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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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経済政策の大義 


 ◆ 逆らうことと大義

 ここでは経済政策とは何のためにあるか、すなわち「経済政策の大義」というものだけについて考えてみたいと思います。迂遠な議論に感じられるかもしれませんが、こういう類の問いをことあるごとにねちっこくし続けるのが、私という人間のタチなのです。

 とは言え、それは別に私が大義に対して清廉潔白な人間として生まれたから備わったタチ……というわけではありません。その性質のいきさつを辿ってみるとこうです。そもそも私は十代の頃、大人というものをちっとも信じていない子供でした。私の十代というのは90年代中盤から2000年代中盤ほどまでです。

 大人は、多くの人々の間で通りの良い、偽善的で、欺瞞的なことしか言わない種類の人間たちだと思っていたし、それが気に食わなくてたまらなかった。だから私は、そういう大人たちへどうして逆らってやろうかということばかりを考えて成長してきたのです。ただ、そうやって逆らうということをばかりを考えていると、どうしても大義や正統性というものにこだわりだすものです。逆らうと言ったって、逆らうことそのものに意味や価値はありませんから、すぐに飽きてしまいます。必然、「なぜ自分は逆らわなければならないのか」「逆らう基準とは何か」ということを考えだしますから、次第に大義や正統性を考えないわけには済まなくなったというわけです。

 もっとも、そういう成長の仕方というのは一般的ではないものの、分母を大きく取ればありふれたものかもしれませんね。


◆ インテリと愚民

 さて、そんな私から見ると、経済政策というのは特に大義が蔑ろにされがちの議論に見えるのです。
 なるほど。世の中ではみんな経済が大事だと言う。経済政策についていろいろ喋る。でも、経済政策の大義について真剣に語られる場面に遭遇する機会はなかなか少ない気がします。これは大まかにみて二種類のパターンがある。
 第一パターンとしては、「むしろ、経済の目的などに気を払わない方が良い」と開き直っている連中です。言い換えれば「経済そのものが最終目的」という態度。経済そのものが最終目的ということは、効用の最大化――より多くの人間の不快を抑制し、快を増幅させるということそのものに最終価値があると前提しているということです。だから、「経済」と「政治や国家」は分離できるものだと考えてしまう。あるいは、そういう経済的に“合理的”な態度をして、“人間”を国家や共同体から解放する「進歩の光の先」と前提する。でも、人間にそんな進歩に関する合理性の体系を統一できるような理性は備わっていないので、それは「普遍的」の皮をかぶったイデオロギーとして、マネタリズムから共産主義に至るまで、あたかも新興宗教のように群れて跋扈する。こうした連中はそのイズムの体系を細かく理解し、ごく精密に整える……ということだけに猛烈な集中力を発揮します。その体系が、現実に対して極めて「特別」な状況を前提していても、彼らにとっては「イズムの体系を細かく理解し、ごく精密に整える」方が大事なのです。これはいわゆる20世紀初頭の新古典派経済学だけに留まらず、経済学一般……あるいは近代の学問一般に共通する「進歩」に対する誤解だと、私は信じています。彼らはその「進歩」の前提が現実から浮遊していることに気づかないほど人間的感覚に鈍いか、あるいは気づいていながらイズムの群れの中にある変な心地よさに埋め込まれていることへ正当性を確保するため、巧妙に自分で自分を誤魔化して生きているのに違いありません。面倒そうな生き方に見えるかもしれませんが、頭の良い彼らにとってはこれは造作もないことなのです。
 第二パターンは、第一パターンのような処理能力を持たないジャーナリズムや有象無象の請求民などです。彼らはそうしたイズムの体系を処理するようなオツムはないので、一応「なぜ、経済が大事なのか」ということに気を払っている素振だけは見せる。そうしなければ頭が悪いことがバレてしまうからです。例えば、多くの人々は「国民の生活のため」「国家を強くするため」という通りの良いセリフだけは吐きますでしょう。しかしこれも、「国民の生活とはなにか」「強い国家とはどのような状態のことか」というイメージすらまったく仕立て上げられていない場合がほとんどです。すると、この場合、「国民の生活のため」「国家を強くするため」というセリフは、自分を良い人だと思ってもらうためだったり、頭のイイ人だと思ってもらうためのタテマエに過ぎません。彼らは頭が悪いため、そうしたタテマエによって、その頭の悪さを誤魔化す必要があるのです。でも、頭が悪いのですから、そういう誤魔化しがごく恥ずかしいものであることに気づくほどの能力もないわけで、そういう意味で彼らは「幸せな連中」と評することもできるかもしれません。


◆ 「俺の欲望を満たすような政策をしろ!政府!」
 
 ところで私は、そういった「開き直り」や「タテマエ」の奥にある源のエネルギーを、実は知っています。
 それは、「俺の欲望を満たすような政策をしろ!政府!」です。
 でも、「俺の欲望を満たすような政策をしろ!」とそのまま言うのはさすがに憚られるので、「国民の生活を大事にしろ!政府!」とか「国家を強くするために(俺以外の)非効率部門を切り捨てろ!政府!」とやるわけでしょう。
 ほとんどの国民の各々が意識的にか無意識にか、そういう態度で政府へ経済政策を請求しているのです。そして、現今ではそうした一瞬間一瞬間のケンリの請求の集合して均衡したる点が経済政策の大義として前提されているが故に、実は経済政策論に大義などちっとも考えられていないということなのです。
 そんなふうに言い切ると「いや、ほとんどの日本人は自分の生活を一生懸命やっているだけで、そこまで考えていない」と反駁されるかもしれません。
 しかし、そういうことではないのです。
 例えば、ここにある小さな工場を営んでいる社長さんがあったとしましょう。会社はそこまで儲かっておりませんが、社長は4、5人の従業員を大切にし、家族も立派に養って、製品も良いものを作り、日々の暮らしを一生懸命やっていたとする。その意味で彼は崇高な生活民であり、立派に日本の営みの一部を形成していると言って良い。ただ、そんな彼もひとたび喫茶店へ行ってコーヒーを啜りながら「まったく、消費税をあげる前に政治家や役人を減らせよ!政府!」などと吐き散らかした時点で、口から異臭を放つ薄汚い大衆市民へと成り下がるのです。
 本当であれば、従業員と酒を呑み日々のことを語らう崇高な生活民である方の彼の「在り様」の中に経済政策の大義はあると考えられるべきでしょう。しかし、現今ではその「在り様」を見定める視点であったはずの「特権階級」が滅ぼされてしまっているから、口を利く喫茶店の彼の方が民主主義の名の下にある微細な影響力を持つ。現今は、その排泄物的口臭の粒子一粒一粒の微細な影響力が集合して巨大な排泄物の塊となったものをインテリがブリブリと増幅して、マスメディアやインターネットがこれをぬちゃぬちゃ反芻させ、フケのごとくパラパラと再度まき散らして、政治家や官僚をコキ使っているのです。すると、日本全体で「なぜ経済政策が大事なのか」など誰も考えていないということになりますでしょう。
 
 もう少し具体に論を落としてみましょう。
 早い話、現今の経済政策論は、一人一人の欲望の体現の請求に正当性を虚飾するための方便として使われています。
 例えば、貧乏人が「金持ちから金を巻き上げたい」という欲望は、「格差の是正」という経済政策論によって虚飾される。金持ちが貧乏人をコキ使って利益をあげたいという欲望は、「規制緩和」という経済政策論によって虚飾される。
 本当に格差是正や規制緩和が必要な場合も当然あるかもしれないが、それがどういう意味合いにおいて必要かという状況判断には、何らかの基準が必要です。その基準が、正統なる大義と一定の繋がりを持っていなければ、単なる貧乏人の妬みによる請求か、金持ちの欲望による請求かのどちらかに決まっているのです。人間は生きている限り堕落するものですから、人間の集団において欲望に基づく請求があるのは当たり前のことだが、これらは本来何ら正当性を付与するものではないが故に、経済政策論の上ではことごとく唾棄し、排除し、無視されなければならないもののはずです。
 あるいは、ある人々の「請求」は各々の特別な欲望ではなく「一般意志」のようなものから請求せられたものの可能性もある……とおっしゃられる方もあるかもしれない。しかし、その一般意志だと提示された請求が、「一般意志と虚飾された特別意志」でないと誰が判断するのでしょう。誰も判断する者はないのです。判断しうる者があるとすれば、それは神や仏の領域ということになります。
 なるほど。この世に神や仏などありはしないのでしょう。でも、本来神や仏の視点でしか判断しえない領域を、なぜ人々の一人一人の請求の集合したものなどが代替できるのでしょうか?「政治権力を制限する」などという理屈だけで、「人々」が「神々」に成り代わって良いはずなどないのです。たとえ今を生きる我々自身が信仰を失っていたとしても、信仰の歴史を引用することによって神仏に制限された者のみが一般意志の“ようなもの”を体現できるのであって、はなっから「俺たちの意志が一般意志だ」とふんぞり返っている大衆市民の請求など「一般意志と虚飾された特別意志」であるに決まっているではありませんか。


◆ 市場原理や構造改革の請求は、インテリや金持ちの専売特許ではなかった

 さて、ここまで確認を取ったら、次は少し話を複雑にしてみましょう。
 実のところ、この経済政策論の基準となっている大衆の欲望は、その発現によって大衆の一人一人がよりカネを得られるようになる……という結果になるとも限りません。大衆の欲望は非常に粗暴で白痴で刹那的で、反射と反応的で、ごく薄っぺらなイメージによって砂鉄のように集約、排泄されますから、「今日の欲望による行動が、明日の欲望を満たす結果に繋がる」ということすら稀だからです。
 例えば、市場原理主義や構造改革というものの流行りはまさにそれでしょう。市場原理主義や構造改革は、単に「金持ちが自分たちの勝利の価値をより高く見積もろうとする都合」というだけに留まらず、もっとより広範な大衆の欲望を体現する理屈なのです。
 それは、金持ちも貧乏人も、若者も年寄も、男も女も、どのような職種の人間も、その刹那的な欲望を満たすのに都合の良い理屈であり、ともすれば人生で「市場原理」「構造改革」という言葉を一回も使ったこともないような人間すら、喫茶店や喫煙所で市場原理や構造改革の論筋を声高に語りあってきたのです。つまり、彼らは自分が市場原理や構造改革を請求しているということすら無自覚の中で、見事そのように請求してきたということであります。そして、これは別に彼らが「マスコミや権力者に操られている」という話ではなくて、市場原理や構造改革の論筋がそもそも彼らの欲望そのものであり、彼らの欲望に名前を付けたものが市場原理や構造改革だということなのです。それは、サルが自分のサルとしての性質を理解してサルをやっているのではなく、自分をサルという名前だとも思っていないのと同じことでしょう。
 単純に言い表せば、たとえば大衆はその普遍的性質として「政府」を嫌います。政府からその権限を「はく奪したい」と思う。頭が単純な彼らにとって、政府とはまず政治家と官僚です。政治家や官僚から権限をはく奪するためには、政治家や官僚が「ムダ」である世界観が欲しいところですね。すると、市場原理の働く領域を大きく見積もれば見積もるほど、政治家や官僚の構造は「ムダ」だと見積もれるという都合が出てきます。すなわち、「本当は市場に任せておけば良いところを、既存の構造が権力や権限にしがみついていて、ムダが生じている!(そのムダを俺に配分しろ)」とやりたいわけです。また、案配良く(悪く?)冷戦が崩壊しておりましたから、日本人の例の「長いものに巻かれろ根性」がこれを助長していたとも言えるでしょう。西側の「自由民主主義」が東側の「社会主義」に勝利したということで、「市場原理主義」はある種の御旗となり、その御旗は、国家的なるもの、公共的なるものをムダ扱いするのに極めて都合が良かったというわけです。
 これは、少なくとも私の子供時代から昨今に至るまで、人々があらゆる場面で繰り替えしてきた「処世フォーム」でした。そして、彼らはそれが処世フォームであることに無自覚であるか、自覚的であっても「それで何が悪い」と思っていたのみならず、その処世フォームによって形作られた世論が政治の世界で民主的に実行されないことに不満を持ったりさえした。


◆ 何がムダかの流行り

 さらに言えば、その「ムダ」だとされる対象には「流行り」がありました。
 たとえば、政治家が政治制度改革で権限をはく奪されれば、今度は行政改革で官僚から権限がはく奪されました。その後は公共事業、独立行政法人、郵便局など、公共性の強い機関がやり玉にあげられます。これをやり玉にあげるのに、これもまた市場原理主義は都合が良いでしょう。だって、郵便局や道路公団の行っていた公共性の高い事業が、「市場でコト足りる!」という理屈をまかり通せば、(郵便局や道路公団にお勤めの方以外の)国民は、民主的に彼らから権限をはく奪することができてメシがウマいからです。逆に、郵便局の人たちは、なぜ自分たちがこんなにイジメられたのかわからなかったに違いありません。しかし、そんな郵便局の人々も、官僚がイジメられていた時は、同じようにイジメていたに違いないのですから、そのお鉢が回ってきただけだとも言えます。
 そういう意味で、「イジメというのはみんなに順番が回ってくるものだ」という格言(?)は真理なのです。
 最近では、維新の会が大阪「市役所」などの構造に対してシロアリ論を展開し、過半数近くの大阪の大衆を動員したのもまったく同じ構造です。構造改革の構造とはまさにそれで、しかも、かなり原理的で粗暴で単純化された姿を取っていた。これは東京で流行ったものが十年遅れて大阪でも流行ったというかなりみっともない話に過ぎないのかもしれません。
 あるいは、「あの威張っている東電の構造を解体したい」という欲望も、市場原理主義と構造改革の論筋で理屈付けられました。もっとも、原発に目が眩んでいる大衆は、東電に対する自分たちの感情にルサンチマンのあることすら気づいていない様子だし、未だに地震によるショックと原発事故に対するショックを一緒くたにして「3.11」=「原発事故」と語られているようなシマツなので、そこに市場原理主義と構造改革の論筋が根を張っていることに気づく者はほとんどありませんけれども。
 はたまた、「土建業から公共事業における談合の権限をはく奪したい」という欲望も、市場原理主義と構造改革の論筋で理屈付けられてきました。公共事業の入札が談合なしの一般競争入札でうまくいくはずなどないことくらい、別に土建屋さんでなくても、公共調達についての勉強をしていなくても、「大きな成果物をそれなりの期間にわたって作るにも関わらず、その価格は着工前に付ける他ない」ということにさえ考えを及ばせれば常識でわかるはずですが、大衆にとっては「既得権益をはく奪したいという欲望の実現」の方が「適切な公共事業」よりも大切なのですから、その「ちょっとの考え」すら及ぼさないわけです。それで不適切な工事があったり、橋やトンネルが崩れ出すと、これまた官僚や土建屋さんのせいにするわけですから、本当にシマツに負えないガキどもであります。
 それから、農家と農協の構造から権限をはく奪するのにさえ、市場原理主義と産業構造改革の論筋で理屈付けされてきたものです。これの本当に偽善的なのは、農業を蔑ろにするといかにも悪い人な感じがするので、「農協」を既得権益として叩くことによって、イイ人であることを手放さないでおきつつ農業を蔑ろにしていることです。でも、豊作、凶作で価格が乱高下し得る第一次産業の価格決定に、第二、第三産業のような自由市場による価格決定を適用してうまく行くはずはないことくらい、特に戦後の農業の歴史を学ばなくとも常識でわかるはずです。また、食料自給率の大切さや、農協の既得権益そのものが農村共同体を(兼業でありながらも)一定程度保全してきたという部分なども大衆にとってはどーでもいいことでした。何故なら、大衆の多数は農業従事者ではないからです。
 しかし、そんな農業従事者たちも、官僚がイジメられている時はイジメる側に立つことができます。何故なら大衆の多数は官僚ではないからです。土建屋がイジメられている時は郵便局員もイジメる側に立つことができます。何故なら大衆の多数は土建屋さんではないからです。郵政がイジメられている時は東電職員もイジメる側に立つことができる。何故なら、大衆の多数は郵政職員ではないから。そういう話だったわけです。

 確かに、既得権益や権力というのはたいてい威張るし、近視眼的で、形式的で、嫌なヤツも多いのかもしれません。が、たとえば役人が威張るということと、ある役所という機関がどれほどの規模で必要かということは別問題だし、政治家がよろしくないということと、議員の数がどれほど必要であるかは別問題です。公共事業が賄賂の可能性を生じさせるということと、公共事業がどれほど必要であるかは別問題だし、東電職員が気に食わないことと東電を解体させるということは別問題です。
 でも、別問題であることがさしたる問題にならないのは、それが「社会、経済を良くするため」という皮をかぶった大衆の欲望の発露だからでしょう。一般意志と虚飾された特別意志だからでしょう。

◆ 既得権益のはく奪論は論理上、国境なき経済に合理性を与える

 平成の時代とは、そうやって国内のあらゆる既得権益から権限をはく奪して、あらゆる産業に就く日本人の生活を日本人自身がはく奪してきたというわけですから、本当に救いようがありません。
 さらに、それら既得権はく奪の論筋では、「むしろ経済には国境がない方が良い」という論理が必然的に認められなければ済まなくなるということを忘れてはなりません。そして、確かにその論筋上では「経済に国境はない方が良い」ということになるのです。すなわち、「外国の産業が国内の既得権益をやっつけると、既得権益に押し付けられていた価格が下がって一般消費者の利益になる」という話になるわけですから。これは経済学者たちの論筋であるから、多くの人々は直接そんなことは言わなかったでしょうが、「産業の既得権益から価格決定権をはく奪し、消費者の利益に……」という論筋を認めるとなると、こうした経済の無国境化に合理性を認めなければならなくなるということくらい、みんな頭のどこかで薄々感じていたに違いないのです。でも、人々はこれを黙殺してきたわけでしょう。何故なら、そんな先のことを考えるよりも、今の権力や既得権益から権限をはく奪していた方が楽しいからです。


◆ 日本のあらゆる既得権益が打破されても、自分だけは「無辜の民」であり打破されないと思う大衆

 そもそも、こうした平成の既得権益叩きの諸流行の下では、理論上、日本のあらゆる産業のあらゆる立場の人々が、その時々の流行りによって順々に放逐されるという話になってきます。しかも、それはほとんど無意識に進んできたのです。その順番は公共性の高いものから順々というわけですが、何ら公共的なるものに浴していない日本の産業、会社、個人などありはしないのだから、次に「アイツらズルい!」の的となるのは自分かもしれない。でも大衆はそんなことはちっとも考えません。大衆の一人一人はそれぞれ、「自分だけは無辜の民」であると信じ切っているからです。

 このように、平成の時代において「市場原理」というのは競争や格差の論議で繰り広げられた面よりも、主に「既存の権力や既得権益から権限をはく奪し、放逐する方便」のために使われてきました。
 これを経済学的に表現すれば、「価格決定を自由競争によってプライステイカーの状態にする」=「消費者の一票一票という経済における民主主義」=「価格決定権力から権限はく奪して、消費者一人一人へ権限を配る」ことによって、「一般消費者の利益」=「価格の低下」を実現させるという発想です。
 これは別に経済学を学んでいなくとも、「俺たちは消費者として高い価格を押し付けられているぞ!既得権益を排除して価格を下げろ!」という請求民の請求が、自然と経済学の理屈をなぞってきたのです。
 大衆の一人一人は、ある産業の価格が下がるということが、自分の勤めている職種や産業の価格を下げ、給与を下げるというところへすら想像力を及ばそうとはしません。何故なら、大衆はみな自分だけが「無辜の民」であると信じているからです。そして、他の産業や職業にある者たちはみんな「既得権益」なのです。そんな都合の良い態度が許されるのは彼ら一人一人が「一般国民」であり「主権者」だからでしょう。


◆ 新自由主義と社会民主主義は同工異曲

 さて、この「市場原理主義による権力からの権限はく奪」という欲望を仮に「大衆の都合A型」と名付けてみます。
 実は、これに対してもうひとつ「大衆の都合B型」という欲望も併存してきました。大衆の都合Bとは、「多くの貧乏人が少数の金持ちから金を巻き上げるための政治的な民主主義」というものです。つまり、単なる貧乏人による請求が集積されたもの、あるいは単なる「弱い人が可哀想」という弱者救済的なヒューマニズムとも言えないヒューマニズムが集積されたものです。そして、実際彼らの苦しみが本当に貧乏から生じているのかすら怪しいものです。大衆の一人一人は「自分だけが無辜の民」と思っているのと同時に、「自分だけは金持ちではない」と思っているものです。でも、地球規模的に見て、金持ちではない日本人などまだ少数派ではないでしょうか。世の中には貧乏で子供を死なせてしまう国もあるのです。貧乏で子供を死なせてしまう国家の方がエラいとは言いませんが、自分よりも金を持っているヤツのいることを理由に自分を金持ちとしない金持ちほど、醜い金持ちはないのです。
 さらに言えば、大衆は自分たちが昨日「市場原理主義による既得権益攻撃」をしていた結果に生じた格差を、「金持ちのレントシーキングによる政治操作だ」とのみ了解して、貧乏人による多数派工作に燃え上がる。そりゃレントシーキングが政治を動かすという力学のあることは認めますが、レントシーキングのみが政治を動かしているなどということはありえません。
 そうやって都合よく「貧乏人が金持ちから金をはく奪する」という手合いに流れても、その構造は「市場原理によって既得権益から権限をはく奪する」ということとまったく同工異曲であります。しかも、それが同工異曲であることに自覚的ではないから、欲望がどちらへ流れるかはその時の流行次第というわけです。

 ここで言う大衆の都合A型を「経済における民主主義」だとすれば、大衆の都合B型は「政治における民主主義」と言えるでしょう。あるいは、A型を「新自由主義」とすれば、B型を「社会民主主義」と言い換えても良いかもしれません。
 私が強調したいのは、この双方ともが唾棄すべき汚らしい群れた大衆のイズム(都合のイイ理屈)だということです。

 もっとも、世間的には、保守がA型を唱え、革新がB型を唱えるということになっていますが、それは冷戦構造からの印象にすぎず、実際は保守も革新もA型とB型のミックスをやっているに過ぎません。
 例えば、安倍政権でも民主党政権でも小泉政権でも、A型とB型の均衡したるポイント、つまり単なる新自由主義と社会民主主義の均衡点において政策が展開されて来たにすぎないと見ることもできます。その均衡点、バランスをどこに取るかという点に違いがあるだけで、大衆の都合A型と大衆の都合B型を均衡軸としているという点ではこれまた同工異曲でしょう。
 政府支出による公共事業が20年減らされ続けてきたのは、その証拠です。財政出動という経済施策は、A型の欲望もB型の欲望も満たしてくれるようなイメージがない。それが実際の日本経済に必要であるかどうかは、大衆の刹那的欲望からすると関係ないことなのです。
 その場合、求められる財政の傾向は、1「公共投資削減」2「政治家、公務員給与の削減」3「社会保障の増額」ということで一貫されます。これは大きな政府を求める者でも小さな政府を求める者でも同じでした。大きな政府の「大きさ」は弱者救済の社会保障に集約されてきたし、小さな政府の「小ささ」は公共投資の削減と政治家、公務員給与の削減に集約されていたでしょう。そこには「適切な規模」というものを考える姿勢はありませんでした。何故なら、「適切」を考えるには基準が必要であり、基準には大義、目的が必要だからです。でも、その目的が大衆の刹那的満足であるならば、「ある項目をずっと減らし続ける」というキチガイに合理性が出るのです。
 そういう意味で、経済施策における安倍政権の価値は、「自民党の総裁である」という点以外には「政府の刷ったカネで政府が公共投資を増額する可能性が、民主党政権や小泉政権よりはあった」ということのみでした。その点だけが、大衆から超然した政府の視点による経済政策論だったからです。でも、実際に増やされたのは1年目だけで、2年目以降は増えていないどころか民主党政権よりも減っていたりするのですから、結局このまま大衆に屈服して終わるという可能性は非常に大きいのかもしれません。(※私は一度目の消費増税を延期しなかったことよりも、結局適切な規模の財政出動をしていないことの方がはるかに罪深いと考えています)

 

◆ 自民党と官僚が壊れ日本国憲法が剥き出しになり「政府」はなくなった
 
 ただ、大きな目で見ると、安倍政権も民主党政権も、おおむね小泉政権の延長だと言うことはできるでしょう。
 しかし、これはある意味当然のことでもあります。何故なら、日本国憲法の「国民主権」の下において「自民党と官僚」という既存の構造が失われれば、政治は完全に民主主義へと堕すに決まっているからです。
 55年体制が構築された時代は、まだ日本の「封建」が各共同体へ残されていたので、日本国憲法下であってすら「自民党と官僚」という立派な構造を再構築することができた。たとえば昭和時代の地方農村には、明治が残り、徳川時代が残っていたが故に、封建が残り、暴力を祖とする権力の構造が残っていた。根源的に、政府を組織するのは暴力を祖とする権力の構造だけです。自民党と官僚は、暴力を祖とする権力の構造……を祖とする権力構造だったのです。そして、その政府構造がかろうじて日本を、日本国憲法や民主主義の魔の手から守っていたともいえる。しかし、各共同体から日本の封建が霧散し切った平成において「自民党と官僚」という構造が壊されれば、そこに結びつけられていた各共同体もさらに霧散して、日本国憲法の原理が剥きだしになってくる。純粋化してくる。
 そして、純粋化された日本国憲法の下では、根源的に「政府」というものは存在しないのです。だって、日本国憲法前文ではこう謳われていますでしょう。
《政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し……》(日本国憲法前文・一段落目)
 と。
 つまり、「日本として戦争をするしないの決断ができないような、ただ息を吸ったり吐いたりしている日本列島にいる日本人から生まれた一人一人の人間のあーしたい、こーしたい」に応じるということ以外に、政府の正当性は認められないという話なのです。(※これはもちろんアメリカがそう言えと言ってきたものですが、一人一人の人間の欲望にとってはとても都合の良いポーズであったため、瞬間瞬間の卑怯で低劣で猥褻な黄色いサルたちは極めて狡猾にこのポーズを取り続けてきたわけです。あたかも何も気づいていないようなフリをして)
 そういうサービス機関的存在を政府と認めるのであれば、まだ日本に政府はあると言えなくもないでしょう。しかし、そもそも「日本政府」とは、徳川幕府という立派な政府を暴力によって滅ぼしてしまった罪の贖罪から始まっているものです。それはどう考えても「日本という天下観を続かせる」という大義によってしか贖えない罪であるのだから、日本政府が日本政府として存在しうる大義も「日本を続かせる」ということにのみあると考えられて然るべきはずです。(※また、その大義へ帰着しなければ倒幕は旧豊臣方が積年の恨みを晴らしたというだけの話になってしまうし、「それで近代化して世の中便利になったのだから何が悪いのだ」という開き直りにもなってしまうでしょう。)
 すると、共同体から封建が霧散し切り、自民党と官僚という政府保存構造が壊れ、日本国憲法が剥きだしになった今、「日本に政府は存在しない」と言って過言ではないのです。今、日本政府と思われているものは、大衆の傀儡と言うべきもので、そもそも政府としての権限すらありません。大衆に逆らったり世論を読み間違えた政治家は、大衆によって放逐され、場合によっては縊り殺されるのですから。日本政府は君臨すれど、統治させてもらえずというわけであります。


◆ 今必要なのは政府を多数決で縛ることではなく、血と鉄と大義……かもしれない
 
 だから、私は特に政治家や官僚に対しては、同情はすれどあまり文句をつけたくはないという心持がずっとあるのです。
 例えば、自民党をぶっ壊したのは小沢一郎と小泉純一郎に違いありませんが、たまたま彼らのような悪魔が登場して日本人が苦しめられるに至ったというよりは、日本人全体が腐って腐って腐りきって、その腐った成分が抽出されて表出したものがたまたま小泉純一郎だったりするようにしか見えない。すると、小泉純一郎を演じなければならなかった彼は日本で最も憐れな男であったと評さなければ済まなくなる。
 私はそもそも、「政治家や官僚の悪口を言っていれば何となくその場が和む」というような処世力学は大嫌いなのです。私は本当にこれが嫌で嫌でたまりませんでした。
 もっとも、そうした処世力学を徹底的に排除した上での権力批判であれば傾聴に値するでしょう。また、政治家の言動は――特に首相の言動は、いつも公然としているが故に、公然とされるおかしなことを「おかしなことだ」と指摘されない世の中はさらにおかしなことになってしまうというところまでは認めます。
 ただ、先に申した通り政府は大衆の傀儡となっているのであるからして、その批判は(自分を含めた)日本国民全体への批判であることが確認され、わかられていなければならない。安倍晋三首相を指し、菅直人首相を指して、「これがお前たちの映し鏡だ」とまで言われていなければならない。そうでなければ政治家は大衆のスケープゴートになってしまうし、実際そうなってきたのです。
 そして、そこまで確認が取れれば、本当に必要なのは「政治家批判によって政府を多数決で縛ること」などではなく、「政府を創りだすための血と鉄と大義だ」という可能性も認められなければならなくなります。


◆ 日本人の一人一人はもっとちゃんと経済的、肉体的に傷つくべきであるかもしれない

 ですから私は、「無能な政治家や官僚のせいで、我々無辜の民が苦しんでいる!どうしてくれる、政府!」という態度を持った人間、あるいはそういう態度に媚びを売る人間を基本的に信用しません。
 そういう態度の集積されたものとして市場原理主義、構造改革として発現されて、それが回り回って自分の首を絞めて、今度は社会民主主義を請求して首を絞めて、また市場原理主義へ……という連鎖をやっている民が、「無辜の民」なはずはありません。完全に自業自得であり、その後の子孫の7代が祟られて然るべき「愚民」と評すべき民です。それは金持ちから貧乏人まで、首相から乞食まで全部そうです。
 その意味では、まだ日本人はその醜さに見合った経済的な苦しみ方をしていません。どうして我々の一人一人がバングラディッシュの一人一人よりまだ豊かで便利な生活をしているのか。それは、我々一人一人の能力がバングラディッシュの一人一人より優れている……からではなく、もう死んでしまっている無数の日本人たちが蓄積してきた様々な文化的組織構造の「余韻」があるからです。でも、今の日本人一人一人に、これを継承し、相続するだけの価値はあるでしょうか?あるはずはないのです。こんなにも醜く、浅ましく、腐りきった黄色いサルどもに、こんな立派な歴史と文化と統治の恩恵が(残り香であろうと)降り注いでいるだなんて、世の中間違っています。だって、我々は、単に日本に生まれたという宝くじ的な恩恵にあずかっているだけで、その宝くじ的な恩恵にあずかる資格も能力も道徳も一切持ち合わせていない愚民なのですから。
 そういう意味で、日本人の一人一人はもっとちゃんと経済的にも苦しむべきなのかもしれないのです。骨を焦がし、のたうち、子を死なせ、泥水を啜り、ちゃんと肉体的に傷つくべきなのかもしれないのです。

 

◆ 経済政策の大義は、天皇を中心とした「文化圏」を存続させるということである

 ただ、それでも経済政策というものが大事なのは、そもそも経済政策が日本人一人一人の「あーしたい、こーしたい」という請求のためにあるのではないからです。
 経済政策が政府によってなされるものである以上、それは政府の大義を実現するものでなければなりません。日本政府の大義は、先も申しました通り、「日本を存続させること」です。日本政府は徳川幕府を暴力でうち滅ぼした罪を、日本という天下観を存続させることによって贖い続けねばならない。日本国民全体は特攻隊を見捨てて、沖縄県民だけを戦わせ、本土決戦手前でサッサと降伏して、のうのうと生き延びた大罪を、「日本を存続させて、いつかアメリカをやっつけようとし続ける」ということによって贖い続けなければならない。
 これは日本の運命とも言うべきもので、日本人を冠する以上、何人もこの贖罪から逃れることはできないのです。これから逃れて、日本国籍を持って生まれた旨味だけをチューチュー吸い取ろうなどというのは虫が良すぎます。これこそまさにシロアリというべきものです。

 その上で、19世紀から地球というものは狭くなり続けているのだから、日本を存続させるためには日本経済全体の営みや連携を強くし続けなければならない。ネイションを守るためにステイツを強くせねばならぬし、暴力もきちんと日本を単位にして組織付けなければならない。だから、「国民の生活を豊かにする」「日本経済を強くする」というのは、日本を存続させるためにそうするのです。逆に言えば、日本を存続させるような生活民の豊かさ、経済全体の強さ……という道筋の下で考えられなければならないということであります。
 そういう道筋を前提におけば、国家においてインフラを逞しくし、交通をより張り巡らせて、軍隊を強くし、国際政治的に産業を保護し、中央へも地方へも政府機関へ人員をより確保して、各国内産業がより連携を取るよう指導する……というような、日本を存続させるための公共的な需要が山ほどあることに気づくはずです。そして、現今の日本の全体的な潜在供給力が過剰であることを併せて考えれば、「政府需要主導の経済成長」こそが日本の存続に資する経済政策であることもすぐにわかるはずです。そして、これがわからないのは、みんなが目的をたがえているからでしょう。

 再度確認しますが、経済政策の大義とは「日本を存続させる」ということです。
 日本を存続させるとは、天皇を中心にした「文化圏」を存続させるということです。
 文化圏を存続させるという意味は、その文化圏の一人一人の生命と財産を存続させるという意味ではありません。
 日本列島にある一人一人は、この一瞬間においてすら生まれもするし、死にもします。すると文化圏とは、ある土地に生まれて死んで、死んで生まれて……とする民全体の営みの連続したものということになります。一言で言い換えれば、天皇視点の民の営みということです。天皇視点の民の営みが、一人一人のあーしたい、こーしたいという欲望や請求の集積したものであろうはずがないのです。あるいは、その発言権の集積したものでもあろうはずがないのです。
 もちろん、その部分部分を分解すれば、一人一人の土着的生活民としての所作やふるまい、人間交際などの中に日本はあるのだと言うこともできますが、それはおおよそ一人一人が自覚的にやっている崇高性ではありません。その無自覚な生活民の崇高性を発見し、全体の流れを豊かに強靭にしようとする貴族的な意志によってしか存立しえない種類のものなのです。ですから、そういう意志のない請求民は、乞食からインテリに至るまで黙らなければなりません。黙っている限り、崇高な生活民であることはできるのですから。

 ただ、ある経済政策によって日本を存続させようとすることは、もしかすると一人一人の「あーしたい、こーしたい」をも同時に実現してしまう可能性はあります。
 例えば、公共事業の増額には、国家公共的なストックを蓄えるという実と、需要創出による国家全体の需給バランスの回復といったフローの実があります。そのフローの実によって全体の経済規模が増加するということまでは国家の存続に対する寄与と換算して然るべきですが、同時にそれは日本人の一人一人の明日の消費、欲望を満たす都合に合致することにもなってしまう。
 その点においては私にとって甚だ気に食わないことです。今を生きる日本人の一人一人に、そんなものを享受する資格はないからです。ので、できることならば「今生きている日本人一人一人を苦しめる」ということと「日本を存続させる」ということを両方同時に成立させる道筋はなかろうか、とすら真剣に考えます。
 でも、どう考えてもそんな道筋は見あたりません。何故なら、一人一人の日本人は、下賤な大衆市民をやっていながらも、崇高な生活民としての無自覚な営みをもやっている可能性があるからです。喫茶店の大衆人の頭をピストルで打ち抜いたとすれば、同時に崇高な生活民としての営みの一片をも殺すことになる可能性がある。これは、ゾンビ化した友人を殺せば、友人そのものも滅びてしまうという関係と同じです。これは本当に悩ましいことであります。
 なので、そこは「日本を存続させるためにする施策の副作用として、今生きる日本人一人一人の生命と財産が保全されなければならないならば致し方ない……」というくらいに考えておくべきなのでしょう。


◆ 余談・地球が狭くなった今、日本のステイツが滅びればネイションも霧散する

 ただ、そんな心配は必要ないことかもしれません。
 上の論はあくまで正統に通じる道筋を考えてみただけで、実際そうなるかどうかはまた別問題だからです。おそらく、日本政府が適切な財政を支出することはないでしょう。仮に今後一時的な財政出動がなされたとしても、財政の規模そのものを大きくして、政府需要主導の経済成長を志向するところまでに至っては求めるべくもありません。何故なら、上で申した通り基本的に今の日本に政府はないからです。また、政府がなければ日本として資本主義を超克する道筋はない。そして、一度政府が大衆の手に渡れば、これを取り戻すには原理的に暴力以外に手段はなく、仮にそうした暴力がちゃんと起こっても物理的にアメリカの治安部隊がこれへ介入するに決まっているからです。(※介入があるに決まっているから暴力行動に意味はないなどと言っているのではありません)
 これから、日本人の一人一人はちゃんともっと経済的、肉体的に苦しむようになるでしょう。肉体的に苦しむようになれば、日本政府を冠している1億2千万の形成する「ステイツ」の層はいよいよ滅びるでしょう。そして、地球が狭くなっている現今の中でステイツが滅びれば、天皇を中心とした文化圏としての「ネイション」も溶けて流れてなくなってしまうに決まっているのです。それは、穏やかなクレタ文明が、その穏やかなネイションだけ剥き出しにしていたらギリシャ人に滅ぼされてしまったのと同じです。地球が狭くなり、ステイツが滅びれば、ネイションも霧散するのです。
 そして、これは特に戦争や大災害が起きようが起きまいが、起こるであろう霧散です。それが50年後か200年後かはわかりませんが、日本はまずステイツが滅び、ネイションが霧散していくのです。

 だから、予測の上ではどう考えても日本は霧散します。
 でも、「日本は霧散するなあ」で終わるのであれば、私にとってこの世界には何の意味も価値もありません。「日本」ということだけが、私に正統な信仰と大義に対する忠誠を与える可能性があり、生命に価値を与える可能性があるからです。私には「日本」ということ以外にそういう可能性を持つものはないし、日本人とはそういう人のことを言うのです。
 ですから、この日本の霧散という運命に逆らって逆らって逆らって、「七回生まれ変わっても日本人に生まれる」という猛烈なこだわりの中に活きることだけが、私が私であるという道なのです。
 これに反する人たちは、日本の敵であるかどうかはわかりませんが、少なくとも私の敵だということだけは確かです。


(了)


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ネイション・ステイツにおける政府の大事 


 我々が『国家』と思っている近代以降の国家は、『国民国家』=『ネイション・ステイツ』と言われます。

 ネイション・ステイツは、

 ネイション=国民

 ステイツ=政府

 と訳されたりもする。


 これで正しいのだけれど、時としてこういうふうに前提される場合が見られるのが、私は気になります。

 すなわち、

『ネイション(国民)を重んじるべきで、ステイツ(政府)を重んじるべきではない』

 というような。


 でも、別に、ネイションが国民で、ステイツが政府だからと言って、

「ネイションがイイモン」
 で、
「ステイツが悪モン」

 とか、そういうものではないはずなのです。


 そこらへんのところ勘違いしてはならないのではないでしょうか。

 もちろん、現在の日本政府組織のような政府=ステイツ(政府)は、この土地で生まれて死んでとする国民(ネイション)を保護するためにある。

 しかし、よぉく考えてみれば、そんなステイツという形式が必要なのは、一重に「世界が狭くなった」からでしょう。

 逆に、この地球上に日本だけしかないのであれば、強力な中央集権性を持った政府などいらないのです。

 封建時代で十分ですよ。

 でも、現実には、地球上は科学技術によってどんどん狭くなって、ステイツを維持しなければ、ネイションは溶けて流れてしまうでしょう。



 すると、

「ステイツ(大きくて強い集権的政府)」

 が必要だから、

「ステイツをこしらえられるような、ナショナリズム(国民的団結)が必要である」

 というベクトルも、同時に潜在していると考えられなければならないはずでしょう。



 つまり、

1「ネイション(国民の歴史)」のための「ステイツ(政府)」

 というベクトルがある一方、

2「ステイツ(政府)」のための「ネイション(国民の団結)」

 というベクトルがセットになった相互循環が、

『ネイション・ステイツ』

 という現象なのです。



 でも、「国民のための政府」はどちらかと言えば近代的なケンリを、「政府のための国民」は近代的なギムを要するものだから、

「ネイションのためのステイツなのだ(国民のための政府なのだ)」

 の論理ばかりが用いだされて、果ては

「ネイションは良いモノ」
「ステイツは悪モノ」

 というような姿勢が前提されてしまうようにもなりがちになるのではないでしょうか。


(了)


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政府の「資源配分機能」の重要さを認めよう 


 このブログでは繰り返し強調してきましたが、私は、

「経済に対して、政府がもっと介入をすべきだ」

 という思想をもっています。



 経済における政府の役割は、教科書的に言えば以下の三つ。

1 『経済安定化』
(資本主義では貨幣は負債によって創り出されるので、その気分的伸縮によりバブルとデフレによる混乱は必然であるから、この上下の波をなだらかに修正する統治者の役割が必要となる。※これは短期的な話)

2 『資源再配分』
(民間市場のみでは国土計画や交通計画、都市計画、公共施設、そして軍事設備などが充分に需要されず、資源が配分されないので、統治者としての公的に需要する必要がある。※これは長期的な話)

3 『所得再分配』
(民間市場を放っておくと、地方間、産業間、職種間の格差が広がる。すると、地域や産業や職種や企業で一極集中が起こり国家全体の経済循環を毀損するから、格差を一定水準に抑え、分散を促す統治が必要となる。※これは長期的な話)

 です。


 ◆


 世の中で最も広く承認されているのは、3の『所得再配分機能』だと思います。

 これについても私は、「国家の安定」と「経済全体の循環」を考えるにあたって重要な機能であると思っています。

 特に、そこそこの累進課税、お年寄りのための年金システム、介護システム、健康保険など、社会の基盤や高齢者による需要の持続を保障する機能は、国家全体の安定的運営や経済循環を考えても非常に重要でしょう。

 ただ、この所得再分配機能については、単に「弱い人が可哀想」とか「貧乏な俺にカネ寄こせ!政府!……という請求」の力学が多分に含まれがちだし、『ベーシック・インカム』や『こども保険』など奇抜で偽善的なアイディアで「落ちこぼれ」や「はぐれ者」に媚びようとする輩が出るので、注意が必要です。


 ◆


 これに対して、今の喫緊の課題は1の『経済安定化』であることは言うまでもありません。

 つまり、デフレの問題です。

 資本主義は金融的な「気分」は自動的に調整してくれないので、金融収縮が起こって民間が借金をしない状況にあっては、政府は国債を発行して、もっと赤字財政を吐き出さなければなりません。

 具体的には、減税や政府支出増です。
(※私は大きな政府論者なので、デフレに対する処置も、減税よりは「政府支出増」で執り行うべきだと思っていますけれど)

 デフレでは、政府が需要(赤字財政)をどーんと吐き出して、民間が借金をするようになったら、少なくとも経済安定化の要因からの赤字拡大は必要がなくなります。

 逆に、金融膨張、すなわち民間の借金が膨らみ過ぎるバブルの状態になれば、政府は増税や支出カットで緊縮を志向しなくてはなりません。
(※私は、バブルに対する措置も、基本的に「増税」で行われるべきだと思うので、支出をカットせず、そのまま大きな政府を目指すべきだとは思いますけれど)


 ◆


 そして、3の『政府による資源配分機能』ですが、これは今の世の中で最も軽視されている政府の機能と言えるかもしれません。

 まあ、だいたいみんな(口ではどう言っているか知りませんが)天下国家、日本国家のことなんかどうでもイイと思っているらしいので。

 しかし、私は、この『政府による資源配分機能』こそ、最も重視すべき政府の機能だと考えています。

 意地でもそう考えます。



 というのも第一に、

「市場は国家全体のための需要をすることができない」

 からです。

 これは、たとえば単に「軍隊や交通インフラが市場で需要されにくい」ということに留まりません。

 そもそも国家全体のための需要というのは、原理的に言えばいくらでも需要できるものなのです。

 対して、原子的個人(あるいは原子的核家族)に還元しうる市民サーヴィス的な需要、すなわち、「日本国籍民の一人一人の生命と財産を守ってもらう」というような、短期的な社会合理的な需要だけが求められていれば良いのだ……とすれば、

X「長期を考えれば需要すべき領域(たとえば大規模な国土整備や交通計画)」

 や

Y「文化的な防衛を考えれば需要すべき領域(過剰な自由貿易を阻止するために必要なだけの軍事力)」

 などについては需要されないことになります。


 ですから、この見積もり感を多く取るか、少なく取るかは、国家の長期的存亡の話になってくるのです。

 具体的に言えば、日本人が「千年日本を続けるつもりがあるかどうか」は、この『資源配分機能』をどれだけ重く見ているか……で計られるのです。



 第二に、私は『経済安定化の機能』としての需要創出以上に、「長期的な安定的な政府需要の創出」という意味での、長期的な需給調整機能を、この『資源配分機能』に見るのでありますが、これは少し込み入った話になるので、また今度。


(了)

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AIと技術的失業の、ナショナル旧産業への帰結 


 技術が進歩して、技術が人間の仕事を代替するようになって失業が産まれる……という力学を、ケインズは「技術的失業」と呼んだそうです。
 
 たとえば、今まで10人でせんべいを作っていた工場に、全部オートマチックにせんべいを作る機械が開発されたとする。
 
 すると、せんべいを作る上で必要とされる仕事はボタンを一つ押すだけの1人分の仕事だけになり、残りの9人は仕事がなくなりますでしょう。
 
 これを社会全体の話として考えると、要は、技術の進歩に伴う市場における分配の不整合の話ということになります。
 
 
 
 母子

 
 
 ただ、技術的失業は、「残りの9人が新たな職へ就けるようになれば良い」という話に、全体としてはなります。
 
 また、技術は旧来の仕事を減らすかもしれないが、新たな仕事を生み出す……というイメージも共有されていました。
 
 これは実際にそうなって、たとえば、機械が導入されて工場労働者(第二次産業)の必要数が全体として減ったとしても、事務、営業、デスクワークやサービス業(第三次産業)の必要数が増えれば仕事、席は創出されることになる。
 
 ですから、みんな学校では、「経済が進むと、第一次産業→第二次産業→第三次産業……と重点が変わってくる」と習いましたでしょう。
 
 
 
 しかし、今度はコンピューターができて、スマートフォンができて情報社会になると、第三次産業の仕事もコンピューターに奪われることになる。
 
 すなわち、工場労働者が機械に仕事を奪われたのと同じごとく、デスクワークやサービス業がITに仕事を奪われるという話になった。
 
 たとえば、税理士、会計士などは、コンピュータの高度な会計ソフトがこれを代替してしまって厳しい状況が続いている……というのは、もし自分で個人事業などやられていたらすぐわかることでしょう。
 
 だって、個人事業レベルならば帳簿も確定申告も、少しパソコンで伝票を打てば素人にでも簡単に出すことができるご時世ですから。
 
 あるいは、下級役人や会社組織でも数々の人間がやっていた諸事務は、コンピュータのおかげ(せい?)で、以前よりはるかにわずかな人員でこれをこなすことができているのであろうことも容易に想像できることです。
 
 つまり、社会全体で言うと、コンピュータがサラリーマンから仕事を奪ってゆくというのが21世紀の紛れもないイチ力学としてあった。
 
 
 
 では、このサラリーマンの席が減った分、あらたに創出される仕事というのはなんだ……というと、おおよそ
 
「人には、まだそのITを創る側の仕事があるじゃないか」
 
 という話になった。
 
 まして、インターネットだからグローバルで、クリエイティブな感じがしてカッコいいので、期待感は膨れ上がります。
 
 ……そうやって、膨らんでいったのが2000年代のITバブルだった。
 
 時価総額が何百億とか言って、これを背景にベンチャー企業が膨大な資金調達を行って、結局野球チームやテレビ局を買って失敗する、みたいな騒ぎは記憶に新しいはずです。
 
 この00年代の時点で、そもそもIT産業、IT事業に、全体としてはそこまでの席、仕事なんてない……ということがバレていたワケですが、昨今まるでこのことがなかったかのようにITイノベーティヴに浮かれているのは、まったくなんという記憶力の欠如かと驚かれることです。
 
 
 
 しかも、さらに言えば、昨今はAI(人工知能)というのがもてはやされだしました。
 
 これは肯定的にせよ、否定的にせよ、
 
「人の仕事をこれまで以上に劇的に減らす」
 
 ということで、見解は一致しています。
 
 
 
 これを否定的に見る見方は、「とうとう人間のやる仕事がなくなって、みんなが失業者になる」という暗い見方です。
 
 肯定的に見る見方は、単に「とうとう人間のやる仕事がなくなって、みんな遊んで暮らせるようになる」という楽観的な見方です。
 
 後者は、例えば

「人間の仕事がなくなれば、ベーシックインカム(最低所得保障)などの社会保障で分配すればよい」

 というような中学生じみた発想が知識階級にすら(知識階級だからこそ?)まかり通るようになった背景でもある。

(※嘘みたいな話ですが、「AIで失業が増えるからベーシックインカムで解決」みたいな議論は最近随所で見られます。例えば、
AIで失業 ベーシックインカムは正しい解決策か』)


 ◆

 
 しかし、私は、AIがいくら発達しても、人間のやる仕事は「本質的には」充分に残されていると確信しています。
 
 根拠は、「人間が本質的には国家を基礎に生きている」というところにあります。



 具体的に言うと、一つに旧産業の職はむしろ人手不足にあるということ。
 
 土木建築現場の作業員やトラック運転手、あるいは飲食店員など、機械で代替できない現場の肉体労働というものは、この現実の複雑さを見れば無数に残るはずです。
 
 そして、分配というならば、こうした職種に対して給与所得が大きく割り振れるように「政府規制を強化」していく方が、単純な社会保障よりも労働の活力に資す上に、国力の増進にも資するはずなのです。

 
 
 もう一つは、判断する者としての公務員です。
 
 AI(人工知能)やITでは絶対にできないのは、「公に判断したり、需要する」ということでしょう。
 
 だって、AI(人工知能)には、「国家や人間にとってなにが大切か」という価値判断は論理的に言ってできませんから。
 
 仮にしたとて、AIが「超人間的」な判断で「それが国家にとって大切だ」と言っても、人間視点ではその価値判断が正しいかどうかを確かめる術はない以上、これに従うわけにはいきません。
 
 つまり、人間が……というより、有機的な人間組織が「状況判断」するとともに循環するのが国家である以上、それは「我々が判断した」ということそのものが求められるものであり、仕事なのです。
 
 そして、国家は膨大で複雑ですから、多くの部門や地方に分かれ、各単位ごとに微細な判断をしてゆかなければならない。
 
 各省庁、各部門、各地方で、より細かく、さまざまな領域へ「(市場経済から超然した)国家」としての判断の効くよう、人員を増強して行く必要があります。
 
 むしろ、技術の進歩で社会はより複雑になり、グローバル化から国家を守る必要がある中では、より「市場から超然した行政、公共機関」を二重、三重、微細に張り巡らさなければならないはずです。

 つまり、技術が進めば進むほど、より多くの役人が必要になるのは当然の帰結なのです!


 
 すなわち、機械化、IT化、そしてAI化の押し進めてきた、「技術が人間から仕事を奪う」という流れは、「市場経済で必要とされる労働力の需要」を奪うということだけなのです。
 
 でも、それは国家として必要な仕事量を減らしているとは限りません。
 
 ならば、技術の進むことで「市場経済で必要とされる労働力需要を奪われた」後に復活すべきなのは、
 
「旧産業」と「国家」
 
 であり、そうでなければ我々は格差を公正せしめることもできなければ、価値を創出することもできないはずなのです。
 
 
 そして、問題は! その旧産業と国家に「超市場的」な価値基準を、全体として想定できるかどうかであり、これは根源的には一重に「ナショナリズム」の如何で決まる……としか言えないでしょう。
 
 
 
(了)

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そもそも「骨太の方針」は民主主義的すぎる   

 
 今では毎年のように経済財政諮問会議が「骨太の方針」を出して、省庁(役所)を縛る方針を出していますけれど、これはみなさんご存じのように「小泉純一郎首相」の時代からのことです。
 
 だから、別に伝統的な制度でもなんでもない。
 
 
 で、そもそもこの
 
「経済財政諮問会議」
 と
「骨太の方針」
 
 って制度は、良いものなのでしょうか?
 
 
 私はあまり「民主主義的」なこの制度は
 
「不必要かつ有害」
 
 だと思っています。
 
 
 ガール1


 
 
「経済財政諮問会議」と「骨太の方針」が民主主義的すぎる……というのは、小泉政権のことを考えてみればよりわかりやすいです。
 
 
 そもそも経済財政諮問会議で「骨太の方針」を出し、各省庁へ強い影響を及ぼし始めたのは、小泉政権からのこと。
 
 
 これは
 
「聖域なき構造改革」
 
 というヤツの一環だった。
 
 
 どういう意味合いで言われていたかと言うと、
 
A「官僚組織」
 
 への
 
B「抵抗勢力(自民党)」
 
 の影響を排し、
 
C「(支持率の高い首相が率いる)内閣」
 
 が方針を決め、これに従わせる……という話だった。
 
 
 
 そして、こうした話はいわゆる、
 
「既得権益の打破」
 
 として礼賛されてきたワケ。
 
 
 
 これは、例えば「郵政改革」と構造は同じなので、その方がわかりやすいでしょう。
 
 郵政改革とは、
 
1 「自民党の郵政族」と「郵政」が既得権益でケシカラン
 
2 「国民」は「首相の政策」を支持している
 
3 故に、国民の支持する政策によって、既得権益が打破される
 
 というガキのようなストーリーの上で成り立っていました。
 
(そー言えば、今ならみんな「郵政民営化騒ぎは低劣だった」と、口に出さないまでも心うちでは思っているでしょ?でも、同じようなことをそれ以後ずっと続けているのがニッポン人なので、この点において「ニホン死ね」というのはマジで思います。)


 
 で、「経済財政諮問会議」と「骨太の方針」というのもそうなのです。
 
 すなわち、
 
 
1 「旧来的な自民党の各勢力」が「省庁」と繋がると既得権益でケシカラン
 
2 「国民」は「首相」を支持している
 
3 故に、国民の支持する「官邸」によって「省庁」を縛る「太い骨」をめぐらし、「旧来的な自民党」を排除する。
 
 
 
 こういう話だったのですよ。
 
 
 
 その証拠に、2017年の骨太もどのような内容になっているかと言えば、
 
「世論で広く通りの良いものとされる議論」
 
 を全部突っ込んだという形になっている。
 
 
 
 つまり、
 
1 「民主主義」が「官邸」を支配する。
 
2 「官邸」が「自民党」を排除する。
 
3 「官邸」が「官僚」を縛る。
 
 このような形で、おおよそ
 
「直接民主主義」
 
 が、まかり通ってしまっているというのが昨今の出来事なのです。


(了)

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