなく、「群れて平均人としての請求をしている」だけでしょう。

 私は、これに「黙れ」と言っているだけなのです。
 私は本当に、それ以外のことは何も望みません。
 お願いだから、そういう低劣な姿を、私の目の前に晒すのを止めて欲しい。これによって、私の日々は、吐き気との闘いに終始せざるを得なくなってしまっているから。




 確かに、人には「どうしてもこうとしか思われない」という深刻な思いが沸きあがることがあり、それが自らの今の「分」や「立場」を超え出る形でしか成しえないこともあるでしょう。そんなことが百万分の一、千万分の一もあるとは思われないが、本当に自分で真剣に考えた結果、「義」に則するためには分や立場という「礼」を踏みにじらざるをえない状況も、人間にはありうる。

 でも、それならば、正々堂々と「暴力」でやってもらわなければ困ります。

 群れを作って、民主的な活動でいまの「分」や「立場」を超え出ようというのは卑怯であり、人間のあり方として絶対に間違っているのであります。



(了)


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集団安全保障から離れるための集団的自衛権 



 私は、日本の集団的自衛権の行使には大賛成です。

 しかし、集団安全保障という未来ヴィジョンに大反対なのです。



 そもそも集団的自衛権は、勢力均衡(バランス・オヴ・パワー・ポリティクス)を前提とした軍事同盟には欠かせないものです。

 集団的自衛権のような権限を政府が持たなければ、その時々の状況で、「誰と組み、誰と敵対するか」という立場取りができなくなります。
 我々は、この
「誰と組み、誰と敵対するか」
 の選択によって、国際的な勢力(パワー)バランスを取るということを考えなければならないはずなのです。


 対して、集団安全保障の考え方は、そうした「誰と組み、誰と敵対するか」という勢力均衡の論理を想定しません。
 要するに、
「みんなトモダチ」
 というわけです。
 それで、「トモダチ」の中で「悪いトモダチ」が出てきたら、トモダチ皆で叩くというのが『集団安全保障』です。

 私はこれに反対だし、おそらくサヨクが想定するような集団安全保障の時代なんて人類に訪れないと思っています。




 しかし、厄介なのは、ある意味、保守派も集団安全保障の未来を想定しているということです。

 というのは、集団的自衛権の行使で、「日米同盟」のみが想定されているからです。
 つまり、保守派は、東西冷戦で西側が勝ったので、「世界中を西側化することでの集団安全保障の未来」を無自覚のうちに想定しているというわけです。

 ようするに、『自由と民主主義という普遍的な価値の共有』というヴィジョンにおける集団安全保障。これが念頭にある。
 すると、まことに混乱してくるが、「集団的自衛権」という勢力均衡を前提にした考えの上で、なぜか「集団安全保障」の未来が想定されるという話になってくる。

 とどのつまり、日米同盟を大前提にした集団的自衛権は、「世界中を自由と民主主義で染め上げる集団安全保障」への途中過程として想定されてしまっているというわけであります。


 これに対して、「みんなトモダチ」のサヨクの集団安全保障に比べると、保守派の「世界中を自由と民主主義で染め上げる集団安全保障」は何かニュートラルのようなものに見えるかもしれないが、とんでもない。

 これらは双方、「世界を統一して国家という枠組みを薄くしていく」という未来ヴィジョンであるが故に、有害でしかない考え方なのであります。




 さらに加えて、いま言われている安保法制は、「あれで集団的自衛権が容認されたと言ってよいのか?」という問題もあるので、さらにややこしい話になっているのであります。

 あの法制自体のことを言えば、「集団的自衛権」の権限自体は、もっともっと強化されてしかるべきなのです。
 でもそれは、日米同盟のためではなく、「集団安全保障」という考え方から離れ、勢力均衡(バランス・オヴ・パワー)の考え方に移行し、国家の独立性を高めていくという方向でやられなければなりません。



(了)


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SEALDs諸君へ! 

 私は、安保法制そのものがどうという前に、「安保法制反対デモ」というデモに価値を認めません。

 確かに、安保法制における「アメリカの召使度をあげて、リスクを下げる」という理屈が唾棄されるべきものであることは間違いありません。(安保法制の法制自体は、別に問題はないと思いますが)
 ですから、単に「リスク減」の文脈で安保法制を礼賛する保守派の活動も、同じくらい価値がなく、同じくらい醜いとは思う。

 でも、だからと言って、反対側の「安保法制反対デモ」が許せるかと言ったら許せないのです。



 特に、『SEALDs』という若者の団体が、私は見るに耐えない。胸をかきむしられるようです。

 もっとも、SEALDsについては、「工作員動員説」「サヨク団体動員説」などなど色々言われているが、それは違うと思う。
 彼らは自分の頭で考え、自分で行動している。

 むしろ、工作員やサヨクの動員であったらいいなという願望を抱くぐらいですよ。しかし、様子を見る限り一人一人の自発的な活動であるに違いないのです。

 なるほど。おそらく、彼らは現今の近代的社会という世界観に「価値」というものがなくなっていることを見抜いてはいるのです。その点の鋭さがある。
 彼らは、大学を卒業して、就職をして、果たして何か価値感のある世界観をえることができたでしょうか。
 できやしない、と思ったのでしょう。
 また、その予測はおそらく当たっているのです。
 彼らに用意された社会は、酷く画一的で、平坦であるのみならず、没落の最中にあり、一枚隠された形で虐げられて行くことは明白だった。彼らをそういう状態に追いやったのは、彼らが大学を卒業する前までに社会を作ってきたすべての大人たちの大衆性であります。

 だからSEALDsの彼らは、別の価値を想定できる世界観を見つけて、そちらに行きたかったのでしょう。
 それで、「民主主義」やら「反戦」やらの枠組みを見つけて、自らそこへ向かっていった。
(ですから、これを「就職で採用しない」とか言って弾圧するのは得策ではありません。むしろ、かえって彼らは、彼ら自身が正しいという錯覚を逞しくするでしょう)



 でも、私が一番思うのは、彼らが見つけたその枠組みも、無価値で平坦で人を圧殺する「近代社会」を作った大人たちの理屈の一柱を担っていたものではないか、というところです。

 なるほど、確かに「対米従属の自由民主主義」も大人の理屈ではある。しかし、「単なる平和主義の自由民主主義」も大人の理屈なのです。
 反抗するのであれば、この双方に反抗しなければならない。

 なぜ彼らは、後者の大人の理屈によって前者の大人の理屈を攻撃することで、「別の価値ある世界」へ行けると勘違いするのか。

 それはすなわち、「群れる」からです。

 彼らはきっと、途中までは鬱屈とした中で、自分の頭で考えていたのでしょう。
 この世の価値とは何かを考え、その世界観を探しあぐねていたに違いない。
 しかし、途中で寂しくなって、「集団的に考えること」をしてしまったのです。
 ツイッターなどのSNSを用いて、「同じ意見」という集団を作って、集団的に考えるようになってしまった。

 だから、「民主主義」がどうだのという薄っぺらな大人の言葉でピーピー群れる羽目になったというわけです。



 だって、安保法制反対の理屈は、次のように言えば、こうも簡単に崩れるものなのですよ。

 なるほど、安保法制があれば、アフガン戦争、イラク戦争のような戦争について、アメリカのお手伝いをさせられるようになるかもしれない。これは、共産党をはじめとするサヨク陣営の言うとおりではある。
 しかし一方、安保法制という法制があれば理論上、イラク戦争のような戦争の時に、「イラクに味方する」という主体的な戦争参加ができるということでもあるわけです。

 アメリカのお手伝いをするような、無価値な戦争、大義のない戦争に参加するのが嫌なのでしょう?
 先のイラク戦争は、どう考えてもアメリカが悪かった。それなら大義上、正義上、原理的に言えば、我々は「戦争に参加しない」という態度ではなく、「イラクを擁護する立場で戦争に加わらなければならなかった」のではないですか?

 本当にただ単に「戦争へ行きたくない」という本当の軟弱精神から安保法制に反対しているのなら別ですが、本当は、「大義のない戦いには与したくない」と思っているだけなのでしょう?
 逆に、大義のある戦いであれば、よそへ出向いてでもやらなければならないはずでしょう。

 だったら、反対するべきなのは、「安保法制」ではなく、「日米安保(日米同盟)」なのではないでしょうか?

 また、安保法制の持つ、「自衛隊の海外派兵」「戦闘地域へ武器輸送」などといった権限は、我々が世界で主体的な軍事行動をとるという意志さえ持てば、問題ないでしょう。
 つまり、大義を考えることのできるような国家の意思統一。これができるような、強靭な中央政府をどう構築していくかという話をすればいいのです。



 私とて、アメリカの召使として戦争に狩り出されるのは御免こうむる。
 しかし、アメリカに召使にされないためには、「アメリカに対して反抗する暴力」という意味での軍事力も必要でしょう。
 あるいは、アメリカ以外の国、たとえばロシアなどとの同盟も考えてみる必要だってあるはずで、それなら安保法制は逆にアメリカにとって脅威になるかもしれないでしょう。



 そう言えば、私は軍隊へなんぞ行きたくありませんが、アメリカに対しての特攻要員としてならば、徴兵されても一向に構いません。
 そういう風に思っている若者は、実は多いのだと信じます。
 また、アメリカに召使にされないためには、核武装だって必要でしょう。だってアメリカはわんさか核を持っているのです。

 論理上、そういうことになりませんか?



(了)


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現代日本経済における諸問題 




 貨幣経済における自由市場の問題が述べられるとき、おおよそ「格差」というものに焦点があたる場合が多い。もちろん、あまりにも人々が経済的に格差づけられるというのは、問題であるに決まっています。

 しかし、格差の問題のみがクローズアップされることになると、政府による市場の修正が、「所得再分配」のみで事足りるという向きへ傾くことになりますでしょう。

 つまり、
「経済の発展は自由市場に任せ、後から政府が金持ちから金を巻き上げて弱い者に配る」
 というヴィジョンです。

 私はこの考えがそもそも間違っていると思う。




 そもそも、政府の財政政策という非・市場的な主体は、三つの機能があると言われています。

1、所得再分配
2、経済安定化
3、資源配分




 実のところ、社会民主的な経済の発想も、新自由主義的な経済の発想も、経済における政府の役割を「1、所得再分配」だけに限定してものを言っている点では同じでしょう。

 社会民主主義的な経済の発想は、「経済の発展が自由市場によってなされる」ということを認めた上で、「政治的には多数の弱者が、金持ちから金を巻き上げる」という発想へ傾斜します。
 対して、新自由主義的な経済の発想は、「弱者へのセーフティーネットは政府によってなされる」ということを根拠に、「市場の自由化」に大義名分を与えようとする。

 つまり、双方、拠り立つ前提は同じで、単にどちらがより「弱い人が可哀想」と思っているかの違いなのです。




 しかし、いま、我々に一番必要なのは、財政政策(政府による恣意的な自由市場への介入)を、「2、経済安定化」にも「3、資源配分」にすら認めるということなのです。

 経済の安定化というのは、すなわちケインズ的な介入で、短期的な問題解決としての財政政策です。
 現今は、社会全体として供給能力が総需要を上回って、価格が下がり、給与が下がり、投資意欲が減退しています。
 この不足した需要分を公共事業などの政府の支出の増大によって補う。
 すると、事業者たちは投資の必要性を見込むことができ、自ずと人件費がかかるようになる。
 その投資や人件費の(貯蓄を除いた)何割かはまた他の支出となる。またまた、他で支出されたものは何割かは別の支出となって……というように、最初は公共事業としての支出だったものが、民間に広く、社会全体の需要の創造になるわけです。

 これが「乗数効果」のいわゆる呼び水効果ということですが、この短期的な流れを中長期に渡って持続させるためには、事業者に「将来における需要の予測」を多く見積もってもらわなければなりません。

 何故なら、事業者が投資をするときは、常に将来を予測してするものだからです。色々な予測がありえますが、特に「将来における需要の予測」は予測の最も大きな決定要因になります。
 これは事業者として投資をする立場になったと想像してみればよいのです。事業者の投資は将来の生産規模を増やしますが、将来の社会にこの需要がなければ、つまり売れなかった場合、彼は首を括る以外に道はなくなってしまいます。

 ですから、社会全体として投資を存在させるためには、持続的な需要の見込みが前提された社会が想定されていなければ不可能なのです。


 しかし、ここで問題があります。
 というのも、民間消費は、投資を除けばあとは個人消費ですが、個人消費の増大の予測には限界があるということです。

 もちろん、短期的には、個人消費の増大を見積もることができるでしょう。
 しかし、根本的に、長期的に、我々の個人消費の増大よりも、機械化、生産性の拡大による供給能力の増大の方が大きくなってしまっているという問題がある。

 ここが自由市場における資源配分の不整合なのです。

 つまり、生産性の増大を、「消費者の選好」による需要で捌ききれないということであります。

 とりわけ、昨今の世の中では、「消費者の選好」を礼賛するケが非常に強い。しかし、大衆化された社会ではそもそも幻を掴むようで低劣な消費が散々されているのであります。要は、「消費者が選ぶ」ということに価値をおきすぎるのは、その消費者達の選好が低劣である可能性を大いに含む以上、よろしくないということです。
 これは別に、禁欲的な精神から言っているのではありません。消費者の選好が低劣だった場合、その低劣な選好に迎合して生産者も生産を行うことになる。そして価格が付き、価格そのものがその低劣なものに権威を与える。すると、社会全体のものとものにおける相対的な価値が狂ってくるのです。
 つまり、本来価値のあった公なものの価値が低く見積もられ、本来何の価値もないものの価値が高く見積もられる。これが大衆的に行われる現象が、「大衆消費社会」というものであります。
(※私が将来の消費税増税に大賛成なのは、この点を見てのことでもあります)


 もっとも、私とて「消費者の選好」のすべてを蔑ろにするわけではありません。
 しかし、消費者による選好を価値の源泉として考えるような経済の見方は、間違っています。
 そもそも、消費者の選好では、事業者による需要の見込みに確実感を与えるのに限界があります。つまり、増大する供給力を消化させる需要を創りだせない。


 ですから、ここは民間需要ではない、政府による公的な需要を考えるべきなのです。
 つまり、先ほど展開した、短期的で呼び水効果的な財政出動に留まらず、長期的に、恒常的に、政府の支出規模を増やして行くという方向です。
 言い方を変えれば、資源配分において、市場に頼っていた部分を、何割か政府の恣意的な決定に預け続けるということであります。

 たとえば、公共事業も、単にデフレの解消という期間限定のものではなく、毎年、恒常的に20兆、30兆の規模を確保する。土木や建築の公的な支出に伴い、我々の供給能力が、土建産業として消化されていくでしょう。その土建産業として消化された供給能力は、国土を整備し、交通をより張り巡らし、国民統合を促すという国家全体の益としての需要を満たすはずです。

 あるいは軍事産業にしてもそうです。高い軍事費を恒常的に政府支出として計上すれば、我々の生産能力を軍事産業として消化させ、国家全体の益としての需要を満たす。

 さらに、国会議員の定数や公務員を増やし、彼らの給与を上げるという策も必要でしょう。
 これは性質的に、短期的な財政出動として考えることは不可能でした。しかし、恒常的な政府支出の増大として考えるならば全く問題はないはずです。
 議員や公務員の増大と潤沢な給与による人材の確保という形で、より我々の人的資源を投入できれば、強靭な政府を形づくることができる。
 また、公共事業、軍事費、社会保障にいたるまで政府支出を拡大していくのであれば、これを捌く政府そのものも大きくしなければならないのは当然のことです。



 対して、我々の増大した供給能力を「輸出によって消化すべき」というヴィジョンを抱いている者が多い気がしますが、そういう考えは決定的な間違いを犯している。というのも、輸出とは、輸入をするために行うものであり、長期的な生産能力の過剰を消化する為には最低限度、軍事力を背景にした国際政治力が必要になるからです。また、もし日本にそうした軍事力があったとしても、過度な輸出、輸入の摩擦は、経済を安定づけることはできないはずです。



 以上のことから、我々の増大した供給能力を消化する新たな需要は、おおむね「大きな政府」として方向づけられるべきなのだと、私は考えるのです。



(了)


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