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日本が日本であるために

主に政治、経済、時事、国家論についてなどを書きます。日本が日本である、ということを主軸に論を展開していきたいです。

 

【読感文】藤井聡『プラグマティズムの作法』 



 今日は、京都大学の藤井聡教授の『プラグマティズムの作法』というご本の読書感想文を。

 プラグマティズムという語は日本語だと、実用主義、道具主義、実際主義……などという風に言われます。ですから、この題名から、単に「物質的、数値的に実用的で役に立つことをやれ」というような自己啓発的な内容を思い浮かべるかもしれませんが、ここで言われる「プラグマティズム」とは、そういうことではありません。

 簡単に、私流に要約させていただくとこうです。

 力と効果は不可分である--つまり、全ての行為(力)は、実は何らかの意味で実用的(プラグマティック)にしか存在しえていない。また、その実用(効果、目的)も、より上位の目的が前提されていて、さらにその上位の目的の目的の目的の……というように言語的な物語が(意識的にせよ無意識的にせよ)前提にあってはじめて行為(力)という概念は存在する。だから、力を考えずに効果だけを論じたり、効果を考えずに力を考えることは、人間の実際を反映していないという意味で虚像だ、というのがプラグマティズムなのです。
 そして、その効果(目的)の効果(目的)の効果(目的)……と突き詰めていくと、人は誰しも無意識的にせよ抽象的な神秘の領域(世界観)から物語上の目的が下ろされている、と考えざるをえなくなる。さらにここでは、善の世界観に帰着するプラグマティズムと、悪の世界観に帰着するプラグマティズムが存在することを前提にしています。
 この本で提示されているのは、こうしたプラグマティズムを基礎とした哲学的な人間の解釈と、この人間解釈上で言える二つの「作法」についてであります。
 第一の作法は、その行為(力)がいかなる効果(目的)を持っているか、さらにその効果の効果の効果……という物語的経路がいかなるものかを「自覚」しようとすべきだ、という作法。
 第二の作法は、その自覚された物語経路を、正統なる信仰の体系に沿わせようとする……つまり、善の世界観を持つプラグマティズムにせしめようとするべきだ、という作法であります。


 私がこの本をはじめて読んだ時は、いわゆるプラグマティズムの哲学と、ウィトゲンシュタインの哲学を関連付けて論じている所に面白味を感じたものでした。そうした藤井教授の言葉遣いの妙は、本を非常に取っ付きやすくしてくれています。また、その意味でプラグマティズム入門、ウィトゲンシュタイン入門としても有効ですよ。


 加えて最近、この本を読み返して、以下の二つのことを考えたので、それを今回の感想と致します。

1、
 まず、こうしたプラグマティズムの作法を考えた時、物語経路の自覚と、善なる世界観に帰着しようとする意思の、どちらが欠けていても作法に合わないということに注意が払われるべきということです。というのも、それならばプラグマティズムの作法に欠けた人間というのは二種類いることになりますでしょう?
 要は、無自覚か、開き直っているかの違いなのですが、この事は同じく藤井教授の『大衆社会の処方箋』で述べられている大衆の分類、つまり「自己閉塞性」と「傲慢性」に関連付けて考える事ができる。
(『大衆社会の処方箋』の読書感想文もまた書こうと思います。)

2、
 このような、ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」といった神秘の領域を前提としたプラグマティズムを考えると(あるいはプラグマティックに力の効果から神秘の領域を想起するとなると)、やはり西洋人のような「神(ゴッド)と私の関係」を、我々日本人は持ち合わせていないし、持つべきでもない……という問題に突き当たります。
 これは、我々日本人が近代(モダン)というものに直面して以降一貫して抱え続けている問題で、だからこそ我々は「語りえぬもの」をあえて語らねばならなくなっている。
 しかし、この神秘の領域をあえて語ろうとすると、何となくボンヤリした話に見えてくるのが難しい所。でも、ほんとうのほんとうは、確かなるもののはずなのですよ。
 藤井教授は、この『プラグマティズムの作法』において、それを「太陽」という言葉で表現しました。しかし、太陽の事を持ち出した後半は、パースやウィトゲンシュタインを持ち出した前半よりも評価されていないという風に聞き及んでいます。そういう事を聞くと、本当に難しいなあと思うのですよ。と言うのも、この本で藤井教授がほんとうに言いたかった事は、「太陽」のことに違いないからです。



プラグマティズムの作法 ~閉塞感を打ち破る思考の習慣 (生きる技術! 叢書)





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【読感文】「小林秀雄 学生との対話」 



 今日は、『小林秀雄 学生との対話』というご本を。
 これは、全国から集まった学生に向けて小林がした講義と対話を纏めたものです。編集が国民文化研究会・新潮社。出版は新潮社。


 小林秀雄の書くものは確かに難解です。たとえば私は(あれは二十歳代の中盤だったか)、かの小林秀雄の出世作だというから『様々なる意匠』を油断して読み、終わる頃には単に青色吐息になったという苦い経験があります。


 しかし、難解で取っ付きにくいと思いつつも、「小林秀雄」に興味のある方は大勢いらっしゃるでしょう。なにしろ、日本における近代文芸批評の祖といわれていて、しかも日本の保守思想の重鎮と考えられている。その上、いわゆる「保守的な政策提言」のようなものをネームバリューを用いて大々的に主張した様子もない。
 ならば、「政治」から離れた上での「批評」というフォーム(姿)だからこそ含みうる保守思想の普遍的エッセンスを抽出して、是非とも自らの養分にしてみたい……という風に、多くの人が思うのではないでしょうか。


 そういう小林秀雄の思想と親しくなるきっかけとしての良書が、今日紹介している『小林秀雄 学生との対話』というわけです。

 学生との対話ということはつまり、小林秀雄の「はなし言葉」ということであります。ですから厳密にいうと、これは小林秀雄の著作ではありませんが、小林秀雄の仕事ではある。そして、相手は学生でありますから、学生にも理解が可能なような語りかけであらねばならないわけです。

 これがなかなか読み進めやすい。
 また、はなし言葉だからといってあなどれなくて、その講義、対話の中から小林秀雄の人間の一端のようなものを垣間見ることができます。

 たとえば、小林は批評の中で人を褒めます。はなし言葉でもそれは同じです。本居宣長を褒め、柳田國男を褒める。しかし、注目すべきは、その「褒め方」「褒めどころ」なのです。
 小林は、その創作人の「私」としての直覚、信仰、主観といったものを重視します。
 対して、万人に通用するような分析の手法、制度、数理科学、客観といったものをそれ自体として評価しません。もちろん小林とて、分析や客観を蔑ろにするわけではありません。手段として、手法として、分析や科学を駆使すべきであるとは言っている。ですが、小林が感動し、褒めるのは、創作人の直覚や信仰といった主観性なのです。だからこそ、小林は政治的イデオロギーといったものを嫌い、政治的な群れを嫌い、政治的制度論については論を伸ばさないわけであります。

 そういう態度は「実存」と「保守」と「実践」の問題としてさらに複雑な問題を孕んでいるようには思われますが、少なくとも小林秀雄の「姿(フォーム)」が、はなし言葉の中からも大いに見て取れることだけは確かです。ですから、講義、対話といった「はなし言葉」はあなどれないのであります。


 また、一度そうした小林の姿(フォーム)に触れておくと、たとえば『様々なる意匠』なども捉えやすくなる。要は、「はなし言葉での姿」が頭の中にあるので、その「書き言葉の姿」も同じ人物の心の連続の中にある……という風にイメージしやすくなるからであります。

 ただ、そうやって小林秀雄の「話し言葉の姿」「書き言葉の姿」に少々触れてみても、その姿をモノに出来ていると思うのは勘違いです。たとえば、私がこうやって本の紹介をしているのは、小林の言葉の「意」を似せているに過ぎません。その言葉の「姿」を似せようとするならば、やはり読書百遍が必要になってくる。
 しかし一方、読書百遍にしても最初の一遍からだし、また、非凡な創作者の姿(フォーム)に触れてゆくにも最初の一冊からということも言えるでしょう。



学生との対話 小林秀雄(国民文化研究会・新潮社)





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【読感文】「西部邁の経済思想入門」 




 今日は、『西部邁の経済思想入門』というご本を取り上げさせていただきます。

 この本は、西部邁氏が、西洋における経済思想の歴史を概説してくれている本です。出版は放送大学。私のような素人にも取っ付きやすく、それでいて本質を失わない、丁寧なまとめがされている素晴らしいご本です。


 肝は、経済における「思想(前提とする考え方)」の「歴史」というところにあります。
 ともすると経済(学)は、その経済学的「理論」のようなものを突き詰めて行けば、社会の純粋型、平均型としては整合する……と誤解されていることが多いように思われます。つまり、経済を、物理学のように数理的に理論化すれば、合理のみに基づく「指針」を示すことができるのだ、というイメージです。
 しかし、経済は、人間の主観性や社会(人間交際)の中に埋め込まれてあるものなのですから、「経済学」の物理学的理論で普遍的な解釈がまとまるものではありません。いかなる理論も、必ずその理論の前提となる「思想」と絡み合う形で提示されているのです。

 しかし、「思想」といった人文系の領域は、必然的に数値的精緻さを失います。そうなると例えば、「経済についての前提、倫理はこれこれこうあるべきだ」といったような「べき論」を、基準やアタリのようなもの持たずに論じあっても「それは彼の考えだ、だが私の考えはこうだ」みたいに相対化されてしまいがちでしょう。すると、結局のところその時々の「多数」の思想が勝利をおさめることとなってしまい、経済理論の前提となる思想も単なる多数の雰囲気の代弁者に惰することになる。しかもそれは、「数値」という権威だけは付与されているわけで、余計にタチが悪い。

 ですから、思想の領域には特に、「思想の歴史」というものを基準やアタリとして用い、相対主義を可能な限り排す必要があります。また、ここまで西洋近代(モダン)を呑み込んでしまった我々は、経済についても西洋の経済思想の流れ、経緯が無視できないし、無視できるとすることがかえって一面的なウルトラ・モダンに走る要因にもなっている。

 その「西洋経済思想史」を捉えるために一番良いのは、おそらくアダムスミスやマルクス、リカードやマルサス、ケインズやハイエクといった時代を代表するような経済思想家の原典を読みこなし、自分なりの「経済思想史の系譜」を構築することでしょう。
 しかし、それはいわば達人の所業であり、一朝一夕で出来ることではありません。
 また、例えばケインズの『一般理論』を読むにしても、ケインズがどのような経緯の上でそのようなことを言いたくなったのか、という流れのイメージがなければ、中々苦しいものがあります。また、素人が(翻訳された)文面を目で撫で、少しかじった程度では、変な誤解をしてそれを思い込んでしまう危険性もある。

 ですので、素人がまずその流れのイメージをつける為には、「経済思想史の系譜の構築」からして、まずはその道の達人の概説を参照しておくのが無難です。
 ひとまず達人の概説によって西洋経済思想の歴史の流れの全体像を掴み、それから一つづつ原典にあたって、頭の中で肉付けをして行けばいいのではないか、と思うわけです。少しカンニングめいていて気が引けますけれどね。

 ともあれ、そうした達人による概説として『西部邁の経済思想入門』は掛け値なしに良著です。

 また、この書は、同じく西部氏の『ソシオエコノミクス』を読みとく補助教材としても役に立ちます。『ソシオエコノミクス』の読書感想文も、また書けたらいいなと思います。


 
西部邁の経済思想入門 (放送大学叢書)
 




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【読感文】三島由紀夫「奔馬」、感想 




 今日は、ちょっと前に読んだ三島由紀夫の『奔馬』の感想を。ネタバレの問題が出ない範囲で。

 これは、豊饒の海・第二巻なので、本来一巻目の『春の雪』から読むべきだったのでしょう。けど、聞き及んでいた粗筋から一巻はすぐに読む気がしなかったのと、二巻に非常に興味が湧いたことで、邪道ながら『奔馬』から読んだというわけです。

 何と言うか、腹のそこから熱湯が込み上げてくるような読後感でした。というのも、主人公の飯沼勲に「特攻隊」を見たからです。逆に言うと、特攻隊の心映えはきっと飯沼勲のようだったに違いないのです。

 それで私はこう思いました。現代人が、特攻隊の瞼の裏にも昇ったであろう日輪を疑って彼らを「可哀想な特攻隊」扱いするのは、ちょうど飯沼勲が警察からアカのように拷問されなかったのを痛切に不本意と思ったがごとく、特攻隊にとっては不本意であるにちがいない、と。

 でも私、勲の容貌は『潮騒』の新治のイメージで読んでいたんですよね。新治のような生活の純朴さと、勲のような暴力の純朴さは、どこか繋がって表裏一体のもののように思われます。

 ちなみに、鬼頭槇子のイメージは『愛の渇き』の悦子でした。
 三島由紀夫の作品によくでてくる、ただ生きるということが凄まじく辛そうな美女って耽美ですけどゾッとしますね。


奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)





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