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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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21世紀の世代間格差の性質(改) 


 今日は「21世紀の世代間格差の性質」について述べようと思います。

 私が最近「世代間格差」というものに焦点を当てて論じているのは理由があります。
 
 それは昨今、
 
「全世代型の社会保障」
 
 というチープなものがインテリ界隈で流行っているように思え、これがムカつくからです。
 
 果ては、安倍首相までもが選挙で「全世代型の社会保障」を大義に掲げて戦おうとすらしているシマツ。
 
 そう言えば、今年イギリスの保守党が大幅に議席を減らしたのもそれが原因でしたね。
 
 つまりこーゆーのがグローバルにインテリの流行だというわけ。
 
 
 で、私がこの世で一番ムカつくのは、ウヨクでもサヨクでもなく、こーゆー「インテリ流行」の「安っぽさ」なのです。



時計
 
 

 まず、私が前提として強調したいのは、
 
1「現代の世代間格差は、少子高齢化から生じているのではない」
 
2「現代の若者の負担感は、老人福祉に対する税や社会保険料が主たる原因なのではない」
 
 ということです。
 
 
 
 また、もうひとつ強調しておきたい前提は、
 
3「世代間格差というものはいつの時代にもある」
 
 ということです。

 いつの時代の若者にもその時代なりの「苦しみ」と「アドヴァンテージ」があり、「どの時代に若者をやっていた方が特で、損だ……」みたいなことを言うことはできません。

 また、人間にそんな不満を述べたてるケンリなどありはしないでしょう。

 ただ、

「その時代特有の苦しみとアドヴァンテージ」の「性質」

 を見極めることは大切なことだから、論じようとしているだけです。

 だから、私は別に「自分が先の十年間若者をやってきた頃の不満をぶちまけたい」というのではないし、また、「現在の若者に対して媚を売ろうとしている」わけでもない。
(※その点は信用いただく以外にないですけれど)



 ◆



 では、何が「21世紀特有の世代間格差」というべきものなのか。

 
 今日第一に、着目して欲しい点は、
 
「消費者としての私」
 
 と
 
「働く者としての私」
 
 という観点です。
 
 
(※この観点は、「弱者と強者」という観点なんかよりもよっぽど重要な切り口だと、私は考えています。)
 
 
 
 よく言われることですが、現代は「消費者としての私」はますますチヤホヤされて、「働く者の私」はますます追い詰められてゆく時代だ……ということが言われる。
 
 
 例えば、ヤマトとアマゾンの事例などはこれの最も赤裸々に表れた関係でしょう。
 
 すなわち、消費者としての私は、レビューのついた商品を好きに選び、ボタン一つで、玄関まで運んで来てもらえるようになった。
 
 とても便利です。
 
 消費者としての私……としては!
 
 しかし、例えばこうしたアメリカ流の「過剰な消費者目線(市場原理主義)」に基づいた消費慣習の改変(産業構造改革)は、宅配サービスを圧迫し、物流サービス全体をも圧迫してきた。
 
 つまり、「消費者」に対し「事業者、労働者」が「過剰なサービス」を強いられるというわけ。
 
 さらに言うと、例えば、今宅配で過剰なサービスを強いられたAさんも、一時間後には過剰サービスを強いられているコンビニ店員から過剰なサービスを受ける「消費者」となりうる。
 
 また、そのコンビニ店員のBさんが明日役所へ申請へ行けば、世論的な予算の締め付けによって過剰な公サービスを強いられている役人Cさんに受付されることにもなるでしょう。
 
 
 
 しかし、市場原理主義というものを前提すると、これはなんら問題のないことになってしまいます。
 
 何故なら、市場原理「主義」というのは、市場で取引されたということをもって、全体的に、民主的に、あるいは平均的に、「プラス・マイナス過不足なく均衡している」ということを前提する「主義」だからです。
 
 
 
 でも、こうした「消費者に対するチヤホヤ」と「事業者、労働者への圧迫」というベクトルは、21世紀に若者をやってきた私には具体的な経験からヒシヒシと感じ取られる事実でした。


 ◆


 なるほど。こういうことを言うと今の年長者はこう返すでしょう。
 
「その代わりに同じ1万円で手に入れられるものの価値が上がるのであれば良いじゃないか。その証拠に、20年、30年前と比べてもモノの質、サービスの質は各段に向上している。そういう意味で、今は豊かな時代なのだ」
 
 と。
 
 
 でも、そういうことではないのです。
 
 それは年長者が、「もう社会的なポジション」があり、「もう『働く者としての私』よりも『消費者としての私』を気にする年代にある」からでしょ。
 
 
 対して、大人になりゆく若者の最大の問題は、
 
「この国家、共同体で、働く者としての私をどう確立してゆくか」
 
 なのです。
 
 だって、これから国家、社会においてどういう役割(仕事)を担ってゆくか、どういうポジションを確立してゆくか……という問題が、若者にとって切実なのは、人生で一度でも若者をやったことのある人間ならばわかるでしょ。
 
 その時期に、「働く者としての私が蔑ろにされ、締め付けられる」となると、仮に「1円あたりの消費者としての効用」が高くなろうとも、これは非常な苦痛と鬱屈とビハインドとを強いられる環境ということになる。
 
 
 
 逆に言えば、
 
「『働く者としての私』が締め付けられ、蔑ろにされても「消費者としての私」がチヤホヤされるのならイーブンで均衡している」
 
 ……と言って納得できるのは、「市場原理主義」と「働く者としてのポジションがもう確立している大人たち」だけなのです。



 ここが「21世紀の世代間格差」の最も重要なポイントだと、私は考えます。



 ◆



 だから、本当にこれからの若者世代のことを考えるとするならば、彼らに対して
 
「国家、共同体の中で働く者としての私」
 
 の「環境」や「席」をしつらえてやることなのです。
 
 すなわち、

1 短期的には「(特に公共事業を中心とした)政府支出拡大」でデフレを脱却することと、

2 長期的にも「(議員定数や役人、軍備の拡大を含めた)政府機能拡大」で需要飽和状態を緩和すること、

 が必要なのです。

 つまり、「国家の価値に基づく世界観、事業観」と「政府を中心とした国民の経済的団結」という国家社会主義的な方向こそが21世紀の世代間格差を緩和する。

 逆に、そうでなければ、

「日本の年長者は、日本の若者をグローバル市場へ放置している」

 ことになるのです。


 対して、今流行っている全世代型社会保障……すなわちベーシックインカムや若者への福祉的給付、社会保険料の減額によって消費生活をラクにしてやることなどは、私から言わせれば
 
「そーゆーことじゃねーんだよ!」
 
 という感が、すごくあります。
 
 だって、それは
 
「消費者としての私」
 
 の側面からのサポートであり、
 
「働く者としての私の確立」
 
 に対してはなんらの効力も有しないのですから。
 
 
 
 しかし、若者に対して
 
「国家、共同体の中で働く者としての環境や席をしつらえてやる」
 
 ためには、ある種、市場原理主義的なものから距離を取る必要が出てきますでしょう。
 
 たびたび例に取りますが、ヤマトとアマゾンの問題にせよ、あの宅配料の値上げは一種
 
「カルテルじみた価格協定」
 
 が必要だったりするわけ。
 
 つまり、「事業の存立」や「働く者の席を整える」には、消費者に価格を承認させるための
 
「政治や産業構造的な権力」
 
 でもって、市場や価格を「恣意的」に操作する必要が出てくることになる。
 
 
 ヤマトの宅配価格の釣り上げというのは、そういうことをも証拠立てているのです。
 
(※世論は一応これに賛同しておきながら、一方で未だに市場原理を前提してEコマースを礼賛しているので、私にはちょっと理解できないのですが)
 
 

 でも、こうやって本当の意味で「将来世代」のことを考え、市場原理主義から距離を取ろうとすると……

 ……日米構造協議以降の「構造改革路線」からも距離を取らなければならないという話は、切実なものになってくるでしょう。
 
 そして、構造改革路線から距離を取るためには、
 
「アメリカに対する抑止力」
 
 という意味での核戦力や反撃能力を有しなければなりません。
 
 
 
 こうなると、「アメリカ」に対する関係も、世代間で都合が変わってくるということになるでしょう。
 
 つまり、
 
X「年長者で社会的なポジションがあればあるほど、『消費者としての私』の向上のために市場原理主義をエクスキューズにして構造改革に屈服し、アメリカに従属しておいた方が都合が良い」
 
 ということになり、
 
Y「若くこれから社会的なポジションをえなければならない下の世代ほど、『働く者としての私』の向上のために、市場原理主義や構造改革に屈服するわけにはいかないので、アメリカに対する独立が求められる」
 
 ということになる。


 
 まあもちろん。
 これは「理論上は」ということです。

 今の若者世代も「徴兵される確率を1%でも下げておきたい」という下等な計算はほぼ無自覚的に植え付けされているから、経済的に自分の首を絞める要因になろうとも、アメリカに屈服し、市場原理主義と産業構造改革の論筋上で、「自分が席を確保できればよい」と思いつつ、そのことに大義付けするために「核家族主義」と「経済ジャーナリズム的な雰囲気」を理論的支柱にするというゴマカシの成長を遂げるのが一般でしょう。

 だから、若者も若者で、この若者世代というものに何か期待をかけられるかと言えば全然そんなことはない。



 でも逆に、大人の視点の低劣さも見逃してはなりません。

 だって理論上で上記のXとYの関係が明白に日本社会に胚胎している中で、大人が本当に「家族」を愛し、「子供」を愛しているのであれば、Yの立場を考えて、「国家独立」と「産業構造の維持」にそれなりの考を寄せるはずでしょう。
 
 でも実際は、大人はXの立場を狡猾に取り続けてきたのであるから、世の大人たちが子供を可愛がっているように見えるのは、単に「自分の価値喪失」と「アメリカ的な核家族形式の流行」の中でペットや人形のごとく可愛がっていただけという疑義が濃厚に立ち上ってくる。

(※ちなみに、現代の国家や共同体が融けているのであれば、それと連動して家族も融けていると見るのが妥当であり、核家族を源泉に社会価値を組み立てるアメリカ的な仕方は欺瞞であると思います)



 すると、若者は若者で、特に優秀であればあるほど、こんなふうに考えるでしょう。
 
 すなわち、大人がそのつもりならば、
 
「人類に普遍的に通じる技能によって、地球の中の一人として存立できる人間にならなくてはならない」
 
 と。
 
 これが、東大、京大の学生が、外資企業やITベンチャーに就職してしまう精神的経路ではないでしょうか。
 
 私は、「そんな連中は敵だ」と思うけれど、「大人たちがその体であればやむをえないかもしれない」とも思う。
 
 でも、そうやってグローバル人材を目指す高偏差値の若者たちに対して、
 
「お前、本当にソレでイイのかよ」
 
 というふうにも思う。

 だって、そうやってグローバル人材として消費生活を確立し、核家族を形成して作った子供に対して、今度は自分がかつての大人のように……いや、それ以上に「国家、共同体のために働く環境と席」が毀損された世界を下の世代へ提出することになるのであり、しかも子供に対してはそのことについて狡猾な欺瞞で隠蔽しつつも(そして子供側はそのことを察知していることを実はわかっていながら)、ギトギトして甘ったるいアメリカのホームドラマのような演技をこなし続けるという偽愛だけは施していないと、もう価値が空虚で自分自身を存立させることもままならない……という邪悪な大衆市民的な生を生きなければならなくなるのですから!



(了)

 

 
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特別会計を膨らまそう! 


 中央政府の予算には「一般会計」と「特別会計」「財政投融資」があります。

 普通に政府の予算といえば「一般会計」の方を指していることが多いです。
 こちらの方が予算委員会などがテレビ放映されてメジャーなのです。



 一般会計は、所得税や法人税、消費税といった目的を限定しない税収入によって賄われます。
 支出は一年がかりで各省庁が請求をして、最終的に予算委員会で国会議員が予算案を通すというものです。

 特別会計は、かつての道路特定財源のように、「ガソリン税で道路を作る」というふうに目的を限定した財源によって、各々独自採算をとっているものです。



 で、だいたいこの「特別会計」は、大衆によって「政府の無駄遣い論」の悪玉にされてきたのがここ二十年の歴史です。

「一般会計の陰に隠れて、特別会計で政府はムダづかいしているに違いない」

 ……というわけです。

 もちろん、こういう「チープ」な決めつけは少し実体を見てみれば言い過ぎだということがわかられるものですが、これが大量の世論ともなると、「一般会計の陰に隠れて、特別会計で政府はムダづかいしているに違いない説」が有力になる。

 小泉首相の「聖域なき構造改革」や民主党の「事業仕分け」は、これに類するものです。

 また、第一次安倍政権(第一次ですよ?)の、道路特定財源の一般財源化などは、明確に小泉首相の「聖域なき構造改革」の後を継いだものであった。

(※これはいわゆる「右も左も大衆に媚びへつらっている」ということの典型です)
(※また、特別会計の「埋蔵金」などと言われ、「財政赤字が大変だデマ」を根拠に「ムダを削れ論」が多くされてきた)



 こういう21世紀の「大衆的予算観」を、我々は真剣に反省しなければならないのだと思います。

 そもそも、自主財源を持つ公的な事業は、「国家にとって大切」なものです。

 特別会計にも、もちろん「ムダ」があるかもしれないことは否定しませんが、「もっとやるべきで足りない」という部分がある可能性だってありますでしょう。

 でも誰もそんなことは言わない。「ムダを削れ」の方ばかり言う。

 何故かと言えば、「権力者が俺たちの税金をムダづかいしている!」と言っていた方が気持ちイイし、世の中で通りが良く、処世的に都合がイイからでしょう。

 みんなそういう力学であることを薄々感じとりながらも、国家のことよりその場その場の処世の方が大事だから気づかないフリをしているだけに違いないのです。



 そういうゲロ以下の大衆力学が全体として集約された予算観が、本当に国家を毀損してきたのでした。

 これは、本当にリベラルも保守もそうだったのです。

 リベラルは政府に対する情報開示的な志向で。

 保守は新自由主義的な志向で。

 ちなみに、新自由主義、市場原理主義的な志向で特別会計がムダ扱いされるのは、あらゆる需要を「民間市場で需要されるもの」を基礎にして価値見積もりする「価格観」が基礎にあるからです。

 山本幸三地方創成担当大臣が、

「ガンは文化学芸員。観光マインドがまったくない」

 などと発言したのは、まさにその薄く広く甘く蔓延しているイデオロギーが基礎にあるからに違いないのです。

 言うまでもなく観光は市場で需要されるものですが、文化学芸員の仕事はむしろ「国家的な文化の再解釈そのもの」にあるに決まっているじゃないですか。

 このように市場原理主義者は、こうした国家、政府が政治的に需要する他ない「公的需要」を価値として換算しない価格観を有している。

 仮に公的な事業に価値を認めたとしても、「最終的に民間市場の価格に裏打ちされた価値を生み出すか否か」のみをその存立根拠として認めるにすぎない。

 そこには、極めて強い個人主義が胚胎しているのであるし、単にこうしたバラバラな個人主義が寄り集まったものが国家……という空虚な国家観が根底にあるとも言える。

 だから、こうした市場原理主義に、リベラルも結託してきたのです。

 リベラルは、「弱い人が可哀想」と言って新自由主義を攻撃しながらも、都合がイイ部分だけ(政府を糾弾できる部分だけ)市場原理主義的な枠組みを採用して、それでもいけしゃあしゃあと「自分たちは保守とは違う」というふうに振舞ってきた。

(※もっとも、リベラルは「国家にこだわらない」ことを前提にしているのであるから、論理的に整合してはいるかもしれないのだけれど、それは「論理的に整合している」ということ以上の価値を持たない整合です。だって、国家にこだわっていないのですから)

 ・

 加えて言えば、こうした「公的な需要」というのは、何も「経済」の足を引っ張るばかりではないのです。

 デフレということを考えれば、「政治的な需要」というものは確固たる有効需要であるし、確固たる有効需要は投資の「確実観」にも繋がる。

 また、長期的に見ても、別に「民間の需要」に対して「政治的な需要」が増えたって全然問題ないでしょう。

 GDPに占める政府支出の割合が増えるだけです。

 政府の支出は国家にとって大切なことをやるのであるし、仮にそうでないと思ったとしたら「改善する」根拠にはなったとしても、別に「削る」根拠にはまったくならないのです。


 ならば、例えば一般会計の特別会計への繰り入れなど、かつてのやり方を見直してみるのも良いのではないでしょうか。

 たとえば、再び道路特定財源を作り、特別会計で道路を作るとか。



 で、こういう発想は、我々日本人はリベラル的発想では無理で、おおよそ「ナショナリズム」を喚起してしか行われないと、私は強く感じているのであります。

 我々が「公共の価値」というものを想えるのは、日本へのこだわり、ナショナリズムが基礎にあるからこそでしょう。

 少なくとも私はナショナリズムの基礎がない公共的価値なんて想定不可です。

 逆に言えば、ナショナリズムが霧散してしまったので、公共の価値が空洞化したということでもあるに違いないのだけれど。


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