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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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『進撃の庶民』様について 


 今日は久しぶりによそ様のブログ評を。


 私がいつも参考にさせていただいている政治系ブログの一つに、『進撃の庶民』様という人気ブログがあります。

 進撃の庶民様は、ナショナルな「庶民」として「大衆世論(安倍内閣)」へ反逆し「反・グローバリズム」「反・新自由主義」の論調を取っているとても貴重なブログです。


レッサーパンダ1



 進撃の庶民様は、どうやら複数人数でブログを運営されているようで、かつ、『国家戦略特区blog』のみぬさよりかずさんなど複数のブロガーが定期的に寄稿なさっていたりなど、活気もあります。

 そして、このブログ周辺の方はコメントする読者も含めて、三橋貴明さんや藤井聡さんの言説に影響を受けた方が多いようです。


 かく言う私の書いているこの弱小ブログ『日本が日本であるために』も、もともと藤井聡さんや西部邁さん、中野剛志さんらの言論から甚大な影響を受けて始めたブログです。

 ですから、自由貿易主義や規制緩和などの「構造改革路線」がきっと日本国家をますます脆弱にし、霧散させてしまうであろう……という危機意識を共有するものと自負しております。

 その点、進撃の庶民様とも問題意識を同じくするものと考えておりました。

(また、当ブログは以前より進撃の庶民の推奨ブログにしていただいており、お世話になっております)


 ・


 そこで恐縮ながら、私から見た、『進撃の庶民』様の強みというものを考えてみたいと思います。

 進撃の庶民の強みとは何か。

 それはすなわち、

「ある一定の前提(反・構造改革)を共有する者たちがそこそこ団結し、ブログという庶民にも可能な形式で言論活動を行う舞台になっている」

 ところでしょう。


 ・


 そもそも、庶民がなにか国家のために思想を練ったとて、これを発表する機会というのはなかなか想定しえませんでした。

(庶民に思想発表の場が必要かどうか自体にも議論はあるでしょうけれど)

 そこへIT社会化で、庶民もブログなど発表の機会を得はした。

 ところが、だいたい庶民がブログで思想を発表してみても、ほとんどの場合、

「書いても、誰も読んでねー」

 ってなりますでしょう。

 そりゃあそうですよ。

 ブログは、誰でも気軽に発表可能な媒体ではあるけれど、でも、どこの馬の骨だか知れないヤツの書いた文章なんて誰も読みゃあしません。

 そりゃ芸能人が書いたブログとかなら人は集まりますでしょうけど、それはそいつが芸能人だからでしょう。



 これに対して、

「誰も読まなくても、自分の純然たる思想のための思想を書ければ良い」

 ……というなら、そもそもブログなんぞへ発表せず、フランツ・カフカのように神へ向かって書いていれば良い。

 ブログへ発表をしておきながら「純然たる思想のための思想」なんてありえません。

 ブログへ考えを発表している時点で、「自分の思想で他者へ影響を与えよう」とする肥大化した自意識があることは歴然で、すべての公開ブログには「思想」以外にも多かれ少なかれ「人に読んでもらおう」という意図が入り混じっているはずなのです。


 しかし一方、人に読んでもらうことだけ考えて書くのであれば、それこそ市場の大きい「反サヨク」や「反ウヨク」の記事で数を動員するのが最も効率的であろうし、そこまで行ったら「芸能記事」や「IT便利記事」とかの方が良い……という話になるでしょう。

 あるいは、単に「芸能記事より政治経済の記事の方が頭良さげに見てもらえそう」という邪悪な目的意識があって、その範囲内で数を動員するためには「反ウヨク」「反サヨク」「在日、韓国叩き」「反民主党」「反安倍」などが最も効率的であると想定しているだけならば、それは芸能記事やIT記事で数を動員するブログ以下の俗悪であると評さなければ済まなくなる。

 ……とは言ってもやはり、そんなこだわりばかり持っていたってブログに閑古鳥が鳴くだけかもしれない。

 最初から有名人でもない限り。


 ・


 ブログに限らず、表現にはそういう葛藤があるのは明白でしょう。

 すなわち、現実の表現者は、

1 自分の思想

2 他者へ影響を及ぼそうとする意識(工夫)

 の二面を睨みつつ「総合」する作業をほぼ無自覚にやっているはずなのです。

 また、その総合に均衡が失われれば、(もともと悪意を持っていなかったとしても)A「他者へ影響を及ぼすことのみが過剰に目的化し、図らずも言葉が嘘や詭弁にまみれていってしまう」か、B「自閉的に自己の思想に閉じ込もってしまう」か、あるいはその両方かしてしまうのです。

 だから、言論というのは(たとえアマチュアでも)おそろしいことなのです。


 ・


 ここで、進撃の庶民様の話に戻りましょう。

 寄稿も含め複数人数で団結してみんなでブログをやっていくという強みは、

1 「団結には、団結の前提がある」

2 「複数で力を合わせた方が影響力を得やすい」

 にあると思います。

 これは個人に照らすと1が「思想」で2が「他者へ影響を及ぼそうと言う意識」ということになりますが、この性質は個人であろうが集団であろうがだいたい同じでしょう。

 ただし、「団結の前提」は団結しているからこそ確固なものになり得るし、「複数人数で力を合わせること」は更新頻度や記事の多視点化から見ても力になります。



 つまり私は、おそれながら進撃の庶民様にこういう期待を抱いていたのです。


 すなわち、

「数を動員し、影響を与えるブログであること」

 については、分担・協力作業によりそれなりの余裕が担保された上で、

「前提の領域内では各個自分が正しいと思うことを言う」

 ことによって、

「単なる『バズる』や『検索流入』のようなネット動員の論理から距離を取った言論が可能」

 になり、あわよくば読み手コメントも含めて

「論壇化」

 して、

「ナショナリズム」
「反自由貿易主義」
「反規制緩和」
「積極財政」

 の前提、土台の上で論を重ねようとする輪が広がってゆくのではないか……。

 という期待です。


 ・


 ですから、森友学園問題で安倍打倒……も、その運動の「大目的」が、
「庶民」として「国家」を想うことであり、
「ナショナリズム」
「反自由貿易主義」
「反規制緩和」
「積極財政」
 の「国家的な必要を訴える」というところにあるのならば別に文句のあるところではないのです。



 庶民が国家を想い、

「ナショナリズム」
「反自由貿易主義」
「反規制緩和」
「積極財政」

 が必要だから、

「安倍を倒さなければならない」

 から、

「森友学園問題を手段とする」

 というのなら筋として通るからです。



 でも、それはとても微妙な話で、実は、

単に「安倍打倒を言えばチヤホヤしてもらえるから」

 とか

単に「森友騒ぎで戦前コスプレ保守を踏み絵にしておけば、徴兵される可能性が1%でも減るから」

 という方が「目的化」して、

 庶民として国家を想う

「ナショナリズム」
「反自由貿易主義」
「反規制緩和」
「積極財政」

 という当初の目的が「手段」として凋落する危険性は、実際そうであるかは別としても、論理的にありえることでしょう。

 だからと言って、進撃の庶民に関わる人みんながそうだとは思いませんし、あれだけ人の集まる有力ブログだからこそ、当然中にはそーゆー心の領分を持ったヤツが出てきてもおかしくないよね……ということを申し上げているだけです。

 そうなれば、自分がそもそもどういう人に影響を受けて物事を考えてきたかすら忘れて、やたら先鋭化したことをおっしゃる方も出てくるでしょう。



 ……ただ、それは運動として展開されている分、仕方のないところなのかもしれないとも見ます。

(なんだか傲慢な言い方になってしまって恐縮ですが)

 それから、「加計学園問題での安倍追求」は両手をあげて賛成ですし、『進撃の庶民』様については引き続き愛読し、影ながら応援させていただこうと思っている次第です。


(了)

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自己の制御 



 小学校高学年くらいから中学生くらいにかけて「自己の制御」というようなことをよく考えていたような気がする。

 もちろん、自己の制御をまったくしていない人はまれですが(まったくしないのをキチガイと言う)、ポイントは
「自己の制御を意識的に体系化しているか、いないか……」
 だと思った。

 で、世の中には、

1 自己の制御をそれほど意識せずとも、周りと上手くやっていけるヤツ

2 自己の制御を常に意識しつつ、周りとなんとかやっているヤツ

3 自己の制御を意識しているけれども、周りと上手くいかないヤツ

4 自己の制御を意識せず、周りと上手くいっていないのだけれど、そのことに気づいていないヤツ

 の四パターンに大別できると思ったものです。


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海へ行ってきました・日記 



 そういえば、首相の談話が出たそうですが、いまは見る気がしません。
 明日は「敗戦記念日」ですが、これについても何か考える気が起こりません。


 今日は、海へ行ってきました。
 というのも、副業で海水浴場にかんする紹介記事を書いていて、書いていると何だか行きたくなったからです。

 自宅の最寄駅から520円で海水浴場近くの駅へたどり着きます。
 海と言うのは、よく見てみると恐ろしく壮大なものでした。

 海は青くありません。
 幾万、幾億の煌く陽が宝石のように散らばっていて、光色であふれています。
 遠くではいくつかの巨大な荷船が、お風呂のオモチャのようにのっそり浮かんでいました。

 私は、一人浜沿いを歩き、浜で遊ぶ夥しい人々を眺めます。
 家族連れ、刺青を入れた若い男女、子供の集団などなどが夢中になって遊んでいる。
 あるいは声を掛け合い、波を掛け合い、身体を絡めあう。

 そう。
 私はこういうことができない人間でした。
 よしんば、類似の場面にあったとして、私はそれまでの記憶を辿り、引き出しを一つづつ提出するようにしてしかその場にあれなかった。つまり、私は「みんなの遊び」の中で「私」を振る舞わせることはできても、「みんなの遊び」の中へ私が入っていくことはできないのです。

 ですから、私はいつからか、こうやって楽しそうに「みんなの遊び」をやっている人達を見ているだけで良い、と悟ったのでした。
 そういう人たちを見て、彼らの中に光を見るという形でかかわることでしか、私が世界とかかわる方法はないからです。



 さて、海に背を向けて浜沿いの小道をみれば、一つ一つの民家が何らかの売店を開いていた。さすがに大繁盛です。
 浜沿いの土地に民家……なんという既得権益でしょう。
 これは想像ですが、おそらくある種の暴力によって、その既得権益の秩序は保たれている。

 でも、それで良いのだと私は思います。
 彼らの雑多な暮らしと、かき入れ時の活気。
 そこにも光があります。

 私には、なぜ人間がこのような複雑なことをやれるのかが不思議でたまりません。
 人々は、人々自身が自覚していること以上に複雑で難解なことをやっています。


 私のような価値のない人間は、そういうかくも複雑な暮らしや遊びに着いている人々の、その光を崇めることによってしか価値づけられえません。

 たとえば、そこに「戦争の反省」はあるか。
 あるはずありません。
 そこには、ただ八月があるのみです。

 インテリが小賢しく述べたてる「戦争の反省によって統治権力を制限して得る、国民のケンリ」など、ちっとも「光の先」ではありません。価値もありません。

 暮らしや遊びの複雑性は、そんなことは無関係に営まれています。
 そこに戦争の反省はなく、八月があるだけです。


 おおよそ何があろうと、人間は暮らし、遊ぶのでしょう。
 日本列島でもそういう人間の複雑な営みが続いていくに違いない。
 動乱があろうと、平和であろうと、人間はあるようにしてあるし、流れるようにして流れる。


 でも、私は、「なるほど、人間達はそこであるようにしてあるのだから、それで良ござんしょ」とは、どうしても思えないのです。
 このような種類のことは、戦後に、山田風太郎が言っていた。あるいは、坂口安吾も言っていた。
 私は彼らを尊敬するものではあるが、そんな風に「無常の中でも人は人として営んで行くのだ」……というのでは納得が行かない。


 やはり、人間の集団は、信仰や忠義の「正統性」にこだわるということがあって、営みが整えられ、「世界観」を帯びるものでしょう。
 なるほど、人の営みは、どのような世界観の中でも続いていく。しかし、どのような世界観でも良い、というわけにはいかないのです。
 では、その世界観の良し悪しの基準とは何か、と考えた時に、それは過去からやってくる。つまり正統性であります。

 ですから、もし人が知識を究めて何かを言おうとするのなら、「戦争は人がたくさん死んで良くないので、そういうことの起きない楽チンな社会を目指しましょう」と進歩的な光の先を示すのではなく、「過去から今に至るまでの人々の営みを解釈し、信仰と忠義における正統というものを示唆する」ということをやるべきなのです。

 何故なら、人間は、信仰と忠義における正統性にこだわって、場合によっては率先して死ぬ……という絶対的なコアがなければ、それこそ世界観は「どのような世界観でもよろしい」という話になってしまうからです。
 すると、「あるようにしてある」という主観性すら、獲得できなくなっていきます。何故って、無自覚ながら持つ世界観があやふやで、人が「あるようにしてある」なんて想定できませんでしょう。

 よしんば、あるようにしてあれない人が「よし、あるようにしてあろう」と気合いを込めたとしましょう。
 しかし、それは「あるようにしてある」ということを選択している時点で、あるようにしてあるとはなっていないのです。

 つまり、この場合、彼は未だ絶望の中にいる。
 絶望の中にいるのに、絶望の中にいないフリをしているだけです。
 キルケゴール風に言えば、「死に至る病」というやつでありあす。



 なるほど、現代にも「あるようにしてある」という人間の営みはある。そしてそれは崇高なものでありましょう。
 しかし、そうした営みを弁証法的に進歩させていくというような志向だけでは、人間の「あるようにしてある」という崇高性からして霧散させ、死に至る病が蔓延するに決まっているのです。

 そして、日本人として死に至る病を克服するには、やはり信仰と忠義の正統性が重んじられるようにしなければならないのであります。



……こんなようなことを、海を眺めながら考えていました。



(了)


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三十にして立つ?・日記 



 最近運動をすると膝が痛くなることがあります。
 もう少し若いときはビシバシ動いてもピンピンしていたのですが。

 そう言えば、私の年齢は現在30歳です。
 子供の頃は、30歳にもなれば世の中のことの大半はわかって、心も落ち着くところに落ち着いて、何をどうするべきかの見当もついているものだと思っていましたが、とんでもありません。

 孔子なら「三十にして立つ」という話なのでしょう。つまり、自分がどういう方向性でやっていくかのアタリが付くということです。

 でも、私は孔子のようには全然行きません。
 まだ、「自分が何なのか?」ということすら、何が何やらサッパリわけがわかっていないような気がする。

 でも、体だけはくたびれて、枯れ果ててゆく。
 英知溢るる立派な老人になろうという私の野望は、ちゃんとした歳の取り方をしなければ成らないはず。
 しかし、私はそういう自信が一切持てないし、心は鬱としてくる。

 だから逆に、自分がワケわかってないということすらわからずに、自信満々と口やかましくののしる連中が嫌でたまらないのであります。



(了)


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夏花粉・日記 



 夏の花粉がでているような気がします。
 目と喉が痒くて、クシャミが連発する。頭も重い。
 多分イネなのだろうとは思うけれど、正確なことはわかりません。

 そもそも私は、春や夏は季節的に嫌いです。夏の暑いのは最悪だし、春は死にたくなる。

 秋や冬の方がよっぽど良い。
 特に秋は良いです。

 そう言えば、大昔の日本では、春か秋かが来た時に一年と数えていたとか何とかいう話を聞いたことがあります。
 春夏で一年、秋冬で一年。
 つまり、いまの一年は当時では二年だったということです。
 そういう日本にかんする記述が大陸の文献にあったらしいのです。

 それで、神武天皇を初めとする初期の天皇の寿命が100歳を超えているのも、一年を二年と数えていたからに違いないという話が確かあった。

 しかし、そんな春か秋かが来るたびに一年と数えるだなんて仕方を人がするものなのでしょうかね。
 いや、するのかもしれないですけれど。

 寿命については、後の人が話を盛ったという方が、人間らしくて良いと私は思いますね。



(了)


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