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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2012年12月  
  

アベノミクスと、リフレとケインズ 

 第二次安倍内閣が、強く堅実でバランスの取れた陣容で発足し、希望とか、明るさとかいった心持ちでいっぱいの年の瀬であるが、今日は当面の課題である経済の話を。
 
 近頃、『アベノミクス』という、言葉をにわかに聞くようになった。
 アベノミクスとは、「第二次安倍内閣が掲げている一連の経済政策」を指す、最近巷でできた造語である。
 その内容は、「デフレ脱却を経済の最優先課題」として、『金融政策』『財政政策』『成長戦略』という三つの政策を打ち出したものだ。

 まず結論から言えば、この大きな方向性は絶対に正しい。
 何故なら、グウの音も出ぬほど基本的で当たり前の政策だから。

 ただ、この正しい内閣の経済政策の方針に、「賛同し、寄っていく経済学関係者達」は、各々が必ずしも同じ経済思想を持つ者ではないことを理解しておく必要がある。
 つまり、表面上、今「財政出動と金融緩和に賛同している者達」はすべからく同じ種類の論者に見えるかもしれないが、一枚皮を捲った経済思想において全く異なる二つの流れがあることを意識しておかなければならないということだ。
 ここではそれを、『リフレ派』と『ケインズ派』という風に分けて捉えてみたい。


『注』
 断っておくが俺は、現段階でそれらを分断し、「どちらかを排除すべきだ」と述べたいわけではない。
 デフレの状態において、「財政出動と金融緩和」をインフレに転ずるまで増強し続けるのは至極まっとうな政策であるから、それについて短期的に各々が同調していることは歓迎すべきであるし、水を差すのは本意ではないとも思っている。『注、終わり』


 経済学、或いは経済評論といったものは、概ね数式ではなく、『経済思想』によって決定される。何故なら、数式はその思想に基づいて幾らでもモデリングできるからだ。
 経済思想が違うと、例え瞬間的に同じ政策を述べていようとも、その政策を政策として導き出す「筋道」が変わってくるのである。
 一時、同じ政策の下纏まっていたとしても、各々の道筋と思想を理解しておかないと、後々、別項目での論議の対立軸を見定められないということになるだろう。


 さて、先に述べたとおりここでは、「財政出動と金融緩和」に賛成している者達を、『リフレ派』『ケインズ派』に分けて考えてみる。
 この二つ。デフレーションを、「バブルを抑制した形でのインフレ局面」へ転じさせるべきという基本的な所は一致している。
 ただ、その思考的道筋が違うのだ。

 簡単に言うと、
 リフレ派は、「金融緩和による円の量のコントロールで、相対的に物価をコントロールすべき」という立場。
 ケインズ派は、「財政出動による需給ギャップの是正と金融緩和は、連動させて行うことが必須である」という立場。

 もっと簡単に言えば、
 リフレ派は、「政府が刷ったお金を、民間が回す論理」
 ケインズ派は、「政府が刷ったお金を、政府が使って市中へ回すという論理」
 とも、言える。

 (こんな弱小ブログに影響力は無いと思うから、あえて正直に言うと、)俺は、ケインズ的な経済学の方に理があると思っている。


・少し詳しめに、リフレ派の説明を。
 そもそも、元々のリフレ派の論理は、小泉ーー竹中時代に一度失敗している。小泉ーー竹中時代は、「目指せ小さな政府」だったから、デフレーションであるというのに財政支出は減らし、公共投資も減らしていたが、金融は緩和していたのである。
 金融の緩和とは主に、日銀が円を刷って、一般の銀行から国債を買い入れるという策だ。いわゆる買いオペレーションである。すると、銀行の中にあった国債は、満期前に円になって、企業へ貸し出すことができるというわけである。
 しかし、いかに銀行の中に円が沢山あっても、デフレーションなので、優良企業はお金を借りてまで投資をしないのだ。
 だって、デフレってことは、お金の価値が上がっていくのである。すると、借りたお金を返す時、より価値が高くなったお金を返さなきゃいけなくなる。また、国家全体で、給与が減って、消費も減って、価格も減って、売り上げも減っているのだから、当然、需要が減っているのだ。需要が減る中、供給を増やす設備投資に着手したとして、採算が取れるかといえば難しい場合が多いのは当然である。
 すると、せっかく刷った円も、銀行から出て行かず、市中に回っていかない。優良な民間企業が借りてくれないんだもん。結局銀行は、少しでも逆ザヤを防ぐために、また国債を買うしかなくなる。だから、今の国債の長期金利は滅茶苦茶低い。
 であるからして、(全くなかったとは言わないが)小泉政権時代の金融緩和にはあまり効果はなかったのである。


・ケインズ派の方も、詳しめに。
 ケインズ経済学は、「財政出動で需給ギャップを埋め、デフレスパイラルを断ち切る」という所に主眼がある。
 デフレスパイラルとは、「1、物やサービスの価格が下がる」「2、売り上げが下がる」「3、給与が下がる」「4、消費が下がる」故に、生産物の量方が過剰になるので、また「1、物の価格が下がる」といったように、延々と「物とサービスと売り上げと給与と消費」が下がり続けるデフレーションの悪循環を指す。
 この、デフレスパイラルで問題なのは、『需要』が、際限なく減り続ける所にある。せっかく国家全体で、生産能力が高く、供給力に長けていても、需要以上に作っても売れないのだから意味がない。
 だから、デフレの時は一度、需要が供給を上回るように政府が余分に支出をしなきゃいけない。
 デフレスパイラルの中で、需要を埋められるのは、「その権威と権力をもって、円を刷り、使う事のできる、中央政府」以外にありえないのである。だって、今の国内の需給ギャップって一年で二十兆とかだし。民間企業には絶対無理だ。
 ただ、年間二十兆の需給ギャップがあるからといって、二十兆公共事業を増やさねばならんーーということではない。金融緩和と併せれば、まさしく「政府が刷った円を、政府が使った」ということになるので、そのお金が回れば回っただけ、ギャップが埋められたということになる。だって、もし政府が橋を造ろうとして、建設会社に十億出したとして、その十億は給与とか、設備投資とかで使われる。使ったお金は、また、どこかで使われて……といって回っていくだろう。
 その支出が、どれくらいお金が回って行きやすい支出か、というのが、かの有名な『消費性向』の話なのである。そして、いきなり人へ給付する社会福祉的な支出は概ね消費性向に低く、お金は回らない。逆に土木、建築、軍事費、などは消費性向が高いので、ニューディール政策や、高橋財政や、尾張徳川宗治は、公共投資や軍事費を増やして景気を回復させることができたのだ。



 このように、リフレ派とケインズ派では筋立てに大きな違いがある。
 しかし、今、この瞬間の具体的な政策的結論は同じなのだ。
 財政出動と金融緩和ーーつまり、日銀が銀行から国債を買って、公共事業を増額するという『アベノミクス』のデフレ脱却政策である。

 この点があるので、安倍内閣は、既にリフレ派に目配せや配慮をしているような感がある。
 安倍首相は組閣前からこんな風に主張していたはずだ。
「デフレーションの克服には金融緩和だ。だけど、金融緩和だけだと『市中へ出回るのに時間差が出る』ので、公共投資が必要である」
 というように、微妙な言い回しで、リフレ派に「公共投資増額容認」を促すような論理の組立をしているのである。
 そして、これは政治的にとても上手な論の進め方であった。
 何故なら、世間での反発は、金融緩和よりむしろ公共投資の方が根強いからである。
 この論の組立だと、リフレ派の筋立てで金融緩和に焦点が当たり、「それプラス財政出動」という感覚に人々がなるはずだから。
 財政出動と金融緩和によるデフレ脱却を第一とするなら、これは政治として上手い戦略だ。
 何と言ったって、アベノミクスは何が何でも成功させなきゃならんのだから。


 ただ、その上で、安倍内閣を支持する者は、重々承知しておかなければならない。
 リフレ派寄りの者達の思想の底流には、小泉的『小さな政府』があるということを。
 つまり、「ムダを省いて政府規模を小さく」「規制を緩和して民間の自由に」「経済においては国境は薄くて良い」というような、新自由主義経済学にシンパシーを抱く思想信条が、リフレという論の底流にあるのだ。とにかく政府の経済への関与をどんどん減らせば、民間が自由になって競争原理が活発化するという思想信念である。

 具体的に言えば、『みんなの党』は日銀法の改正と金融緩和に賛成しているが、「規制緩和、ムダを省いて小さな政府、TPP推進」などなど、ついこの間の小泉時代の失敗政策に極めて類似したものを唱えている。(維新はその方向でもっと酷いけれど)

 だが、安倍自民党も、日銀法改正においては、みんなの党と連携しなきゃならだろう。
 それと同じで、小泉時代からの生き残りの経済学者、またはそのシンパらを無碍にしては、アベノミクスは成らないのである。
 政治なんだから、今敵対すべき時ではない相手とは敵対しないようにするのは当たり前だ。
 そういった者達の喜ぶような「規制緩和」とかも、やっても良い部分は一定程度強調して支持を得ておくこともアリだと思う。


 ただ、外で見ている我々も、アベノミクスで纏まっているように見える言論を持った人達の中にも(経済学者とか)、違いがあるのだということだけは心に留めておくべきである。
 勿論、今、あからさまに敵対しては、アベノミクスが成らないので、あまり突っ込んだ所を責め立てるべきではない。
 が、アベノミクスを支持する者達を一緒くたに見ていると、「小さな政府、市場の自由化」といった一度失敗した話に巻き込まれるといったような事が、近い将来に起こるであろうことは容易に推測できる。

 安倍内閣そのものには、それらをいなす態度と実力があるだろう。だから、これは内閣への不安ではない。

 むしろ、俺の不安は世論に対してある。
 周りでみている一般国民有権者がその辺りの微妙な所を理解しているはずはなく(本来、理解する必要もないのだが)、また世論がおかしな議論に沸騰しやしないかに一抹の不安を感じるのである。


関連:『アベノミクスと、リフレとケインズ2』


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Janre: 政治・経済

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「自民党は変わったのか」という問いに紛れた欺瞞 

 昨今、「自民党は変わったのか?」という問いを良く耳にする。そして、安倍首相もそれに応じる形で『変化』を強調せざるをえないわけだ。
 ただ、その「変わったのか?」という問いは、排泄物のごとき汚らしい「世論の自己肯定の理屈」という欺瞞の心から放たれているのではないかと、強く疑ってしまう。

 と言うのも、ことさら「変化」を求めているということは、自民党の「以前」を全否定する態度から出ているからだ。
 そして何故ここまで、自民党の「以前」を否定なければならないかというと、「世論」なるものが以前、狂った牛のように自民党を否定したからである。

 しかし、国民世論が出した、以前の自民党への「否定」が、間違えであったということは、三年間で明々白々と証明されたはずだ。
 民主党政権を選んだのが間違えというよりは、「自民党や官僚という既存の権力を、中央から追い出した」ということ自体が間違っていたということである。
 だって、別に、民主党政権じゃなくても、仮に社民党政権や、共産党政権や、みんなの党政権で三年間やっていたとしても、民主党と同じかそれ以下の結果になっていたのは明らかだ。
 何故なら、自民党ではないからである。問題は、自民党か、そうではないかなのだ。「自民党政権ではない」ということは、自民党と官僚という既存の政治体制を一切踏まえない、「徹頭徹尾全く新しいもの」になってしまうが故に上手く行くはずがないからである。
 もっとありていに言えば、「自民党を政権から落した」のが、致命的な間違えだったのである。

 つまり、『世論』が間違っていたのだ。
 国民、有権者が、間違いを犯したのである。
 既存の政府権力なるものに、聞き分けのない非難を浴びせて、打倒し、結局自分の首を絞めただけだったのだ。(歴史を紐解けば良くあることであるが)

 だが、世論は「世論が間違っていました」という風に反省などしない。絶対権力である世論、国民、有権者に対して、「間違えを認めるべきだ」という風に諫言する声すらほぼ見あたらない始末である。

 そして、「世論が間違っていた」ということを認めないでいるためには、「政権交代前の自民党はそこそこ良かった」などと認めるわけにはいかない。
 だが、現状、既存の政治体制というものーーつまり自民党に頼らざるをえず、放っておいたら自分たち大衆もヤバいのでこう言うのだ。
「我々の与えた罰に反省して、変わったのなら良いだろう」
 と。
 こういった理屈をほとんど無意識に拵えるのである。

 もし、その理屈がなければ、間違っていたのは政治家ではなく自分たち大衆であり、世論であり、有権者なるものであったということを認めなければならなくなる。
 また、自分たち大衆の起こした非人道的、非道徳的、非倫理的な自民党へのリンチ行為についての罪をも、認めなくてはならなくなるだろう。以前のそれらのイジメ行為は、「自民党が悪い」という前提によって正当化されていたからだ。
(因みに、イジメというのは、周りでただ黙って見ていただけの奴も同罪だと、俺は小学生の頃教わったぜ)

 大衆は、そのリンチ的イジメ行為の罪逃れの為に、自民党に対してことさら「変化」を求めているのである。
 変化さえ求めておけば、自分たちは正当であり、悪いのは政治家であるというメルヘンなストーリーの中に安住していられるから。


 つーか、そこまで自民党に「変化」が必要なら、自民党政権である必要はないではないか。
 そこまで自民党が自民党でなくなるという状態を求めるのであれば、自民党ではないものを選んで、このまま潔く滅亡するのも一つの選択肢であったろうに。

 俺から見ると、「自民党の価値」とは、既存の政治体制、既存の政治手法、既存の調整力、既存の官僚との連携力、既存の党内調整力、といった今までの積み重ねた物を保ち残している所にある。
 もし、「変化」がそれらを決定的に排除したのなら、自民党の価値は単なる新興政党と同列になってしまう。

 よく聞くと、安倍首相は「変わった」部分も述べているが、「これは残す」とか「これは復活させる」という事もかなり述べているのである。
 本当に真摯な態度で政治を見るのであれば、真に注目すべきは、この「残すもの」「復活させるもの」の方である。
 一番心配すべきなのは、「今まで積み上げた政治の枠組みは致命的に毀損されていないか」ということであるはずだからだ。
 だが、どうやら、自民党は「自民党の体質」の根本は保っていてくれたようである。これが、肝であり、珠玉の宝なのだ。


 実を言うと、安倍首相は特段「今までにない全く新しい事」を掲げているわけではない。
 今までの政治慣例に則って、基本に忠実に、今までの歴史に照らし合わせ、先人が行った政策にまで遡ってそれを取り入れているだけである。ただ、『現代の世の雰囲気』の偏りに対して超然的であるから、何か新しい事を言っているように聞こえるだけである。
 そして、それで良いのだ。
 いや、そういった態度こそがまっとうな政治なのである。

 だが、世論が自民党に対して「変化」を請求しているという、その案配を見て、「新しい試み」というパッケージに包んで諸政策を打ち出しているのではないか。
 まあ、「新しい」という言葉にも範囲があるから、嘘ではないし、温故知新という言葉もあるので、「新しい」と言って相違ないのかもしれないけれど。

 それでも、俺が思うに、優秀な政治家の人達は、世論や有権者なるものが自民党に対して「変化」を求めるその心根の性質など、遠にお見通しである気がする。
 勿論、口に出しては言わないだろうけど。
 大衆の方もあんまり餓鬼のような振る舞いを続けていると、本当マジで恥ずかしいと思うよ。



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Janre: 政治・経済

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天皇誕生日の次の日がクリスマスイヴであることについての考察 

 今日は12月23日、天皇誕生日だ。

 実際の所、この12月23日の次の日が、24日のクリスマスイヴであり、25日がクリスマスであるという並びは物凄い物がある、と思わないだろうか。
 つまり、天皇の誕生日である23日はこれといって意識されず素通りされ、イエス・キリストの誕生日を祝う24、25日に、世の中全体が沸くという、ある種集団狂気のような状態を、日にちが並ぶ事によって、あたかも指示棒でまざまざと指摘されているような形になっているということを。

 いや、ここでは別に、「天皇誕生日を祝わない日本国民はケシカラン!」というような説教を垂れたいのではない。
 誰が画策したというはずもないのに、「日にちが並んでいる」というこの奇跡的な状態が、我々日本人に対して皮肉を発しているという面白さについて、述べているのである。
 当たり前だけど、12月23日が天皇誕生日になったのは、平成に入ってからであり、つまり、平成に入った途端、日本国民への痛烈な皮肉が、まざまざと浮き出た形になっているのだ。

 勿論、日本人は『イエス・キリストの誕生日』としてクリスマスに騒いでいるわけではないし、そもそもイエス・キリストに対して尊崇の念の欠片でも持っている日本人など、探す方が難しい。
 俺なんて子供の頃は、「クリスマスっていうのはサンタクロースの日なんだ」と思ってたぜ。
 また、「きよしこの夜」を歌う日本人は、「処女が子を産む神話」に心震わせているわけではない。つーか、俺ら日本人がそんなもの信じる義理なんていないし。(俺がドイツ人やアメリカ人だったら信仰するし、信仰しませんなんてのたまう同国民がいたらぶっ飛ばしたいとおもうけどね)
 というか、「ああ、今日は聖母マリアが処女なのにキリストを産んだという、聖なる日だなあ」と感じ入って歌うものだということすら知らない人の方が多いのだ。
 俺は子供の頃、「きよし君という男の子の夜」という朗らかな歌だと思っていた事を、ここで白状する。

 つまり、我々にとってのイエス・キリストというのは、「存在したかしなかったか良くわからない人だけど、キリスト教というよその幾つかの国々の国体の根幹を成している宗教の教祖様ということになっている大昔の人」としか言えない。外人が彼を大切に思う気持ちは尊重するけど、俺自身はキリスト教文化圏に属しているワケでもないので、イエス・キリストに対してただの一ミリも尊敬していないし、そもそも興味がない。そりゃ当たり前である。


 だがーーというか、だからこそ、ワケが分からんとは思わないか。

 いわば、日本人にとってのクリスマスは、「何の根拠もなく、ただ皆が騒いでいるから、騒いでいる」というだけの話なのだ。
 ちょっと冷静になって考えてみれば、完璧におかしい。ワケが分からないのだ。

 よく、「日本の神道は多神教でなんでも宗教を受け入れられるから」みたいな論を聞くけれど、それも明らかな欺瞞だ。
 だって、別に仏教のように宗教的な感覚として組み込み、受け入れているワケではなく、ただなんとなく騒いでいるだけなんだから。それに、仏教は、かなり国策として受け入れた面が強いのである。
 また、キリスト教の一神教は、他の神と併存できる観念ではないからこそ、唯一絶対神なのだ。
 多神教っちゅうのは、そういった観念までスイスイ便利に呑み込めるほど万能なはずはないなどということは、論理を考えれば常識として分かるはずである。


 俺が物心ついた時は、当然平成であったから、23日が祝日で、その次の24、25日が祝日でないーーけれども騒ぐのは24日という所へ、子供ながらにヘンテコな感じを抱いていたものである。

 いわんや、平成元年を、大人の状態で通過した人々は、その年の23、24、25日を、どのような心持ちでだったのだろうか。
 やはり、少しドキリとしたんではなかろうか。
 自分らは、何をやっているのだろうか、と。
 口に出す者がいなかったのは容易に想像できるが、皆心の中では一抹の疑問が沸き上がっていたーーのであって欲しい。

 それとも、天皇の誕生日という国家的な行事よりも、世界統一宗教たるキリスト教の祭事を受け入れることのできる我々日本人は、なんて地球規模的で、民主的なのだろうとでも、感じ入っていたのであろうか。

 いや、そうじゃないな。

 きっと、誰も何も、そんなことは欠片も頭に上ることなく、ただ、息吸って、吐いて、性なる夜に興じて、頭空っぽにしていたのだろう。
 じゃないと、少なくとも我々にとっては空っぽの祭事であるクリスマスーーいや、クリスマスイヴに、ここまでの熱狂をもって、キラキラと、ガヤガヤと、囂しく、阿呆のように、国民が一斉に前の日の天皇誕生日を素通りするほど、熱中するはずなどないのである。



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Janre: 政治・経済

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橋本維新の否定と、民主主義を自発的に制限することについての推奨 

 俺は、橋本維新の会を否定する。
 それは、維新の会の唯一にして最大の理念である『中央集権の打破』という基本理念が、根本的にガキであるからだ。


 中央権力というのは、現代の人間の中で最大の集団である『国家』の政治権力のことである。
 我々は、国家という最大の単位で纏まって、中央に権力を集中させているからこそ、経済力、軍事力、外交力、貨幣力、社会資本力などなどを『強大なモノ』にしているのだ。
 我々が享受しているありとあらゆる権利は、その『強大なモノ』の上に成り立っているのである。また逆に、『強大なモノ』は、国家としての纏まりによって担保されているという相互依存関係があるのだ。
 そして、それを『国力』というのである。

 これはある種の常識だ。

 だけど、その常識を嫌がる者が必ずいて、その受け皿が民主党から維新の会へ移っているにも関わらず、今回の衆議院議員選挙ですら比例だけで40もの議席を与えてしまう、日本国民の盲目さを懸念するのである。
 もっと具体的に言えば、七月の参議院選挙に邪悪なる世論の熱風が吹くとすれば、維新の会へ吹くだろうという悪寒だ。

 橋本氏的に言えば『中央集権の打破』、石原氏的に言えば『自民党と官僚政治の打破』、こういった「既存の政府権力への反抗」は、退屈している浮動票の心を打つからである。
 もっと明快に言ってしまえば、大衆はアナーキズム(反政府)の甘露に酔っぱらうものだ、ということだ。

 つまり、既存の中央権力である『自民党』と『高級官僚』は悪い奴らで、それを懲らしめて権限を奪わねばならないーーという、思想経路なわけだが、だけどこれって、ベタな時代劇とかヒーロー物とか漫画とか、そういう物語のテンプレートを、現実にまで適応してしまっている、とてもガキな思考回路じゃあないか?
 大の大人の人の考えとは思えないのである。

 つーか、彼ら維新が本気で言っているのか、それとも、日本国民にあまりにもガキが多いからそのガキさに合わせて物語性を演じて人気取りをしているのか、どちらかはなかなか判断が付きにくいというのはあるけれど。



 そもそも、国家があって、その中央に敷かれている権力体制の『既存』なるものは、なるべく変わらないでいてくれた方が良いに決まっているのである。それが、長く続いた体制であればあるほど、なるべく体制を崩さず、変革は少しづつ慎重にやっていかなければならない。何故なら、権力構造が「既存」してくれているということは、その一方で、国家のあらゆる前提がその権力構造の上に成り立っているという事であるからだ。換言すれば、権力が「既存」しているということが、『統治の恩恵』を保持する大前提なのである。

 なにか、権力構造が断続的に「交代」あるいは「変革」された方が、「権力者に縄をつけられる」から、民主的であるみたいな事を考えている人間が非常に多いわけであるが、それを正に『ルソー的な革命思想』と言うのである。
 中央権力構造を、「打破」するのは、その時は「威張っていた奴らが慌てふためく」のを見て、気持ちよくって、民衆は熱を上げて大いに盛り上がるわけであるが、その後に待っているのは無秩序と混乱だ。
 何故なら、今までのあらゆる「前提」が一挙に前提でなくなるからである。

 それを、日本人は、「選挙制度改革の非自民連立」や、「官僚制度と自民党をぶっ壊す小泉改革」や、「政権交代の民主党」で、身を持って体験したばかりではないか。
 既存の中央権力構造を『打破』してお灸を吸えた後、返って民衆がお灸を吸えられるということになっていたのだし、そりゃそうなるに決まっているのである。

 今、去った民主党に恨み節な日本国民であるが、この三年間は「民主党が悪かった」のではなく、「民衆の革命思想が悪かった」のだということを、肝に銘じるべきだ。
 つまり、三年前の致命傷は、「民主党を選んだこと」ではなく、「既存の権力構造である自民党と官僚を打破した事」であったということだ。




 俺が、自民党や官僚を擁護するのは、自民党や官僚による中央権力構造が、「既存の権力」だからである。

 既存の権力を基本的には擁護するという姿勢、態度がなければ、永遠に政権は安定しないし、故に国家が纏まらない。
 何故なら、権力を打ち破った反権力も、権力についた途端に打破される対象になるからだ。
 打破、打破、打破、で終わり無き革命の業火に焼かれ続けるのがオチなのである。

 今、打破せねばならぬのは、むしろ「権力の打破を主導するカリスマに沸く」という日本国民に根付いてしまった少年チックな習性の方ではなかろうか。



 とは言え、その克服は多くの国、数ある歴史が、『困難である』という事を語っている。

 ただ、七月の参議院選挙も「投票率が低ければ、まともな結果が得られるのではないか」と考えている。
 つまり、世論に何か妖しげな反権力の風が巻き起こらなければ、浮動票を形成する市民達の退屈しのぎにならず、彼らは投票に行かない。家で寝ているだろう。
 逆説的に言えば、彼らが家で寝ていてくれれば、狂熱を含んだ選挙結果は生じないということだ。
 だから、俺は声を大にして言いたい。
「選挙には、無理して行かなくて良い! 」
 と。
「選挙にいかなきゃ、何かイケない気がする」
 などとせっつかれる必要はない。
 無理矢理『国政に対する自分の意見』などというものを発揮しようとして、結局反権力的大衆世論に寄り添うーーのであれば、迷惑なので家で寝ていてもらいたい。
 どうか、
「何か今回の選挙は騒ぐ争点がないから、行かなくていいや」
 と、思っていて欲しい。(『争点』など、全体へ目を向けなくさせるだけで、百害あって一理なしだし)
 切なる願いである。

 昨今、「投票率は高くなければならない」という風潮があるが、それは間違っている。それは、「より多くの人間の多数決の方が正しい意見になる」という謝った前提の上にしか成り立たないからだ。



 投票率を低く抑える事ができければ、七月には自民党が勝つだろう。
 逆に、投票率が高ければ、橋本維新に勝つ可能性が出る。

 何故なら、本来家で寝ていた人々が、わざわざ投票へ足を運ぼうとする理由は、世に「権力へのリンチ」の風が吹いて、「退屈しのぎになりそうだと思って加わろうとする」というもの以外にあり得ないからである。

 そういった、本来家で寝ていた人、つまり郵政に酔った後に政権交代に酔った種類の人達に対しては、「選挙なんて、行かなくていいさ。面倒だろ? 」と優しく囁いてやるのが吉だ。
 「良心的兵役拒否」というものがあったくらいなのだから、「良心的選挙権拒否」というものを提唱してもバチは当たらないだろう。


 今必要なのは多数決ではなく、逆に「民主主義を自発的に制限する」事なのである。



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Janre: 政治・経済

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衆議院および参議院の現状勢力についての考察 

 衆議院選挙が終わった。

 というわけで現状の勢力と、今後の展開について俺なりにまとめてみる。


 まず前提条件から。


 国会っつーのは、法律を多数決で決める代表者が集まる所だ。

 その多数決をやる場所には衆議院と参議院と二院ある。

 いっぺんに決めて、間違ったら大変だからだ。

 じゃあ、その二院の関係はどうなっているのか。


 法案が採決されるには、二通りの経路がある。

一、『衆院で過半数』――『参院で過半数』
二、『衆院で過半数』――『参院で否決』――『衆議院で三分の二』



 その上に、国会にはもう一つの大きな側面があって、政治、行政の長――つまり『内閣総理大臣』を多数決で決める場所でもある。

 これを、議員内閣制度という。

 つまり、法律を決める多数決をやる代表者『国会議員』が、行政の長である『内閣総理大臣』を指名するという制度である。

 ここをきちんと分けて考えなければならない。

 国会議員と内閣は役割が違うのだ。

 だが、「法律を立てる」のと、「内閣を形成して官僚を使い、政治を行う」ということは、互いに密接な関わりがあるので、法案の是非の多数決に参加する『国会議員』の中で選んだ方が安定的な運営をできるだろうってなことで、こういう制度になっているのである。

(プラス、何の政治的素地の無い素人達がワケもわからず多数決で選ぶよりは、国会議員が国会議員の中から選ぶほうがマシなのは言うまでもない)


 さて、とはいうものの、国会議員達はどうやって『内閣総理大臣』を選ぶのか。

 それは、「衆議院の過半数に指名された議員」というlことになっている。

 参議院はその多数決に加わらない。

 つまり、衆議院の過半数を得た政党の党首が、内閣総理大臣に指名され、その指名をご尊重くださる天皇が御名御璽を賜ることになるのだ。


 尚、

 衆議院議員は総数で480人。 過半数は240人であり、三分の二は320人である。
 参議院議員は総数で242人。 (現在での)過半数は118人「=122-1(議長)-3(欠員六÷二)」

 である。



 

 以上を踏まえた上で、現状を把握しよう。


 今回の衆議院選挙で、自民党で単独過半数以上の294。

 内閣総理大臣は、衆議院の過半数で指名されるので、天皇は自民党の党首、安倍晋三氏をご任命なさるであろう。

 第二次安倍晋三内閣樹立だ。


 ただ、参議院の自民勢力は83。公明19。あわせて102だから過半数に達していない。ねじれ国会というヤツである。


 しかし、今回の選挙で選ばれた衆議院ではさらに、(公明の31を併せれば)与党で325。三分の二を占めている。
 よって、法案の採決においても『二』の経路をもって、強行に採決を成すことが、理論上は可能である。


 そうなると、「へへー、じゃあ参議院関係ねえじゃん」と言い出す輩がいて、挙句の果てに「参議院いらなくね?」とかアホ丸出しのことをのたまう者すらでてくるわけであるが、それは完璧に間違っている。(アホというのは、理解のできないものは必要ないと考える単細胞さのことをいっている)


 衆議院で三分の二もっていようが、参議院はちょー重要なのだ。


 まず、国会の中には、「国会同意人事」ちゅうのがある。

 これは、内閣が国家の重要な行政機関の役職を任命する時、国会の同意を得ていなければならん、というものだ。日銀総裁とか、公正取引委員会委員長とか、人事院人事官とか、三十幾つかあったと思う。

 この同意は、衆議院、参議院、の両院で必要なのである。


 もし、俺が野党の党首で、参議院の過半数を持っていたとする。

 それで、俺がもうなりふり構わずに兎に角、与党に歯向かってやろうとしたら、誰を指名してきても「駄目だ」といってやることもできる。

 すると、重要な行政機関の役職に空白ができて、内閣は困るわけだ。

 その後に、「人事に同意してもらいたかったら、これこれ云々」というカードに使えるのである。


 勿論、これは、重要な機関の人事をダシに使っているということなので(ある程度の行使は正当だけど)、普通は反発を食らうべきものなのだが、国民がボケーっとしていると、別にそんな所まで見ていなかったりする。

 たとえば、参議院過半数を得た野党がひたすら人事に同意せず、日銀総裁がずっと空白であって、与党側が非常に運営に困っていても、日本国民というやつはわけが分かってねえので、「与党、中央政府をイジメていてカッコいい」という風に思うか、別にそんなことは気にせず、というか知らず、ワイドショーネタで政治家の悪口を言っていて気持ちよくなっているだけである。


 そのあたりにおいて、世論なるものの公正と信義は一切あてにならないのであるから、現在の安倍政権はなるべく三分の二を使わず、参議院でも過半数を得て法案を通す姿勢によって、国会同意人事について纏めていかねばならないという、非常に窮屈で、様々な妥協を余儀なくされるであろうことは明白な状態なのである。


 真に、『政権』たるためには、七月の参議院選挙で過半数をとらねばならない。そうでなければ様々なことが絵に描いた餅だ。


 おそらく、安倍自民党が考えていることは、兎にも角にも『経済』政策だろう。

 主に、金融政策と財政政策という基本的な不況対策を実行すれば、物価下落が収まって景気は基本的に上昇方向へ向かう。

 また「経済政策は、他の政策よりイデオロギスティックな側面が薄くて、野党諸派を説得しやすい」と考えてもいるのだろう。

 そして、経済が立て直されたら、七月の参議院で信を得られるとも考えているのかもしれない。

 衆参のねじれを解消して、そこでようやく、その他の様々な法案を提示していくという流れである。


 ただ、これには、二つ不安要素があると、俺は考える。


 一つは、『経済』も、ほとほとイデオロギスティックなものであるということ。つまり、掲げたケインズ的な政策を嫌う思想の持ち主の反発が、参議院においてどれほど強いか、ということである。金融政策を嫌う者も、財政政策、公共事業を嫌う者も、思想的に根強い。


 二つは、経済で成果を出そうと、国民はまともな政治の恩恵だとは決して思いっこないということである。どう思うかといえば、「民間がんばったから」つまり、「自分のおかげ」と思うに決まっているのである。

 しかも、みんなの嫌いな自民党が政権にあるのだから、これから七ヶ月余り、さんざ罵詈雑言投げかけるに決まっている。

 さらにもう一つ付け加えると、ねじれ国会っちゅうのに国民の感情が慣れて、「自民党に両院で多数を与えていいのか」みたいなバイアスがかかる可能性だってある。(言っとくが、ねじれ国会は通常の状態ではないから『ねじれ』というのだぜ)



 すると、参議院選挙で、自民党が過半数を取れるのか、というのは本当にキワドイ戦いであると思うのだ。


 結論を言えば、本丸は七月だと、訴えたいのである。



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Janre: 政治・経済

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衆議院議員選挙の結果を受けての考察 

 まず一つ言っておきたい。

 俺がとても気に食わねえのは、国民が政治家に対して常に上から目線なことである。

 悪いけど、今回の衆議院選挙で自民党が政権を獲得しえたのは、自民党が前回のあの扱いを受けてもまだ尚、自民党を自民党として続けたからだ。
 もし、前回の衆議院選挙で「こんな滅茶苦茶言う国民どもを相手に政治なんてやってらんねえ」と思って、自民党が自民党をやめてしまっていたら、一体全体どうしてたんだ?

 つーか、俺が自民党だったら、「マジやってらんねえ」と思って、実家帰ってたね。「国会議員まじブラックだわ」とか言って。
 官僚とかはそうだろ。過酷に働いてんのに、国民から罪人のような扱い受けるもんだから、官僚になろうとする奴減ってるっていうじゃん。そりゃそうだよ。こんな餓鬼だらけの国民相手に官僚なんてやってらんねえって、誰だって思うさ。

 だからね、衆院選挙が決して早々に文句言い出す連中がいるけど、まず日本国民が自民党に対してそんな偉そうな事言える立場じゃねえんだよ。
 本来なら「すみません。俺らが間違ってました。自民党さん、どうかまたやって頂けんでしょうか」と土下座して頼み込むべき所である。
 それでも、「そんな事言って、政権取ったらまた悪口言って虐めてくんだろ。嫌だし」と言い返されても、文句言える立場じゃねえのだよ。


 それとね。
 民主党なんだけど、確かに民主党はほんっっっっとにクソっっっったれだったけれどね。
 日本国民に民主党を責め立てる権利なんてねえ。
 民主党というのは、「日本国民を鏡で丸々映したモノ」だからだ。

 つまり、日本国民には民主党がお似合いだったのである。

 だって皆、自民党が嫌いで、官僚、公務員が嫌いで、公共事業が嫌いで、ゼネコンが嫌いで、電力会社が嫌いでーーつまり中央権力が嫌いなんだろ。
 ほら、民主党じゃん。
 まごうことなく、日本国民が民主党そのものなんだよ。
 民主党はその点首尾一貫してたじゃん。
 だって奴らは、中央政権という国家で一番の権力にありながら、三年間、反権力をやり続けてきたんだぜ?
 これは、ある意味根性座ってるよ。『世論』を代表しているよ。(権力が反権力やってて上手く行くわけねえってのは当たり前だけど。)
 でもさ。そういうのが好きで、民主党を選んだわけだろ。
 国民が「反中央権力が好き」って言うもんだから、民主党がそのニーズ(世論)にお答え申し上げてきたわけだ。
 そんでいざ、やらせてみて、ニーズ(世論)通りに民主党が反権力やってんのに、文句を垂れる。
 あれ、おかしいな、と思うわけさ。
 だって国民は、反権力が権力を握って上手く行くはずがない、国家は致命的に傷つくだろうーーというのを覚悟の上で、反権力を望んでいたのだとばかり思っていたからね、俺は。
 なかなか気合いの入った革命市民だなあと恐れ入ったのを覚えているわけだが、実の所、日本国民には覚悟とか気合いとか、そういうのがあったわけじゃなくて、ただ単に、少数の強い物達(自民党、官僚など)を圧倒的大多数でイジメるのが、楽しかったってだけなんだというのが、三年間で分かりました。
 つまり、日本国民というのは、ただただ強いものを僻む、イジメが大好きな、クソッタレ民族に成り下がったのだと、つくづく感じ入ったのである。

 それで良いっつーなら別に良いけど、そういう民族は滅びるのが相場だと思うよ?


 さて、今回の衆議院議員選挙は、結果だけ見れば、「安倍自民党が大勝して、単独過半数を確保する」という、まともなーーというよりは、安倍晋三氏が総裁であるということを含めれば「これ以上にない僥倖」としか言いようがない、堅実な結果に終わった。

 ……が、この格調高い結果が、国民の痛烈な反省と、反権力の自制による、冷静かつ沈着な、大人の態度の獲得によって導き出されたものであるーーとは、言えない。
 ルサンチマンの甘露に浸ってラリってた日本国民どもが、急にそれを克服して、概ね『超人』になれたのだと、万歳を三唱する気にはなれないのである。


 今回、自民党の勝因は明らかに、「小選挙区で大勝ちしたから」ということに他ならない。
 294議席の内の、237議席が小選挙区。比例は57に過ぎないのだから。

 郵政選挙というクソ茶番と比較してみても、比例での弱さは顕著である。
 郵政の時の自民党は、296と、獲得議席はあまり変わらないが、小選挙区で219、比例ではなんと77であった。

 今回の選挙での他党と比較しても、比例は、自民57、維新40、民主30と、ほとんど差が無い。

 つまり、「国民各々が、個々人で考えて政党を選択する」という『大衆世論』的な要素が、発揮される場面においては、「既存の権力を自発的に選び取る」という慎重で大人な態度を持っていたとは決して言えねえのである。
 特に顕著なのは、維新である。維新での比例の獲得数を見て、俺はほんっっっっとうに、日本国民という奴らはこの期に及んで何の自重も、反省もしない、烏合の衆の寄り集まりなのではないかと疑う他なかった。

 だけど、この反権力の病理は、なにも日本国民に限ったことではない、と擁護することもできなくない。
 何故なら、「国民各々が、個々人で考えて政党を選択する」なんてもんが、上手く行くはずなどありはしないからである。
 世論なんてものが、正しいことを言っていた例など、あっただろうか。フランス革命の昔から、もっと言えば、古代アテネ折りより、民主主義的世論が正しかったことなど無いのである。
 つまり、民主主義がある種フランス革命思想的、原理的、直接的に発揮される場合においては、それは当然ながら邪悪なる結果を生み出すものである、ということだ。そして、現在の制度にそれが最も顕著に反映されるのが『比例代表』である。

 比例代表は本当にろくな動きをしない。
 郵政つったら小泉に寄って、政権交代つったら民主に寄って、そんで今回は橋本維新に寄るわけだ。
 まさに右へ左へ、狂った羅針盤のよう。

 これだけ顕著に現れているのだから、「世論などというものは間違っているに決まっている」ということと、「その間違った世論を国政へ直接的に取り込む部分においては、当然邪悪な間違いが含まれている」ということを、いい加減に認めなければならない。
 
 別に、比例を止めろとは言わないけれど、『世論』は間違っているに決まっているという当たり前の大前提を世論自体がわきまえるか否かによって、ずいぶんと世の流れは正常な物になると思うぜ。
 まあ、それが出来たら、誰も『世論』などという化け物に苦労はしないわけではあるが。

 さて、かように劣悪な比例に対して、選挙区では自民が大勝ちに大勝ちを重ねたわけであるが、それについても、日本国民の世論がが慎重で大人の立場を発揮できたからーーというわけでは無い。

 自民が選挙区で大勝ち出来たのは、以下の六点であると考える。

一、選挙区というものの性質が、地域のシガラミ、既得権益、権益の代表者の代表者の選出という性質を帯びているため、『世論』というものが比例に比べれば反映されずに済むから。そういった中で、素人考えの政策論ではなく「候補者の経歴、実績、家柄、人柄」といった、生活民の常識に基づいた観点によって投票する人が、比例に比べれば多くなるからである。

二、小選挙区だから。小選挙区は、各々の選挙区で、一人しか選出されない。よって僅差でも勝敗が分かれる。全体の得票率が大して変わらなくても、第一党になる政党が大勝ちしやすい。

三、投票率が低かったから。『一』の層は投票に行くものである。対して、投票率を左右するのは浮動票だ。選挙区であっても、地域のシガラミへの帰属が薄い者、つまり浮動票を形成する者達は、個々人が政策的な事についての思考を発揮するが故に、結局大衆世論に寄り添う。その層が、今回あまり投票に行かなかったのである。
(非常に良い傾向だと思う。投票率が高ければ高いほど良いみたいな風潮があるが、それは「より多数で採決した方が正解に近づく」という前提がなければ成り立たないが故に、間違っている。わけ分かんねえ奴には投票しないでいてくれた方がマシに決まってるのだ)

四、世論の熱風が吹かなかったから。そもそも、『三』の理由がこれである。非自民選挙制度改革とか、郵政とか、政権交代とか、「なにやら楽しそうだ。うひぇっひぇ」とアホを魅了するような材料を、マスコミが主権者たる有権者様へ提示できなかったからである。(マスコミは、主権者たる国民様の食指を動かすような、適切な遊び道具を用意することだけが仕事だというのに、怠慢も良いところではないか!)

五、民主党が曲がりなりとも『中央権力』のパッケージに包まれていたから。今まで、民主党が担ってきたのは、「反権力」というお遊びの受け皿であったという役割である。しかし、今回の与党、つまり「権力」の座にいるのは、制度的には民主党であった。そうなると、民衆の反権力の矛先が、多少なりとも民主党へ向かうのである。(本当に鋭い反権力な輩は、自民党と官僚を権力と見なしていたと思うが)

六、自民党に組織力があったから。一から四の状態の中、選挙区で勝ち上がるものは、政党の選挙に対する対策、組織力、コネ、根回しという、『世論』などよりは遙かにまともなファクターの強い者達である。他党に、それだけの歴史と経験を踏まえて選挙戦に臨むことのできる党は、共産党以外にない。


 以上の六点により、自民党が大勝せしめたっつーことは、「国民世論」なるものが今回の結果に寄与したところは極めて少ないということである。
 というより、「国民世論」が静かだったから、変な横風を吹かなかったから、自民党の自力をもって、全体としてまともな結果へ収束していったに過ぎないのだ。


 日本国民の反権力的、革命市民的病理は、まだまだ深刻なものがある。その証拠が維新の比例獲得数に顕れている。(もっと言えば、大阪府民からは選挙権を剥奪すべきなのではと、真剣に問題提起しても良いかもしれない)

 日本国民の病理が未だ克服されていないこの状況で、七月の参議院選挙まで、国民が安倍自民党の政権に対して、餓鬼のごとくギャーギャー文句言わないわけはないと、予測する。
 つまり、このまま行けば、七月の参議院選挙で、民主主義を原理的、直接的に発揮した『大衆世論』というものが再び、邪悪で禍々しい威容を讃えて顔を出すに違いないということだ。

 大勝して自公で三分の二と言っても、参議院は滅茶苦茶重要なのだ。というより、真の本番は七月の参議院選挙である。

 俺は心から願う。
 来年七月まで、どうか原理的民主主義の邪悪な顔たる『大衆世論』には、静かなままでいてもらいたいものだ、と。




 最後にもう一つ。
 三年前の悪夢を振り返ってみれば、やはりめでたい。嬉しい。有り難い。
 多くの政治家が、大衆世論の犠牲になっても挫けずいてくれたことに、感謝する他ない。きっと俺が政治家なら辞めている。
 そして、大衆と世論という化け物に無惨にも捻り殺されてしまった故中川昭一先生の奮闘は、決して無駄ではなかったのであると声を大にして叫ぶと共に、ご存命くださっていたらどれだけ素晴らしいことであったかと嘆かざるをえないのである。



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反原発運動が嫌いです 

 俺は、反原発運動というものが、大っっっ嫌いである。

 家庭をもった中年が、年齢に応じた堅牢さを身に着けようとするでもなく、『気持ちは若いままよ。自分らしさを探さなきゃ』みたいなノリで羞恥心もなくケバケバシい格好に興じて、自分だけは若作りできていると思っているーーという様と、同じくらい嫌いだ。


 原子力発電所というのは言うまでもなく、「放射能を発射するための装置」ではなく、「電力を発するための装置」である。
 電力とは、エネルギーだ。
 エネルギーを起こすには、資源が必要である。
 つまり、エネルギー問題とは、資源の確保の問題と同義だ。

 決して忘れてはならぬこととして、資源は『金さえ払えばいつでも手に入る』ものではないということがある。
 例えば、今俺がなかなかの金持ちだったとして、事業を興し、石油を買おうと思った。
 おそらく今は、金さえ出せば、俺でも大量の石油を買うことができる。
 しかし、何故、俺が石油を買うことが出来るかと言えば、俺が『日本人』であり、日本国政府が関連するあらゆる外国政府と話をつけて、運輸ルートの安全を軍事的に確保して、三菱などの巨大民間企業の船がホルムズ海峡を渡って他国の海域を渡り、石油コンビナート企業が大量に石油を備蓄しているーーから買えるのである。
 俺がもし無国籍で、単身UAEかなんかに乗り込んで、ドル札束をドカリと積み上げて大量の石油を買えるのかと言えば、買えないのである。
 或いは、買ったとしても、無国籍者では、その後石油をどうすればよいのか。意味がない。

 つまり、そもそも外国からの輸出入というものは、個々人がドルさえ払えば、「何処の国に帰属していようがいつでも取引可能」というものではないーーという大前提を、決して忘れてはならないということだ。国家とその中央政府が存在しているから、あらゆる輸出入に意味が生じ、可能になるのだ。

 さらに言えば、国家を代表する中央政府であっても、「金さえ払えばいつでも取引可能」なものなど、存在しない。

 とりわけ、『資源』と『食料』『水』などの、「無くなれば、人間が生きて行けなくなるもの」についての輸出入は、他の代替可能なモノやサービスと、同列ではない。
 当たり前である。無きゃ死ぬのであるから。
 無きゃ死ぬものの量が減った時でも、「高い金さえ払えば買える」と思う奴はいないだろう。無きゃ死ぬものの量が減ったら、「売ってくれない」に決まっているのである。
 また、量が減っていなくても、無きゃ死ぬものについて輸入しなければならない立場は、それなりに弱いのだ。

 その弱い立場を、個々人では挽回することができないから、国家という大きな単位で、その中央政府が権威と権力によって資源を確保しにかかるのである。

 資源という社会の根幹を成す物については、当然、国家の纏まりごとに中央政府がその軍事力と外交力を背景に確保するものに決まっている。どんな資本主義、市場経済至上主義の社会でも、資源の点では国家において社会主義的、計画経済的なのだ。繰り返すが、無きゃ死ぬので、当たり前である。
 個々の民間企業が単独に、イラクへ行って適量の石油を買ったり、インドネシアに行って天然ガスを買ったりーーなどという性質の物ではないのだ。
 
 つまり、資源、エネルギー政策というものは、国家の枠組みを代表して、中央政府がその根幹を一手に引き受けざるを得ない、最たるものなのである。


 さて、その中央政府として、自分がエネルギー政策の責任者だったとしよう。そして、国家にエネルギーの安定供給が出来なくなったら首を括らねばならない、という条件もつけておこうか。(実際、政府関係者はそのくらいのプレッシャーの中で働いているものである)

 そうしたら、まず考えることは、「余所の国が資源を輸入してくれなくなったらマズい」に決まっている。
 だって資源は、究極的にはいくら金(ドル)を出しても、相手が売りたくないと言ったら、買えないのだから。
 その危険性をどうやって軽減することが出来るかが、最大の問題である。リスクが高ければ高いほど、外国に弱みを握られているということになる。弱みを握られていたら、国家として外人の言うことを聞かなきゃならん、という危険性も高まるのだ。

 最も理想的なのは、自国産エネルギー資源で百パーセント賄うということである。
 しかし、出来ればそれに越したことはないが、まだ実用化していない自国産エネルギーをあてにするなど、責任者としてできるはずがない。
 だって、様々な自国産エネルギーの研究開発は、成功するかもしれないけれど、しないかもしれないのだ。成功したとしても、微々たるエネルギーしか供給できないかもしれない。
 これにピンとこない人は、「首を括るかもしれないけれど、括らないかもしれない」という状況に、自分が飛び込めるかをよく考えてもらいたいものだ。安定供給できなかったら、首を括るんだぜ?

 そうなると、「頼る資源をなるべく手広くやる」ということしか、現状での危険性を減らす手だてはない。
 つまり、もし「石油を買えない」という状態になった時、石油で百パーセントの電力を供給していたら、国家は瀕死である。
 だが、石油で20パーセントだったら、なんとかなる。
 その前提があれば、「てめえ、言うこと聞かないと、石油を売らねえぞ」と何処かの国のメジャーが言ってきても一応の対抗手段があるだろう。もっと言えば、そういう前提があれば、資源での恫喝を予め牽制しておくことができるのだ。

 現在、現実的に纏まった量の電力を安定的に発電できる資源は、石油、天然ガス、石炭などの火力発電と、ウランの原子力だけである。
 「ウランで頼っていた分」を無くすということは、その分、石油、天然ガス、石炭に頼る所を大きくするという事である。
 たかが一つじゃないか、と思うかもしれないが、この一つ減ることが割合として、極めて脆弱な資源運営を生み出すのだ。
 頼る資源が、四つあれば、それぞれ多くとも二割から三割を占めていればよい。
 しかし、三つなら、それぞれが三割から四割を占めねばならんということになる。

 さらに言えば、『石油』に頼る所を大きくするのは、非常に危険である。我々は、何度か石油で非常に痛い目を見たではないか。

 逆に、原子力は、「原子力発電を運営する技術」を持つ国が火力よりも少ないから、ウランの需要は石油よりも低いという状況にある。つまり、石油よりは買い手に有利な状況が生まれやすいということに他ならない。


 よって、「輸入による弱みを大きくする危険性」と、「原子力発電所に事故が起きる微細な可能性を持つ」とでは、比較にならないほど後者の方がマシなのは明々白々である。
 自分が、日本国政府の責任者だったとして考えれば分からんもんだろうか。
 当然後者を選ばなければ、指導者失格に決まっている。


 だが、この『原子力発電所』には、『軍事基地』と同じような問題をはらんでいる。
 つまり、建っている場所に近い国民が決してゼロではないリスクを背負うーーという問題だ。
 それでも、『軍事基地』が国家全体のために無くてはならないのと同じように、原子力発電所も国家全体のために無くてはならないのだ。
 よって、中央政府は、補償やらの妥協点を探って、なんとか地域住民の了承してもらう『政治力』を発揮せねばならんのである。
 何故なら、何処かに建てねばならない故に、誰かが背負わねばならないリスクだからである。
 何処も彼処も誰もかもダメでは、軍事基地も、原子力発電所も、永遠に建たない。

 実際、政治家や官僚は、軍事基地、ダム、空港、原子力発電所、といったものにおいては、苦労して地域住民と交渉をしているのである。
 勿論、その苦労は、必須のものだ。地域住民の了承無しに勝手にやったら、それは長い日本国の歴史の下にある公正と信義に反するからである。
 それでも、国家全体の為に必要な施設は、国内の何処かに建てねばならない故に、誰かにリスクを負ってもらうのだ。
 そして、政府と折り合いと妥協点を付け、国家全体の為にとリスクをとる地域住民が存在するから、国家が成り立っているのである。


 俺が大っっっっ嫌いなのは、それに横から口を出す乞食共である。
「彼らだけがリスクを負うなんて、政府はヒトデナシだ」
 と、そうやって気持ちよくなる輩どものことだ。

 多少インテリぶって、人権やらなんやらのたまう奴らがでるけれど、何故こんなところで『人権』という言葉が出てくるかと言えば、やはり『人権』をその元々の意味として「民が政府に請求する根拠」として考えているからだろう。

 政府は、神的な力を持った何か……ではないのである。
 政府は、「神として人間の権利を保障する」ためではなく、国家国民の代表としてあるのだ。

 政府が政府の役割をこなすのに、「国家の為に成すことには反抗すべし」という態度の輩が邪魔するのは、ただ単にそれが気持ちが良いからである。
 気持ちよく、「原発反対」「基地反対」「空港反対」とギャアギャア騒ぎ立てているけれど、心の奥では、「政府は原発も、基地も取り払うことはない」と決めつけているのだ。
 というか、政府が政府らしく、「原発も基地も作るのだろう」という前提があるからこそ、心置きなく反対運動に興じる事ができるのである。本当に、全て取りやめてしまったら大変だーーということくらい、反対運動している連中も分かっているに決まっているのだ。
 これは、テレビ、新聞も同じである。というか、テレビ、新聞が反原発運動の急先鋒といったところか。
 彼らは、決して政府が政府らしくなくなるという事などあり得ないという前提で、政府的なるものへの嫌がらせを続けているのだから。



 衆議院選挙が近いわけであるが、候補者、政党の皆様には是非、「反原発運動に気持ちよくなっている連中」に汲みせず、政府然とした政策を国民に訴えてもらいたいものだ。
 そうでなければ、反原発運動に興じて気持ちよくなっている連中が前提としていた「やめないに決まっている」ということすら、前提じゃなくなってしまうだろうから。



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TPPを思想的に全否定する 

 数年前か。TPPの話が出たてで、これが

「複数の国が寄り集まって、関税とかが原則ゼロの自由貿易圏を作る」

 という話であるということぐらいしか、よく分からなかった時から、俺は直感的にこの話が出鱈目であると確信していた。
 それは、ここからにじみ出ている思想的な態度が、途方もなく間違っているからである。
 その間違った態度とは、

『経済であれば、人は国境を越えて一緒になれるし、なった方が良い』

 という思想的態度だ。
 これは、間違っているのである。断言する。
 経済は、国境に密接に関わっているのであり、(ある程度は開いていても良いが)ある程度閉じなければ、国境そのものの存在自体の問題になってくるのは、常識的に考えて至極当然のことだ。

 何故、こんなTPPなどという非常識な話が世を跋扈して憚らないのか……それは、その奥に『進歩主義』と『反国家主義(個人主義)』が潜んでいるからだと、俺は推察するものである。


 進歩主義ーーというのは、『人類は時代が進めば進むほど、人類として進歩していく』という思想である。
 これは、幼稚園生や小学生が夢想する理想としてはロマンがあって結構であるが、現実的には絶対にあり得ない話だ。

 人類は決して進歩しないし、また、退歩もしないのである。

 何故なら、人類は人類として歴史を共有していない、世界観を共有していない、宗教観を共有していない、倫理、道徳を共有していない、言語を共有していない、観念、概念を共有していない、文化を共有していない、偏見、先入観を共有していないーーといったように、『人類』という塊で生きてなどいないからだ。そして、人類という塊でそれらを共有するなどということは未来永劫出来るはずなどないし、もし仮に出来たとしても、そんな単一的でモノクロな世界など悲劇以外の何物でもない。
 我々が、『進歩』のようなものを(幻であっても)感じ取っていたとすれば、それは文明が進歩しているのである。つまり、現在で言えば、『国家』だ。人類そのものが進歩するなどというのは、人類が生物的に進化(エボリューション)して、その習性自体が変化した時以外あり得ない。
 ただ、もう一つ付け加えれば、文明は進歩もすれば、退歩もするのであるが……

 こんなに明瞭に、確かに、明らかに、人間は人間の習性として、「文明、共同体の塊として進歩、退歩をしている」のに、何故、進歩主義などというものが流行って、人々が無意識にそれを妄信するに至っているのか。

 それをもう少し掘り下げれば、そこには数値的合理への飽くなき信仰というものがあるのだと考える。
 例えば、『物』は、数や量で数値化できる。そこに、『人間』というものも一匹二匹と数えることができる。
 その数値に基づいて、複雑すぎる『社会』を計算可能なところまで単純化し(モデリング)、数学的に何らかの経済的合理を計算する学問が経済学だ。
 勿論、数値的合理それ自体は、全く無用なものであるとは決して言えない。
 だが、その数値的合理を成立させる為には、国家の枠組みと中央政府の存在による『統治の恩恵』の諸々が存在するということが大前提であることを、全く認めようとしない者がいる所に問題があるのだ。

 言い方を変えれば、TPPを推奨する者にとって、経済の数値的合理は国家の枠組みや中央政府の統治というものが薄くても、成立し得ると考えているのである。
 彼らは決して、国家の枠組みや中央政府が存在することによって、経済活動に前提条件が敷かれているこの状態を、『統治の恩恵』だとは思っていない。おそらく、多くは国家も政府もなくたって人間に備わっている当たり前の権利であるとでも考えているのではあるまいか。
 つまり、『基本的人権』というものをある種フランス革命の流れを汲むイデオロギーとして原理的に信仰しているのである。

 基本的人権の『根拠』は、『人間の理性』への信仰であった。

「人間には博愛的な理性があるから、国家、政府なんかなくとも人間は理性的な生活ができる。その政府なんて無くとも元々あった権利の水準が『人権』である。政府は、人民に無政府状態でも存在する人権を保証する義務がある」

 というのが、人権の思想である。いや、本当に。
 普通に考えて、国家と政府がなければ無秩序と混乱へ放り出されるに決まっているということくらい、高校生だって分かりそうなものだが。

 常識的な日本人なら、『人権』という言葉を聞いて、「互いに人間を尊重しあいましょう」くらいの意味に捉えているはずだし、それがまっとうな生活民の反応であると思う。

 が、事実、『人権』の源流には、単なる『反国家』或いは『反政府』の思想的根拠としての、「政府への請求の根拠」であったのだ。


 ここに共通するのは、「国家の枠組みが歴史的に定義されていること」と、「中央政府が統治をしていること」の、明らかに甚大かつ膨大な『恩恵』を、狂おしいほど過剰に少なく少なく見積もっていこうとする態度である。
 その、「狂おしいほど過剰に少なく少なく見積もる」根拠が、『博愛的な理性』か『経済合理的な理性』であるかの違いだけだ。
 おもしろいことに、その目的すら同一で、
「国家、政府から、自由になりたい」
 である。


 だが、常識的な二十歳以上の大人の生活民であれば、自分の帰属するありとあらゆる集団から、自分がどれほどの恩恵を受けているか、そして「歴史、倫理、法律、道徳、偏見、先入観、既得権益」というようなものによって、いかに経済活動の前提が支えられているか、そのくらいは分かるはずだ。
 そして、それらが『国境』と『中央政府の統治権限』を薄めてしまって、保つことの出来るものではないことも、実は皆認めているはずなのである。ただ、そんな事言うと『進歩的、開明的でない』と思われてしまう気がして、言えない、或いは思わないようにしているのだろう。
 ただ、俺から見たら、何故「進歩的で、開明的でなければならないのか」と思う。いいじゃん、前時代的で、保守的で。より新しい時代の方が正しいなどという保証はどこにもないのだから。

 国家に基づいて、中央政府が権威と権限をもって、国境をあらゆる面で保守し、産業の多様性を保守し、内的にも、外的にも、我々日本人の公正をもって適正な『不自由』を強制するからこそ、その前提の秩序の上で『自由な市場競争』が成り立つのである。



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貨幣についての考察 

 現在我々が使用している紙幣及び貨幣――日本円は、何故日本円として使う事が出来るのか。
 そんな事を、小学生くらいの時に誰だって疑問に思ったことがあるだろう。

 だって、例えば一万円札は、一万円札自体として何か用途があるのかと言えば、ほとんどないのである。鼻紙として使うにも、不衛生にすぎるくらいだ。
 それでも、一万円を差し出せば良い飯が食えるし、もっと集めたら車や土地や家だって買える。円のために、額に汗して働いて、預金残高が増えれば胸が熱くなるのだ。
 まことに複雑怪奇ではあるまいか。

「日本円は、日本銀行の借用証書である」
 という言葉を聞いた事があるだろう。
 それは確かにそうなのだけれど、にわかには理解しがたいものだ。
 何故かと言えば、その発行した借用証書で何を借用しているのか、よく分からないからである。まさか円で円を借りるという理屈が通るはずがない。

 昔は、金(ゴールド)を借りているという建前があった。円を日本銀行へ持って行けば、金に換えてもらえるというアレだ。
 金本位制というヤツである。

 だが、たとえ金本位制度の中でも、人々は「よし、この『円』というヤツはこれくらいの金に交換できるものだからこれくらいの価値のある物だ」という風に考えて、円を使っていたのかといえば、決してそんなはずはない。
 それは、『円』であるからこそ円の価値を思っていたはずだし、もし、円の価値が「金に換えられるから」という所に真に依拠していたのならば、人々は円ではなく、金そのものを持つはずだからだ。
 例えば、もし、俺が金鉱を掘り当て、ほとんど無尽蔵の金を保有したとして、『α』という「本券一枚、金……グラムにて交換可」などと書かれた判子入りの証書を流通させたら、日本政府から独立して日本の紙幣流通を支配できるか。
 出来るわけはないのである。
 何故なら、例えば俺が、証書αをもって、文鎮と交換したとする。その文鎮と交換してくれた人は、すぐに俺の所へ来て、金と交換してくれと要求するに決まっている。


 そもそも、金貨や銀貨、銅貨まで遡っても、貨幣の価値は、金や銀や銅のそのものの価値より高いものであった。

 ある国が金貨Xを鋳造したとして、金貨Xは一枚百グラムの金を使っていたとする。すると、金百グラムと交換できる物と、金貨X一枚で交換できる物では、後者の方が高い価値となるものなのである。
 当たり前だけど、そうでなければ、『偽金』など意味を成さないのだ。
 だって、百グラムの金を持っていて、それを『金貨』という形に偽装するとより価値の高いものになるからこそ、偽金を作る犯罪が成り立っていたのだから。

 つまり、貨幣は、そもそも金(ゴールド)そのものの価値の反映ではなかったのである。

 では、貨幣は何によって価値なるものを生じ得ているのか。
 結論は実は当たり前で、『感情的信仰』と『流通』だ。
 例えば円は、「大勢の人が円に価値があると思い込んでいて、円によって取引している」からこそ、価値があるのだ。
 つまり、共同体の中での、ある種その紙幣に対する価値の共通な信仰と、大量の数の流通という実体的な現象そのものが、紙幣の価値なのである。

 これは、金貨だろうが、金本位制だろうが、管理通貨制度だろうが、同じである。この点においては、貨幣の材質が紙か金かというだけの違いでしかない。


 ただ、ここでもう一つ疑問が出る。

 何故、「価値がある」という感情を人々に信仰させ、「経済活動においての流通」という実体を形成するというような魔法じみたことが「出来ているのか」という問いである。

 だって、もし俺個人がβという紙幣を発行して、「はい、これは価値のあるものだから、君ら取引に使いなよ」と言っても、絶対に流通なんてしないし、紙幣に対する価値の感情的な信仰も生じない。
 紙幣は、予め、天が一定の範囲内の生活民に対して「これは価値のある紙ですので、皆さん取引に使いましょう」と規定してくれているものなどでもない。
 じゃあ、何の根拠と前提があって、この貨幣という魔法のような実体が維持されているのか。
 答えは実はとても簡単なことだ。


 貨幣の信仰と流通は、『国家』の歴史的枠組みという大前提の中で、その中央政府の権威及び権力を根拠にしている――のである。


 当たり前のことだ。
 中央政府の圧倒的な強さという権威の下に発行する貨幣だからこそ、その統治下の構成員たる国民が共通認識として信仰(信用)をもつのだし、中央政府の行政権が確固としていて巨大な財政支出やルール、規制を強制できる立場にあるからこそ、貨幣を流通させることができるのである。
 つまり、我々が我々の貨幣を使用できるのは、国家と中央政府というものが存在していてくれているが故に享受できている『統治の恩恵』の一つなのである。
 本っ当に、常識で考えて当ったり前の話しではなかろうか。

 しかし、そういうことが嫌いな連中というのは、いつの時代にもいるのだ。そういうこと、というのは、「国家という大前提の枠組み」や、「中央政府の権威と権力」のことである。

 昨今、日本銀行の独立云々という話しを喧しく述べ立てる輩が少なからず存在するが、彼らは何をもってそういう事を言うかといえば、『中央政府が嫌い』なのである。
 中央政府、もっと言えば「予算を立てて執行する与党及び官僚という行政府」に、端的に言えば「刷った貨幣にて財政を執行する」という統治裁量を持たせたくない。
 彼らアナーキストの思考回路は、つまりこうである。
「刷った貨幣にて財政を執行する裁量など持たせたら、権力者どもは必ず無尽蔵に貨幣を刷って無駄遣いをしまくるに決まってる」
 と。
 もう、そんなに政治家や官僚に統治されるのが嫌いなら、日本から出てけよ――と、まずは言いたくなるというものだ。
 貨幣経済という、中央政府が存在しなければ絶対に存在しない『統治の恩恵』を享受しておきながら、それが「誰かが指導しなくとも当たり前に存在するものだ」という勘違いをして、貨幣経済の根幹たる中央政府へ敵対して権限を取り上げようとする。

 まるで、親の脛をかじっていながら、それが当たり前のことだという勘違いをして、罵声を浴びせかける中学二年生のようだ。
 中学二年生ならばまだ可愛げがあるが、いい大人が中央政府に対してはいまだ反抗期を抜けだせずにいる様は、ある種のグロテスクさすら感じると言わざるをえない。


 さて、もう一度言うが、貨幣の存在は中央政府の権威と権力を源泉としているのである。
 口では「日本銀行の独立云々」と言いながら、真に国家や中央政府から独立してしまって、日本銀行が日本銀行として存続しうるかと言えば、絶対に出来ないことを誰しもが実は分かっている。
 だって、日本銀行は別に歴史的権威の根拠を持っていないし、軍隊の保持諸々の統治権力を持っていない。
 日本円が、「日本のお金ですよ」といって流通しているのは、日本銀行が日本政府に帰属しているからという大前提をまず一つ明確に認識しておかねばならないところだ。
 何故、そんな当たり前の事から言うかといえば、『中央政府嫌い』が度を越して、通貨発行権という国家主権を、「国家からすら独立、分離」させて、「貨幣があたかも天から与えられた前提であるようにする」ということを理想にするイデオロギーが存在するからである。
 あれだけまざまざと大失敗したユーロを、未だに羨ましがる輩が存在すること自体、正気の沙汰ではない。ユーロは、通貨発行権という主権を、国家からすら独立させてしまったという点において明らかな失敗なのである。
 だから、日本銀行の独立を言う者達の中に、日本銀行を日本国や中央政府の帰属からすら独立させた「天からの泉」のようにする空虚な理想を思い描く者がいるのではないかと、疑ってしまうのである。


 続いて、『財金分離』について思う大きな疑問。
 「予算を立て財政を執行する者」と「お金を刷って銀行へ注入する者」は、分けなければならない、というのが財金分離の趣旨である。
 これには一理を認めなければならないとは思うが、そもそも金融緩和策は財政政策の存在無しに取りようがないのではなかろうか。
 単純に考えて、日本国において円を恒常的に使っているということは、その円の量は長期的に増えていかなければならないはずである。何故なら、経済はインフレーションの下でなければ回らないからだ。つまり、何が言いたいかというと、日銀は「円を刷って適正な量、増やしていくのが仕事」だということである。だからこその管理通貨制度だろう。増やさなくていいのなら金本位制で構わなかったはずだ。
 しかし、そもそも日銀が刷ったお金をどのように流通させるか、という所をどう考えているのだろうか。

 自分が日銀になったつもりになって考えてみればよい。
 日銀としてお仕事をして、円を刷ったとする。
 さて、その刷った円を、如何様にして市場に流通させる?
 まさか円を刷るだけ刷って、倉庫にしまっておけば何か事が始まるだなんて非科学的な事を考えたりはできない。

 つまり、誰かに渡して使ってもらわなきゃ、刷ったってどうにもならないのである。
 じゃあ、刷った円を使って流通させるのは誰だ?

 まさか、日銀が刷った円を、日銀自身が何かを消費するために使うだなんて、あり得ない。それこそ、イチお役所機関に甚大すぎる権限を与えることになる。
 或いは、もしある日、日銀マンが俺の家にやってきて、「どうぞ、これ今日刷りたてのお金なので、どうか使ってくださいな」と円を渡しに来たら、そりゃあ俺は嬉しいけれど、隣の家の人は「何故あいつにだけ……」と不満を募らせるに違いない。

 よって、日銀が刷ったお金を、使って市中へ流通させるのは、中央政府の財政でしかあり得ないのだ。

「ただ刷っただけのお金を使えるだなんて政府はズルい」
 とか、眠てぇこと言ってんな。政府は、我々一人一人と同列ではないし、同列であってはならない。
 貨幣は、天から適切な量降って来るものではないし、刷って倉庫においておけば自然と流通するものでもないのだから、仕方ないじゃあないか。そもそももう一度言うが、貨幣は政府の統治があるからこそ、信仰され、流通するものなのであって、つまり神から授けられた前提ではなく、「政府による統治の恩恵」なのである。国家と政府があってくれているから、『円』を使えているのだ。
 つーか、中央政府以外のヤツに、刷った円を手渡しして使わせたら、そっちの方が大問題だなんてことは、常識でわからんもんだろうか。

 勿論、政府に直接、「はい、これが今日刷った分の円でして、どうか使ってくださいまし」と日銀からトラックで円を運んできて、その円を財政を執行する円の一部にあてる――などという泥臭いことはやらない。
 国債を刷るのである。国債を刷って、それを日銀が買う、という建前の上でやるのだ。これで結果的に、「政府権力が刷ったお金を使って流通させる」ということとほとんど同じ事になる。
 または、買いオペレーションである。『買いオペレーション』なんてスマートぶっていても、同じことだ。
 政府が刷った国債を銀行が買って、その銀行から日銀が国債を買う、というのが買いオペレーションである。まあ確かに、時間差はあるし、たいそう物価が上がった折には売りオペレーションに転じることができるという利点がある分、スマートといえばスマートである(買いオペ、売りオペという手段が日銀に強い権限を与えることにもなってしまっているが)。だが、「政府の権威と権力の元に刷ったお金を、政府が財政にて使って流通させる」という結果は一緒だ。


 そして、それで良いのである。

 というか、貨幣経済を続ける以上、それ以外に方法はないのだ。


 さらに、このように財政と金融は連関して統治せねばならない以上、共に「中央政府の傘下でコントロールする」という態度がなければ、貨幣経済を健常に統治するなんてできない。

 換言すれば、財政政策と金融政策は、共に中央政府権力である以上、(ある程度分離していても結構であるが)分離しすぎてしまっては元も子もない、ということである。


 もっと言えば、中央政府から金融政策への影響を取り上げて、分離させたある機関が「正しく機能する」などという保証は、どこにもないではないか。
 なぜ、中央政府の権威、権力から分離されたものについてはそんなに甘い幻想を抱くのか、俺にはサッパリ理解ができないのである。



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