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日本が日本であるために

主に政治、経済、時事、国家論についてなどを書きます。日本が日本である、ということを主軸に論を展開していきたいです。

 

ギリシャ雑感 



 すこし前の話ですが、ギリシャがまた債務不履行の危機に陥っていたが、ユーロ側と折り合いをつけて危機を脱したという話題がありました。

 ギリシャのことが日本で話題になるのは、ギリシャを引き合いに出して、色々と日本の世事を語ろうとする志向からくるものでしょう。ギリシャ人そのものを本気で心配している日本人は、残念ながらあまりいません。

 日本人がギリシャを見るときの観点は、まず大きくわけて二つでしょう。
①ギリシャの危機が与える金融の不安定化が、日本にまで及ぶものになるかどうかを見る
②ギリシャを引き合いにして、政治的な主張をする

 ①は、とどのつまり予測ですね。ただ、今回は、それほどのショックに対する危機感があったようには思われませんでした。ギリシャとユーロ側の話合いがつきさえすれば、IMFへの返済が可能だったので、今回はユーロ側と話し合いが付くだろうと誰もが思ったでしょう。なぜなら、ギリシャ側も、ユーロ側ですら、ギリシャ支援を再開しなければ双方酷いことになることは分かっているはずだったからです。
 だから、騒がれてはいたけれど、危機感はあまりなかった。

 つまり、今回我々が気にしなければならなかったのは、おおむね②の方のみでした。
 要は、ギリシャの財政をどう見るかが、日本の財政政策をどう見るかという空気とかかわっているから関心をもたれるわけです。

 これはおおむね、ギリシャの公債を引き合いにして、日本政府の累積債務を「ケシカラン」と糾弾する口実として使われることが多かったわけです。
 でも、日本政府の国債にギリシャのような問題があると考えるのは無理がある。

日本政府の国債が、ギリシャのような債務不履行の可能性がないのは二つの理由からです。
一、 90%以上が国内で償還されている。(外国に対する負債ではない)
二、 ほぼ100%円建である。(日銀の発行できる「円」で返せばよい)

 ですから、日本の国債が債務不履行を起こすことはありえません。もちろん、日本政府が転覆すればデフォルトになるでしょうが、政府転覆以外で日本政府がデフォルトを起こすようなストーリーは論理的に考えられないのです。あるいは、「デフォルトをしよう」という強い政治力学が働けば、債務を履行しなければ確かに債務不履行にはなります。でも、債務履行が経済的に不可能になるという筋道は、ないのです。

 つまり、日本の財政破綻論は、どんなに貶さないように評したとしてもデマゴーグなのであります。



 さて、何故、公債の話題が重要になってくるかというと、それは政府の財政政策の融通の問題と絡んでくるからです。

 そして、少なくともこの十年、二十年は、「財政破綻論」を根拠に政府の国債発行と支出を制限しようとする市民ジャーナリズム的バイアスがあった。(私は、私が中学生の頃。小渕首相がこれでイジメられて、大衆にくびり殺されていたという記憶があります)
 つまり、大衆は、政府の権限を制限して満足がしたいわけです。
 そして、政府に「節約」をさせて満足がしたい。
 特に、公共事業や公務員給与を節約させることを請求したい。

 そういう醜い大衆市民ジャーナリズム的な政治力学が、薄く、広く、甘く、共有されてしまっていて、われわれは自分たちの首を絞めてきたし、これからも締め続け、苦しみ続けるのでしょう。ざまあ見やがれってなもんです。

 また、この大衆理論を下支えするために日本人は、ギリシャ人を心配するわけでもなく、ギリシャを引き合いにしてきた。



 しかし、今回、ギリシャでは「緊縮財政にNO」という国民投票を通しました。(結局これも何の意味があっての国民投票だったかわからない国民投票でしたが)
 また、これまで日本の大衆ジャーナリズムは、「民主主義」も礼賛してきた。
 すると、彼らはどうするかというと、財政のうちでも「社会保障」だけは認め、「公共土木事業」や「公務員給与」「軍事費」などなどは認めないという都合のよい立場をとるわけです。
 つまり、大衆(敵)は、どこまでも「反政府」に都合がよいようにポジションをとる。(※もちろん、社会保障も重要な支出の一部であることは大いに認めますけれどね)


 ですから、ギリシャの「反・緊縮財政」=「積極財政」の国民投票も、とりわけ良きものとして受け入れるべきものでもないと私は思う。
 私はもちろん、「緊縮財政は良くない」とは思います。今は、ギリシャでも、日本でも「積極財政」が必要なのであり、景気が流れに乗ったら、そのまま「大きな政府」を目指すべきだとも思っています。

 が、それを「民主主義」によって採択するのは駄目です。「積極財政」が「民衆の請求」でなされても、そんなもの、ろくなものになるはずはないのです。



 われわれに必要なのは、「統治者目線の積極財政」というものなのです。

「統治者目線で、民を安んずる」
 というのと、
「民として民の請求をする」
 というのでは、全然違います。

 民として民の請求をするなどということで、何か良きものが得られることはないのです。これは人類普遍の大原則なのであります。



(了)


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賃金にかんする序章 

 今日は、賃金の問題から論じてみます。

 あ、それと、へんてこな更新時間になってしまってごめんなさい。

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 賃金の話題をするために、まず、『名目賃金』と『実質賃金』というものを説明しておきましょう。

 字面は何だか小難しいようですが簡単な事です。

 名目賃金は、その額面とおりの賃金です。
 たとえば、ある人が一年間働いて200万円の給料をもらったならば、その「200万円」が名目賃金というわけです。

 実質賃金は、その額に「物価」を加味したものとなります。
 たとえば、ある人が一年間働いて200万円の給料をもらったとしても、世の中の「物の値段」が上がれば、その「200万円」の価値は、当初の200万円より下がっているでしょう?
 逆に、「物の値段」が下がれば、その200万円の価値は、当初の200万円より上がっている。
 つまり、缶コーヒー1本100円である世の中の200万円と、缶コーヒー1本千円である世の中の200万円では、200万円の価値が違うのです。

 そういう風に考えると、一見、「物の値段が下がりつづける」というのは、良いことのように思えます。と言うのも、物の値段が下がり続ければ、200万円で買える缶コーヒーの数は増え続けるでしょう?
 ですから、『デフレーション』(物の値段が下がり続けること)というのは問題ではないと言う人達が、かなりいました。

 しかし、デフレーションを、『デフレスパイラル』として一連の流れとして考えてみると、少し厄介な事がわかる。

 デフレスパイラルとは、

1、モノの値段が下がる
2、企業の粗利が下がる
3、給与が下がる
4、消費(需要)が下がる
5、供給が余る
6、モノの値段がまた下がる

 という循環です。

 つまり、物の値段、企業の粗利、給与、消費、投資……といった経済項目は、相互に連関しあっているということ。

 ただそれでも、その相互連関が市場の中で『均衡』して進むのであれば、デフレーションは問題ではないという事になります。
 この場合の『均衡』というのは、「物の値段、企業の粗利、給与、消費、投資」といったもののあらゆる推移を人々が予測し、そしてその通りに進んでゆく……という意味です。(あるいは平均としては)

 しかし、現実世界の人々に、そこまでの『理性』はありません。
 つまり、人々の『予測』は極めて不完全であるし、また、人々は自分の予測が不完全であるという事も知っています。

 特に企業は、需要が減り、粗利が減ってゆく世の中では、将来が不確実であると見なし、貨幣を信用資産として保有しておこうとします。(流動性選好)
 すると、物の値段が下がる以上に、『給与』と『投資』が減り、貨幣は『企業の内部留保』や『投機』へと向かってしまう。

 ですから、人間の理性が不完全であるという前提に立てば、デフレーションが問題なのは確かなのです。



 さて、ここで実質賃金、名目賃金の話に戻りましょう。

 そもそも、「デフレーションは問題ではない」と見なす者は、実質賃金を重視すべしと主張します。というのも、賃金の下落に沿うように物の値段が下落するなら、デフレーションは問題ではないということになるでしょう?

 対して、「デフレーションが問題だ」と見なす者は、実質賃金を重視する態度に疑問符を投げかけます。つまり、労使共に物価の下落と賃金の下落を予測し切っていたりなどしないからです。


 デフレーションが問題であると思う私は勿論、「賃金は実質で見るべきではない」とは思います。しかし、このことを酷くねじ曲げた格好で拡張したのが、リフレ派です。
 リフレ派は、「労働者は賃金を額面(名目)でしか考えないから、物価上昇に伴う実質賃金下げ圧力は問題ではない」というところまで拡張して、さらに「その名目と実質の差分で、労働者を安く使える分だけ、収益を上げる事ができるようになる」ということを「インフレーションでなければいけない理由」の一つだとするような、酷いねじ曲げ方をするのです。

 この理屈が酷いのは「やまと心」さえあれば分かるでしょう。
 しかし、仮に日本人に一切のやまと心が消失してしまっていたとしても、馬鹿でなければおかしいと分かるはずです。

 何故って、名目賃金と実質賃金の差分でコストを実質でカットできるのだとして、そのことによって起こる投資には、やはり見通しが必要になってくるのです。つまり製品を安く『供給』できるようになることと、その安い製品が『需要』される事は別問題で、また、企業の方もそのことを分かっているから全体として投資が増えることもない。
 つまり、物価と賃金にかんするリフレ流解釈は、『供給』サイドの領域しか網羅していないのです。そして、供給サイドの領域しか網羅しないのであれば、そもそも「デフレーションが問題である」とする論理の方に、綻びが出てしまう。
 何故なら、供給されるものが全て需要される、あるいは需要されるものしか供給されない……といった完全情報的市場では、「デフレーションでも市場は均衡する」と考えなければならないからであります。



 これに対して、『需要』サイドを考えれば、やはり『賃金』の上昇は無視できない話題になります。

 ただ、だからと言って、少し前の三橋貴明氏のように「実質賃金」を問題にするのは、本末転倒というもの。賃金を実質で考えてしまうと、これはこれで「デフレーションが問題である」という所への論理が絶えてしまうからです。

 また、私は、別に人々が「手に入れられる物質の量」を増やす事が良い、などとは全然思いません。
 というのも、現代大衆人はまだまだ全体として飽食であって、たとえば「一家に一台だった車を二台買えるようにする賃金上昇」だなんて、不必要かつ有害であるとさえ思います。
 そういった意味でも、賃金を実質で見る事には、たとえリフレ派を糾弾する意図であっても賛成できかねます。


 これは長期的スパンを臨んだ場合の、『態度』の問題ですが、やはり賃金は『名目』で見るべきです。と言うより、税引き前の額面で見るべき、といった方が正確でしょう。
 つまり、「人々が、より多くの物質を手に入れられるようにする為」ではなく、「実体的労働が、長期的に額面として評価される為」に賃金は上がっていくべきなのです。

 勿論、「名目賃金が、上昇する物価以上に上がっていく」という意味での実質賃金上昇(三橋氏はそういう意味で言っているのでしょうが)を望むことは否定しませんが、最終的に、その実質での賃金上昇分は、「人々の欲望としての需要」ではなく「公の恒常的需要」としてされていくべきだろうと、私は強く主張するのものです。
 つまり、デフレーション脱却につれての(あらゆる種類の)増税という方法で。

 これは長期的ビジョンにかんする話で、デフレーションの方は短期の話なので、「まず短期の問題を解決する」という考えには賛成です。また、現状の政府支出の拡大は、公債をもってこれに当てればよろしいでしょう。
 しかし、『需要』にかんする長期的なビジョンとしては、「賃金上昇と消費拡大」というよりは、「賃金上昇を税金で徴収、恒常的な公の支出の拡大」という方向性を向くべきなのです。
 つまり、大きな政府へ向かうという事であり、その長期ビジョンを睨んだ短期的問題解決の連続でなければならない。


 話をまとめると、人々の労働についての名目賃金は評価上昇され続けて行くべきで、それが物価の上昇率以上に上昇し、実質賃金としての上昇率分が消費の上昇に繋がり、『需要』の上昇に繋がると考える仕方は、短期的には悪くない。
 ただ、長期的には、その需要の上昇は「人々のそのままの消費活動の上昇」として行われる必要は全くなく、むしろ増税をして、需要の方は政府がこれを公のものとして行えば問題ない……と考えてはいかがか、という事。


 つまり、人々の賃金を上げる必要はあるが、それを『需要』するのは政府がやるべきだということ。
 また、裏を返せば、別に人々が「消費」で購入できる財の量が増えなくとも、賃金は額面で上昇していかなければならないということです。

 この事を考えていただかないと、「デフレーション脱却」と銘打たれたそれは、単なるミニバブルで終わる可能性が高いでしょう。



(了)

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3.藤井聡教授V.Sリフレ派 

 マンデルフレミングを見ても分かるように、実の所、藤井教授とリフレ派の対立は、「TPP」を始めとする国際経済についての立場を見る必要が絶対にあります。
 何故なら、「投資の期待の先にある主要な需要」を『公共支出』と想定するか『輸出』と想定するか……という所に、文脈の根本的対立があるからです。

(※安倍政権発足時から安部首相のTPP交渉参加表明までは、この事を指摘しようとすると「保守分断だ!」と言われかねない情勢でした。が、TPPの件以降、リフレ派はマンデルフレミングを持ち出す等して、この事を別に隠そうともしなくなりました。都合の良い時には「保守分断だ!」と言って意見を牽制しておきながら、情勢が変わった途端に態度を変えるというのは本当に『卑怯』な人々だなあと、私は感じていたわけですが……)

 まあ、なにはともあれ、今回は需要のビジョンにかんする『公的支出』と『輸出』を焦点に。


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はなはな1


 まず、「投資の期待の先にある主要な需要」について、藤井教授とリフレ派の違いをザッと区別してみます。


【藤井教授】

 藤井教授は『公的需要』を「投資の期待の先にある主要な需要」と考えます。
 公的需要に喚起される形での民間投資、および民間投資に喚起される形での民間需要(乗数効果)というような形での『短期的なビジョン』を提示しているわけです。

 そして『長期的ビジョン』にも(これが見過ごされがちですが)、公的需要を主、民間需要を従とした『大きな政府』への指向があります。(ですから、長期的には増税に賛成のはずなんです)

 その国内経済循環の為、対外的には、保護貿易を指向します。(ですから、TPPには絶対反対だったのです)



【リフレ派】

 リフレ派は「輸出」を「投資の期待の先にある主要な需要」と想定します。
 海外の需要を取り込む事を前提として民間投資、および民間投資に喚起される形での民間需要という『短期ビジョン』を提示しているわけです。(ですから、円安を国益と換算している)

 そして『長期的ビジョン』にも(これが見過ごされがちですが)、海外需要とそれに喚起される国内民間需要を主、公共需要を従とした、『小さな政府』への指向があります。(ですから、長期的にも増税には絶対反対なのでしょう)

 さすれば当然、対外的には自由貿易を指向します。(ですから、TPPには賛成、あるいは容認するわけです)



【考察】

 そもそも、ケインズの『一般理論』での「流動性選好」(貨幣を信用財産として所有しようとする気分)は、未来の「不確実性」を前提にしていました。
 流動性選好で投資が控えられているというのは、イコール「投資――供給増」に見合う「需要のビジョン」がない……つまり、「金を借りて、投資をして、供給をしても、売れないだろう」と見通す企業家の気分、精神が、「貨幣を信用財産として保有」したり、「銀行から金を借りて投資することを控え」たりという行動に繋がる。企業家は、別に「物価下落による貨幣価値の高まりに投資していた」わけではないのであるから、仮に彼らが将来のインフレを予測したとしても、将来における需要の見通しがつかなければ投資しないのです。
 言い換えれば、「投資して、供給しても、需要されえない」という『不確実』よりも、『信用資産』として貨幣を保有する『確実』を選好してしまう、あるいは銀行からお金を借りて投資する『不確実』を避けてしまう……というのが、『雇用利子および貨幣の一般理論』でいわれる「流動性選好」の本旨のはず。
 そして、IS――LM分析がこの事を致命的に取りこぼしているのは、その制作者であるヒックスも認める所なのです。

 藤井教授の『国土強靱化』は、一般理論の不確実性の考えを継承したものだという側面もある。何故なら、政府支出およびその乗数効果は、企業家にとって『確実』な需要のはずだからです。おおむね、人々は政府の悪口を言いますが、実の所は政府ほど確実なものはないということは知っているでしょう。



 これに対してリフレ派的に、IS――LM分析のLM曲線を、単に金融緩和によって右へシフトさせるというのは、不確実性を考慮にいれていないという話になってしまう。

 ところで、リフレ派は純粋に貨幣数量説に基づいてモノを言っているのかと言えば、必ずしもそうではありません。長期的にはそう思っているのだとしても、短期的には直裁的に貨幣数量説を取っているわけではない。
 彼らはつまり、長期的には貨幣数量説の世界観を持っているが、短期的には、「将来の貨幣数量に対する予測を、確実なものにする」という事で、インフレ予測を起こし、「将来インフレになるんだったら投資しなければ損だ」と企業家に思わせて、投資増から実体経済のデフレ脱却を指向する……という、インフレ・ターゲット論を主張しているのであります。(そういえば、小泉政権下で言われていた「上げ潮派」という名称は何処へ行ったのでしょう)

 ただ、この考えで行くと、投資の結果に供給されるものは、必ず需要される(あるいは、必ず需要されるものを供給できる)という、セイの法則を前提としたサプライサイド経済学(パパ・ブッシュがブードゥー経済学と揶揄した)になってしまう。
 実際、この問題はリフレ派であっても流石に分かられていることであるから、次の事が(密かに)前提とされている。

 それは、

「投資によって増えた供給は、(必ずしも国内で需要されるとは限らないが、)輸出によっては必ず需要される」

 あるいは

「輸出によって需要されるものを必ず察知でき、供給できる」

 はたまた、

「平均的には、そうである」

 と、いうような話であります。
 リフレ派においては、これが(おそらく無自覚に)前提とされている。

 だから、彼らは需要にかんする不確実性は考慮にいれない。
 いや、需要にかんする不確実性は「輸出」によって解消されていると見なすことを前提としている。
 で、あるから、IS――LM分析の流動性選好が、未来の「不確実性」を表現し切れていない事に何の配慮もなく、マンデルフレミングモデルという形で歪に拡張されたモノを持ち出す事に躊躇いもないのです。

 ただ、この前提は、そもそも『大衆』が前提とする指向であり、リフレ派は大衆の気分や風潮を引き受けた格好だ、とも言えます。

 日本現代大衆人は、企業家には「輸出によって需要されるものを察知」することを強要するのであり、国内市場の消費者には「輸出によって需要されるものを需要する事」を強要するのであります。これは、「グローバル市場から取り残されるガラケー(ガラパゴスケータイ)は止めて、スマフォを使いましょう」というような運動(流行)に、象徴的に現れているでしょう。
 この、タッチパネルの広まりも、消費者の自発的な選好だというのでしょうか?(あるいは平均的にはそうだというのでしょうか?)だとすればグローバル市場に対し、こんなに都合の良い選好はありません。だって、消費者の自発的な選好に任せておけば、彼らは自発的にアメリカ市場で求められるモノを選好してくれるというワケでしょう?
 でも常識で考えればそんなわけありません。あれは自然に考えて、アメリカ市場で需要されるものを供給するために、需要するよう促されたんです。
 これは誰が促した……という話ではなく、日本人がです。大衆が喜んでこの事を選好したのです。
 家電メーカー、広告代理店、消費者という、一個の塊……大衆が、共有された雰囲気の上で全体としてそういう行動をとった。それが『流行』を形づくった。でも、大衆が喜んですることを礼賛する事を、日本語で『大衆迎合』とか『民主主義』というのです。

 リフレ派の『前提』は、大衆のこうした指向を引き受けています。むしろ、大衆が喜んでこうした風潮へ進んでゆく事を、「個々人の自由な選好」として肯定的に捉えるきらいさえあります。
 また、政府公共支出より、そうした大衆の眩示的欲求に従った方が民主的でよろしい……というような発想は、まさに大衆礼賛の髄とも言えるでしょう。

 故に、私はこれを『大衆パラダイム』と呼ぶのです。

 このパラダイムは、「アニマルスピリット」というよりは「フロンティアスピリット」と呼ばれるべきシロモノでしょう。
 そして、大衆によるフロンティアスピリットの大行進を、「ノベルスオブリージュ(高貴なる者に強制的に課された責任)」によって棄却する呼びかけが『国土強靱化』だったのです。



(つづく)

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【番外】前回記事にいただいたコメントへの反駁 

 今回の記事が、前回の記事で「空き地さま」という方からいただいたコメントに対する返答として書かれたものであることを読者に知らせておくことは、必ずしも無益ではないでしょう。
 コメントとして要点を書き始めていくうちに、長くなり、次記事で述べようと思っていた事に随時言及する形となったので、記事として掲載致しました次第でございます。
 議論に乱暴な所、端折った所などございますが、どうかごらんいただければと存じます。


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サクラダ




前回記事「2.藤井聡教授V.Sリフレ派(マンデルフレミングモデル)」
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-186.html


空き地さまよりいただいたコメント http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-186.html#cm


 これに対しての反駁を、以下の8点に纏めました。


1、小渕政権、麻生政権での円高が、財政支出によるものだとする所までの筋がわからない。円高の要因で最も考え得るのは民間部門の輸出超過のはず。(あるいは、金融緩和が足りなかったんじゃあないでしょうか?)


2、もし、「空き地さま」に孫引用いただいたhttp://ameblo.jp/typexr/entry-11717184761.htmlで飯田氏の言うように、マンデルフレミングやクラウディングアウトが現実世界では決済と共に徐々に立ち現れるものだとするならば、その時間差での金利高はいつあったのか不明。
 実際に時間差の後に立ち現れなくても、金利高圧力が水面化ではあったのだ……という論法が成り立つなら、どんな理論を下にしようが、何を言おうが良いことになってしまう。
 また、引用元のブログ主は、自分ではなんら理論を説明したり、自分の意見を提示したりしていないで、単に飯田氏の文章をそのまま長文で引用しているだけのくせに、悪口だけは上等なようである。このような文章だけは書きたくないものだと、肝の冷える思いがさせられたというもの。


3、もし仮に、麻生、小渕政権の財政出動が、「決済と共に次第に金利上昇が起こるだろうという予測」を海外の投資家にさせ、予算の発表時に円買いが集まり、円高が起こった……と、相当無理矢理に解釈するのであれば、それは海外の投資家が間違っていたということになる。事実、時間差を置いても金利はいつまでたっても上がらなかったのだから。
 その上でまだ、政府は「海外投資家の中で前提とされているだろう経済モデルによって決定される投資家マインド」を予測して、政策を決定せねばならないのか。かしこくも天皇陛下を戴く我らが中央政府は、この歴史と伝統ある日本国をそんなフワフワしたものに媚びて統治せしめなければならないのか。


4、マンデルフレミングやクラウディングアウトは、「政府支出の増大そのものが金利を上げる」とは示していなくて、「政府支出の増大によって、貨幣需要が伸びるから、金利が上がる」と示している。それならば、焦点は財政出動の規模ではなく「公債による資金の吸い上げ」あるいは「予算成立時に予想しうる、公債による資金の吸い上げがどれほどになるかという予測」であるはず。ならばそもそも焦点は財政出動そのものではなく、政府支出の規模全体か、公債の発行額にあてられるべきである。というわけで、小渕政権や麻生政権を焦点とするのは、マンデルフレミングの「仮説ーー演繹」を検証する筋に合っていない。何故、公債発行高のより高かった政権の円相場に焦点をあてないのか?


5、そもそも円高は必ずしも問題ではないし、輸出が円高によって減ることなどある程度問題ではない。
 輸出は「国内で産出不可なものを輸入をするため」にあるのであって、別に輸出を増すことそのものに大した意義はない。
 勿論、経常赤字はよろしくないが、大幅な黒字貿易をもって「需要」を取り込んでも別に『国力』は上がらない。
 需要を海外に求めるのではなく、恒常的、長期的に政府の公的需要を増やし、その土台の上で国内の閉鎖性を担保し、国内で多様な産業と各地域経済の保全をもって安定性を確保しつつ、需給バランスを均衡させ、内部の経済循環を活発化させていく方向を向くべき。「イノベーションを喚起するグローバルで自由な投資環境」を整えるよりも、「国力を強くする環境」を整える方が、よほど大事なことなのだから。
(ここが、私の論で最も主張したいところですから、次かその次でもっとじっくりと)


6、空き地さまは、「リフレ派は、マンデルフレミングで『金融政策無効論』を反駁しているだけで財政政策を否定しているわけではない。被害妄想だ」とおっしゃるが、金融政策無効論を反駁したいだけなのであれば、マンデルフレミングを持ち出す必要はない。ISーーLM分析で十分すぎるほど十分なのである。
 わざわざそれを解放経済に拡張したマンデルフレミングを持ち出す時点で、「政府支出という国内需要」より「民間輸出による需要取り込み」を重視する事を前提に話を進めようとする恣意がある事を、誤魔化すことはできないはず。それを誤魔化せると思うのは、「どうせ経済理論なんて分かってねえ奴の方が多いはずだ」とタカを括っている左証となる。あるいは、どうせ「政府支出」より「民間企業の海外への輸出」の方が格好の良い響きで、世間的に受け入れられるであろうから、わざわざ深く掘り下げられる事もあるまいとタカを括っているのか。
 また、逆に、「財政政策を重んじつつ、金融政策そのものに反対している論者」を、私は見たことがない。いるなら教えて欲しい。
(金融政策あっての財政出動であることは、私も認める所である)


7、財政政策を主、金融政策を従とする発想を、「固定相場制を指向するもの」だとする「空き地さま」のお考えは、どこにどう根拠があるのか分からない。
 それは、そもそも「空き地さま」がまずマンデルフレミングを前提としつつ財政出動を重視する論者を見て、「あ、固定相場制を指向しているな」と断じているにすぎないのではないか。
 あるいは、「国境を越えた資本移動の自由を制限する」という事と、「固定相場制を指向する」ということを取り違えておられるのではないか。
 また、現下、金本位制を指向している者も見たことがない。『金本位制論者』という見えない敵と戦っておられるのは「空き地さま」の方ではないか。


8、7から、藤井教授が「マンデルフレミングを否定しながら、マンデルフレミングを前提にしている」という糾弾は、根拠を失うはず。
 また、もしそのように見えるのであれば、藤井教授は、マンデルフレミングではなく、ISーーLM分析の元であるケインズの『一般理論』の方を前提にしているからであり、そして、一般理論では不況下での金融政策は単独では効果がない事を示唆している。
 繰り返すが、それを「為替変動によって輸出が減るから財政出動に効果がなくなる」というような、「輸出」と「国内の需要(政府であろうと民間であろうと)」とを(暗黙の内に)等価値として前提し、拡張したのがマンデルフレミングである。
 そして、そもそも、ISーーLM分析として図式化した時点で、「未来の不確実性」や「流動性の罠」の議論は見えづらくなってしまったのであって、さらにマンデルフレミングモデルでの拡張で、これらは灰燼に帰してしまった。
 一般理論を前提としての「仮説ーー演繹」の営みであるにもかかわらず、一般理論の議論を都合良く置き去りにしている……という卑怯をやっているのは、マンデルとフレミングとリフレ派の方ではないか。
 また、そのことをプロの経済学者や評論家が分からないはずはないのであり、リフレ派は、「どうせモデル成立までの経緯など知らない奴の方が多いに決まっている」とタカを括っているのではないかと疑われてくる。



(了)

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2.藤井聡教授V.S.リフレ派(マンデルフレミングモデル前半) 

 アベノミクス登場以来、アベノミクスを「金融政策を重んじ、財政政策を軽んじるリフレ政策」として解釈した者達は、マンデル・フレミングというモデルを振りかざすか、あるいは、マンデル・フレミングモデル的世界観を前提としております。
 というわけで、今日はマンデルフレミングを「藤井教授対リフレ派」の対立項として論じます。

 なお、「マンデルフレミングモデル!」などと、さながら必殺技のような名前に怯む方もおられるでしょうが、安心してください。
 これは全然難しくないし、実際くだらない話です。「マンデルフレミングモデル」ではなく「まんでる・ふれみんぐ・もでる」と可愛いらしく表記すれば驚かれなくて良いのかもしれませんね。


 マンデルフレミングモデルがどうしても好きでたまらない……という方には無理にとはいいませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。





ローマ


 確かに、マンデル・フレミングモデルによれば「変動相場制で資本移動が自由ならば、財政政策は無効で、金融政策はとても有効」という結論が導かれはします。
 しかし、これは『仮説ーー演繹』の営みであるから、「仮説を成り立たせる条件の揃った状況下では、普遍的に適応される」という性質のものであります。つまり、「現実世界」と「仮説ーー演繹の経済モデルにおける世界」の間には『乖離』があるはずなのです。

 では、マンデルフレミングモデルの世界では一体どんなことが起こって「変動相場制で資本移動が自由ならば、財政政策は無効で、金融政策はとても有効」という風になるのでしょうか?
 その流れをごく簡単に説明すると以下です。

「政府が公債を発行し、政府が支出を増やせば確かに需要が増える。しかし、政府が市場の通貨を需要すれば、その分だけ市場の通貨が減り、金利が上がる(貸したい側が減り、借りたい側が増えるはずだから)。金利が上がれば海外から円を買う動きが出て円高になる。円高になれば輸出が減る。『総需要=消費+投資+政府支出+輸出-輸入』だから、政府支出で増えた分の需要も、輸出減で相殺される」

 こうやって説明されると、「なるほど、そうかもしれない」と思われるかもしれませんが、これは色々と綻びの多い論理なのです。


 その中でも藤井教授は、これに極めて有効な反撃をしています。
 それは、「政府が市場の通貨を需要すれば、その分だけ市場の通貨が減り、金利が上がる」という部分が成り立たなければ、上の理屈はまるで現実世界では通用しないはずだ、という反論です。

 まず、政府が公債によって通貨を吸い上げても、まだ貸す側が借りる側よりも過剰ならば、金利は上がりません。つまり、そもそもデフレで資金需要が低く(お金を銀行から借りてまで投資するという見通しのつく企業が少ないから)、銀行が貸し所に困っている状況で、公債の発行による金利の上昇は考えられない。つまり、マンデルフレミングモデルが成り立つためには、「通貨を貸したいという供給より、借りたいという需要の方が多い」という状況……インフレの場合でしか当てはまらないのです。
 つぎに、財政出動に併せて金融を緩和するのであれば、通貨の供給不足による金利上昇は避けられるという事も、指摘されております。『財政政策』を『金融政策』で補佐するというのは、こういう事です。
 さらに、これまで公債を発行しているが金利は低いままできたという「事実」があります。これで、マンデルフレミングの演繹が、現下の帰納的な分析においては適用できない事がほぼ明白にされていますでしょう。勿論、帰納はその普遍性を立証できませんが、「過度な演繹を帰納で、過度な帰納を演繹で批判する」という常識的態度を持てば、これは無視のできないことのはずです。

 まとめると、
「デフレでは政府の公債発行は金利を上昇させないし、財政出動に金融緩和を併せれば金利上昇は抑えられるし、その証拠に今までの公債発行は金利を上げていない」
 ということ。
 それならば、少なくとも現下でマンデルフレミングは適用できないし、さらにクラウディングアウト(公債発行が金利を上げ、民間投資を圧迫するという理論)も適用できないはずです。

 乱暴にまとめてしまいましたが、藤井教授の反駁の要旨は、概ね以上のようなものです。
 そして、この反駁に対するリフレ派の反駁で、有効なものを見た試しがありません。(何処かにそういったものがあれば、教えていただきたいくらいです)



 さて、この対立を外から眺めていると、ふと、疑問に思う事があります。
 というのも、「マンデルフレミングがインフレ時にしか適応できない」という藤井教授の論はもっともではあるけれど、そもそも「ISーーLM分析」を拡張したものがマンデルフレミングモデルであったはずなのに、それがインフレ時にしか適応できないというのは一体どういうことなのか……

 次回はこの疑問を探る方向で論を進めたいと思います。



(つづく)

Category: 経済

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