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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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衆議院選挙、アジ 

 頼むから、素直に自民党に戻してくれ!
 自民党と官僚というシステムこそが既存の『政府』なのであって、政府なるものを打倒して困るのは、実はいつも打倒した側の国民なのだ。革命ごっこの騒ぎはもう沢山である。
 『政府』の体制は、大きく変わらないで済むのなら、変わらない方が良いのだ。
 『政府』は『政府』であるだけで、なんかムカつくものだけれども、今ある確実な『統治の恩恵』を失う恐ろしさが想像できれば、簡単に政府打倒などやらない方が良いに決まっているのである。

 第三極、という変な言葉が流行っている。
 が、以下のように解釈すれば得心がいく。

 まず、これにおいての第一極は自民党と官僚である。
 自民党と官僚が『政府』でありそれを打倒したいから、それに対峙する第二極を作り、二大政党制にしたいーー大衆世論がそう言うものだから反政府(反自民、反官僚)で寄せ集めの連合軍を作った。これが民主党、第二極である。
 しかし、もう第二極は敗れ、散っていくだろうという段階に差し掛かると、第一極という『既存の政府』に政治権力が戻ってしまう。これは防ぎきれないだろうが、やっぱり気に食わないから、少しでもその戻りを少なくしたい。
 そこで、新しい第三極なるものが欲しいという大衆の需要が生まれた。
 第三極は新しいものでなければならない。何故なら、新しければ既存の権力ではないからである。


 しかしね。
 こういった革命騒ぎには、キリがない。
 『政府』を刷新して新しくしよう、という態度の下では、政府は常に流動的な存在になってしまう。
 あたかも、フランスが、フランス革命の暴挙の後、愚かしくも次々と政府を立てては潰し、立てては潰しの繰り返しの内乱に七十年余り費やしたのと同じように……(政府が流動的である方が良い、と唱えた愚者がルソーである)


 変えて、間違ったのなら、素直に元に戻せ。

 変えて、間違ったから、また新しくしようなどというのが、餓鬼じみた愚行であるのが何故分からないのか。

 『変える』ことをしたいのなら、間違っていた時点に戻ってから、「今度は慎重に変えよう」と反省するのが大人の態度ってもんである。

 今までやったことのない全く新しい政治など、いい迷惑なのだ。
 古くさく、地味に、堅実に、基本に忠実に、教科書通りの政治をやるのが、まず第一である。

 何か今の自分たちのあり方に問題があると思ったのなら、いきなり「今までにない全く新しい事」をやるのではなく、「自分たちの先人がやって、成功した事例のあるもの」から引いて行うべきだ。
 それでも対応できないものについて、そこでようやく『新しいこと』の出番なのである。


 衆議院選挙で自民党に単独で二百四十議席以上を。
 七月の参議院でも勝利し、長期安定政権を。
 優秀な官僚達に活力を。
 国家国民に秩序と安定を。

 これが、俺の願いである。混乱はもうたくさんだ。

 さらに、自民党の現総裁は、憲法、教育、外交安保に経験と実績のある安倍晋三が、経済においても教科書通りのケインズ政策を主張しつつ再登板しているのだ。
 これ以上の僥倖はない。
 経験と実績こそ、「新しくない今ある確実なもの」だからだ。

 比例には自民を、
 選挙区も自民党候補者がいる選挙区では、今回に限ってはたとえリベラリストでも苦虫を噛み潰して自民党候補者を、

 全ての日本国民へ、切に、お願い申しあげる。

 尚、もし、自民党候補者がいない選挙区なら、共産党にでも入れてお茶を濁しましょう。

 保守を語っていても半端な第二、第三極の、『反第一極』的革命勢力こそ害悪であって、「新しい政治などクソ食らえだ」と罵ってみせるくらいでなければならない。
 有権者が個々人で考える政策的議論など、間違っているに決まっていると、認めなければならない。

 既存の政府権力に、政府を政府たらしめていてもらう、ということによって、どれほど我々に『統治の恩恵』が降り注いでいたか。
 それを取り戻す最後の機会だ。

 できれば、郵政選挙などという茶番よりも多くの議席を、今回の自民党に与えることの出来る日本国民であれば、どんなに素晴らしいことか。
 七月の参院選挙までを、衆院三分の二でたえることができるというだけではなく、何よりも、そのような日本国民の反省と慎重さがあれば、今後百年は日本が安泰であろうと思うからだ。
 郵政選挙という革命市民的『ぶっこわしマインド』より、「既存の権力に権力を預ける」ということを自発的に選び取る慎重な国民であって欲しい。

 まあ、郵政よりも今回に自民党を支持できるような優等な民族であれば、そもそもこのような混乱に陥る事などなかったわけで、まず不可能だろうけれど。
 おそらくこのままでは、バラバラな大衆世論の意見を反映しやすい都市部の選挙区や比例で、今回の自民党は伸び悩むであろう。

 あと二週間余りの間で、大衆が真に反省して、「自民党と官僚という既存の政治体制(第一極)を自発的に選び取る」という大人の態度を持つに至るか、どうか。
 既得権益を反映したまっとうな地方の選挙区では自民が大勝するであろうが、それぞれ個人個人の思考というフワフワしたものが反映された都市部や比例区でどれだけ自民党が勝てるか。
 それが、今回の衆議院議院選挙において俺が最も注目している点である。



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衆議院総選挙における政治、経済、外交の争点② 

 まず、俺は「自由民主党を支持しており、その総裁に安倍晋三氏が再任したことによって、さらに支持を強めた」という者であることをまず明言して記事を書き始める。



 前回申し上げた通り、選挙の投票を政治素人である一般国民が具体的な政策の考えを表明する形で行うことは下の下の下策であるが、大量の大衆による世論という禍々しい化け物が世を跋扈する今、その化け物をなだめるための苦肉の策として、少しでもマシな『議論』が必要であると考える。
 マシな議論というものには、「選挙民が政治について何か論じるという禁忌の領域へ足を踏み入れるにはそれなりの慎重さが必要である」という態度の下行われなくてはならない。
 そのような態度で衆議院議院の『争点』を考えれば、部分的な個別具体的法案によって、流されるように支持を決めるなどしてはならないわけだ。つまり、いきなり具体的な政策のある一部分だけを取り出してその是非を問うなどというのは最低の態度であり、たとえ政治の素人でも、全体を大別して、一応一通り見通すということが不可欠なのである。
 ただ、しつこいようだけれど、「自分が属する何らかの集団の既得権益を代表する人がいる」という恵まれた人は、素直にその人に投票すれば良い。無理して政治についての全体を見ようなどと思わなくて良いのだ。
 しかし、個人の思考をもって素人ながら投票を行わねばならぬ孤独な現代の浮動票を形成する人々は、全体の総合的な見解によって投票せねばならない。
 軍事だけ、とか、社会保障だけ、とか、教育だけ、とか、経済だけとか、そういう部分的な視点で見てはならないのだ。何故なら、軍事は外交に絡み、外交は経済に絡み、経済は社会保障に絡み、社会保障は国家の公正に絡み、国家の公正は教育に絡むといったものが政治だからである。
 ただ、もし、その視点の絞られ方が、集団の既得権益に基づいているのであれば、『部分の代表』という議会の役割において健全と言える。部分の代表とは、立法府たる国会の一義席としての権限であり、民主主義という最悪な政治体制の中で唯一まともなところであるから。
 だが、個人が個人の思考の上で一点に絞っていった視点は、どうしても『大衆世論』に寄り添った視点になるが故に、ほとんど間違った絞られ方となるに決まっているのだ。さらに恐るべき事に、世論という権力を背景にしたその間違った見解は、議会を支配した後に、内閣の方針への干渉、つまり行政権へをも浸食してくる。

 だが、『全体の総合的な見解』なんてどう持てば良いのか。
 そのために、少なくとも道筋としてまずやらねばならぬ事の一歩目が、国政の目的は、「国家という最大の社会的枠組みを過去から未来へ繋げること」つまり『国家の独立の維持と繁栄』である、という大前提をしっかり認識する事だ。
 ここでは国家の政府を形成する政治家の話をしているのだから当然の話なのだけれども、この大前提が、しばしば忘れられがちなのは大変問題なことである。まあ、そもそも、既得権の代表を選ぶことのできる生活民は、その代表に任せてそんなことを考える必要はなかったし、それで良かったのだけど、個人の思考によって投票しなければならない浮動層の生活民は、この大前提を改めて認識していなければ投票の基準に芯の無いことになってしまう。
 昨今、政府というものを捉える際に、「天から降ってきた人間の権利のようなものを保障するためにある」というような大変な誤解をしている人がかなり多くて吃驚するが、人権保護団体や宗教団体について話しているのではないのだから、真面目に考えてもらいたいものだ。
 そもそも、地球上にあらかじめ人間に与えられた権利のようなものが存在するはずなどないし、故に、政府は「ある一定の範囲に存在する人間一般」のために存在するものではない。
 政府は国家のために存在しているのであって、国家を存続させることと、国の民を存続させることがイコールであるから、『国民』が大切なのである。
 また、『政府』も天から降ってくるものではないので、国家に内在された根拠によってでしか形成されず、それは「歴史的、慣習的根拠」「ペーパーテストで計る能力的根拠(官僚)」「多数決的根拠(政治家)」の三つ以外にはない。しかし、「誰にペーパーテストを受けさせるか」「誰による多数決にするか」――つまり、「国民とは何であるか」は絶対にペーパーテストや多数決で決めることはできないので歴史的、慣習的根拠によってでしか規定されない。
 すると、結局の所、『政府』を構成するものはすべからく国家の「歴史、慣習」によって形成されていると言える。
 国家の歴史や慣習なるものが、どうやって積み重なって来たかと言えば、それは当然、国家集団が存続し、繁栄していくように形成されてきたはずであるから、それを依拠とする中央政府も国家の存続と繁栄を第一目標としなければならないのは掌を指すほど当然のことである。

 その大前提の上で、政府というものの司令塔となる『政党』をどう見ていけばいいかを考えると、理念的争点を以下のように大別することができる。
一、『国家観』
二、『政体観』
三、『軍事観』
四、『経済観』
五、『外交観』

 これらが、「国家の独立の維持と繁栄」という大目標に通じているか、という観点から次第と具体化していくのが政権選択の基準として適切であると、考える。
 多少順序立てて掘り下げると以下のごとくだ。

 まず、一、『国家観』は最も重要な根幹の根幹である。何故なら、目的の主体だからだ。「日本という歴史的存在は、どのような世界観を共有した、どのような国民によって構成された、どのような大儀と道徳を継承した国家であるのか」ということがあって始めて、それを維持したり繁栄させたりするしないの論が始まるのである。
 二、『政体観』は、国家観を反映した政治体制についての見識である。政治家と官僚の関係、中央と地方の関係、といったものがその例にあたる。
 三、『軍事観』は、国家体系や政治体系を転覆させ得る要因を、どう物理的に排除するかの見識である。
 四、『経済観』は、国家体系、政治体系、に基づいたルールによって、国民経済をいかに秩序立って活発にさせるかの見識である。
 五、『外交観』は、自国があれば地球上には他国も沢山あるのでその関係を如何様にして国益を獲得するかの見識である。

 まだまだ当たり前のそもそも論の段階であるが、確実に言えることは、少なくともこの五つについて何らかの見解を示していて、できれば経験もある政党が政権を執るのが望ましいということだ。
 人の意見が様々であるということはもっともであるが、今、五つ全てにおいて党内をある程度まとめ、公約を謳っているのは、安倍自民党だけである。

 たとえば、軍事的にタカ派であれば良いというのであれば幸福実現党でも良いのであるし、嫌原発であれば良いのなら共産党や社民党で良いではないか。

 統治に重要な点において党の意思を決定しようという態度があるだけでも、(それが常に良い意思だったか悪い意思だったかは別として)自由民主党はだいぶマシな政党なのである。

 さらに、現自民党総裁の安倍晋三氏は、それら基本的な点のおおよそ全てにおいて極めてまっとうで常識的な事を掲げていると考える。
 時代に超然的に見ても、ほとんど奇跡的なほどだと思う。

 というわけで、次回に。



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衆議院総選挙における政治、経済、外交の争点① 

 政治に関する記事を書く時、俺は自分がどのような政党を支持し、どのような政治家を支持する者であることを表明してから始めることとした。
 であるからして、まず俺は、元々「自由民主党を支持する者である」ということと、今では「安倍晋三氏が総裁であるという僥倖によってさらに支持をしている」という事を朗らかに表明する。


 さて、分不相応ながら、衆議院議員選挙の政策的争点とするべき軸について考えを述べたい。

 ……とは言うものの、当然、第一義的に、代議士を選ぶ投票行動は、自分が帰属する小集団、中間団体、地域、既得権益、といったものの中で、その代表者を選び、「国内の部分の権益を代表する者を選ぶ」という態度を持つのが理想的である。
 生活民であれば絶対に誰しもが持っている集団の既得権益。これを代表する者が、代議士、つまり衆議院議員というものなのだから。
 普段から常に政治についての勉強を絶やさずしている――などということは絶対にありえない俺を含めた選挙民が、具体的な政策の是非を問うて投票行動に及ぶなど、下の下の下の策である。そんなことなど、フランス革命の惨劇や古代アテネの歴史等々からも明らかであるし、というか、素人の考えの寄せ集めが的確な政策になるはずなどないということは、おそらく小中学生でも簡単に理解できうる話だ。
 つまり、素人の意見の寄せ集めである『世論』なるものは政策的に間違っているに決まっているのだから、帰属する集団の中で「なかなか立派な人だ」と判断した人へ議会での議決の一票を委託して、その代表者が政党を組んで、行政権を得る下院の過半数を目指す――というのが議会制民主主義の骨子であるという基本を、忘れてはならないということである。
 なかなか立派な人だ、の基準は、例えば「地域に貢献した一族の家柄」とか、「人格的な所作、振る舞い、言葉遣い」とか、「理念や道徳観に信頼できる」とか、そういった生活民であっても分かる……いや、むしろ身近な生活民であるからこそ判断のつく部分においての基準であるべきだったのだ。

 しかし、日本国も平成の御世となって久しく、国家と個人の間に挟まる組織を「既得権益だ」とのたまい、潰しに潰した後であるから、「個人の考え」という非常に曖昧で雲を掴むような基準をもって投票に臨まなければならない人が多くなっている。そういった人たちの票を、俗に「浮動票」と呼ぶ。
 浮動票は、個々人がその時々それぞれの考えによって投票に及ぶものであるから、まさに素人の考えの寄せ集めだ。
 そういうわけで、浮動票という「帰属が個人で終結している者」という個人主義的な者の存在は、国家、社会を非常に不安定にする。素人の意見が大量の塊(世論)となって政治権力を握るからだ。
 そして、近代という物質的、情報的に流動の大きなシステムの上では、個々の個人主義化が副作用として必ず起こるということは当然のことであり、その副作用を抑える為に近代以降のあらゆる国家は苦心してきたのだ。その副作用をあたかも「良いもの」であるかのように、むしろ裸踊りをして推し進めてきたここ二十年あまりの日本人の態度がいかに愚かなことであったか。
 何故、こんな簡単なことが分からないのか不思議でたまらないわけであるが、その当然の結果として浮動票の増大と政治の混乱が起きているのに過ぎないのである。

 つまり、浮動票というあやふやなものを大量に生じないようにすることが前提として大変重要であったのだが、現状はもう既に、「既得権益の枠組み」という大切な財産が非常に損なわれているわけであるから、大量な浮動票という猛威に対して「へんてこな動きをせんでもらう」という努力が必要なのだと思うわけだ。

 かく言う俺も、実を言うと集団の帰属に弱く、既得権益の代表者といった種類の候補者へ投票を行えていないという点においては、浮動票の一つである。最も、自民党以外の政党へ投票したことはないから、無党派層では無いかもしれないが。
 まあ、身近な代表者を持つという既得権益を持てていない者としては、「政治のことなんて分かるわけはないし、何を基準にすればよいか分からない」という気持ちになるのは当たり前である。だって、素人なんだもの。
 素人からすれば、「論点が無い」とか「政治家はだいたい皆一緒」という風に思うのも当然である。繰り返すが、素人なのだから。
 そういう時、どうすればよいかの解決方法の一つとして、「投票しない」「白票を投じる」という手段がある。
 俺は、これはこれで一つの方法だと思う。何故なら、何の基準も持てていない中で投票行為に及べば、「世論の雰囲気的な政策に寄り添う」形になるに決まっているのであり、そんなもの、危なっかしくて仕方が無いからだ。だって、「世論」は素人の意見の寄せ集めなのだから間違っている事が多いに決まっているのであり、わけもわからず間違ったものへ加担する羽目になるかもしれないから。

 だが、真面目な人達が多い我が日本国では、「有権者として投票行動はしなくっちゃいけない」と考える者が必ず一定程度存在する。そして真面目な人ほど、新聞やテレビ、週刊誌の報道に目を凝らし、結局世論に寄り添った投票をしてしまうものだ。生活は忙しいし、余暇をすべて政治的な勉強に使うわけにもいかないから、意識的にせよ、無意識的にせよ、どうしても大衆世論に寄り添ってしまうのである。

 そうなると、事此処に至っては、苦肉の策として、少しでもまともな選挙の争点なるものの議論を、世で深めていくしかない。
 もう一度言うが、本来であれば、選挙民は既得権益で投票すべきであって、具体的な政治の論議など簡単に素人が手を出して良いはずがない。素人なのだから。
 だが、本当に苦肉の策として、個々人が意見を出し、世論という化け物を少しでもまともなものにしていくしかないという前提で、衆議院選挙の争点を論じていこうと思う。

 今回は前置きで終わってしまって不本意だが、今日はもう書く時間が無い。
 次回(明日か明後日)から少しだけ具体性を持たせた論へ移行しようと考えている。



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Janre: ニュース

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大衆民主主義についての省察 

 解散総選挙が行われるという段になったので、それに関連して。

 俺はこれから衆議院選挙の開票まで、「自由民主党と総裁の安倍晋三氏を支持する」ということを、明確に表明し、あらゆるところで出来る限り声高に叫びのたまうことにした。
 その心の内訳は、「古い体制や慣例に従う姿勢を残している政党は、自民党と共産党だけであるから、政権を握るべきは自民党だけだ」という考えと、「さらに安倍晋三氏が総裁となったことはとてつもない僥倖である」という考えの二重丸構造になっている。
 これから、数回に渡って俺がそう考える根拠を具に書いていこうと思う。


 さて、今回は、現在の状況において、政府権力ではなく、大衆というぼんやりとしたものを少々批判的に見ることから始めてみたい。
 とにかく俺は、昨今の「政治家はどうしようもない」とか、「入れたい政党や候補がない」などと我が儘な餓鬼のようにのたまう一般大衆なるものの傲慢な態度が、たまらなく気に食わないのだ。
 特に現在、「国民は民主党に騙されたのだ」とかのたまう連中を見かけるが、そのような嘘と欺瞞には、吐き気すら催すグロテスクな心象が映っていると糾弾しないではいられないのである。

 三年前、悪夢の衆議院議員選挙。
 実際、あの時の民主党のマニフェストとかいう下世話な物を初めとする言動を、本当に信じて民主党に投票した人間など、ほとんど存在しなかったはずだ。あのようなメルヘンを本気で信じるのは、ほとんどサンタクロースを信じているのと同じレベルであり、よもや選挙権を保有する二十歳以上の大人が本気にするはずなどないからである。(そもそもマニフェストの内容自体が頭から爪先まで悪政だったので実現しなくて本当に良かったと思うが)
 民主党という寄せ集め政党は旧社会党系等々をも吸収していて、連合や自治労、日教組など左翼系団体の組織票を形成していた人々は彼らが所属する集団での義理もあるだろうから、ある程度の票が行くのは当たり前だとしても、その他多くの浮動票を形成していた人間が何故信じてもいないのに民主党に投票したのだろう。
 それは、
「なんだかよくわかんねえけど政府権力たる自民党を懲らしめてやりたかったから」
 ではないか。
 個々の投票者が、自民党を(というよりは既存の古い政府権力なるものを)懲らしめた気分になる為には、自民党ではない候補者と政党へ投票しなければならず、そのメソッドとして、「民主党の言うことを信じたフリ」をしていたのではないか。何故なら、あのような出鱈目でも「信じていたんだ」と言っておけば、自分自身に責任はなく、当然のように民主党が失政を施しても、「俺は騙されたんだ!騙した奴が悪いんだ」と自分をセーフティな場所へ置いておけるからだ。
 信じてもいなかった癖によく言うものである。
 多くは、ただ単に言質を取って自分だけは清廉たろうという保険をかけていたに過ぎないのに。
 この日本人共は、「自分は民主党に騙されたか弱き一般市民だ」という盛大な嘘をもって自分らで自分らを保全する一方、面白半分に自民党や官僚組織の古くから続く政治体系へお灸とやらを据えてみるという「イジメ遊び」にだけは興じて溜飲を下げて喜んでいたのだ。
 それでもまだ「自分ら国民はまともだけれど、政治家はけしからん」などと、ため息の一つでもついてみせるのである。
 あまりにもグロテスクだ。
 これに比べれば、民主党へ投票した者の中でも、左翼系の団体の団体票の方が余程可愛らしく見えるというもの。

 正直言って、現在の日本人共には、民主党がお似合いである。現在の日本の大衆にまともな政権など、豚に真珠だからだ。
 民主党という政治の素人、反権力のプロが、現在の日本国民の代表であるのは当然至極の結果だ。何故なら、『民』自体が政治をナメてルサンチマン的反権力の甘露に舌を喜ばせているのだから、その代表も政治をナメて反権力を旨とするのは、掌を指すほどに当たり前の話である。
 その証拠に、民主党の言うこと、やること、為すこと、一挙手一投足が、現在の日本人らのそれに酷似しているではないか。
 民主党はまさに、『現代日本人を映し出した鏡』に相違ないのである。

 そして大衆は、「民主党が駄目」は認めるが、「政権交代前の自民党は比較論としてそれよりは普通に国家を統治していた」ということは決して認めようとしない。安倍政権、福田政権、そして麻生政権政権に関して、事此処に至ってすら、そのある程度確立されていた行政能力を認めることをしないのである。
 それは、日本国憲法の理念をお花を摘む乙女のごとく純粋に受け止め、そのことによって醜悪な化け物たる革命市民と化してしまった日本人らが、「権力を持った者を褒める」ということにたまらなく抵抗をもつようになった、ということがまず前提にある。
 しかし現状では、その上さらに自己正当化的な要因が世に異臭を放っているのだ。
 つまり、先の衆議院議員選挙までの数年間、自分らが数の力に任せて自民党政権をけっちょんけっちょんにイジメてイジメてイジメ抜いて死人まで出した惨状を演じた上に、「民なるものは清廉潔白である」という正当性を確保し続けるためには、「政権交代前の自民党がとてつもなく悪であった」という条件がどうしても必要だからである。あれだけコケにして、大多数でリンチして、吊し上げ、せせら笑った対象には、『とてつもない悪代官』であってもらわねばならないのだ。
 反対に、政権交代前の自民党がある程度良識的な統治行為をしていたということになると、民なるものの政治的態度は、極めて穢らわしく、不道徳で、破廉恥な、排泄物に集る蠅のようなものであるということを認めなければならなくなる。
 これは、民主主義「民が主人の主義」のご時世、そのご主人様方のプライドとして出来ないのだろう。
 民、国民、人民、市民、大衆、有権者、といった種類の主権者が、実はとんでもない人でなしであるなどという現実を『民主主義』というイデオロギーの上でみとめさせるのは、「神などは存在しない」とキリスト教信者に納得させようとするのと同じほどに困難なことである。

 だが、自民党しか行政を執り仕切る政党として機能する党はなかったのだと心のどこかで気づいている者はこんなことをのたまう。
「自由民主党は、反省して変わったのか?」
 と。
 流石ご主人様である。「反省した上にどーしてもやりたいってならまあやらせてやらんでもない」という、シビレるような居丈高な態度だ。
 しかし、今大衆が自民党に『変わった』と示させることを求めるのは、「先の自民党政権が悪かった」ということを追認させ、以前自分たちがやった非道いイジメ行為に正当性を確保させつつ、有権者様の威厳を保ったままで、自民党に政治的混乱を治めてもらおうという保身の態度に過ぎない。
 俺個人の感覚から見ると、それは極めて卑怯千万に見えるわけであるが、この感覚は何かおかしいだろうか。
 本来、「反省しなければならない」のは、ご主人様たる『民』の方ではないか。
 変わったかどうかが問われているのはご主人の方ではございませんかと、諫言申し上げないわけにはいかないのである。

 まあ、こうした大衆批判をする際、必ず言っておかなければならないことに、「大衆とは、俺自身も含めての大衆である」ということがある。勿論、俺は生まれてこの方民主党などという下賤な党に只の一票たりともやった覚えはないが、大衆と多数決というものは、個人の考えや態度がどうとかなど関係のない大量の人の塊の判断である。そして、判断の過程は一緒くたの塊として下されるものであるが、結果に対しては個々人が連帯して責任を負うものである。
 であるからして、ここでの批判は、たとえ個人がどういう考えを持っていようと、日本の国籍を持った民であるならばすべからく当てはまるのだ。
 俺自身を含めて。

 そして、そのことが俺にとっては、たまらなく気持ちが悪い。
 あたかも、巨大なゲル状の塊が人々を呑み込んでいった中に、自らも吸収されて、その塊全体が醜態を晒し、愚かな自傷行為を繰り返しているといったような感覚であるからだ。
 勿論、人はすべからくゲル状の塊に吸い込まれて生きていくものであるが、その塊全体を常識に基づいて律し、振る舞いに気を揉み、吸収されたを良しと思えなければならないはずなのだが。
 その常識が狂ったのは、何が所以か。
 マスコミと言う人も多いだろうし、マスコミの罪は重いとは思うが、俺はそれにも少々の疑問がある。
 何故なら、マスコミは、大衆の大多数が、塊の大勢が、どのようなものを好むかを推測して情報を流すからだ。勿論、外国の工作員や、マスコミ人各々の思想による恣意的操作は無視できない要因ではあるが、大衆はそれらを喜んで受け止めてきたではないか。人を小馬鹿にして笑い、安全な場所から権力者に対して陰口を叩き、既得権益なるものを「ズルイ」といって騒ぎ、古くからの体制や慣習を否定し、子供が見るマンガチックな地球規模化した世界に焦がれ、人類は進歩していくという大嘘を述べ立てトリップして、日本国家をやっていくという意思などそっちのけで自慰に耽るということを少なくとも俺の物心ついた時にはやっていたし、そして今もやっているのだ。

 つまり、大衆、世論という巨大な塊は、そもそもそういった醜い物を内包した不完全なものであることを、そろそろ認める必要があるのではないかということを言いたいのである。
 換言すれば、「世論など間違っているに決まっている」という当たり前のことをそろそろ前提条件として認めるべきだということだ。


 先に、「現在の日本人共には、民主党がお似合いである」と述べたのはかなり本気で思っていて、それは、ここまでゲル状の塊が醜態を晒し、不道徳を重ね、腐った卵のような臭いを放っているのであれば、その贖罪として苦しみ、のたうち回って、きちんと滅亡するのが適当ではないかと考えたからである。
 民主党にはそれができる。彼らの三年間の実績から鑑みて、日本を滅ぼすに十年とかからぬであろう。

 とは言えど、ここで俺は思い直す。

 何故なら、日本国の歴史においてここまで異臭を放つ民は『現在の日本国民』だけなのであろう、ということに想いが至るからだ。
 日本国民とは、現在生きている民だけではなく、過去や未来の国民も全て合わせて『日本国民』なのだ。千年、二千年前から折り重なる過去の先達が相当に立派であったからこそ日本文明は繁栄したのであり、故に、その死者の意志を未来へ繋いでから死んでいく義務が、現在の日本国民にはある。日本国で統治の恩恵にあずかって生きるならば、勝手に飯食って、クソして、死んでしまって良いはずなどない。
 そこまでに考えを至らせて初めて、日本を保守する為のまともな政治体制が必要である、と辛うじて思えるというものだ。
 もし、現在の民一人一人の、単なる個々の自己実現とやらの為に政治があるのだとすれば、自民党というまともな政党が政権を担う意味はない。醜態を晒す前にさっさと滅びるべきだ。何故なら、そもそも国民として『統治の恩恵』にあずかることのできるのは、「日本をやっていく」という前提があってのことである。別に「人間が人間であるだけで尊いから」ではない。個々の人間が、個々の人間で完結する存在に、国家の統治を受ける権限は本来無いのだ。


 つまり、今俺が「自民党と安倍晋三総裁を支持する」のは、過去の先達に対する日本国民としてのせめてもの義理なのである。
 だって俺は、そもそも現在の日本人を、現在の日本人だけ切り取って見たら滅びるべきだと思っているのだから、『まともな政党』を支持しようという意思は先人たちの積み重ねの偉大さによってしか湧き上がってこないのだ。

 安倍自民党のみが、日本がこれまで積み重ねた共通の先入観、既存の権威、権力、歴史、慣習、慣例、常識という何物にも変えがたい財産を、惜しむことなく使っていこうという態度がある。オマケに言えばそれによって現在の日本国民の物質的な享受すらも今より相当マシになるだろう。
 現在の日本国民が物質的にマシになることなど、俺にとっては気に食わないことこの上なく、もっと苦しむべきかとも思うが、残念ながら今の日本人が繁栄していかなければ、過去の日本人から未来の日本人へ『日本』という共通観念を繋げられないのであるから、ある程度現在の日本人らにも統治の恩恵がいってしまうのは、まあ仕方ない事だ。

 十幾つ乱立した他の党を見まわせば、「何を新しくするか」「何を変えていくか」ということばかりで、「その『変化』がなんの為の『変化』か」ということすら意味不明ではないか。まあ、その「新しい」「変化」ということ自体にワクワクして嬉しくなっちゃう乙女チックな輩の多さには相変わらずうんざりではあるが。まあ退屈で退屈で仕方がないのであろう。
 そういう輩のせいで、(俺を含めた)現在の日本国民が被害を被るのは一向に構わないが、過去の日本人達に対して「すみません、日本を滅ぼしてしまいました」と謝らなければならなくなるのは勘弁してもらいたい。



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