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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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大東亜戦争の反省点と、主権の回復について 

 今回は、大東亜戦争について。

 戦争を含めた「国家の歩み」というものは、当然その時々の事情があり、何か細かな失敗があったとしても、後から生まれてきた者が何か文句をつけるのは卑怯だとは思う。

 だが、俺の考えとして、「大東亜戦争に関しての反省点」なるものを二点ほどあげさせていただきたい。畏れ多い事ではあるけれど。



 まず、反省点一つ目は、「降伏をした事」である。

 大東亜戦争は、そもそも個々人の命とか、快とか、そういったものの為に行われた戦争ではなかった。
 国家の大儀と誇りと価値観、「日本の在り方」を守る戦いだったのである。

 具体的に言えば、「日本の在り方」を毀損する脅威とは、二つのイデオロギーであった。一つはかの凶悪なソ連的『共産主義』であり、もう一つがさらに輪をかけて凶悪なアメリカ的『自由民主主義』である。
 それら『共産主義』や『自由民主主義』といった左翼イデオロギーは、「個々人の命とか快とかの総合値を合理的に最大にする事」を至上の理念として成り立たせた『主義』だ。(つまり、双方、進歩主義と功利主義を前提としている)

 普通に考えれば、それら『共産主義』とか『自由民主主義』といった指向は、(『手段』としては一理を残すとしても)『目的』とするには無理がある。何故なら、『国家存立の大儀』(目的)の設定に、「個々人の命や、快の総合値」を置いて合理性を導き出せる程、人間の思考や能力は優れていないからだ。

 人間は集団で生きる。つまり、『個人』は関係性の上にしか在せない。それが故に、人間は確実に「感情、愛着、シガラミ、帰属体への拘り」といった『不合理』無しでは生きて行けない。
 というよりも、『不合理』な『目的』があるが故に、それを成すための『合理』が必要になるーーといった風に捉えるのが適切であろう。

 大東亜戦争に話を戻せば、その敵は、主にアメリカによる「自由民主主義の押しつけ」であった。

 それに対して、日本側は「一人一人の命や快といった合理」よりも、「国家の歴史的な大儀や価値観といった不合理(目的)」を重んじる姿勢をもって戦いに臨んだ。
 立派なものである。

 だからこそ残念なのは、その姿勢が、民間人を90万人程焼き殺された辺りで挫けた所にある。
 「命より大儀」という立派な戦いだったのだから、降伏などせず、本土決戦においてたとえ日本人全てが焼き殺されても、「自由と民主主義などという醜い物に取り込まれるよりは遙かにマシ」という意地を見せて滅亡すべきだったのだ。
 そうなれば、勿論俺は生まれてなかったわけであるが、全然良い。変な話だが、「先人が誇りを捨てて後世に命を繋げ、自分が生まれる」という場合より、「先人が誇りの為に死に(滅亡し)、自分が生まれなかった」という場合の方が、俺自身は救われていると思うからだ。



 続いて、反省点二つ目は、「反省をした事」である。

 もっと言えば、「反省の仕方」が決定的にマズかった。
 上では、「降伏をして、本土決戦をしなかったこと」を反省点としてあげたけれど、まあ、実際の所、当時の政府にそんな判断をしろなどという注文をつけるのは、後輩としては傲慢かつ厳しい意見過ぎるかもしれない。

 そもそも、大東亜戦争中の政府は、政府の役割を(完璧ではないにしろ)良くこなしたと評すべきだ。

 対して、国民の方の多くは、「命より大儀」といった『貴族階級的意識』を持ち合わせていたはずはなく、つまり「命が第一」といった『隷属階級的意識』の者が多数であったであろう為、事実上本土決戦は不可能だっただろう。(国民の多くは所詮は平民であり、そして、それで良いのである。)
 で、あるからして、「降伏するしかなかった」というのは、一定の理解を示すことができなくもない。

 ただし、「大東亜戦争にて降伏をするという事」イコール「日本政府の中枢がアメリカ的な自由と民主主義に改変されるという事」ーーだといったようなことは、日本政府は勿論理解していたし、事実そうなった。
 それでも降伏の道を選んだのは、「日本国民は、どこまでも皇室の下で日本国民である」が故に、「一時的に政府中枢が自由民主主義的に改変」されたとしても、しばらくすれば『自由民主主義』なんぞ低劣なものは捨てて、日本を立て直していけるはずだという事を前提としていたからである。

 しかしこれは、国民を買いかぶりすぎていた。

 上記のように国民の多くは所詮『平民』であり、つまり、「命が第一」かつ「快楽が第一」という者達であったのだ。
 こういった隷属階級的な意識の下では、自由民主主義はとても都合がよい。何故なら、上記の通り、自由民主主義とは「個人個人の命や快楽の総合値」を最終目的として存在している合理性であるからだ。

 つまり、政府の中枢が自由民主主義に改変されてしまった後、国民の意識もそれにひきつられて、「自由と民主主義は素晴らしい」という事になってしまったのだ。

 そして、「自由民主主義が正しい」という前提に立って大東亜戦争を『反省』している事が、甚だ醜く、低劣で、排泄物的だーーという風に俺は主張したいのである。

 そりゃあ自由民主主義が正しいという前提で大東亜戦争を振り返れば、「政府は、なんて不自由で非民主的な戦争をしたのだ!」という風に反省することとなる。実際そのような筋道での反省が、現代も(いや、現代になっていっそう)世の中を跋扈しているだろう。
 しかし、そりゃあ当然で、大東亜戦争は「自由民主主義なんぞに取り込まれたくないから戦った戦争」なのだ。

 つまり、「自由民主主義に取り込まれたくない」といって戦った先人を、自由民主主義に取り込まれてしまった後輩が、大儀の無い後からの価値観の下で反省をしているのだ。

 これ以上卑怯で愚かな事があろうか。



 その上で、「日本の主権回復」とは、「自由民主主義(個々人の命や快の総合値を最大にする為の合理性に対する一つの仮説)が、正しい」という『共同幻想』を(完璧とはいかないまでも、ある程度)払拭できた時に、ようやっと言える言葉なのではないか。

 だって、主権回復主権回復と騒げど、その主権を持つはずの日本人の方が「自由と民主主義が正しい」という価値観の下で生きているのだもの。これでは、日本に主権があると言えるはずがない。

 大東亜戦争で守ろうとしていた『国の在り方』を(完全な形でないにせよ)ある程度回復した時に初めて主権を回復したと言えるのだと考えれば、敵はやはり何処まで行っても『自由民主主義』なのだ。

 まあ、通常、自由民主主義の体制の下で、「自由民主主義が素晴らしい」ということになってしまうと、実は理論上、自由民主主義から逃れる術はない。

 しかし、『日本』には、自由民主主義の押しつけを拒否した『大東亜戦争』を戦った歴史がある。
 これが、唯一の希望なのだ。

 つまり、主権の回復=「自由民主主義を払拭する」には、自由民主主義のアンチテーゼとしての戦いである『大東亜戦争』の価値観を肯定する事から始めねばならないと言えるだろう。





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政府支出を増やして、税金を上げよう 

 今回は、GDPにおける政府支出の割合を増やして、増税をしようーーという素敵なお話である。


 勿論、今、増税をする事はあまり得策では無いことは言うまでもない。今は、デフレであり、GDPに占める最も大きな項目である個人消費が、現時点での増税によってさらに落ち込む事は火を見るより明らかだからだ。
 増税で消費が落ち込む原因は、大凡において、『気分』である。
 人々は、全て何か完璧な計画を立てて消費しているわけではないから、「税金が上がった!」「じゃあ、あんまり買うのは止めとこう……」という気分に、一斉に流れるものである。
 さらに、もう少し賢い輩は、増税から「人々がそのように買い控えるだろう」という所を予測して、投資を控える。もう一段賢い奴らは、「人々がそのように買い控えるだろう、という所を予測して投資を控える輩」が増えるだろうと予測して……とキリがないから止めよう(笑)
 当たり前だが、消費や投資という『需要』が縮小されれば、「需要に対する供給の過剰」はさらに進む。
 需要より、供給の方がより多くなるということは、これも当然だが、物価は下がるし、雇用も悪化する。
 つまり、デフレが悪化するのだ。
 増税の影響が、人々の心理に働きかけ、デフレの悪循環に拍車をかけるという事である。


 しかし、「デフレの修正に増税が悪影響を及ぼす」という話題は、何処まで行っても「短期的な話」である事を分かっていなければならない。


 税ーーというものを、長いスパンで考えるのならば、実の所、それは『政府の適正規模』を考える事と同義である。

 ここに、『日本』という国家があるということは、『政府』があり『国民』があるということだ。つまり、国家の中には、『公の経済活動』と、『私の経済活動』が在るということである。
 公の経済活動とは具体的に言えば、公務員の給与と活動だったり、軍事、警察だったり、社会福祉だったり、公共事業だったり……の事で、それらは『税』や『通貨供給量の増加分』から賄われている。すると、政府が運営する公の経済活動は概ね、『税』の多い少ないでその規模が変わってくるのだ。
 そして、「税を少なく、公の経済活動も制限していく方向」を『小さな政府論』と言い、「税を重たく、公の経済活動の領域を広げていく方向」を『大きな政府論』と言う。
 ここで注意しなければならないのは、それを「社会福祉」の点でのみで論じてはならないということだ。概して、大きな政府論は「金持ちから税を取って、貧乏人に配る」という議論、小さな政府は「税はあまり取らず、自由競争に任せる」という議論で論じられてきているような気がするが、それは間違っている。

 公の経済活動には、軍事や警察費も、教育関連費も、研究開発費も、エネルギー管理費も、土木公共事業費も、高級官僚の質を確保する給与などなども含まれているはずで、それらの公の経済活動は「国力の基盤」のために欠かせないもののはずだ。

 重要なのは、それら「国家の基盤」を増強する為、『私の経済活動』から、政府が強制的に税を徴収するーーという事の重要性を理解することである。
 そして、『私の経済活動の自由』を、政府が「どの程度」制限して、税を徴収するかの議論が、絶対的に必要なのだ。
 換言すれば、「国内の財を、『国家の基盤を増強する為の事に、政府が強制的に割り振る」という不自由を、どの程度やっていくかという議論である。

 この観点から見れば、現在の税は軽すぎる。自由主義的すぎるし、民主主義的すぎる。
 つまり、「政府が小さすぎる」ということであり、「私の経済活動」から、「国力増強」の為に徴収する割合が、低すぎるということである。

引用:『http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5194.html』

 引用のように、OECD諸国と比較しても、日本はかなり小さな政府に過ぎるということがわかる。
 こうやって他国と比較した上で言うが、本来、こういったことで「外国と比較する」なんて必要は全くないはずだった。何故なら、政府の適正規模、税負担の議論は、「国家の歴史的公正」を論じる事とも同義であるからだ。
 しかし、国家の歴史的公正というものの感覚に薄くなってしまった今日では、他国と比較して、第三者的に引いて見ることも必要になってきている為、仕方なく引用してみた。

 さて、このように日本が過剰に小さな政府を取るようになってしまったのは、「国家の基盤」といったような事の為に、個々人の自由が何事か制限されるという事が、世の風向きとして否定されるようになっていたからだと言える。
 もっと端的に言えば、「国家よりも、個人を重視する」という感覚の礼賛、「自由、平等、民主主義」という観念の礼賛、「無国境(ボーダレス)」の礼賛、「国家の卑下」といったモノが、過度な小さな政府を生んでしまっているということである。
 つまり、醜く、破廉恥で、卑怯な、偽善、欺瞞といった大衆迎合だ。



 その上で、さらにもう一度、短期的なデフレの話題に論を移すと、デフレの場合、増税は得策ではないが、「政府支出を増やす」ということは、先にやるべきでなのである。税なくして、どう支出を増やすかと言えば、(短期的には)政府が円を刷って、それをそのまま政府が使っちまえば良い。分かりやすく言えば、国債の発行と、買いオペレーションという、『財政ファイナンス』である。

 つまり、現在の日本政府の取るべき姿勢は、単にデフレの解消という短期的な問題解決手段としての『財政出動』という意味合い以上に、政府が「このくらいの政府規模が適正です」という大枠を先に示し、「デフレを抜けた将来は、このくらいの財政規模を賄うくらいの増税を致しますぜ」と示唆する姿勢が欲しい所ではある。

 まあ、そんな事を声高に叫べば、一気に政治権力から落とされてしまうであろうから、「そういう風に陰ながら思っている内閣周辺の政治家や知識人が、増えてくれればいいなあ」というくらいの願望ではある。
 (愚かなる大衆民主主義に隠れて言えば)、長期的に注目すべきは、『国家の基盤、国力増強』といったモノに対して、『国民の負担』する『率』を適正な所まで上げることなのだから。




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マネタリズムとリフレの類似性 

 今回は、マネタリズムとリフレには類似性がある、という
話だ。

 マネタリズムとは「常に固定された率で通貨供給量を増やす」という考えである。
 対して、リフレとは、「短期なインフレ、デフレに対し、通貨供給量の増減をもってコントロールする」というものだ。

 概して、マネタリズムには「短期的なインフレやデフレへの対処」という姿勢は一切見られないが故に、その部分だけを見れば、リフレとは相反するもののように見えるかもしれない。

 ただ、マネタリズムの理論とリフレの理論は、その芯において共通の筋立てがある。

 それは、「通貨の量を『なんらかの合理性』に基づいて増やす」ということ以外は、「民間市場の自由にしておけば上手く行く」と考える所だ。
 いや、むしろ「民間市場の自由にしておけば上手くいく」という事を論理として成り立たせる為に、「通貨の量に対する何らかの合理性」を設定していると言った方が良いかもしれない。

 つまり、個々人ではどうにもならない通貨供給量に関してだけは特別の合理性を設定して、それさえ設定しておけば、人間個々人の合理性が勝手に経済を上手く回すはずーーだから、政府は口を出すなという筋立てなのである。

 この、「人間一人一人は合理的な判断をするはずだから、政府の裁量を剥奪するべきだ」というような考えは、つまり、『自由と民主主義(リベラルデモクラシー)』という左翼思想と合致する。
 何故なら、一人一人が自由な経済活動をした結果導きだされた結果は、「消費や投資や雇用」という各々の一票が導き出した『民主的な結果』と言えるからだ。
 だから、マネタリズムやリフレの一部を、『新自由主義』と呼ぶのである。




 さて、こうした『自由と民主主義』というイデオロギーを基にした経済思想は、現実を言い表していない偽善であるーーというのが俺の主張だ。
 何故なら、その「一人一人の自由な経済活動」の中で、その多数が取った「経済活動」の方が『正しい』などという保証は何処にもないはずだからだ。
 これは、『自由と民主主義(リベラルデモクラシー)』そのものの問題でもある。

 そして、自由と民主主義、及びその主義に基づいた経済思想を掘り下げると、そこにはやはりアナーキシズム(反政府主義)が顔を覗かせているのだ。
 何故なら、「政府から裁量を取り上げたい」と考えた際には、『自由と民主主義』が「とっても合理的で上手く行くものである」と規定するのが、最も効果的であるからである。

 それは、「自分たちの自主性で、何とかなります」と言っている生徒達が、親や先生達の敷く規制やら保護やらの裁量を取り上げる思考回路とほぼ一致している、と言えよう。




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見直そう、コネとシガラミと既得権益 

 思えばこのブログは、何かを否定する記事ばかりを書いてきた気がするので、この度は良いモノを肯定する記事を書いてみたい。

 というわけで今回は、俺が『経済』というものの中で、最も重要だと考える三つの要素について。
 それは、一つに「コネ社会」もう一つに「集団のシガラミ」そして「産業の既得権益」である。

 ともすれば、これらは、「不合理なもの」として、特に経済学方面から忌み嫌われていたものである。

 しかし、よく自分らの周りを見ていただきたい。

 あらゆる産業、会社、地域、家族、親類などなどにおいて、「コネ、シガラミ、既得権益」は存在しているだろう。
 逆に、自分の帰属する産業から、そういった「コネ、シガラミ、既得権益」といったものの一切を排除した場合、産業は存続可能なのだろうか、と考えてみて欲しい。当然、不可能なはずなのである。

 自分の所属する会社や産業の事であれば、そのくらいの事はすぐに分かるはずだ。人間の集団は、「コネとシガラミと既得権益」によって、初めて集団として機能するという事を。

 しかし、それが自分の帰属する産業以外の事になると、途端に分からなくなる。
 よその産業を見ていると、コネとシガラミを「閉鎖的」と評したくなり、既得権益は「ズルい」と評したくなるのだ。

 だがそこで、その『不合理』な「閉鎖性」や「ズルさ」がなければ、産業は成り立たたないーーということを思い出し、冷静になるべきである。(自分が所属する会社や産業がそうであるように)


 そもそも現実世界は、複雑かつ膨大なモノだ。
 対して、例えば仕入先、得意先、人事などにおいて人間が判断しうる能力には限界がある。
 あるいは、公共事業の受注先。あるいは、酒造権などの『免許』といったものを誰に与えるか。そういった事に対しての判断を下すのも能力に限界のある人間なのだ。

 もし、完璧に社会の情報を把握する神的な存在がいたとすれば、そこから産業においての合理性を算出する事も可能かもしれない。人間が、そういった神的存在であるならば、コネやシガラミや既得権益は、単なる「合理性を阻害する癌」でしかないだろう。

 しかし実際、人間は『神的な何か』ではない。
 それどころか、人間が把握できる情報は、社会の複雑さから鑑みるにごくごく僅かなものでしかないのだ。

 つまり、どう足掻いても、情報や合理的判断において不完全な人間が、『産業』とか『社会』というものの上に秩序を形成できるのは、「コネや、シガラミや、既得権益」のおかげなのである。



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やめよう、進歩主義 

 今回の趣旨は、『進歩主義』というものへの懐疑である。


 進歩主義とは、簡単に言うと、「人間は、時代が進めば進むほど、進歩していっている」というイデオロギーだ。

 確かに、人間はモノを書き記し、記録を取って、後世に様々な技術を残す事が出来る。後世の人間は、そういったものを掘り下げ、記録を更新し、情報を蓄積して、より高度な科学や技術を生み出すことも出来るわけだ。
 そういった所から、高度な情報や科学や技術の進歩によって、人間社会全体にある矛盾も未来へ向かって解消されていくはずだーーと考えるのが進歩主義の筋立てである。

 だが、この筋立ては、決定的に間違っている。

 何故なら、こうした筋立てを成り立たせる為には、「一体、どういったものが『矛盾のない進歩的な社会』と言えるのか」という理想が、人間にとって普遍的かつ明瞭でなければならないからだ。
 そして、そんな事は明瞭になりえないのである。

 そもそも、進歩主義の根拠である「科学や技術」という類のものは、どこまでいっても『手段』にしかなりえない。
 つまり、ある『目的』があって、それを達成するための一つの『手段』が科学的合理性なのだ。

 当たり前の事だが、その『目的』だけは、「科学とか技術とか情報によって合理的に算出する」というわけにはいかないのである。

 そもそも、『目的』であるはずの『歴史的に構成された社会』(最大の単位としての国家、最小の単位としての家族、中間団体としての地域共同体や産業の既得権益)における価値観は、あまりに複雑かつ膨大である。が故に、如何なる人間もその全容を把握することは出来ない。何故なら、如何なる人間の『思考』もどうしようもなく『有限』だからだ。
 そして、人間の思考では人間社会においての『目的』を推し量ることができないのだから、その推し量れないモノが果たして進歩しているかどうかなど、究明する事などできるはずがない。

 繰り返すが、手段としての科学技術が進歩している事は、明瞭である。ただし、その科学技術の進歩が、イコール人間の進歩であるかどうかは、人間などに分かるはずがない。
 人間の進歩というのは、文明の進歩のことであり、つまり、ほとんど『それぞれの国家の進歩』のことを言っていると考えて良い。というか、それ以外に考えようがないはずだ。
 しかし、国家などという複雑なものが「進歩しているかどうか」など、どう捉えろというのだ。いいや、捉えられるはずがない。
 人間ーーつまり国家は、もしかしたら進歩しているのかもしれないし、退歩しているのかもしれない。そんなことは誰にも分からないのだ。

 だから、『進歩主義』というのは、何の根拠もない、単なる錯覚に過ぎないのである。



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一票の格差を問題視するイデオロギーを、問題視する 

 今回は経済から少し離れて、「一票の格差問題」について。

 まず、一票の格差とは何か、という簡単な解説から。
 ここでは、非常に単純化したモデルにて例えてみよう。

 あるところに、N国という国家があった……と想像して欲しい。
 この国は人口約千人くらいで、中では10の県に分かれている。その上で、各県はそれぞれが一人づつ代表者を出し、その代表者達が議会にて国の政治について話しあっていたとする。

 代表者の決め方は、県ごとで選挙が行われていたのだが、ただ、10の県それぞれは人口が違う。

 例えば、A県には200人が住んでいたが、B県には50人しか住んでいない。当たり前だが、A県での一票は「200票の中の一票」であるのに対し、B県での一票は「50票の中の一票」ということになってくる。
 すると、A県では、200人の人間の投票で一人の代表者を選ぶのだから、各々一人に与えられた一票は200人分の1の権限しかない。だが、B県では、50人の人間の投票で一人の代表者を選ぶのだから、各々一人に与えられた一票は50人分の1の権限となる。
 つまり、人口の多い選挙区では一人が与えられている一票がそれだけ薄まって軽くなり、人口の少ない選挙区では一人が与えられている一票がそれだけ密になって重くなるという風にも考えられる。

 これが、「一票の格差」というものである。



 ……さて、ここで俺は疑問に思うわけだ。
 一票に格差が生じているという事はまぁ理解できるのだが、そもそも一票に格差があって何が問題なのだろうか、と。
 俺の頭が悪いからか、その辺りがよく理解できないのである。

 だって、例えば、俺がA県に住んでいたとして、A県は一人の代表者を議会に送り込めているのだ。そして、その代表者は、別に俺を含めた個人個人を代表しているわけではなく、「A県を代表している」のである。
 これは俺が勝手に言っているわけではなく、『議会』というものはそもそも国家の内部にあるそれぞれの組織の間の利権を調整する為にある機関なのである。
 それは、『政党』という言葉がそもそも英語で『party』という事からも伺い知れる。party(政党)とは「part(部分)の権益が集まった徒党」という意味なのだ。この『部分』とは何かと言えば、「国家の中の一部分」という意味なのである。
 そして、議会の中で話し合う代表者達の中で、またまた代表者を選んで、政治のトップ(内閣)を組織するのが、「議員内閣制度」なのだ。


 その上で考えると、この「一票の格差を問題視する姿勢」には、非常に問題かつ危険な思想が含まれているのではないかと、疑わざるを得なくなってくる。
 その「問題かつ危険な思想」とは、「一票の根拠」を「一人の人間だから」という所に置く思想の事を指している。換言すれば、「国民主権」の根拠を「人権」に置いてしまっていないかという懸念だ。

 これの何がマズいか。
 それは、この考えが、「そこにいる『人間』による多数決が、概ねベターな結論を出しうる」という架空の前提に立っているからである。
 この前提が全く空理空論で、出鱈目なのである。
 何故なら、そこにいる『人間』による多数決が、概ねベターな結論を導くーーという前提を筋立てるには、「『ベターな結論』というものが、概ねすべての人間の中で共通している」という前提が必要とされるからだ。また、その「概ねすべての人間の中で共通するベターな結論」というものの存在の為には、「すべての人間に共通する合理性」が必要になるわけだが、そんなものは無いと考えるのが妥当だし、仮にあったとしても、いかなる人間にも能力的に把握不可なはずなのである。

 もし、人間の一人一人が、全く同じ環境で、同じ組織に属し、同じ立場を持つものであれば、「すべての人間に共通する合理性」のようなものがあると仮定しても良いかもしれない。だが、現実の人間はそのようにできていない。

 N国を見てみれば、N国民の千人の中でも、色々な組織や産業に属した、様々な立場の者が存在するはずである。例えば、A県民にとっての『ベター』とB県民にとっての『ベター』は、必ずしも一致しないはずだ。
 しかし、「主権」の根拠を「人間であること」にしてしまうと、A県民もB県民もないのである。或いは、「産業の利権や既得権益を政党に弁護してもらうこと」も、「悪いことだとする」という変な理屈が蔓延してしまう。

 一体全体、このような姿勢の下での選挙は、何を選ぶ選挙だというのか。

 だって、「一票の格差を問題視する姿勢」の下では、「一票の根拠を人間であること」に置かなくては成り立たないのであり、そして、「自分の所属する地域、組織、団体、産業の利権を代弁してくれる代表者を選ぶ」という観点を否定しているのだ。

 そんな中で代表者を選べと言われても、一体どんな基準で選べば良いのかワケが分からない。
 ワケが分からないが、理屈上は次のようになる。

 統一的な合理性の基準を選ぶ選挙ーーだ。

 属性を無視した一人一人バラバラな人間に、均質で平等な選挙権を与えるーーという発想の下では、その『個々人』の間の便宜をはかるための「統一的な合理性への見解」が必要になってくることは、先ほど論じた通りだ。
 しかし、これも先ほど述べたとおり、「すべての人間に共通する合理性」なんて、人間には能力的に把握できない。そこで、一人一人バラバラな個人としての人間による、純粋な『多数決』によって、その「合理性への見解」を統一させるーーという筋立てなのである。


 しかし、現実にこれをやってしまうと、「統一した合理性」に反する立場に属する地域、産業、集団の利権は、毀損され、破壊されていってしまう。その理由は、「多数が選んだ、合理性への見解」に反しているからというだけなのに、だ。

 まあ、これだけなら、「この少数の人たちが可哀想」で済むかもしれないが、残念ながらこれでは終わらない。

 一人一人バラバラな『人間』が「人間に共通した合理性の見解」を多数決によって選ぶと、それが常に一定の見解であり続けるなどということは、まずあり得ない。
 むしろ、昨日の多数が、今日では真逆が多数、ということになるなんて事はザラにある。
 すると、その「『統一した合理性』に反する立場に属する地域、産業、集団」というのも、その時々に変わってくる。
 つまり、時流によって変わる『統一した合理性』によって破壊される対象となる国内の「地域、産業、集団」も、次々に変わっていくのだ。

 而して、これまでの積み重ねで国内に網の目のように形成されていた「地域、産業、集団」が、「その時どきの合理性への見解」によって破壊され続けるということになってしまうのである。



 俺には、世の中がそのような方向、姿勢、態度、に流れていっていることが、恐ろしくてたまらない。
 もしかしたら、明日には自分の所属する地域や産業や集団を不合理とする合理が多数派になって、自分がやり玉に上げられるかもしれないからだ。或いは、もしあの時、自分が官僚や公務員だったら、自衛官だったら、郵便局員だったら、農家やJAの職員だったら、東電の社員だったらーーといった風に考えるだけでも、震えが止まらないのである。


 だから、俺は(無駄だとは思うけれど)、「国会議員とは、地域、産業、集団の既得権益を議会にて代弁する為に存在する」と理解する姿勢、態度を、日本国民に取り戻してもらいたいと、強く訴える。
 つまり、「政治権力」の根拠を、「人間であること」に置いては誤った方向へ進んでしまうと、警鐘を鳴らしたいのだ。
 政治権力の根拠は、「一人一人の人間」にあると考えるのではなく、「地域や産業や集団」の方にあると考えるべきなのである。


 さて、最後に、これら「一票の格差を問題視するイデオロギー」の問題は、『日本国憲法』がそのように謳っていると誤解されるような文章である事が、最も大きな要因だという事を指摘しておかなければならない。
 それは、『国民主権』と『基本的人権』という理念の文脈のことである。

 日本国憲法の問題では、よく「九条二項」にスポットを当てられているわけだが、本当に問題視すべき危険な所は、この『国民主権』と『基本的人権の尊重』という理念なのだ。

 もし、『国民主権』と『基本的人権』の理念が、別々に語られていたとすれば、大した問題にはならなかったのかもしれない。だが、この二つがセットになって、「国民主権の根拠が、生まれながらに一人一人が持つ人間の権利である」かのような文脈になっていることによって、この憲法全体が非常に凶悪なものに仕上がっているのである。

 この凶悪な理念は、『日本国憲法』が制定されたばかりの戦後では、まだ一部のインテリ達の理屈でしかなく、日本社会のありようで前面的に発揮されてはいなかったように思える。何故なら、社会全体の有り様は、慣習やシガラミと密接に結びついているため、何か別の理念をもって一朝一夕で変質させるなんてことはできないからだ。もっと簡単に言えば、「戦前、戦中に生きた人々が、戦後一瞬にして別の人間に総入れ替えしたわけではない」ということである。

 しかし、何十年とたってくると、まさに「戦前、戦中に生きた人々」が殆ど現役世代を去っていく。当たり前だ。人間は、生まれて、歳を喰って、死ぬのである。そうなると、何十年単位のスパンにおいては、国家の民は総入れ替えをしているということになる。

 そして、ここ二十年あまりの日本の停滞は、「日本国憲法の理念がマトモである」とする教育や、インテリのすべからくがそのようにのたまう社会の中で育った者しか、現役世代に残っていない事による当然の帰結なのではないか。
 つまり、日本国憲法の理念、「国民主権の根拠を、人権に置く」というスタンスが、日本社会で発揮されるようになってしまったから、停滞していると主張したいのである。


 であるから、今必要とされる態度は「一票の格差を問題視する態度」ではなく、むしろそういった空理空論を否定し、「シガラミや、コネや、世襲や、既得権益といったもので結びついた国内の小集団ごとに代表者を選ぶ」という態度なのである。
 それができずに、「国民主権の根拠を、人権に置く」という筋立てから脱却できなければ、平成の御代に入ってからの日本のあらゆる問題が収束せず、「地域、産業、集団」というものを破壊していく病理を疾患し続けることとなるであろう。



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