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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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ナチスのホロコーストは過分に見積もられているか? 


 少し前の記事で、『ヒットラーとナチズムについて(日記)』というものを書いたのですが、そこでこんなコメントをいただきました。



>あと、ホロコーストはね、かなり事実を彎曲されてると考えざろう得ません。なぜかドイツではナチスに言及するだけに罪になります。言論の自由を侵してまで触れないように封印するのか。




 このことは、だいぶ前に某所で議論になっていたのを聞いた覚えがあって、なるほど、そういうこともありうるだろうと思った記憶があります。

 実際、戦後ドイツでは、元ナチス党員だというだけで酷い差別を受けてきたと聞き及んでいます。また、ナチス的なものへの言論統制を行っているということも確からしい。
 また、これは私の想像ですが、ドイツ国民には「ナチ時代を否定することによって現在のドイツを肯定する」という都合があり、それによって特に21世紀に入ってからの過度な補償、過度な反省へと傾斜してしまった所があるのではないでしょうか。そして、その過程で、ナチス時代の統制的な経済運営やドイツ国民の団結も同時に軽んじられた。これによって、現在ドイツの拝金主義的な新自由主義への傾斜も起きたのではないか……と、あたりをつけることもできます。

 だから、コメントにある「ホロコーストにおける事実の歪曲」は、確かな見方とみるべきだと思います。



 ただ、私はドイツ人ではありませんので、ホロコーストの過大な見積もりについて何か擁護を施してやる義理はありません。 
 また、「言論の自由」という言葉に至っては、それ自体、意味があるとも思えません。



 確かに、ホロコーストの見積もりに何処までの信憑性があるかは非常に疑わしいものがあります。
 我々は、連合国側の東京裁判の都合によってされた、南京の改ざん、強制連行の改ざんに苦しんでいる。
 あるいは、19世紀トルコ帝国によるキオス島でのギリシャ人大虐殺も、当時のギリシャ人人口以上の虐殺が見積もられているのであり、つまり当時のヨーロッパ社会のギリシャ愛好的な都合であったわけであります。

 つまり、世界の悲劇の多くは、悲劇を評価する者の都合によってなされるということです。



 しかし一方で、迫害やそのエスカレーションによる虐殺は、評価とは別のところで存在したはずでしょう。誰が、誰を、どの程度……という評価はできないし、よそ様の件については評価するべきでもないが、そういう評価から超然した事象としては、誰かしらが何かしらを迫害、虐殺している。

 迫害や虐殺は、我々が記号的に考えている範疇を超えて行われているはずなのです。そして、一見、迫害や虐殺に見えないものも含めて迫害や虐殺を想定すると、迫害、虐殺の「被害者・加害者」は反転しながら断続的に続いていると見なす必要があるでしょう。


 たとえば、戦後ドイツをナチスへの差別・言論統制・迫害と見るのであれば、ナチスドイツ時代のユダヤ人への差別もやはり(評価の過分はあるかもしれないが)迫害であることには違いなかった。
 もちろんその見積もりに過多はあるに違いないが、その「過分な虐殺の見積もり」も戦後ナチス党員迫害の一種であると見なすべきなのでしょう。

 もちろん、そう見なすことで戦後ドイツのナチス党員への迫害を容認するわけではありません。

 ただ、この場合、「迫害」と「虐殺の過分な見積もり」は、迫害の被害者、加害者が入れ替わったというだけだということが分かられていれば良いのです。

 人間が生きている限り、迫害は、「被害者、加害者」が入れ替わって、永遠に行われていく。
 そもそも、ユダヤ人は帝政ローマ期にキリスト者を迫害していたわけです。すると、ナチスドイツという時と場所では、たまたまユダヤ人が迫害される側にあったというだけと捉える方が適切でしょう。そして、戦後ドイツはナチスという枠組みがたまたま迫害される側にある時と場所だったというまでのこと。




 しかし、帝政ローマ期を考えるときはキリスト者迫害を、ナチスドイツを考えるときはユダヤ迫害を、そして戦後ドイツを考えるときはナチス党員迫害をそれぞれ想像するというのは必要なことです。
 何故なら、同じユダヤ人、キリスト者、ナチ党員だったとしても、一個人単位で見れば迫害者と被迫害者は必ずしも一致していないはずだからです。いや、別に「一個人単位で見た時には、きっと迫害されっぱなしの人がいるはずで可哀想」ということを言っているのではありません。
 それらの迫害が、必ず「群れとしての個人」によって行われていることを把握すべきであるということを言っているのです。

 人間はおそらく、人間がいなくなるまで人間を迫害することをやめないでしょう。もし、具体的に把握された迫害行為そのものを規制しても、あらゆる形に変形して、差別や虐殺は行われてゆくのです。これは人類普遍の性質です。

 特に、その迫害にひとたび群れ(大衆)の熱が篭るようになった時は、迫害し、迫害されるという闘争の連鎖が社会を焼き尽くすに決まっているのです。
 それは、目に見える迫害や虐殺を「やめよう」と活動したって、今度はその活動そのものが迫害を生む。
 ようするに、人が大量の群れとして世間の趨勢を握るようになると、人間の「迫害精神」とも言えるものが大々的に出てきて、「迫害し、迫害される」という闘争の連鎖が止まなくなる。
 ですから、現代ドイツはまだ迫害の連鎖の炎の中にあると見るべきなのでしょう。


 ナチスのホロコーストが過剰に見積もられているかどうかについては、基本的に我々が口を出すべきことではないので、以上のことだけ把握していれば充分なのではないでしょうか。



(了)


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戦後70年談話に向けて(日記) 



 今年もまた、八月がやってきます。
 とりわけ今年は戦後70周年。

 そういうわけで、首相がまた談話を出すという。
 私はそもそも、「談話など出さなければ良いのに」と思います。

 しかし、色々な政治的な問題もあるのでしょうから、文句は言いません。
 ただ、私はこういう風に願っています。

 すなわち。
 たとえ中国、韓国に対しての謝罪やら反省やらをしたとしても、「対米開戦」だけは反省してはならない、と。

 この件にかんしては、むしろ、対米開戦さえ肯定的に見られていれば、それでいいのです。

 先の大戦における太平洋・対米戦争は、要するに、地球が狭くなり、地球規模化していく地球の中で、日本文化圏を保全するという幕末以来の一大課題に対する、一つの天才的アイディアでした。
 坂口安吾風に言えば、このアイディアは、誰か一個人が考えたものではなく、歴史の流れの中で日本人たちの頭に自然と湧きでた帰結です。あるいはこれを、運命的と評しても良い。

 つまり、文化圏を保全するために、滅びを覚悟で「国際社会の多数派」に刃向かい、猛烈な暴力精神を提示し、恒常的に文化圏の浸食を防げるような国際社会を自らの手で形成しようというアイディアです。

 このアイディアと、それを勝ち取ろうとした日本人の暴力精神だけは正しいと考えられていなければならない。
 というのも、今を生きる我々も、そして未来の子供たちも、こうした「日本ということにこだわって発揮する正しい暴力精神」を持って行かなければならないからです。
 というより、これをすべての国民が失った時点が、日本文化圏の終焉なのです。

 ですから、その最も正しい形で行われた、「対米戦争」だけは、良きものとして考えられていなければならないでしょう。



 よく遡上にあげられる、「中国や韓国への謝罪や反省」は、この問題の派生事項です。

 すなわち、「中国や韓国への謝罪や反省」をするということは、「そのような振る舞いをした日本を滅ぼしたアメリカは正しかった」という論理を下支えするものになるわけです。事実、アメリカは陰に陽に、日本へ「韓国や中国への謝罪や反省」を請求し続けている。その方がアメリカにとっても都合がよいのですから当たり前でしょう。

 ですから、「中国や韓国への謝罪や反省」がどうのというのは、いわば端論なのです。
 日本における先の大戦の中で、圧倒的な主軸として考えられるものは、誰がどう考えても「日米戦争」でしょう。

 我々は、このことだけは忘れてはならないのです。



(了)


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ヒットラーとナチズムについて(日記) 



 ドイツのヒットラーによるナチズムは、大いに悪者にされることが多いです。
 勿論、ユダヤ人への迫害意識を国家の団結の一つのツールとして使い、果てはホロコーストにまで至った部分については、確かに忌避されるべきものでしょう。

 しかし、「国家を団結し直す」という志向自体は、我々もナチの手法を見習うべきではないでしょうか。


 もちろん、ヒットラーの主導したナチズム自体は、大衆的なものであったがゆえに間違っているのですよ。
 でも、国家を団結するに際して、大衆的なるものに迎合したり、大衆を扇動したりなどという道に走らざるをえなかったのは、そもそもドイツがそういう状態に追い込まれていたからです。(そもそもユダヤ人迫害は大衆迎合の最たるものであります)

 ドイツは第一次世界大戦後、戦勝国から天文学的な賠償金支払いを命じられたのみならず、ワイマール憲法という「自由」で「民主的」な憲法を立ててしまった。もちろんこれは、第一次世界大戦中におけるドイツ自身の革命、つまり内輪モメに責任もあるわけですが、どちらにせよヒットラーを産んだのはワイマール憲法であった。

 これを、
「人の世の中には、せっかく手にいれた自由と民主という進歩を、自分から手放す馬鹿がいるものだから気をつけろ」
 と、考える仕方には、私は大反対です。

 すなわち、自由と民主……我々が「進歩」と考えているものが、「人間にとって極めて苦しいことなのではないか」と私は考えるのです。
 つまり、問題はヒットラーにあったのではなく、大衆にあり、大衆を精製したのは「自由と民主」という「進歩」だっただろうということです。
 ようするに、ナチスドイツを見るときには、「自由」「民主」「進歩」「モダン」という大問題から遡って捉えられていなければならないということ。



 そして、われわれが現今の「自由」「民主」「進歩」「モダン」を克服するためには、大衆的なるものを徹底的に排除したうえでの、「国家の団結」が目指されなければならない。
 ですから、ナチスドイツにおいても、その国家の団結のために成された、いわば「統制的な経済運営」や、「国内交通インフラ網の整備」、「ナショナリティの再考」、「軍事力の増強」といった部分については、大いに参考にするべきではないでしょうか。


 つまり私はこう考えているのです。
 我々日本は、既存の共同体に根付いた国内権力をどうにか再興させて、これを中心とした「非大衆的で封建的な国家社会主義」的な方向を目指すべきなのだ、と。



(了)



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戦争の反省における大衆の欺瞞 

 そう言えば、8月15日の玉音放送の日くらいに戦後70年談話を出すとか、出さないとか、そういう話がありますね。

 つまり、首相が対外的に「あの戦争はこれこれこうだったなあ」という感想文のようなものを提出するということです。それで、談話とは言いながら、誰が出しても反省文のようになってしまう。
 第一に、戦勝国筆頭のアメリカに叱られないような感想文でなければならないし、第二に、中国や韓国を刺激して、その様を見た日本のマスコミに叱られないようにしなければならないからです。

 普通に考えると、もう70年経っているのだから、少なくとも対外的には黙っていればいいものを、なぜ談話など出すのかというところがまず不思議でたまりません。

 私は学生の頃から、このような対外向けの反省を見るたび、二つのことを考えたものです。

 一つは、「戦争」や「侵略」を反省するということは、裏を返すと、「われわれ日本人はかつてよその地域へ侵攻できるほど強大な力を持っていたのだ」というアピールでもあります。戦争や侵略は悪しきことだと国際社会で言われていますが、一方で「歴史的に侵略国であった」という仄めかしは国際的に権威のようなものを備えさせる。
 あるいは、国内的にも「我々は中国や韓国に悪い事をしたのだ」というのは、裏を返せば「我々は中国や韓国に悪い事をできるくらい強かったのだ」というゲスな思いを発露するために、装丁を施して提出された偽善である可能性が非常に強いのです。

 もう一つは、やはり国内的なところで、「戦争を反省すること」によって、政府への権限を剥奪しておこうとする大衆力学があるということです。戦前……とりわけ戦中は、現在と比較すれば「統制的」な政治、経済システムでした。それで、そういう「統制的」な政治、経済システムが嫌だから、そういうシステムを採択していた戦争と戦中の政府そのものを反省するよう、現在の政府へ請求する。
 そして、そうした大衆の請求に都合がよいものとして、国際社会に対する譲歩というものがある。つまり、「国際社会」を引き合いにして、中央政府の権限を剥奪しておこうという大衆力学がそこにあるわけです。


 こういうことを言うと、「大衆はそこまで考えていない」と言われます。
 それはそうでしょう。大衆はそこまで考えていない。

 しかし、自覚的に言葉で整理して考えていないからといって、「思っていない」とは限らない。
 私は、大衆のほとんど大衆本能のような、無自覚の大衆の下賎ぶりを、見たまま描写しているだけなのです。



(了)


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大東亜戦争を肯定する事の重要性 

 俺は、基本的に大東亜戦争を肯定します。
 もし、大東亜戦争を無理矢理否定的に見るとなると、人間というものの性質を酷く見誤ると確信するからです。


 まず、日本があのような戦争をするに至った所以を捉えるには、国家間の経済的摩擦の問題を考える必要があります。

 そもそも、工業化(産業革命)といったものが起きると、原材料の値上がり、製品の値下がりという相対価格の不均衡が国内経済の問題として潜在しだします。
 すると、概ね、近代以降の先進国は、原材料を輸入し、製品を輸出するということをもって、自国の国内市場を均衡させようとしたんですね。
 ですが、その原材料の輸入元、製品を輸出する海外市場を、国外へ求めてどんどん地球を狭くしても、地球は有限なので、今度は世界経済の方が不均衡をきたすのは当たり前の事です。

 先進国と後進国の間での不均衡で済んでいるうちは、軍事的パワーが違いますから、恫喝をもって貿易摩擦による文句を抑え込むこともできたでしょう。

 しかし、事が先進国と先進国の決定的な経済的摩擦に及べば、当然、大規模な戦争になるわけです。

 また、製品や原材料が国境を越えてガンガンに移動するとなると、同時に資本も国境をガンガン越える事になります。すると、世界経済が概ね上手く回っている時は良いのですが、不況に陥る際は、世界各国で同時に連動して不況に陥るわけです。


 ここで、留意すべきは、国境を越えた経済的不均衡を解決するのは、国内経済の経済的不均衡を解決する事より、遙かに難しいということです。

 当たり前ですが、国境を越えた所に、上からの指導は効きません。何故なら、地球政府というものは存在しないし、そんなものが存在してしまってはならないからです。
 また、国民の生活形態、長い年月をかけて構築した産業構造、商慣例……といったものによる民間の自浄も、国境を越えてしまえば望みようもありません。何故なら、国境を越えた所にいる人間は、こうしたものを共有していないし、共有するべきでもないからです。つまり、実は、国境を越えた所での市場原理というのは、機能の根拠を失っているんですね。


 こうしたことから、当時の日本人達は「やはり経済というのは歴史的に統合された国民による伝統、慣習、慣例に基づいて回していかなければ機能しない」ということに気づくわけです。
 そこで、日本の歴史に基づいた価値観や宗教観、道徳、先入観といった、『国家の歴史的な体系』が重視されるようになったのですよ。

 勿論、『国家の歴史的な体系』とは、たとえ経済が上手く回っていても、常に最も尊厳ある存在です。
 しかし、経済が上手く回っている時はあまり意識されず、経済情勢が不安定になると、その遙かなる重要性が明瞭に認識されるようになる傾向があります。

 そして、その方向性は、ある程度うまくいっていたのです。
 つまり、『国家の歴史的な体系』に基づいている市場を、政府と軍隊で保護し、「国境を越えた経済」という何の根拠も持たない不安定なものによる混乱を、できるだけ回避するという方向性です。

 ただ、反面、「国家の歴史的な体系に乏しい先進国」というのもありまして、それがアメリカとかソ連とかいう国だったわけです。

 アメリカをクローズアップしますと、アメリカという国は、国内経済を安定せしめるほどの『国家の歴史的な体系』という歴史的基盤がないので、国境を越えた先に市場を開拓していくしかないんですね。いや、むしろ、「国境を越えた先に市場を開拓していく」という事こそ、アメリカにとっての『国家の歴史的な体系』と言えるのかもしれません。いわゆるフロンティアスピリットというやつですね。

 そこで、アメリカは、国境を越えた経済の中でも、供給サイドの問題である『市場』という項目ではなく、需要サイドの問題である『原材料』という項目で、日本経済へ圧力をかけるわけです。
 ここで言う原材料とは、『石油』ですね。世に言う、ABCD包囲網という経済攻撃です。

 先ほど俺は、近代化をした国は、「製品を輸出する必要」と、「原材料を輸入する必要」が出てくると言いました。
 製品の輸出とは市場の問題ですので、『国家の歴史的な体系』に基づいた国内市場をどうにかやりくりしていくことができました。
 しかし、原材料=石油は、物理的に国内で産出しなければ、輸入する他ありません。
 その石油の輸入を日本にさせない戦略が、ABCD包囲網です。

 ただ、ここで俺は、このアメリカの戦略が「非道でけしからん」とか、そういう事を言いたいのではありません。


 人間というものを見たときに、まずパッと思うのは、「人は経済無しでは生きて行かれない」ということでしょう。
 また、その『経済』とは、そもそも「集団の歴史的な体系」の中にある伝統や慣習、慣例がなければ成り立たないものであることは、先ほど申した通りです。近代以降では、特に、その歴史的集団で最大のものである『国家』が経済の存立基盤であることは、疑いようもありません。

 さらに、この「国家と経済の相互依存関係の塊」は、地球上に日本だけではありませんね。船や飛行機の技術が発達して、世界が狭くなってからというもの、国家間は何らかの関わりを持たざるを得ないわけです。
 すると、そこに何かしらの経済的不均衡が生じることは、運命的に避けられません。
 そして、この「国家間の経済的不均衡」は、おおよそ「人間の知」を越えたものであることを認めなければならないーーと、こう言いたいのです。人間の知は、国家間の経済的不均衡をコントロールできるほど、完璧なものではないのです。

 勿論、国家間の経済的不均衡も大きくなったり小さくなったりしますし、ある程度、大きくならないようにする技術論もあります。しかし、そういった技術論が通用しない領域……つまり人間がコントロールできない領域で、国家間の経済的不均衡が急激に膨らんで決定的な対立を起こすことはありうるのです。

 こうした場合、「軍事的な衝突をもってでしか事が収束していかない」というのは、ほとんど運命的に避けられない災害のようなものですよ。
 すると、国家体系と経済の相互依存は、潜在的に常に軍事力という物理的パワーとも深い関わりがあるということも分かるはずです。


 また、その軍事的衝突の「規模」も、国際法といった人知で抑え込める領域と、それを越えた領域があるはずです。
 大東亜戦争は……というか、第二次世界大戦は、先進各国が互いの「国家の歴史的な体系、存立基盤そのもの」をかけざるをえない、超大規模な軍事的衝突だったのです。
 こうした避けようもない雪崩のような危機に遭遇したらば、もうこれは国家を過去から未来へ繋げる為に、命を投げ打って戦う他ありませんね。


 こうして大東亜戦争を自然に顧みるに、「国家体系、経済、軍隊、それに政治体制といったものを加えた四つ」は、それぞれに深い関わりをもって存在し、いずれかを切り離して人間というものを考えることは到底できないし、してもならないということが分かるはずです。
 大東亜戦争における日本は、別にこの圧倒的現実から大きく外れたアブノーマルな振る舞いをしたわけでもなく、人知を越えた危機に直面した共同体としては極めてノーマルかつ適切な振る舞いをしたと捉えるべきです。

 むしろ、現代の人々は、これを無理矢理否定しているから、人間そのものへの見方が酷く空疎で刹那的にねじ曲がってしまっているのではないでしょうか。



(了)



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