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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2012年01月  
  

国家意識の欠如 

 俺の子供のころってちょうど90年代後半だったのだけれど、少なくともそのあたりの日本には、根本的にどこかあまりに無理やりな理論が横行していたのだと思う。だって、子供ながらに「これはない」と思うような理屈で溢れ返っていたのだから。
 大きくなって、それなりに文字を解し、勉強し、思考するにあたって、その根本問題は「徹底した個人の権利の追及と絶対視」というものにあると思うようになった。


 人間は社会的生物であるという意味で「一人では生きていけない」から、集団を作って、その集団単位で生き残るということをどうしたってしなければならない。個体では、他の生物にすぐさま蹂躙されてお仕舞いなほど、身体的には脆弱な生物だからだ。集団を形成し、言語を操るようになって初めて人間は他の生物を圧倒できるようになったのである。
 これが人間の生物としての根本であり、この中では、個人ではなく集団として連続性をもって生き抜いていくということが、至上命題だったはずだ。

 現代でいうならば、国家がその集団の最たるものである。
 たとえば、我々日本人が、他の生物あるいは、他所から来た外国人に蹂躙されないのは、日本という強大な集団に帰属しているからだ。
 もし、日本に帰属しておらず、裸一貫で世界に佇むこととなれば、不遜にも現在日本人が与えられて当たり前だと思っているあらゆる権利は存在しないのである。というか、すぐ死ぬと思う。


 つまり、個人の権利だとか、生命だとかうものが先にあって、そのために国家が存在しているというのが、まず幻想なのだ。
 個人としてある人間に、生まれ持った尊厳や権利なんて立派なものはないし、人の生命にそこまでの価値なんてないのである。
 「人間は思考をするから他の生物より生命が重い」だなんて論理も全くおかしい。生命は思考をしようがしまいが同質であるはずだし、人間の生命は牛やアリと同価値である。人間の生命が重いように見えるのは、人間が強いからであって、偉いからじゃあない。
 もし、本当に人間個人個人に無条件にそこまでの価値を認めるとなると、それこそ唯一絶対神という存在が必要になってくるが、幸か不幸か絶対神なんてものは実は存在しない。

 そうなると、個人の生命や権利より、「国家全体が連続性をもって強さを保持する」ということがまず至上命題となるのは当然のことだ。

 しかし、集団というものが個人なくしては成り立たないのも、また真理である。
 当たり前すぎるが、集団とは、個人の集まりであるからだ。

 すると、集団の中で権利や物質を割り振り、束ね、統合していかねばならない。これが政治だ。
 また、国家において、その構成員に権利を与えることは、国家が連綿と続いていくためにも必要なことなのである。何故なら、構成員に全く権利を与えなければ、国家自体が離散してしまうからだ。もっと言えば、国家というものは、その構成員の定義にも、イデオロギーに基づいた厳格な立場というものを保有していなければならない。


 つまり、「個人の権利のために国家がある」のではなく、「国家があるからこそ、その構成員たる個人に権利というものが備わる」のである。
 



 さて、国家、と一言で言っても世界には様々なイデオロギーと体系を持った国家が存在する。それぞれが、歴史と文化を背負った集団であり、主体性を持っている。
 それなのに、現代日本の大人達は「人類はひとつ」だとか、「愛と平和」だとか、「飢餓で苦しむ世界の子供達に募金を」とか、狂人の寝言のようなことを言うのである。こっ恥ずかしくてたまらない。
 挙句の果てに、自分達に国家的な遺産を残してくれた、先祖達の苦心の歩みには文句をつけるのである。

 人間は、個人単位であればどのような文化背景をもっていても解り合う可能性はある。動物とだって解り合うことができるのだから。
 しかし、集団と集団、国家と国家は決して解り合うことはできないのだ。不可能なのである。
 何故なら、国家と国家が本当に解り合ってしまうと、どちらかの国家がその国家であるというイデオロギーであったり、体系であったりに、致命的な変容をきたすことになるからだ。
 つまり、吸収である。「分かり合おう、分かり合おう」といって吸収、あるいは消滅していった国家は山ほどあっても、分かり合った複数の国家など歴史上無いのだ。


 別に、国家が国家を吸収することを否定するわけではないが、自分の国が吸収されるのは我慢できない。




 日本の失われた国家意識の上では、個人と人類という突拍子も無い意識が氾濫して、どんどん国家の国家たるゆえんが薄まってきていると思う。
 ただでさえ国家とは、放っておけば世代を超えるうち気づかぬ間に消滅していたりするものなのに、みんな本当にそれでよいと思っているのだろうか。



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政治思想と経済思想の四分類 

 俺は、子供のころ、「左翼ってなあに?」と母親に聞いた覚えがある。母は「共産主義者のことだ」と言った。
 また、「右翼ってなあに」と聞くと、母は「天皇の崇拝者」と言った。そして最後に、「そういうことは外いって言うんじゃないよ」と言われた。(中学生くらいだったか。今考えると赤ん坊の作り方を尋ねる幼児のような質問である)
 別に母を責めるわけではないが、乱暴にすぎる回答であろう。
 また、大学で、こう言う友人もいた。
「左が社会主義で、右が資本主義だろう」
 と。
 かく言う俺だって、もともとあまり理解していなかったし、今だってこの難しく、デリケートな話題を完全には理解していないだろう。
 しかし、母や友人の言うようなことが極めて危険な誤解であり、世の多くがそういった適当な誤解をしているということが分かるくらいにはなった――と思う。


 まず、子供のころに母の説明を聞いて思ったのは、『対照になってないじゃん』ということである。右と左というくらいだから、当然対になる言葉なのだろうと思ったからだ。共産主義とは、「国がすべての経済を管理して、国民への配分も管理する国のこと」という説明を教師から受けていたから、友人のように、「それなら、右は資本主義じゃねえの? 」と疑問に思った覚えがある。


 こういった混乱は、全て右左の対立軸の中に、国家体制の主義と経済体制の主義をごちゃ混ぜにして考えている点にある。


 まず、右左という言葉が何故使われ始めたかというと、イギリスの議会において、立憲君主制を支持する党が右に座り、フランス革命を支持する党が左に座った経緯からである。これは、根本的な国家体制の主義の対立の話だ。
 この観点から見ると、現在、日本やイギリスは右の国家体制、アメリカやフランスは左の国家体制と区分けできる。


 さて、その中から、右思想、左思想というものを細分化して考えると、次のようなことが言える。
 右=国家集団全体の歴史的秩序を重んじる思想
 左=国家を構成している個々人の権利を重んじる思想

 つまり、右は国家集団の秩序を重んじるために、歴史的な支配体制を維持し、集団としての国家的断続性を保とうとするから立憲君主制を、左は個々人の権利を重んじるために、議会による民主主義で政府を選ぶ共和制を、それぞれ主張するのである。
 どちらが良いという最終結論を出せた人間は未だいない。結論がでていれば、世界中がその体制に倣うはずだからだ。
 立憲君主制は、基本的に世襲によって君主が立つので、世代によっては暴君や暗君が立つことがある。
 共和制は、世代をこえると、国家的イデオロギーが離散して、国家が消滅、あるいは致命的な変容が起こる。
 数世代をこえると、双方、立憲君主制には左的な問題が、共和制には右的な問題が生じるのだ。
 そこで、立憲君主には政党政治や議員製内閣制度などの左のディバイス、共和主義には言語統制や厳しい法の支配、強い軍事力などの右のディバイスが考案されてきた。
 それが、良いか悪いかは未だ分からないけれど、政治思想の右左というのはこういった、人々が痛い目合いながら国家政治のバランスをとるために使ってきた概念なのである。


 さあ、そこで、国家経済体制の話を見てみよう。もちろん、経済も政治の一部ではあるのだが、これが政治思想とは捻じれた体制を敷く国家も多いことから、混ぜて考えるのは良くないと、俺は主張したいのである。
 先に、俺が教師から受けた共産主義の説明を紹介したが、これもあまりに危険な誤解を与える説明といえよう。
「国がすべての経済を管理して、国民への配分も管理する国のこと」
 とは、計画経済の説明である。
 共産主義の場合、それが、「資本家と労働者という不平等を無くす」という政治的イデオロギーによってなされているのだ。お気づきになったことと思うが、そうなると共産主義は、政治思想的には左が偏屈に極まったものであるが、経済の体制は右を極めているのである。計画経済とは、国家が経済を完全に統制する体制であるからだ。

 次に、政治体制も、経済体制も、両方左であるというのはどういうことかと言えば、代表的なのがアメリカ合衆国である。アメリカは国家体制は多くがご存知のとおり、大統領制であり、共和制である。さらに、経済で言えば、自由放任主義を取っているから、経済的にも左と言える。
 よく、共和党のティーパーティを保守(コンサバ)というが、それはアメリカが自らを振り返った時の視点だ。左の人々にとっての保守は、左なのである。

 では、右の政治体制において、右の経済体制を採択するというのはどういうことかというと、これを国家社会主義と呼ぶ。つまり、立憲君主制において、計画経済を採用するということである。日本にもそういう思想があり、北一輝の日本改造計画大綱などが有名で、226事件の思想的背景となっている。

 最後に、右の政治体制で、左の経済体制を採択するというのはどういうことかというと、立憲君主制の上に自由放任主義経済を採用することである。代表的なのは、サッチャー時代のイギリスや小泉時代の日本が特に顕著であった。



 整理してみると、
 政治、経済→①「左、右」②「左、左」③「右、右」④「右、左」
 と、四区分にできるだろう。 
 ため息が出ることには、上記の全ての体制が、成功しているとは言えない点である。
 それは、この四つの例において上げた例がどこか極端な体制になってしまったからである。

 『混ぜるな危険』という記事でも申し上げたが、重要なのは対立軸の意識である。政治、経済の対立軸を別のものとして考え、双方、苦しみながらなんとかバランスをとっていく。それしか、人間が国家集団としてやってく策はないのである。そして、そのバランスは、国家の歴史的価値観と、さまざまな細分化された問題によって、おそるおそる取っていくべきものなのだ。



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