09 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

  TOP > CATEGORY - 軍隊:軍事制度       
  

9.11自爆テロと安保法制 



ご無沙汰しております。

 そう言えば、私の高校生の頃、9.11自爆テロという事件がアメリカで起きました。
 その時、高校生ですから別に何の思想もクソもないのですが、私は確かに、心情的にはテロリスト側に味方していたように思います。

 と言うのも、ニューヨークの巨大ビルディングへ飛行機で突っ込む……という姿は、もっと小さな頃に空想したひとつの英雄的の姿で、そのイメージとピッタリ合致したからです。
 また、私が今も特攻隊を礼賛するのは、そういう「英雄的な死」のイメージが「人間的である」ために必要不可欠であると信じるからです。そういう発想というのは、別に後からつけた小賢しい知識なんかで浮かんだものではなく、子供の時から培った英雄像や「良い」もののイメージの中にある。
 別に、詳しい歴史を知って、英霊を憐れみ「今の我々があるのは彼らのおかげだ」などと感謝するようになった――というのではない。そんな都合の良い理屈から礼賛しているのではないのです。

 だから、弁証法的な知識など持ち合わせない高校生であっても、「9.11自爆テロに味方する」という心情は、「常識人」として持ち合わせうるものだったのです。




 そして多分、こういう発想は、何も私特有のことではなかったように思います。
 というのも、9.11自爆テロ後、当時学校で人気だったのは、小泉首相でもアメリカ軍ではなく、圧倒的にビンラディンだったからです。

 もちろん、高校生はインテリゲンチャのような喋り方はしないし、政治的な用語も使わなければ、まして地政学的見地など求めうるべくもない。
 
 でも、ビンラディンの替え歌はできました。
 メロディはテレビcmの流用だったと思います。

 それは、別にビンラディンを讃える歌でもなければ、イスラム原理主義を讃える歌でもなく、ただ単に「ビンラディンが殺されてしまった」という内容の歌です。
 でも、殺されてザマあ見ろというのでもない。
 殺されて悲しいというものでもないが、一生懸命やって殺された哀愁のようなものが漂う歌でした。

 あれを作ったのは確かに悪ガキのグループです。優等生はあんなもの作りません。
 優等生は大学生になってから「民主主義が云々」と小賢しい理屈をこねるのでしょう。国会の前でデモをやってインテリに褒めてもらっているのかもしれません。

 でも、私は悪ガキの感覚の方が断然好きです。常識的だからです。人間的でもあります。




 最近は、安保法制のことが話題になっていました。

 中には、「アメリカの戦争に巻き込まれる戦争法案」としてこれを反対する人がいます。
 あるいは、「アメリカにくっ付いてリスクを減らす法案」としてこれに賛成する人がいます。

 私にとってはどちらもクソ喰らえです。

 今、我々に必要なのは、
「飛行機でニューヨークの大ビルディングへ突っ込むこと」
 を道徳的と見なすような、人間的英雄像を回復することなのですから。



(了)
スポンサーサイト

Category: 軍隊:軍事制度

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 4   

集団安全保障から離れるための集団的自衛権 



 私は、日本の集団的自衛権の行使には大賛成です。

 しかし、集団安全保障という未来ヴィジョンに大反対なのです。



 そもそも集団的自衛権は、勢力均衡(バランス・オヴ・パワー・ポリティクス)を前提とした軍事同盟には欠かせないものです。

 集団的自衛権のような権限を政府が持たなければ、その時々の状況で、「誰と組み、誰と敵対するか」という立場取りができなくなります。
 我々は、この
「誰と組み、誰と敵対するか」
 の選択によって、国際的な勢力(パワー)バランスを取るということを考えなければならないはずなのです。


 対して、集団安全保障の考え方は、そうした「誰と組み、誰と敵対するか」という勢力均衡の論理を想定しません。
 要するに、
「みんなトモダチ」
 というわけです。
 それで、「トモダチ」の中で「悪いトモダチ」が出てきたら、トモダチ皆で叩くというのが『集団安全保障』です。

 私はこれに反対だし、おそらくサヨクが想定するような集団安全保障の時代なんて人類に訪れないと思っています。




 しかし、厄介なのは、ある意味、保守派も集団安全保障の未来を想定しているということです。

 というのは、集団的自衛権の行使で、「日米同盟」のみが想定されているからです。
 つまり、保守派は、東西冷戦で西側が勝ったので、「世界中を西側化することでの集団安全保障の未来」を無自覚のうちに想定しているというわけです。

 ようするに、『自由と民主主義という普遍的な価値の共有』というヴィジョンにおける集団安全保障。これが念頭にある。
 すると、まことに混乱してくるが、「集団的自衛権」という勢力均衡を前提にした考えの上で、なぜか「集団安全保障」の未来が想定されるという話になってくる。

 とどのつまり、日米同盟を大前提にした集団的自衛権は、「世界中を自由と民主主義で染め上げる集団安全保障」への途中過程として想定されてしまっているというわけであります。


 これに対して、「みんなトモダチ」のサヨクの集団安全保障に比べると、保守派の「世界中を自由と民主主義で染め上げる集団安全保障」は何かニュートラルのようなものに見えるかもしれないが、とんでもない。

 これらは双方、「世界を統一して国家という枠組みを薄くしていく」という未来ヴィジョンであるが故に、有害でしかない考え方なのであります。




 さらに加えて、いま言われている安保法制は、「あれで集団的自衛権が容認されたと言ってよいのか?」という問題もあるので、さらにややこしい話になっているのであります。

 あの法制自体のことを言えば、「集団的自衛権」の権限自体は、もっともっと強化されてしかるべきなのです。
 でもそれは、日米同盟のためではなく、「集団安全保障」という考え方から離れ、勢力均衡(バランス・オヴ・パワー)の考え方に移行し、国家の独立性を高めていくという方向でやられなければなりません。



(了)


Category: 軍隊:軍事制度

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 0   

自分的論点羅列・日記 

ここでは、いま論じておかなければといういくつかのことを、ごくザックリと書き留めておくことにします。
 粗雑で乱暴な論になりますが、概観ですからご容赦ください。




 このブログでは何回も言ってきたことですが、私がこの世で最も嫌いな言葉は、
「民主主義」
 です。
 そう。民主主義という言葉は、私の逆鱗に触れます。

 つづいて、二番目は、「自由」
 三番目は、「基本的人権」

 別に偽悪で言っているのではなく、これらの語が我々人間を生きながらにして殺しているとしか考えられないからです。



 これに関連して、「憲法」あるいは「立憲主義」というものが語られえます。
 民主主義は嫌いな私でも、立憲主義というものなら認める用意はある。

 しかし、最近、「憲法は統治権力を縛るものである」という話がまことしやかにされているのを聞きました。
 主に憲法学者がしている話が、SNSやネット上でリフレインされているのだと見受けます。

 そりゃあ、安保法制が日本国憲法に違反しているという点だけには一理があるとしても、しかし、

「憲法は統治権力を縛るものである」

 という考えかたは、人間的に絶対に間違っています。

 これについては『憲法学者と安保法制』で少し論じました


 でも、後日もう少し丁寧に論じる必要があるでしょう。

 時間の関係上、今日は下の動画を紹介しておくに留めます。

【柿沢未途】憲法改正論と首相公選制【西部邁】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17740792




 つづいて、国際政治。
 いわゆる「集団安全保障」という話の欺瞞です。

 私は、いわゆる「集団安全保障」という国際社会は存在してこなかったのはもちろん、未来永劫やってこないと考えます。
 また、やってきたとしても、それは唾棄されるべき「文化的のっぺらぼうな地球」になってしまうに違いないのです。

 我々が考えるべきなのは「勢力均衡(バランス・オヴ・パワー)」で各国間の緊張状態の中で、国家独立性を高めてゆくことなのです。

 しかし、保守派は「アメリカ(西側)を中心とした集団安全保障の未来」を先に想定しているし、左派は「みんな平等な集団安全保障の未来」を先に想定している。

 でも、それらは双方お花畑なのです。歴史にそんな理想的な人類の最終到達点など想定しえません。




 さて、そして、こうした軍事、国際の話は、経済とも繋がりが出てくる。

 たとえば、「集団安全保障」というヴィジョンは「TPP」のヴィジョンと酷似している。(このことも丁寧に論じたいところです)

 あるいは、TPPを基礎にした輸出主導の成長論は、異次元金融緩和という「リフレ派」の議論とも通じる。
 リフレ派の議論は、「経済における自由」と「消費者選好による民主主義」と考えかたとして繋がってくる。
 そして、それはやはり、日本国憲法の考え方と似通っているのであります。


 このように、政治哲学から、軍事から、外交から、内政から、経済から色んなものが間違いだらけなのであるから、こうした大衆性を一気に完封するくらいの気でやっていくらいの気概がなければ、到底正気を保っていけません。



(了)


Category: 軍隊:軍事制度

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 2   

日米同盟の強化は、対中抑止力にはならない 




 今日は昨日いただいたコメントにかんして考えてみようと思います。



>あと「あくまで現在取りうる『最善ではないが一番マシな』策として米国の力を借りるのだ」という意味合いにおいても「日米同盟の強化」は石川さん的には「ナシ」ですか?
今、そういう選択をしてしまえば未来永劫、そこから抜け出せないままであると?




 まず、私には、現在よりも「米国の力を借りる」ということが「最善ではないが一番マシな策」になりうるとすら思えません。

 おそらく、こういう場合に念頭におかれているのは「中国の脅威」なのでしょう。が、中国の脅威に対して「日米同盟の強化」はほぼ対抗策になりません。
 というのも、もし中国の脅威とやらで、日米同盟が役に立つとしたら、中国側が侵略の効果音をジャーンと鳴らしながら東京湾にでも乗り込んでくるような、明確かつ明瞭な侵略行為があった場合だけです。そういう明らかな行為を起こしたら、別に中国であろうとどこの国であろうと国際社会の非難を浴びます。こうした場合だけは、アメリカも日本に味方してくれるかもしれませんね。

 でも、中国がそんな阿呆のように攻めてくるなんてありえません。中国の領土覇権的な振る舞いは、いつもあくまで字面的には国際法を遵守したものなのです。つまり、俗にいう「グレーゾーン」というやつです。

 そして、日中の間で、このグレーゾーンの衝突があった場合、アメリカが日本を味方する可能性はほぼゼロと言っていいでしょう。
 何故なら、アメリカはそもそも中国と敵対しているわけではないし、中国と敵対するような理由すらないからです。また、中国は日本と違って核戦力を保持している。
 ですから、アメリカから見て、対日関係と対中関係では、どう考えても重んじるべき相手は中国なのです。日本は今のところ核を持っていませんし、どうせ刃向かってもこないでしょう。でも、中国は核をもっているし、アメリカも中国とは敵対したくはないと考えている。

 ですから、日本がいくらアメリカのお役に立ったところで、そういう召使(=日本)を助けるためだけに、「敵対しているわけでもない核戦力を持った国」(=中国)と敵対するリスクを追う蓋然性はまったくないのです。何故って、そんなリスクを追わなくても、召使はその後も召使を続けるほか生きていく道はないと考えているはずだし、仮に召使を失ったところで核戦力を持った国と敵対するよりは遥かにマシだからです。
 だから、アメリカが、日中のグレーゾーンにおいて日本に味方する必要性は、「日米同盟強化」では出てきません。

 そして、そういう必要性がアメリカにないことは中国にも当然分かっていますから、いくら日米関係を強化したところで抑止力になりません。子供だましにすらならないでしょう。

 だから、日米同盟の強化があろうと、中国の振る舞いは一緒です。すなわち、国際法を遵守しながら侵略をしかけてくる。

 ようするに、核武装もせずに、戦う覚悟もない国は、同じステージに乗ってすらいないので、「マシな策」などというものが残されているはずはないのです。



 ただ、このことで私は今の政府……首相や内閣、外務省などなどを責める気はないのですよ。

 何故なら、昨今の「さらなる日米同盟強化の流れ」というものは、単に「日米外交における敗北」というだけの話だからです。



 別に中国の脅威やテロの脅威で「日米同盟の強化」とやらが必要になったわけではないのです。

 そもそも、軍事的に依存している国に対して、外交で勝てるはずはありません。
 昔、石原慎太郎が、「日本も技術的な強みがあるのだから、アメリカへももっとモノを言えるはずだ」みたいなことを言って外務省を批判していましたが、そんなわけはありません。軍事的な牽制力の全くない丸腰の外交など、ローマとカルタゴの例を引くまでもなく、無力です。つまり、戦後一貫して日本はアメリカに対しては無力であり、日米外交は敗北のし続けであった。

 だから、日米同盟などと、「同盟」と銘打つ欺瞞は、政治家はともかく、少なくとも世間ではやめてもらいたいところです。
 そして、日米外交の敗北は今に始まったことではないし、「日米同盟強化」とやらも今始まったものではありません。

 要するに、「今、そういう選択をしてしまえば未来永劫、そこから抜け出せないまま」という時点はとっくの昔に過ぎ去っているのです。おおよそ日本はもう抜け出せないし、どう考えてもこのまま自然消滅するのが規定路線でしょう。


 また、日本が日米外交で敗北しているのは中国にもわかっているに決まっています。ならば、中国視点で見れば、中米外交を上手いことやりさえすれば、日米同盟など「のれん」に等しい存在でしょう。つまり、抑止力になんてならないということ。


 せめて、我々は、「日米同盟の強化」とやらを、中国やテロのせいにして誤魔化すのではなく、きちんと日米外交の敗北なのだと認識すべきです。
 というか、日本人は「日米外交の敗北」を認めるのは都合が悪いので、それを「中国やテロに対するベターな策」と結論付けているわけでしょう。そうやって自分たちの心が壊れないようにしているわけです。



 別に、日本の自然消滅の危機は昨今に始まったわけではなく、規定路線としてずいぶん前からある。消滅の規定路線の中で、まだ消滅はしていないという気になっているだけなのです。
 そういう中で、中国に対してだろうがなんだろうが、「最善ではないが一番マシな策」などあるわけはないでしょう。

 最小最低限の大前提として、「核武装」か「一億総特攻の気概」のどちらかがあって始めて、国家と国家のパワーバランスの論理に加わることができる。また、国家と国家のパワーバランスの論理の上にあってはじめて、「同盟」という言葉も意味がでてくる。
 ですから、そのステージにすら立っていない日本は、何をどう理屈をこねても、国際社会の波に黙って流されるほかありません。


 このことを、政治家が言えないのは当然です。(理解はしておいて欲しいと願いはしますが)
 でも、少なくとも政治家ではない言論人やらなんやらは、もう少しそこらへんを正直に言ったらどうなのだと思います。
 特に保守派はもう少しなんとかなりませんかねえ。

 だから、もし「誰が悪いか」と問われれば、「日本人みんなが悪い」と答えるほかないでしょう。



 最後になりましたが、コメントありがとうございました。
 コメントはこのように記事でお返事できることはございますので、皆様におかれましても忌憚のない意見をお待ちしております。




(了)



Category: 軍隊:軍事制度

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 2   

憲法学者と安保法制 




 安保法制にかんする問題点は、安保法制に付随する「日米同盟の強化によるリスクの軽減」という『文脈』であると、私は考えています。
 要するに、「アメリカへの召使度を高めてリスクを減らす」という理屈が、「日米同盟の強化」ないしは「集団安全保障」という装丁を施して押し進められてしまうのは、非常に問題であると考えるわけです。

 一方、「特別措置法なしで自衛隊の海外派兵」を行ったり、「現地住民を警護」したり、「戦闘地区へ進軍」したりといった権限を、政府や軍が持つという法制そのものは、通って良いものです。また、どこに味方するか、ということを選択する権限を政府が持つのも正しいことです。むしろ、安保法制など、あまりにささやかな権限で、悲しくなるくらいでしょう。
 つまり、「アメリカへの召使度を高めてリスクを減らす」という文脈から切り離されてさえいれば、安保法制の法制自体に問題はない。




 しかし、憲法学者の言う、

「日本国憲法は集団的自衛権を認めていないから、安保法制は違憲だ」

 という理屈には一理を認めなければならないと、私は思う。



 なるほど、確かに安保法制は日本国憲法には違反しています。

 これに、
「安保法制が憲法違反であれば、自衛隊も憲法違反ではないか」
 と単純な反論してみましょう。

 でも、憲法学者の理屈から言えば、

「日本国憲法の条文を解釈してきた、戦後の積み重ね」が個別的自衛権を認めているので、自衛隊は合憲とみなすことができる。対して、また「日本国憲法の条文を解釈してきた、戦後の積み重ね」によれば集団的自衛権は認められていないので、安保法制は違憲である。

 と言うことができます。
 そして、これには一理あるのです。
 すなわち、ある一定期間積み重ねられてきた議論の前提を、一時の一部の人間がちゃぶ台を返すように変えてはならない……という「手続き論」であります。


※もっとも、私は石川健治という憲法学者の理屈しか読んでいませんが。

ex)「いやな感じ」の正体 憲法学者・石川健治






 ただ、こうした憲法学者の理屈も、欠陥はある。
 それは以下の二つです。


①日本のこれまでの議論の積み重ねで構成された前提(憲法)を、まるで1945年8月に革命が起きたかのように、戦後の積み重ねしか換算していないこと。

②憲法を、「統治機構」を縛るもの、とだけ考えていること。



 憲法に、「統治権力を縛るもの」として色合いが強かったのは、マグナカルタに始まる憲法の歴史を見れば確かではあります。が、それは統治権力側が暴走気味であった西洋の前近代の話であります。現代では、地球規模的に「大衆による支配」の暴走が甚だしくなっている。
 それに、倒幕からの日本の歴史を見れば、おおよそ暴走をしてきたのは非権力の側であり、統治権力の側は民衆の請求(大衆)という圧倒的多数の力に屈服してこざるをえなかった。
 だからといって、統治権力を縛るものがなくて良いとは言いませんし、権力の分散は必要でしょう。しかし、憲法(=国の歴史の積み重ね)が縛るものは、「政府」だけではなく、「現在たまたま生きている国民」もそうなのです。
 つまり、(権力側も、非権力側も)現在たまたま生きている国民は、すでに死んでしまったすべての国民の意志に縛られて未来を形成しなければならない、と考えられるべきなのであります。

 また、もちろん、我々は、戦前に積み重ねられたものだけを前提にものごとの基準を考えることはできません。
 しかし、戦前に積み重ねてきた大義も、戦後に積み重ねたものと同様に、今を生きる日本人を道義的に縛っていると考えられていなければどうしますか。
 1945年8月には、日本国民の総入れ替えがあったわけでも、革命が起きたわけでもありません。
 ただ戦争に負けたというだけなのですから、もし、今の我々がそれ以前の大義を完全に無視するという前提に立てば、「1945年8月に日本はアメリカに滅ぼされた」と解釈しなければならなくなる。そして、憲法学者の理屈からすると、そこから「新しい国家」が建てられて、その新しい国家の積み重ねだけが「憲法」を形作っていると考えなくてはならなくなってしまう。



 ですから、「安倍首相のやり方が立憲的ではなく、安保法制が違憲である」という憲法学者的な批判は、一理も二理も三理もあるが、やはり根本に致命的欠陥があるのです。

 つまり、「憲法」ということを考えるにしても、戦前や徳川時代以前からの積み重ねで考えられていなければならないし、こうした積み重ねは政府のみならず、今たまたま生きている国民をも縛っていると考えられなければならないということです。

 これに基づけば、軍隊を海外に展開したり、バランス・オブ・パワーの国際政治力学で味方をする国を選んだりということができる政府の権限自体は、「必要である」と考えられていなければならないでしょう。
 この、大衆の請求を超えた、「歴史的な必要」に基づくものであれば、それは「合憲」とみなされるべきなのです。



 だから、安保法制への「違憲」の批判が成り立つとすれば、こう言うべきでしょう。

 安保法制の「日米同盟の強化」という『文脈』は、「徳川時代以前、日帝期、戦後……というすべての積み重ね」に反している、と。



(了)

Category: 軍隊:軍事制度

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 1