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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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黙れ民主主義――庶民、大衆、統治者の定義 

 今日は、庶民ということと、大衆ということ、そして統治者ということを定義づけながら論じます。

 結論を先に言えば、「庶民」というのは第一、崇高なものである。
 そして、その庶民の崇高性を「発見」する視点にある者が「統治者階級」である。

 こういうことです。

 しかし、近代(モダン)は、庶民が自分自身で自分自身を「庶民」だと発見せざるを得なくなる。
 これが人間に尽大な苦痛を強いる『近代的自我』というものです。

 そして、庶民自らが庶民であることを強烈に認識せざるをえないほど「社会の画一化と情報化」(モダン)が進み、「庶民としてのケンリ」を庶民が請求するようになったら、それは『大衆』になるわけです。

 こうなれば、その文化圏を没落から救う手立ては基本的にありません。





 我々は、「庶民」という言葉を平気で使い、無造作に使っています。
 もちろん、言葉の語法は、厳密の上に厳密を重ねれば、千人千色の語法となっているに決まっている。
 ただ、だからと言って、どのような語法でも良いというわけにはいきませんね。
 言葉というのは、想像力と共に使われて初めて意味がでてくるのです。

 そもそも、「庶民」という種類の言葉が、庶民自身によって使われ始めたはずはありません。
 なぜなら、庶民は、自分を庶民であると認識しながら庶民をやっていたのではなく、ただあるようにあっただけに決まっているからです。
 ようするに、民の一己には、一己の周りに広がる経験世界があり、生活の実践の中で一己の認識は共同組織に埋め込まれ、一己の一生は「あるようにあった」ということであります。

 そして、こうした庶民を「ordinary people(一般の人々)」と考えるのであれば、それは「一般ではない人々」=「統治者」が、「庶民」を発見するのです。

 つまり、「ただあるようにある」という庶民の存在は、統治者的な「一般ではない人々」によって発見されて、初めて崇高性を持つのであります。
 逆に言えば、庶民は、統治者という視点があって初めて存在するということ。
 そして、この関係は人類が存在したその瞬間からあったに違いないのです。


 もっとも、社会が複雑化し、現代に近くなれば、勿論、この庶民と統治者の関係は一国の中で重層(レイヤー)を帯びて展開されてくる。
 たとえば、伝統的な「家」を見れば、統治者は家長であり、場合によっては婦人でありましょう。子らは庶民です。そういう身分があり、持ち場がある。
 あるいは、その家と家が集団を組んでいる場合、統治者であった家長も庶民となります。統治者はその地域をまとめあげる首長ということになる。
 だが、一国という単位で見れば首長も庶民の一ということになります。国の統治者は天皇であり、幕府や中央政府だということになる。
 勿論、これは状況によって変動するものだが、基本的にそういう身分があり持ち場があることによって、発見者である「統治者」と発見される側の「庶民」との関係性が有機的に編み込まれているのです。




 こうした庶民と統治者の関係は、人と人との身分関係がごく秩序だった社会においては、明瞭に見て取れます。
 たとえば、封建の社会では、武士の家に生まれれば武士、~村に生まれたら~村の村民、商家に生まれれば商家、職人の家で育てば職人……といったように、それぞれの身分の「範囲」が一己の一生で完結しているので、これは分かりやすい。もちろん、農民の生まれでも商家の生まれでも、武士になることはあるが、それはそれなりの手続きを踏まえ、正統な過程があってのことであり、また、そうした手続きそのものも人の立場を明瞭にする一つの英知なのでありました。

 しかし、我々の文化圏にとって致命傷だったのは、倒幕・維新という歴史です。

 勿論、封建の世を何から何まで礼賛する必要もないし、地球が狭くなった事に対する処置としての中央集権化が必要であったことは紛れもないが、「幕府を倒し、藩を廃し、封建的階級というものを消し去る」ような暴挙は、やはり致命的なものでありました。

 つまり、我々は、「倒幕・維新」によって、封建的秩序という財産の根幹部分をごっそり放逐してしまったのです。
 



 ただ、こうした封建秩序の制度的な放逐の後も、それは「発見者」としての武士(制度としての封建)が放逐されてしまっただけなので、「あるようにしてある」という庶民側のあり方は、そのまま引き続き「あった」のです。ごくわかりやすく言えば、倒幕後に武士階級がなくなっても、封建的な地方農村は残っていた。

 ですから、そうした封建時代が育んだ庶民の生活があり、常識があり、身分意識があり、前提があり、「封建」はそこに温存されていたわけです。
 また、「封建」が温存されていたからこそ、「近代(モダン)」が機能しえたということでもある。

 しかし、政治制度上では「封建」は解体していますから、庶民の中に温存された封建も世代を重ねるごとに霧散していくのは必定です。世代を重ねるごとに生活に含まれていた常識、身分意識、社会的前提が霧散していき、代わりに一国全体が画一化していく。そして、その「霧散」の歴史こそ明治以来、現在に至るまでの日本の苦難の歴史であります。
 勿論、あいだに大東亜戦争、日米決戦という近代への反逆は起こったが、基本的に「霧散」の歴史は倒幕後から始まった。そして、戦後にはそれがいっそう「進歩」していき、平成に至っては「日本」そのものが霧散し、現今ではついに消滅してしまったというわけであります。


 もっとも、こうした社会の複雑化に伴う「画一化」や「情報化」は徳川時代はおろか、人間の社会が発生したその瞬間よりあった。
 しかし、夏目漱石流に言えば、こうした複雑化が『内発的』に行われるということと、『外発的』に行われるということは決定的に違う。
 幕府を倒した後のそれは、どんなに「和魂洋才」を謳ったところで、所詮は外発的な制度移植であり、その画一化、複雑化に我々のあり方を反映させていくというステップを踏んだものではありませんでした。
 勿論、それは地球が狭くなったことによって、我々がどうしようもなく直面せざるをえなかったことではある。が、この問題を我々は未だにちっとも解決していないということはハッキリ認識すべきなのです。
 逆に、無理やり解決されている風に前提するのは、「近代の徹底」がその解決手段になりえているという進歩主義的な、人間に対する楽観でしかありません。

 つまり、我々は未だに倒幕以来の外発的な「画一化」「情報化」に適応していないどころか、この不適合にかんする整理すらつけていないのです。




 さて、この莫大な画一化、情報化の進歩の中では、人々のそれぞれが画一された形式の中で砂粒のように生きざるをえなくなる。と同時に、いやおうなく、「自分が砂粒にすぎない」ということを自分で強く自覚してしまう。そして、砂粒(平均人)自体が社会の大量な砂粒(平均人)を発見する。こうした自我を、『近代的自我』と呼びます。

 なるほど、近代的自我を持った一粒一粒(平均人たち)には、前近代では考えられないような物質量、利便性、情報量が行き渡ってはいる。
 ただ、その物質、利便、情報の方向性は、封建の世で武士、貴族階級が享受していたものを模範とし、基本線としてはそれをあらゆる階層にも大量に効率的に行き渡らせるという方向で進められてきているのです。
 想像してみてください。18世紀の武士階級、貴族階級が享受したその暮らしと、現在の我々平民の暮らし。一体このどちらが物質的に豊かで、利便性があり、情報量があるか。明らかに後者でしょう。
 ですから、現代は、前近代に比較して、その「生の熱量」の総量においては圧倒している。これだけは確かです。

 ただ、人は生まれ、死ぬので、世代というものが変っていきます。
 つまり、後から生まれた世代にとっては、その「生の熱量」は当たり前のものとして、生まれた時から与えられたものとなりますね。
 以前は、武士階級といった優れた階級の者が勝ち取る生の熱量(ケンリ)であったものが、大量に、効率的に行き渡った生の熱量(ケンリ)においては「享受して当たり前のケンリ」という風に前提されてしまうようになる。この「享受して当たり前のケンリ」というものに装丁を施して提出されているのが、いわゆる「基本的人権」というものです。

 つまり、ホセ・オルテガ流に言えば、「平均人が、平均人としてのケンリを請求する」のであります。

 ようするに「大衆」とは、平均人が平均人としてのケンリを請求する大量の動きのことなのです。
 ただ、一見平均人(ordinary people)のように見える者でも、自分の生活の中に組み込まれ、そして黙ってさえいれば、彼は「崇高なる庶民」であると言えるでしょう。しかし、そんな崇高なる庶民である彼も、一度喫茶店へ行き、「まったく政府は我々庶民の暮らしのことをまったく考えていない云々」などと吐き散らかした時点で、げに醜き『大衆』となるわけです。そして彼は、そうした喫茶店で吐いた自分の文句が、「世論」として政治に反映されていないことに不満を持ちさえする。よしんば反映されたとしても、そんなものが上手くいくはずはないので、また別の文句を吐きちらかす。




 対して、専門人、エリートというものを考えてみましょう。
 たとえば、オルテガはその著書『大衆の叛逆』で「大衆専門人」というものを描写した。
 しかし、この大衆専門人ということを考える際に気をつけてもらいたいことがあります。

 それはすなわち、大衆専門人ということを言うと、

「なるほど。大衆の問題においても、やはり悪いのは頭の固い専門人やエリートであって、我々庶民に責任はないのだ」

 というような、都合の良い捉え方をする連中が少なからずいるという点です。日本人というのはどこまでも狡猾で欺瞞的な民族であるから、すぐにこういう都合の良い捉え方をする。でもそれは間違っています。

 オルテガが言った大衆専門人というのは、すなわちこういうことです。
 まず、近代(モダン)による社会の複雑化と共に、「学問の細分化」という問題が提出されます。
 この「細分化」というものが「専門」の問題の根本なのです。
 細分化された専門領域は、社会のある一側面からの視点を極めるということですね。だから、専門人たちはその領域のことだけは、社会のあらゆる人よりも熟知している。

 しかし、実際のところ、いかなる社会の一側面も、社会全体との関わりによって成立しているわけです。それでも専門人は、自分の専門には熟知しているが、それ以外の視点では世で平均人たちがのたまわっている平均的観相以上のものを持ち合わせていない。すると、彼自身の専門領域についてすら、その平均人たちの観相を下支えし、迎合するような、通りの良い、画一的なものにしかなりません。

 つまり、大衆専門人とは、大衆平均人たちの都合を増幅させる装置なのです。

 ですから、「大衆の問題においても、やはり悪いのは頭の固い専門人やエリートであって、庶民に責任はないのだ」という都合の良い発想は、それこそ大衆専門人的な発想なのであります。言い方を変えれば、狡猾に装丁を施された「大衆迎合」ということになる。




 さて、こうなってしまったら我々は文化圏を救う手立てはないのであるが、原理的に考えれば「どうすれば良いのか」という方向性は考えられえます。

 オルテガはそれを「生の哲学」という形で示しました。

 これは、「一人一人が自分のケンリを請求する」という志向から抜けて、一人一人が「統治者目線」を持ち、そういう「意志」を持つということです。

 言い方を変えれば、庶民からエリートに至るまで、「貴族的であること」を求めたわけです。
 そして、その庶民からエリートに至るまでを貴族的あらしめるためには、共通の『事業』を観相することが必要であると論じた。




 オルテガの「生の哲学」は、なるほど方向性、原則論としては正しいと思う。
 しかし、それを具体化して考えるとなると、やはりオルテガの立場にも楽観があったようにも、私には思われます。

 オルテガは、生の哲学を根拠に「自由民主主義」へ期待をかけた。選挙制度さえ正しければ、自由民主主義は機能する、と。つまり、事を具体的に下ろすと、相当リベラルなことを言っていたわけです。
 そして、具体的な『事業』についても、オルテガは「ヨーロッパ共同体」を提出していた。

 でも、私はヨーロッパ共同体は実現しないと思うし、自由民主主義を機能せしめるような「正しい選挙制度」など人間には確立しえないと思う。



 もう一度言いますが、「生の哲学」の考え方は、抽象的な段階における原則論、方向性としては絶対に正しい。
 しかし、抽象的な方向性を具体化していくにあたっては、様々な現実的問題が出てきます。

 たとえば、「一人一人が自分のケンリを請求する」ということと「共通の事業感を持つ貴族的なあり方」を対比するにしても、実際にはその判断(ジャジ)を社会的にどうやっていくかという問題が出てきますでしょう。

 人間は、おおよそ自分を「良い人」と思うためであるならどこまでも狡猾に頭を使います。
 すなわち「いや、これはみんなのために言っているのだ」と彼自身すら思っていたとしても、実は一皮捲れば「それが自分のケンリ請求に都合が良い」ことを無自覚のうちに察知していて、「みんなのため」という理屈が「自分を自分で良い人であると思っておくため」の単なる装飾である、という可能性もあるわけです。

 その点、人間とはとてつもなく不完全であり、卑怯に流れ、欲情に流れやすい生き物なのです。

 それをどうにか「生の哲学」の貴族的なあり方へと整えるものが、歴史的フォームであり、身分であり、道徳であり、偏見であり……過去から引き継いだ文化圏の英知だと私は考えるのであります。
 言い方を変えれば、いま生きている人間は「我々の未来を形作る意思」という貴族的精神を持ちうるが、生きている人間は心身共にまったく不完全であるので、過去からその枠組みを前提として引用しながらやっていかなければならないということです。

 要するに、生の哲学を真実への意思としての「義」であると考えれば、歴史的な枠組みはそれを整える「礼」です。



 図らずもオルテガに触れることが多くなりましたが、オルテガ自身もこう言っていたと記憶します。

 すなわち。貴族的であることと大衆的であることは、家柄の良し悪しで決まるのではない。生の意思を持っているかいないかで決まるのだ。しかし、家柄の良い者の方が、生の意思を持っている可能性が高いということは言えるだろう。

 と。
 つまり、貴族的であるということは原理的には家柄では決まらないとは言いつつ、その判断を社会的にジャッジする困難がそこにあることは、きちんと示唆されているのです。



 現今は、義を掲げて、統治権力へ向かって「あーでもない、こうでもない」と、右も左も徒党を組む。
 義を想うことは結構なことだが、その義が「一人一人が自分のケンリを請求する」という大衆の都合に迎合したものではないと言えるのでしょうか。
 とりわけ、群れて、通りの良い、画一化された訴えをしているのであれば、それが偽善と欺瞞を孕んでいないはずはないのです。それは世の中で、右派と呼ばれるようなものでも、左派と呼ばれるようなものでも同じです。

 そういう大衆(群れ)を放逐し、本当に「義」を求めようとするのであれば、やはり「礼」が必要なのです。
 この場合、「分や立場をわきまえる」ということです。



 その意味で、封建の世は分や立場に則すという事は知られていた。分や立場が明瞭でわかりやすかったからです。
 しかし、現今であっても、人の「分」や「立場」というものは存在します。
 社会的立場、役職はもちろん、年齢、家柄、性別などなど、歴史的に引き継いだ封建的、社会的偏見というものは微かに残されている。
 もし、残されているものがあまりにも少なくなってしまったと感じるのであれば、それは過去から「封建」を引用する形で、則する「分」や「立場」という前提を想定することもできましょう。あるいは、そこに「運命」というものを持ち出してもいいかもしれません。たとえば、政治家というのは根本的に、運命によってなると考えられるべきものなのです。

 これくらいしか、日本国家の霧散、自然消滅に抗う手段は、私には思いつきません。
 そして、そのためには、そういう「分」や「立場」というものを超え出た言説、振る舞いは徹底的に棄却され、放逐されなければならない。

 もっとも、日本人は臆病ですから、皮膚感覚として一人一人が各個で分や立場を超え出た言説や振る舞いをしたりなどはしません。
 そうした場合は、必ず群れてモノを言う。
 群れて、集団的にモノを言えば、分や立場を超え出た言説や振る舞いも、なるほど気軽にできるというわけです。

 日本人は、こんな下劣で、卑怯で、低劣で、醜く、禍々しく、おどろおどろしく、夥しい平均人の渦を、「民主主義」という言葉で「進歩」と換算してきたわけであります。しばしば「自分で考え、自分を表すことができて、よござんす」というように。でも、それは自分を表しているのではなく、「群れて平均人としての請求をしている」だけでしょう。

 私は、これに「黙れ」と言っているだけなのです。
 私は本当に、それ以外のことは何も望みません。
 お願いだから、そういう低劣な姿を、私の目の前に晒すのを止めて欲しい。これによって、私の日々は、吐き気との闘いに終始せざるを得なくなってしまっているから。




 確かに、人には「どうしてもこうとしか思われない」という深刻な思いが沸きあがることがあり、それが自らの今の「分」や「立場」を超え出る形でしか成しえないこともあるでしょう。そんなことが百万分の一、千万分の一もあるとは思われないが、本当に自分で真剣に考えた結果、「義」に則するためには分や立場という「礼」を踏みにじらざるをえない状況も、人間にはありうる。

 でも、それならば、正々堂々と「暴力」でやってもらわなければ困ります。

 群れを作って、民主的な活動でいまの「分」や「立場」を超え出ようというのは卑怯であり、人間のあり方として絶対に間違っているのであります。



(了)


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SEALDs諸君へ! 

 私は、安保法制そのものがどうという前に、「安保法制反対デモ」というデモに価値を認めません。

 確かに、安保法制における「アメリカの召使度をあげて、リスクを下げる」という理屈が唾棄されるべきものであることは間違いありません。(安保法制の法制自体は、別に問題はないと思いますが)
 ですから、単に「リスク減」の文脈で安保法制を礼賛する保守派の活動も、同じくらい価値がなく、同じくらい醜いとは思う。

 でも、だからと言って、反対側の「安保法制反対デモ」が許せるかと言ったら許せないのです。



 特に、『SEALDs』という若者の団体が、私は見るに耐えない。胸をかきむしられるようです。

 もっとも、SEALDsについては、「工作員動員説」「サヨク団体動員説」などなど色々言われているが、それは違うと思う。
 彼らは自分の頭で考え、自分で行動している。

 むしろ、工作員やサヨクの動員であったらいいなという願望を抱くぐらいですよ。しかし、様子を見る限り一人一人の自発的な活動であるに違いないのです。

 なるほど。おそらく、彼らは現今の近代的社会という世界観に「価値」というものがなくなっていることを見抜いてはいるのです。その点の鋭さがある。
 彼らは、大学を卒業して、就職をして、果たして何か価値感のある世界観をえることができたでしょうか。
 できやしない、と思ったのでしょう。
 また、その予測はおそらく当たっているのです。
 彼らに用意された社会は、酷く画一的で、平坦であるのみならず、没落の最中にあり、一枚隠された形で虐げられて行くことは明白だった。彼らをそういう状態に追いやったのは、彼らが大学を卒業する前までに社会を作ってきたすべての大人たちの大衆性であります。

 だからSEALDsの彼らは、別の価値を想定できる世界観を見つけて、そちらに行きたかったのでしょう。
 それで、「民主主義」やら「反戦」やらの枠組みを見つけて、自らそこへ向かっていった。
(ですから、これを「就職で採用しない」とか言って弾圧するのは得策ではありません。むしろ、かえって彼らは、彼ら自身が正しいという錯覚を逞しくするでしょう)



 でも、私が一番思うのは、彼らが見つけたその枠組みも、無価値で平坦で人を圧殺する「近代社会」を作った大人たちの理屈の一柱を担っていたものではないか、というところです。

 なるほど、確かに「対米従属の自由民主主義」も大人の理屈ではある。しかし、「単なる平和主義の自由民主主義」も大人の理屈なのです。
 反抗するのであれば、この双方に反抗しなければならない。

 なぜ彼らは、後者の大人の理屈によって前者の大人の理屈を攻撃することで、「別の価値ある世界」へ行けると勘違いするのか。

 それはすなわち、「群れる」からです。

 彼らはきっと、途中までは鬱屈とした中で、自分の頭で考えていたのでしょう。
 この世の価値とは何かを考え、その世界観を探しあぐねていたに違いない。
 しかし、途中で寂しくなって、「集団的に考えること」をしてしまったのです。
 ツイッターなどのSNSを用いて、「同じ意見」という集団を作って、集団的に考えるようになってしまった。

 だから、「民主主義」がどうだのという薄っぺらな大人の言葉でピーピー群れる羽目になったというわけです。



 だって、安保法制反対の理屈は、次のように言えば、こうも簡単に崩れるものなのですよ。

 なるほど、安保法制があれば、アフガン戦争、イラク戦争のような戦争について、アメリカのお手伝いをさせられるようになるかもしれない。これは、共産党をはじめとするサヨク陣営の言うとおりではある。
 しかし一方、安保法制という法制があれば理論上、イラク戦争のような戦争の時に、「イラクに味方する」という主体的な戦争参加ができるということでもあるわけです。

 アメリカのお手伝いをするような、無価値な戦争、大義のない戦争に参加するのが嫌なのでしょう?
 先のイラク戦争は、どう考えてもアメリカが悪かった。それなら大義上、正義上、原理的に言えば、我々は「戦争に参加しない」という態度ではなく、「イラクを擁護する立場で戦争に加わらなければならなかった」のではないですか?

 本当にただ単に「戦争へ行きたくない」という本当の軟弱精神から安保法制に反対しているのなら別ですが、本当は、「大義のない戦いには与したくない」と思っているだけなのでしょう?
 逆に、大義のある戦いであれば、よそへ出向いてでもやらなければならないはずでしょう。

 だったら、反対するべきなのは、「安保法制」ではなく、「日米安保(日米同盟)」なのではないでしょうか?

 また、安保法制の持つ、「自衛隊の海外派兵」「戦闘地域へ武器輸送」などといった権限は、我々が世界で主体的な軍事行動をとるという意志さえ持てば、問題ないでしょう。
 つまり、大義を考えることのできるような国家の意思統一。これができるような、強靭な中央政府をどう構築していくかという話をすればいいのです。



 私とて、アメリカの召使として戦争に狩り出されるのは御免こうむる。
 しかし、アメリカに召使にされないためには、「アメリカに対して反抗する暴力」という意味での軍事力も必要でしょう。
 あるいは、アメリカ以外の国、たとえばロシアなどとの同盟も考えてみる必要だってあるはずで、それなら安保法制は逆にアメリカにとって脅威になるかもしれないでしょう。



 そう言えば、私は軍隊へなんぞ行きたくありませんが、アメリカに対しての特攻要員としてならば、徴兵されても一向に構いません。
 そういう風に思っている若者は、実は多いのだと信じます。
 また、アメリカに召使にされないためには、核武装だって必要でしょう。だってアメリカはわんさか核を持っているのです。

 論理上、そういうことになりませんか?



(了)


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日本人の暴力性 


 日本人は歴史的にも農耕民族で、和を持って尊しとなして、八紘一宇であり……がゆえに平和を好んでいるのである、ということがよく言われます。

 しかし、日本人は他の民族に優るとも劣らない激烈な暴力性を持っていたと、私は考えます。



 たとえば、柳田國男の『遠野物語』でこんな話があったはずです。

 ある男がいた。そして、彼の嫁と姑がいた。姑はつまり、男のお母さんです。
 そんな中、姑は、男の嫁を毎日毎日ネチネチとイジメ続ける。
 ある日、男は
「もう我慢ならない。僕はお母さんを殺すことにします」
 と言って、鎌を研ぎだしました。
 姑は泣いて謝るが、男は許さず鎌を研ぎ続けます。
 姑は泣く、男は研ぐ。
 そうこうしている間に逃げればよいものの、姑は泣いて謝り続ける。

 結局のところ、彼が母親に手をかける前に巡査に止められて話は終わるわけですが、暴力とは本来こういうものではないでしょうか。

 つまり、暴力精神とは本来、生活の和の中に潜在的に含まれた実に素朴な感情だということ。
 そして、私は、こうした素朴な感情こそが、われわれ日本人本来の暴力精神なのだと考えるわけです。

 さらに言えば、暴力精神を言語上で解釈し、整えるものが「武」というものです。
 武という字は、「矛を進める」という意味と「矛を止める」という意味の両方を含んでいます。つまり、矛を進めたり、止めたりする基準を整えようとする動きが人間にあり、それを描出したのが「武」という字体だということであります。

 なぜ矛を進めたり、止めたりする基準が必要なのか。暴力精神があるからに決まっています。

 また、暴力精神の整えられたものというのはすなわち統治の論理であり、権威や権力と繋がるものです。
 たとえば、戦国の世から徳川時代に至る武士の論理ですね。

 私は、徳川時代の貴族的な武士の論理を重んじる者ではあります。が、そうした武士の論理を生んだ、そもそもの暴力精神という素朴な感情の段階を無視しては、何がなにやらわからないではありませんか。

 あるいは、八紘一宇や憲法十七条も、なぜそういう言葉があったかと考えれば、日本人に苛烈な暴力性があり、これを整えるための「基準」が必要だったからでしょう。
 たとえば、古代クレタ文明に、そういう言葉があったでしょうか。もちろん、クレタ文明の文字は解読されていませんので、これを明らかにすることはできません。だから、これは私の想像ですが、クレタ文明に「和を持って尊し」のような言葉はなかったのではないでしょうか。つまり、本当に闘争のない民族は、言葉にするまでもなく平和をやっているということです。もっとも、そういう文明はよそからの侵略に対しても無力ではありますが。



 よって、これを整える「武」というものは、そもそも素朴な暴力精神があったからこそ生まれるものです。
 つまり、我々日本人はある種の激烈な暴力性を持った民族なのです。
 この暴力精神を認めて、解釈して、われわれの暴力精神を今この現状でどう整えるかということが「武」であり「統治の論理」でしょう。
 そして、本来、われわれは、われわれの暴力精神を、日本国家の独立に活かせるはずなのです。

 アメリカに刃向かい、中国を黙らせ、世界のどの国にも屈服しない、激烈な反抗心として発露させれば、できないことはないはずでしょう。
 すなわち、われわれの激烈な暴力精神を、天皇と中央政府を中心として整え、国家の隅々までまとめあげることさえできれば良いのです。

 もっとも。何の気も無しに「暴力反対」というサヨクも、何の思慮もなく「八紘一宇」を掲げる右翼も、日本人の暴力精神を認めようとする者は稀ですから、もはや、我々の暴力精神が整えられ、活かされる場面もなく、文化圏は溶けて流れてゆくのでしょうけれど。



(了)


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信仰と文明開化(日記) 



 家の庭の木が、しばしば雨どいまで覆いかぶさる。よって、これをもう根こそぎ切ってしまうということになりました。

 午前中に業者さんが来て、酒と塩でお清めをして、切り始めます。
 すると、途端に寂しいような心持ちになってきました。



 当然のことながら、木には魂がある……と昔の人は考えた。
 私はこれに賛成ですが、本当の本当のことを言うと、魂なんてものがあるだなんて私にはちっとも信じられないのです。

 魂、神々、仏、地獄、極楽などなど、そういうものはいくら「信じてみよう」と考えたところで、私の心はちっともこれらを信じられていない。だって、そんなものはあるわけはないのです。

 でも、私のような心のありかたは、絶対に間違っています。
 何故なら、世界において神秘の領域を前提しないとなると、この世のすべての物事には価値がないという話になるからです。
 これはいわゆるニヒリズムというものですが、信仰というものが徹底して失われたらニヒリズムに至るのは論理的に必定なのであります。

 でも、間違っているからといって、頑張って「魂を信じよう」と気合を入れて信じられるのであれば、こんな楽チンなことはありません。



 ほとんどの人間は、おおよそこの深刻な事に気づきもせず、信仰を嘲笑する。それでも、大抵の人がニヒリズムにまでは至っていません。人々は一応何らかの倫理に則そうとはしている。
 この説明には、以下の二つのパターンが考えられます。


①信仰を嘲笑しながら、無自覚なままの信仰が残っている

②旧い信仰を失うと同時に、新たな原理への信仰を始めている


 パターン1の彼は、自分を知らないというだけの幸せ者です。しかし、彼の振る舞い自体は信仰を嘲笑している。ですから、彼の子供は、彼に価値意識を与えていた無自覚の信仰を受け継ぐことはできないでしょう。よしんば彼の子が受け継ぐことができても、何世代か後にはあらゆる旧信仰は死滅しているはずです。


 パターン2の彼は、自分を知らないという点では前者と一致していますが、非常に不幸せな人間です。彼は旧来の信仰をまったく失っているが、「あらゆることに価値はない」というニヒリズムに耐えられないので、「新興宗教」と呼ばれるようなものに傾斜していく。
 ここで言う振興宗教は、一般的に振興宗教と呼ばれるものだけを想定するものではありません。いわゆる「科学技術信仰」「合理主義信仰」という、いわばイデオロギー的なものも含みます。

 現在もっとも広がっている新興宗教は、「人間として生まれたことについての価値」から出発する、『近代合理主義』という教義です。すなわち、「人間の一人一人にある平等な価値」を想定して、その価値の実現のための人間組織や科学技術がまた価値付けられるという教義体系であります。
 しかし、この教義には致命的な欠陥があります。それは、その「人間の価値」を根拠付ける世界観がないということです。当たり前ですね。ここでは人間の価値は何かを価値付けるものとして大前提とされているので、人間の価値そのものには何らの説明が施されていないのですから。例えば、科学技術は「人間のためにあるもの」であって、「人間の価値付け」には一切何の役にも立たない。
 人間の価値は、旧来の信仰が形作っていた世界観に示唆されていたものであり、それを彼は失っているのです。

 ですから、近代合理主義の信仰の中にある多くの現代人は、心の奥では薄々、「人間が価値付けられていないこと」に気づいているのです。だから、実のところ無価値感を抱えながら、ほとんど気合と根性で「人間に価値がある」と思いこむ。こういう精神作業を、ほぼ無自覚にこなしているわけであります。

 これを下支えするために、「人間の快、不快の足し算引き算」に価値を置く者もいれば、「身近な人間とのコミュニケーション」に価値を置く者もいるでしょう。しかし、これらも、これらを価値付ける世界観がないので、至極あやふやな価値になってしまう。
 要するに、、「人間の快、不快の足し算引き算」も「身近な人間とのコミュニケーション」も、地球上の無数の人間達に振りかかっているのを我々は知っているので、「どこにでもあるもの」と相対化できてしまう。そのように相対化してしまったものに価値を置くのは難しいので、離婚率が高くなるのも当然なことだという話になってしまいます。
 また、人はそんな風に、「身近な人間とのコミュニケーション」を相対化してしまうことに対して酷く自己嫌悪するものであるが、これは「相対化しないようにしよう」と気合を入れればどうにかなるというものでもありません。また、ここまで自己を解釈して、精神作業の気合の入れ方を編み出せるほどの精神的文才を誰しもが持ち合わせているはずもない。


 
 ですから、旧来の信仰と信仰が示す世界観を完全に失ったパターン②では、人間が救われる見込みはほぼありません。
 個人も救われなければ、その個々人の織り成す文化圏も死滅するのです。

 これを明治以来から今日に至るまでの「文明開化」に絡めて言えばこうなります。
 文明の開化は旧来の信仰が残る時期までは価値観との歯車が噛み合ってそれなりの果実を得るように思われるかもしれないが、やがて信仰や世界観が死滅してゆくに従って、価値そのものが融解して、文化圏は没落してゆく。
 つまり、近代的文明の進歩というのは、時間制限付きなのです。平成になってとうとうその時間制限が来たので、日本は没落の一途を辿ってるというわけであります。


 しかし、そうとわかっていても、すでに失われた信仰についてどうにかできるはずはない。
 いくら信じようと気合を入れても、私は、魂や天国や地獄を信じられないし、八百万の神も信じられないし、仏も神も、お化けや妖怪に至るまで信じられないのです。

 と言うより、信じようと思って信じるということは、すでにそれは信じていないということでしょう。
 人は、「この人に恋をしよう」と思って恋をするわけではないし、「国を愛そう」と思って愛国心を抱くわけではありません。
 恋や愛や信仰という言葉は、もともと自分の心にあるものを整えて、発見するために編み出された発明です。
 だから、恋いそうと思って人を恋したり、愛そうと思って国を愛したり、信じようと思って信仰したりなどというのは、もともと恋も愛も信仰もなかったということなのです。




 ただ、私はこうは思います。

 私は魂を信じることはできないけれど、魂を信じていた昔の人の心は信頼できる、と。
 つまり、そういう心で存在していた昔の人の方が、自分よりも遥かに上等な存在であると考えておくということです。これなら私にもできる。

 例えば、昔の年寄りは写真に撮られると魂を抜かれると思い、これを怖れたそうな。
 私は、これを「不合理」と笑う人間より、昔の年寄りを信じます。
 昔の年寄りのほうが遥かに上等な存在です。


 だから、私は庭の切られた木に魂があるとはどうしても思えないけれど、昔の信仰ある人々が編み出した酒と塩によるお清めを崇高なものであると考えることによって、この木と別れることについての寂寥の感を整えることにしました。



(了)


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「言論の自由」という闘争のイデオロギー 





 私は、世で言われる「言論の自由」という言葉を、根元的に、まったく意味の無いものだと考えています。

 そもそもこの言葉は、ある者に言論的権限を与える一方、ある者の言論を圧殺することとなる論理的必然性がある。
 たとえば、なるほどマスメディアは政府の掌握していた情報統制の権限を剥奪し、「政府を弾圧する言論の自由」を得ました。しかし、今度は非マスメディアが「マスメディアによる弾圧の権限」を剥奪する、「マスメディアを弾圧する言論の自由」というものが出てきた。

 昨今でも、都合の良い小説で大衆の歓心を買った大衆作家によって「沖縄の新聞は絶対に潰さなければならない」というような発言がされましたね。沖縄の新聞に問題があることは存じていますが、大衆作家風情にどうしてそんなことを言って良いケンリがあるでしょう。それをまた「彼の言論の自由を守らなければならない」などと言って囃し立てる輩まで出る始末。
 これに対し、小林よしのりという漫画家が、「百田を叩くのは言論の自由である」という風に言っていたのは非常に示唆的でした。つまり、この種の闘争には際限がないということ。

 要するに、「言論の自由」という言葉そのものに、ある種の闘争への装置が含まれているということです。今日はこのことを詳らかにしていきたいと思います。




 まず注意して欲しいのは、世の中で言われている「言論の自由」とは、必ず「政治的決定権(権力)」にまつわる「言論」を指している、ということについてです。
 たとえば、我々は人として健常者の能力さえあれば、発音する権利は自然権(能力)としてあります。
 穴の中へ向かって、「王様の耳はロバの耳」と叫ぶ。あるいは、広告の裏紙に自分の好きなコトを書く。まず、こうした「自分以外の誰も聞かない、読まない」という言説について考えてください。

 この場合の言論の自由を制限しているのは、自分の思考と心……つまり「私」ですね。私が発声できる言葉は思考(言語化)に制限されていますし、思考(言語化)の限界は「心」に制限されています。
 つまり、まず初めに「私」の言論の自由を制限しているのは「私」なのです。

 ただ、残念ながら、世の中で「言論の自由」という言葉が使われる時、こうした「私に制限される私の言論」のことは遡上にはあげられていませんね。
 一般的に言論の自由という言葉が使われる場合、それは「支配し、支配される関係の中での私の言論」のことが話題になっているわけです。

 言い方を換えれば、「言論の自由」という言葉が使われる場合、言論は言論でも「政治的決定権にかかわることを意識しての言論」について言われているということです。




 続いて、「自由」という言葉を考えてみましょう。
 私はこの言葉が嫌いなのですが、もともと日本では明治に入るまではこんな妙ちくりんな言葉が使われていた形跡はないので、昔の日本人というのは今のそれよりもよっぽど上等なものだったようです。
 とどのつまり、「自由」というのは西洋からの外来概念であるわけですが、その元の語が何かと言えば「フリー」や「リバティ(リベラル)」ということになりますね。

 そして、この「フリー」「リバティ」といった言葉は、そもそも、「貴族や領主などへ、特別に与えられた権限」という意味であったそうな。
 つまり、もともとは、力ある者がその力によって自由にできる領域のことを自由(フリー、リバティ)と言ったのです。

 それが今日のような意味になってしまったのは、この語が使われる場合の主語が、「貴族、僧侶」から「市民」へと入れ替わってしまったからです。
 そして、「階級の低い弱者が、強者の持つ『自由』を剥奪する」という文脈で使われるようになってしまった。

 何故このような主語の反転が起こったか。

 本来、高い階級が保持していた「自由」は、低い階級……つまり市民階級よりも大きかった。が、市民階級からすると、その理由を「貴族に力と高貴さがあり、自分にはないから」と認めるのはあまりにもツラい。ので、市民らは「力あるもの達はズルをしているのだ」と結論付けて自分を慰めるようになる。また、この心的論理づけを下支えするために、「良き者に力が備わり、悪しき者には力は備わらない」という道徳的前提から「強き者は悪しきもので、弱き者は慎ましやかで結構」という道徳的前提へと、道徳の価値反転現象が起こされる。
 この道徳の反転現象を、ニーチェの造語で「ルサンチマン」と言います。


 また、都市化や印刷技術の発達が起こると、ひとつひとつの情報が大量に世へ散布されるようになります。つまり、社会が大衆情報化する。大衆情報化した社会では、「大量」であることが社会の最も高い価値であるようになってしまう傾向が非常に強い。

 例えば、スペインの哲学者ホセ・オルテガという人が、ある伯爵婦人のこんなセリフに驚いたらしいですよ。
 伯爵婦人いわく、
「私、800人以下の舞踏会には参加する気がないの」
 と。
(解説するまでもないかとは存じますが、ここで驚かれるべきなのは、伯爵婦人が舞踏会の価値を参加者の「階級」ではなく「数」においていたことなのですよ)

 このように、大衆情報化した社会で、「大量」という所に価値の基準が置かれてくるようになると、先で言った「力あるものはズルをしているのだ」という感情が、むしろ社会の主役のものと捉えられるようになる。何故なら、大衆社会の一粒一粒の大多数は力を持たないのであり、コトが大量であることに価値が置かれるようになれば、必然、ルサンチマンの代弁が主流となり言葉形成の上でも主語を獲得してゆくに決まっているからです。

 こうして、自由という語も、「力ある貴族の権限」という意味合いから、「凡庸な市民による自由の獲得(free of)」「権力者からの解放(free from)」「凡庸な市民による権力への自由(free for)」といった意味合いへ堕落していったのであります。

 この堕落した「自由」という言葉には、実は「Aという集団からBという集団が、ある権限を剥奪する」という関係的側面が常にあります。また、その剥奪の基準は常に「平等」という所に置かれる。そして、平等の基準は「民主主義」というものに置かれるのです。

 例えば、「貴族」から「市民」が権限を剥奪して自由を獲得する場合、それは双方の平等を民主主義(大量)を根拠にして謳うわけです。
 あるいは、「市民ブルジョワージ」から「労働者階級」が権限を剥奪して自由を獲得する場合も、双方の平等を民主主義(大量)を根拠にして謳う。

 前者の闘争を国是とするものを「左翼アメリカ型」と呼び、後者の闘争を国是とするものを「左翼ソビエト型」と呼んで差し支えないでしょう。双方とも、自由と平等と民主主義を根拠に、啓蒙すべき光の指す方を弁証法的に導きだすイデオロギーなのですから。

 そう言えば、戦前のアカの潮流で、「二段階革命論」という考えがありました。すなわち、「一段階目は封建社会を打破する市民革命が起こり、二段階目には労働者階級による共産主義革命が起こり、人類の歴史は完成する」という進歩をストーリー立てて前提するやり方です。

 日本においては、戦後1950年代に共産主義革命の潮流は一気に引いたのですが、一段階目の方はインテリの啓蒙的ストーリーとして根強く温存されてしましました。つまりサヨクは、「社会主義」の一方で、「自由(リベラル)と民主主義」というものに収束していったのです。

 しかし現今では、そうした極めて啓蒙的な自由民主主義が、単に「共産主義ではない」というだけで「サヨクではないニュートラルなもの」として前提されてしまっているように見受けます。特に冷戦後の日本人は、パクスアメリカーナ、アメリカによる地球平定を、歴史の最終終着点と考えて、自由と民主主義を「普遍的価値」と前提して憚らなくなった。
 いや。というか、アメリカによる日本の平定と自由と民主主義が、百年単位で国を溶かすとは薄々察知しながらも、その一瞬間一瞬間の日本人にとってはなかなか居心地が良かったので、左翼というものをとりたてて「共産主義」に限定しておいた方が、先人と子孫への裏切り感を緩和しつつこれを受容し続けられて都合が良かった……という、自己欺瞞のバイアスがあったんじゃないでしょうか。

 しかし、もし「自由民主」にしろ普遍的な人類の最終終着点なるものが存在するのであれば、「サヨクが正しかった」ということになるのですよ? だって、最終終着点へ向かって弁証法的に人類の歴史が進歩する……というのが左翼思想の根幹なんですから。
 左翼が間違っていることの最大の左証は、「左翼イデオロギーがひとつではないこと」なのです。逆に言うと、共産主義が間違っていたのは、共産主義以外にも左翼イデオロギーがあったからなのです。
 そして、共産主義ではない有力な左翼イデオロギーとは「自由(リベラル)」と「民主主義(デモクラシー)」であります。日本人の狡猾な欺瞞を徹底して排除して言えば、これは国家を百年かけて溶かす、純然たる左翼イデオロギーなのです。




 もちろん、弁証法、アウフヘーベン……すなわち「議論」というものの重要性は、私も認めます。
 しかし、市民社会の各々が、その「立場」や「階級」や「分」を越えて易々と日本国家全体の政治にピーチクパーチクいちいちいちいち文句をつけて良いなどと思ってもらっては困るのです。
 いや、と言うよりも、人間社会一般として、そのような権利がまんべんなく付与しうるものだという前提に立ってもらっては困る。

 議論とは、数々の前提があってはじめて成り立つものです。「言語、語法」の前提から「場」の前提……あらゆる前提に制限されて、人はようやく議論を成り立たせることができる。そして、人を「場」という前提に着かせるのは「共同体」以外にありません。基本的に人は、自分を埋め込む有機的な共同体の中で、役割に準じた言論だけが実体的なもののはずなのです。

 現今のように、有機的な共同体から逸脱した言論が氾濫したとき、我々の諸個人は情報の波に溺れることになります。そして、その一人一人は、大量の情報の中からたまたま得た情報と、たまたま得た経験……つまり、社会のごく一部をもって、その国家全体の政治に関して口を出すわけです。口を出して良いと勘違いする。当然のケンリだ、と。それは大衆平均人の喫茶店での会話から、大衆専門人によるインテリな発言に至るまで。

 なるほど。それぞれ一つ一つの意見は、彼の観想した一部分のみを改善する為には理想的な全体像を提出することが出来るでしょう。が、それは全体の項目を網羅するものにはなりえない単純モデルであるがゆえに根本的な欠陥を抱えた全体像なのです。
 そして、政府から「情報統制の権限」を剥奪して得たものは、市民社会に乱立する「欠陥を抱えた全体像」がそれぞれに群れて言論のシェア争いをするという「自由」だけだったわけです。

 だから「言論の自由」という言葉には「意味がない」のです。

 人間は、個人の能力で社会のあらゆることを把握できない以上、それはやはり有機的な共同体の連なり……小集団から種々の中間的組織、そして国家に至るまでの連帯の中で役割を演じる他ない。個人はその役割に制限されてはじめて実体的な議論が可能になり、隣人とのアウフヘーベンも可能になる。また、議論可能な小集団から国家の間に幾重もの中間団体を折り重ねるように配すことができていれば、各小集団によって行われた知見を吸い上げることのできるような強靭な中央政府を形成することができるかもしれない。この場合は、多少の凹凸はあっても、国家全体の項目が網羅された全体像となりますでしょう。


 さらに、ここで重要かつ重大なポイントがあります。
 それは、こうした有機的な共同体形成による議論の発達は、「個人の自由意思で選んだものではないもの」によってある程度あらかじめに規定されている必要があるということです。
 自分で選んだものではないもの、というのは「運命」ということです。言語、信仰、親、家、血縁、地縁、世襲、偏見、道徳、コネ、シガラミ、既得権益……といった「自分で選んでいないもの」に帰着した上で、「立場」や「階級」「分」がわきまえられていなければならない。

 もちろん、本当に嫌だったり、本当に別のものを選びたいのであれば、選んで良いと思いますよ。それはそれこそ政治的なことと無関係に、自分で勝手に選べば良い。が、何から何まで「選ぶのが良い」というのはガキの発想です。選ぶのは本当にこだわりのある一部で十分だし、そうした選択は別に社会に保護されている必要などない。

 つまり、共同体は共同体でも、自分で選んでいない「運命共同体」こそが必要なのです。
 この「運命」ということがないと、言論というものに、信仰ないしは信仰に準ずる「良し、悪し」を基準付ける絶対性が想定されなくなってしまいます。するとこれは、単にそれぞれが言いたいことを言う言論の自由、欲望礼賛の言論、価値相対主義というものに堕す。あるいは、理屈のための理屈のような空論が蔓延ることになってしまう。





 世の中ではなにか、

「立場の高い人の言論は制限されるべきで、立場を持たなければ持たないほど何を言っても良くなる」

 という酷い誤解がされているように見受けます。

 が、これが逆なのです。
 普通、立場の高い者にはより広い言論的権限があって然るべきだし、立場の低い者が口を挟んで良い言論的領域は限定されているべきでしょう。
 自分の家族のことを考えてください。普通、子の口だしして良い範囲は、家長の口にして良い範囲より狭いはずです。
 同様、仮に同じ言論を行ったとしても、その言った人の立場、階級が高いか低いかなどによって、その言論が許されるか許されぬかが決まってくるのは当然のことです。

 例えば、ある国会議員と、ある大衆作家がいたとします。この場合、当然、国会議員の方が大衆作家風情よりも階級は高い。よって、国会議員が言うのは許されるべきだが、大衆作家風情が口を出すべきものではないという領域はあるでしょう。仮に、その大衆作家が多くの民からの選好を集めていたとしても、そんなものは何ら政治的正統性とは関係がないのです。

 あるいは、言論の統制についても同じ事が言えます。
 言論には秩序が必要であり、とりわけ大量情報によって混沌の体をなす近代社会においては、中央政府による「言論の統制」がおそらく必要でしょう。今日のごとき野放図な大衆言論空間は、日本の国を滅亡させている大きなひとつの要因です。ですから、マスメディアへの介入ということは、行政権限としては認められるようにしていかなければならない。

 しかし、そうしたマスメディアへの統制は、高度な行政権限ですね。ですから、そういう立場にない者……例えば、いち自治体の長やいち新興政党が、自分達の政策実現のためにメディア介入をするのは、あきらかに「分」に合っていない。階級の身の丈を越えた越権行為です。単なる成り上がり者にそのような権限が認められて良いはずがないでしょう。
 むしろ、こうした単なる成り上がり者によるメディア介入を排除するために、中央統治権力がこれを統制する権限を持つべきなのだと考えてはいかがでしょうか。





 もちろん、言論には中身の精査が必要です。その言論に正当な義があるかどうか、ということですから重要なことです。
 ですが、「どのような立場、階級の者の発言か?」というのも同じくらい大切なのです。これは正統な礼、姿、フォームというもの。
 元来、正当な義とは、正統な礼があってはじめて成し得るものです。何故なら、言論の中身の精査のためにも、その人間の「分」に適しているかどうかが「良し、悪し」の重要な基準となりますでしょう。

 また、「自由」という言葉の本来のところを考えれば、そういうことでもあるのです。と言うのも、自由という言葉は「自」の「由」でしょう。つまり、「自分の理由」ということです。また、自分の理由に則した振る舞いというのは、自分の分に則した振る舞いのことですね。
 つまり、「言論の自由」ならば、「自分の分に則した言論」ということでしょう。

 冒頭で、「言論の自由という言葉には意味がない」とは言いましたが、こうした意味での言論の自由であれば、私も認める用意はあります。
 ですが、「言論の自由」という言葉をそのような語法で使っている者はほぼ皆無なので、やはり意味がないのでしょうね。



(了)


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