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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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公務員給与倍増計画 

 私は本当に不思議で仕方ないのです。デフレで、これだけ給与や賃金の事が言われる中で、何故、「公務員の給与を上げろ!」という声が聞こえて来ないのか、という事が……


 公務員給与倍増だなんて反対だ……という方には無理にとは申しませんが、そうではない方はランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。





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 当たり前ですが、民間企業の給与は政府の政策ですぐにどうすることなどできません。それは、市場のコンディションの中での、労使の問題に帰着するからです。

 しかし、公務員の給与は、政府の『計画』ですぐに上げる事ができます。


「国民の給与の上がらない事が、消費の落ち込み、需要の落ち込み……つまりデフレの原因で国力停滞の原因だ」

 という風に、国を憂いている人は結構見かけますが、それならば何故、まず第一に政策で即座に上げることができる公務員の給与を「上げるべし!」と請求しないのでしょう。

 よもや、公務員は国民ではないとでも思われているのでしょうか?
 それとも、その憂国の情は、実の所、「(自分の)給与を上げろ!」という請求を虚飾したもの……あるいは、そうした請求を代弁したもの、なんじゃあないでしょうか?


 意地悪を言うようですが、これは極めて重要なポイントです。


 本当に「国民の給与が上がらない事」が問題だと思うのであれば、自分が公務員でなくとも(いや、公務員でない者こそ)「公務員の給与を上げろ!」と言っていなければウソです。偽善です。

 世の中の政治的『デモ』や『活動』のようなものは(ネット上のものを含めて)、大抵こうした偽善の映し鏡です。何故ならそれらは、自分の為にケンリを請求をするか、左翼が気にくわないとか、右翼が気にくわないとか、権力が気にくわないとか、金持ちが気にくわないとか、貧乏人が気にくわないとか……そうしたことでしか主張を行わないでしょう。



 そもそも、バブルが弾け、銀行が潰れ、デフレ状態に入って行かんとする際に、日本人どもは公務員についてどう言っていたかご記憶でしょうか?

「不況で民間が喘いでいて、リストラ云々で『痛み』を負っているのに、官僚をはじめとする公務員には『痛み』が回って行かないではないか!」

 というような丸出しの僻み根性を、ほぼ休みなしに発揮し続けてきたでしょう。
 私は子供ながら、そういった言説を聞く度に、酷く陰鬱な気持ちになったものです。つまり、大人が気持ち悪かったのであります。


 さらに大衆は、「公務員の給与を削減すれば、自分たちの所にその分が幾ばくか回ってくるだろう」とでも思っていたに違いありません。
 ところがこれが逆なのです。
 なぜなら、民間の企業は、公務員の待遇を基準とするところがあるからです。それは公務員の待遇が、民間で労使の長期的関係性の『基準』として捉えられている部分があるからでしょう。
 もっとも、給与水準についての理論は経済学では色々言われていて面倒なのですが、これだけは言えます。
 すなわち、不況下で公務員給与を下げれば民間の給与水準もそれに併せて下がる……と。


 今の日本人は、この十年、二十年発揮し続けてきた醜い僻み根性の報いを受けているという一面もあるわけですから、「きちんと生活を苦しまなければならない」とすら私は思います。(私も含めて)

 ただ、それだと日本はコロっと滅びてしまうので、今からでも「公務員給与倍増計画」を声高く請求してはいかがでしょうか?

 しかも、それは公務員がやってもあまり意味はありません。
 公務員ではない人々が、「公務員の給与を増やせ!」と請求できてはじめて意味があるのです。つまり、「自分自身の事ではない請求」だという意味が。
 また、私何ぞは、そんなことが起これば「痛快だ」とすら思います。


 そんな痛快さのみならず、公務員の給与から増やすのが、国民全体の所得上昇の最も現実的な筋立てなのです。
 なぜなら、公務員の給与が上昇すれば、企業は人材確保の為に給与を引き上げざるをえなくなりますでしょう?
 勿論、生産費用がかかるようになって、海外での価格競争に勝てなくなるかとは思いますが、そんなもの問題ではありません。自衛隊員の給与も上げれば、きっと軍事力で我が国の市場を保護する事ができるようになるはずです。



(了)
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Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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仮にそれが『移民政策』でなかったとしても…… 

 私がこの件で言いたいのは、仮にそれが『移民政策』でなかったとしても、外国人労働者は受け入れは拡大してはならない……という事です。


 労働供給力不足があれば、そのつど外国から出稼ぎを集えばよい……という強い主張をお持ちの方には無理にと申しませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。





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 新成長戦略における、外国人労働者の受け入れ拡大の話題につきましては様々な方向から批判が相次いでおりますし、実際その通りだと思うモノが多々ありはするのですが、あまりに技術的、表面的に多彩な議論が飛び交って、常識的かつ根本的な所が見失われがちのように思われます。

 常識的で根本的な所というのは、
「人間は基本的に定住して社会を築く生き物である」
 という所です。

 そう。要はこの一事さえ分かられていれば良いのです。

 極端な話、この事が分かられていれば、仮に政府が法規をどうこうしようと、どうって事はない。
 逆に、仮に法的に移民政策に至る事を阻止できても、この事が分かられていなければ、駄目なものは駄目なのです。


 これを詳らかにする為には、
「部分部分の労働供給力の便宜として、外国人労働力を『短期的』に拡大する」
 という発想について、これを徹底して否定せねばならないでしょう。

 つまり、仮に、「治安悪化」とか「反日スパイ」について政府が完璧にこれをクリアしたとしても、あるいは、少数の「高度技能人材」以外には永住資格が与えられなかったとしても、外国人労働者の受け入れ拡大は社会・経済に悪影響を与える、と言いたいのです。
(加えて言えば、仮の仮に、このことが日本人の給与の下げ圧力に一切ならなかったとしても、です。)

 要するに、もし、それが短期の出稼ぎであっても、日本人の給与の下げ圧力にならなくとも、地球上に反日勢力というものがなくとも、「労働供給力の便宜として、外国人労働力を短期的に拡大する」という発想そのものからして間違っているから、上手くゆくはずはないのであります。

 このことが意外に論じられていないのが気になって仕方ありません。

 常識に基づけば、最も重要なのはこの事なのです。反日勢力のスパイ行為を助長するとか、外人に永住権を渡してしまって移民政策になるとか、一般の日本人の給与が下がるかもしれないとか、そういう事はそれはそれで大変な話ではあるけれども、(誤解を恐れず申せば)表層的な問題に過ぎません。

 もっとも問題なのは、「その時々で労働供給力の足りていない部分に、外国人を適宜投入する」などという陳腐で餓鬼くさい戦略が、現実世界で上手くいきっこない、ということが日本人に分かられていない所にある。
 何故これが問題なのかと言えば、そんなことはふつう常識で分かられている事のはずだったからです。

 その「非常識」は、「人間の理性についての過信」とも言えるし、「国家・人間社会を異様に単純な模型として考える傲慢」とも言えます。


 そういうわけで、新成長戦略で言われているような外国人労働者受け入れ拡大というのは、仮にそれが『移民政策』にならなかったとしても、戦略として「非常識」かつ「合理性についての過信」であるから駄目なのです。
 常識ある大人であれば、移民政策云々の以前に、そもそも「短期の外国からの出稼ぎ」を利用して経済を上手く回す……なんて戦略は空理空論甚だしい、と思わなければ嘘なのであります。

 このことについては、さらに掘り下げてみましょう。



(つづく)

Category: 政治

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移民政策にかんする序章 

 これから、いみ……外国人労働者受け入れ拡大について、少し触れてみようと思います。これは、その序章。


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 もっとも、「いみ……外国人労働者受け入れ拡大に反対!」などというのはおそらく大学生でも言える事ですのであまり話題にはしたくありませんでした。

 いや、そもそも、去年の始め頃に「アベノミクスを金融緩和重視で考え出す事」と、今年の「外国人労働者受け入れを含めた新成長戦略」とは完全に直結しているのであります。(間にTPPを入れれば分かりやすいでしょうか?)ですから、前者の流れを礼賛して「共通の事業」を無視してきた大衆には、後者を拒否するケンリはないのです。

 また、もし安倍首相を批判をするのだとしたら、「新成長戦略は、金持ち優遇で弱者をイジメだ! 安倍は人非人だ!」とやってもらっては困ります。
 安倍首相が非難されるとしたら、安倍首相が『大衆』あるいは『大衆の代弁者』となって三本の矢を放ちはじめ、「共通の事業」を指し示さなくなった所が焦点とされるべきです。新成長戦略は大衆理論の帰結なのであって、怒りでこの事を忘れてもらったら困る。
 言い換えれば、そもそも悪の根元は大衆なのであって、安倍首相は「首相でありながら大衆である」という所に限って糾弾せらるべきなのです。ですから、もし、その『弱者』が『大衆』なのだとしたら、弱者であったとしても安倍首相批判に走るケンリはない。「大衆的小市民」が、「大衆的首相」を批判する事は許されないのです。それらは共に『大衆』として糾弾されるべき側なのですから。


 そういえば、(人事の経緯からして別に擁護したい人物ではありませんでしたが、)白川元日銀総裁というのがいましたでしょう? 今の『新成長戦略』は、去年の重要な時期に「白川を討て」とイジメに走った小市民(あるいは傍観者)が今度はイジメられる番になったというだけ、という一面もあるわけです。そう、イジメとは順番で回ってくるのであります。散々人をイジメておいて、自分がイジメられる番になった時だけこれを拒否できるなどと考えるのは、あまりに都合が良すぎでしょう。
 たとえば、少なくともそうした小市民だけは、新成長戦略でもって淘汰されることを拒否するケンリは絶対にない。もうやり直しは効かないので潔く淘汰されるべきなのです。

 しかし、リフレ派および小市民ら(大衆)が、「頑張っている俺たちが報われないのは、日銀が仕事をしていないからだ!」と吐き散らかした帰結によって、放った矢の進路が180度曲がり傷つけにかかる対象は、彼らだけではないのが大問題です。

 つまり、歴史的な既得権益の下で、ふつうに黙って魚捕ったり、稲育てたり、モノ作ったり、運んだり、床屋やったり、饅頭作って売ったりしているだけで、おおよそ政治に口出しなどしない『庶民』にも矢は降り注ぐのです。
 あるいは、かくのごとく国家に矢尻の向く事は、国を造りあげてきた先人に対してはほとほと申し訳なく思うというもの。



 せっかくのアベノミクスを、リフレ派と小市民(大衆)が台無しにしてしまったこの一年半を振り返ると、いみ……外国人労働者受け入れ拡大を始めとする新成長戦略をどうこう言う気力は殆どなくなります。つまり、大衆を含めて擁護することになってしまうから。

 しかし、当ブログは一応『日本が日本であるために』と銘打っているわけですから、日本に保守すべき領域がまだ残されているという前提に立たねば何を言う意味もなくなってしまいます。つまり、この日本に、大衆ではない、『国家国民』の領域がまだ残されているという前提です。それは、国家の歴史的相続財産を既得権益として享受し、生活する、日本国民による共同体の領域のことです。
 この、国家国民の領域を、安倍政権を映し鏡とした『大衆』が破壊しにかかることに対する批判として、移民政策や新成長戦略をどうこういう言う意味が出てくるのであります。

 逆に、これより私が移民政策を批判する場合も、単に「何ら共通の事業に加わろうとしないくせに、弱いというだけでケンリを請求しにかかる小市民が、外人から迷惑を被る事を危惧して」のことではないのは、どうか分かっていてもらいたいものです。



(了)

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関岡英之先生と産経新聞、および言論について 

 先日、私の拙稿日本国憲法の諸問題を掲載いただいたASREADという言論サイトにて、関岡英之先生が次のような記事を執筆されておりましたので、ご紹介申し上げます。

「移民問題トークライブ」に関わる産経新聞本社の不可解な対応をすべて暴露
http://asread.info/archives/932


 この件に絡め、今日は「表現における大衆からの自由」について。

 新聞、テレビ、大衆メディアが大好き……という方には無理にとはいいませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。




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 関岡先生の件におきましては、まず何よりも産経新聞の編集に真が無いということに尽きると思います。これをやられたら言論人はたまらないのであって、氏の胸中は察するにあまりあるというもの。

 ただ、情報を『大衆』へ大量に販売せしめて利潤とす、という産業ーーつまり、マスコミ産業ーーがすることですので、振る舞いに下賤な所があって当たり前だ、ということも一つ考えておかねばなりません。これは別に、「当たり前だから仕方がない」と言っているのではなくて、「大衆報道産業なるものが正しくなることは永遠にない」という当たり前のことについてのささやかな確認です。
 またこれは、このことをもって「産経新聞までもが、中国共産党の手先と化したのか!」というような一途だが筋肉質で単細胞な議論に堕する事への避雷針でもあります。

 つまり、いくら「保守っぽい」ことを言っていても、産経新聞とはしょせん大衆新聞なのです。

 大衆新聞であるから、『大衆理論』から逸脱したものを書くのを避ける。これは殆ど大衆新聞の習性とすら呼べるもので、つまり彼らの『表現の自由』は、「大衆と利潤」に制限されているということ。

 結論を申せば、『正論』の存在や「移民問題トークライブ」の内容は、「大衆理論」に適合していなかったからこそ、大衆新聞によって大衆理論に適合する形へ歪曲されてしまったのだ……と考えるべきだということです。



 もっとも、正直に申しますと、私は、主催者の『正論』の論調や「移民問題トークライブ」の内容全てに、頭っから論を同じうする者ではありません。(移民についての論考についてはまた後日書きます)
 しかし、大衆理論に屈しないこうした言論は、人に物事を考えさせる一つの切っ掛けに成り得るはず。この場合、移民というものが、人や人の集団にとってどのような事か……ということを想像しはじめる切っ掛けになったはずです。
(特に関岡先生はそうした事を意識しつつ、あえて分かりやすく反日国家からの戦略的移民に焦点を絞って論を展開されたのでしょう。それも、あのように歪曲されてしまっては台無しです)

 私は『表現の自由』という言葉が大嫌いですが、そうした意味では表現は自由であるべきなのです。つまり、表現、言論は、「大衆(および利潤)」から独立していなければいけない、という意味で。

 勿論、「表現の自由」は、金科玉条の価値として崇められるべきものではありません。というのも、いかなる表現も『正統なるタブー』は侵してはならないからです。
 分かりやすく単純に言えば、「皇室タブー」を侵す表現の自由などあってはならんでしょう。皇室タブーだけではなく、国家、社会、共同体には「タブー」があり、中には「正統なるタブー」が存在するのであるから、これを侵す「表現の自由のケンリ」など、何人たりとてありません。

 ただ、表現および言論は、「大衆(多数者)」からは自由であるべきなのです。何故なら、大衆、多数者の雰囲気をそのままで大量に代弁し、流布する言論は、国家、社会に害悪以外の何物ももたらさないからであります。

 マスコミは「表現の自由」を副将軍の印籠がごとく掲げはするけれども、実の所、彼らの表現の自由は『大衆』に雁字搦めに制限されているではありませんか。
 民営報道は、少数派ーーつまり異端言論を歪曲せずに報道してはじめて人に考える切っ掛けを与えます。彼らは、この一時においてのみ天下国家に貢献しうるのであって、単に「これがありました」「あれがありました」という事を大衆目線でしらしめるだけであれば、大衆向け報道機関はすべて官営にしてしまえばよろしい。

 そう、産経新聞を含め、寡占的巨大マスコミ……大量の情報を大量の人間へ報道する巨大な機関というものが、民間の手にあること自体、不健全なのです。何故なら、大量の人間へ向けて報道し利潤とするのであれば、言論が大衆から強い不自由を受けないわけにはいかなくなるからです。

 メディアの寡占化は政府によって『規制』されて然るべき領域でしょう。そもそも、民営報道機関がある程度の規模以上に成長し、報道市場を席巻する事は規制されなければならなかったのです。

 こうしたことを言うと、「表現の自由の侵害だ!」とのたまう輩もおられるでしょうが、そうではありません。民営大規模メディアを規制によって廃止すれば、メディアは『大衆』から解放されるではありませんか。つまり、中、小規模メディアとして。

 言論を大衆の従属下に置かない為……もっと言えば、言論を大衆から保護する為、民営報道機関の規模には制限がつけられて然るべきではないでしょうか。「表現の自由」における最大の敵は、政府ではなく大衆なのですから。



(了)

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現代日本の開化、および没落 

 これは、前回の「自由放任と民主主義のジレンマ」の補論として書いたものが、書くにしたがって随分と深く掘り進め過ぎてしまった散文です。

 また、今回は少し難しい事を言うかもしれませんが、なるべく易しく書きますので、どうか一読くださればと存じます。


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表紙6


 まず、私は何も安倍首相の就任の時点で「日本がもうだめ」になったとか、そういう事をいっているのではないことを是非とも分かっていただきたいのです。
 日本がもうだめ……というのは、我々の天下が「近代=モダン」なるものを受け入れている以上、国家は必ず「没落」に向かっているという意味なのであります。


 近代=モダンというのは、元々「文化圏」ですとか「共同体」ですとか、そういった土着の歴史感覚を引き継いだ民(ネイション)が、道具(ステイツ)として使う分には、「進歩」をもたらしてくれます。
 何故なら、この世代の人々は、近代的な道具の諸々を使う『常識』というものを保持しているからです。
 しかし、世代を越えるにつれ、ステイツ(道具)の方がネイション(人)の原理原則を方向付けるようになってゆく。それは、共同体における常識を「保守」させることよりも、道具の発達による「進歩」が求められてしまうからです。
 そうなれば、「近代」は道具としての意味合いすらなくなってしまう。そして、常識(コモン・センス)を失った民々を救う手だては基本的にない……という意味で、「日本はもうだめ」なのです。
 これは、ほぼ運命的予定調和論と言って良いかもしれません。

 つまり分かりやすく言えば、我々は江戸時代まで我々の「天下」において「常識」を育んできた。ですから、明治以降、その常識に基づいて近代という道具を操ることができました。
 或いは、大東亜戦争まで、我々は何とか共同体の歴史や常識を保持しようという努力をしてきた。ですから、戦後の体制……つまり、日本国憲法という非常識な道具(ステイツ)であっても、歴史的に残された常識でもってそれを運用する事ができた。

 しかし、そうした中で、世代を越えるたび、元々道具であった「法」や「システム」や「科学」といったものが、常識の方に浸食してくる。


 たとえば、同じ「民主主義」という言葉ですら、現在の日本人が用いるそれと、五十年前の日本人が用いるそれでは、圧倒的に違う。
 民主主義という言葉を、「民に政治決定権がある」と捉える仕方は、戦後においてはタテマエだったのです。(尤も、当時の人々はタテマエだとか自覚して振る舞ってはいないでしょうけれど。)
 そもそも常識的に考えて、政治における民の具体的な意見など、政治決定に反映されたら大変な事になるでしょう?
 そんなこと、誰しもが分かっていたから、民主主義とは
「民の為の政治」とか
「国民が生活の中で育んだ常識を政治に反映させる」とか
「国民の道徳的判断を重んじる」とか
「民が、人柄をもって代表を選出する」
という事だと、本音では思っていた。
 つまり、世論ではなく、輿論。共同体の歴史という土台に乗った民の論を活かす……という姿勢を民主主義だと、皆思っていたのです。
 だから、戦中世代が引退するまでは、民主主義も市場経済もそこそこ上手く行っていた。

 でも、今言われている民主主義は、これとは違うでしょう?

 いわく、政治家や官僚が馬鹿だから、民の政治的意見を啓発して、高尚な世論を形成して、正しい政治を行うべし……といった調子でしょう。
 でも、本当に常識的に考えていただきたい。
「民の政治的意見を啓発して、高尚な世論を形成して、正しい政治を行う」
 なんて事が、(どのような方向であっても)できるわけないじゃないですか。何故、この事を誰も口にしないで、綺麗事ばかり述べ立てるのか。


 ですから、たとえば「自由放任の経済体制が問題である」と言うことを国民一般に広く政策的知性として啓蒙したとしても、絶対に上手く行くはずはないんです。
 何故なら、そもそもそうした政策知性を一般に共有しようとすること自体空理空論甚だしいし、そうした政策知性を用いる共同体の常識の方が既に失われているからです。

 また、もし「自由放任の経済体制が問題である」という政策知性が世間一般に広まったとしても、世間一般に広がるという時点でそれは致命的に単純化されているはずでありますから、そうした世論に従属した政策論も必ず致命的に単純化されたものになります。
 これは、反民主党が単純化されれば自由放任となり、反小泉が単純化されれば民主党になるといった手合いの出来事によく現れているでしょう。

 そうした政権へのアンチ、またはアンチのアンチ、といった指向から、何ら有意義なものが生まれなかったのは、それがつまりは道具(ステイツ)の問題だからです。
 そもそも、道具を使う母胎であるところのネイション(共同体の網の目)が損なわれているのが問題なのに、いくら道具としてのステイツを改善しようとしても空回りするのは必定でしょう。

 このことが分かられた上で、安倍首相がどうとか、政策がどうとかといった話がされているのであれば、私は文句を言いません。道具の議論も必要は必要なのですから。ただ、それはネイションをステイツに活かす為の、プラグマティックな実践として議論される限りにおいて価値づけられるものです。

 逆に、有機的な共同体や文化圏を強靱化せねばならぬという問題意識なしに、いくら首相や政権や政策について緻密に議論しても、それは目的なき方法であり、プラグマティックにならんでしょう。



 尤も、日本のネイション……歴史的、有機的な共同体や文化圏を取り戻すというのは、ほとんど不可能なことです。一度失われた共同体は、覆水盆に返らず、あとの祭りなのです。
 また、先ほども申した通り、それは近代を受け入れざるをえなかったという時点で、没落の運命的予定調和に陥っていると認めざるをえない。

 私の言う「日本はもうだめ」とはこの事です。

 しかし、没落が運命的予定調和である事を自覚した上で、「運命を拒否する」という立場はとりえるのであります。それは、意志の問題なのです。
 逆説的に言えば、没落の運命を自覚し、それを拒否する意志を持った者が一人もいなくなった時、日本は滅びた事になるのでしょう。
 また、そうした自覚と意志を携えた者がたとえ少数でもいる限り、運命はバタフライ効果的に変わるはずです。そして、この事だけが私の信じられる唯一の事なのであります。



 今回は、だいぶ抽象的な事を言っていると思われた方も多いかもしれませんが、抽象的だからといって「あやふや」なものだと思ってもらっては困ります。これは抽象的ではあるけれど、確かな事なのです。



(了)

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