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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2011年08月  
  

報道免許剥奪について 

 フジテレビへのデモでもう一つだけ言いたいことがあったんだ。

 俺はフジをはじめとするテレビ局の報道姿勢は非難されるべきだと思っている。特に堀江モン騒動以降株主が安定しなくなったフジは産経グループとは思えない程の反日っぷりと下らないバラエティー及び、スポーツを侮辱するようなスポーツ放送を繰り返してきたし、ソフトバンクが筆頭になってからは一に韓国、二に韓国、三四が韓国、五も韓国という徹底した大韓民国偏重ぶりが甚だしく、見苦しくて仕方ない。

 だから、フジテレビに見苦しい真似は止めろと抗議するのは何も間違っていない。そして、もしそこから韓国に対しての嫌悪感が生じても、別に大した問題でもない。

 だけど、俺がこのデモが主張するところで唯一問題だと思うのは、「報道権を剥奪しろ」だとか、「フジテレビをぶっ壊せ」とか、「日本企業でもスポンサーは同罪だ」とか、そういう、自国の権力に対する革命的な破壊衝動が入り混じっている点にある。
 つまり、テレビ局を権力の権化として、その枠組を壊し、電波を民衆の下で自由化しようという発想である。これは、東電批判と全く同じような種類の反体制、反権力的な発想だ。

 俺は日本国民がいくら韓国に対して嫌悪感を抱こうが一向に構わないと思うが、自国内の権威や権力の枠組に対して軽々しく壊せという発想になることについては、甚だしく愚かなことだと思う。

 フジテレビをはじめとするテレビ局が日本の公共性を害していることは確かであるが、しかし、ノウハウをたくわえた日本のテレビ局である。フジテレビという枠組を壊すだとか、電波を民衆の下に自由化する、などということで秩序が保たれると本当に思うのか。もっといえば、電波を自由化したとして、もっと胡散臭い連中がそれを握る可能性は実は高い。

 テレビ局の問題は、公共の電波を使っていながら、表現の自由の美名の下に国家の統治が効いていない点である。
 フジテレビが公共性を害しているなら、その枠組を壊すのではなく、行政による統治が効くようにするべきではあるまいか。

 今回のデモで、国家として電波を統治する重要性に国民が気づいてくれればいいなあ、と思う。



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Janre: ニュース

Tag: デモ  日本  韓国  k-pop  報道法  右翼  左翼 
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フジテレビ、デモ 

 昨日、韓国偏重のフジテレビで数千人という大規模なデモが起こった。よくやったと思うが、当然ながらテレビのニュースにはなかなかならない。


 テレビの力ってのは甚大でさ。どんなに視聴率の低い番組でも百万人規模の国民へ同一情報を発信できる。
 これは、テレビが連日「A」と言い続けていれば、国民の大半をAという意見にさせてしまう程の力である。これがいかに圧倒的で絶望的な力か想像がつくだろうか。

 十年ほど昔、「あるある大事典」という番組があった。これは、毎週1つづつ食材をテーマに、それがいかに健康によいかを述べる番組で大変な人気をはくしていた。ウチの家族や学校のみんなはその番組が好きだったが、俺は恐ろしかった。何故なら、その番組で取り上げられた食材は、次の一週間だけはスーパーで売り切れて買えなくなるという異常なことが起きていたからだ。ヨーグルトとか椎茸とか納豆とか、そんな普通な食材ばかりなのにだ。
 俺は、「そんなうさんくさい番組を信じるのはやめろ」と、家族や学校の友達に言い続けていたのだが、誰も聞かない。それどころか、馬鹿にするなと怒られることも多かった。
 しかし、「あるある大辞典」は、番組内のデータの改ざんが原因で打ち切りとなった。
 このことから分かるのは、国民はテレビが右と言えば、たとえデータをいじっていても一斉に右を向くし、左と言えば左を向く。「あるある大辞典」の内容は、単に食材と健康がテーマだったから、あまり問題視されていなかったが、これは視聴者の意見を一つに染め上げるテレビの圧倒的な力を示していた。

 そして、テレビ局のほうは、それを十分分かっている。だから、国民の九割九部が、「好きでもなければ嫌いでもないし、そもそも興味がない」韓国にしても、少しづつテレビで流していけば、国民はそちらを向くだろう、とタカをくくっているのである。

 こういうのって洗脳といわないかな。
 だって、テレビを見ていなきゃ韓国のものに触れる機会ってほとんどないし、テレビさえ見ていなければ「興味が無い」あるいは「ほとんど知らない」という状況にしかならないのだよ。テレビを見ない人からすれば、テレビを見ている人が、「韓国のドラマの何何が、kポップがこれこれ、で話題になっているらしいよ」と言っている姿を見ると、まさに複雑怪奇、超常現象、異常事態に見えるのである。

 「韓国のドラマやポップスのほうが質が高いんだからしょうがない」という意見をたまに聞くが、それは全然お門違いである。
 テレビドラマや、Jポップは、そもそも大衆文化なのだから、内輪で楽しむことが目的である。確かにここ10年あまり日本のテレビドラマやポップスの質は内輪で楽しむことも出来ないレベルまで劣化しているのは間違いない。でも、それならもう止めればいい。わざわざ韓国から輸入してまで必要なものでもないはずだ。もともと西洋の音楽の焼き回しに日本語を付けただけのものなんだし。

 また、「嫌なら見なければいい」というのは人間を個人でしかとらえられない想像力の欠如した意見である。よく、テレビの公共性という話が出るけど、その公共性というのは「日本国民における公共性」という意味だからね。外人がその公共性の中に入ってくるのには、一定の限度というものがある。嫌、なのは、自分が見るのが嫌だというのはもちろん、日本国民全体として、韓国韓国韓国、という番組を見せられるのが嫌だ、という意味なのである。

 俺は、ほとんどテレビをい見ないから、韓国ドラマもKポップもまともに見たことがない。そりゃそうだ。情報を選び取れるネットの人間にとってみれば、わざわざ韓国のものを選びとる理由がない。
 そういう人間から見てみると、世界に二百近くある外国のうち、何故韓国だけをこうもとりあげるのか理解不能極まりない。

 あと、俺自身は嫌韓というわけではないが、別に嫌韓が悪いこととは思わない。過度によその国に肩入れするよりは嫌いなほうがまだマシだからだ。というか、これだけ興味のないものをごり押しされたら、嫌いにならない方がおかしい。

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Janre: ニュース

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右と左③(おわり) 

 政治思想の右左と、計画経済性と自由主義経済性を混同してはならない。
 計画経済性と自由主義経済性はどちらかに偏ると明らかに良いことが無いのである。共産主義の失敗は、「計画経済性なるものが悪い」のではなく、「偏った」ことの方に問題があるのだ。

 計画経済性指向の強い政策とは、税率を高くして、政府の支出を多して、強く規制を敷くような政策である。このような政策を採った政府を通常“大きな政府”と呼ぶ。
 自由主義経済性指向の強い政策とは、税率を下げ、政府の支出は減らし、規制を緩和して、経済を民間の市場原理に任せるような政策である。こちらは“小さな政府”と呼ぶ。
 つまり、自由主義経済性と計画経済性の対立軸とは、国家の経済を統治する上でのメソッドの対立軸なのである。この対立軸を細かく見てみると、「税率」「規制」「官と民」と、全てがバランスを持って統治すべき項目であることは一目瞭然だ。
 旧ソ連のように大きな政府を極めたような国は、その対立軸であまりに偏っていたのである。対して、アメリカは自由主義経済性の極めて強い国であるが、一応計画経済性の面も合わせ持っていたため表面上はバランスが取れているように見えたのである。
 しかし、アメリカは極まってはいないものの、もともと自由主義経済性が高かった上に、イギリスのサッチャー改革やソ連の崩壊等のファクターも相まって、より強く自由主義経済性を高めていった。その偏りが表面化したのが貿易摩擦やサブプライムローン、リーマンショック等である。
 これは、政府が自由主義経済性に偏った政策を施した際に、国家に及ぼす影響を端的に表している。
 つまり、「規制を緩和し、税率を下げ、市場原理に任せ、政府を小さくしていく」ことは、政府の統治能力を下げるということなのである。そもそも、国家においての経済とは、国民の間で回る物質を、滞りなく循環させることが史上命題である。政府はそのように統治しなければならないし、そのためには統治能力、権限を残しておく必要がある。確かに、民間の競争や市場原理に任せることが、物質の循環を健全に促進する部分もある。しかし、そうはならない部分も実は多い。それを是正し、統治するのは政府以外に有り得ないのだ。
 当たり前の話ではあるが、“小さな政府”を極めていけば、それは無政府主義に到達するのである。


 さて、東西の冷戦は、ソ連を中心とした共産主義諸国V.S.資本主義の西側諸国という構造である。この西側の中にはアメリカという共和制の国もいるし、イギリスという立憲君主制の国もある。共産主義を左とするならば、共和制立憲君主制はなんと呼べば良いのか。だから、もうややっこしいから共産主義共産主義として、右左の議論上にはない別の物としてとらえるべきだと思うのである。
 しかし、現在は冷戦の名残で、共産主義者、または旧共産主義諸国に非常に肩入れしている者を左翼と呼び、国家と天皇を敬っている者を右翼と呼ぶ。その結果、共和主義的な発想を“中道”であると勘違いしている輩が出てくる。つまりはこうだ。
「私は共産主義者でもなければ、天皇に特別な感情もない。だから右も左もなく中道である。そして、政治は民主的に、日本国民一人一人の生活のためにとりおこなわれるべきだ」
 そんな風に考えてる日本人はかなり多いと思う。
 これは一見バランスが取れているように見えるのだが、一歩下がって第三者的に見てみると、左論しか言ってないし共和制の論である。だって、「共産主義ではなく、天皇という君主も認めず、国民の権利を個人としてとらえている」のだから、アメリカ的共和制のイデオロギー以外の何物でもないではないか。また、その上に乗る国の枠組みという右論は欠如しているのだから、出来損ないの共和制である。アメリカやフランスという共和主義の国においても、左論の上には必ず国家の枠組みを乗せるのだから(上手くいっているとは到底思えないが)。そして、下手したら経済の強さだけにはナショナリズムを感じて過激な自由主義経済を主張したりするのであるから、「衆愚政治」と呼ばれてもいかに反論のしようがあろうか。

 なお、「共和制日本」というのが「今、日本と呼ばれている地域についての政治思想」であって「日本の国家の政治思想」には成り得ないことは先に述べた通りである。単純な事実誤認だ。

 さらに言えば、「右もなく左もない」という言葉に代表されるように、右翼とも左翼とも思われたくない——いや、そういったものに自分がなりたくない、という思いが、現在の日本人には強くある。
 しかし、右論や左論がなく、政治についてどう論理的な思考をしろというのか。また、「政府や行政府の指針を多数決で決める」というような、政党政治のシステムを採用している国家においては、「統治者」とはダイレクトに国民のことであるのだから、国民が政治について論理的な思考ができなければ、それはまさしく衆愚政治と呼ばなければならないだろう。(俺はそもそも民衆が民衆を統治するなど不可能であると考えるので、政党政治には反対だが。民主主義は議会において発揮され、行政府においてはある程度の超然主義を発揮しなければならないと思うからである)
 「中道」という語は、甚だ曖昧な概念ではあるが、それでも中道を目指すのであれば、「右も左もない」ではなく、「右もあり、左もある」ことが前提条件ではなかろうか。そして、その右と左をなんとか筋だった一本道に思考することが「中道」であり、「考えなし」のことは中道とは断じて呼べない。



 さて、国家と政治、統治について考えないということであれば、それは必然的に物事を「個人と世界」という項目で考えるようになる。国家という属性を無視し、人類という属性に寄ってしまうのである。
こういう「国境はいらない」「人類はみな平等」的な考えは、残念ながら本当に今の日本を席巻していると言わざるを得ないが、これもまた事実誤認である。

 そもそも、地球の各地で人間が他の生物よりも上位に位置しているのは、「人間が他の生物よりも強いから」である。
 キリスト教を初め、ほとんどの一神教の思想では「理性があり、思考ができるから、人間は神に選ばれた生命体である」というようなサッパリわけの分からないことを言っているが、人間は断じて神に選ばれてなどいないし、他の生物よりも偉いわけでもない。すべての生命体、哺乳類、爬虫類、虫、植物に至るまでが、同じ尊い生命である。そのなかで、何故、現実的に上位、下位が存在し、人間が支配力を発揮しているかといえば、物質量が有限であり、また、強い者が物質を支配するからだ。
 つまり、「理性と思考を持っているから人間は偉い」のではなく、「理性と思考を持っているから、人間は強い」のである。
 よって、人間に「生まれ持った普遍の権利」など存在しないのだ。

 その中で、人間に「権利」というものがあるとすれば、近い価値観や文化を共有した枠組みの中においてのみだ。当たり前のことだが、価値観が違えば、当然「権利」の概念も違うのである。
 一人では生きてはいけない人間が、どうにかこうにか最低限価値観を共有できる最大限の規模の単位が「国家」である。国家とは、混沌として暴力的な状態に、どうにか秩序と安定を維持しようと、価値観や文化を枠組んだ、人間のギリギリの知恵なのだ。
 もし、世界に国境がなくなるとすれば、価値感や文化や枠組みが、世界の人類全てで、ある程度共通化した時であろう。でも、俺はそんな単一的でつまらねー世界はまっぴらごめんだ。だって、それは世界が一国になることに等しいから。
 欧州の現状を見れば分かるように多文化は共生できないのだから、それを分けているのは国家である。人類に多様な価値観や文化が存在するのは、国家が存在するからなのだ。

 信じられないことに、現代日本では、「国家の意識を強く持つ者」を右翼、「国家よりも人類という意識を持つ者」を左翼、という認識すらある。
 「国家の意識を強く持つ」のは、国家が国家として存在している限り、当たり前のことである。これも、別に「国家の意識を持たないとはけしからん」と言っているわけではなく、「政治思想の対立軸である右と左において、国家の意識は前提条件である」と言いたいのである。だって、政治とは国家があってはじめてなされるものだから、国家のない政治思想などありえないではないか。
 つまり、「国家よりも人類という意識」は左と呼ぶべきものではない。単なる無政府主義だ。



 このように、戦後の右翼左翼のイメージから構築された現在の右左の軸は、あまりに歪んでいる。というか、事実誤認が多すぎる。
 その結果、天皇について、経済について、国家の意識について、明らかにおかしな議論が横行することとなってしまったのではなかろうか。



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Category: 政治

Thread: 日本を正常な国に戻したい

Janre: 政治・経済

Tag: 右翼  左翼  共産主義  共和制  立憲君主制  天皇  政治  日本  反日  ネトウヨ 
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高岡蒼甫・嫌韓 

 この話題はあまりに思うところが多すぎて、綴るのに躊躇していた。
 俺は、書きたい、書かずにはいられない。書いて一人でもなにか自分の中にある根源的な事を伝えたい――そういう衝動があったから、ネットで駄文を書いている。とはいえ、自分が伝えたいことの何割かでも文章で人に伝えるってのはなかなか難しいことで、ひょっとしたら上手くいかないかもしれない。というか、まず上手くいかないだろう。それがちょっと怖かったりする。
 素人の俺が書いた文章など、世に大した影響を及ぼすとは思えないが、そういうことじゃない。偶然でもなんでも自分の文章を読んでくれた人に、伝えたいことが違った形で伝わったら、それはとても悲しいことであると俺は思うのである。特に、こういう思いの丈が強いテーマになればなるほど。

 さて、何から行こうか。

 まず、普段から主張していることを少しだけ。
 大韓民国は、世界に192ある国連加盟国(日本を除いた)と、国連非加盟国のいくつかと同じように、日本にとって他国である。大韓民国も、中華人民共和国も、ブラジルも、チリも、アルゼンチンも、アメリカ合衆国も、ロシア連邦も、イタリア、フランス、イギリス、台湾、チベット、メキシコ、バチカン、オーストラリア、全て平等に他国――他所の国、外国なのである。我々、日本人にとって、唯一特別な国とは、自国である日本だけだ。日本は韓国のお母さんでもなんでもない。もう一度いう。韓国は日本にとって特別な国ではないし、特別な他国などあってはならない。そして、他国の国民は我々の共同体から見て外の人という意味で「外人」なのである。
 一言で言えば、「国境を思えと」いうことだ。

 これは、実は当たり前すぎる事実なんだけれど、日本の国教育がその当たり前のことを教育してこなかったために、その認識があまりに薄い国民が多いのが現状である。
 自虐史観の一番まずいところは、国の歴史に誇りを持てないということではなく(それも甚だ問題ではあるが)、そういう当たり前の「国境」の意識すら悪とする思考を生んでいるところにあると、俺は切に思う。

 しかし、しかしだ。そんな当たり前のことも認識されていない狂った国においても、フジテレビのあまりに露骨な韓国愛、韓国絶対主義、韓国神聖化、韓国第一主義は、違和感という曖昧な感情であるにしろ、国民の思考に楔を打ちこんできたと言えるだろう。
 「打ち込んできた」と完了形で言ったのは、フジテレビ韓流や韓国擁護主義への違和感が、高岡騒動に端を発していないからだ。しつこいまでの「韓国、韓国、韓国」に、当初韓国に対して特別な感情を抱いていなかった(というか興味すらなかった)大部分の国民も、すこしづつ違和感、あるいは嫌悪感を覚えていったのであり、高岡騒動は大々的に表面化したきっかけになったに過ぎない。
 楔を打ち込んだのは、フィギュアスケートだったり、韓国国歌は流すくせに君が代は流さなかったり、竹島をテロップの天気図から外したり、韓日戦という呼び方だったり、日本海に(公海)と併記したり、視聴率の取れない韓国ドラマだったり、極めつけにはK-POPという聴衆を舐めきった音楽ブームのごり押しだったり、人それぞれだろう。
 いかに国境の意識が薄れてしまった日本国民においても、ここまでやられたら、「変だな」くらいのことは思うのである。

 さて、俺は先ほど、「高岡騒動は大々的に表面化したきっかけにすぎない」と言ったが、実はこの「大々的に表面化する」というのが、この国では非常に困難なことであった。故に、俺は高岡蒼甫を全面的に支持する。
 なぜ、「この国では非常に困難」だったかと言えば、韓国または朝鮮民族に関する事柄において、日本人が許容以外の態度を示すと、人種差別主義者(レイシスト)と呼ばれるからである。……いや、そうじゃないな。きっと、許容以外の態度を示すことで、自分が人種差別主義者になってしまうのではないかという恐れを常に感じているから――だろうな。他人から人種差別主義者と呼ばれるより、自分で自分を人種差別主義者と認定してしまうことのほうが、はるかに恐ろしいことだろうから。
 そういう中、「声のデカイ人」つまりタレント、有名人と呼ばれる人間の言葉は本当に意義があった。民衆というのは、本当に大勢になればなる程単純化するもので、有名人が発言をすれば、「これは言ってもいいことなんだ」あるいは「思ってもいいことなんだ」と認識する。批判はされていても、「有名で知名度のある人が言っているのだから、一つの意見として極端におかしい感覚ではない」と、思えるわけだ。つまり、自分を人種差別主義者と思わずに済むのである。
 加えて言えば、高岡氏はテレビ側の人間なわけで「ああ、やっぱり、やってる本人たちも嫌だったんだな」と分かったことで、希望のようなものを見出した、というのも少なからずあったのではないだろうか。
 ただ、高岡氏がそこまで考えてツイートしたのか、と問われれば、それは疑問の残るところである。ツイートの言葉そのものに何か目を見張るような根源的な内容が含まれていたかどうかといえば、そうは思えないから(当たり前だ。彼は物書きでも思想家でもなく役者なのだから)。

 もう一つ高岡氏について言わせてもらいたい。それは、高岡氏に大義はあった、ということだ。
 彼は、事務所と契約し、俳優としてテレビ局で仕事をする立場であるから、一見、上への裏切り行為のようにも思える。
 確かに、社会や組織の中で、上の者が言うことは絶対だ。なぜなら、上役にはその権限とともに、その分の責任も負っているから。下の者が上の者の意に背いたとしても、責任は取れないのだ。しかし、それはより上位の立場にある者の意見に従うべきということも言える。
 自分が平社員で、上司である課長と部長の二人の意見が割れていたとしたら、それは部長の意見に従うべきだし、部長と社長の意見が割れていたら、社長の意見に従うべき。そして、社長の意見に日本国政府が反対すれば日本国政府に従うべきだし、日本国政府の意見が天皇の意にそぐわぬものならば天皇に従うべき。
 天皇とはつまり国家と国民全体のことだから、自分の会社が国家と国民全体の意にそぐわないことをするのであれば、当然会社よりも前者の意に従うべきなのである。
 すると、フジテレビの存在が、日本の国家と国民の意、または利益に反しているならば、彼はより上位の意に従ったまで、ということになり、正当性は十分にあると言える。

 同じ時期に、ふかわりょうのラジオでの意見が話題になった。彼の論を要約すると、「広告を、CMとしてではなく、番組のなかで取り上げることは、世の中の現象を偽装していることであり、そのことで、とあるテレビ局が儲かるシステム、――K-POPの版権を持っているだとか、韓国からお金がでるからだとか――があるのならば、それはいけないことだし、時代を映すものとしてのテレビの役割は終わったといえる」というものだ。
 とても人の意識を揺さぶる素晴らしい見解だと思う。
 ただ、一つ思うのは、韓国抜きにしたら、そういうことを電通をはじめとする広告代理店はずーとやってきたのである。広告代理店は、もちろんスポンサーとテレビ局の仲介人でもあるが、番組内に出てくるお店、観光地、スポットの仲介もやっているのである。たとえば、あるラーメン屋がテレビで知名度を上げたいと思い、広告代理店にお金をはらう。テレビ局側はラーメン特集を組みたくて、広告代理店に紹介料を払う。すると、その番組はテレビで取り上げられ、視聴者はそのラーメン屋に実力があるからテレビに出るのだと思う。これだって、私腹を肥やしているのが広告代理店だというだけの話で、日常を偽装しているのだから、ふかわ氏の話と合致する。
 そして日本最大手広告代理店の電通の成田はソウル出身かつ毎日新聞出身であり、極めて韓国愛に満ち溢れている。つまり、日本のメディアは最近急におかしくなったのではなく、もうずいぶん前から公共性は失われているのだ。


 さらに、やはりこの問題は外国勢力の介入が公共性を著しく害しているというところを述べなければ終わらないだろう。
 そもそも、外国勢力の介入が、なぜ電波の公共性なるものの侵害と呼べるかといえば、日本における「公共」というのは天皇のことであり、天皇とは日本国民全体のことだからだ。つまり、日本国民以外の勢力は日本における「公共」には含まれていないのである。これは、単なる事実だ。論に天皇が出てきたからと言って右翼扱いはやめてくれよな。
 そして、国は常に、他の国のメディアに対して、介入しようとするものなのだ。なんで断定できるかといったら、たとえば俺がある国の行政権を握っていたとしたら、当然隣の国に試みるからだ。特に行政までを民主主義で決める国家に対しては、民衆に対してイメージを上げておけば、その分行政の態度は軟化し、国益に直結する。国益になるということは、指導者として、自分の国の国民に与える利益を増やせるということだから、当然やるべき施策なのである。

 韓国は、フジテレビの株を握り、韓国愛溢れる番組を垂れ流すという、極めて稚拙なやり方で、それをやっているが、できれば、これを期に国境というものを意識し、大手のテレビ、新聞各社にはさまざまな外国勢力が公共性を害している状況を認識してほしい。他の国、たとえばアメリカや中国、EU諸国などは、韓国のように稚拙ではない。第一メディア介入や工作活動の経験値がぜんぜん違う。民衆にすぐばれるようなヘマは犯さないのである。

 今回のことにより、フジテレビへの怒り、または韓流への嫌悪感を感じている方も多いだろう。もちろん俺もその一人だ。
 しかし問題の本質も考え、工作員を取り締まるという国家としては当然あるべき法律、また、メディア関連株式の外国勢力占有率の規制強化、そういったものを求めることも、検討してはいただけまいか。



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Category: 政治

Thread: 報道・マスコミ

Janre: 政治・経済

Tag: マスコミ  マスゴミ  高岡蒼甫  フジテレビ  韓国  韓流  テレビ  工作員  マスメディア 
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右と左② 

※「右と左」のつづき

 その上で日本は立憲君主制という右のイデオロギーをベースに定義された国家であることを再確認してもらいたい。「そうあるべきだ」とか言う以前に、日本という単位を天皇抜きに定義することは不可能なのであるから、これはただの事実である。
 良く分からない人は、まず、“日本人”の定義について考えてみると良い。「古くから天皇の下の民であった人々」という定義以外には、どう頑張ったってできないはずだ。
 もし今、日本と呼ばれているこの地域に、天皇を廃した共和制国民国家を作ったとすると、それは既に日本ではない。「かつて日本のあった地域にできた違う国」なのである。よって、「左のイデオロギーをベースとした共和制の日本」というのは存在し得無いのだ。

 そうなると、“日本”という国家の存在を肯定する日本人は、すべからく立憲君主制を支持する右派ということになる。逆に、共和制を支持する左派は、この地域に共和制の別の国家を作ることを支持しているのだから、反日本ということになる。いや、「共和制支持の左派は反日本だから悪者だ」と言っているのではない。そもそも、相対的に見れば、反日本であることが、悪であるとは言えない。反日本が悪であるのは、日本という国家組織の絶対的な価値観においてのみである。ここで問題になるのは、日本人としての統一的価値観を持っている人で、「反日本は悪である」と思っているにも関わらず、無意識のうちに共和制を信望する左派になってしまうケースがあることだ。こういう人は、「日本でありながら共和制である」ということが論理的に可能だと錯覚しているため、自分で自分を反日本であるとは思っていない。だから相対的な事実の把握というのは大切なことなのである。

 さて、確かに日本は右のイデオロギーをベースにした国家ではあるが、そこに左的な物が必要とされないかといえば、そんなことはない。先にも述べたが、現在の立憲君主制の基礎となる反革命思想とは、「右をベースとした体制に左をのっける」ということである。つまり、日本を肯定する国民の間でも、ベースとなる右を比較的重視する者と、乗っかっている左を重視する者、という軸で左右に分類できるのである。

 つまり、「天皇の下の政府による全体的な秩序と安定という統治に関する思想」を右、「天皇の下の民は万民平等であるという思想」を左、に分類するべきだということだ。日本という枠組みにおいては、右思想も左思想も、天皇というベースの右抜きに考えることは不可能なのだから。

 それを、天皇の廃位を目指す者を左、親皇派を右、と日本政治を分類してきたのが第一の間違いである。いや、“間違い”というと誤解を与えるな。正確に表現すると“事実誤認”である。天皇制を廃した段階で、それは“日本”ではないのだから、日本政治の思想とはカテゴライズできないのだ。

 もう一つ重大な事実誤認がある。それは、東西冷戦に一応の決着がついたことにより「計画経済」を左だと漠然と考えている人間が出始めたことだ。計画経済の対立項は自由主義経済だから、これはもう全く右左の論とは関係がない。このことは、本当に危惧すべき誤認である。何故なら、この誤認によって形成された世論が、政府に自由主義経済に偏った政策を施させているからである。具体的には「共産主義は失敗した。だからこれからは計画経済とは逆のアメリカのような自由主義経済を進めていくべきだ。政府は事業を止め、規制をどんどん緩和して民間の活力に任せるべきである」という論調だ。
 しかし、自由主義経済性と計画経済性は、政治思想としての右左とは別の対立軸でバランスを取っていかねばならない対立軸だ。古来より国家はこのバランスのとり方に苦労してきたのである。

※つづく



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Category: 政治

Thread: これでいいのか日本

Janre: 政治・経済

Tag: 右翼  左翼  天皇  共産主義  政治  政治思想  保守  革新  日本  大日本帝国 
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政治家を減らすということ 

このブログの主旨は、世間に跋扈するあまりに愚かな論理に疑問を呈することなので、
「政府支出を減らすため、とりあえず政治家の数から減らせ!」
という、小学生でも言えそうな感情的で稚拙な意見に異を唱えてみる。

基本的に国会とは、法律の議決に関する一票を持つ議員が多数決を行う場である。何故そんなことをするかっていうと、同じ日本国民でも、様々な立場や権益が存在するから、議員が「国民の一部の主張」を代表して多数決をしているのである。これが、議会における間接民主主義の基本だ。
この前提を踏まえて、「国会議員の数を減らす」ということについて考えると、
①間接民主主義がより間接的になる
②一人の国会議員に対しての権限が強まる
ということになる。

例えば、人口千人という小規模な国家があったとする。仮にこの国をJ国と名付けよう。
このJ国に議会を置くとして、最も民主主義的な手法は「直接民主主義」で全員が議員になることだ。だが、それでは効率が悪すぎるし、そもそも国民全員が法律に精通しているなんて有り得ない。だからJ国では100人の代表者を選挙で選ぶことにした。この場合、国民に対し議員が占める割合は千分の100であるから、単純計算で「J国民10人程の代表」(a)ということになる。
さて、このJ国でも「議員を減らせ」という声が上がった。よって、代表者を百人から10人に減らすことにした。そうなると、J国議員の割合は千分の10で、「J国民100人の代表」(b)ということになる。
(a)制度から(b)制度に移行することによって、1人の国民における選挙での影響力が薄まったことが分かるだろうか。(a)は自分の投票に10分の1の影響力があるが、(b)は100分の1の影響力しかない。
1分の1である直接民主主義と比べると、議員数を減らせば減らす程、国民1人の影響力は薄まり、より間接的になっていく。その分強まるのが、議員一人が持つ影響力である。当然ながら、「100人の議員の1人」より「10人の議員の1人」の方がより大きな決定力を持つことになる。

議員の数の議論はこういったことを踏まえてシステムとして論じるべきだ。単純な感情論で「政治家なんているだけ税金のムダ」とするのは、論拠が希薄すぎる。
まあ議席を減らせば自然と少数派が駆逐されるのだから「公明や社民、共産を潰したいから議席を減らせ」というなら分からなくもない。



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Thread: 政治・経済・時事問題

Janre: 政治・経済

Tag: 政治  日本  議員  右翼  左翼  衆愚政治  自民党  民主党  衆議院  参議院 
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右と左 

今日は政治思想における「右と左」について考えたい。
 戦後の日本では、右翼左翼という冷戦構造を元にした政治思想の対立があった。俺はこういった戦後の誤った左右の分類が日本における政治思想についての論理的な思考を阻害している大きな要因であると考える。

 本来、政治哲学における右とは権威主義のことを言い、左とは民本主義のことを言うのである。
 もう少し具体的に。
右:歴史的な連続性や国家としての枠組みと統治に関する思想。
左:個々人の権利やその平等に関する思想。

 根源的にはこの認識で間違いないはずだ。
 さて、上記は右や左の「思想」そのものを述べたのであるが、思想家や哲学者、政治家を指して「右派」「左派」と呼ぶことがある。それを理解する上で、分かりやすい対立軸が、市民革命前後のフランス革命思想とイギリス反革命思想である。
 現代日本の教育は共和制という左のイデオロギーを正義とするアメリカの影響が強いため、フランス革命思想についてはご存知の方も多いだろう。
 フランス革命思想とは「自由、平等、博愛という理想を実現するため、国民の“理性”によって民主主義的に秩序を維持していく」という思想である。
 対して、反革命思想は、「王家の歴史的な連続性による枠組みと統治を重んじた上で、民主主義によって国民の権利を保障していく」というものだ。

 一般的にフランス革命を支持する者は左派、反革命を唱える者は右派と呼ばれている。
 どちらが正しいか間違いかの議論はとりあえず置いておこう。しかし、良く見ると、双方共に右と左の思想が織り混ざっていることに気が付く。では何故右派と左派に分けられているのだろうか。
 それは「どちらをベースにしているか」の違いなのである。フランス革命が左思想の上に統治という右思想をのっけているのに対して、反革命思想は右思想の上に左思想をのっけているのだ。
 逆説的に言えば、このことから、左思想無い右派はあり得ないし、右思想の無い左派もあり得ないということが分かる。
 これは実は簡単なことで、国家という全体の枠組みが無ければ国民一人一人の権利などあり得ないし、個人の集まりが国家なのであるから、片方の思想のみでは論理が崩壊してしまうのだ。


 さて、現在の先進国と呼べるような国々においても、未だに立憲君主制と共和制という、右派と左派に分かれている。日本やイギリスは立憲君主制だし、アメリカやフランスは共和制をとっている。ただ、これは決して悪いことではない。
 何故なら、世界には“唯一絶対神”などというふざけたものは存在しないのだから、当然、善悪も絶対的なものではないからだ。
 確かに、ひとつの国家内においては統一イデオロギーの元絶対的な価値観で統治されるべきだ。しかし、世界は国家という枠組み(単位)ごとに多イデオロギー、多文化、多価値感で分かれているし、また、そうあるべきである。世界全体におけるイデオロギーや価値観の統一を良いことだと思っている連中は、絶対的な善悪を信じている、想像力の欠如した人間である。簡単に言えば、「人類皆兄弟」なんてあり得ないし、そうなる必要もないということだ。(これは、人類が地球の生態系のトップに君臨していることと、地球上の物質量やエネルギー量が有限であることに起因しているが、それはまたの機会に論ずる)
 だから、我々は、「全ての人類には生まれ持っての権利がある」だとか「人類が仲良くするために国家の枠を取り払う」とかいう幻想は、絶対的な善悪や唯一絶対神の存在を信じること同義なのだと気づくべきである。ただただ、「それぞれの国が違った枠組みを持っている」という事実を、良し悪しではなく相対的に“把握”すべきなのである。そして、その1つの大きな比較軸として右派左派のイデオロギー、つまり立憲君主制と共和制という分類が必要であることも間違いない事である。
 相対的な比較軸とはとても貴重なものだ。絶対的善悪が存在しないのならば、相対的見地しか現実を把握する方法はないし、それは比較軸無しでは成し得ない。だから、右左という比較軸は蔑称ではなく、貴重な相対軸として大切に使って欲しい。(その意味も含めて、ここで俺は共産主義を左派と呼称することをあえてしないし、するべきではないと考える。後に詳しく述べるが、冷戦下の西側と東側の対立軸は、右左という対立軸とはズレているからだ)

 まず、以上のことを、我々は第三者的に、冷静に、無感情に理解する必要がある。何故それが必要であるかと言うと、その段階を踏むことによって、自分の国のイデオロギーや価値観、または「日本とはなんなのか」を相対的に見ることができるからである。

※つづく



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Thread: このままで、いいのか日本

Janre: 政治・経済

Tag: 右翼  左翼  政治思想  革命思想  反革命思想  日本  政治  イデオロギー  社会  国家 
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核ゴミについて 

一連の原子力発電反対ブームでにわかに注目を浴びている原発の核ゴミ。特に、使用後にガラス固体化する高レベル放射性廃棄物に焦点が集まり、「核ゴミを未来の世代に残すのはよくない」という声がつとに上がっている。(少し前まで環境左翼くらいしか騒いでいなかったが)
ここでは、その核ゴミの話が「脱原発」の正当性を支えるものにはならないということを述べたい。


結論から言わせてもらうと、「もう遅い」ということだ。
つまり、核ゴミは、もう出てしまっているのである。約五十年前に日本で原子力による始めの1ワットが発電されてから、これを処理するか、日本が滅びるまで保有するか、どちらかをしなくてはならないことは決定しているのだ。
もうすでに、我々が「核ゴミを残された世代」なのである。
また、核ゴミは原子力発電だけではなく、原子力の兵器、つまり原子力空母、原子力潜水艦、こういったものでも当然出ることも申し添えておく。

だから、核ゴミの処理は大変な問題ではあるけれど、原発をやめることで得られるのは、「核ゴミを処理する分量が減る」だけであって、処理しなくてはならないのは規定事項であり、処理をする分量を減らして軽減されるリスクはたかが知れているのである。

そもそも、原子力は永遠のエネルギーではない。ウランは2百年程で枯渇すると言われているし、その前に生産地が分散されなくなれば原子力の意義が半減し、淘汰されていくものである。

仮にあと五十年、原子力発電がエネルギー分散において有効に機能したとして、部屋一杯の核ゴミのガラスが部屋2つ分になったところで、及ぼす影響は(小さくはないけれど)限定的である。もう一度言うが、どちらにしろ処理をするか、保有するかしなければならないのだから。

簡単に言えば、原子力の事故が起こったからといって、原子力発電を辞めたとしても、核ゴミの問題からは逃げられないということ。
原子力発電の力で国家独立性を保ってきたのに、事故が起こったからといって急に引き返すことができるなんて甘い現実は存在しないのである。



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Thread: 環境・資源・エネルギー

Janre: 政治・経済

Tag: 原子力発電  原発  高レベル放射性廃棄物  政治  エネルギー  福島原子力発電所  原子力行政  東電  ウラン  原発事故 
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原子力発電アレルギー 

原子力発電所の事故からずっと危険に思っているのだが、事故が起こったからといって原子力アレルギーを起こすのだけは行政を混乱させるのでやめるべきだ。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
という、ドイツの名宰相ビスマルクの言葉があるが、今の日本人の多くはその経験に学んでいる状態である。
この言葉は「経験に学ぶ前に歴史に学んでおけ」という意味ではなく、「経験に学ぶと、どうしても最近起こったことに意識が向かうので、歴史に学び、総合的かつ冷静な判断を施す必要がある」という意味だ。

経験に学ぶ傾向はなにも日本国民に限ったことではないが、日本の歴史を見れば、経験に学んで良いことが起こったためしがない。
「戦争に負けたから二度と戦争が起こらないように軍事力は持たない」
「バブルが怖いから、公共事業は減らすし、インフレは起こさないようにする」
「田中角栄や金丸がけしからんから、小沢や社会党に政権を取らすし、小選挙区制度を導入する」
「天下りがけしからんから公務員の給料は下げる」
全部、本末転倒甚だしい話ではないか。
「そもそも軍事力は国家の独立と秩序を保つためのもの」だし、「そもそもインフレ率は2~3%以上でなければ国内経済が正常にまわらない」し、「そもそも自民党は日本の政治家の集まりで、通常の政党に該当する単位は派閥であったからこそ、中選挙区制だった」のだし、「そもそも、公務員、特に中央の官僚の給料をさげると、国家の根幹を運営する機関に優秀な人材が行かなくなる」のである。
すべて経験によって学び、「そもそも」の部分を無視しているが故の愚行である。

原子力発電が日本において重要なのは、そもそも国家経営においてエネルギー分散に必要性があったからである。
「単価が安いから」でも「利権でおいしいから」でも「環境にいいから」でも、ましてや「安全だから」でもない。これらは、あとから役人根性で加わった追加のファクターである。
すべて分散の話だ。株式のリスクヘッジに似ているかもしれない。
何割かはウラン、何割かは石油、何割かは石炭、そして自国の環境に即刻影響を与えない程度に水力、太陽光、などが加わって分散している状態、これが最善の状態である。これならば、どれかひとつのエネルギー源が輸入できなくなってしまっても、国家の独立性を保つことができる。なお、発電量は常に余裕を持ち、供給は需要にたいして何十パーセントも余裕を残しておかねばならないのはいうまでもないことである。停電の話もあるが、戦時や災害時に停止する発電所も出てくることが予想されるので、余剰は絶対に必要なのだ。

こういうことを言うと、「これこれこういう国産エネルギーがあるのだからウランの輸入が必要な原子力は要らない」と言い出す人間がいる。いや、メタンハイドレートも藻も開発すりゃあいいと思うけど、せめて研究を進めて実用化されてから勘定にいれるべきである。
またまた、こういうことを言うと、「原子力に利権があって、その他の研究はイジワルされて予算がつかない」と言いだす人間がいるが、利権とイジワルで言うと石油のほうがよっぽどである。また、研究機関は別個の独立法人が設立されているはずだから、そちらの研究費と、原子力の研究費は本来別事案のはずだ。
それに関連することでもうひとつ。仮に、国産エネルギーが実用化にいたるまで開発されたとしても、まず無くしていかねばならないのは石油による火力発電である。石油は産出地が非常に限定されているうえ、国家間の外交カードになりやすいため、国家の独立性を弱めるファクターだ。ウランはそれに比べれば、(現在はオーストラリアから約半分を輸入しているものの)産出地も分散しているし、保存が約2年もつ分、まだマシなのである。
だから、仮に、国産エネルギーで何割かの供給がまかなえるようになったとしても、「石油を使わない」という話にはつながっても、「原子力を使わない」という話には到底ならないのである。
鳩山内閣が二酸化炭素排出量の無理な削減を掲げて通した「環境何とか法」とかいう世紀の愚法を改正して、石炭を国産でやるとしても、同じである。まず、減らしていくべきは石油の割合なのだ。
現状、日本の発電における石油の割合は高すぎる。

だから、「国産エネルギー開発に予算をつけろ」という主張には大賛成だが、それは原子力不要論に直結しないし、勘定にいれるのは実用化できてからにするべきなのである。国産エネルギーで相当余裕ができるほどの発電(真夏の需要に対して120%ほど)を実現できたら、初めて原発の役割は終わりになるのである。

太陽光発電に関しては、テレビや週刊誌の言うことを信じているような想像力の足りないお花畑思考の国民がいるとは信じたくないが、現総理大臣がそうなので本当に困る。
「太陽光で原発を脱する」という小学生でも考え付くような稚拙な説は、あらゆる面で非現実的である。
まず、(百歩譲って)仮に太陽光で現在の原発が発電している量を蓄電池も併用して(直列から並列に変換するロスも含めて)実現したとしても、まず、なくしていくべきなのは石油である。
つぎに、(千歩譲って)石油より原子力を先に、無くすのだとしても勘定にいれるのはせめて蓄電池の技術にめどがついてからにして欲しい。
また、夢のような蓄電器が開発されないかぎり、固定買取制度というのは、火力発電の増設と抱き合わせてやらなくてはならないため、政府と電力会社にたいして甚大な負担になる。つまり、晴れの日はどんなにあまっていようが、火力発電を止めて、各家庭から電力を買わねばならないが、晴れていない日は火力発電で発電しなければならない。すると、稼動を不安定にせざるを得ない火力発電にかけるコストロスは甚大のものだし、あまっているものを買う政府の負担も甚大である。それは電気料金に如実に現れるか、または電力会社は民間企業なので電力会社がデフォルトする。政府に関してはデフォルトはしなくても、消費性向の低い支出になってしまう。
最後に、太陽光というのは、そもそも土地に降り注いで然るべきエネルギーである。もし、農地や山一面に太陽光パネルを敷けば、その土地にいままでは年中降り注いでいた太陽エネルギーがなくなるわけだから、土地は痩せる。自覚は薄いだろうが、日本の土地は世界有数の「肥えた土地」である。それを代償にすることはしちゃいけない。博愛的な環境保護論からではなく、肥えた土地は国家の連続性に直結するからである。

確認してほしいが、今回の事故の被曝で死に至った国民はいまだゼロである。原子力事故による放射能もれは確かに大変なことだし、放射線は怖いだろう。
しかし、安全対策が完璧だったとは言わないが、予想を遥かに上回る津波と、首相がマニュアルをことごとく無視ししても、広範囲だが原子炉溶解による低線量の漏れで済んでいるのも事実だ。

メディアは国民の恐怖心に寄り添うように今回の事故を過大な被害として報じていないと、本当に思うか?
仮に、低線量の放射線で、数十年後の発ガン率が上がるとしても、それは電磁波や食品に含まれる発ガン物質が与える影響とどう違うというのだ。数十年後の発ガン率を上げる物質など、放射線以外にも山ほどあるだろうし、人体への影響が解明されていない物質も山ほどある。
個人の健康や、長生きがそこまで大切か?そりゃあ大切には違いないけど、国家の統治と繁栄を大きく左右する、エネルギー行政をひとつの事故で劇的に変えてしまうほど大切なのか?もし、個人の健康や長生きを至上価値としても、国家の統治と繁栄は無視してもよい項目なのか?
できることなら、俺が無人島に家を建てて、そのまん前に原子力発電所を立てってもらいたいくらいだ。

現在の日本は、議員の代表が行政府を担う政党制の民主主義である。民主党が政権を担ってから、それはさらに進行し、国民が軽い気持ちで主張したことが、政権維持のために本当にある程度実行されてしまう世の中である。
本来、民衆というものは政府にたいして、権利を主張するものであるが、この状況では、国民一人一人が統治者として、国家の連続性を考えなくては、日本は外国になってしまう。



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Thread: 原発事故

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Tag: 原子力発電  原発  原発事故  福島原子力発電所  原発アレルギー  エネルギー  エネルギー安全保障  石油  放射線  放射能 
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