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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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反・反原発のススメ 

 俺は、「反原発」を叫び立てたり、心情的に原発を敵視したりするヒト達の思考回路が、どうしても理解できません。
 ですので、このブログでは、何度か「反・反原発」の記事を書いたりしました。

 ですが、今なお、昨今の原発再稼働の議論に対しては、「反原発」の立場を崩さない、あるいは、心情的に反原発に心寄せる多くの人々がいます。

 このように、「反原発」の世論が、あまりに根強いのを目の当たりにすると、「ひょっとしたら、多くのヒトは『電力』とか『エネルギー』というものに対する認識自体を勘違いしているのではないか?」と、疑わざるをえなくなってきます。

 ひょっとしたら、電力やエネルギーが、「人間一人一人の『便利』」のために存在しているとでも、思っているのではないか?……という疑念です。
 だとすれば、これ以上に浅はかな考えはありません。


 まず、我々個々人は、決して、「電力やエネルギーを消費する生活」を「自由意志によって選択」して営んでいるわけではないでしょう。
 実は、社会が「電力やエネルギーを消費する生活様式」を前提として回っているので、個人は好むと好まざると、その前提に合わせて生活をしていかねばならない……という話なのです。

 例えば、多くの人は「車を使うのは便利だからだ」という風に勘違いしているきらいがありますが、それは違うわけです。
 実は、「みんなが車を使っている」から「車を使ったスピードでの移動」を前提として社会が回っているので、好むと好まざると車を使わねば生活を営んでいけないのです。
 もし、車を使う者が少人数である社会にあれば、車に興味のない者は別に車を利用しなくたって大丈夫だったわけですが、「車を使ったスピードでの移動」を前提とした社会の上では、そうもいきません。
 車の使用には、免許を取るのに大変な労力とお金をかけ、車自体には数百万のお金をかけ、税金やら、保険やら、車検やらのランニングコストもあって、定期的に洗車までしなければならない上に、生命の危険をゼロコンマ数パーセント背負わされなければならないのにもかかわらず。
 つまり、『車』というエネルギーを消費する『技術』は、それによって社会的前提を作りだし、個々人に対しては耐え難く面倒な不自由を強制しているわけです。


 電力やエネルギー消費する『技術』は、すべからくがそうです。それらは、個々人にとっては、決して「個人に便利をもたらすモノ」などではないのですよ。
 単に、科学技術は、社会的前提を効率的に改変しているだけなのです。


 しかしーー
 だからといって、俺は、「科学技術など不要なものだ」なんてことが言いたいわけではないのです。

 科学技術は、「個々人の便益の為」になど存在することはできず、「社会を効率的に改変する為」にだけ存在しうる、という『事実』を言っているだけです。
 そして、話が電力とかエネルギーとかいった大きなモノに及べば、その社会とは、どうしても『国家』の事を意味せざるをえなくなります。

 ということは、我々が「電力やエネルギーを消費する生活様式」を強制させられているのは、「国家を効率良く回す」という目的の為だと考えるほかないわけです。

 俺は、国家や政府を擁護する者なので、自分個人の生活が科学技術によって酷く不自由を被っていたとしても、「仕方がないことだ」という風に納得します。
 しかし、世の中の大多数を占める『反国家、反政府的な人たち』は、そもそも電力とかエネルギーを使用する『科学技術』に対して、忌避していなければおかしいはずなのですが……そういった様子はないのが不思議な所です。

 何故なんでしょう。

 それはおそらく、電力やエネルギーといったモノが、極めて国家的なモノであるということに「気づいていないから」ではないでしょうか。
 つまり、電力やエネルギーを、「一人一人が便利な機械を使うためのモノ」という風に考えているからではないかということです。


 そうなると、常からは電力、エネルギーといった科学技術を概ね受け入れている人々が、「原発の話題になった途端に急に嫌悪を顕わにする」のも理解できます。
 つまり、原発は、「政府が民に対して不自由を強制している」ということが、ありありと目に見えるんですね。
 実は、電力、エネルギーというもの自体が、そもそも「政府が民に対して不自由を強制している」モノであるわけですが、それには気づいていない(或いは気づかないフリをしている)ので、原発の話題に関してだけ、急に反発的になるのです。


 原発が特に、「政府が民に対して不自由を強制している」ということを、ありありと目立たせている所以は、「立地」の問題が大きいからでしょう。
 原発は、「どこかに建てる」ものです。
 政府と電力会社が、ある場所に原発を建てれば、それは民の一部から『安全』を徴収したことになります。
(たとえそれが、0.数パーセントの『安全』であっても、政府なるものが徴収すれば、とてつもなく大きなモノを徴収したというように騒ぎ立てる輩が絶対にいますね)

 おそらく、このことが多くのヒトの気に喰わない所なのでしょう。


 しかし、これを「気にくわない」と言っている人々が、俺はとっても気にくわないのです。
 気にくわない理由は以下の二つです。

 まず大前提として、政府は、国民から「安全」を徴収する権限があってしかるべきだからです。
 なにを勘違いしているか分かりませんが、政府にはそういった権限が備わっているからこそ、『政府』として民なるものを統治できるのですから。

 次に、科学技術といったものは原発に限らず、すべからく「社会が、個人に対して、『安全』や『自由』のようなモノを徴収して成り立っている」という事実に気づかないところが、あまりに脳天気だからです。
 そういったことの目立つ原発にだけ反発し、他の『科学』といった種類のモノには殆ど無批判で礼賛している態度は、本当に進歩主義的で醜いです。



 そういうわけで、俺は、いわゆる「原発推進派」なわけですが、それは原発そのものに思い入れがあるからというわけではなく、反原発の思考回路が嫌いでたまらないからです。


 つまり、俺が原発について推奨したい立場とは、『反・反原発派』なのです。



(了)



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新自由主義を批判する、二種類の態度 

 俺は、いわゆる『新自由主義』を批判的に見る態度には、二種類あると考えています。

 一つは、「新自由主義では、国力が上がっていかない」という、ケインズ的な立場からの批判。つまり、市場(民主主義)への不信用からの批判です。

 もう一つは、「労働者階級、弱者、失業者といった人々が可哀想だから」という立場からの批判。もしくは、「自分が弱者で、弱者が政府や強者へ請求をする」というような立場……つまり社会主義的な立場からの批判です。


 そして、俺は、この後者の種類の立場が、吐き気を催すほど嫌いです。
 それはもう、新自由主義を嫌いなのと同じくらいに嫌いなのです。



 よーく考えてもみてください。
 おおよそ、新自由主義も社会主義も、やっていることは「政府への請求」ではないですか?

 新自由主義は、強者が『自由』を政府へ請求している。
 社会主義は、弱者が『平等』を政府へ請求している。

 そういう輩が社会に存在することは、まあ、いたし方ないとしても、そんな連中の言うことを聞いて、国家がまともに回っていくとは思えませんね。
 それでも、世間の大多数は、大抵、新自由主義か社会主義者か、どちらかなわけです。(自由と平等のどちらも請求するDQNすら見かけます)
 みんな「政府への請求」が大好きなんですね。

 ただ、俺は、そんな『政府への請求が大好きな世間の大多数』が、大嫌いなんです。
 何故なら、その請求権の根拠は、とどのつまり「基本的人権の尊重」=「今生きている一人一人が『どうしたいか』が大切」という所から来ているが故に、論ずるに値しないモノだからです。




 新自由主義を批判的に見るのに適切な立場は、「政府への『自由』の請求」を批判的に見る立場から出発しなければおかしな事になります。

 つまり、「強者へ自由を与えていき、弱者を淘汰していく」という新自由主義的な考えが「ダメ」なのは、別に「弱者が可哀想」だからではなく、「強者へ次々と自由を与えた所で、市場(民主主義)は均衡しない」から、と捉えなければいけないと主張したいのです。


 もっと丁寧に言えば、市場なるものは、それを市場として成り立たせる『常識、偏見、先入観、ルール』といった「不自由」が前提としてあるからこそ機能するのだという指摘です。
 つまり、市場が機能しているのは、『国家』とか『政府』が、人間の個々人に「不自由を強制しているから」であり、「国家による統治の恩恵」の一つなのです。

 これは、至極当たり前の事です。
 人間の一人一人が、真に自由に、好き勝手に経済活動をして、「ヒト、モノ、金」が上手いこと均衡して回って行くだなんてファンタジーは、あり得ないでしょう?



 これは本当に重要なポイントですよ。

 何せ、「新自由主義に対して批判的である」という所だけを考えれば、共産党だってそうなのですから。

 また、逆に、この「新自由主義への批判」に関する二方面からの筋立ての違いを認識していないと、
「『左翼』である『共産主義、社会主義』に対して真逆の、『新自由主義、自由民主主義』が『右翼』である」
 というような酷い誤解が、世の中を跋扈し続けることでしょう。

 冷静に考えれば、新(ニュー)、自由(リベラル)、民主(デモクラシー)の、何処をどう考えれば保守なのか、ワケが分からないのにも関わらず、です。



(了)


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Janre: 政治・経済

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新自由主義の嫌いな俺が、安倍内閣を支持する理由 

 俺は、TPPや規制緩和といった、いわゆる新自由主義的な経済思想群が大嫌いです。
 そして、アベノミクスの下に「リフレとケインズ」という背反する指向を同居させていた安倍内閣においても、(TPPの参加表明以降特に、)「リフレ→新自由主義」といった指向を多分に帯びてきてしまいましたね。
 これは、俺の個人的で偏屈な見解というわけではないでしょう。

 しかし、俺は、安倍内閣を支持するし、自民党を支持します。

 今回は、それが何故かを話したいと思います。



 第一、俺は、安倍内閣の前に、自民党を支持しています。
 これは何故かと言えば簡単で、「それまで長く続いていた既存の政治権力」だからです。
(長く続いてきた、というのが肝ですよ。つまり、例えば、民主党政権下においても、既存の政治権力というのは、自民党なのです)


 基本的に、長い間政治体制の根幹を握ってきた政治権力は、擁護するべきなのです。
 長い間やってきた政治体制を基本的に擁護する姿勢がなければ、政治権力は短期間にあちらこちらに入れ替わり、一所に留まることがなくなるでしょう。
 それの何がマズいかと言えば、政治権力がめまぐるしく入れ替わる……つまり、政権交代の可能性が常に高い状態は、極めて民主主義の強い状態だからです。
 だって、これでは、大衆とか民衆の多数といったモノの「こうしたい!」という直接的な欲望に媚びなければ、政権につくことが出来なくなってしまうでしょう?

 この「ラディカルに政権をめまぐるしく交代させて、より大衆の多数の意見を反映させる」という事を良しとしたのが、ルソーに代表される革命思想ですね。
 つまり、「民衆の多数の意見」を直接的に反映させる為に、「政治権力の所存をめまぐるしく変えて鎖を付けるべきだ」という筋立てです。

 「二大政党制が良い」といった理屈は、概ねこの革命思想の筋立てから出てきているものと言って良いでしょう。
 ルソーの言うような過激な革命思想は、フランス革命の失敗によって説得力を失っていますので、じゃあ「二つの大政党による、めまぐるしい政権の交代」によって、政府に鎖をつけよう、という事です。
 しかし、その鎖を牛耳るのは、結局の所、民衆の多数の意見、つまり民主主義なわけです。これでは実際、「民衆の多数の意見」を反映させる為に、「政治権力の所存をめまぐるしく変えて鎖を付けるべきだ」という革命思想の筋立てと、ほとんど同一のモノと考えざるをえません。



 さて、ここで、新自由主義の問題に移りましょう。
 そもそも、新自由主義の問題の出発点は、革命思想を祖に持つ『自由民主主義』(リベラルデモクラシー)にあります。
 勿論、経済の思想と政治の思想は、必ずしも連動するわけではありませんが、この『自由民主主義』と『新自由主義』の筋立ては、ほぼ同一種のモノと見るしかありません。

 人間の個人個人の「こうしたい、ああしたい」という欲望を自由にするため、政治的決定を「個々人の自由意志による多数決」で決めるべきとする自由民主主義。
 人間の個人個人の「こうしたい、ああしたい」という欲望を自由にするため、経済を「個々人の自由意志による多数決」(市場)で全て決めるべきだとする新自由主義。

 少なくとも、含む問題性は同一種類のモノです。

 そして、それは明らかに、『自由民主主義』を肯定する前提に立っての『新自由主義』という組立で成り立っているのです。

 つまり、新自由主義を否定したいからといって、「民主的に既存の政治権力を打倒」してしまったら、それはもう本末転倒甚だしいわけであります。



 さらに、同じように『自由民主主義』や『新自由主義』を唱えていたとしても、それを「既存の政治権力」が言うのと、「対抗勢力」が言うのでは、全然意味合いが違います。


 既存の政治権力側が自由民主主義や新自由主義を唱えるのは、「我々が持っている政治権力を、我々は独占いたしませんよ」と言って、民主主義に媚びていることになります。

 対して、対抗勢力側が自由民主主義や新自由主義を唱えるのは、「既存の権力者から、我々が権力を奪い、それを民衆に開放します」と言って、民主主義に媚びていることになりますね。


 どちらも褒められた話ではないにしろ、どちらが急進的な指向をもつかと言えば、当然、後者なわけです。
 当たり前ですね。対抗勢力側は、民主主義によって政治権力をこの手にしようと考えるわけですから。


 それはある意味、ほとんど民主主義の独裁と言って良いほど民主主義に偏りすぎた現代において、仕方のない事なのかもしれません。
 そんな中でも、まだ民主主義を制限する事ができる道は、既存の政治権力に、政治権力をそのまま持っていてもらう事以外にありません。
 それならば、「我々が持っている政治権力を、我々は独占いたしませんよ」といった程度の自由民主主義、新自由主義で済みますから。

 具体的に言えば、維新やみんなの党が民主主義に媚びなければならない熱量と、自民党が媚びなければならない熱量では全然ちがうだろう、という話しです。
 政策論に落としても、その違いは明白かと思います。
 維新やみんなのリベラル的、新自由主義的な政策、理念は、灼熱のごとく熱く、民主主義に媚びていますね。
 

 さらに、自民党は長らく政権の座にいたため、民主主義の中でも「比較的マトモな民主主義」を活かす体制をまだ残しています。
 それは、既得権益とか地域のシガラミによって選出された族議員や、政党内政党とも呼ぶべき派閥です。
 だいぶ直接的な民主主義によって潰されてしまったとは言え、そういった既得権益を代表する議員を最も残しているのは自民党ですよ。

 俺は、正直、安倍首相が何を考えていらっしゃるのかは分かりませんが、その首相の立場は、自民党の総裁であることの上に成り立っていることだけは分かります。つまり、たとえ新自由主義的な政策を口にしようと、(もっと言えば、たとえ党名が『自由民主党』であろうと、)自民党の内部の既得権益やシガラミを全く無視して政治を行うことはできないはずなんです。

 というより、「既得権益やシガラミによるマトモな方の民主主義」と、「大衆の一人一人の意見が直接反映される、マズい方の民主主義」が、せめぎ合っているというだけで、どれだけマシな状態と言えるか。
 もし、自民党が(長い間続いた既存の政治権力が)、なかったとしたら、「大衆の一人一人の意見が直接反映される、マズい方の民主主義」が、何にも制限されずに発揮されていくに決まっているのです。
 というか、民主党政権がまさに、民主主義の映し鏡ではなかったですか?


 また、経済に関しても似たことが言えます。
 俺は、常から、アベノミクスには、(新自由主義を背負った形での)リフレ的な指向と、ケインズ的な指向があると言ってきましたね。
 これは必ずしも、「リフレ的な指向があるからダメ」と言っているワケではないんです。
 「新自由主義的傾向とケインズ的傾向が、せめぎ合っている分、マトモである」と言っているのですよ。
 これは、安倍支持者に双方の層があったからです。

 ここでケインジアンには、本当によく考えて欲しいのですが、少しでもケインズ的な経済論に耳を傾けてくれる内閣の構成が、今の内閣以外で考えられるのでしょうか?
 また、ケインズ的な人々からも、それなりの支持を集めていたからこそ、アベノミクスにケインズ的な指向が含まれているわけでしょう。
 ケインズ的な人々が、安倍内閣から離れていけばいくほど、アベノミクスにケインズ的な指向が失われてしまうのは、政治力学として当然の話しなのではないでしょうか。

 俺も、どちらかと言えば、経済においてはケインズを支持するものです。
 ですから、TPPの参加表明での首相の演説を始めとするグローバル主義や、いくつかの規制緩和の政策議論に、嫌悪、憤激する気持ちは本当に痛いほどわかります。
 金融緩和に反対ではないものの、「金融緩和さえしていれば、規制緩和をしても大丈夫」というような筋立てを持っているが故に、リフレ派も嫌いです。

 しかし、少なくとも、それらとケインズ的指向が「せめぎ合う」という段に至る内閣は、安倍内閣以外考えられません。


 今回、この内閣支持率の中、安倍内閣への支持を再び強く訴えているのは、このままケインズ的な人々が安倍支持から離れてしまうと、そのせめぎ合いすらなくなってしまうであろうと危機感を覚えたからです。

 すると、残った安倍内閣支持の「世論の70%」は、すべからくパッパラパーの自由民主主義者ということになってしまいます。
 さすれば、内閣は、どうしても70%のパッパラパーに寄り添った形での政策しか打てなくなるではありませんか。

 それで、代わりがいるのであれば良いかもしれませんが、「既存の政治権力」というのは、「既存」でなければならないが故に、決して代わりがいないのですよ。


(了)


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カレッジ・エコノミクス~ある経済学講師との問答 

 俺がまだ学生をやっていた頃の話です。
 といっても数年前の話なのですが……その頃は、まだ民主党政権が始まったばかりといった頃で、昨今では中学生でさえ知っているTPPなんてモノも、そこまで世間の注目を集めていませんでした。

 そんな時節でも、俺がたまたま受けていた授業『国際経済学うんたらⅠ』の講師は、やけに「TPP、TPP」とかしましく騒ぎのたまっていた覚えがあります。(ちなみに自らの名誉の為に言っておきますが、俺、経済学部ではないですよ)
 彼は、「経済においては、国境は越えた方が良い」と固く信じているらしく、「政治は(ズルっこい)既得権益を反映させるものだから、経済の発達にとって邪魔なモノである」という理屈で一貫していました。



 尚、この授業はあまり人気の授業というわけではなく、十名弱ほどしか受講していません。よって、互いの距離感が近く、授業は問答の応酬で展開されます。

 というか、講師は話が一区切りつくと、必ずこう聞いてきました。

「ここまでで、何か質問はないか?」

 これは、質問があったら聞いてくれ、という意味ではなく、質問をしなさいという意味です。質問が無いと怒るからです。ですので、みんな一生懸命に質問を捻りだします。

 そして、不真面目で不道徳的な俺だって、たまにはきちんと質問をしたのですよ。

「先生」

「はい、おーじ君」

「リカードモデルってのは、つまり、二国間で、トイレットペーパーの産業と紙オムツの産業があったとして、仮に両方とも相手国より上手く生産できていたとしても、自分の国は得意なトイレットペーパーを作ることに専念して、紙オムツは相手国に任せた方が効率よく生産できるって事が言いたいんですよね?」

「まあ、そういうことだ。リカードモデルは、そのことを客観的に数値で証明している大事なモデルだから、きちんと覚えておきなさい。ただ、関税があると、比較優位のない産業も残ってしまうだろう? つまり、関税というのは、比較優位のない産業の圧力が、政治的に影響力を発揮して設定しているものにすぎないわけだ」

「でも、先生。もし、トイレットペーパーを作り過ぎて、売れ残ったらどうするんですか?」

「大丈夫だ。関税がなければ、相手国に売れば良い。逆に、こちらは、相手国が作った紙オムツを買うのだから、これでwinwinだろう」

「しかし、国が違うということは、通貨が違うし、物価が違いますよね? つまり、こちらの国で売れるトイレットペーパーの値段と、相手国で売れるトイレットペーパーの値段は違うはずでしょう?」

「その通りだ。君、良いところに気づいたじゃないか。だからこそ、TPPというものが重要になってくる。TPPはただ単に関税をゼロにするだけではなく、複数の国で統一されたルールを作っていこうというものでもある。おーじ君の言った物価や為替の違いは、政治的に設定されたルールの違いによって市場が分断されているから起こることなんだ。だから、市場を大きな枠組みで統合して、ルールを統一していく事が大切なんだな。そうすれば、その圏内においては、一つのモノに一つの値段がつく、という事になり、その圏内全体を経済的に発展させる事ができる」

「なるほど。じゃあ、リカードモデルを成り立たせる為には、国の政治を越えた所での、ルールの統一が必要だということですね」

「うむ、そういうことだ」

「そうなると、一体、そのルールはどこの国のものに準拠するのでしょう?」

「どこの国、という事は考えないようにしなければならないね。その点でもTPPのような協定が必要なんだ。それぞれの国が話し合って、大きな枠組みのルールを作らねばならないのだから、どこも自分の国のことばかり考えていたら駄目だろう」

「そうは言っても、我々が『国際経済』というものを見る時には、徹頭徹尾『日本が、国際経済の中でどう国力を高めるか』という視点でいなければワケがわからないじゃないですか?」

「勿論そうだ。だが、自分の国の主張に、比較優位の無い産業界からの政治的圧力が含まれていてはならないわけだよ。それで話し合いがまとまらなければ、結局日本全体の利益にならないだろう。そして、そういった話し合いは、なるべく早く参加したほうがより有利な立場を確保できるのだよ。TPPが世界の中で大きな経済圏になるのは明白なのだから、戦略上、日本も先のことを考えなければならないね」

「そうはいっても、国を越えた所でのルール作りが、単なる話し合いで決まるとは思えません。具体的に言えば、各国、自分の国のルールが採用されるのが良いと思うに決まっているわけです。そこで、より自分の所のルールが採用されるようになる国というのは、より強い軍事力を持った国であるに決まっています。おおむね、帝国主義だろうとなんであろうと、軍事力を背景として自分の国以外にも自分の国のルールを適用させることが第一目的なわけです。そうすれば、自分の国の市場が大きくなった事と同義で、規模の経済がとれますから。つまり、経済に限ってのルールの統一と言っても、それは物理的強制力と切って切り離せない関係にある。よって、もし国境を越えた経済圏を作るのだとしたら、それはすべからく日本よりも軍事力の弱い国が相手でなければならないと思います。日本より軍事力の強い国が相手では、日本のルールを強制させることができませんから」

「確かに、十九世紀や二十世紀前半はそうだったかもしれない。しかし、現代ではそういった論理は通じない世界になっているのだよ。何故なら現在では、どの国も戦争が起こせないからだ」

「?」

「今は核兵器というものがあるだろう。よって、戦争を起こそうものなら、核兵器を落とされてしまう。実際、日本も戦争を始めて、核爆弾を落とされただろ。そういうことが分かっているから、どの国も戦争を始められない拮抗状態にある。そうなると、話し合いは、世界上で限りのある資源をどう効率的に運用していくか、という論点に集約して行かざるを得ないのだよ」

「なるほど。俺も、先生と同じ意見です」

「ふむ、そうか」

「はい。俺も、日本は早く核兵器を保有すべきだと思っています」


 この授業の単位は落としました。


(了)


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やめよう!新自由主義 

 俺は、『新自由主義』と呼ばれる経済思想群が大嫌いです。


 まずは、俺なりにここで言う『新自由主義』とうものを定義させていただくと……


・ 国家の中に『政府なるもの』と『民間なるもの』があると考えた上で、
 「政府の活動領域を制限していき、民間の自由な活動の領域を広げていけば、市場(民主主義)が機能して経済は成長するはずだ」
 という信仰を持った経済思想

 ……のことです。


 この経済思想は、おそらく「それが思想である」という事を指摘されなければ、「当然の事」として多くの人が無意識的、反射的に好意的に見てしまっている『主義』であると、俺は考えます。

 それと同時に、この「多くの人が新自由主義的経済思想を無意識に好意的に見てしまうこと」は、大衆社会の中では当然起こりえる帰結である、とも考えています。
 何故なら、新自由主義の背景には、「一人一人の自由な判断」が、概ね「賢く、合理的である」という前提に立って、「その賢く、合理的な、一人一人の自由な判断に、より多く選ばれたモノが、より優秀なものである」という、『自由主義』及び『民主主義(=市場主義)』があるからです。

 そうなると、今を生きる日本人の一人一人は、『新自由主義』に、「みんな賢い。だからみんな自由にやれ」と言われているんですね。
 つまり、新自由主義は、人間の個人個人、一人一人に対して、「限りない肯定をしてくれている」のです。
 ならば、「人間の個人個人、一人一人がバラバラなまま塊となったモノ」であるところの『大衆』が、『新自由主義』を好きなのは当然ですね。
 だって、「みんな賢い。だからみんな自由にやれ」と言われている『みんな』に、『自分』も入っているわけです。
 『自分』を肯定してくれている――もっと言えば「媚びてくれている」から「正しい」という風に思うなんて、幼稚園児のように至極分かりやすく単純な思考回路であると言えましょう。


 しかし、現実を見ると、『人間の一人一人』は別にそんなに賢くないですよね。
 ましてや合理的でなどあるはずはないです。自分の周りを見れば分かると思いますが、人間は結構エモーショナルで理不尽なものですよ。
 この「人間の一人一人は賢くもないし、合理的でもない」という事を認めれば、「より多く選ばれたモノが、より優秀なものである」という『市場主義(=民主主義)』は何の保証もない話であるということになります。

 裏を返せば、『市場主義(=民主主義)』というものが「絶対正しい」ということにしておけば、「人間の一人一人は賢いし、合理的である」から「自由にやって良い」という話にしておけるのです。


 俺は、この筋立てが、どーしても気に食わない。何故なら、「果てしなく、自分で自分の能力を過信する態度」がひどく醜いからです。


 さらに、「民主主義(=市場主義)」が絶対正しいということにして、「人間の一人一人は賢いし、合理的である」から「自由にやって良い」という話になれば、当然、邪魔者が浮かび上がって来ます。
 そう。最も敵視されるのは、『国家』とか『政府』ですね。
 あるいは、「個人」ではない、『集団のシガラミ』や『既得権益』『コネ社会』といったものも、新自由主義者や自由民主主義者は嫌う傾向にあります。個人の自由と背反するものだからでしょう。


 そして、またまた裏を返してみれば、「国家、政府、シガラミ、既得権益、コネといったもの」を嫌うのであれば、「人間の一人一人は賢いし、合理的であるから、市場主義(=民主主義)が絶対正しい」という事にしてしまった方が良いわけです。
 何故なら、そうであれば「国家、政府や集団」から、より多くを剥奪する事ができるからです。


 そいうわけで、反国家、反政府的な思考回路からも、新自由主義といったものは人気を博すわけですね。

 国家、政府から権限を剥奪したいのであれば、「人間の一人一人はとても賢いから、市場主義(=民主主義)が素晴らしい」という事にしてしまって、「国家や政府は邪魔をしている」という話にしてしまうのが一番だからです。


 でも現実は違います。
 人間は、まず国家が無ければ絶対に生存不可能です。
 まず、国家と、その内部に存在する中間組織があり、その歴史的土台の上で『政府の領域』と『民の領域』がバランスしていなければ、経済は成り立ちません。
 常識的に考えれば当たり前の話です。


 政府の領域を制限して、民の領域を増やせば増やすほど、経済が進歩していく……だなんて与太話を信じるのは、小学生の低学年までにしてもらいたいものです。
 が、そんな阿呆な話を一斉に信じてしまうのが民主主義であり、現状、日本国では民主主義以上の政治権力が存在しないのですから、一体どうしたら良いものか、頭の悪い俺には皆目見当もつきません。



(了)

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国会って何故あるの?第三回(上院編) 

国会って何故あるの?(間接民主制)第一回
国会って何故あるの?(下院編)第二回
                     ……の続きです


 前回で、下院とは「国家に内在された部分(小集団)ごとの代表たちが、それぞれの既得権益を調整する所」であると、解説しましたね。
 ただ、下院で決められた「ルールの微調整」は、やはり甚だ不安定なものです。

 そこで、N国では『上院』というものを置いている、というところだったと思います。

 では、『上院』とは一体、下院とどう違うのでしょうか。



 答えから言ってしまえば、『上院』とはその名の通り、「上等な院」のことです。
 まあ、上等と言われても、「何が上等なの?」と思いますよね?

 ありていに言えば、『階級』が、です。

 つまり、上院というのは、「上等な階級の者」による院なのです。


 約一万人の住むN国には、皇帝からタイトルを授かった二百人の貴族がいました。
 『上院』は、その貴族二百人の中から選出された五十名によって構成されています。
 そして、もし下院の決定に浅はかな所があれば、上院の過半数をもって、下院の決定を否定できるのです。

 よく考えれば、そうでなくちゃ怖くてたまりませんよ。
 だって、『下院』は、出自、家柄関係なく、どこの馬の骨か分からんような奴でも代表者選びに参加できるのですから。その結果、どんな代表者が選出され、どんな結論を導くかも分かりません。
 ですから、『出自、家柄を問わない多数決』を、『上等な家、身分の者達』が「ダメ出し」する所が欲しいですね。

 それが『上院』なのです。

 第二回にて、マックス・ウェーバーの『支配の三分類』の話をしたかと思いますが、下院が「カリスマ的支配(多数決)」の色を強く帯びるものであれば、上院は「歴史的支配(大儀、権威)」の色を強く帯びるべきものと言えるでしょう。

 そう考えると、『二院制』とは、ある意味において、「分権」の機能を期待してのものであったはずです。
 つまり、『カリスマ的支配(多数決)』の政治権力独占を抑制する機能……「民主主義を制限する英知」であったと言えます。



 こんな事を書くと、「貴族階級の者達が政治権力を握れば、一般の民から搾取をするに決まっている」と考える人は多いでしょう。
 個人的に、こういった考え方は反吐が出るほど嫌いなのですが、これにも一理を認めないというわけにもいきません。確かに、『歴史的支配』に政治権力を与えすぎるのも、あまりよろしくない。

 ただ、二院制の英知をナメてはいけません。
 そのために、『下院の優越』というものがあるのですよ。



 N国で言えば……
 N国の下院は100名、上院は50名でしたね。

 例えば、『下院』で「税率を半分にする」という法律が、賛成51名で通ったとします。
 これは大変です! 今までやってきた税率をいきなり半分にして国が回るはずがありません!
 何故こんなことが起きたかと言えば、N国民は「政府の無駄遣いを減らせば、税金は半分で済みます」とのたまう輩を、51人も下院の代表者に選んでしまったんです。(まるで、『に』から始まるどこかの国みたいですね!)

 しかし、ここで『上院』が出てきて口を挟むんですね。「そんなアホなこと許すまじ」と。
 この法案は、上院にて反対三十名で否決されました。危ない所でしたね。

 ただ、「じゃあ、どんなに下院が良いと思ってても、上院が良しと言わなきゃ法律は通らないのか」と言えばそうではないのです。
 何故なら、上院で否決されても、もう一度、下院に戻ってきて採決するからです。

 つまり、上院の否決は「もう一度、頭冷やして考え直せ」と言っているだけなんですね。
 ただ、上院で法案が否決されたという事はそれなりにワケがあるはずですから、下院での再びの採決の場合には「三分の二」の賛成が必要になります。

 この『税率半分法案』に関しても同じで、法案が上院で否決されても、また下院に戻ってきました。そう、まだピンチは終わってないのです。
 しかし、下院の三分の二までが、「政府の無駄遣いを減らせば、税金は半分で済みます」だなんて与太話を信じる代表で埋め尽くされるーーということはなく、結局この法案は廃案になりましたとさ。
 めでたしめでたし。


 ここで注目してもらいたいのは、この二院制という制度における、「バランス感覚」です。
 この、「多数決によるカリスマ的支配」に頼りすぎず、「貴族階級による歴史的支配」にも頼りすぎず、繊細に力関係の均衡を保つ態度。
 N国の二院制はなかなかうまく出来ていると思いませんか?



 さて。それでは愛すべき我らの日本国に目を移してみましょう。

 誰もが中学校の公民で日本の国会の事を習うはずですよね。
 俺はこの時、「なんで、衆議院の方が権限が強いのに『下院』で、参議院は権限が弱く、テレビでも脇役っぽいのに『上院』なんだろう」と軽く混乱した覚えがあります。
 それどころか、中学生くらいだと流石に阿呆なので、「参議院で否決されても、衆議院の三分の二あればオッケーなら、参議院とかいらねえじゃん。参議院なくして、税金さげろや」なあんて低脳なことを考えた事を、ここに白状しましょう。
(流石に二十歳を越えた大人にこのようなガキな思考回路を持つ輩はいないと信じたいですが)

 当時の俺が、何故、混乱してしまったのか、今なら簡単にわかります。

 そう、今の日本は「参議院(上院)も、民主主義で選んでいる」からですね。
 恐ろしいことに、上院の選挙権が、俺にすらあるのですよ!(被選挙権はまだですが)
 これでは、なにが「上等な院」かよく分からないのは当然でしょう。

 つまり、現状は、「民主主義にダメ出しするものも、民主主義で行う」という、甚だ民主主義に政治権力が偏った状態なわけです。
 まさに、民主主義独裁。民主主義専制。

 とは言え、日本では既に『華族』という上級身分が廃止されてしまい、貴族階級というものがありません。
 勿論、大東亜戦争に負けてのことですが、これは大変な損失です。
 何故なら、もし、我々日本人が(あり得ないでしょうが)民主主義に偏っている現状を深刻に反省して、貴族階級を設定しようと思っても、歴史的支配は「歴史的」であるからこそ価値がでるのであって、すぐには構築できません。
 例えば、万一、今、幾ばくかの家がいきなり貴族とか華族とかいった身分に設定されたとしても、その家が人々から「上級である」と認識され、偏見を持って見てもらうことのできる『権威』を帯びるためには、甚だ時間がかかります。というか、『時間』によって醸成された先入見だからこそ、歴史的支配と言うのですから。
 つまり、歴史的支配は、「破壊することは一瞬でできるが、構築するには、それこそ歴史的に長い時間がかかる」という性質を持つものなのです。


 よって、残念ながら、理論上、我々が今すぐに「民主主義に偏った政治決定方法」を克服する手だてはありません。


 まあ、だからといって絶望して終わる……というわけにもいきませんね。
 それならばせめて「現状は甚だ民主主義に偏りすぎている」ということの『自覚』くらいは持つべきだ、と訴えてこのお話を締めることとしましょう。
 少なくとも、自覚がなければ、「民主主義が、民主主義を疑う」という酷い矛盾と付き合って行くことはできないはずですから。



(国会って何故あるの?終わり)




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従軍慰安婦問題と人権 

 『国会って何故あるの?(上院編)』を書く予定でしたが、一回変更致しまして、今回は慰安婦問題についてです。


 いわゆる『従軍慰安婦の強制連行』についての「具体的な議論」は、多くの方が本やブログにしていらっしゃるので、ここでは少し「そもそも論」的な議論を展開したいです。


 まず、もともと「あらゆる時代、あらゆる国家の軍隊において、売春のシステムがあるのは当然だ」というのはご存じでしょう。
 そりゃあそうですよ。軍人は人間で、そして概ね男なんですから。

 それは、都市にピンク街が不可欠であるのと全く変わりません。
 というより、人類の歴史を振り返れば、いかなる社会からも売春が消えることなど絶対にありえないということがわかりますよね。
 そして、軍隊とは、一つの都市のようなものです。
 沢山の人間が、沢山の機械に囲まれて、そして、人と金が良く回る。
 こういうところでは、ほぼ自然発生的に売春斡旋業(風俗店)が出回るものなのです。
 良い悪いではなく、単なる『習性』なので、「蟻はどの集団でも、大勢で土掘って巣を作る」というようなことと同じですね……



 ……なぁんて、俺は今あけっぴろげにそんな事を論じているわけですが、本来こんなことは声を大きくしてのたまう話題ではありません。

 例えば俺は、友達の女の子に対し土下座で頼み込んでコトをさせてもらったり、お金のある時は色っぽいおねえさんが多く在籍するお店にも行きます。勿論、自慰もします。

 しかしね。そんな事は、普通おおっぴらにしません。
 そりゃあ、友人と下品な会話に興じることが無いとは言いませんが、オフィシャルな場面や記録では、そりゃあ慎みます。

 何故なら、恥ずかしいし、バツが悪いからです。

 ですから、性的な事情とかそういったものは、あまり記録に残らないものなのですよ。
 それが『売春のシステム』であれば、なおいっそうです。
 例えば、「女の子をどのように集めたか」とか、「性病はどのように予防していたか」とか、「料金体系」とか、「女の子の待遇」とか、そんな事を進んで詳細に公的な記録として残そうとする奴なんていませんね。
 勿論、全く記録に残さないというわけにはいきません。が、その記録の仕方は、当然オブラートに包むものですし、必要最小限に止めるものなのですよ。
 『慰安婦』という言葉が正にそうでしょう。
 「慰め、安らぐ婦人」ですよ?
 単なる売春婦に対して、なんてエキゾチックで雅な名称を与えたもんだと感心せざるをえません。

 そんなわけで、
 売春システムについて後世へ残る情報というものは、どうしても限定的にならざるをえないわけです。
 繰り返して言いますが、それがいかに「ごく一般的で当然の事」であっても、「それなりに恥ずかしくて、バツが悪い」からですよ。

 そのくらいのこと、今の自分たちを顧りみればわかるはずですよね。
 だってほら。世の中、結構ムッツリスケベな輩だらけじゃあないですか。


 さて、こうした「性関連の事は、あまり記録に残らない」という性質を踏まえたとき、ある一つの問題が浮上します。

 それは、「後世から見た時、その空白においては無限の空想を可能にする」ということです。
 簡単に言い換えると、「スケベのお話だから、先人は多くを語らないため、後から生まれた人間から見るといくらでも茶化せる」ということです。

 そう。いくらでも茶化せる所に、際限なくけっちょんけっちょんにコケにしていったモノが、「従軍慰安婦の強制連行という『物語』」と言って良いはずです。これ以上は、コケにしようがありませんからね。

 そして、当時の軍人の多くの人たちは死んでしまっていますから、どんな罵詈雑言にも反論できません。まさにサンドバック状態ですよ。

 イヤですねえ……



 ただ、そういった状況で、「外人がコケにしてくる」というのは、至極当然かつ自然なことである事も、分かっていなければなりません。

 確認しますが、『外人』とは、「日本に帰属しない人間」ですから、基本的に『ホモサピエンスとしての身体的、生理的特徴』以外は、ただの一つも共有するところのない、『よその人』の事ですね。

 外人は、こちらに何かしら『コケに出来る隙』があれば、徹底的に貶めてくるに決まっているじゃあないですか。
 こちらを貶める事によって、自分たちの地位、権威、立場が相対的に上昇するのであれば、やらなくてどうしますか。
(それに、外人を馬鹿にするのは純粋にとても楽しい事ですし。)


 ところで、そういった「日本をコケにすれば、自分たちの益になる」という状態にある代表的な外国をあげれば、アメリカ、中国、韓国、北朝鮮です。
 しかし、俺は、実をいうと、それらの国々を「酷い奴ら」とは思っていないんです。
 何故なら、彼らは外人なので、そういったことをやってきて当然だからです。
 奴らは酷い連中だ……などと、甘ったれた事を言っていちゃあいかんのですよ。

 むしろ、俺が本当に「酷いなあ。ヒトデナシだなあ」と思うのは、日本人の方です。

 だって、慰安婦問題でコケにされている軍隊及び軍人は、日本人にとっては「よそ」ではないんですよ。
 アメリカ人や韓国人からすれば、この軍人たちは『外人』なので、誹謗中傷の限りを尽くそうが関係ないでしょうが、日本人にとっては『ウチの人』のはずなんです。しかも、もう殆ど死んでしまっているウチの人ですよ。

 なのに、日本人の中には、『すでに死んでしまっている先人』を、『軍人』であるというだけで、差別し、貶める輩がいますね。
 勿論、俺は、「差別や偏見がイケない」だなんて思っていません。差別や偏見は、国家、社会に必要なものです。
 しかし、慰安婦問題で声を大にしている連中は、概ね、「差別はイケない」という立場なんだと思うのですが、その辺りの整合性は、一体どのように筋立てているのでしょう。「軍隊や、国家や、政府に関するものにだけは、いくら差別しても良い」という筋立てなのでしょうか?

 このような一種不可解な指向は、『人権』という間違ったものの考え方からくると、俺は考えています。

 誤解されるといけないので言っておきますが、俺は何もここで「外国人の人権まで云々しようなんて、偽善ったらしくてムカつくぜ」というようなチープな事を言おうとしているのではありません。
 『人権』という「モノの考え」自体が問題だ、と言いたいのです。

 言うまでもなく、『人権』とは「人間の権利(ヒューマンライツ)」という意味ですね。
 確かにこれは、ふと聞いた感じ、良いモノのように聞こえます。
 が、ここで良く考えていただきたいのは、『権利』という言葉が持つ性質のことです。

 そもそも、『権利』という言葉は、「請求する対象」が無くては、成り立たない言葉ですよね。
 例えば、『債権』という言葉がありますが、これにはその反対側に、請求される対象の『債務』という概念がなければ成り立たないでしょう。
 つまり、『権利』と言った場合、そこには「……に請求する権利」という意味を含まざるをえないわけです。

 では、『人間の権利』においては、一体、「誰が、誰に請求する権利」なのでしょうか?
 それは、文脈上、「人間の個々人が、『政府』に対して請求する」という意味以外に考えられません。

 しかし、その『政府』に請求して適切な『人間の権利』とは、一体どのようなものか……などということは、人間には解明できないわけです。
 まあ、よく考えれば当たり前ですよね。
 もしそんなことを解明できる野郎がいたとすれば、それは『人間ではない、神的な何か』しかいませんよ。
 ですから、現在で一般的に知られる『人権』という観念は、昔は『天賦人権論』という名前で恐れられていたわけです。


 さて、「『人権』というものが、その言葉の性質上、『政府への請求』という文脈を孕まざるをえない」ものであることを踏まえた上で、『慰安婦問題』に話を戻しましょう。

 日本人でありながら、日本の国家とか、政府とか、軍人とかに対し、何故こうも貶し、罵倒し、踏みにじることができるのか……
 それは、「今を生きる人間の一人一人が、政府へ請求できる権利」を考えた際、『国家、政府、軍隊』といったモノに対しては徹底して『反』の姿勢を貫く方が合理的だからです。

 その上で、よく考えてもみてください。
 慰安婦問題に関して、擁護される対象に見られるのは、一見、『朝鮮人』見えます。しかし、『今を生きる日本人』の中で、慰安婦問題をギャーギャー騒ぎ立てる者がいるのは、別に彼らが「外人の人権まで分け隔てなく考える事の出来る心優しい者だから」なわけはありませんよね。
 政府なるもの、国家なるもの、中央権力なるもの……について『反』を唱えていれば、「今生きている日本人一人一人が、政府に対して請求できる人間の権利の水準を、担保する事ができる」からです。
 そして、(意識的にせよ、無意識的にせよ)今を生きる日本人の『多数』が人権の論理の中で「反・政府」或いは「反・国家」の意識を持っていたとすれば、『評論家』『記者』『文筆家』などが表現する内容も「反・国家」的になって行かざるを得ませんね。
 何故なら、彼らは、本や講演をその「今を生きる日本人一人一人」に買って貰わなければ生きていけないからです。
 つまり、今を生きる日本人の『多数』の、「政府に請求できる人権の水準を保とうとする」意識に寄り添う言論でないと、『評論家』『記者』『文筆家』は生活を成り立たせることができないのです。
 だから、「マスコミが悪い」というのも、甘ったれた話ですね。
 マスコミが寄り添っているのは、より多くを買って貰うために、「いかに『大衆』にとって都合がいいか」という所なのですから。

 そうなると、概ね、「現代を生きる日本人の一人一人の寄せ集め」は、「自分ら一人一人が政府に対して請求できる人権の水準を担保するため」なら、先人に対してどんなに失礼で不条理な罵詈雑言を吐きかけようと構わない、下衆で最低なイエローモンキーである、と言えるでしょう。

 そういう具合に成り下がった国家は、おそらく百年以内に離散し、滅びていくのだと思います。

 しかし、それでも、「今を生きる日本人の一人一人」の『多数』にとっては、関係ありません。何せ、下衆なイエローモンキーですから、百年後なんてどうせ自分は死んでいるから関係ないと思っているに決まっているからです。
 そして、自分の直接の子孫に対しては、「まあ、君たちの世代では、日本とか国家に縛られない『開明的で、進歩的で、新しい世界』にて頑張ってくれたまえ」などと、甚だ無責任な態度でいるわけです。

 まあ、その後輩たちが、今度は『今の我々の世代』に対して、「あいつらは性奴隷を飼っていた云々」と誹謗中傷の限りを尽くしたとしても、その時、我々はもう死んでいるはずですので、反論はできませんね。




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国会って何故あるの?第二回(下院編) 

※『国会って何故あるの?第一回』の続きです。


 さて、約一万人の暮らすN国。

 この国では、「一万人の中から、代表者の百人」を中央に集めて、「彼らが話し合った上で多数決をとる所」の事を『下院』と呼んでいるーー

 という所まで来たかと思います。


 しかし、ここでもまた、ある複雑な問題が生じますね。
 そう、「その『代表者百人』は、一体どうやって決めるのか?」という問題です……


 ところで、人間の集団の中で政治的な代表者を決める根拠は、大きく分けて三つしかないというような事を、昔、マックス・ウェーバーという人が言いました。
 ウェーバーはそれを、『支配の三分類』として以下に分類しています。


一、歴史的支配(大儀、権威)

二、官僚的支配(ペーパーテスト)

三、カリスマ的支配(多数決)

             ※()内は、おーじ注釈


 ここで、まず気づく事は、「人間に、人間の能力の如何を完璧に推し量る能力など、ない」という事です。
 よく考えてみれば当たり前なのですが、『人間の能力』の「イケてるイケてない」が、誰の目にも明瞭であるなどという事は、実はあり得ないでしょう。能力についての『基準』が世において一定ではないのですから。


 さて、話をN国に戻しましょう。

 N国では、『下院』の代表者百人を選ぶのに、三の「カリスマ的支配」を根拠にしています。

 つまり、結局は多数決ですね。

 しかしここで、その百人の代表が、「何にとっての代表(カリスマ)か」ということが、とても重要になってくるのです。

 もし、代表者百人の全てが一様に『N国の一万人』にとっての『代表』という属性しか持ち合わせていないとなると、これはとても危険なことになります。
 例えば、「候補者が二百人いて、そこに一万人が一斉に投票をし、獲得した票の多い順に、一位から百位が代表者になる」といった単純な代表者選びをしたとしたら、これはもう最低な決定方法なのです。
(勿論、この形式では、一票の格差など一切ないですけれどね)

 何故これが最低な代表者選びかと言えば、それでは結局、「直接的に大衆の意見が反映されてしまう」からです。

 代表者が、すべからく「一万人全体の代表」ということになると、すべからくが「一万人の中の多数から支持をえられる政策」しか打てなくなります。何故なら、そうしないと票が獲得できないので、代表者選びで落ちてしまうからですね。
 これを、「大衆迎合してしまう代表者の方に根性がないのがイカンのだ」と切り捨てることはできませんよ。何故なら、その理屈でいけば、「根性のある代表者」はすべからく、代表から外れているはずだからです。


 じゃあどうすりゃぁいいんだ、と思うわけですが、ここで考えるべきは「国内における部分の『既得権益』や『シガラミ』」です。


 具体的に言えば、それは、『選挙区』であったり、『政党』であったりします。


 例えば、漁師のA太郎さんの村には、五百人の村人が住んでいました。その村は、漁業という産業のシガラミと、既得権益によって人々の生活が密接に結びついているわけですが、その中で必ず『大将格』の家があるわけです。そして、その村では、『X家』という、古くから栄えている家がありました。
 A太郎さんは、「N国全体のルールの微調整」の事は全然分かりませんが、X家の旦那を『代表者』にすれば、「中央で、この村の権益を代弁してくれるはずだ」という事くらいは分かります。
 なので、A太郎さんは、自分の村のシガラミと漁業の既得権益の事を考えて、X家の旦那に票を入れました。


 これが、最もマシな民主主義の形式なのです。


 その証拠に、そもそもの話、英語で『政党』はpartyといいますね。
 これは、部分(part)の既得権益を代表する徒党、という意味なのです。


 A太郎さんだけではなく、銀行員のB子さんや、製薬会社員のC之助さんも、それぞれ、「自分の身の回りの小集団における、シガラミと既得権益を代表してもらう」という事で代表者を選ぶから、なんとかそれなりの判断基準を持つことができるのです。
 そして、それぞれの小集団の既得権益を代表する『代表者百名』が、N国の中心で、国内の権益の調整をする場所が『下院』なのです。

 尚、日本で言えば、この『下院』は、『衆議院』のことですね。



 さて、日本ではいざ知らず、N国民は賢いですから、一応『下院』は地域のシガラミや産業の既得権益を代表した者たちの利害調整によって展開されていました。

 しかし、これだけでは何とも心許ない。

 勿論、直接的な民主主義よりは遙かにマシなわけですが、小集団の代表者どおしの利害調整としての機能に依拠せざるをえない下院は、知らず知らずのうち大儀に反していたり、論理的に矛盾していたりと、間違いを頻発するものです。
 それでなくとも人間は、人間が作り出す国家の複雑性と比較して、あまりに不完全なわけですから、当然のごとく間違いを犯します。

 そこで重要になってくるのが、二院制です。

 そして、N国では、下院に対して、上院というモノが置かれていました。


第三回(上院編へ)  ※準備中


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国会って何故あるの?第一回(間接民主制) 

 参議院議員選挙も近いですね。
 というわけで、少し『国会』そのものについて考えてみませんか?

(※語りを「です・ます」調に変えてみました)

 まず、そもそも『国会』とは本来何をする所なのでしょうか。
 それを考える為に一つの例を作りました。

 あるところに、約一万人が住むNという国があったとします。

 一万人もの人が生活をしようと思うと、当然、色々とルールが必要になりますよね。ルールがなければ、それぞれが勝手放題な振る舞いをして、無秩序と混乱に世が包まれてしまいますから。

 では、その『ルール』とは、一体どのように作られたのでしょうか。

 何せ、N国にヒトは一万人もいるのです。「誰が、どのようにN国のルールを作るか」というのは、簡単そうで、実は全然簡単な事ではありません。


 ですから、そこでは、まず「おおむねは既存のルールに縛られる」ということが大切になってきます。


 そもそも、今こうして『N国』が在るということは「今生きている一万人」が生まれる前に生きていた人々が、桁違いの人数で存在していたということでもありますね。
 当たり前です。人間がいるということは、その人間を生んだ人間が必ずいるのですから。

 つまり、大体の『ルール』は、もう死んでしまっている過去の人間達が作ってくれているんです。

 人間の集団は、基本的には「過去の人間が作っておいてくれたルールに従わなければならない」という歴史的な先入観と偏見によって、『個々人の行動や立ち振る舞い』が強制され、抑圧され、制限されているからこそ、全体において大きな混乱や無秩序を避けることができているのです。


 めでたしめでたし……と言いたいところですが、


 残念ながら、「過去の人間が作っておいてくれたルール」にそのまま従っているだけでは、『時代の流れによる変化』という厄介な事に対応できなくなります。
 ですから、現在のN国民の一万人は、「過去の人間が作っておいてくれたルール」を決定的には損なわない範囲で、時代に即した「ルールの微調整」をしなければなりません。
 或いは、「過去の人間が作っておいてくれたルール」の解釈をするのは、やはり現在の一万人ですから、「ルールの運用」についても現在の一万人がやらなければどうしようもありませんね。


 では、この「ルールの微調整や運用」は、一体「誰が、どのように」行えば良いのでしょうか。


 最も愚かで低劣な決定方法は、「N国民一万人のみんなが直接決める」という方法です。
 いや、一見、良さそうに思うかもしれませんが、しかし、「みんなで直接決める」と言っても、何せ一万人いますから、一万人が全て同じ意見になるということは絶対にありませんね。すると、結局は、「一万人の中の多数の意見」が採用されることになるのですが、残念ながら「多くの中の多数の意見」なるものが正しいことなど稀です。

 また、一万人の全てが「ルールの微調整や運用」について精通しているのであればまだしも、そんな事ありえません。

 例えば、N国で漁師をしているA太郎さん。彼は、優れた漁師で、村の者からも大いに尊敬を集めていますが、「国家のルールの微調整や運用」についてなど、一つも分かりません。何故なら、彼は常日頃、「どれだけ安全に仲間を率い、うまく適量の魚を捕るか」ということばかり考えているからです。(そして、それが彼のあるべき姿なはずなのです。何せ、漁師なんですから。)

 或いは、銀行の窓口をしているB子さん。彼女は、艶やかな黒い髪と、溌剌とした弾力のある肌に、とても素敵な笑顔をもった愛嬌のある女性で、その姿は無機質な銀行に咲く一輪の華のごとくでした。が、「ルールの微調整や運用」についてなど、一つもわかりません。

 つまり、N国の一万人のうち、ほとんどは「ルールの微調整や運用」などということに対して日頃から学び、考えるなどしているヒマはないのです。当たり前ですね。それぞれは日々の仕事で忙しいのですから。
 そして、それぞれは、それぞれの仕事をまっとうし、周りの身近な人達と上手くやることを第一に考えるーーという生き方をしていて概ね正解なのです。

 ただ、一万人のうち、九千人ほどは「ルールの微調整や運用」について何一つ分かっていないわけですから、その「何一つ分かっていない」者達による直接的な多数決が、まともな結果を導く事などありえませんね。
 と、いうより、A太郎さんやB子さんからしても、「俺は(私は)、違う仕事してんだから、そんな責任負わされても困る!」といった具合ではないでしょうか。


 それでも「ルールの微調整や運用」は誰かがやらねばならないわけですが、どうすれば良いのでしょう?


 そこで、N国では、一万人のうちから「ルールの微調整や運用」に精通している『代表者』を百人ばかし集めて、よーく話し合わせた上で多数決をさせることにしました。

 なお、これをN国では、『下院』と呼んでいます。



 続き→ 第二回(下院編)



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歴史認識問題について、大まかな考えをまとめてみた 

 これまで、このブログでは歴史認識問題を取り上げてこなかったが、徐々に論じていけたらいいなと思う。なので、今回は、自分なりに『歴史認識問題』についての大まかなアタリをつけていきたい。


 まず、俺が学校で習ったり、小さな頃から大人達が述べていた『歴史』というものの中で、どうしても気にくわない具体的な事から、おおまかに列挙しよう。



一、古墳時代、飛鳥時代以前、『日本史』と『日本列島史』を、ごちゃ混ぜにしている事。

二、フランス革命とアメリカ独立革命に対しての過剰な礼賛と過大評価

三、江戸時代および、幕末江戸政府への過小評価

四、倒幕と明治維新についての過大評価

五、自由民権運動や反政府運動に対する礼賛

六、社会主義運動や大正デモクラシーに対する礼賛

七、昭和前期政府と大東亜戦争に対しての罵詈雑言

七、戦後から今日にかけてへの過大評価




 こうやって気にくわないモノを挙げていくと、なるほど、俺が教わってきた『歴史』なるものの世界観は、概ね次のような誤った理屈の上に構成されているのだという事が見えてくる。




一、日本の歴史とは、「日本列島と呼ばれている空間の中で、人間がどのような行動をとってきたのかを科学的に検証したもの」だという前提に立ってしまっている。

二、その一定空間の中に存在する人間には、平等な『基本的人権』が与えられているべきだ、という前提に立ってしまっている。

三、平等な基本的人権を持った一定空間内に存在する一人一人が、平等に政治権力を行使する『人民主権』が良いことだ、という前提に立ってしまっている。

四、『基本的人権』を根拠にした『人民主権』が良いことだーーという前提から、それらにそぐう時代や出来事を「良いことと」とし、そぐわない時代や出来事を「悪いこと」と筋立てている。

五、時代が過去から現代に進めば進むほど、人間は「基本的人権や人民主権といった価値を理解し、科学によって不合理な矛盾を解消していっているはずだ」という進歩主義を前提にしてしまっている。




 以上である。
 そして、これがイコール、俺の考える『歴史認識問題』なのだ。

 つまり、歴史を筋立てて認識する為に、判断基準としている前提が『日本国憲法の価値観』に基づいてしまっている所が、問題の根幹であると考えるのである。


 そもそも、歴史を認識するーーつまり、「歴史を筋立てて考える」為には、『ある価値観の基準』が無ければ絶対に不可能だ。
 人間個々の能力では、「何にも寄らないで、属さないで、事実だけを科学的に偏りなく真っ直ぐに歴史を認識する」などという事はできないからだ。何故なら、個々の人間の思考は有限であり、何らかの基準なしで全ての出来事を捉えるなどということは出来ないからである。

 よって、「国家における歴史認識問題」というのは、「国家における価値観の基準の問題」とイコールなのである。

 本当は、我々が歴史を筋立てて認識する際には、『日本の憲法の価値観』を前提としなければならないはずで、『日本国憲法の価値観』を前提としてしまってはイケないはずなのだ。


 そういった観点で、これから少しづつ具体的な歴史上の出来事にも触れていこうと思う。



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妹にアベノミクスなどを解説してみた(後編) 

・『妹にアベノミクスなどを解説してみた(前編)』の続きです。




妹:「じゃあ、アベノミクスってのはどんな感じなの?」

俺:「あのさ。イントネーションが違えよ。『アベノ・ミクス』じゃなくて、『アベ・ノミクス』な」

 杏子は、細かいところを指摘された事に少々機嫌を悪くしたようだったが、ちょうど煙草を吸い終わった彼女にもう一本マルボロを差し出すと、素直に発音した。

妹:「アベ・ノミクス?」

俺:「そうそう。つーか、『エコノミクス』って言うだろ。だから、レーガンのエコノミクスは『レーガ・ノミクス』だし、安倍さんのエコノミクスは「アベ・ノミクス」なんだよ」

妹:「えっと、エコノミクスってなんだっけ」

俺:「経済学とか、経済分析とかって意味だけど……まあ、日本人が英語なんて知らなくたっていいよな」

妹:「うん、英語わかんないし。それより、結局、その安倍さんの経済ってどんなんなの?」

俺:「……うーん」

 実を言うと、この問いに答えるのは随分と面倒臭い事のような気がしたから、何とかはぐらかそうと思ってイントネーションの違いなんてどうでも良い事を指摘したのだった。
 だが杏子は、台所の窓から差し込む陽がチンダル現象を作っているのを背に、ロックミュージシャンのようなふわふわな栗毛を前へ垂れさせ、鋭い目をもってギロリといった風にこちらを睨む。
 これは、きちんと解説しないと、怒られそうだった。

俺:「えっと、聞いた事あると思うけど、『アベノミクスの三本の矢』って言うよね? 『金融政策』『財政政策』『経済成長戦略』って」

妹:「うん、言う言う」

俺:「アベノミクスっていっても、その中でどれにどう肩入れするかってので、随分話が変わってくるわけさ」

妹:「ふーん」

俺:「まず、デフレ脱却にはとにかく『金融政策』で日銀がお金を沢山刷って云々……ってなると、これは『リフレ派』の論理になるのね。どういうことかって言うと『世の中のお金の量を増やせば、その分お金の価値が下がるはずだから、裏を返せばお金に対して物の価値が上がるだろう』って理屈なのよ」

妹:「えっと、ちょっと待ってね……うん、そっか」

 杏子は、少し頭に理屈を巡らせるかのように唸ったが、すぐに二、三頷いた。

俺:「でもさ、これは『政府はお金の量さえ上手くやっとけば、あとは自由な民間市場が上手い事やるもんだ』って事を前提にしてる話なのね。リフレ派からすると、悪かったのは『物に対するお金の量』であって、『民間市場そのものが失敗する』っていう事は想定してない。これはさっき言った中で言うと『政府よりも、民間をより信用する』って指向が強いわけさ」

妹:「ああ、そうか」

俺:「だけど実際、『自由な民間市場』が上手くいくとは限らないよな。例えば、日銀がお金を刷っても、世の中でお金が回るとは限らないだろ?」

妹:「うん」

俺:「日銀がお金を刷ると、その円で普通の銀行が持ってる国債を買うのね。そうなると、普通の銀行の中にあった国債がお金になるってことだから、実際は『日銀がお金を刷る』っていっても、『銀行の中のお金が増える』って事だろ」

妹:「それは学校で習った気がする」

俺:「うん、公民系の教科で『買いオペレーション』ってやるよな。だけどさ、普通の銀行はそれこそ民間企業だから、利益を出さなきゃいけない。でも、デフレだと他の一般企業で『投資をして、生産を増やす』っていう流れが無いわけさ。何故なら、需要より生産が多くなっているのがデフレだから。そうなると、いくら銀行にお金があっても、貸し出し先がなくて、お金は海外へ行っちゃうよねっていう話がある」

妹:「お金が日本で回わらなかったら意味ないもんねえ」

俺:「そうそう。実際そういうことが起こってたんだよ。小泉さんの時に。だから、政府の支出で強制的に『国内で足りない需要を埋める』っていうのが二本目の矢の『財政政策』なわけだよ。つまり、政府が公共事業とかでお金を使って、『自由な民間市場の失敗』を『修正』するって話なんだけれど、これはほとんどケインズの論理なのね」

妹:「さっき言ってた、『ケインズはどっちかっていうと政府の権限を多く持たせる考え』っていうのはそういうことかあ」

俺:「うん。で、『自由な民間市場』を好むリフレ的な人は、アベノミクスの中でも一本目の矢の『金融政策』に思いを寄せる。逆に、『政府の権限』を強く持たせるべきだとするケインズ的な人は、金融政策にも賛成するけど、『財政政策』に重きを置く立場になって来る。だから、アベノミクスっていっても、『民間か、政府か』の立場によってかなり違いがあるんだよ」

妹:「じゃあ、当の安倍さんはどうなの?」

 当然、そういう質問になる。
 しかし、俺にとって、これこそが『上手く説明できる自信がない問い』なのだ。
 なんと言ったって、このブログでも、安倍さん自身の経済への態度を上手く解説できているとは言えないと反省しているくらいである。
 どう言ったものかと、俺も二本目の煙草を取り出し、火をつけて、一吸いした後こう返した。

俺「俺は安倍さんじゃないから、安倍さん自身が実際の所どういう考えで言っているのかは分からないけど……でも、そうだな。比較論で言うと、例えば、安倍さんと麻生さんだと微妙に経済思想が違うのね」

妹:「あ、アニキ、それ前から言ってたよね」

俺:「うん。安倍さんは、麻生さんに比べると金融政策の方に思い入れがあってリフレ派っぽい所がある。安倍さんも財政出動には長いこと肯定的ではあるんだけどさ」

妹:「じゃあ、麻生さんはケインズ寄りって事?」

俺:「つーか、麻生さんが総理大臣やってた時に、対リーマンショックでやった経済政策があるでしょう?あれは、ケインズだよ」

妹:「ああ、そうなんだ」

俺:「うん。政府の権限を発揮して、強制的に公共事業で国内の需要を補填して、民間市場の失敗を修正するって話だったから。それに、麻生さんは、自分が総裁に就任した時に自民党の中のスピーチで『ケインズで行く』って言ってたからね」

妹:「そっか。麻生さんがテレビとかで『独裁者』とか言われたりするのは、そういう事があるからなんだ。政府の権限を強く発揮する、みたいのがあるから」

 この発言は、このブログをご覧になっている皆様へ誤解を与えるであろうから一言つけくわえておこう。
 杏子は、麻生氏がテレビで独裁者という風に言われる事を、必ずしも悪い事として言っているのではない。
 むしろ、テレビで独裁者と言われる事は良いことである、くらいに思っているのだろう。

俺:「そりゃあ、あんまり政府の権限でガンジガラメじゃあどうしようもならないだろうけど、だからといって、何でも民間の自由にしときゃ上手く行くなんて話、あるわけないだろ? だけど、どうも世の中全体に、『民間の自由にしてる方が素晴らしい』みたいな風潮があると、俺は思うわけさ」

妹:「なるほど」

俺:「アベノミクスの三本目の矢は『経済成長戦略』じゃん? これが結構、いろんな考え方ができる自由なものだから、厄介なんだよ」

妹:「だろうね。『経済成長戦略』だけじゃ、どんな戦略かわかんないもん」

俺:「うん。例えばさ、経済成長戦略の話題で『規制緩和』ってあるでしょう。あれは、『過度な民間市場への信用』からくる理屈なわけさ。つまり、『政府から規制の権限を取り上げて、民間の自由にさせれば、新しいビジネスアイディアとかイノベーションが起こって、生産性があがるはずだ』っていう話なんだからさ。でも、これって滅茶苦茶ガキくせぇ論理だと思うのね」

妹:「うん」

俺:「普通に考えればさ。『政府が国家経済の発達するような規制を敷く』っちゅー戦略をたてるのが、『経済成長戦略』じゃん。つーか、日本の経済が上手く行ってた時は、通産省やら国土省やらがそういう戦略を立ててたらしいし。でも、『規制緩和が経済成長戦略だ』って理屈は、『政府が戦略を立てる権限を放棄するのが戦略だ』って話でしょ。よく考えりゃおかしな話だけど、世の中全体が『政府は悪で非効率』『民間は善で効率的』みたいに思ってるから、『経済成長戦略』の議論がそういう方向へ引っ張られちゃうのよ」

妹:「確かに」

俺:「TPPとかも、そういう話の上にあるって考えるのが適切だと思うぜ。関税だろうが、保険だろうが、投資だろうが、TPPは、『政府の権限を剥奪して、自由市場に委ねた方が成長する』っていう間違った思想からくるんだからさ」

妹:「そーだね」

 さて、長く話している内に、ここでどうやら杏子の方がだれてしまったようである。
 ただ、ここで俺はちょうど二本目の煙草が吸い終わり、アベノミクスについての解説も一通り済んだと思われたので、経済の話しをやめにした。
 そして、俺はその後、彼女の「韓国がいかに酷い国か」という話しを、おとなしく聞いていたのであった。




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妹にアベノミクスなどを解説してみた(前編) 

 実は、俺には妹がいる。
 彼女は、「韓国がもの凄く大嫌い」だという若い娘だ。
 ここでは、仮名として妹の名前を『杏子』としよう。


 先日、俺が台所で煙草を吸っていると、

妹:「アニキ、一本ちょうだい」

 と寄ってくる杏子。

 俺は、俺のことを『お兄様』とか呼び、おしとやかな所作に、清楚な黒髪を頬へそよがせて、恥じらい深げに微笑むーーといったような妹が欲しかったのだが……
 現実は、俺のことをヤクザのように『アニキ』と呼び、チンピラのような所作に、栗色の巻毛を寝癖で立ち上がらせて、無愛想に煙草の煙を吐く妹しかいない。
 まあ、どんな妹を妹にするかというのは、『個人の自由意志』とやらで選ぶ事は出来ないのだから仕方がない。それは、親を選べないのと同じであり、生まれ落ちる土地や国家を選べないのと同じである。そして人間は、『個人の自由意志』なんぞで選び取ったモノより、予め強制的に決められた存在のモノの方を愛するものなのだ。

 さて、それは良いとして、妹は俺がやった煙草の灰を灰皿に落としつつ、こんな事を喋りだした。

妹:「そう言えばこの前、TPPの話がテレビでやってさ。ほら、ローカルのxxxって番組。最初は『TPPは良い』みたいな感じでやってたんだけど、コメンテーターのAさんとかKさんとか出てて反論が始まってね」

 xxxという番組は知らなかったのだが、俺はおとなしく相づちを打って聞いていた。

妹:「ほら、TPPって、農業問題っていうよりは、保険とかがヤバいっていうじゃん」

俺:「うん、まあねぇ……」

妹:「そういうのを言っててさ。テレビでもそういう事やるようになってきたんだなあって」

俺:「ふーん」

妹:「それで、その後、『アベノミクスってなんだ』って話になって。何か色々言ってたんだけど、結局Aさんとかが、『専門家が経済のことを話すと、一般の国民に分かりづらくてイケない』って話になってさ。確かに経済の話ってワケわかんないよね」

俺:「はぁ?なに、それはどういう事が『分かりづらい』っていってたの?」

 俺はここでようやく相づち以外の台詞を挟んだ。

妹:「え、うーんと、そうそう。まず、『インフレとデフレの違いが分からない』とかアイドルの子が言い出してさ。それでKさんが『例えば、この飲み物の値段が100円から120円に上がっていくのがインフレで、100円から80円に下がってくのがデフレだよ』みたいな説明をしてね。それを聞いてアイドルの子も『なるほどー。はじめからそうやって言ってくれれば分かるのに』みたいな風になって」

俺:「なんか随分乱暴な説明だな。つーか、それって経済が分からないとか以前の話じゃね?」

妹:「なに、じゃあアニキは経済が分かってんの?」

 この妹の口調には棘があった。

 まあ、確かに俺の受け答えは、少し感じの悪い調子を帯びていたかもしれない。『そんくらいの事も分かんねえとかバカじゃねえ?』みたいな態度にとられたのだろう。
 ただ、俺はそういうつもりで言ったのではなかったのだ。
 妹の口から聞くその番組の論調が『物事の説明は、多くの人に分かりやすい方が良い』みたいな調子だったのが気にくわなかっただけなのである。

 例えば、コメンテーターのKさんが説明したインフレとデフレの解説は、身近で分かりやすかったかもしれないが、実際は粗雑で本質を外している。それはKさんが阿呆だと言いたいのではなく、『物事を多くの人に分かりやすく説明する』と、『紋切ったように粗雑で、乱暴な解説にならざるを得ない』が故に、大きく本質から外れていくものなのだ。

 その上で『物事の説明は、多くの人に分かりやすい方が良い』とする筋立ては、『分かりやすくする事で、物事の表し方が多少粗くなっても、より多くの人間が判断に参加できるようにした方が良い』という所からしか来ない。
 つまり、民主主義が正しいという前提でしかそういう論調は起きないわけで、民主主義が大嫌いな俺はついムッとしてしまったのだ。
 『より多くの人間が判断に参加できるようにした方が、より正しい』だなんて保証はどこにもないし(むしろ、多くの人間が判断に参加して、間違った結論ばかりを出すというのが民主主義というものだ)、そんなガキみたいな思考回路には吐き気がするのである。

 だが、そんな理屈っぽいことを説明しても、話題がややこしくなるだけだから、俺はこう切り返した。

俺:「うん、そうだね。俺も経済は分かんないよ」

妹:「そうでしょ?」

俺:「うん。つーか、経済は、『主義』とか『学派』で全然言ってる事が真逆だったりするから、何が正しくて、何が間違っているかとか、俺には分からん」

妹:「あ、経済ってそうらしいね」

俺:「うん。そんで、経済の立場みたいなものがどういう風に分かれているかって言うと、『より政府の権限を強くする』か『より民の自由にするか』の程度によるんだよ。杏子、ケインズっちゅー名前は聞いたことある?」

妹:「うん、まあ……名前はね」

俺:「ケインズは、どっちかっていうと、政府の権限を強くする方の立場なわけさ」

妹:「ふーん」

俺:「逆に、シカゴ学派のマネタリズムってのがあるんだけど、フリードマンっちゅー名前は聞いたこと無いかなあ」

妹:「いや、名前くらい聞いた事あるし」

俺:「え、マジで?」

妹:「う、うん……多分」

俺:「フリードマンの方は、経済はとことん民の自由にした方が良いみたいな立場なんだよ」

妹:「なるほどね」

俺:「『マネタリズム』って言うくらいだから、『貨幣経済を重んじる主義』ではあるんだけど、逆に言えば、民間ではどうにもならない『貨幣』って部分以外は、民の自由にさせろって主義でもあるわけさ」

妹:「っていうと、それが日本銀行の総裁を代えてお金刷って……みたいな話に繋がるの?」

俺:「いや、その日本銀行にとにかく金融緩和させろってのは、『リフレ派』ってやつだよ」

妹:「ああ、そうか」

俺:「マネタリズムは、インフレ、デフレに関係無しに、常に一定の増やし方でお金を刷っていれば、『長期的』には、自由な民間市場が機能して上手く行くだろうーーって話なワケ」

妹:「そうなると、マネタリズムってのは、『デフレの時にお金を多く刷る』とか『インフレの時にあんまし刷らない』っていう事も、政府にやらせたくないのかぁ」

俺:「そうそう。そういうこと」

妹:「じゃあ、アベノミクスっていうのはどういう感じなの?」



 後編へ続く



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安倍首相の訪ロシアと、バランス・オヴ・パワー 

 安倍首相のロシア訪問は、日露双方で概ね「経済、領土、平和条約」のそのものの観点での進展に目が向けられている。

引用:『ロシアの声』http://japanese.ruvr.ru/2013_04_30/112151281/

 かく言う俺も、日露間の外向的進展の方向性には大賛成だ。
 ただ、この「日露間の経済、領土、平和条約の進展」といったものが、何故重要になってくるかーーという点について、甚だ議論が薄いように見える。

 ちょっと政治に興味のある者は、次のように考えるだろう。

引用:サーチナ・『安倍首相のロシア訪問の目的は対中けん制か?』http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130429-00000003-scn-cn

 つまり、中国との経済的関係に将来性を見いだせないので、代わりにロシアとの経済連携に注目するーーという筋立てだ。或いは、そこには「中国に対しての牽制である」といったような視点も付随する。

 なるほど、この視点はある程度正鵠を射ていて、おそらく安倍首相個人はこの部分を多分に意識しているのではないかと、俺は推測している。


 だが、ロシアとの関係に何らかの可能性を、少なくとも現実味を帯びた形で示唆することが出来た場合、それは中国のみならず、アメリカに対しても牽制要因であるという視点を是非持ちたい所だ。

 と言うのも、ロシアは、ソビエトの崩壊での衰弱状態からある程度立ち直って来ており、『超』をつけるまでは行かずとも、今や『そこそこの大国』である。
 そして、20世紀末から2000年代にかけて、アメリカがただ一つの超大国として君臨してきた状態が、その衰えと共に『多極化』しているのが世界の現状なのだ。

 この、多極化というものに、日本の独立性を上げるチャンスがあると、俺は考えるのである。

 そもそも、二極、いわんや一極の世界の下では、その超大国の価値観に、他のそれぞれの国家の独立性が改変されていく事に、どうしてもなる。
 日本で言えば、価値観がアメリカナイズ(自由化、民主化)されて行ってしまうという事だが、これは日本に限った事ではなく、世界中で見られた現象である。
 勿論、「大東亜戦争に負け、国家の中枢を自由民主主義に改変されて、それが半世紀ほどたって世代の入れ変わった折、原理的に真の毒素を発揮しだした」という事もあるだろう。が、「世界全体のパワーバランスが一極化すれば、その超大国の色に世界が染められていってしまう」などということは、よく考えれば当たり前の事だ。

 世界が超大国の一極体制になってしまうと、その他のそれぞれの国家がその超大国の色に染まって、「国境が薄くなって、それそれの独立性が弱まり、価値観がグローバルに統一されていく」という大問題を引き起こす。
 であるからして、世界がアメリカで一極化した状態で、「日本の独立性を高める」というのは、中々難しい面があった。

 しかし、世界が今の流れで多極化していけば、つまり、複数の大国のパワーがバランスすれば、「何処かの超大国の色に価値観がグローバルに統一されていく」といったような弊害が少なくなる。
 もっと言えば、「国家への拘り」「国境の隔たり」というものを各国国民が強く認識する、健全な世界情勢へ戻っていくであろう、ということだ。


 さて、こういったバランス・オヴ・パワーの議論で参考になるのは、なんと言っても『ビスマルク』の外交手法である。
 19世紀、プロシアの宰相だったビスマルクは、ヨーロッパ各国の国力を俯瞰し、「今、ドイツがどの立場に立てば、大国間のパワーが均衡するか」という観点で、外交を押し進めた。
 大国間のパワーが均衡すると、常に緊張状態となるわけだが、大きな戦争というものは起きにくい。何故なら、均衡したパワーの中での全面戦争は、どちらが勝っても、どちらもただでは済まないからだ。
 勿論、ビスマルクは「ヨーロッパ全土の平和を願って」そのような外交手法を取ったわけではない。
 目的は、「せっかく統一したドイツの独立を保つため」である。
 たとえば、フランスの国力は当時抜きんでて精強だった。その上で、ドイツがフランスと密接な関係を結べば、ヨーロッパはフランスで一極化しただろう。そうなれば、当然ドイツの独立性はフランスの色に阻害されるのだ。


 さて、我が愛すべき日本に話を戻そう。
 勿論、今の日本の「アメリカへの依存状態」が、軍事のみならず、経済、流行、審美眼、哲学、宗教観、価値観に至るまでドップリであることは承知しているので、ビスマルク的に上手くやれる状態ではない事はわかる。

 しかし、多極化していくであろう世界の中、日本には是非「大国の一つ」を目指してもらいたいのだ。

 多極化する中で、大国の一つとなりおおせたらば、「他の大国との距離感を互いに牽制しながら緊張した状態で保つ」という外交がなせるわけで、その方向が唯一「日本の独立性を高めていける世界環境」のヴィジョンであると、俺は考える。
 別に、世界を「日本一極」にする必要はないのだ。

 具体的に言えば、(今はあまり現実味を持って考えにくいかもしれないが)、日本と『ロシアやヨーロッパの国々』との関係がアメリカに対しての牽制になり、逆に日本とアメリカの関係が『ロシアやヨーロッパの国々』の牽制になる、といったような。

 これら、『次代の大国候補』の中で、ロシアは位置的にも、歴史的にも、日本にとってポイントとなり得るのではないか、といったような事を、今回の安倍首相の訪露で考えた次第である。

 まあ、それも、日本が「独立を取り戻す為に次代の大国の一つとなる」という意志を持ち合わせていたら、の話ではあるが。




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