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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2013年06月  
  

日本国憲法最大の問題は、9条二項ではない 

 日本国憲法の問題点として、メジャーというか、多くの議論の全面に押し出されるのは、みんな知ってる『九条二項』ってやつですね。
 つまり、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という部分の苛烈さに、多くの人の目が奪われてしまっているのです。


 勿論、九条二項が問題か問題でないかと問われたら、俺も問題だと思います。
 しかし、これはいわば、日本国憲法の邪悪さにおいては技術的な「端論」とも言うべきもので、九条をヤンヤと騒ぎ立てていても憲法の根本問題に議論が及ばないのではないか、とも思っています。

 もっと言えば、九条の派手さに目を奪われて、「日本国憲法の根本的問題点」の方に問題意識が向かないという所に、大きな危惧を覚えるのです。



 では、現行の『日本国憲法』における根本的な問題点とは何なのでしょうか。

 それは、その論理の根本を『天賦人権説』に依拠している所です。

 具体的に言えば、『基本的人権』と『国民主権』という文脈。これが日本国憲法において最も低劣な論理なのです。



 まず、国民主権、「主権は国民に存する」というのをよく考えてみましょう。
 主権とは、「国家の最高独立性」の事です。つまり、「ある国が、他国の干渉を排除して政治的決定を行う事のできる根拠」という事ですね。もっと端的に言えば、「政府の根拠」ということになります。

 つまり、国民主権というのは、「政府の根拠は、国民にある」と言っているに過ぎません。


 これを弱い意味で解するならば、「『国家の属性を帯びた民の全体』のために政治を執る」と言っているだけになり、戦前までと何一つ変わらない価値ですね。(変わらないから悪いと言ってんじゃあないですよ。変わらなければ良かったのになと言っているんです)

 しかし、それを強い意味で解すると、「今生きている民の一人一人による政治だから良い」という話になってしまいます。
 実を言うと、これはとてもとても危うい考えなのです。何故なら、これだと、『国民主権』と言いつつ、『国』という部分を必要としない観念になってしまうからです。


 この『国民主権』という言葉が、前者の「弱い意味」として解するものか、後者の「強い意味」で解するものかの分かれ道は、『国民』とは何か……という文脈へ、どう繋がっていくかにかかっています。
 しかし、日本国憲法では、主権は国民に存すると書いているにもかかわらず、国民とは何かということは一切触れていません。(もちろん、天皇については示されているわけですが、「天皇と国民の関係性」という筋道は示されていません。)
 というか、「国民たる要件は法律にて規定する」となっています。これ、脳が普通なら、おかしいなあと思うわけですよね。
 だって、憲法において最も注目すべき『主権』が「国民にある」と言っているのに、その国民とはどのようなモノなのか、触れていないんですもの。(つーか、それこそ憲法で規定しとけよ、と誰でも思いませんか?)


 ただ、ふと目を移せば、日本国憲法において、『人権』というものについては、極めてしつこく述べたてておりますね。

 人権というのは「人間の権利」(ヒューマン・ライト)という意味です。そして、前にもこのブログで触れたと思いますが、権利というのは、「~へ請求する権利」という文脈でなければ成り立たない言葉であります。そして、日本国憲法においての「基本的人権の尊重」というのは、明らかに、「人間として政府へ請求する権利」という文脈で成り立っていますね。


 すると、日本国憲法の示す『国民主権』とは、この『基本的人権』を根拠にしていると、受け取らざるをえないわけです。
 そして、もしそう受け取るならば、この『国民主権』は先ほど述べた「強い意味での国民主権」を指しているということになってしまうのです。
 つまり、「今を生きる一人一人による政治」という、非常に危険な思想ですね。

 先ほども触れましたが、この強い意味での国民主権には、『国』というものを必要としません。すると、これは国民主権という言葉を使うのも本当は正しくなくて、『民主権』とか『人民主権』或いは『人間主権』というように呼ぶべきシロモノなのです。

 そして、単なる人民主権といったものにおいて、その根拠を探れば、人権=「一人一人の人間が生まれもって備えている権利」という所に行き着く他なくなります。

 しかし、少し考えりゃ誰だって疑問に思うはずなのですが、「その人権なるものの根拠は、一体どこにあるのか」或いは、「人間一人一人が備えている権利とは、一体どのようなものなのか」という所が、全くもって分からないですよね。


 であるからして、こういった国家の『主権』を最終的に、一人一人の『人間の権利』に依拠してしまう思想の事を『天賦人権説』というわけです。
 何故なら、『人間の権利』なんてものは、人間の思考では絶対に解明できないわけですから、「天が、人間一人一人に与え給うたのである!」という説を前提にしていなければ成り立たないからですね。

 この天賦人権説がどれほどマズいモノなのかを述べればキリがないので、兎に角今回は「日本国憲法は、天賦人権説を下地にしている」という事だけに論を留めたいと思います。


 しかし、ここまで論じれば、憲法九条なんぞより、『国民主権』と『基本的人権』という文脈の方が遙かに邪悪なものである、という事は明瞭でしょう。
 何故なら、主権が天賦人権論に基づいているということは、「主権の在処に、国家が必要ない」というワケの分からない話になってしまうからです。

 そして、もし、『政府』の最終的な根拠が『人権』であり、「国家の属性を帯びる必要性がない」のであれば、『軍隊』とは一体、いかなるものであると考えればよいのでしょうか。
 そもそも軍隊とは、国家の大儀の下にはじめて『軍隊』という属性を帯びるのですね。だって、単に、「武器を持った奴ら」の事を私達はヤクザと呼ぶのでしょう。
 その武力が、「軍隊であり、正当なものだ」と考える事ができるのは、「国家の歴史的大儀の下に、国内外に対して、主権の独立を物理的に強制する力」である場合のみですね。
 そう。別に軍隊は、今生きている我々の「安全と生存」を保持する事を最終目的として存在するものではないんです。端的に言えば、「国家の独立を保持する」為のものですよ。だって、軍隊は、もし革命や反乱などが起これば、内的にも物理的強制力を発揮すべき存在でしょう。

 すると、主権を天賦人権説に依拠した文脈の上では、「軍隊」に本当の所での正当性など生まれようもないじゃあないですか。
 というか、天賦人権説から一つづつ論理を引き延ばせば、九条が正しいということになってしまうのですよ。何故なら、最終的な政府の根拠が、人間の権利にあるのだったら、「人間だから大切である国民」を守るために「人間である他国民」を殺しうる武器を持つことなど許されない……って話になるでしょう。

 ここまで言えば分かってくれると思いますが、この話の上での、そもそもの問題は、「最終的な政府の根拠が、人間の権利にある」という理屈の方ですよね。「軍隊を持っちゃダメ」っていう間違った結論は、間違った理屈の上から論理が伸びていっているからでしょう?


 つーか、ちょっと考えれば、当たり前かつ至極明瞭なことじゃないですか?

 ですから、保守の人には、「兎に角、九条を改正だ」ということで頭を熱くしてしまわぬよう、お願い申しあげたいのです。
 例えば、現在、維新の会やみんなの党といった政党も、改憲を主張していたりします。
 しかし、一方で、首相公選、一院制、国民投票……といった、国民主権をより原理的に強めていく改憲論、つまり天賦人権説に依拠したような改憲論を強く主張していますね。
 もし、こういった「より民主的」な項目で憲法を「改悪」する事と引き替えに、ようやっと九条のみを「改正」できたとしても、根本的害悪がさらなる害悪として国家を蝕むのは火を見るより明らかです。

 ですから、参院選に向けて「自民は、維新やみんなと連携して、とりあえず九十六条の改憲を目指すべきだ」というような、至極浅はかな話は、本当に止めていただきたい。

 九条の文章が気にくわない思いは、俺もとても良くわかりますが、だからと言って、ゆめゆめ「骨を切らせて、肉を断つ」という事の無いよう願うばかりです。



(了)



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いわゆる自虐史観は、自虐できていない 

 現代日本の歴史観を、しばしば『自虐史観』と評したりしますね。
 俺はこの名称は、間違っていると思います。なぜなら、いわゆる『自虐史観』という史観は、自虐なんてしていないからです。

 だって、自虐史観という言葉には、多くにおいて「大東亜戦争以前の日本の行いをすべからく否定している史観に対する憤激」が、込められているのでしょう?
 しかし、おそらく、今を生きる日本人の一人一人は、『大東亜戦争以前の日本』を、自分とは思っていないんですよ。

 というより、『大東亜戦争以前の日本』を否定すれば否定するほど、『今の自分ら』を肯定する事ができるんです。



 さて、今現在の日本おける『価値観』というものは、「今生きている人間の一人一人が大切だから」というところに依拠していますよね。
 それが、例えば、社会主義的に「一人一人の平等」が大事だったり、自由民主主義的に「一人一人の自由」が大事だったり、色々なバリエーションはあったとしても、その根幹には「今生きている人間の一人一人が大切だから」という価値観に基づいているわけでしょう。
 究極的な事を言うと、「一人一人の『命』が、この世で最大の価値あるものである」というようなおかしな話に、多くの者が首を縦に振るような狂気の状態なのです。


 勿論、実際はこの「今生きている一人一人の人間が最も大切」という事そのものが、極めて根拠薄弱な理屈ですね。
 だって、人間は誰しもが必ず死ぬのであり、「いつか死ぬのに生きる」という大矛盾を遂行しているんですよ。するとちゃんと脳味噌の動くヤツなら誰だってこう思うわけです。
「俺って、何の為に生きているんだろう?」
 って。(こういう事って大抵小学生くらいの時に考えるんですよねw)
 人間の生きる価値……などというモノを合理的に解明した科学者は未だ存在しませんし、未来永劫絶対に登場しないと断言しますが、こういったことに一定の解釈を持たずに狂わないでいられる程、人間は鈍くできていないでしょう。
 この「生きる理由に対する一定の解釈」を何とか着けようとすると、「自分を生み、育んだモノの一帯」と「自分が生み、育んだモノの一帯」へ、「自分個人の意識」を融解させて保ちうる「世界観、価値観、道徳基準の体系」というものが、どうしたって不可欠です。
 大体、この類の事は、集団、国家に共通する『神秘』とか『歴史』とかによって権威付けられるものですね。そして、その神秘や歴史を共有する者達を構成員(国民)とすることによって、倫理や道徳が筋立てられていくわけです。


 が、今の日本には驚くべきことに、そういったものが殆ど空白状態に見えます。
 このような空白の中では、無理矢理「(いつか死ぬけど)人間一人一人の命が大切」といったような価値に基づく他ないのも、頷けるといったら頷けます。だって、空白なのですから、残ったモノは目に見える『人間の命』ということになってしまって当然ですね。
 しかし、そうなると、当然ながらそれは、「一人一人が生きている間に、どれだけ一瞬一瞬の『快楽』を得ることができるかが大事」という話しになってしまうでしょう?だって、いつか死ぬんだから。
 流行歌の歌詞なんかを眺めると、そういうの多いですよね。
 いや、別にそういうのをどう思おうが良いんですけど、「いつか死ぬ個人が、個人の命を最終価値として、個人の瞬間瞬間の快楽の為に生きる」というのは、中々にキツいものがありますよ。少なくとも俺は、そんな風に考えて生きていけたのは十代後半くらいまででしたし。



 ただ、それは勿論、戦争が終わったあと、急に空白状態に変容したわけではありません。何故なら、戦争が終わって、全ての日本人が一瞬のうちに総入れ替えされたわけではないからです。
 しかし、当然ですが、人間は生まれて死ぬので、ジリジリと入れ替わっていきます。
 そして、戦争が終わった時と現代を結べば、ほとんど総入れ替えされてしまっていますね。(少なくとも現役世代は)

 つまり、よく言う『戦後の価値観』とは、実を言うと「戦後推奨された価値観」の事であり、実際の戦後の日本人は『戦前の価値観』を大きく引きずっていたのです。そして、少し考えれば誰だって分かるはずなのですが、「戦後推奨された価値観」と「現実に生活している人々の価値観」がイコールになっていくには、タイムラグがあるはずなんです。
 そのタイムラグを経て、社会一般に通用する価値観が「戦後推奨された価値観」とイコールになってしまったのが、いわゆる団塊世代が指導的地位に着きだした八十年代から九十年代ほどからだったのではないかと、俺は考えています。(ちょうど、経済的にも二十年失われて行く頃合いですね)



 さて、かくのごとく総入れ替えされた日本人は、その前の日本人と、国家全体の『世界観』や『価値観』の体系を共有できているのでしょうか。

 先ほど述べた通り、現代を生きる日本人の一人一人の大多数は、「国家において歴史的に共有される世界観や価値観が空白状態である」が故に、「今生きている一人一人の命の安全と快楽を合理的に最大化すること」が最大の価値だと思っているのですよ。

 そういう思慮の浅はかな人間は、「国家の歴史的経過において共有する神秘性、世界観、価値観、道徳規準」を、最上の価値と思って生きた先人を見て、こう思うわけです。

「そんな得にもならない事に命をかけて、馬鹿じゃあないの? そんなの僕は(私は)マジ勘弁だし。科学的で開明的な現代に生きる賢い自分たちは、そんな非科学的で不合理な真似はしたくないものだぜ」

 と。
 そして、理論上、そうやって自分たちの先人を「非科学的な阿呆」と罵れば罵るほど、真逆に位置する今の自分達の価値観「人命、物質、科学、快楽、合理」といったものを肯定する事ができてしまうのですね。
 その証拠に、同じ戦後でも、八十年代、九十年代と時代が進めば進むほど、いわゆる『自虐史観』と呼ばれるモノの指向は強まって来ています。


 そうなると、やはり『自虐史観』という呼び名はおかしいでしょう? なんというか、そんな謙虚な響きを含んだ、上等なものではありませんね。

 だって、今の自分たちの価値観を肯定する為に、過去の「異質な」価値観を否定しているのだから、結局は最終的に「今の自分たちを肯定するため」なわけでしょう? つまり、先人を馬鹿にして、今の自分らを自己肯定する根拠にしているだけなのです。


 こういった現在を生きるイエローモンキーらの史観に対しては、別に適切なネーミングというものが必要でしょう。
 候補として一例を挙げれば、俺個人はいつも思考の中でこう呼んでいます。

 今、生命を維持している自分たちを慰める為の史観、ということで……

 自慰史観、と。



(了)



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大衆が『株』をやる害悪 

 今回は少し具体的に、『株』というものに絞って論じてみたいと思います。



 昨今、というか長い事ずうっと、
「一般の人も株市場に参加させて、売り買いを活発化させて、会社をたくさん競争する環境に置いて、経済を活発かさせよう!」
 といったワケの分からん風潮がありますね。

 こういった風潮に対する、俺の見解を述べると、
「一般大衆が株なんぞを売り買いしたら、国家全体の株式市場は事あるごとに右往左往して、非常に不安定になる」
 ので、
「多くの株式は取引会社同士の持ち合い」
 である事が望ましく、
「できれば株式市場で取引をするのは、国内の貴族階級に限定すべき」
 と、いうものです。
 まあ、最後の『貴族階級』というのは、現在、残念ながら存在しませんので、それにかわって『国内の金融機関』か『国内の資産家』という事で結構です。

 いや、普通に考えりゃあ、そう思うはずなんですよ。
 金融のプロでもなく、豊富な資金力があるわけでもなく、階級が高くて教養があるわけでもない、一般の大衆の多くが「国家の経済全体に悪影響を及ぼさない常識的な株取引を行う」なんて事ができるはずがないでしょう。

 まず、俺自身は、絶対に出来ない自信があります!

 株なんてやったことはありませんが、「自分がプロ野球の試合に出されても、まともなプレーなんて出来るわけがない」というのが分かるのと同じように断言できます。
 投資の素人が、常識的な判断なんて出来るわけがないのですよ。仮に儲かったとしてもね。


 ただ、誤解を招くといけないので、一つ申し添えておきますと、俺は別に「一般の素人の人が株に手を染めると、プロの人に喰われて可哀想だからイカン」などということを言っているのではありません。そんなもん、それこそ自業自得ってヤツですよ。
 逆に、素人でも、たまたま「結構儲かっちゃったぜ」ってヤツだっているでしょう。
 つーか、一般大衆の一人一人が、儲かったとか、儲からなかったとか、そんな話はマジでどーでもイイんです。

 問題は、そういった一般大衆個人個人の行動が集約されて出る『株価』の無節操な変動が、国力を甚だしく毀損するーーという所にあります。
 そういった大衆化された株式市場においては、プラス要因には過剰に買いが集まり、マイナス要因には過剰に売りが集まって、企業の内容の如何に関わらず、株価の乱高下が起こりやすいに決まっていますよね。
 すると、企業の方は、そういった極めて短期的な株式市場の声に媚びざるをえなくなります。
 つまり、大衆の塵(ちり)のように薄い株の売ったり買ったりの、積もって山になったモノが、株価に反映されてくるということは、企業は常に「短期的で、浅はかでも、多くの人に分かってもらいやすい運営」を優先し、複雑で、長期的な要因を犠牲にせざるをえなくなります。
 短期に正しい運営の積み重ねが、中、長期的にも正しい事になれば良いのですが、残念ながら実際、そんなことは稀中の稀です。


 さて、ここまで話せば、もしかしたら既に気づかれた方もいらっしゃるかもしれません。
 そう。この「一般の大衆が株をやる」という弊害は、「民主主義」の弊害に酷似しているんです。

 そもそも、『市場』というものは、「経済においての民主主義」と呼ばれています。買い手がそれを一つ買えば、それは市場において一票の支持を得た事になると考える事ができるからです。
 まあ、経済はある程度、そういった『民間市場』なるものの民主性に依拠せざるをえないのは、俺も理解します。民間市場を完全に廃して、誰かが全ての価格を計画的に統制するだなんて事は、「しちゃいけない」というより、「不可能」なはずですから。

 ただ、だからといって、市場なるものの『民主性』を、無批判に受け入れるなどということが、あって良いわけありません。
 だって、「民間市場の民主性を完全に制御する事は出来ない」からといって、「制御出来なきゃ放かっときゃイイ」って話しにはならないはずでしょう。
 当然ながら、そこには「政府が民に不自由を強制すべき領域」や、或いは「既得権益が、引き続き権益を既得しておくべき領域」といったものがあるはずなんですよ。

 しかしながら、「政府」とか「既得権益」の持つ権限を剥奪して、それを一人一人の個人(大衆)へ平らかに解放するのが「民主的で素晴らしい事だ」みたいな、恐ろしく醜い意識が世間にて、さも当然の価値であるかのように跋扈しておりますね。
 こういう指向を根にした理屈を聞く度に、俺はそいつを殴りたくなって仕方なくなります。

 まあ、俺の事はイイとして、そもそも何故、そう言うワケの分からんクソったれ偽善魂が、節操もなく流行るのでしょうか。

 それは、多くの場合、そこに「科学的で合理的なフリをした理屈」があり、その理屈を根拠にすることによって、「政府や、既得権益」から「権限を剥奪して、一人一人に解放」しても、「大した問題は起こらないのだ」と思っているからです。
 いや、そうやって自分たちが『科学的数値』を下に、「政府や既得権益から権限の剥奪を主張しているのだ」と、思っている事にすれば、何となく科学的で、合理的で、格好良い感じを演出できるとでも思っているからなんじゃあないでしょうか。

 その事が、明瞭に見て取れるのが、株式市場なのです。

 現在、株や金融というものはたいそう『民主化』されてしまっているわけですが、今の金融市場を見て、正常かつ均衡していると見るヤツは稀でしょう。
 しかし、おかしいですよね。「株式市場の民主化が素晴らしい」と言っていた連中の話によれば、「政府や、既得権益」から「権限を剥奪して、一人一人に解放」しても、「大した問題は起こらない」という事だったはずなんですよ。つーか、そっち(株式市場の民主化)の方が、「科学的見地から見て合理的で経済は成長する!」と散々のたまっていたではないですか。

 つまり、その経済学的な『科学』や『合理』は、偽物の嘘っぱだったということが既に判明しているんですよ。


 ということは、やはり市場の前には、「政府が民に不自由を強制すべき領域」と「既得権益が、引き続き権益を既得しておくべき領域」が必要だったんですね。
 具体的に言えば、一般大衆や外資が簡単に株式市場へ参加できなくする為の『政府による投資規制』や、企業間のシガラミ、上下関係による『株の持ち合い』などのことを指しています。


 こう考えると、本当に『民主主義』というのは、経済に対しても多大なる悪影響を及ぼしていると考えざるを得ません。
 何か特定の権限を持った者から、それを剥奪して、一人一人に平らかに解放する……という文脈が、根本的に間違っているということに気づかなければ、「『株式市場』や『金融』の解放」といったような間違えを犯し続けるのでしょう。
 いい加減、そういったカビ臭いドグマとはお別れを告げなければ、戦後の日本人がナショナルアイデンティティとして心に抱いてきた『経済』も凋落の一途をたどるに違いないのです。

 やはり、「人間というモノに対する捉え方」とか「モノの考え方」の根本が間違った中、経済だけ合理的に発展させていこうなどという空論が長いことまかり通るはずはなかったのではないでしょうか。
 何といったって、人間の社会、国家の構成員は、死んで、生まれるのですから、世代が移り変わるのです。

 日本の経済が発達していた時期に、社会の重要なポストを占めていたのは「戦前からの古い考えに縛られていた世代」が「古い考えにとらわれて経済活動を行っていた時期」でしょう。

 逆に、経済が停滞し始めたのは、「戦後の開明的で進歩的な教育を受けた世代」が社会の重要なポストに着き始め、「政府や既得権益から、権限を解放」し出してからですね。

 (自分で自分を、若者というのも何か変な感じですが、)俺のような若者世代からすると、「もう、そんな子供じみた思考は、後に残される我々の事も考え、止めてくれ」と悲鳴を上げたくもなるというものです。



(了)



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5月所感、及びまとめ 

 5月は結構頑張ったつもりです。
 日頃お越しいただいている数名の方には、改めてお礼を申し上げます。

 ただ、それにしても、このブログは、過疎さが酷すぎるので、正直キツいです。
 勿論、「そもそもブログは来訪者数の増えないモノである」ことは存知ているのですが、それにしても酷い。

 ひょっとしたら、内容が悪いのでしょうか。

 しばらくたった後に、自分で読み返せば、「中々良いこと書いてんじゃん、俺」と思えるので、「この人を見よ!」とか言ってみたくなるのですが。
 ただまあ、それはやはり自分で書いたものだからそう思うのでしょうかねぇ……


 5月はだいぶ評論などを書いたので、ちょっと疲れちゃいました。
 おおよそ、二日に1回の更新で行くと、生活的に余暇の殆ど全てをコレに消費してしまうので、また週1ペースに戻そうかなあと思っています。

 その分、6月は密かにスランプに陥っていた小説、創作の方へ、少し筆を移そうかな、と。


 評論の方は、「多くの人に読んでもらおうとする」のは諦めて、「少しづつでも気合いの入ったモノを書いて、記念記録として残す」ことを目的にしちまおうかなあ、とすら思っています。
 いや、流石にそれだと、「自分ちのノートに書いて、普通にとっておけば良い」という話しになってしまい、ブログにする意味がなくなってしまいますか……

 もう少し頑張りましょう。

 政治、経済、歴史、教育、憲法……書きたい事はまだまだあるんです。
 それを、自分に偽り無く書いていきましょう。
 きっと、止めることは、書きたいことがなくなってから考えればいいんでしょうね。

 六月は、何を書こうかなあ。





 さて、以下は五月の記事のまとめです。

 未読で、ご興味に沿った題名の記事がございますれば、どうか、ご覧ください。


5月1日
『安倍首相の訪ロとバランス・オヴ・パワー』


5月7日
『妹にアベノミクスなどを解説してみた(前編)』


5月8日
『妹にアベノミクスなどを解説してみた(後編)』


5月10日
『歴史認識問題について、大まかな考えをまとめてみた』


5月13日
『国会って何故あるの?第一回(間接民主制)』


5月15日
『国会って何故あるの?第二回(下院編)』


5月19日
『従軍慰安婦問題と人権』


5月23日
『国会って何故あるの?第三回(上院編)』


5月24日
『やめよう!新自由主義』


5月26日
『カレッジ・エコノミクス~ある経済学講師との問答』


5月27日
「新自由主義の嫌いな俺が、安倍内閣を支持する理由」


5月29日
「新自由主義を批判する、二種類の態度」


5月30日
「反・反原発のススメ」




 最後に、もし各記事にご賛同くださいますれば、どうか、ランキングやツイート、フェイスブックや、はてなブックマーク……どのような手法でも構いませんので、ご支援を乞いたく存じます。
 また、相互リンクを随時募集してますので、ブログ主様におかれましては、どうかご検討のほどよろしくお願い致します。


(了)


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