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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2013年03月  
  

TPP、自由貿易イデオロギーについての省察 

 唐突だが、このブログを読んでくださっている皆様は、「迷惑な事を、迷惑だと知りつつ悪意を持ってやるヤツ」と「迷惑なことを、正義だと思って善意でやるヤツ」のどちらが迷惑だと考えるであろうか。
 私見を述べれば、「両方迷惑」である。
 ただ、どちらが厄介かと問われれば、やはり後者の方が厄介であろう。
 まあ、どちらが嫌いかと問われれば、それも「両方」と答える他ないか……

 というわけで、今回の話題はTPPだ。

 世の議論を見渡してみるに、TPPにおける具体論は「いかにデメリットを回避するか」というモノばかりだ。反対派は「デメリットがいかに国民生活を毀損する」か、賛成派は「デメリットがいかに微少である」かを述べ立て、デメリットの軸で論議がされる事が多いように思われる。
 先だって正直に言っておくと、俺は、TPPのデメリットに関して「今を生きる日本人一人一人の暮らしが愉快になるか、苦しくなるか」という『(俺を含めた)個々人の権利』そのものには大した興味はない。
 俺がTPPのデメリットをデメリットとして考える所以は、「日本国民が、先人から後輩へ『生活の仕方』を受け渡し、日本文化圏を保守する」という『国民の義務』が果たされなくなる危険性の方にある。
 この腑分けは、保守論として別の記事で語れれば語ろうと思うけれど、今回はあえて具体的なデメリットの議論について詳しく述べ立てることはしない。
 そもそも俺に具体的なTPPのデメリットについて解説するほどあらゆる分野での細かな専門的知識はないし、TPPのデメリットについての詳しい解説はブログやら本やらで山ほど出ているから、余所を当たってもらいたい。


 では、俺がここで何に焦点を当てたいかというと、むしろ「メリット」のほうである。正確に言えば、「メリットのようなものとして叫ばれているモノ」についてだ。

 一般に、世でTPPのメリットとして言われているのは、『自由貿易』である。驚くべき事に、『自由貿易そのもの』が、メリットとして叫ばれているのだ。

 しかしここで、本当によーく考えてもらいたいのは、その『自由貿易』という言葉の『自由』とは、一体、「何からの自由」を意味しているのか、ということだ。


 そもそも、自由=「free(フリー)及びliberty(リバティ)」といった言葉の本来の意味は、「隷属的階級には与えられていない貴族的階級の特権」の事を言った。つまり、貴族的階級から見て、「特権を『自由』に行使できる」という意味だったのだ。これが『貴族的階級の視点を起源』とする本来の意味での『自由』である。
 そういう意味での『自由』であれば、まさに「幕府のみが、外国との貿易を自由にやる特権を持つ」という体制こそ、『自由貿易』と言えるだろう。

 しかし、今、世間では『自由』と言った場合、それは「隷属的階級の視点を起源とする自由」を意味するのが一般的であるように思われる。

 元々、道徳的な『良い』と『悪い』という概念がどのように生み出されたかと言えば、国家集団の中において、特権(自由)を行使できる貴族的階級の行動を『良い』とし、そうでない多数の隷属的階級の行動を『悪い』と考えるようになったからである。
 その中で、特権を与えられていなかったその他多数の隷属的階級は、貴族的階級を見てこう思う。「自分もあのように『良く』成りたい」と。しかし、この内ほとんどは、『良く』は成れないのが現実だ。
 この圧倒的な現実の前で、隷属的階級は次第にこう逆に考えて自己肯定をするようになった。
「特権(自由)を占めている貴族的階級がズルくて『悪い』のであって、持たざる自分の方が『良い』のである」
 と。
 この醜い嫉み妬みの根性を、ニーチェの造語で『ルサンチマン』と言う。
 ルサンチマンの心根は、都市化やイノベーション、そして印刷技術の発達が進む近代化において、大規模に発露されるようになった。
 というのも、例えば元々『本』とは高級品で、貴族階級の特権(自由)の最たる物であったが、活版印刷の発達によって安価で、大量に、世の中へ出回るようになる。そうなると、本に顕れる『言論』が次第に単純化し、「大衆の心へ媚びる(ルサンチマンに寄り添う)」ようになるのは当然だ。何故なら、安価で大量の出版物は、大量に売らなければ儲けにならないから。
 このルサンチマン的大衆言論の広まりが、アメリカ独立革命や、フランス革命を引き起こしてしまったのである。
 そして、この時、彼らがどのように叫んでいたかと言えば、こうだ。
「貴族階級に与えられている特権(自由)を我々にも寄越せ」
 である。
 これが、『隷属的階級の視点を起源とする自由』だ。
 さらに、この『隷属階級の視点を起源とする自由』には、一つの特徴があって、それは英語の「free」の後ろにfromやofという前置詞が続き、「~からの自由」とするところからも明瞭である。
 その特徴とは、「人間として個々人に生まれもって与えられるべき権利の水準(人権)」を自分の思考で勝手に規定して、今その水準に達していないのは、「自分が当然与えられるべき権利を、誰かが無碍にも剥奪し、抑圧しているからだ」という風に考える思想が前提にあるということだ。(これを天賦人権説という。)
 つまり、現代において『自由』と言った時に、それは同時に「人間の権利(自由)を制限している『なんらかの抑圧』からの自由」という意味が含まれているのである。



 話を『自由貿易』に戻そう。
 この場合の『自由』とは、「隷属的階級の視点を起源とする自由」の事を言っているのは明白であるから、当然「~からの自由」(free from~)という意味合いを含んでいると考えるべきである。
 ここで、先ほどの問いを、もう一度問うてみる。
 自由貿易の言う『自由』とは、一体、「何からの自由」を意味しているのか。

 それは、自由貿易が「国家間の通商に対して、互いの中央政府が敷く様々な規制を取り払っていく」という議論であることから見て明瞭で、一つに「中央政府からの自由」さらに、「国家からの自由」までを意味しているのである。

 そして、この場合、『自由』を獲得する隷属的階級は一体誰であるか。それは「国家と中央政府からの自由」なのだから、当然、一つに「政府にあらざる者」であり、さらに「国家の属性を帯びぬ者」ということにすらなってくる。つまり、国民ではなく、単なる『人民』(ホモサピエンス)だ。
 となると、「自由貿易そのものがメリット(国益)になる」という論は、「ある一定範囲(環太平洋)のホモサピエンスが、(自国、他国、問わず)国家や中央政府から自由に商売をすれば、優秀な日本民族(日本国民ではなく)が概ね勝利するであろう」と言っていることになる。
 その「日本民族が優秀である」ということ自体、何の根拠もないわけであるが、まあ、そういった心意気は個人的に嫌いじゃあない。いいぜ。仮に、日本民族がとても『優秀』なんだとしよう。

 ただ、問題はその先にもあって、上の論は「ある一定範囲(環太平洋)のホモサピエンスが、国家や中央政府から自由に商売した時、概ね『優秀な者が勝利する』」という前提の上で話がされているということだ。
 しかし、これは本当にもう、全然そんな保証は無い。
 何故なら、そもそも『民間市場』を不完全ながらも「概ね優秀な者が勝利する」という、そこそこ正常な状態たらしめていたものが、国家の中で国民が共有している「優秀さの基準」とか「公正さの基準」だからである。
 換言すれば、歴史的な儀礼、習慣、慣習、先入観といった「共同体の歴史的な抑圧」という土台が、「自由な民間市場」を適切な市場たらしめる前提だということである。
 つまり、『民間市場』といった場合の、『民』は、「国民の市場」でなければ市場原理など機能し得ず、決して「人民の市場」であってはならないのだ。

 これは、別に俺がテキトーに考えた事ではなく、前回まで論じていた「ケインズとリフレ」においての、リフレ派(マネタリズム)の元祖ハイエクの論をパクったのである。
 
 そもそも、ケインズとハイエクの対立は、「国家と市場」のどちらをより信用するかの話題、ではない。「中央政府と国民市場」のどちらをより信用するかの話題なのだ。だって、『国家』と言ったらそれは両方じゃないか。
 そして、ハイエクが「自由市場」を信用する根拠としていたのは、『共同体の歴史的な儀礼、習慣、慣例』といったヒューム哲学なのである。つまり、「国家の歴史的属性を帯びた民による市場であるから、自由市場は上手く行くのだ」という筋立てだったのだ。

 さて、ここで一つ問いたい。
 そもそもハイエクが『自由な市場において、長期的には市場原理が正しく機能する』としていた根拠は、「共同体の歴史的な儀礼、習慣、慣例」であったわけだーーが、それでは一体、「国境を越えた市場」においての、「正しく市場原理が機能する根拠」はなんなのか?

 頭の悪い俺には、サッパリワケが分からねえし、皆目見当もつかんのである。

 つまり、「国境を越えた所に政府は無いから、バブルやデフレといった『市場原理の失敗』を修正する金融も、財政も、規制も、効かすことが出来ない」ーーという話以前に、そもそも、国境を越えた所で、「市場原理なんてほとんど機能しない」と俺は強く主張したいわけだ。
 何故なら、ひとたび国境を越えたらば、市場原理の動力であった「共同体の歴史的な儀礼、習慣、慣例」が存在しないからだ。それのみならず、国境を越えたホモサピエンスは言語を共有しない、宗教観を共有しない、道徳観を共有しない、価値観を共有しない、政治を共有しない、先入観を共有しない、そして歴史を共有しない。
 こうした国境を越えた単なる人民による『自由市場』において、「市場原理が機能し得る」と叫びのたまうのは、「ガソリンの無いエンジンが駆動し得る」と言っているのと同じくらい馬鹿げているのだ。

 国境を越えた人民による市場では、様々な国家の前提条件に違いがあり過ぎるが故に、市場原理なんてものは機能しない。均衡もしない。そのことを端的に証明しているのがEUの大失敗である。
 国家と経済は、「国家と民、及び、国家と中央政府」において密接に繋がり、共有する様々な前提があるからこそ、発達するのだ。
 EUは、まだキリスト教圏であるとか、言語の語族が近いとか、国家と国家が比較的親戚に近かったーーにもかかわらず、あの様である。一度、市場が失敗をすれば、EUは中に国家が別々にあって中央政府も別なので、市場をどこの権限によって修正して良いか、答えがでないという問題もある。
 ましてや、TPP参加国はこれ如何。
 国民の暮らし方から、国家の倫理に至るまで、徹頭徹尾異なる者達が「競争」などして、市場原理が機能する根拠などないのだ。何故なら、何をもって「適正な競争」とするかの感覚を共有していないし、そういったことを共有するまで、社会を大改造するなどということが成功するはずがない。仮に成功したら、そこには国ごとに育まれた多様な価値、文化が消滅する事と同義であるから、酷く画一的で、モノクロームで、無機質な人類国家が残るのみだ。


 ほんっっっとうに、政治、宗教、道徳、価値観、歴史等々で分かりあえない外人達と、経済だけは市場原理がなんとかしてくれるから、分かりあえるーーなぁんて都合の良い綺麗事を聞いていると、気分が悪くなって吐き気すらしてくる。
 市場原理は、そこまでなんとかしてくれないぜ。
 話が逆なのだ。
 人間一人一人が優秀だから市場原理が機能して経済が発展する……のではなく、そもそも市場原理とは『国家』という枠組みが保守されていることによる、先人からもたらされた恩恵(国民の特権)なのである。
 よって、外との貿易は、中央政府が、市場原理の根拠である『国家の枠組み』を保守するため、ある程度「閉じられ」ていて、「内向き」であるように、『規制』を敷かなければならない。

 そして、輸出をするのは、「日本の内で生産不可能なものを輸入する為」だという当たり前の大前提の下に、国民市場の「開き具合」を微調整する態度が必要なのだ。
 尚、その特権は『中央政府』に担ってもらう以外にないのである。



 さて、ここでさらに考えてみたいのは、かくもおかしな話を何故おかしいとも思わず、「TPPのメリットは自由貿易」つまり「国境を越えた人民による自由市場において市場原理が機能し得る(だから、優秀な日本民族が勝つ)」という風に勘違いできるか、という思想背景についてである。

 それは、先ほど少し触れた『天賦人権説』とか『牧歌的社会契約説』と呼ばれる、げにおぞましき論理の上にたっているから、と考える。

 先ほど俺は、天賦人権説をーー
「人間として個々人に生まれもって与えられるべき権利の水準(人権)」を自分の思考で勝手に規定して、今その水準に達していないのは、「自分が当然与えられるべき権利を、誰かが無碍にも剥奪し、抑圧しているからだ」という風に考える思想
 ーーと解説した。

 これの「勝手に規定」という部分をもう少し丁寧に解説すると、天賦人権説では「人間が生まれもって権利を与えられるのは何故か」という問いに対して、「人間の理性」という根拠を用意している。

 そして、よく勘違いされがちだが、そもそも、社会契約説における『理性』とは、イコール『博愛』ではない。
 社会契約説で言う『理性』とは、人間個々人が持つ、『合理性』のことを指しているのだ。

 社会契約説といったものの筋立てによれば、「人間は個々人で『合理性』に基づいて行動」する、そして「政府が無いという架空の状態(自然状態)」つまり無政府状態であった時、個々人がその『合理性』によって得ているであろう権利の水準、を『人権』と呼んだのである。

 これだけ聞けばもう分かるかと思うが、その『個人の持つ合理性』が、「他者の合理性とまあまあ調和できるものだ」として、「自然状態は概ね牧歌的なモノである」とするならば、今、こうやって統治している政府に対し、より多くの権利(自由)を請求する根拠になる。
 逆に、その『個人の持つ合理性』が、「他者の合理性と調和できないものだ」として、「自然状態は万人の万人による闘争状態である」とするならば、政府に対してより多くの自由を預けておくのが良いという根拠になる。

 つまり、社会契約説の欠点は、「人間の持つ合理性がどのようなものかの見解」によって、「人の持つ権利(自由)の水準」が決まり、「政府に対して請求出来る自由の範囲」も決まってくるところにある。
 何故これが欠点かと言うと、仮に、「人間に普遍的な合理性」なるものがあるとしても、「その合理性が、いったいどのようなものか」ということを把握するのは、いかなる人間であっても能力的に不可能だからだ。
 だから、結局は、その「人間の持つ合理性」は、思考の中で勝手に決めているだけのことになってくる。
 となると、「人間の持つ合理性」がとても優れているのだ規定してしまえば、政府へ請求する事の出来る自由(権利)も大きくなる。
 この様にして、政府へ様々な権利を請求する根拠とするため、様々な「人間の持つ合理性」が考案されていった。
 驚くべきことに、考案された「人間の合理性」とは違った行動を現実の人々がすれば、それは「現実の人々の行動の方が、間違っているのだ」とするようになる。そして、現実の人々の方を『啓蒙』したり、導いたり、矯正したり、殺したり、現実の社会そのものを破壊したりしたりするのだ。
 これが、いわゆる『左翼イデオロギー』の出発点である。
 


 自由貿易に話を戻す。
「人間は人間として生まれたならば、すべからく、市場原理の下に合理的な行動を取る(あるいは取るべきだ)」
 と考える者達の思想は、こういった思考回路の上で踊らされているのではないか、というのが俺の考えである。


 例えば、一物一価という架空の概念がある。
 これは、同一市場において、同じ物を、同じ数量、同じ時間で取り引きしたならば、同価値で取り引きされるはずだーーというものだ。(何故架空かと言えば、そんな市場は存在しないからである。)
 しかし、この一物一価を経済モデルに組み込む事の出来る妥当性は、そもそも、国家経済の現実の方が「そこそこ一物一価に近い状態」になっていたからだ。
 つまり、国家経済の『現実』が先にあって、そのアウトラインをラフに取ったからこそ、一物一価という概念を見いだしたのである。
 それを逆に、一物一価の方を先に置いて、「人間皆で一物一価であるべきだ」と、一定範囲の人間個々人(ホモサピエンス)に対し「これが普遍的な合理性である、いや、そうでなければ不合理的で間違っているのだ」とやるのは正気の沙汰ではないのはお分かりか。
 「人間皆で一物一価」にする為には、いくつかの国家を壊し、それぞれの国民をその合理性に即するように矯正しなければならなくなるだろう。


 或いは、完全情報社会という架空の概念がある。
 これは、経済学のモデルが、「すべての情報を、すべての者が、すべて知って共有している社会」という架空の社会を、前提としている、ということを指したものだ。
 一物一価も厳密にはあり得ない話なのだが、この完全情報社会があまりに現実離れしているのは理解しやすいだろう。
 天賦人権説は、「人間へ合理性を与えた存在は、キリスト教的なゴッドだ」という前提の宗教意識の上で形成されたものであるが、この完全情報社会という概念は、むしろ人間の方がゴッド的な何かへ成り代わったかのような話ではないか。

 まあ、それでも、完全情報社会という仮定の上でモデルを作り出す妥当性があったのは、同一言語によって張り巡らされた、歴史的組織である国家共同体の情報網が存在していたからである。
 これに類似した物を、人間の個人の思考において、計画的に別の組織へ作りかえるというのは、絶対に不可能だと断言してもいい。


 だのに、「グローバルな自由市場」を想定する場合も、一物一価や完全情報社会を前提に話をしている者が多すぎる様に思える。
 確かに、そのような前提が「人間における普遍的な合理性」であるならば、「TPPのメリットは自由貿易である」という、言説は正しいのかもしれない。
(いや、それでグローバルに規模の経済がとれ、各々が比較優位のある産業へ特化して、生産性が上がり……となった場合、今度は独占や寡占をどうするかの問題が生じるし、通貨の管理をどうするか、という問題も生じる。そういった問題を、『国家』の外で『政府』の存在しないグローバル世界において、修正するのは不可能だから、どちらにしても理にあわない。)
 が、そういった込み入った話以前に、国境を越えて規模の経済を取ろうとしても上手くいくはずがないのだ。
 何故なら、現実は国境を越えれば「一物はものすごく複雑に多価」であり、その上、情報は言語というナイーブな壁がそびえており、『完全情報社会』どころか、言語ごとに非常に偏りの激しい情報社会にならざるをえない。これが現実である。

 この現実に基づけば、『規模の経済の合理性』は、せめて国内の議論であり、比較優位も例えば「青森県のリンゴ」と「山形県のさくらんぼ」とか、そんなレベルでの話の内に留めておこうとするのが常識的な考えである。
 そして、先ほども言ったとおり、外への輸出は「日本に無いものを輸入するため」にやるのであって、規模の経済を取るためにやるのではない。つまり、「外の需要を取り込む」などといった浅はかな議論は、グローバルな市場は均衡し得ないが故に、長期的には成り立たつはずがない。

 しかし、「TPPのメリットは自由貿易である」と考える思考回路においては、「国外へも規模の経済の議論を適用している」としか考えられないわけで、つまりは、「人間(ホモサピエンス)は経済において、統一的な合理性を持っている(あるいは、持っていなければならない)」と考えていることになる。
 これはもう、『イデオロギー』であり、常識の通用しない、病気や新興宗教のようなものだ。




 さて、今回は、一気にTPPにおける「自由貿易」のイデオロギーを批判しまくったわけだが、その上で最後にもう一つだけ付け加えたい。

 自由貿易や、人類普遍の合理性としての市場原理主義等々のイデオロギーは、これまで、それこそ地球規模で、パンデミックのように広がって、礼賛されてきた。
 何故そうなったかと言えば、『自由と民主主義』を国家存立の大儀とするアメリカが、覇者として世界に君臨していたからだ。(ちなみに、市場原理至上主義は、経済における民主主義である。何故ならどちらも多数決で優秀な者を決めるからだ)
 であるから、ある種の『建前』として我々日本人も「同調したフリ」をしなければ、この地球上で生存できないという、政治的な事情がある。
 そして、この「同調したフリ」を徹底して日本の骨の髄まで行き渡らせなければならなかった体制こそ、『戦後レジーム』というヤツなのだ。
 そして、その脱却は、「同調したフリ」の『建前』の中に、少しづつ我々日本の歴史的大儀を織り交ぜ、押し返し、ジリジリと、辛抱強く、全体として日本を取り戻していくーーというやり方以外にない。(クーデター起こして云々……でも良いけど、それはそれで多大な国家構造的な傷を残すだろう)
 もし、俺が日本の指導者だったとして、アメリカ及びその他に対し、今回述べたような論を展開して、TPP「不参加」を表明したらば、国内外で一斉に総スカンだ。
 それでは、政治が保たない。
 現状、TPPのようなアメリカ合衆国によるイデオロギーの押しつけが「迷惑なことを、正義だと思ってやってくる迷惑なヤツ」だとすれば、もう一方で「迷惑なことを悪意をもってやってくる中華人民共和国」が、尖閣を伺っているからである。

 何が言いたいかと言えば、前々回の『日米会談とTPPについての推察』において、真っ先に述べた事を繰り返して言いたいのだ。

 俺は勿論TPPを「議論に値しないガラクタ」だと思うし、そんな偏狭なイデオロギーを押し付けられた日米会談を、『敗北』と評価するけれど、それは日本そのものが弱かった事による敗北であって、政府や指導者だけをいたずらに批判できる立場に、日本国民はないーーということだ。日本が弱っちいのは、別に今の政府が不優秀だからではなく、日本人全員の責任なのだから。
 この擁護は、安倍首相のみならず、これにあたった官僚、及び内閣の総員や両院の議員といった『日本政府』に対する擁護である。
 むしろ、日本政府は、今の醜い大衆日本民には勿体ない、というくらいには優秀だ。「安倍さんに、TPPの危険性を知らせなきゃ」とか言っているヤツは、そりゃいくらなんでも首相をナメすぎである。官僚は無能だ、弱腰だ、と罵るヤツもいるけれど、そんなことはない。官僚は優秀である。弱腰に見えるのは、軍事的背景が無いのだから当たり前だ。ピストルを保持していないヤツが、保持しているヤツに対して強気な態度を取るのは単なる狂人じゃないか。
 そう、政府が優秀だからといって、勝てるとは限らないのである。
 もし、日本の軍事的実効力が、アメリカの半分でもあって核兵器を保有していれば、TPPで差し込まれてまで日米会談を「早急にしていただく」必要もなかったはずだ。何故なら、尖閣を守るのに、「アメリカの抑止力が絶対に必要」という情勢になっていないからである。
 あるいは、「民主党政権の鳩山が、日米関係を毀損したから云々」と言うヤツもいるが、それは、そもそもあの前々回の衆議院議員選挙にて、日本国民がお遊びで票を入れた報いなんであって、民主党自体をどうこう言う資格すら日本国民には無い。
 かつて戦後体制からの脱却を掲げていた首相を擁した日本政府が、ここまで目に見える形で戦後体制に屈服しなければ、短期的な危機すら乗り越えられない程に、劣悪な状況を作りだしたのは、他でもない日本国民全員の責任なのである。現内閣の面々と中央官僚達は殆どその尻拭いをしている形なのだから、本来は国民が政府に対して謝るべきだ。「我々が浅はかなばっかりに、かくも屈辱的な会談をさせてしまい、申し訳ない」と。
 あるいは、長年、空虚な自由貿易論を垂れ流し、すっかりそれがハイカラで開明的な思想であるかのように世でイメージされてしまっている事による、大衆言論の圧力の責任も無視できない。

 まあ、大衆批判はこれくらいにして。

 かくして、日本はTPPというこの醜いイデオロギーに引きずり込まれてしまいそうな情勢なわけだが、その先の戦いは、それをどれだけ骨抜きにしていけるかという思想のせめぎ合いになってくるはずだ。

 これからも俺は、大衆よりも『日本政府』を擁護するという基本的なスタンスと、(既存の権力であるからこそ)自由民主党及び、中央官僚を擁護する姿勢を保持しつつ、安倍内閣の総合的な陣容を支持した上で、TPPという愚かなイデオロギーをけっちょんけっちょんに批判していく事をここに表明する。



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アベノミクスと、リフレとケインズ2 

 先日俺は、『アベノミクスとリフレとケインズ』という記事にて、「アベノミクスという政策論を支持する者達は一見同じに見えるかもしれないが、その中にリフレ派とケインズ派という違いがある」ということを述べた。
 その上で現状を鑑みるに、アベノミクスという具体的な政策論に絡みつく、『経済思想』といったもの内容を、もう少し掘り下げて指摘する必要が出てきたように思われる。(或いは、指摘して問題が無い時期に差し掛かったように思われる)

 それは、良い方面では、平成二四年度補正予算が衆参捻れの無い形で通ったから。
 そして、悪い方向では、日米会談によってTPPという空虚なイデオロギーが世間で跋扈しはじめたからだ。

 だから、この『アベノミクスと、リフレとケインズ2』では『1』の時には遠慮して言わなかった事を、忌憚なく述べていこうと思う。


 アベノミクスにてデフレーションの脱却という大まかな政策的方向性が未だ既定路線として確立されていなかった二、三ヶ月ほど前から昨今にかけては、思想的背景などさして重要ではないように思われたかもしれない。
 だが、世の議論が大まかな政策論的な域を出て、より複雑かつ繊細な議論をせねばならない段階へ差し掛かろうとしている今、「そもそもアベノミクスを支持していたような者達の中で、どのような思想の違いがあり、どのような対立が考え得るのか」という事を捉えるのは、より重要な事になってくるはずだ。
 何故なら、これから先、その「思想の違い」が必ず具体的な政策論の対立にも反映されてくるはずだからである。

 この期に及んで脳天気にもそれに気づかず、政策に対する思想や理念をゴチャゴチャにして、表面的でフワフワな議論を続けていれば、必ずワケの分からない政策論が取って付けられたような綺麗事によって世を跋扈し、そして、その下劣で卑怯な世論とか民主主義といったものが、比較的優秀であるはずの政府機関をおかしな方向へ引っぱっていくに違いないのだから。


 ところで、そもそも我々が『経済』と言って論じているようなものは、人間の思考で把握するにはあまりに複雑すぎるものだ。たとえ世紀の大天才が百年鍛錬を積んだとしても、それは「個人の心と思考」において限界があり、社会、経済の複雑性からすれば無力甚だしいはずなのである。しかし、我々は『経済』に対し、何らかの見解を持とうとしたり、問題の解決法を編み出そうとするし、その意志がなければ経済は野放図の様相を呈するであろう。
 ただ、その時。ともすれば、数式を用いてグラフに曲線を描き、それをシフトさせーーといったような手法を取る、いわゆる『経済学』なるものを見て、何か経済というものが「自然科学の見地から出発して、一定の合理性ある結論を算出し得るものである」という勘違いを起こすことがある。その勘違いは、往々にして議論を経済の本質から大きく外れた所へ持っていってしまっているのではあるまいか。
 ここで、俺がどうしても声を大にして主張したいのは、「経済は思想である」ということだ。
 実は、どんな美しい曲線を描くグラフや、難解な微積分を用いた理論も、最初に『思想』がなければ生み出されることはない。何故なら、数式やグラフに反映させることが出来るのは、どんな数学の天才が頭を雑巾のごとく捻っても、「膨大な現実の中の、ほんのごく一部」だからである。そして、その数式やグラフに反映させる「現実のごく一部」の数字は、一体どのように選び取って行かれているのかと問えば、これはもう各々の『思想』によってであるとしか言えない。
 科学、なるものにはすべからくウィットゲンシュタインパラドックスがあるわけだが、特に『経済学』には、実験を重ねて実証したり、解析をすることによって事実を明らかにするーーといった類の学問にすら、物理的になり得ないのだから。
(ここで誤解しないでいただきたいのは、俺は決して『数』がくだらないものであるなどという事を言っているのではない。数の選び取り方、扱い方は、実は無限にあるのだから、げに不完全なる人間は思想によってでしか『数』を扱えないと言っているだけである。)

 さて、このような経済の『思想』をなんとか俯瞰して見てみようとする時には、次のポイントに注目するのが一つの見方なのではないかと考える。
 そのポイントとは、「市場原理をどの程度信用するか」と、「政府の機能をどの程度信用するか」という『思い入れ』である。

 これは当然であるが、市場原理をより信用する者は、それだけ政府の経済への介入を「より小さくするべきだ」と考える。逆に、市場原理を信用ならぬ物だと捉える者は、それだけ政府の経済への介入を「より大きくすべきだ」と考えるのである。
 つまり、経済思想とは、「政府が経済について、どこへ、どの程度の介入をするのが妥当か」というイデオロギーなのである。


 さて、その上で話を『アベノミクス』へ移していこう。
 アベノミクスで焦点にされているのは、言わずもがな「デフレ状態の解消」である。
 そして、アベノミクスというおおまかな政策に賛同する『リフレ派』や『ケインズ派』の思想的違いも、「市場原理をどの程度信用するか」と「政府の機能をどの程度信用するか」という見解の違いにその根元があるのだ。 

 少し乱暴に、分類してみると、リフレ派は「どちらかと言えば市場原理を信用し、政府を信用しない方向の思想」であり、ケインズ派は「どちらかと言えば市場原理を信用せず、政府を信用する方向の思想」であると、言えるかもしれない。

 これをもう少し丁寧に説明するとこうだ。

 リフレ派は前に述べた通り、デフレ脱却において『金融の緩和』を主眼に置く思想である。つまり、「お金をビシバシ刷る」ことによって「物に対して、相対的にお金の『量』が多く」なり、「お金の希少価値が下がる=物価が上昇しデフレがとまる」という論理である。
 言っていることは何となく分かるであろうが、ここで一度立ち止まって考えてもらいたい。
 すると、このリフレの論は、「お金の量さえ正しく供給されていれば、市場経済は正しく機能する」という前提の下での思想だということが分かるはずだ。
 換言すると、リフレ派にとってのデフレとは、「市場原理が失敗している」わけではなくて、「単に、貨幣と物の量に不均衡が生じているだけ」という話題なのだ。
 だから、リフレ派思想の論理に基づけば、そりゃあ「諸悪の根元は日本銀行だ」という話になるのである。

 だが、このリフレの論議は、「最近になって急に浮上してきたもの」ではない。というか、ついこの間、小泉・竹中体制において一度失敗したものなのだ。
 どういうことかと説明すると、日銀で刷った円を民間に(銀行に)出回らせても、市場の需要が目減りしていっている中で設備投資をしても採算がとれないので、民間企業としては銀行から円を借りない。結局、その円は海外の投機筋や国債に行ってしまって国力が上がらなかったのである。
(ただ、それでも「長期的に」見れば、市場は正常に回ると主張するのがリフレ派なのだが)

 これに対して、デフレが単に「お金の発行量の不足」というだけの問題ではなく、「市場原理そのものの失敗」という問題を孕んでいるのではないかーーという風に考えるのがケインズ派の論理だ。
 故に、民間市場の失敗を修正するのは、『政府による経済の介入』しかなくなる。
 つまり、中央政府の財政出動による、市場の需給バランスの調整だ。根も葉もない言い方をすれば、「政府が刷った円を、政府が支出する」ということである。

 このように、リフレ派には「市場原理への信用と、政府への不信用」が、ケインズ派には「市場原理への不信用と、政府の修正機能への信用」が思想背景としてあるのだ。



 さて、ここで、何故俺が『今』この事を重要視し、そして、ケインズの論理の方に分があると主張するのかということを述べてみたい。

 それは、少なくとも俺が物心つき始めてから今日に至るまで、あまりにも「経済から『国家とか中央政府』といったものを排除すること」を善しとしてきた世論の風潮に、強い懐疑と不信を抱いているからだ。
 言い方を変えると、「市場経済を国家から切り離して、民間の自由(個々の自由)に任せれば任せるほど、競争が起こって経済が成長する」という話は、単なる綺麗事でウソっぱちだと、俺は思うのだ。

 ともすれば、冷戦構造の余波からか(俺の生まれる前に、東西冷戦というのがあったらしい)、そういった「経済の国家からの自由」に対立するものは、すべからく「格差是正」の論議であるかのごとく、世で語られてはいまいか。
 つまり、『自由な経済』を国家なり中央政府なりが制限する正当性は、すべからく『個々人の平等』=「金持ちから金を巻き上げて、弱者に再配分する」にしかない、という思いこみが、未だ世論にこびりついているのではないか、と懐疑するのである。
 すると、「自由な経済」は国力重視で、「国家の経済への介入」は弱者の救済重視ーーといったような、ヘンテコな二元論で経済が語られる事も少なくない。

 だが、そりゃあいくらなんでも話を単純に考え過ぎだ、と思う。
 中央政府が介入すべき経済の項目に『弱者の救済』以外何もない、なんて事はありえない。
 もっと言えば、『市場』を国力が上がっていくよう安定的に秩序だてるのも、中央政府の統治による土台がなければ、成し得るはずがないのだ。
 つまり、俺は、「市場から『国家や中央政府』をポンポン退場させてしまったら、国力だって上がらない」と、こう強く考えるわけだ。

 だって、「市場を自由にしていけばいくほど、経済が発達する」なんて話は、『全ての人間が概ね合理的で正しい消費行動をする』という前提がなければ成り立たない。そして、実を言うとそんな保証はどこにもないのである。
 つまり、「消費」を「一票」として捉えた、「民間市場という民主主義(多数決)」において、「多数の票を入れた方が正しい行動である」という保証は何もないということだ。
 むしろ、合成の誤謬とかデフレスパイラルといったものが良い例で、全員が全員一斉に間違った消費(投票)を行い続ける状況だってあり得るのである。
 有名なケインズの『美人投票』の例は、民間市場や民主主義が間違え続けることはあり得るーーということを指摘しているのだ。


 そして、俺がリフレ派に対して感じる不信感は、「民間市場への過度な信用」なのだ。
 何故なら、「お金の量さえ正常なら、民間市場は正常に機能する」という、つい最近失敗した議論をこの期に及んでするということは、やはり「民間市場が失敗し続ける」ことを認めていないが故に他ならないからである。
 これは、民主主義(多数決)は正しいはずだとか、世論や有権者は賢いはずだーーといった空虚な綺麗事に類似するものがあると、俺は思う。


 アベノミクスの価値は、「『国家』や『中央政府』が経済をどう主導するか」という、ここ最近すっかり忘れ去られていた焦点へ、『三本の矢』を放った所にある。
 ここ最近、経済政策とは「いかに国家を経済から退場させるか」という議論であり、それが大きな流れだった。こういった『レーガノミクス的経済思想』に逆らった『エコノミクス』であったからこそ、アベノミクスは意味あるものなのである。

 思想の大きな流れに逆らうということは、絶対に簡単なことではなく、誰にでも出来ることでもない。
 特に、政治家は票で選ばれるが故に、どうしても『世論の大きな流れ』に流されざるを得ない。というか、「本当の事」を言って、『世論』に逆らう政治家は、落選したり、第一線から追いやられたり、死んだりして、いなくなるものだからだ。
 だから、この醜き大衆民主主義の世の中で、政治の劣化というものは、イコール「やっぱり世論は間違っているものだ」という事なのである。別に、政治家が「悪い人たち」だからではない。政治家が大衆世論に迎合せざるを得ない世の中であり、そしてだいたいにおいて大衆世論というものは間違っているというだけのことなのだ。

 そんな中、「国家や政府を市場から退場させる」という大きな潮流に反し、「デフレ脱却のため、政府がお金を刷って、政府が使う」という経済政策を訴え、そして勝ったというところに、価値がある。
 これを見て俺は、今の世の指導者とは『大衆世論』の間違った綺麗事に則した「建前」を上手に述べながら、同時に「本当の事」をいかに美しく見せて、選挙の時に了承をとっておくか、というワケの分からない能力をも求められているのだなあと、政治家の方々に同情を禁じなかったのである。

 例えば、安倍首相がアベノミクスを語る際、よくこの様におっしゃっていたのをご記憶だろうか。
「デフレには金融緩和です!日銀が云々……ただ、金融を緩和しても、円が市場に出回るには時間がかかるので、財政の出動によってその時間差を埋めます」
 これは、財政の出動(公共事業)を嫌がるリフレ派的な人々を懐柔する、素晴らしい文言なのである。
 何故なら、リフレ派の論理は、「お金を刷れば『長期的には』市場が均衡していく」というものだからだ。よって、「時間差を埋める」というこの一句が芸術的政治センスであり、リフレ派の一部はアベノミクスを支持していったのである。もしこれが政治家でなければ、「長期的には、皆死ぬ」などと言ってリフレ派をイラつかせたに違いない。
 ただ実際、金融緩和して財政出動したら、「政府がお金を刷って、政府が使う」ということに他ならないのだから、モノは言いようというものである。

 だが、今まさに、気をつけなければならないのは、せっかく「十数年以上の国内経済停滞を引き起こし続けた極端な経済イデオロギー」と、逆の事をやっているのがアベノミクスの価値であるにも関わらず、未だに「国家と政府の市場からの退場」の方向へ引き戻そうという思想潮流が、世論では一般的に「進歩的で格好良い」と思われている点である。
 そういった「最近失敗した経済思想の潮流から、再び発せられていくであろう政策論」にノーと言って抵抗するのは、アベノミクスを支持していた者の中でも、ケインズ的な思想を持った者の方であろう。
 逆に、「最近失敗した経済思想の潮流から、再び発せられていくであろう政策論」に賛同、または理解を示すのは、リフレ的な思想を持った者であろう。(或いは、冷戦の名残で、反東側という思い入れから自由主義を極端に信望するようになった筋肉質的な人達か)

 具体的に言えば、「規制緩和すりゃあ経済が成長する」という、ちょっと意味の分からない論(しかも最近失敗した論)に対して、危機意識を持つのはケインズ的な人達、危機意識を持たなかったり賛同するのはリフレ派的な人達であろうーーということである。
 そして、tppも同様だ。(tppについては、別の回でまた何度も批判していきたい)

 アベノミクスと併せて、それ以外の経済に関わる諸政策が、今後どちらに引きつられていくかは、内閣周辺、世論、言論、諸々における「経済思想戦争」の動向によって、繊細に影響を受けるはずである。
 何故なら、政府の意志決定は、世論までを含めればとても複雑な影響を受けてなされるのであって、単に内閣が優秀だから優秀な結論が導き出されるというものでもないから。もっと端的に言えば、内閣も色んな所の顔色を伺わなきゃ政権運営をやっていけないはずだ、ということだ。

 であるからして、今をこそ、アベノミクスを支持する者達の思想的背景とか、筋立てとか、そういったモノに対して敏感に捉えていく態度が不可欠なのである。思想戦争が政策に影響を与えるんだから。


 こういった事を言うと、「保守分断だ!」と言う人もいるかもしれない。
 そりゃ勿論、指導者はある程度の幅を味方につけておかなければならないだろう。安倍首相にはこのまま融和すべき者達とは融和して、むやみに敵を作らないでいてもらいたい。
 しかし、(目に見えた反日ではないという)広い意味での保守派の言論の中で、そこそこマトモな議論が交わされていないままにナアナアで纏まり続けるということを続ければ、その浅はかさが世の中で目立ってくる。
 それが、目に見えた反日に、付け入る隙を与えることになろう。
 郵政選挙から民主党への流れが正にそれだ。

 そして、俺は、(二四年度補正予算の通った今、前々回で語った時のような配慮は要らぬであろうし)イチ民間人という無責任な立場を利用して、もう言いたいことを言いたいように言うことにしよう。
 tppについては、次回丁寧に論じたいと思うので、今日はとりあえず、「今必要なのは、多数決(市場原理)ではなく、血(金)とコンクリートである」というのが俺の意見である事を表明して、締めにしたい。



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