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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2012年07月  
  

日本国と保守的態度の考察2 

「国家共同体は幻想である」
 という主張は、ある意味で的を得ている。なるほど、あらゆる共同体は幻想だ。

 一時、新左翼の思想的な拠り所として猛威を振るった「共同体幻想論」、当時の若者がこれに熱狂した理由も、現世代の若者がこれに見向きもしない理由もなんとなく分かる。
 国家共同体の意識があらかじめ強固な場合「幻想だ」と言われれば大いなる気づきのように思われるが、のっけから共同体意識が希薄な場合はピンとくるはずがない。当時、『共同体幻想論』が受け入れられたということは、共同体意識が現在よりも高かったという証明にもなる。(それはその時代の彼らの功績ではなく、その前の世代の財産なのであるが)
 対して、これだけ個人の権利、個人の意思、個人の思考、個人の考え、個人の自由、個人個人個人、とあらゆる思想に個人の主義が跋扈し、氾濫し、絶対正義のように上の世代が語っていれば、「国家共同体が幻想である! 」などと言われても、「はあ、そうですか」と答える他ないのもうなずける。

 しかし、世の雰囲気、世代の思想潮流から超然的な立場をとってみれば、次のことが言えるだろう。
「国家共同体を幻想だとのたまうのであれば『個人の自我』だとか『個人の思考』或いは『個人の自由意志』などといった概念も実は幻想である」
 ――と。

 そもそも、「人が一人では生きていけない」という多くの理由の一つに、「人は一人では自我を認識できない」というものがある。
 つまり、「私」だとか、「貴方」だとかの人称を使用出来なければ、人は「自分が自分である」という概念を理解出来ないのだ。
 言葉や人称を使うということは他者との『関係』がそこにはあるということであり、よって「人は関係の中でしか自我を認識できない、自分が自分であると理解できない」ということに、どうしてもなるのである。
 ここで一段掘り下げなければならないのは、関係といっても様々なレベル、範囲、というものがある、ということだ。
 親子、親類、学友、同僚、先輩、後輩、上司、部下、恋人、などの目に見える一対一の関係も複雑多枝にわたるが、大変なことにこの自分が関係をもった相手一人一人もまた、それぞれの関係をもつのである。
 そうなると、『関係』はあたかも網の目ように張り巡らされ、世を走り回っているわけだ(勿論、目に見えてこれと指し示すことはできないから、これもまた幻想ではある)。物語などを説明する際に使う相関図が、現実にはもっと複雑に伸びているということである。
 その膨大な相関図の中で、よく見ると密度や種類によって朧気ながら腑分けが可能である事に気づく。
 その腑分けも様々なレベルがあり、これを我々は集団と呼ぶ。
 ただ、『集団』も、個人の自我と同じように幻想であるから、人称による言葉によらねば認識できない。
 それが「私たち」と「あなたたち」という概念である。
 たとえば、いち家族が『家族』を認識できるのは、自分たち以外の家族が存在して、「うち」と「おたく」という言葉を使うからだ。さらに、「うち」は固定的に「うち」であるのに対し、「おたく」は場合によって違う「おたく」となる。
 A山さんというお家があったとしよう。彼らA山家にとっての「うち」は常にA山家のことであるが、「おたく」の方はある場合はB川家であったり、別の場合はC本家であり、ひょっとするとD中家である場合だってあるかもしれない。するとA山さんには「うち」と「おたく」という概念以外に「うち」と「よそ」というという概念もあることがわかるだろう。
 誰が言ったか知らないが、「うちはうち、よそはよそ」という言葉は、それをよく言い表していると言えよう。
 集団の単位が違っても、事が集団であれば基本的にこの点で同じである。学校、職場、地域共同体としての町や村。地区、県、そして、国家もすべて同じだ。
 もちろん、その関係性の網の目の、密度、種類によって性質は当然異なっているが、「私たち」と「あなたたち」という概念によって腑分けされ、認識されるという点においては同一である。
 我が校、よその学校。
 我が社、他社。
 我が町、よその町。
 我が県、よその県。
 そして、我が国、他国。
 ――上から下まで全て幻想と言えば幻想ではある。
 ちなみに、『人類』というのが集団足り得ないのは当然だ。なぜなら、「私たち人類」といっても、「あなたたち人類」と言ってくれる相手が存在しないからである(空想SFならばあり得るが)。
 つまり、人類は人類としての「私たち」という概念を持ち得ないが故に、共同できない。『人類』という枠組みは幻想ですらなく、ただのフィクションなのである。
(ただし、『関係』することはできる。というか現代においては関係せざるをえない。この『国際関係』については後に触れていこうと思う)

 さて、ここで『個人』に戻ってみよう。
 自我――「自分が自分であるという認識」は、言語がなければ存在しない以上、共同体に依存している。
 自分が自分の物だと思っている「個人の思考」も、言語であるが故に共同体に依存している。

 そうなると、「言語を用いた思考」の段階の自分は、本当に自分そのものであると言ってよいのか?
 自分、とは、受容体である意識の段階での自分が自分なのである。しかし、それは認識されない。
 意識が受容した『気』を思考した時点で、ある基準をもって「分け」られているわけで、その基準は個人から生じたものではないが故に、個人で帰結していない。
 換言すれば、「我思っている我」は、それ自体が言語であるが故に、「我で帰結したもの」ではあり得ないのだ。

 ただ、ここで克服しなければならないのは『懐疑主義』だ。
 個人の自我や思考も幻想。集団、共同体も幻想。となれば、「言葉に表れる確かなものなど何もありはしない」ということになり、「善も悪もない」のであり、「価値の体系」も存在せず、「何をどうしたってどうということもない」ということになりかねない。

 これを回避するためには、幻想を幻想と受け入れながらも、「幻想だから無価値である」とするのではなく、「幻想であり脆いからこそ、保ち守らねばならない」ことに気づくだけで良い。

 そもそも、「我思う我」が実は幻想だからといって、それを『意識』は、「思考と共同体などは不要なもの」とは感じていないはずである。何故なら意識が思考を不要と感じているならば、人間は共同体を作らず、言語も操らず、思考もしないはずだからだ。

 これが人間として、自然なあり方なのだ。
 自我が自我として、個人の思考が思考として、あたかも独立して存在しているかのような思想は極めて不自然であり、空虚であり、妄想である。
 自我をひん剥いていけば、その中にある『自分』は意識の核でしかない。しかし、それを共同体という雪山を転がれば、雪がまとわりついて、その存在が大きく見える。ただそれだけのことなのである。


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日本国と保守的態度の考察1 

 俺が日常で政治――いや、日本という国家、或いは人間というもののあり方を論じると、往々にして場が険悪なムードになる。
 親や教師は「右翼である」とレッテルを貼ってくるし、友人らはそもそも国家を語ること自体を格好の悪いものと見なしているようで、そういう話題自体を嫌がる。(ただ、経済を語ることは格好の良いものと見なしている場合が多いから、わけがわからない)
 社会問題を語らずして、自立した社会人になれるのか――などと、クソかったるい事を言うわけじゃあない。
 ただ、本来、人間はあらゆる意味で一人では生きていけないが故に、自分が帰属する様々なレベルの共同体に関して思考することは自然な態度であり、だからこそ楽しいことのはずである。それが人の作り出す集団の最大の単位であるところの『国家』に関することであれば、さらなりだ。
 しかし、この国ではどうやら国家に拠って思考すること自体が全体主義で、近代的自我の欠如で、右翼であることになるらしい。また、経済の設計主義的態度、つまり社会主義や共産主義を語るものを左翼と言うことになっているようであり、そして、個人主義、自由主義、民主主義、人権主義、人類主義、人命主義こそが正しいあり方であるということになっているようである。

 だが、正直そんな退屈なカテゴライズは糞食らえだ。

 俺は、自分が幼少の頃から積み重ねてきた、あらゆる事象に対して瞬間に感じた素直な意識、感覚のようなものを重視したい。いや、本来重視せざるを得ないはずなのである。
 意識や感覚は、言語化以前のものであり、『思考』とは別物である。
 思考=言語化だ。
 自分の中に生じた気を、言語(思考)化する際には、なるべく元を崩さぬように「分け」て、「分かる」ようにしなければならない。

 たとえば、『恋』が分かりやすい。
 貴方が異性へ恋をしたとして、それがいつから始まったのかと判断するのはなかなかに難しいだろう。心の中に恋、あるいはそれに準じる何かが生じたとしても、自分が「恋をした」と思考しなければ人はそれを認識できないからである。
 つまり、人間は『恋』という言葉を発明する前、恋をするを知らなかったのだ。
 それはさておき、「恋がいつから始まったのか」を認定するのは難しいとは言えど、必ずしも不可能ではない。自分の中にその気が生じた瞬間を、思考によって後から振り返り、「ああ、自分はあの時恋をしたのだ」と言語化することによって認識、判断できる可能性があるからである。
 しかし、言語化とは、先に言った通り、物事を分けることであり、気を概念にデジタル化することだから、気そのものではありえない。その証拠に、貴方が『恋』と言って貴方の中で生じている気と、別の誰かが『恋』と言って生じているそれは、実は別物なのかもしれないのだ。つまり、恋という言葉で概念を分類して『分かる』ということは、それらの気の一群をひとまとめにしてしまっているということと表裏一体なのである。
 であるからして、人は、その人の意識の中で生じた恋、あるいは恋のような『気』の一群を、「これはこれこれこういう恋である」と思考する。一番わかりやすいのは、(誰でも小さなころやると思うが)「恋愛」において「恋」と「愛」を分けて定義しようとする例であろうか。これはつまり、「恋的な気の一群」を恋愛Xと恋愛Yに分けて、認識しようとする作業である。

 そういうわけで、俺は、「物事を真剣に考える」「真摯に思考する」ということは、自分の中で無言語状態で生じた気、感覚、感情を、なるべく損なわないように木目細かく言語化して分けていくということだと考える。換言すると、「気、感覚」と、「言語、思考」との連絡を絶えず行うということである。『理解』という言葉が、道理の理と、解剖の解で構成されている意味はここにあるのではなかろうか。

 もし、各々がその連絡を怠ったとすれば、言語は言語のみで独立して飛び、文化圏を無秩序に跳ね回る。これが危険なのだ。

 さて、「自分が自分である」という認識、つまり『自我』すらも言語によってでしか得られない以上、自我の前に「固体生命の意識体」が存在するということは明白である。(言語を持たない動物は、自我を持たないと言われている)
 「言語が何故存在するか」、「思考が何故存在するか」、「自我が何故存在するか」、ということを考える時には、それらは決して、「個人のうちから湧き出てくるものではないし、神が人間それぞれに与えたもうたものでもない」ということを理解しておかねばならないだろう。
 ここに、AさんとBさんとCさんがいたとする。
 当たり前だが、Aさんという人の『意識』と、BさんやCさんという人の『意識』は、決して一致しない。
 Aさんの意識、感覚は、どこまでいってもAさん以外には「感じ」ることはできないし、Bさんのそれも、Cさんのそれも、また然りである。
 ここからわかることは、「Aさんにとって、Aさんの意識体が感じたものの範囲が、あらゆるものの限界である」ということである。
 そして、その意識体が受容した全ての感覚を、言語によって体系付けたものが『思考』なのだ。
 しかし、「言語によって体系付ける」という行動は、『個人』の内から沸々と湧き上がるものではありえないし、ましてや唯一絶対神が個々の人間に与えた行動原理でもない。「言語による体系付け」という行動は、当たり前のものではない。当たり前にこなしているから当たり前のように思えるが、当たり前ではないのである。

 たとえば、Aさんが、生まれた時から、他者との関わりを断絶された状態にあったとしよう。半径五十メートルほどの部屋に、生命の維持だけを施す機械を投入し、あとは彼の自由である――とでもするか。
 Aさんという生命は「在る」のだから、そこにAさんの「意識」もあるに違いない。だが、『思考』がそこに生じるとは考えられない。何故なら言語が生じないからである。また、その意識が感じた膨大な感覚全てを、どう体系付けるのか、という『基準』が、完全なるAさん個人では判断しようがないのだ。
 このAさんの状態は、本能が剥き出された状態と言える。つまり、「気が生ずる、思考する、行動する」という段階を経ず、「気が生ずる、行動する」という主体と客体の区別も無い状態である。「自分が行動している」ということ自体も、認識されないのだ。この、Aさんにとって、自分の行動すらも、Aさんの意識体が受容する感覚の一つでしかないからである。

 ここで、BさんとCさんの登場である。
 あの半径五十メートルの部屋に、彼ら三人が存在していたとするのだ。

 さて、そこでBさんは、生命維持機械から出てきたパンを食べた。すると、なにやら、パンを食べる時だけ、Xという表情をするようだ――ということを、AさんとCさんは感じる。
 Aさんがパンを食べる時も、Cさんが食べる時も、同じことが起こった。つまり、パンを食べると、Xという表情をして、残りの二人がそれを見ているということ、である。
 その段で、再び、Bさんがパンを食べた時、そのXを指し示し、「ガー」とAさんが発音したとする。すると、Cさんも「ガー」と言う。Cさんがパンを食べた時、再びAさんが「ガー」と言って、Bさんも「ガー」と言う。
 三人の間でXという表情が、「ガー」であるというコミュニケーションをとったということである。
 これ以降、彼らの間で、「X=ガー」だという『共通認識』が設定された。

 これが「文化」である。
 文化は「文が化ける」と書いて文化であるから、つまり、「言語的共通の変化」を言うのだと語源を類推するのが妥当なのだ。

 さらに、Bさんがパンを食べる時、「キ、ガー」と、Aさんが言って、Cさんも「キ、ガー」と言う。Cさんの時は「ま、ガー」と残り二人が、Aさんの時は「にゅ、ガー」と残り二人が言う。
 この段になって『自我』が生じるのだ。

 キリがないのでこの辺でAさんBさんCさんには退場願うが、つまり、言語=思考、言語=コミュニケーションによる共通認識=文化体系、ということである。
 これが、人間が「社会的動物」であり、「言語的動物」である所以だ。

(※上のA、B、C物語は、俺の思考実験であり、言語に焦点を当てるためにモデリングしたものであるから、現実世界に存在する世界ではない。現実からさまざまなファクターが除外された世界であるので、その除外された部分も少しづつ解きほぐしていかなければならない)

 そうなると、人間の「思考体系」は、共同体に依存しているということでもある。
 つまり、『意識』は、完全なる個の生命体で完結されているが、その意識が感じた無数の感覚の体系付けの基準は言語でしかなしえない以上、共同体に依存しているということである。
 また、共同体は、「言語的共通認識の変化」を常に繰り返すが故に、進展もすれば、後退もする。
 先ほど言った、「言語が飛び、意識に基づかない思考」が危険なのは、それが言語的共通認識の変化に、甚大な齟齬を生む大きな要因となりえるからである。
 もちろん、齟齬の無い文化などはあり得ないが、どうにかして思考を意識に基づいたものへと近づけようとする態度がなければ、文化の齟齬は大きくなり、衰退するのである。

 そのような態度によって、俺や俺が帰属する共同体――家族、地方、国家、というものを捉えていこうとすると、どうしても本来の意味としての『保守』的な態度へ立脚せざるを得ないのである。



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魚、民主制度 

 四方を海で囲まれた島国だからかどうかは分からないが、その国の民は老若男女、魚が大好きでたまらなかった。

 朝食から晩飯まで、魚、魚、魚、である。
 ただ、残念ながらこの国の漁は、すでに壊滅状態であった。
 そのあらましは以下の通りである。




 遥か昔のことだ。

「一部の漁師が漁の方法を独占的に決めるなんてズルい」

 という民衆の声から、この国は『魚、直接民主制度』というものを採用した。

 これは、漁の方法についてを、全ての国民の多数決によって直接決めるということである。つまり、漁の方法について、国民一人一人が具体的判断を直接投票し、集計の結果多い意見を採用すれば、皆文句はなかろうということだ。

 一見、国民は良い制度だと感じ入ったが、そう簡単に事は運ばなかった。
 結果から言うと、それは大失敗だったのだ。

 冷静になって振り返ってみれば、当然ではある。
 何故なら、国民一人一人にはすべからくその生活と仕事があり、故に忙しい。いくら魚好きとは言えど、全ての国民が具体的な漁の方法までを熟知するなど、現実的に不可能だったのだ。

 例えば、パンの作り方を具体的に国民の多数決によって決めて上手く行くか? 行かないのである。
 パンの作り方は、毎日パンを作っているパン屋が最も熟知しているはずだ。そして、素人から見れば何故そんなことをするのか理解できないというようなことまで、実はそれがパン作りにおける重要なファクターであったというようなことなど、往々にしてあることなのである。

 漁についても同じであった。
 漁についてよく知らない国民が、具体的な漁の方法について直接国民投票を行えば、「一見良さそうに見える方法」に票が行くのは当然至極だ。

 美人コンテストにて投票者が、「自分が美人だと思う人」ではなく、「みんなが美人だと思いそうな人」に投票してしまうのと同じである。

 漁について、具体的な問題として最も問題になったのは、乱獲であった。魚の獲り過ぎによって、領海における長期的な漁計画が成り立たなくなっていてしまったのである。
 普通の漁師ならば、「獲る魚の数をセーブしよう」と判断するはずであるが、国民の直接の多数決ではそはいかない。
 一人一人の国民は、魚を沢山食べたいので、どうしてもセーブしようとは心理的に思えないからだ。誰かが乱獲の危険性を訴えても、そんなことに耳を傾ける程殊勝な国民というのは少なかった。

 また、次第に乱獲以外にも問題が出てくる。

 漁の手法そのものも、所詮は素人の意見の寄せ集めで、次々と綻びが出始めたのである。例えば漁における安全性の確保などを詳細にわたって常日頃から考える一般国民など、ほぼ皆無だ。

 このように、この『魚、直接民主制度』が上手くいっていないのは明らかであった。
 ここで生まれたのが、哲学である。

 そう、哲学とは、『魚、直接民主制度』がどうにもこうにも上手く機能しないからこそ、生まれたのだ!

「私は、漁を知らないことを、知っている」

 という、とある哲学者の台詞は、あまりにも有名である。

 しかし、天才的な哲学者らをもってしても、『魚、直接民主制度』のジレンマを克服する事はあたわなかった。

 そこで、この国は『魚、直接民主制度』を改め、『魚、間接民主制度』を導入することにしたのである。

 『魚、間接民主制度』とは、国民が直接漁の方法を決めるのではなく、「漁の方法を決めて実行する『漁師』を選挙で選出しよう」という制度であった。
 具体的な方法論は、毎日漁を行う漁師に任せるが、その漁師を選ぶのは国民の多数決だーーということで『間接』なのである。

 『魚、間接民主制度』が『魚、直接民主制度』よりもマシなのは、漁における具体的な知識に希薄な国民でも、「人を選出する目」を発揮できれば、漁が安定するということにある。

 候補者の実績、代々漁に携わってきた家系かどうか、出来そうな奴かという直感、などを頼りに国民が何とか的外れな漁をしない漁師を選ぶことが出来れば、国家全体の漁は概ね間違った方向へ行かないだろうーーという考えだ。

 しかし、漁師を選挙で選ぶだけでは限界があるというのも確かだった。限界とは大きく分けて二つある。

 一つは、漁に携わる者全てを選挙で選んでいたら時間がいくらあっても足りないということ。
 もう一つは、漁師の選出において、国民(多数派)は間違うこともあるということだ。

 よって、別の選出方法も併用される必要があった。
 何と言ったって、漁は大切である。
 漁が上手く行かなければ、魚が食べられなくなってしまうのだから!
 十分な人員の確保と、慎重で堅実な魚体制が必要とされていた。

 そこで考え出されたのが、『国家魚試験一種』である。

 この、国家魚試験一種はとても難しい試験だ。そして、これに合格した者は、漁に携わることができるのである。また、平等に、年齢と学歴さえ条件を満たせば、国民の誰でも試験を受けることが出来た。

 国家魚試験一種に合格したエリートは、魚官僚と呼ばれた。

 概ね、魚官僚がデータとオプションを示し、選挙で選ばれた漁師が慎重な態度で決定し漁を実行する、という体制で、この国の漁はそこそこ安定するようになった。


 しかし、ここからが問題だったのである。


 人間は生まれて、死ぬ。
 故に世代を越えるのである。
 そして、文字は後生に伝えることができても、意識を伝えることはできない。
 先人が、血の滲むような思いで築いた魚体制を、後の世代は次第に「あって当たり前のもの」として捉えるようになっていった。
 そう、遥か昔の苦労を、彼らは経験していないからである。

 その増長は、『基本的魚権』というものが叫ばれるようになったことからも伺える。
 基本的魚権というのは、「全ての人間は生まれながらにして、最低限度の魚が与えられるべきである」という驚きの概念である。
 まるで、魚を食べる権利が、空から降ってくるがごとくだ。

 しかし、魚というものは、漁師が漁をしなければ食べることはできないのである。

 増長した人々ーーいや、大衆及びテレビマスコミなどの大衆メディアが、次にこう言い出すのは自明の理であった。

「一部の漁師と、魚官僚によって漁の方針が決められるのは、民主的ではない。漁師は、魚世論に従って漁を行うべきである」

 次第にその風潮は強まり、漁師達は、魚世論に従わずにはいられなくなる。
 何故なら、魚世論に刃向かえば、選挙に落ちるからである。

 また、こういうことも言われるようになった。

「脱・魚官僚」

 と。

 そう。大衆メディア及び世論は、そもそも何故、魚官僚が必要になったかを完全に無視し始めるのだ。

 かくして、この国の漁は、漁の素人達の寄せ集めの意見である大衆魚世論によって、決せらるる状況になってしまった。
 そして、魚世論というのは一貫性が無く、その一時の雰囲気とマスメディアによって大いにブレる。
 一年前は遠洋漁業を押し進めろ、と言っていながら、今日には沿海漁業だと、真逆のことをコロコロコロコロと顔を変えて、しかも悪びれる風もない。

 漁のプロたる漁師達は、口では言わぬがこう思っていたに違いない。

「素人に何がわかる」

 と。


 ふと、歴史を振り返ってみると、これは『魚・直接民主制』の問題とピタリ合致する。
 これが、今日、この国での漁業が壊滅的状況にある事のあらましだ。

 これから、この国の漁が持ち直すかどうかは、『魚、民主制度』における歴史を真摯に振り返ることができるかどうかにかかっているのかもしれない。



(了)



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日本国と保守的態度の考察 六 

 まず、これは決して安っぽい偽悪で言っているわけではないことを申し上げておく。 

 さて、現代日本において少し学問の出来る奴に対し、「自然権としての『人権』など存在しない」と言うと、大変ヒンシュクを買う。
 しかし、俺からすると、神を信じているわけでもないのに、あたかも「人権認めざるは人に非ず」のように言う連中は常軌を逸しているように見える。

 誤解を避けるために、ここで否定する『人権』とは、ロックやルソーが唱えた「自然権としての人権」という、現代の日本において日本国憲法や、教師や、マスコミが好んで使っている意味においての『人権』であることを申し上げておきたい。
 俺を含めた、ペーペーの日本国民が、『人権』と聞くと、「人間どおし大切に思いましょう」くらいの意味で捉えていると推測するが、これなら別に問題はない。そして、俺はこっちの感覚の方が遙かにまともで正常で自然だと思う。

 ただ、日本国憲法の『基本的人権』や、その元になっている『自然権』は明確に否定すべきだ。
 何故なら、自然権としての人権とは、「自然状態で、神が一人一人に与えた権利」なのである。
 これは無いだろう。存在しない。あり得ない。
 善い悪い、ではなく、無いのだ。
 何故なら、神(ゴッド)がいないからである。
 天が回っているのではなく、地球が回っているのだーーというのと同じように、「神が一人一人に与えた自然権としての人権などは無い」と、俺は断言できる。
 処女が救世主を生んだなどという、他文化の伝説を信じろと言われても、到底信じることができないのと同じくらい、「神が一人一人に与えた自然権としての人権」を信じることはできない。

 神はいないし、地球は回っているのだし、処女は子供を生まないし、自然権としての人権は無いのである。

 もしね、俺がキリスト教文化圏の国に生まれたんだとしたら、ゴッドを信じてもいい。何故なら、その生まれ落ちた共同体における共有世界観だからだ。神を信じることができなかったとしても「神などいない」なんて言葉に出さないくらいの儀礼が必要とされるだろう。

 しかし、日本国民が全体としてキリスト教の全知全能の神をぼんやりと信じなきゃならん義理など一ミリリットルも無い!

 そりゃあ、キリスト教文化圏の人の前で、「ゴッドなんぞおりゃあせん」と言ったら、それはマナー違反である。ただ、それは異文化への理解という節度と態度の問題だ。
 我々日本国民が、「自然状態にて、一人一人がゴッドに与えられた権利が崇高だから、その場でその一つ一つを足し算したのが主権です」という価値体系を受け入れてはならない。
 何故なら、それは日本国の主権の説明に、実はなっていないからだ。
 自然権は、神の設定が不可欠な観念である。多くの人は、「基本的人権は信じても、神なんて信じてねえぜ」と思うかもしれないが、それでは文脈に合わないと本当に思わないのか?
 日本では、あたかも憲法が空から降ってきた物かのように捉えられてしまっているのが現状で、無認識に「それぞれ個々人に人権が空から降ってきて、その人権が大切だから国家があるのだ」と思っているのだろうけれど、神を信じていないのならば、人に権利を与えたのは一体全体何だと説明するのだ。
 これではつまり、『神』(ゴッド)という言葉を使っていないだけで、神(ゴッド)への信仰をしているのと変わらない。
 神や神秘や世界観は、その文化圏、共同体の歴史の上で構築されていった観念を引き連れていなければ、『主権がある』とは実は言えないのである。(主権に関しては、後に語る)
 「基本的人権のようなもの」を認めるとしても、それを与えたものを設定しなければ文脈に合わない。そして、その設定は共同体、文化圏の歴史的な神秘的価値、権威的価値、が反映されていなければ国家を名のる文脈に合わない。また、文化圏の歴史を引き連れた設定の元で個々人の価値、権利を考えるしかないということは、『基本的人権』など存在せず、『基本的国民の権利』しか存在し得ないことが明白である、ということでもある。

 つまり、ルソー的な自然権、自然法、理性、一般意志(世論)、人民主権、という一連の価値体系には、(宗教を排すると言いつつも)神が存在するのは大前提だという感覚の下に展開されたのであり、日本が全知全能の神とやらを共有しない文化圏である以上、受け入れる余地はないということだ。
 また、日本国憲法にそういった種類のことがのっていたらば、それは憲法が国家に違反しているのであり、国家に違反している憲法なんてちゃんちゃらおかしいというだけのことである。

 以上の宗教上の事由がまず一点。

 だいたい、実際、自然権など認めると、人間と他生物が一匹づついたとして、あたかも人間一匹の方が絶対的に崇高で偉いみたいな論理になってしまうではないか。

 別に人間は、他生物に比べて偉くない。崇高でもない。動物愛護の精神を発揮しているわけではなく、実際に、現実に、間違いなく、人間一匹と犬一匹で絶対価値の違いはない。(くどいようだが、神がいないからだ)
 人間は、(今のところ)他生物より強いだけである。
 それも、人間が裸一貫独りぼっちならば、猫より弱いのだ。
 人間は、言語的動物であるが故に、社会的動物であるからこそ、原人の時から他生物を圧倒してきたという厳然たる事実がある。つまり、集団民だとか、集落民だとか、村民だとか、町民だとか、国民になって、ようやく個々にも権利が生じる。「権利が生じる」というのは、他生物より強くなる、他集団より強くなる、ということである。

 さて、ここで、『自然状態』なるものが、ホッブズの言うとおり、フィクションであることを考えてみたい。

 自然状態はフィクションである。

 社会契約説というと、ホッブズ、ロック、ルソーと中学だか高校だかで習ったと記憶している。(実の所、ホッブズと他二名とではほとんど真逆のことを言っているのだが、それは後に)
 『自然状態』とは、国家を含めたあらゆる社会集団が存在せず、政府機関も、政治機関も存在せず、人間が個々人で単独にバラバラにある状態ーーのことを言う。(最初聞いたとき、全然不自然じゃねえか、と俺は思ったね)
 これがフィクションであることは、現在のあらゆる文明において普通に教育を受けていればわかるはずだ。
 何故なら、人間が、ホモサピエンスに進化した時点で既に共同体を組み、共同生活をこなしていたということは明白であるからである。
 ホモサピエンスは言語を用いる。共同体が無ければ言語は生じないから、ホモサピエンスが生じるより前に既に共同体があったのであり、「個人個人バラバラに生まれてそこから集団を組んでいった」なんてことは、物理的にあり得ない。
 我々は、アウストラロピテクスから、原人に進化していって、クロマニョン人から最後にホモサピエンスになったということを知っているだろう?

(誤解をしている人がいたらまずいから補足を。人間は猿から進化したんじゃない。『猿のようなもの』から進化したのである。現在生息する猿たち、例えば日本猿やオラウータンはホモサピエンスに進化しない。彼らは彼らで、今のところの進化の最終結果なのである。進化の結果、猿は完全に猿になったのだし、犬は完全に犬になったのだし、象は完全に象になって、人間は完全に人間になったのだ。だから、日本猿やオラウータンが「人間になりきれてない者達」という捉え方は非科学的な誤解である)

 つまり、「人間が共同体に縛られず個々人でバラバラに存在する」という状況は、「神が人間を個々人でバラバラに作り出した」というフィクションの元でしか成り立たないのである。


 何が言いたいかというと、日本国がフランス革命思想を拒否しなければならない理由として、最初に「宗教上の理由」を上げたわけだが、二点目として「文明としての理由」もあるのだと主張したいのである。
 フランス革命思想の中核を担ったルソーの思想は、まず『自然状態』がフィクションであることをもって現実を動かす思想に値しないと言えるが、その上、あらゆる文明、国家において、必然的に歴史的破壊を想起させる空想を乗っけたものだから、さあ大変である。
 その文明上の理由の説明の詰めは次回にしよう。

 というのも、これはやはり、ホッブズ、ロック、ルソーそれぞれの社会契約説を解説しなければ説明がつかないかーーと思うのだが、解説なんてつまらなくて面倒だから、なんとか解説などせずに出来たらいいなあ、という怠け心が、他の表現を模索させているからである。
 まあしかし、やっぱり解説しなきゃ無理だろうなあ。



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日本国と保守的態度の考察 五 

 もう一度言っておくが、俺は当時のフランス人達を責める気はないし、フランスという国が嫌いというわけでは決してない。
 それに、例えば、ジャコバン党が……とか、或いはロペス・ピエールが……とかナポレオンが……とか、「こいつが悪い」みたいな個体を攻撃するようなことをするわけでもない。何故なら、そういうことに興味がないからだ。
 ルソーの……とか、は言うけれど、それはルソー個人の批判をするわけではなくその思想を批判するのである。
 また、暴力革命だから否定するーーという話でもない。『暴力』を絶対悪に設定することは、とてつもない危険を孕んでいるし、暴力における善悪はその集団ごとの倫理体系に基づくべきで、後世の、それも余所の文化圏の人間がとやかく言う資格もない。革命においてもまた然りだ。

 ここで話題にしたいのは、大きな現象としてのフランス革命、あるいはそこに見える人間の習性、そして拡散していった思想、そういったものである。

 その上で、フランス革命は『大衆』というものの恐ろしさを最も分かりやすく示しているということと、また、大衆というものには空虚で浅はかだけれど表面上の言葉つらは美しい思想や意志が蔓延しやすいということを、我々が認識しておいても不要なことではないと考えるのだ。
 こういう言い方をすると、一般の人、つまり『民』というものを疎かにする態度であると思われがちであるが、それは誤解だ。
 そもそも、俺自身が日本において一般の民をやっているわけで(いや、むしろ貧乏でなんの背景もない若造なのだから)民という属性を蔑ろにすることは自分を蔑ろにすることである。
 それだけではなく、民なるものの概念は国家を思考する場合に不可欠で、極めて重要な上に、我々の日本文化圏形成において天皇とその背後にある神話や伝説が民の為の治世を善しとする価値を示しているのは明白であるから、日本の保守の立場から『民』を否定することはできない。
 だが、『民』とは何か、と思考するときに、そこには様々な種類と側面があるということも頭に入れておかねばならない。『民』とは十把一絡げにはできるものではないのだ。
 その中で、民のもつ『大衆』の側面には、どんな愚帝より愚劣で、どんな暴君よりも理不尽で冷酷かつ破壊的で、どんな暗君よりもそそのかされやすく、甘ったれた、厨二病的なものを大いに含む、ということを言っているだけなのである。
 大衆化とはすなわち、個人個人がその生活の意識を個人に集約させてしまっている状態で、物事の基準を個々人に置き、『他』を思考する際にも『個』を思考し、全体を単なる個の集まりとしか捉えられなくなる傾向を言う。
 ただ、この民の『大衆化』は、社会システムにおける数理的合理性が「急激に」進めば必然的に進行してしまうものではある。(数理的合理=ここでは、足し算引き算の系列を積み重ねた、数理系的、実証主義的な合理性を言っている)

 フランス革命の起きた原因は諸々議論が尽きないようだが、例によって明らかなることを。ブルジョワージ階級というものが生まれなければ革命は起こらなかった。これだけは間違いない。もし農民が蜂起するのであれば、革命ではなく、税負担軽減を求める『一揆』になるはず。ここで言うブルジョワージとは、都市部の資本家と中産階級ーーいわゆる『市民』だ。
 つまり、都市化という数理的合理に基づいて社会構造が変化したということである。資本をもった商人や、多くの中産階級によって都市の発展による経済の効率化が進んでいったのだ。
 経済が発展すればまた人が集まって、また都市人口が増え、資本も循環しーーという繰り返し。
 それは、ブルボン朝政府の政策によるところは勿論、商人と結びつく貴族もあったから、世代を越えた国家全体としての不可避な流れであったともいえるだろう。
 不可避な流れではあったが、この数理的な合理化には大きな落とし穴がある。
 数理的な合理は、それに人間の方が適応せねばならず、集団の社会構造が変化する。集団が変化するということは、それまで築いてきた共同体の世界観、価値観、倫理観の体系も、齟齬をきたすようになるのは当然だ。これは全ての時代、全ての国家に起こることで、その対処にはそれまでの世界観と倫理観と価値観を、変化に応じてなんとか連綿と秩序だって対応させていくという『微調整』をせねばならない。

 一言でいえば、「合理化による変化に対する集団精神の微調整」これが保守主義の肝であり、キメであり、コツであり、『保守主義』という言葉が生まれる前にも人間の集団がおそらくはやってきたであろう「当然」なのだ。(この当然を成せなくなった国家は世代を越える中で消滅、離散するのみである)

 ただ、あまりに急速に数理的合理、(ここでは都市化や技術、資本システムの発展)が進むと、その微調整をする「時間」がなかったりする。齟齬が齟齬のままに新たな齟齬が生まれ、立脚する世界観や価値観や倫理観から精神的な乖離が生じる。それらから乖離が生じるということは、集団の共同意識が薄れるということだから、意識は個人へ集約されていく。個人へ集約されていった精神は、何を拠り所にするかと言えば、また数理的な合理へ向かうのである。
 すると、「数理的な合理を極めれば良いじゃないか」という話になったのがフランス革命であるが、残念ながら人間はそういう風に出来ていないのだ。人間には、感情があり、何かを、或いは誰かを大切に思う気持ちがあり、憎む意志があり、善と悪を思い、大切な誰かが死ねば弔うという宗教的観念が生じる。そしてそれらは人によってあまりに個体差があるから、集団の歴史的体系化によって秩序だててきたのだ。(綺麗事を述べているわけではなくて、これが人間の実際であり、ここではそこに善悪の価値は含めていない)
 意識が個人としてバラバラになった『大衆』が、それに危機感を覚えるでもなく、むしろ「個人の権利の集合体」という視点と数理的な合理で集団を見ることを善しとしてしまった所に悲劇がある。
 また、印刷技術が発達していて、『大衆メディア』が都市にて形成されていたことが致命的であった。人の世に醜きものは多けれど、大衆メディアほど劣悪で、無責任で、不快と吐き気を誘うものはない。
 ここでは、本の大量出版である。
 ヨーロッパにおいても、活版印刷が浸透するまで、本とは極めて高価なものであり、貴族や聖職者など、一部の知識階級にしか読むことができなかった。(そもそも本は職人が作るものでもっと煌びやかな姿形をしていたのだ)しかし、大量印刷が可能になると、都市部の市民が安価で手に入れることができる上に、市場へ流れる本の絶対数も増える。
 一見良いことに思えるかもしれないが、それは、『売上』に権威が生じるという危険性と表裏一体なのだ。
 特に、慎重に扱わねばならぬ思想や政治において、門外漢が一冊本を買うと、その本の権威付けに一票いれたという事になることがどれだけ危険なことか。その一票が大量に集まるということに法則性はなく、右へ行ったり、左へ行ったり、上へ下へ、倒錯し、錯乱したりすることがいかに恐ろしいか。そして、各論に真理があったとしても、その腑分けがいかに厄介で、困難なことか。
 さらに、一旦火が付けば、それは止まらなくなり、『世論』という化け物を形成して、それを否定することが困難になり、また止まらなくなる。それが本当は自らの首を絞めることに他ならなくても、その自傷行為を果たしてやめることができるか……なかなかに難しいのである。
 この大衆メディアと、大衆化した『市民』が、数理的合理を果てしなく極める為に、集団の歴史的世界観、価値観、倫理観、宗教、慣習、慣例、儀礼、権威、属性、などの数理では換算しにくい精神の枠組み(人の死を弔う気持ちや、憎しみ、愛、権威、神秘性などは数値化しにくいのだ)を、自傷し続けたのが、偉大なるフランス革命の実体である。
 自然権としての『人権』だとか、『社会契約』だとか、自由と平等と民主主義の目的化だとか、わけの分からないことを散々わめき散らした後、きっと彼らはこう思ったはずである。
 はて、『フランス』とは一体なんだったのかーーと。

 俺はこんな風にフランス革命をディスりながら、とてもとても心を痛めている。何故なら、現在の、平成の、今も一応は日本と呼ばれているこの国の様と、振り返った際のフランスの様とは非常に酷似していて、まるで自分の国を批判しているようだからである。
 今、日本とは何であるかーーという非常に根本的で重大な問いに、答えられる日本人はどれほどいるか。
 いや、答えられなくてもいい。
 その意識を、精神を、日本という文化圏における歴史的な世界観や倫理観、価値観、儀礼、信仰、等々に共同している日本国籍をもった人間が幾人いるか。
 経済学が定義する『政府』の役割のように、「国民の効用の総和が最大になるように便宜を計ること」などという、極めて物質的な数理的合理に偏った意識でいるのではないかと、深く疑ってしまってしょうがない。
 精神的な枠組みの連綿性と、数理的な合理性は、どちらに偏ってしまっても存在できない。
 当たり前である。
 何故なら、『日本』の定義自体が意識の世界であり、保ち守らねば存在し得ないのだし、日本がなければ、数理的合理とは、一体何の為に発揮されればよいのか、目的を失うのである。「国民の為である」と簡単に言ってくれる人間が多くて辟易するが、では、「日本国民とは何だ? 」と問われて、どう答える? 日本国民とは「日本列島という場所に住む生物学上ホモサピエンスに分類される者」のことでは、断じてない!

 勿論、「数理的合理など疎かにして良い」という話ではなく、集団の精神的な体系を微調整していくバランス感覚を持たねばならないということをいっているのであり、それこそが『保守主義』という態度の根本であると言っているのである。
 我々日本人も、昔はバランスが取れていた。
 昔というのは、ここでは江戸時代のことである。
 フランスで革命の起きた頃、つまり十八世紀の、『百万人都市』というのは、パリ、ロンドン、そして江戸の三つしかなかった。
 江戸は大都市である。
 つまり数理的な合理をかなりの面で達成できているといえる。
 また、大衆文化もかなり発達していた。
 しかし、江戸で革命は起きていない。何故か。
 江戸は微調整の効くスピードで、数理的合理を達成していったからである。むしろ、スピードの調節のためにあえて不合理をやった向きすらある。あえて、と言うのは、新田開発や植樹など、キメの合理は抜け目なくやっているからである。
 勿論、反政府的な風潮や、一揆や乱はあったが、少なくとも十八世紀に革命、つまり内乱は起こさなかった。
 これは数理的合理と、集団の共有精神の微調整のバランスをなんとか成していった証拠である。保守主義だなんて言葉はないのに、保守主義的な態度を無認識にやっていたのだ。そりゃあ、これが当然成さねばならぬ態度であると思っていたから、言葉として概念化などされないのである。
 が、俺はそれを「我が大和民族は優れた民族だからである」などと言っているわけではない。(いや、言いたい人は言ってもいいけど)
 江戸は、パリやロンドンに比べてラッキーだったのである。
 何故なら、隣にイギリスもなければ、フランスもなかったのだから。
 隣に、世界中へ船を飛ばして、土地を獲得して、戦争ばかりしている国がいたら、そりゃあ数理的合理のスピードを緩める余裕などない。
 特に、フランスが悲惨だったのは、立て続けに戦争に負けていたことにあった。さらに、飢饉や慢性的な食料不足にみまわれたから、インフレーションも止まらない。当たり前だが、食糧不足におけるインフレーションは、均衡しない。つまり、物価上昇は青天井。何故なら、人間は食わないと死ぬからである。食わなければ死ぬのに、パンより金を欲しがる馬鹿は経済学のグラフの上にしかいない。
 つまり、パリにてフランス革命が起こったのは、何か悪い奴がいたとか、民族性だとか、そういうわけの分からない話以前に、「不運だった」のである。
 その証拠に、十九世紀に船舶技術が発達して、世界が狭くなったことによって、日本も数理的合理をスピード出してやらなきゃならなくなった時には、倒幕という愚かな革命を、似たような形で起こしてしまっているのだ。(ただ、これまたラッキーだったのは、天皇という世界観が続いていたことであって、首の皮一枚繋がった、というだけのことである。天皇がなければ薩長は単なるナポレオンで終わっていただろう)

 対して、イギリスという国の立憲君主の議院内閣制度というのは、なかなか見るべきところがある。絶対王政からの、なかなか上手い落とし所と言わざるをえない。ただ、それは、当時対外的に強くて余裕があったからできたことなのだろうな、とは思う。
 本当に凄いのは、フランス革命が起こって、いわゆる『革命の逆輸入』がイギリスで流行しだした時、流されず耐えたところにある。最初にフランス革命を批判したのが、保守主義の父と呼ばれているエドマンド・バークだ。保守を善しとする人間ならば、誰しもが聞く名であろう。
 俺のような人間が語って、バークの名を汚すことになるのは忍びないが、彼のすごいところは、当時フランス革命を好ましく思うイギリス世論の中で、1790年、バスティーユ牢獄襲撃の翌年に、革命が今後どう推移するかを既に言い当てていたことにある。
 だが、ここで注意すべきなのは、バークの敵はフランス革命そのものではなく、イギリス世論に巣くうフランス革命であったということである。フランス革命の思想がイギリスの世論に蔓延り、知識階級や坊さんまでもがその世論に迎合しているのに対して違和感を覚え、それが自分の国の枠組みを壊す危険なものであると察知したからこそ、イギリスの議会で、フランス革命を非難しだしたのである。ここで初めて、革命思想に対する形で『保ち守る主義』という当然の概念が認識されたからこそ、『保守主義の父』と呼ばれるのだ。
 バークは単にフランス革命が気にくわなかったからではなく(いや、気にくわなかっただろうけれど)、その思想が、自国の枠組みを壊すものであると察知したからこそ躍起になって非難していたのである。それは、予めの先見性を示したことによって説得力を得たのだ。本の売れ行きで権威を得たのではなく、彼の伝統的出自と身分及び経歴、知性によって権威を得たのである。(いや、売れたらしいのだけど、当時のロンドン市民には、革命よりの本の方が人気だったらしい)

 そういうわけで、次回は、我が日本国に巣くうフランス革命思想の思想体系自体へ、俺なりに、ソフトに、まろやかに、疑問を呈してみたい。



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日本国と保守的態度の考察 四 

 現代日本の教育のうち、最も危険な問題を孕んでいる項目として、フランス革命に対する捉え方というものがあるだろう。
 とりあえず、フランス革命を起こした『市民』や、或いは、ルソーやロック、啓蒙思想と聞いて、無条件にプラスイメージが沸く人というのは、完全に左翼、或いは革新の思想を持っているのだということを、最低限認識して欲しい。
 別に俺の個人的見解で偏屈なレッテル張りをしているわけではなく、本来的な意味としてそうなのである。
 何故なら、『右翼、左翼』という言い方は、そもそもイギリス議会にて、「フランス革命を支持する議員ら」が議長席の左側に、「フランス革命を支持しない議員ら」が右側に着席していたことからされはじめたのだ。つまり、革命思想を左、反革命思想を右、としたのが語原なのである。
 まあ、時がたつにつれ、それぞれに付随していった思想、哲学体系の一群を指すようにはなった。ただ、なぜそうなったかというと、「たとえ革新の立場をとろうと、フランス革命の思想だけはマズいのはもう明白だから、まともな国家の中ではもうちょこっと慎重にならないと支持されない」からである。
 加えて言うと、何故、共産主義が左と呼ばれるようになったかといえば、フランス革命の思想から生まれたからなのだ。いや、本当に。
 対して、保守主義が誕生したのは、フランス革命が起こったフランスではなく、その周辺諸国が「あれはやばい」と危機感を抱いたからなのである。つまり、各国にフランス革命の線香花火的騒ぎを羨む者達が出てくるものだから、「まあ待て、慌てるんじゃねえ。冷静になって見てみろよ。あれはこれから大変なことになるって。自由や平等や民主主義っていうのも、国家の歴史と枠組みに基づいてもう少し深く考えて慎重に実現していこうじゃあないか」と、宥める必要があったからなのだ。(こう言うと、「旧体制の権力者達が、市民から搾取する権力を失いたくなかったからだろう」とか言い出す連中が多いから本当に面倒くさいのだけれど、議論の対象の段階が違うことが本当に分からないのだろうか)
 別な言い方をすれば、フランス革命の思想が生まれる前は、本来の意味での保守的な態度が普通かつ通常のことだったから、『保守主義』が認識されることはなかった。なぜなら「通常の状態」に名前がつくなどということはないからだ。相対的な比較対照と言葉がなければ、人はそれを認識し得ないのである。
 そして、フランス革命の思想とは、いわば「通常では無いもの」であり、だからこそ「通常」が認識されるようになったというだけのことだ。
 思想の前に、フランス革命という事件自体が「通常でない」ことは、冷静になってみれば分かるはずだ。「フランス革命は成功したのか」、と問われれば、「革命は成った」と答えるしかないが、「フランス革命は成功だったのか」、と問われれば、誰がどう見ても事件自体は「悲劇だった」と答えざるを得ない。その証拠にフランスはそれ以後、苦難の道を歩むのである。
 大半の日本人は、そんなことは知りつつ、「階級社会は絶対的に悪で、市民がアンシャンレジームを打ち破ったことに人類史的意義がある」だとか、「フランス革命の思想自体は間違いではない」とか、「そもそもブルボン朝の圧政が悪かったんだ」とかのたまうのだけれど、そんなに簡単なものだったら人間であることはそんなに苦労しない。物語じゃあないのだから、人間社会とはそんなに単純にできていないのである。いや、むしろ物語的憧憬の念が強いのか? フランス革命は、あまりに過激で、甘美で、危うく、鋭利で、美しいから。しかし、国家とは、物語みたいに「めでたしめでたし」で終わってくれるものではないし、終わってしまったら大変なのである。
 俺は別に当時のフランス人達を悪者扱いしているわけではない。別にフランスが嫌いなわけでもないし。むしろフランス革命であれだけ国家を破壊して、まだ何とか存在を保っているというバイタリティは敬意に値すると思っている。(現在のフランスはもう何をもってフランスとするのか、わけがわからなくなっている気がしないでもないが)
 ただ、俺の物心ついてからの日本が、フランス革命的な危うさを多分に含んでいて、というか瓜二つで、それが日本国民に国家というものを見失わせている大きな要因の一つになっているのではないかと思うのだ。
 現在日本の小、中、高、大学の教員は、フランス革命の思想を無条件でプラスに教え続けるから、ルソーと聞くと「良いこ とを言ったえらい人」と思う日本国民が大量にできあがる。
 左翼だと自覚してフランス革命の思想に賛同しているならばまだいい。革新を貫くにしても、どこかに保ち守らねばならぬことがあることに気づく可能性があるから。
 しかし、本当に危ないのは無自覚で無認識の、ぼんやりとした、なんとなくの革命思想である。これだと無認識故に間違えに気づく可能性がほぼゼロであるし、そもそもフランス革命自体がぼんやりとした、なんとなくの雰囲気を含んでいたのだ。

 というわけで最低限、以下のことは認識せねばならない。
 フランス革命は悲劇であったこと。それは一見優美に見えて過激な思想が背景にあるのだということ。そして、それが蔓延したのは国家の『国民国家化』の宿命とも言える中産階級の増大とバラバラな個人としての『大衆化』にあったこと。また、それを押し進めたのはアンシャンレジームの側で、『国民』統合をすべきだったところを、むしろ大衆に迎合したことの方を反面教師とすべきであるということ。つまり、全体的に見て、人間というものの不完全さを如実に示した悲しい現象であったということ。
 この辺りの細かい所は次回に譲る。
(書いてみたら、なかなかに時間がかかって予定通りいかなかったのである)



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日本国と保守的態度の考察 三 

 保守主義とはなにか。
 当たり前のことだが、『保守主義』といって常に「天皇及び皇室を保守する」という話にはならない。
 その意味は、
「保守主義が皇室を保守するという話になるのは、日本においてのみである」
 ということである。
 例えば、アメリカにおいては「天皇を保守することこそ保守主義である」とは言えない。南北朝鮮も、中華も、イギリスも、ドイツも、フランスも、ギリシアも、ブラジルも……地球のどこを探したって、天皇を保守することが保守主義であるという国は、日本以外にありえないのである。
 では、イギリス王室を保守することが常に保守足りえるのか。ありえない。イギリス王室を保守するのが保守主義であるのは、イギリス及びカナダなどの旧大英帝国統治国においてのみである。
 アメリカ合衆国憲法の理念を保守することが常に保守足りえるか。足りえるはずがない。アメリカ合衆国憲法の理念の保守は、アメリカにおいてのみ保守主義足りえる。
 イギリス人が、「天皇陛下万歳」とやったり、アメリカ合衆国憲法に忠誠を誓ったりすることが、保守主義といえるか。言えるはずがない。
 日本人が、イギリス女王に忠誠を誓ったり、アメリカ合衆国憲法の理念を謳って保守主義といえるか。これもまた、言えるはずがないだろう。

 俺は、いつもあまりに当たり前のことを言うから、「ひょっとしたらこいつは馬鹿なんじゃないだろうか」と思われるかもしれない。
 その疑惑自体はひょっとしたら的を得ているのかもしれないが、「当たり前のこと」というのは実は大切で、その積み重ねが建設的な思考となると考えている。

 上で何が言いたかったかというと、『保守主義』とは『主義』であり、「物事に対する態度そのもの」を指す概念であるということだ。
 では、それはどのような態度のことを言うのか。
 答えは簡単で、書いて字がごとく、「保ち、守る態度」のことを言う。
 何を「保ち、守る」のか。これも簡単だ。「大切なの」を守り、保つのである。
 そして、その「大切なもの」とは何か?
 この問いがなかなかに難しい。だが、確かなことを一定程度述べることができる。
 「大切なもの」という概念もまた、個人一人では認識不可だということ、だ。人が何かを大切に思う気持ちは、あらゆるレベルの共同体、「関係性の枠組み」の中でしか起きないのである。
 大切、という概念があるということは、大切な物とそうではないものに「分けて」いるわけであり、それはつまり価値の体系があるということである。
 言っておくが、人間という生物が完全なる個人で感じる絶対的な価値などというのは存在しない。全知全能の神が本当に物理的に存在して、「これこそが価値あるものです」と規定し、知らしめてくれない限りない。全知全能の神など、おそらく存在しないので、つまりはありえない。
 ちなみに、善と悪の体系も、価値の体系同様に絶対的な基準などなく、常に相対的であるから、集団に拠る。というか、善と悪の体系は価値の体系のイチ分類だ。故に絶対的な善悪というものも、存在しない。何が正しく、間違っているか、といういわゆる『倫理観』は、集団の枠組みの中で共有する倫理体系が存在しなければ認識しようがないのである。

 その「集団で共有された相対的な価値の体系、善悪の体系、といったようなものを保ち、守ること」が『保守主義』の根幹の根幹であることをまずは認識せねばならない。

 いや、そんなに難しいことは言っていない。極めて当たり前のことである。神という観念は極めて重要なものではあるが(国家と宗教については後に語ろうと思う)、実際のところ物理的な神(ゴッド)は存在しない。今も、未来も、千年前も、一万年前も、それよりもっと前も、地球にも、宇宙にも、ゴッドなど実は存在しないのである。
 現代の日本国籍をもった多くは、宗教に興味がないとか、無宗教とか言っている割には、『絶対的な価値』『絶対的な倫理』というものがあたかも存在しているかのごとく振る舞う。倒錯も良いところである。
 「物理的な神がいない」ということは、価値や倫理の体系なるものは天から降ってこないし、地球上に予め設定されてなどいないのだ。
 当たり前だろう。何が大切か、何が正しいか、なんて事が予め規定されているだなんて、そんな楽ちんなことがあってたまるものか。
 だから、価値体系や倫理体系が、集団の『共通認識』であることは至極当然、自明の理、なのである。

 そして、その共通認識であるところの価値体系や倫理体系の構築というものは、一朝一夕では成し得ない。
 そりゃあそうである。
 何が価値あるもので、なにが正しく、なにが悪いかなんてのはそりゃあ複雑で、簡単に共通認識など構築出来たら苦労はしない。
 極めて少数の集団、例えば家とか親類とか仲間とかの中では、年単位で可能かもしれないが、十世帯、百世帯という村のような集団となるだけで複雑さは跳ね上がり十年や二十年では構築不可となる。それは構成員が増えるごとに複雑さも、構築にかかる年月も、膨大なものとなる。
 まして、国家における価値体系や倫理体系の構築にかかる年月などは、気遠くなるというものだ。(それは大体において、集団そのものの形成と、複雑に絡み合って進んでいくのだろう)
 さらに厄介なことに、巨大な集団におけるその構成員は世代を越える。当たり前だ。人間という生物は、生まれるし、死ぬのである。
 故に、構築にはどえらい時間と労力がかかるのに対して、世代を越えると共に雲散霧消と忘れ去られたり、一時の気分を持って軽く打ち破られたりするのだ。
 勿論、「何もかも変わらずにはいられない」のは当然である。そもそも、「構築する」時点で「変わる」ということはしてはいるのだから。
 それでも、価値や倫理の体系に何とか連綿性を持たせて世代を越えないと、集団そのものの存在があやふやになり、世代を越えるごとに離散の危険をはらむ。何故なら、価値や倫理の共通認識が薄まると、個人のレベルまで「何を基準に行動すればよいか」が分からなくなるからだ。そうなると当然、各々は個人の快楽を基準に行動するようになるから、集団の秩序は世代を越えるごとに離散していく、ということである。
 集団に、価値や倫理が体系付けられている状態は、「当たり前」ではない。今生きている者より前の先人達が、何百世代もかけて、血を吐く思いで紡いできた財産なのである。
 だが、たまたま世の安定した時代に生きる世代は、往々にしてそのことを理解できない。何故なら、苦労して体系を構築する過程を経験していなかったからである。(だからこそドイツを統一した名宰相ビスマルクの言うとおり、「経験に学ぶは愚者」なのである)


 本来、今生きる者は、先人らが積み重ねた価値や倫理の体系を致命的には損ねないように次の世代へと受け渡す、という運命的な義務を背負っているはずである。
 保守主義、「大切なものを保ち守る態度」が何故必要かというのは、こうした理由からだ。



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