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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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自衛隊は、国民の生命を守る為だけにあるのではない 

 自衛隊の存在を肯定する論拠や大儀を、「国民の生命と安全を守るため」とする考えは、間違っていると思います。

 何故なら、その筋立てだと、『国民の生命』を守る為に、「国民(自衛隊員)が生命をかける」という話になり、論理的な矛盾を起こしているからです。

 この論理矛盾を、一見、解消しているかのように思われる理屈に、「武力を保持した人が、民の命を守る」方が、「かける命の数は少なく、守る命は多くする事ができる」というものがあります。

 ただ、この考えでいくと、例えば十人の人がいて、そこに危機が訪れた際、「四人死んで六人死ぬよりも、二人が死んで八人が生き残った方が良い」といったように、単純な『命の数』の話になってしまうわけです。
 ただ、『命の数』を最上の価値に置けば、戦いは全て放棄して、降伏するのが最上策だという話になってしまいます。

 対して、
 もし、この例えで納得しうる筋立てがあるとすれば、「この十人の集団が持続していく為に必要な者を守り、死んでも集団の存続には決定的ダメージとならない者が命を懸ける」というものでしょう。
 具体的に言えば、「指導者的な者と、女と子供」を守り、「他の男ども」が命を懸けるというような話です。

 この場合、「死ぬ数と、生きる数」というのは、必ずしも最終的価値判断にはなりませんね。ここでは、たとえ死ぬ数が多くなっても、「この集団が存続していく事」が最優先事項であって、それが命を懸ける価値、大儀となるわけです。



 国家における軍隊とは、そもそもそういうモノであったはずです。
 つまり、軍隊の最終的な目的は、「人の命」ではなく、「国家の存立、存続」なのです。

 国家の存立、存続の為に、「民間人の生活を物理的に守る必要がある」というだけで、別に各々個人個人の生命と安全それ自体は軍隊の最終目的には成り得ないのですよ。

 もし、軍隊の存在意義を、「死ぬ人を少なくし、生きる人を多くする事」に置くと、最終的に軍隊は存在しない方が良いという理屈になって、論理矛盾を起こすわけです。

 繰り返しますけれど、『命の数』を最終価値とするなら、「軍事的圧力にはすべからく降伏して、国境を無くし、国家を無くし、生活の仕方、言葉の話し方、伝統、慣習、礼節、といったモノへの拘りも捨て、余所の者の言うなりになって行く」とするのが、最も多くの命が生き残る合理的な方法なんですから。

 それを良しとしないから、軍隊というものに存在意義が出るわけです。



 ともすれば、自衛隊の存在を肯定する人の中でさえ、自衛隊を「公営用心棒」か何かと勘違いしているのではないかと思えます。
 国民が税金を出し合って、「自分たちの安全守る巨大な用心棒」を雇っている……と、そんな意識があるのではないかと疑っているのです。

 そもそも税金というのは、「支払った対価として、政府に対して何かを請求できるもの」ではありません。
 つまり、税金は、『公』の為に徴収しているのであって、それを支払った一人一人の為に使う事を最終目的とすべきものではないということです。

 国民にはすべからく「過去から引き継いだ『国家』という属性を、後世へ繋いで渡す」という『義務』が、生まれながらにして課せられています。
 ただ、それを一人一人の人間がやろうとしても、力が弱すぎで、義務を果たすことができません。ですから、中央政府に個々の義務を部分的に一任しているわけです。
 よって、税金というのは、「納めてやっている」というよりは、むしろ、「納めさせていただいている」ものなのです。だって、もし税金を納めることのできる『政府』がなければ、生まれもって課されている所の義務を果たせないのですから。


 軍隊というのも、そういうものの一環なのです。
 つまり、軍隊とは、我々に生まれもって課されている義務(国家全体を存続させる事)を、物理的に果たすために存在しているということです。

 これをまずをもって認めなければ、自衛隊の『建軍の大儀』とったものが、酷くあやふやなものとなってしまうのだろうと……考えます。



(了)



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反原発に見える反権力指向 

 このブログではこれまでも『反原発』の態度を批判的に評してきました。
 俺は、今日も……そしてこれからも、『反原発』という態度に含まれる様々な醜い指向を繰り返し非難していく所存です。


 今日は、『反原発』の根拠を、「既存の大きな権力が握っているものだから」という所にも置く、醜悪にひん曲がった根性を非難したいと思います。
 原発の話題で言えば、「既存の大きな権力」とは『日本政府』だとか、その中でも『経産省』だとか、あるいは『東京電力』とか、そういった存在になるでしょう。

 そこで、まず第一に指摘したいことは、「既存の大きな権力が握っていること」=「悪い要因」という考え自体に、根拠がないということです。
 逆に言えば、「現在は権力を得ていない大衆へ開放していくこと」=「正しい要因」という考えにも、一切の根拠がないのです。

 俺にとって、そうした根拠のない考えは、頭の中で物語的にデフォルメされた差別的な決めつけに見えます。つまり、「どこか腐った権力構造の中に悪い輩がいて、彼らがほくそ笑みながら大衆から搾取を繰り返しているはずだ」という子供っぽい筋立ての上で物事を考えているのではないかと、疑っているのです。
 ですが、そんな子供っぽい筋は、いまどきマンガや小説にしたってチープ過ぎですね。


 さらに言うと、物事には「国家の存立のために、既存の大きな権力が握っておくべき領域」というものがある……というのは当然の話です。
 例えば、水、食料、原材料、移動、通信、そしてエネルギーといったモノに関わる産業ですね。

 つまり、『産業』というのは、全部が全部平等ってわけじゃないんです。
 当ったり前の話ですよ。
 国家の基盤を成す産業は、当然、中央政府が庇護すべきだし、そこに既存の大きな民間企業が既得権益を作りだし、それなりの慣例や慣習を構築するというのも当然の話です。

 これは別にズルくも何ともないんですよ。

 だって、日本国民の全てが、国家や政府からもたらされている何らかの既得権益でもって生計を成り立たせていて、その度合いが強いか弱いかというだけの話なんですから。
 おそらく、あなたより多くの既得権益に預かっている日本国民もいれば、あなたよりも少ない既得権益にしか預かれていない日本国民もいるでしょう。
 それでも、『私は一切何の既得権益も国や政府からいただいておりません』とのたまう日本国民がいたとしたら、それは嘘か、統治の恩恵に気づかない恩知らず者としか言いようがありません。また、既得権益を全国民に対して完全に平らかにせよ……などというのは政府に対する暴論もいいところで、もっと言えば赤ん坊のごとく甘ったれた態度とも言えます。

 そして、「政府から発する産業の既得権益の度合いの多い少ない」とは、どんな基準で選ばれるべきかといえば、それは「国家存立、国家独立、国力増進」といったモノにかなう産業であるかどうかによって、ですよね。
 だって、それが政府の役割であって、国家の統治の役割じゃあないですか。
 少なくとも政府にはそうあってもらわなきゃ困りますよ。
 幸い、日本政府は、政府の役割をこなしてきているのですから、なんで市民団体とか評論家とかいうワケの分からん連中からワケの分からん文句を付けられなきゃいかんのですか。



 エネルギー産業とは、国家の存立、独立、国力、といった事に密接に関わる、極めて根幹的な産業です。

 そもそも、エネルギー問題という国家の根幹を「既存の大きな権力」以外で、どう安定せしめようというのでしょう。
 まず、少なくとも、エネルギーを得るためには、軍事的背景が必要です。それに基づいた外交交渉も必要です。国際的に信用に足る通貨の管理が必要です。
 いつでも金さえ払えばエネルギー資源が手に入る、などと思ったら大間違いなんですよ。エネルギー資源は気合いで湧いてくるものではないからです。
 また、各エネルギー資源をどう運用し、どのように外交的弱みにしないかーーというのも、政府が指導しなければ、どうしようもありません。
 さらには、国内の民間企業による経済活動は、「エネルギーが途切れず、断続的に供給されること」を前提として行われているのです。つまりは、「国家のエネルギー資源の確保」は「末端の国民に至るまでの生活」に、根本で関わっているわけです。だって、国家のエネルギー問題は、国内の全ての産業に関わる問題なのですから。


 そもそも、エネルギー産業とは、こういった前提があるのだから、電力会社は政府の指導を良く聞く半官半民の企業であって良いのです。その中で、官と民がコネとシガラミと既得権益を構築し、協調していかねばやっていきようがないのですよ。
 というか、そうでなければ、一体全体どうやって国家としてエネルギー資源を運用していくのでしょうか。また、いつから官と民が協調しちゃいかんという話になったのでしょうか。

 産業には、政府が成すべき領域と、民間の成すべき領域があり、また、両者は国家の下に密接に繋がっていなければ機能しないものですから、そこに連絡なりなんなりを持たせずして、どうして国家が成り立って行くと思えるのでしょう。
 そして、官と民というものの連絡と言っても、人間は神様ではありませんし、社会の全ての情報を各々が完璧に把握するなどということは、人として不可能です。
 ですから、「そこはコネ、シガラミ、既得権益による『信用』や『関係性』によって運用せざるを得ないだろう」ということすら認めないのは、あまりに『既存の権力』というものに対して不寛容すぎると考えるのです。
 だって、そうなると、「権力が既存して許される状態」というのが、「権力が神的な力を宿した時」以外になくなってしまうでしょう?
 人間に神的な力が宿ることは永遠にありませんので、権力が既存するという状態がなければ生きていけない人間という生物にとって必要なのは、「既存の権力に対する理解と寛容さ」なのです。



(了)



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大東亜戦争を肯定する事の重要性 

 俺は、基本的に大東亜戦争を肯定します。
 もし、大東亜戦争を無理矢理否定的に見るとなると、人間というものの性質を酷く見誤ると確信するからです。


 まず、日本があのような戦争をするに至った所以を捉えるには、国家間の経済的摩擦の問題を考える必要があります。

 そもそも、工業化(産業革命)といったものが起きると、原材料の値上がり、製品の値下がりという相対価格の不均衡が国内経済の問題として潜在しだします。
 すると、概ね、近代以降の先進国は、原材料を輸入し、製品を輸出するということをもって、自国の国内市場を均衡させようとしたんですね。
 ですが、その原材料の輸入元、製品を輸出する海外市場を、国外へ求めてどんどん地球を狭くしても、地球は有限なので、今度は世界経済の方が不均衡をきたすのは当たり前の事です。

 先進国と後進国の間での不均衡で済んでいるうちは、軍事的パワーが違いますから、恫喝をもって貿易摩擦による文句を抑え込むこともできたでしょう。

 しかし、事が先進国と先進国の決定的な経済的摩擦に及べば、当然、大規模な戦争になるわけです。

 また、製品や原材料が国境を越えてガンガンに移動するとなると、同時に資本も国境をガンガン越える事になります。すると、世界経済が概ね上手く回っている時は良いのですが、不況に陥る際は、世界各国で同時に連動して不況に陥るわけです。


 ここで、留意すべきは、国境を越えた経済的不均衡を解決するのは、国内経済の経済的不均衡を解決する事より、遙かに難しいということです。

 当たり前ですが、国境を越えた所に、上からの指導は効きません。何故なら、地球政府というものは存在しないし、そんなものが存在してしまってはならないからです。
 また、国民の生活形態、長い年月をかけて構築した産業構造、商慣例……といったものによる民間の自浄も、国境を越えてしまえば望みようもありません。何故なら、国境を越えた所にいる人間は、こうしたものを共有していないし、共有するべきでもないからです。つまり、実は、国境を越えた所での市場原理というのは、機能の根拠を失っているんですね。


 こうしたことから、当時の日本人達は「やはり経済というのは歴史的に統合された国民による伝統、慣習、慣例に基づいて回していかなければ機能しない」ということに気づくわけです。
 そこで、日本の歴史に基づいた価値観や宗教観、道徳、先入観といった、『国家の歴史的な体系』が重視されるようになったのですよ。

 勿論、『国家の歴史的な体系』とは、たとえ経済が上手く回っていても、常に最も尊厳ある存在です。
 しかし、経済が上手く回っている時はあまり意識されず、経済情勢が不安定になると、その遙かなる重要性が明瞭に認識されるようになる傾向があります。

 そして、その方向性は、ある程度うまくいっていたのです。
 つまり、『国家の歴史的な体系』に基づいている市場を、政府と軍隊で保護し、「国境を越えた経済」という何の根拠も持たない不安定なものによる混乱を、できるだけ回避するという方向性です。

 ただ、反面、「国家の歴史的な体系に乏しい先進国」というのもありまして、それがアメリカとかソ連とかいう国だったわけです。

 アメリカをクローズアップしますと、アメリカという国は、国内経済を安定せしめるほどの『国家の歴史的な体系』という歴史的基盤がないので、国境を越えた先に市場を開拓していくしかないんですね。いや、むしろ、「国境を越えた先に市場を開拓していく」という事こそ、アメリカにとっての『国家の歴史的な体系』と言えるのかもしれません。いわゆるフロンティアスピリットというやつですね。

 そこで、アメリカは、国境を越えた経済の中でも、供給サイドの問題である『市場』という項目ではなく、需要サイドの問題である『原材料』という項目で、日本経済へ圧力をかけるわけです。
 ここで言う原材料とは、『石油』ですね。世に言う、ABCD包囲網という経済攻撃です。

 先ほど俺は、近代化をした国は、「製品を輸出する必要」と、「原材料を輸入する必要」が出てくると言いました。
 製品の輸出とは市場の問題ですので、『国家の歴史的な体系』に基づいた国内市場をどうにかやりくりしていくことができました。
 しかし、原材料=石油は、物理的に国内で産出しなければ、輸入する他ありません。
 その石油の輸入を日本にさせない戦略が、ABCD包囲網です。

 ただ、ここで俺は、このアメリカの戦略が「非道でけしからん」とか、そういう事を言いたいのではありません。


 人間というものを見たときに、まずパッと思うのは、「人は経済無しでは生きて行かれない」ということでしょう。
 また、その『経済』とは、そもそも「集団の歴史的な体系」の中にある伝統や慣習、慣例がなければ成り立たないものであることは、先ほど申した通りです。近代以降では、特に、その歴史的集団で最大のものである『国家』が経済の存立基盤であることは、疑いようもありません。

 さらに、この「国家と経済の相互依存関係の塊」は、地球上に日本だけではありませんね。船や飛行機の技術が発達して、世界が狭くなってからというもの、国家間は何らかの関わりを持たざるを得ないわけです。
 すると、そこに何かしらの経済的不均衡が生じることは、運命的に避けられません。
 そして、この「国家間の経済的不均衡」は、おおよそ「人間の知」を越えたものであることを認めなければならないーーと、こう言いたいのです。人間の知は、国家間の経済的不均衡をコントロールできるほど、完璧なものではないのです。

 勿論、国家間の経済的不均衡も大きくなったり小さくなったりしますし、ある程度、大きくならないようにする技術論もあります。しかし、そういった技術論が通用しない領域……つまり人間がコントロールできない領域で、国家間の経済的不均衡が急激に膨らんで決定的な対立を起こすことはありうるのです。

 こうした場合、「軍事的な衝突をもってでしか事が収束していかない」というのは、ほとんど運命的に避けられない災害のようなものですよ。
 すると、国家体系と経済の相互依存は、潜在的に常に軍事力という物理的パワーとも深い関わりがあるということも分かるはずです。


 また、その軍事的衝突の「規模」も、国際法といった人知で抑え込める領域と、それを越えた領域があるはずです。
 大東亜戦争は……というか、第二次世界大戦は、先進各国が互いの「国家の歴史的な体系、存立基盤そのもの」をかけざるをえない、超大規模な軍事的衝突だったのです。
 こうした避けようもない雪崩のような危機に遭遇したらば、もうこれは国家を過去から未来へ繋げる為に、命を投げ打って戦う他ありませんね。


 こうして大東亜戦争を自然に顧みるに、「国家体系、経済、軍隊、それに政治体制といったものを加えた四つ」は、それぞれに深い関わりをもって存在し、いずれかを切り離して人間というものを考えることは到底できないし、してもならないということが分かるはずです。
 大東亜戦争における日本は、別にこの圧倒的現実から大きく外れたアブノーマルな振る舞いをしたわけでもなく、人知を越えた危機に直面した共同体としては極めてノーマルかつ適切な振る舞いをしたと捉えるべきです。

 むしろ、現代の人々は、これを無理矢理否定しているから、人間そのものへの見方が酷く空疎で刹那的にねじ曲がってしまっているのではないでしょうか。



(了)



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終戦を記念するのは憲法違反である 

 毎年、この時期になるといつも思うのですが、八月十五日を『終戦記念日』とするネーミングが、気にくわなくて仕方がないです。

 何故なら、この名前の裏には「勝とうが負けようが、とにかく戦争が終わったこと自体を人間として記念する」という意味合いがあるように思えるからです。

 しかし、そりゃあ、あんまりな態度ですよ。

 負けた側の子孫が、負けた戦争の終わった日を「勝つ事が望ましかったなぁ」とか「次、ヤツらとやったら勝ちたいものだ」とさえ思わないのは、あまりに第三者ヅラした態度ではありませんか。

 それならばいっそのこと開き直って、『敗戦記念日』とでも銘打った方がまだ可愛げがあります。


 世を見渡し、終戦記念日というネーミングを何の躊躇いもなく使っている輩を見ると、もしかしたらソイツは「国家の行う戦争は、政府や軍隊が勝手にやることで、民には関係ない」といったような甘ったれた勘違いを起こしているんじゃなかって疑ってしまいます。
 ただ、仮にそうだとすれば、その人は国家の属性を帯びない、「単に日本列島で生まれた人間という生物」ということになってしまいます。

 確か、日本国憲法という腐った駄文にも、「主権は国民に存する」とかなんとか書いてあった気がします。つまり、国家の歴史的属性を帯びない「単に日本列島で生まれた人間という生物」には、主権は無いって事ですよね。

 すると、「勝とうが負けようが、とにかく戦争が終わったこと自体を人間として記念する」とか、「国家の行う戦争は、政府や軍隊が勝手にやることで、民には関係ない」とか、そういった勘違いを起こしている輩が日本国のあれそれに口を出すというのは憲法違反なんじゃあないんですかね。



(了)



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理論上、国境を越えた経済が均衡すれば戦争はなくなる 

 理論上、国境を越えた経済が均衡すれば戦争はなくなります。
 戦争をする意味がなくなるからです。

 しかし、国境を越えた経済が均衡する事は永遠にありません。
 よって、戦争も永遠に無くならないと断言します。


 世間では、「TPPを始めとする自由貿易協定が、世界を平和にしていく」という理屈がよく聞かれますね。
 つまり、「国と国の経済的結びつきを強固にして、互いが互い無しでは存続不可な状態まで依存し合えば、戦争を起こす事は出来なくなるはずだ」という理屈です。

 ただ、これは一見ま逆に見える、共産主義のコスモポリタニズムと酷似した思考経路ですよ。

 そもそも、戦争や軍事対立は、国家どおしの経済の不均衡で起こる場合がほとんどですね。
 すると、「人類普遍の経済的合理性」なるものがあれば、国どおしは決定的な対立を起こさずに済むーーと、こう考える奴がいつの時代にもいるんです。

 しかし、「人類普遍の経済的合理性」など、存在しません。
 よしんば存在したとしても人間には絶対に解明できません。この先、いかなる大天才が登場しようとも、永遠に不可能です。

 ですから、何らかの「人類普遍の経済的合理性」を持ち出して、「戦争がなくなっていきます」とやる輩は、100%嘘つきなのです。



 共産主義のコスモポリタニズムの理屈が間違いであることは既にお分かりかと思います。
 共産主義は、国境を取っ払った経済の生産や消費を、全て一つの政府で計画し、統制し、コントロールしていけば、全ての人類に平等に物質が行き渡るはずだーーという理屈ですね。

 しかし、共産主義における政府の役割は、政府がこなしうる領域を越えているんです。
 何故なら、そもそも「政府がどのように経済へ介入していくのが適正か」というのは、「国家の歴史的な伝統、慣習、慣例」にしたがっていたからこそ、上手くいっていたのですから。
 つまり、政府の能力は有限であり、政府の果たすべき領域も国家の伝統によって各国各様に違うものであって、ひとたび国境を越えればその平等の価値基準すら違う……から、コスモポリタニズムは間違っているんです。



 対して、自由貿易によるグローバリズムも極めて類似した間違いを犯そうとしています。

 自由貿易によるグローバリズムは、「各国政府が経済には口を挟まず、それぞれの国にいる人間が国境を越えて自由に経済活動をすれば、市場原理が働いて世界経済は均衡する」ーーという理屈です。

 しかし、グローバリズムにおける民間市場経済の役割は、市場原理がこなしうる領域を越えているんです。
 何故なら、そもそも「市場原理の機能」というのは、おおむね国民経済が「国家の歴史的な伝統、慣習、慣例」にしたがっていたからこそ上手くいっていたのですから。
 つまり、市場の能力は有限であり、市場の果たすべき領域も国家の伝統によって各国各様に違うものであって、ひとたび国境を越えればその自由の価値基準すら違う……から、グローバリズムは間違っているんです。



 政府であろうと、民間市場であろうと、経済は『国家』に基づいていなければ、適正さの根拠を失うのです。

 世の中には「国家と経済は切り離して考えるのが平和的で素晴らしい」みたいな風潮がありますが、実際の所、『経済の問題』とは、(政府と国民とを含めた)『国家の問題』と、ほぼ同一なんですね。
 また、経済を捉えるのに国家を考える必要があるなら、経済問題を軍事(パワー)と切り離して考える事など不可能であることを、認める必要があると考えます。


(了)



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トミー様よりいただいた一連のコメントへの返答 

 今回は、変則的に、トミー様という方から頂いたコメントに返答するという形式の記事にさせていただきます。

 と申しますのも、トミー様におかれましては、このような弱小ブログに対して、一度に5つもの批判的コメントを頂戴いたしましたので、「これは本記事の方で反論を展開したいな」と思ったからです。

 また、5つものコメントに、各個反論をしていくのは重複する内容を何度も書かねばならなくなったり、内容を筋立てのが困難である……という事も、どうかご理解いただけたら、と思います。


 では、トミー様のコメントを提示し、その下に俺の返答を添える形で展開していきたいと思います。


※『』内、トミー様のコメント。


①以下、当ブログ記事「消費税反対に潜む醜悪な態度」に対するトミー様のコメント。

『>1960年代、70年代は、政府規模はもっと小さかったですね。財務省のサイトで国民負担率の推移をみてください。当時は25パーセント程度です。今は40パーセント程度。
> 政府の肥大化が民間活力の低下を生んでいます。かつての日本はもっと民間が自立しており、政府への依存が小さく、それゆえ活力がありました。
>増税なき財政再建を目指すべきです。』


【俺の返答、1】

 ここでのトミー様は、『国民負担率の推移』を根拠に、『1960年代、70年代は、政府規模はもっと小さかった』とおっしゃっていますが、これは不正確な議論だと思います。
 何故なら、国民負担率というのは、単に社会保障についての話だからです。
 確かに、少子高齢化で年金が増えて、社会保障費が増えている、というのは間違いないですよ。
 ですが、政府の大きい小さいは、社会保障費の多い少ないだけで論じて良い話ではありませんでしょう。

 まず、日本のGDPに占める政府支出の比率は、37%とOECD諸国でも極めて低水準です。

・GDPに占める政府支出の比率

 つまり、『政府の肥大化が民間活力の低下を……』というのは、日本政府に対してのいわれのない中傷以外の何物でもありません。

 また、年金で社会保障費は上がっているのに、全体としては極めて小さな政府であるということは、相対的に他で何かが減っているのです。
 それは、公務員の規模です。特に、中央官僚の規模が著しく縮小しています。

・国家公務員数推移

 特にここ十年、激烈な減少でしょう?
 60年代の国家公務員の数と比較して、現在では約半減してしまっていますね。

 というか、そもそも高度成長期というのは、通産省による産業政策や国土省によるインフラ整備指導が強かった時代だったのです。
 6、70年代を見習うのだったら、少なくとも当時のレベルくらいの官僚による指導が必要であるーーという、話になるのが自然だとは思いませんか。



②以下、当ブログ記事『大きな政府と福祉国家の違い』に対するトミー様のコメント。

『>逆だと思います。国を強くするために統制すべきなのは戦争などの非常事態だけです。
> ちょっと考えれば、政府の統制で経済が伸びるわけがないことはわかるでしょう。ソ連邦がうまく行きましたか?
>政府は民間の需要を的確に把握することはできないし、需要に応えるために工夫する力もありません。
>統制経済はうまくいかないのです。』


【俺の返答、2】

 俺はなにも、平時においてすら、戦時における統制経済くらい国家を政府でがんじがらめにしろ……などと言っているわけではありません。例えば、私有財産を否定し出したり、衣食住を配給にしろとか言い出したら、社会主義や統制経済を引き合いに出されたとしても仕方ありませんが、そのように書いたつもりもありません。つーか、そんなこと書いてません。

 俺は、適切な規模の政府を確保するために、「現状、やせ細っている政府の権限を、今よりは大きくしろ」と言っているだけです。
 平時であろうと、「国民統合」「国力増強」「国家の独立性の確保」という諸問題に、政府が役割を果たさなければならないのは当然です。国家の基盤がなければ、国民は存在していけないですし。

 それに、市場を市場たらしめる為には、通貨管理、規制と法の整備、公共インフラといった「国内市場の土台」の保守が欠かせません。何故かと言えば、市場原理は、「そういった土台があらかじめ敷かれている」ということを前提にした理屈だからです。どう考えても現実世界では、中央政府がやらなければならないんです。
 事実、政府が土台を敷き難たい市場では、その役割をヤクザが代わりにやってしまうでしょう?(俺はヤクザ肯定派ですけれど)

 ただ、トミー様のおっしゃる『政府は民間の需要を的確に把握することはできないし、需要に応えるために工夫する力もありません』という部分はまったく正しいです。間違いありません。
 というか、政府は、『民間の需要を把握』などする必要などないし、民間が需要するものに『応える工夫』をする必要などもないのです。

 政府が経済で果たすべき役割は、「民間では需要が起きず、民は欲しいとも言わないけれど、国家全体にとって必要なものを採算度外視で注文」したり、「国家的に必要になりそうな一部の新興産業や幼稚産業の保護」をしたりする事です。

 市場に限界があるのと同時に、もちろん政府の能力にも限界がありますから、「民間が需要するものを供給する」だなんて事は、おおむねやらなくていいし、「政府がそんなことをしだしたら邪魔だ」と、俺でも思います。(おっしゃるように、戦時や天変地異などの危機に際しては、別ですが)

 「民間の需要」を満たすのは、それこそ、民間の市場経済が果たすべき領域なのですから。


③以下、当ブログ記事「アベノミクスにおける二つの流れと、麻生太郎の重要さ(前編)」に対しての、トミー様のコメント。

『私には政府が適切な産業政策を取ることができるという発想こそガキみたいでついていけません。
> なぜ、複雑な需要を政府が把握できるのか? 日々市場で売れ行きを見ながら分析している民間企業ならともかく。
> 財政政策は失敗します。1990年代の公共事業が莫大な政府債務を生んだように。
>私も極端に小さな政府は懐疑的です。ただ、かつては国民負担率が25パーセント程度で、それだけ民間でお金が回っていたのに、今や40パーセント程度。
>(財務省サイト参照)
>その上消費税増税で極端に大きな政府にするのは間違いです。日本の伝統である民間の自立、小さな政府、に立ち返るべきです。



【俺の返答、3】

 繰り返しになりますが、国民負担率とは、国民所得に対する社会保障費の比率です。
 社会保証費が増大しているという事が、経産省の役人による産業政策の強弱と何の関わりがあるか、ちょっと日本語として理解ができません。
 そして、高級官僚が減らされているというのは、先ほど示したとおりです。

 また、これも繰り返しですが、産業政策に「民間の需要を伺い知る」必要などありません。
 既に民間で需要のあるものは、それこそ民間市場でやればいいのであって、そこは政府が云々する領域ではないのです。

 日本の経済の伝統を振り返って、産業政策で起こった産業を上げれば、明治の殖産興業では紡績、鉄鋼、電化、兵器、戦後では車、家電、パソコン、などがパッと思い浮かびます。
 当然、それらは自由な市場からポッと湧いて起こったわけではありませんね。産業というのは、始めはどんなものでも新興産業ですから、民間に需要が無いんですよ。だって、多くに周知されていない新しいものを、民間が需要するなんてできないでしょう?

 例えば、今我々は車を持つことが当たり前の世の中に生きていますが、最初からそうであったわけありませんね。
 最初は、車の民間需要は極めて小さく、民間が単独で投資をするには苦しい状態だったのです。規模の経済がとれないので当たり前ですよ。
 でも、どうやら車というのは、運搬等の利便性に鑑みて、国家全体の経済に益となりそうだ……と判断して、政府が車会社をひいきにするんですね。
 これは別に「民間の需要に媚びている」わけではなく、政府が、国家として必要そうな産業をひいきして、新たな既得権益を作り出しているという話なんです。

 これが、日本経済の伝統、「官民の協調」ですよ。

 経済成長戦略とは、新たな産業を生み出して長期的に経済を成長させていく戦略だと存じます。
 そして、「新しい産業」というのは、「まだ民間に需要が無い産業」の事ですから、供給サイドも民間のみでは無理です。産業政策による幼稚産業保護が絶対に必要ですし、日本はそうやって大きな産業を生み出してきたのですから、その伝統に学んだらどうでしょうか。

 勿論、産業が熟成し、「民間市場がそれらを需要する」といった段階になれば、政府は手を引くべき話なんですけどね。そうなれば、規模の経済がとれるので、民間で収益を上げられるし、市場原理だって働くようになるでしょうから。
(郵便や電力といった公共性の高い産業は別ですよ)



④以下、当ブログ記事「アベノミクスにおける二つの流れと、麻生太郎の重要さ(後編)」に対しての、トミー様のコメント。

『>民間も失敗はするけど、自浄が働きます。例えば、油断した企業は倒産する、などです。
>役所は倒産しません。しかも日本の官僚は選挙で地位を失うこともないので、自浄作用が働きにくいです。アメリカのように政権交代で官僚も入れ替えるならまだマシかもしれませんが。
> 麻生はリーマンショック後の厳しい時期に消費税増税を言い出して、消費を萎縮させ、不況を深刻化しました。
> 時期の問題だけではなく、日本の伝統を壊す、増税と大きな政府を進める政治家ですから、麻生氏が財務大臣であることは、安倍政権の最大の欠点です。』


【俺の返答、4】

 役所が倒産しちゃ国家は無秩序状態じゃないですか。
 そもそも、政府官僚を始めとする役人と、民間企業では立場が違います。甘ったれた事を言ってもらちゃ困るんですよ。

 あと、アメリカの役人は、政権交代ごとに職を失ってどうするんだろうと考えた事はないのですか?政権交代ごとに、みんなの大っ嫌いな天下りをするのですよ。それも政権交代ごとに役所と民間を行ったり来たりするわけです。ちなみに、アメリカでは、政治家も、政権を失ったあとの浪人中は恥じらいもなく民間へ天下りますからね。

 俺は、天下り肯定派ですが、アメリカのように節操のないのは流石にちょっと勘弁して欲しいですね。

 また、俺は、民間市場が「失敗するからダメだ」と言っているわけではないんですよ。民間市場にはおおいに奮ってもらって良いのです。ただ、民間市場は失敗するものである事を認めること、そして、政府にしか修正できない領域がある事を認めること、さらには、官と民が国家において協調する事が大切だと、そう思うわけです。

 あと、消費税は、バブル後の不況で下げた法人税と所得税を、不況を脱した後に引き戻す意味でも絶対必要です。
 不況で税を下げるのは正しいですが、不況を脱した後に引き戻さなきゃ、不況の度に税は下がっていくではありませんか。
 また、日本の社会は少し金持ちから税を取りすぎて平等社会すぎなので、中流階級からも税を徴収できる消費税の方が、法人税や所得税をまんま引き戻すよりも良いだろう……と考えての意見でもあります。



⑤以下、当ブログ記事「各政党の国家と経済に対する立場」に対しての、トミー様のコメント。

『>私は、1960~80年代を見習い、税は低く、社会保険料は低く、その分家計は余裕があり、若者が家を買ったり、奥さんが専業主婦で育児をしたりできる豊かな国にすべきだと思います。
>
>実際は政府は肥大化しており、小さな政府は実現していません。小泉政権期は踏みとどまったとは思いますが、当時、減税はほとんどされていません。
>
>ただ、増税も控えめでした。これが小泉政権期の経済成長の原因の一つだと思います。
>
>日本人は伝統的に自立心が強く、勤労意欲が高いので、小さな政府が向いています。日本が日本であるために、小さな政府という状態を守り、取り戻したいです。』


【俺の返答、5】
 その『実際は政府は肥大化しており』って話は、日本政府に対するいわれのない中傷であることは先ほど示した通りです。
 また、『小泉政権期の経済成長』っていつしたのでしょうか?
 小渕政権、森政権の成長率を越えた年など、無いと思うのですが。

 最後に、『日本人は伝統的に自立心が強く、勤労意欲が高いので、小さな政府が向いています』というこの話を、少し噛み砕いてみましょう。

 そもそも、我々日本人が何故『自立心が強く、勤労意欲が高い』のかと言えば、それは「我々の一人一人が先天的、民族的にそのように生まれてきたから」ではないですね。
 それは、「日本における慣習や慣例の中に歴史の英知があり、それを生活の中で引き継いでいる国民」だからこそ、『自立心が強く、勤労意欲が高い』のです。
 つまり、今の我々が『自立心が強く、勤労意欲が高い』のは、今を生きる我々一人一人の功績ではなく、全ての過去の日本人が積み重ねたものの功績なわけです。

 そして、そもそも市場原理というのは、そういった過去から引き継いだ慣習、慣例があってこそ機能するモノだということを忘れてはなりません。

 また、その慣習、慣例というものの中には、当然、「政府と民の関係性」も含まれているはずなのです。何故なら、人間は人間として存在し始めた太古の昔より、小集団において「政府と民」というものの中で生きてきたからです。長い歴史を持つ日本においては、その関係性においても深い英知があると考えるべきです。

 俺は、日本の現状は、大衆心理に迎合して官僚を減らし、税を減らして、政府の指導力が著しく削がれていると考えます。

 日本が日本であるためにも、政府の適正規模、政府の適正な権限、政府と民の関係性といった所を、慣習や慣例を基に見直すべきだと思います。



(了)



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大きな政府と福祉国家の違い 

 世間では、なにやら「保守」は「自由主義経済で小さな政府を目指し」て、「左翼」は「所得再分配で福祉国家を目指す」というような前提で話が進んでいるように思えます。

 しかし、それは対立軸としておかしいです。

 何故なら、「政府を大きくする」というのは、「金持ちから金を巻き上げて、弱者に再分配する(福祉国家)」とは限らないからです。

 例えば、政府を大きくするというのは、「軍事力や警察力を高める」というのだって『大きな政府』でしょう。
 或いは、ナチスの手口に学んで、道路やエネルギーやインフラといった国家基盤の強化による、国民の経済的統合だって、『大きな政府』ですね。


 繰り返しますが、「金持ちから金を巻き上げて、弱者に配る」というだけが、『大きな政府』ではないのです。



 さて、何故、「保守=小さな政府、左翼=大きな政府」といった酷い勘違いが起こっているのかと言えば、「大きな政府、小さな政府論」に、「夜警国家、福祉国家論」の軸を混ぜ込んでしまっているからではないでしょうか。


 「大きな政府、小さな政府論」とは、文字通り「政府の規模や権限」の話です。
 つまり、どのくらい政府が税を徴収するか、どのくらいの法をもって自由を制限するかーーという話の全てが、「大きな政府、小さな政府論」なのです。


 対して、「福祉国家と夜警国家」の対立軸とは、かなり限定的で、ほぼ「再分配」に限った論議になります。

・夜警国家、「安全保障、警察能力以外の所で政府は口を出さないという、自由放任の国家」の事。
・福祉国家、「政府が金持ちから金を巻き上げて、弱者に配って平等にする国家」の事。

 これを聞けば分かると思いますけれど、この『福祉国家と夜警国家』の対立軸上では、政府の役割が、「安全保障と警察力と社会福祉政策」に限定されているんですね。

 つまり、「自由を重んじて、金持ちはより金持ちになる社会」か、「平等を重んじて、金持ちから金を巻き上げて弱者に配る社会」かーーという、本当にどうでもいい議論なんです。


 実は、この『福祉国家と夜警国家』の軸上には、「政府がこなさなければならない役割」で重要な観点が三つほど無視されています。

 それは、1「国民を統合する役割」、2「国力を高める役割」、3「国家の独立性を高める役割」です。

 どうでしょう?

 世間では、保守と呼ばれるものすら「自由だ、民主主義だ」と騒ぎのたまっているわけですが、これら三つの観点が、大衆の「自由と民主主義」とやらだけで果たされるとは、思えませんね。

 勿論、「国民の伝統や生活の中での知恵」というのも、ある程度その三つの観点を補う部分がありますから、全てを政府にやらせろとは言いません。
 が、政府が民なるモノの自由を一定程度制限して「国民を統合する役割」「国力を高める役割」「国家の独立性を高める役割」を果たす必要があるだなんて事は、偽善を取り払って考えればすぐに分かるはずです。


 俺は、おおよそ、こうした観点から、現代の日本は多少「大きな政府」へ向かうべきだと考えています。
 また、そのあたりも、少しは「ナチの手口に学ぶべき」なんじゃないかなあ……って思ったりなんかもするのです。



(了)



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アベノミクスにおける二つの流れと、麻生太郎の重要さ(後編) 

 前回、麻生太郎大臣は、安倍内閣のなかでも、ほとんどただ一人の『ケインズ、産業政策派』であるという事を述べて終わりましたが、これはとりあえず良いか悪いかを置いておいても、事実です。

 まず、デフレという短期的な話題に際して、麻生大臣にケインズ的傾向があるのは、大臣が首相をやっていた時からも明らかですよ。
 ちょうどあの頃、リーマンブラザーズの破綻、アメリカバブルの破裂から、世界同時に金融不安が起こっていましたね。(現在とて、その尾を引いている状態ですが)
 それに対応しての、麻生内閣の経済政策は、いわゆるケインズ的な政策だったのです。(当初の財務大臣は中川昭一先生でしたね……)
 具体的に言えば、民間市場の「需要過小、供給過多状態」を、「政府の公共投資(公的需要)の拡大によって埋める」という政策です。
 おおよそ一年半という短命な内閣でしたが、麻生内閣時代の経済政策が一定の効果を上げていたというのはよく言われる事です。事実、短期的な金融信用不安(特に、グローバルに国境を越えて駆けめぐっていた短期証券)による、国内の実体経済の損害を最小限に押し留めた、素晴らしい功績だったと思います。(民主主義には評価されずに、選挙では負けて、中川昭一は死んじゃいましたけどね)


 このケインズ的政策で注目すべきは、やはり「市場経済への懐疑」の態度でしょう。


 俺は、前々回の記事で、麻生大臣の「ナチスの手口」発言に関連して、「直接民主主義への懐疑」の重要さを論じ、大臣を支持しました。
 そこで論じたような、麻生大臣が持つ「民主主義への懐疑」と「市場経済への懐疑」は、同じ傾向の態度から生じ得る態度であると、考えます。

 そもそも、『民間の市場原理』とは、「経済における民主主義」と呼ばれていますね。
 何故なら、市場においてそれぞれが行う『消費』は、民主主義における『一票』と同じ事で、その「消費(一票)をより多く集めた方が勝者である」というところまで瓜二つだからです。
 また、民主主義や市場原理に対し、全くの懐疑を抱かない人々の根底には「一人一人の人間は、おおむね合理的な判断をするはずだから、より多くの支持を得たモノの方がより正しいはずだ」という大衆礼賛の姿勢があるーーって所までそっくりです。

 昨今の世論で前提とされている「民主主義礼賛」「市場経済礼賛」といったような姿勢の下では、それらを「懐疑すること」すら難しいのが現状ではないでしょうか。
 何故、懐疑が難しくなっているかというと、「民主主義や市場原理への懐疑」は、大衆への懐疑でもあるからです。こうした懐疑は、大衆そのものから……というよりは、大衆に迎合した知識人から強い反発を受けるのです。

 しかし、民主主義も、市場原理も、「失敗する事もある」に決まってるじゃないですか。
 疑う事も許されないなんてのは、俺にはもう狂気の沙汰としか思えないです。

 ……まあ、俺の見解は置いておいて。

 麻生大臣の「民主主義への懐疑」と「ケインズ的な民間市場への懐疑」は、思想的経路としては繋がっているというのは、理解いただけたでしょうか?




※注
 さりとて、勿論、民主主義や民間市場の自由を過度に制限しすぎて、政府が国家を完全に計画、コントロールしようとするのも、経済にとって害悪以外の何物にもなりません。
 民主主義や民間市場に限界があるのと同じで、当然、政府の機能にも限界があるからですね。

 経済の究極の問題は、『政府の機能』と『民間市場の機能』の双方の力に限界がある事を見定め、バランスをとるという所にあります。
 麻生大臣は、そのバランス感覚に非常に優れていると、俺は思います。
(注、終わり)




 さて、第三の矢『経済成長戦略』といった、長期的なスパンを睨んだ経済に話を移りましょう。

 去年の衆議院議員選挙の頃を思い出してもらいたいのですが、当時、安倍首相以下自民党が明確にしていたのは、第一の矢と第二の矢である『金融緩和』と『財政出動』でした。
 そして、第三の矢『経済成長戦略』に関しては、安倍総裁を始めとして、その方向性すらもあまり明確にしていませんでした。だいたい、「第一、第二の矢の短期的な話と同時に、長期的な経済成長に関する政策も必要だよね」くらいの話だったのです。
(別に、「国民に対して、選挙前に示しとけよ」と糾弾しているのではなく、事実として。未来は不確実なので、政治家が選挙の前に全ての具体的な政策内容を示すなんて不可能ですし、その必要もないですから)

 しかし、実を言うと、ただ一人、麻生大臣のみが『経済成長戦略』は『産業政策』である旨、衆議院選挙の頃からおっしゃていたのです。
 youtubeか何かで、衆院選の頃の演説内容をお聞きいただければ一目瞭然かと存知ますが、象徴的な所としては、麻生大臣はだいたい次のようにおっしゃっておられたのですよ。

「日銀による金融政策、大蔵省による財政出動、通産省による成長戦略ーーこの三つを、政治家が役人を使って一度にやる」

 と。

 通産省というのは、経産省の昔の呼び名ですが、経産省が行うのは、「規制緩和で既得権益をぶっつぶす」ことではないですね。

 通産省ーー経産省がやるのは、『産業政策』ですよ。

 どっちかって言うと、「国内産業の既得権益を守ったり、新たな国内産業の既得権益を作り出す話」なんであって、「既得権益をぶっつぶして市場に開放する規制緩和」とは、真逆の事をおっしゃっておられたのです。


 しかし、安倍内閣が発足して、学者、評論家を介して世論の流れに揉まれるうちに、他の閣僚達は「経済成長戦略=規制の緩和」という風に解釈していきだすんですね。
 これは政治家の性質を考えた際、ある程度仕方のない事なのだとは思います。
 元々、安倍首相を始め、他の閣僚達は経済に思想を持つほど強い思い入れはありません。というか、そもそも政治家全員に「経済に対する強い思い入れ」なんて必要ありませんしね。ですから、おおむね、大衆の心理に迎合した知識人の言うことに流されてしまいがちになるというのは、この大衆社会において、ある程度仕方の無いことではあるのです。

 ただ、内閣の中には「経済に強い思い入れを持つ閣僚」が、主要な位置に少しは絶対に必要なんです。何故なら、そういった閣僚がいないと、経済がすべからく「大衆の心理に迎合したモノ」へ引きずられていってしまうからです。

 遡って考えるに、小泉政権下の「規制緩和、小さな政府」路線は、何か小泉元首相に新自由主義的な経済思想があって進められたワケではなくて、単なる大衆迎合だったのだと思います。
 つまり、何となく「既得権益がズルい」とか「官僚がムカつく」とか「政府が嫌い」とかいった程度の大衆の心理に迎合した政策が、『規制緩和』とか『構造改革』とかいったものだーーくらいに考えておいて間違いないと思うのです。(だから俺は、『リフレ、規制緩和派』をハイエク派とは呼ばないんです)


 ですから、アベノミクスが、そういった大衆迎合の波に呑み込まれていくのを、逆の立場から待ったをかけられる閣僚が絶対に必要だと、そう考えるわけです。

 その役割は、今のところ麻生太郎大臣が果たしているのだと見受けます。



 麻生大臣がこのように孤軍で奮闘できるのは、まず安倍首相の信任を得ていることが大きいです。長い間の盟友であることはもちろんですが、去年の自民党総裁選にて真っ先に為行会が安倍支持を表明して、勝利の原動力になったことも無視できません。
 アベノミクスで第二の矢である『財政出動』が強調されたことや、麻生氏に『副総理兼、財務相兼、金融担当相』というポストが与えられた事は、去年の総裁選の経緯によって麻生大臣の提言が受け入れられたものと考えるのが妥当ーーと、考えます。
(ちなみに、財務相と金融担当相ってのは、以前の大蔵大臣です。財金の分離という、これまた大衆迎合の理屈が流行ったことがあったのですが、このように一人が兼任すれば、実質、大蔵大臣ですね)

 ですから、「安倍首相が新自由主義者でけしからん」とか騒ぎ立てる人々に対しても、まあちょっと待てよと思うわけです。
 安倍首相は新自由主義といった思想を持つほど経済に強い思い入れのある政治家じゃないし、政治が大衆迎合の理屈へ引きずられるのは、ある程度仕方ないことです。そして、内閣の中に麻生大臣のような人を抱える事ができ、「大衆迎合の理屈と、せめぎ合っている」という現状が、どれだけマシな状態か考えてみるべきです。

 まあ、麻生孤軍の『ケインズ、産業政策派』は相当劣勢ですけど……
 俺としては、麻生大臣には何とか頑張ってもらって、安倍内閣の軌道を修正していって欲しいです。


 また、もし麻生大臣が内閣を去るような事になれば、アベノミクスは『リフレ、規制緩和』の流れにどっとなだれ込んでしまうように思われます。さすれば、安倍内閣の経済政策は、酷くバランスを欠いたモノになっていくでしょう。

 麻生太郎に代えは利かないのです。



(了)



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アベノミクスにおける二つの流れと、麻生太郎の重要さ(前編) 

 今回は、安倍内閣の中で、麻生太郎大臣が重要な位置を占めている事についての、国家的な意義を論じたいと思います。

 勿論、それは様々な角度から論じる事が可能です。
 例えば、近頃論じてきたように、麻生大臣は「直接的な民主主義への懐疑」を常に持っている政治家です。これだけでも十分に希有な政治家と評して然るべきでしょう。また、元総理ということもあって、外交的にも顔が売れていますね。


 しかし、今回は、少し経済の話題に絞ってお話したいと思います。
 もっと言えば、「アベノミクスが、二つの流れの経済思想において別々に組み立てられている現状」において、麻生太郎という政治家が内閣の重要な位置にあるということは、歴史的な意義がある、という事を主張したいのです。




 さて、このブログでは、アベノミクスという言葉が出始めた頃から何度も、「アベノミクスは、二つの方向性の流れで、全く別の組み立てがされている」という事を申してきました。
 それは、ある種当然起こりうる話で、『アベノミクスの三本の矢』(金融政策、財政政策、経済成長戦略)とは言いますが、その三本をどのように「束ね、筋立てるか」というのはそれぞれが持つ『経済思想』によって方向性が変わってくるわけです。


 当初、俺はそれを、『リフレ派』と『ケインズ派』といったように名づけ分類し、論じました。
 参考過去記事:『アベノミクスとリフレとケインズ



 ただ、衆院選によってグチャグチャに纏まっていた去年の暮れと比較して、昨今の「経済思想の対立」はより鮮明化しているように思えます。特に、三本目の矢『経済成長戦略』においては、明確に正反対の立場で対立しているのです。
 ですので、名称を以下のように分かり易くしてみました。


①『リフレ、規制緩和派』
②『ケインズ、産業政策派』

(我ながら、シンプルで歯に衣着せぬネーミングだと思いますww)


 というわけで、まずは、そのアベノミクスにおける二つの流れを解説したいのですが……その前に一つ。

 世の中の『経済における考え方』を見るときには、経済において「民間の領域を大きくしていくべきとする」か、「政府の領域を大きくしていくべきとする」かの、どちらにより『思い入れ』があるかという根本の感情を見ようとする態度が必要になります。

 そもそも、経済とは決して人間が「科学で解明できるもの」ではありません。これから先どんな大天才が現れたとしても永遠に解明できない、と断言しても良いです。(もし解明できたら、戦争はなくなりますけど)
 ですので、あたかも科学であるかようなのふりをしている『経済学』とうようなものも、実は学者や評論家の感情的な思い入れの方が先にあって、その感情に基づいて「仮定を組み立て、現実の一部から数値を選んで、モデリングをし、数式を作り、グラフ化する」という事をしているに過ぎないのです。
 その感情の根本にあるのが、「政府と民間」という対立軸です。
 つまり、「経済において、どこからどこまでが政府の領域であるべきで、どこからどこまでが民間の領域であるべきか」という見解の感情がどうであるか、という所が経済思想を見極める肝なのです。


 ものすごく乱暴に言うと、①『リフレ、規制緩和派』は、「どちらかというと、民間市場の領域をなるべく広げるために、政府が経済に介入する領域は制限すべきだ」という感情に強いです。

 対して、②『ケインズ、産業政策派』は、「どちらかというと、政府は経済に介入していくべきだと考え、民間市場の領域はそこそこ制限されるべきだ」という感情に強いです。


 では、そういった『リフレ、規制緩和派』と『ケインズ、産業政策派』は、それぞれどのような筋でアベノミクスを方向づけているのかをそれぞれに示してみます。




①『リフレ、規制緩和派』

 リフレというのは、主に第一の矢である『金融の緩和』をもって、デフレ状態を解消しようとする姿勢のことを言います。
 昨今言われているリフレ的な『金融緩和』の筋とは、「日本銀行が円をたくさん刷って、一般の銀行から国債を買い取って、金融市場に出まわる円の量を増やす」という『日銀の買いオペレーション』の事ですね。
 つまり、「物やサービスの量に対して、円の量が増える」と「相対的に量が多くなった円の価値が下がるはず」で、よって「デフレが解消される」と、いった筋なのです。

 ここに、リフレ派の特徴があるのですが、彼らにとって『デフレ』とは、あくまで「日銀が円を刷る量が足らなかったから引き起こったもの」であるらしいのです。

 なので、通常、『リフレ、規制緩和派』は、第二の矢である『財政政策』を、重要視しません。たとえ、アベノミクスに賛成の意を示していても、第二の矢には言及しないか、「少しで良い」という立場を取ります。

 何故なら、彼らは、「需要と供給の不均衡」は、通貨の量さえ正常なら、市場にいる民が合理的な判断をして解消されるはずだ――と、『民間市場』なるものを強く信用しているからです。
 『財政政策=財政の出動』とは、「市場における供給の過多を、政府の支出をもって修正する」ということですから、彼らからすると民間市場の機能を疑われた気がして、好ましくないんですね。

 さて、アベノミクスの第一の矢と第二の矢は、主にデフレの解消という短期的な課題をクリアする上で話題に上げられるものですが、第三の矢は『経済成長戦略』ですので、もう少し長いスパンを睨んだ話題でもあります。
 すると、短期的問題を睨んだ場合の筋には、あまり目立たなかった「民間市場への信頼、政府への不信用」という彼らの根本感情が、この第三の矢では赤裸々になります。

 それが、『経済成長戦略』=『規制緩和』という解釈です。

 つまり、政府が、民間に対して敷いている『規制』をどんどん取り払って、「民間市場の自由の領域」を増やせば、そこで切磋琢磨が行われて、イノベーションや新しいビジネスアイディアが生まれて、経済が成長していくはずだーーという理屈です。

 デフレという短期的な話題で『リフレ』という態度を取っていた者が、こうした『経済成長戦略』=『規制緩和』という立場を取るのは、ある意味当然ですよ。
 何故なら、リフレの論理には、そもそも「市場機能への強い信用」があるので、『経済を成長させる為の戦略』と聞けば、イコール「民間市場をより自由にする事」を思い浮かべる……という風に、頭の構造がなっているからです。

 まとめると、①『リフレ、規制緩和派』は、

・第一の矢『金融緩和』に大賛成
・第二の矢『財政出動』に消極的、或いは否定的
・第三の矢『経済成長戦略』は「規制を緩和して、民間市場を自由にすること」だと解釈




②『ケインズ、産業政策派』

 ケインズの論理は、「そもそも、民間市場は失敗をする事もある」という前提に立っています。
 つまり、彼らにとって、デフレにおける「需要と供給のギャップ」は、「民間市場の失敗」と捉えるべきなので、第二の矢『財政出動』をもって、足りない需要分を政府が強制的に補填する必要があると、まず考えます。

 また、その財源はいかにするかと言えば、建設国債を刷ります。別に、現状、日本において国債が累積すること自体問題ではないのですが、せっかくですので政府が刷った国債を買った民間銀行から、日銀が国債を買い取ります(第二の矢、金融政策)。
 つまり、ケインズ派は、日銀が刷ったお金を政府が使って、ゼネコン等へ直接需要と資金を注入するーーという筋で、第一の矢と第二の矢が束ねられているのです。

 リフレ派と比べると、経済における政府の介入すべき領域が大きいのはお分かりでしょうか。
 つまり、このケインズ派の筋には「民間市場への懐疑と、政府の経済への介入の肯定」があるのです。

 また、このデフレという短期的な話題に対する態度が、第三の矢『経済成長戦略』という長期的なスパンを睨んだ話題となると、より赤裸々になります。

 それが、『経済成長戦略』=『産業政策』という解釈です。

 産業政策とは、つまり、主に経産省による、国家の重要産業や新興産業への支援と指導です。
 彼らからすると、「市場原理とは何かしらの方向性や基準も無しに、全く自由に放っておいて機能するものではない」から、「政府が、国家の重要産業を指導したり、研究、開発に公的に投資したりして、それなりの方向性を示す事」によって、民間の投資家も基準を得て、長期的方向性を睨み、身動きが取れ、産業が派生して、経済が成長していくはずだーーという話です。
(例ーー明治の殖産興業、戦後の傾斜生産方式、高度成長期の通産省)

 デフレという短期的な話題で『ケインズ』という態度を取っていた者が、こうした『経済成長戦略』=『産業政策』という立場を取るのは、ある意味当然です。
 何故なら、ケインズの論理には、そもそも「市場機能への懐疑」があるので、『経済を成長させる為の戦略』と聞けば、イコール「政府による、民間市場への方向付け」を思い浮かべる……という風に、頭の構造がなっているからです。

 まとめると、②『ケインズ、産業政策派』は、

・第一の矢『金融緩和』に賛成
・第二の矢『財政出動』に大賛成
・第三の矢『経済成長戦略』は「政府が、成長の方向性を指し示す戦略」だと解釈





 ……そういうわけで、「アベノミクスの三本の矢をどう束ねるか」という所で分かれている二つの流れを提示してみました。

 正直に言いますと、俺はどちらかと言えば『ケインズ、産業政策派』の方を支持します。

 短期的なデフレというものに対する態度は以前から書いてきたとおりですし、また、『リフレ、規制緩和派』の言うような、「民間市場を自由にしていけば、そこで切磋琢磨が行われて、イノベーションや新しいビジネスアイディアが生まれて、経済が成長していくはずだ」という話は、ちょっとガキくさすぎて理解ができません。
 
 そもそも『自由』というのは、『適正な不自由』があるからこそ成り立つのであって、規制や指針の無い自由の下では、「新たな産業への投資」など起こりようもありません。そういった過度な自由の下で起きる投資とは「単に生産効率を上げるモノ」だったり、ブーム的で流行廃れの激しいTwitterのような持続可能性の低いもの、或いは、ごくごく短期的な金融への投機くらいでしょう。

 別に、それで国力があがるのだったら良いのですが、小泉政権下において「規制緩和、構造改革、無駄を削って小さな政府、民間の自由(プラス金融緩和)」という方向性が、何一つ経済を好転させたり国力を上げたりしなかったことは、つい最近起こった事でしょう?
 逆に、「改革の炎は絶やさない!」とおっしゃりつつ、実体はそういった方向性の手を弛めていた第一次安倍内閣においての方が、名目GDPが上がっていたりするわけです。
 
 まあ、俺の意見(オピニオン)がどうとか、そんなことは取るに足らない小鳥の囀りのようなものなのですが、少なくとも、大衆化した社会での不況というのは、どうしても「めちゃくちゃ政府に依存しすぎて社会主義化」したり、「めちゃくちゃ政府から権限をとりあげて過度に自由化」してしまったり、そういった極端な経済思想が流行るものだ、ということは理解すべきです。 
 
 
 例えば、フランス革命前夜に、財務長官ネッケルという男がいました。彼は、パリ市民から圧倒的な支持を得ていたのですが、その手法は、やはり「貴族や公的な立場にある『政府』というものの規模や権限を制限していく」というものでした。つまり、「政府のムダを排除」して、「財政を切り詰め」たり、「貴族の既得権益を排除」して「民に開放」したりといったような政策です。
 
 しかし、当然ながらそんな政策で経済が好転するはずなどなく、経済の縮小によって税収が下がり、財政問題ですらより悪くしてしまったのです。
 ルイ16世は、賢い君主でしたので、さすがにネッケルを罷免したのですが、パリ市民はこの期に及んでネッケルを支持していたので、一部が暴徒化します。これがバスティーユ牢獄の襲撃ですね。(ちなみに、勘違いしてもらったら困るのですけど、バスティーユ牢獄にはただの一人の政治犯も収容されていなかったのですからね。このとき開放されたのは、一般の犯罪者と精神病患者の四名のみだったと言われています。)
 
 
 現在の日本の経済状況と、当時のフランスの経済状況は違いますので、ひと括りにできませんが、今の世論が雰囲気的に求めるものは、当時のパリ市民と物凄く似通っていませんか?
 つまり、「政府や公から権限を取り上げ」て、「民に開放する」ことを求めるんです。そうなると、なんとなく経済状況が良くなるような気がするんですね。しかし、そうはならないんですよ。 
  
 いつの時代だって、経済に普遍的な解答なんてないんです。「政府に過剰に権限を与える事」も、「政府から過剰に権限を取り上げる事」も、経済の持続的発展や国力の増進にしさないんですね。
 
 
 
 
 アベノミクスに話を戻しますが、現在、安倍内閣では『リフレ、規制緩和派』が主流を占めてしまったように見受けられます。
 
 これは、別に、安倍内閣の中にある閣僚自体がどうこうというのではなく、むしろ周辺の経済学者や知識人といった者達の影響が強いと考えます。何故なら、通常の政治家は『経済思想』を持つほどに、経済なるものへ強い思い入れを持たないからです。
 
 そして、経済学者や知識人は、何に基づいて理屈を吐くかと言えば、直接的な世論の雰囲気に迎合するのが常です。何故かと言えば、学者や知識人は、世の中からチヤホヤされたいと考えるし、多くの人から本を買ってもらわなければならないからです。
 
 こういった状態の中、安倍内閣の中でほとんど孤軍奮闘の体で、『ケインズ、産業政策派』の立場に立っておられる「経済にとても思い入れの強い重要閣僚」が一人います。
 
 それが、麻生太郎大臣です。 
 麻生大臣は、まごうことなく『ケインズ、産業政策派』なのです。

 
 
※次回、『アベノミクスにおける二つの流れと、麻生太郎の重要さ(後編)』へ続く。
 
 
 
(了)
 
 
 
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9条の運用の変更に、世論の了解など要らない 

 再び、麻生大臣の「ナチスの手口」発言に関連して。
 まだ、全文をお読みでない方は是非こちらを。

朝日の全文書き起こし(要約なし)

 
 
 
 昨今の、麻生大臣の発言に対する人々の反応を見て、俺は現代の日本人に対して、とある疑いを持つようになりました。
 それは、現在の世間の多くは、「憲法(=9条)をどうするか、というのは、国民の直接的な世論が決めるべきである」という論理を前提にしているのではないか、という疑念です。
 
 
 その点においては、麻生大臣の発言を擁護する者も、同じ勘違いをしているのではないかと、強く危惧するのです。
それは麻生大臣の発言の「ナチスの手口に学ぶべきじゃあないかね」という所に、無理やり“反面教師として”という意味合いを付け加えて解釈して、麻生大臣があたかも「憲法の運用には国民的議論が不可欠である」という立場をとっているかのように筋立てた上で、擁護している所からも分かります。
 
 しかし、本来、「国家の軍隊をいかにするか」という政治の具体的な項目は、「国民的な議論」とか「世論の多数」だとか、そういった『直接的な民主主義』の介入を許してはならない領域のはずです。
 では、軍事などの具体的な憲法の運用は、一体何をもって決められるべきなのかと言えば、「国民が選んだ代表者達による議論」という『間接的な民主主義』において決められるべきものなのです。 
 
 また、麻生大臣の発言の全体を見れば、そういった趣旨のことをおっしゃっておられると解釈するのがごくごく自然です。
  
 たとえば、麻生大臣の発言の中には、自民党の部会や勉強会での議論に触れた部分がありましたね。こうした、代表者による冷静な議論(間接的な民主主義)が、改憲や憲法の具体的な運用についての指針とならねばならない――とおっしゃっているのですよ。
 対して、世で言う『国民的議論』とか『一般世論』とかいう、直接的な民主主義については、極めて否定的な立場をとっておられることは明々白々です。なんと言っても、麻生大臣が重ねておっしゃられていたのは、「喧騒の中で決めないでほしい」ということなのですから。
 
 
  
 何故、麻生大臣発言に反発する者も、擁護する者も――もっと言えば、世の中で保守と呼ばれる人も、革新と呼ばれる人も、さらには中道なるものを自称する者も――「憲法(=9条)をどうするか、というのは、国民の直接的な世論が決めるべきである」という前提から一歩も動こうとせずに、大臣の発言を曲解してしまうのでしょう? 
 
 それは、『イデオロギーとしての民主主義』=『国民主権(人間主権)』という、モノの考え方の筋が、もうほとんど人々の骨の髄まで染み込んでしまっているので、その筋立てから外れたモノを見ても「理解できない」か、「忌避する」かしか出来なくなってしまっているのではないでしょうか。
 保守的と呼ばれる人々は「理解できない」で擁護する。頭の良い革新的と呼ばれる人々は理解した上で「忌避する」のです。
 
  
 さて、それでは、人々の骨の髄まで染み渡ってしまっている、『イデオロギーとしての民主主義』=『国民主権(人間主権)』とは、一体どのような筋立てのものなのかを解きほぐしてみたいと思います。
 そう、難しい話ではありません。
 イデオロギーとしての民主主義とは、「そこにいる全ての人間の多数が、政府へ求めている行動」が、全ての「政府の行動の根拠」である、というイデオロギーの事です。
  
 もっと具体的に噛み砕くと、例えば、「日本において軍隊をどうするか」という政策的問題について、今生きている日本人の一人一人の「軍隊にはこうあって欲しい」という直接的な意見の集計の結果、最も多い意見が政府の行動であるべきだ――という発想です。
 
 
 こうした原理的な民主主義を唱えたのは、アメリカ独立革命やフランス革命の理論的支柱となったロックですとかルソーだったりします。
 彼らからすると、人間には「合理性」があるから、おおよそ人々は全体のことを考えた上で、政府の行動がどうあるべきかの意見を出すはずだ――という、至極牧歌的で能天気なものが、人間というものらしいのです。
 そして、これがいわゆる『左翼思想』というものの始まりだと言われています。


 俺からすると、こうした考えは、頭おかしい人の考えです。
 だって、一人一人の人間に合理性なるものを解明する能力があるはずがないし、裸の個人の多くが「他人の事を想う事が、自分にとっても合理的である」などという仏のような境地に達することなどありえないでしょう?
 空理空論とは、まさにこのことではありませんか。

  
 歴史的に見ても、フランス革命の大失敗をはじめとして、そうした楽天的で無批判な直接的民主主義が、あらゆる国家を破壊していったことは明らかです。
 もっと遡れば、古代アテナイの直接民主制が、どうにもこうにも上手くいかなかったからこそ、哲学というものが登場せざるをえなかったという経緯があります。哲学とは、直接民主制の引き起こした政治的混乱によって生まれたんですね。 



 さて、日本の事に話を戻しましょう。

 もしかすると、世間でおおよそ保守的と呼ばれる人々の中には、次のような筋立てがあるのではないでしょうか。
「日本国民の一人一人は、おおむね祖国防衛の事を考えるはずで、危機に直面し、国民的議論が熟せば、9条の改正ないしは運用の変更という正しい方向性を、多数が選び取るに違いない」
 と。
  
 対して、世間で左翼と呼ばれているような人々には、次のような筋立てがあるのでしょう。
「日本国民の一人一人は、おおむね国家のために戦うだなんてことはしたくないはずだから、世論に従っていけば、9条堅持という正しい方向性を、多数が選び取るに違いない」
 と。


 俺は、今を生きる日本国民の一人一人の意見に直接伺いをたてた結果、どちらの筋立てが多数を得るかなんて、分かりません。
 だって、生まれてこの方、『国民的議論』とか『一般世論』だとかいったものが、一所の意見に安定していた記憶なんてないですから。

 ただ一つ分かることは、憲法の中でも9条という「具体的な軍隊の運用といった政策論」に、今を生きる国民一人一人の直接的な『国民的議論』とか『一般世論』をいちいち反映させていたら、軍隊がその時々の世論の雰囲気に左右され、「鳩になったり、鷹になったり」と、右往左往を繰り返すだろう、ということです。



 というか、よく聞かれる『国民的議論の醸成』って一体どんな議論をさすのでしょうかね。
 一般の国民の一人一人が、自分の仕事もほったらかしにして、日夜、憲法や軍事、政治の事ばかり勉強し、考えて、街では路上の至る所で人々が「我が国の国防はこれこれこうあるべきだ」「いや、違う」みたいな議論を交わす……そういう事でしょうか?
 正直、そんな国、気持ち悪いんですよ。
 気持ち悪いですし、そもそも非現実的ですね。
 人々は、普通に生きてりゃそれぞれの仕事をして、それなりに忙しいんです。(俺を含めてね)
 だから、代表者を選んで、彼らに「勉強し、考え、議論する」という事を、代わりにやってもらっているんでしょ? おおむね一般国民は、具体的な政策の事なんてまるで分からないはずですけど、「代表者を人柄によって選び出す」事は、生活の中で養われる常識に基づいて出来るはずだーーというのが代議制であって、間接民主制なわけです。

 世の中、やたら政治家をコケにしたり、バカにしたりする人が多くて本当に腹が立ちますけれど、(全てとは言いませんが)政治家はそれなりに粛々と議論を続けていると思いますよ。勿論、常に正解の結論を導くわけじゃあありませんけど、少なくとも、世論の雰囲気とか、素人の意見の寄せ集めよりは遙かに安定しています。
 もし、本当に政治家がクソだと思うのなら、自分たちがした人柄判断の常識の方を、まず疑うべきなんじゃあないでしょうか。



 そういうわけで、憲法問題の中でも特に9条と軍隊といった具体的な政策論に関わる領域については、そもそも、代表に選ばれた議員たちによる間接的な民主主義が、直接的民主主義を抑えて、運用していくべき話のはずなのです。



 もっとも、この論理には、ある反論の来ることが予測されます。
 それは、
「軍隊を組織するのは実際の所、今を生きる国民と、国民の税金によってではないか。ならば、今を生きる国民の世論に了解をえるべきなのは当然だ」
 という理屈です。
 
 しかし、俺から言わせれば、そんな理屈はクソ食らえです。

 何故なら、政府は「今を生きる国民の為だけに存在しているもの」ではないし、軍隊も「今を生きる国民の生命と財産を守るためだけに存在するもの」でもないからです。
 政府や軍隊は、「過去の国民の意志や大儀を守るため」にも存在しているのであって、国民は『国民』として存在している時点でその執行に義務を負っているのです。
 だって、今を生きる国民は、過去の国民の積み重ねた様々な社会的前提の上に、現在の生活を享受しているのですから。


 ですから、もし仮に、今を生きる日本人による国民的議論の上に、「軍隊とか、税金がかかるだろうし、徴兵されるかもしんねえから嫌だね。国のために戦うとかマジ勘弁ww」という意見が多数を形成したとしても、政府は適正規模の軍隊を強制的に組織して良いのですよ。
 何故なら、今を生きる日本人は、過去を生きた日本人に対して責任を負っているはずで、責任とは(個々人の意思に関わらず)強制的に果たさせるべきもののはずだからです。


 そもそも、9条二項の条文は、内閣法制局の解釈によって何割か形骸化していますね。だって、日本には自衛隊があるではないですか。あれはその時々の国民的議論なるものによって組織されているのではないですね。残念ながらアメリカの指令によって組織された警察予備隊の末裔ではありますが、9条の条文がありつつも自衛隊が今日まで存続していることを見ても、成文憲法の上位に存在するものがあるのは明白です。
 それは、「過去の国民の意志が紡いだ国家の歴史的大儀や基準」といったもので、それに背くことのない限り、成文憲法に文字でなんと書かれていようと、今を生きる国民の多数が何と言おうと、政府は粛々と軍隊を組織して良いはずなのです。

 特に、憲法における9条の運用に限れば、内閣法制局の解釈変更によってほぼ何とでもなるのですから、今を生きる国民世論の多数などに伺いを立てるまでもなく、政府がさっさと軍隊の、軍隊たる用件を揃えていけば良いだけの話なのです。
 
 
 
(了)
 
 
 
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青山繁治による麻生発言に対する解釈ーーについての批判 

 前回、俺は、「麻生ナチス発言は、本当にナチスへの省察か」という記事を書きました。この記事は、俺としては渾身の力を注いで書いたつもりなのですが、どうにも読み手に対して意図が伝わっていない気がしたので、今回はその「伝わっていなかったと思える部分」を、抽出して、分かりやすく、具体的な名称を出すことに躊躇をせず、書いてみたいと思います。


 そもそも、俺が前回の記事を書こうと思ったのは、青山繁治氏という、保守系の人々から人気を博している評論家による、「麻生大臣の発言に対する擁護」を聞いたからでした。
 そして、俺は、青山繁治氏のその「擁護の仕方」は、間違っていると感じたのです。

 最初に言っておきますが、俺は、麻生大臣の発言を支持する立場です。

 ですが、青山繁治氏による、麻生大臣発言に対する解釈、及び擁護の仕方は、どう考えても上等なものとは思えない。正直言うと、青山氏の解釈は、それはそれで麻生大臣の発言の意図を歪曲しているものだ、と思うのです。

 まず、青山繁治氏による、麻生大臣の発言についての解釈を見てみましょう。



青山氏解釈YOUTUBE




 俺は、この解釈、及び、考え方には、相当根の深い病理が映っているのだと思います。


 まず、麻生氏の発言の前半部分を見れば、「民主主義に対しての懐疑」の重要性を説いているのは明白ですね。
 その上で、大手マスコミが問題として取り上げている部分、「ナチスの、あの手口に学んだらどうかね」という皮肉は、何に対しての皮肉かと言えば、どう考えても民主主義に対する皮肉です。
 そして、この部分においてだけは、「ナチスの手口をある程度、肯定的に捉えた上での、民主主義への皮肉である」と解釈するのが、日本語としてごく自然だと思います。

 つまり、麻生大臣は、憲法について(ここでは憲法の中でも軍事について)は、国民的議論とか大衆世論とかいった直接的な民主主義に伺いを立てる必要はない、と仰っていると捉えるのが、日本語として正しいだろう、ということです。


 それを、青山氏はどう解釈しているかと言えば、「ナチスの手口に学ぶ」の『学ぶ』の部分を、「(反面教師として)ナチスの手口に学ぶ」と解釈しているわけです。
 これは、あまりに無理矢理といいますか、曲解にすぎると思います。

 さらに、青山氏は、マスコミ批判と共に、このように言っていますね。


・ 「マスコミの言いようだと、麻生大臣が『ナチスの手口』に学んで、国民世論に隠れて憲法をどうこうしようという風に言っておられるかのごとく思われてしまうじゃないですか。しかし、麻生大臣は、ナチスのしたようななし崩しの憲法改正をではダメだから、反面教師にしなければならないと、そう仰っておられるのでしょう?」

 と。

 しかし、俺は、麻生大臣の発言のどこをどう読んだって、そのような解釈は、不可能だと思います。

 麻生大臣の発言を全体の文脈から普通に自然に読み解くと、「ナチスの手口に学ぶ」の意味は、「(軍事に関しての)憲法の運用は、国民世論の多数の熱に伺いを立てるべきことではないから、政府が静かに変えるべき」なので、「その点、ナチスの手口に学ぶくらいであってもいい」と、仰っているのだと解釈すべきではありませんか?

 つまり、麻生大臣は弱い意味で「ナチスの手口に学んで、国民世論に隠れて憲法をどうこうする」ということを、ある程度は是としているのです。
 そもそも、憲法の運用や政治の中でも、「直接、国民世論の熱に伺いを立てるべき領域」と、「直接の国民世論の熱に伺いを立てるべきではない領域」があるのは当然の事です。
 道徳や理念に関する領域は、ある程度直接的な国民世論に伺いを立てるべきですが、事が軍事などの具体的な政策論に及べば、政治家(指導者)が熟議をした上で代表して執り行うべき領域です。そうした領域にまで、一般国民世論の熱がああでもないこうでもないと口出しをして騒ぎ立てるなど、やって良い事のはずがありません。それが、例え成文憲法に記されているものであっても、です。
 現在の日本は、そうした無批判な民主主義の熱に、政治が右往左往を繰り返しているのですから、少しくらいはナチスの手口に学んで、政府が主導すべき領域は国民世論の騒ぎに巻き込まれぬうちに、その運用を政府が静かに執り行うべきだーーとおっしゃっておられるのでしょう?


 それを青山氏のように、「ナチスのした、なし崩しの憲法改正ではダメだから、反面教師にしなければならない」と、よく分からん別の筋立てを無理矢理当てはめるのは、ハッキリ言って卑劣だと思います。

 そういった意味では、麻生大臣の発言を、日本語として正確に解釈しているのは、むしろ大手マスコミの方ではないでしょうか。



 要約すると、麻生大臣ご自身は、「民主主義への懐疑と、ある程度のファシズム的手法の肯定」という、至極まっとうな事をおっしゃっていて、そうした考えが嫌いなマスコミは過剰に反発している。
 しかし、青山氏は、「麻生氏はファシズム的手法を反面教師にせよとおっしゃっているのだ。マスコミはけしからん」と、少しズレた事を言っているわけです。

 別に、青山氏が、「民主主義へ偏った思想を持っていて、ナチスの行ったことの全てが間違っていると考える人」であること自体は、良いんですよ。氏の思想がどうであるとか、氏の勝手ですから。(ちょっと理解できないなぁと思うだけで)

 しかし、他人の、それも立場ある大臣の発言を、自分の中にある原理原則の型に無理矢理ハメこんで、全然違った解釈を与えるという行為は、大手マスコミの手口とどう違うというのでしょう?
 俺は、ナチスの手口に学ぶべき所はあっても、大手マスコミの手口に学ぶべき所など、一ミリリットルもないと思いますよ。



 その上で厄介なのは、多くの愛国的な人々が、青山氏の論理に沿ってしまっているところにあります。「青山繁治」といえば、相当な影響力のある知識人ですから。
 つまり、「麻生大臣の発言の全文を読めば、ナチスを反面教師にしろと言っているのが分かるだろ!大手マスコミは曲解している!」という筋の元での麻生大臣への擁護が、一つの流れとしてできてしまっているのです。

 ですが、その論理筋立ては、そもそも無理がありますから、反日的、左翼的な人々からすると、次のような反論が可能になるわけです。

「麻生の発言、全文読んだけど、普通に民主主義を否定して、ナチス肯定してんじゃん。政治家として許される発言じゃあねえぜ」

 と。

 一言でいってしまえば、青山氏発の解釈と論理は、擁護の筋立てとして隙がありすぎなんですね。




 本来、今回の麻生大臣の発言の是非を、我々が本当に真摯に論じようと思ったら、「民主主義と言えば、本当にすべからく良いものだと言えるのか?」「ナチズム、ファシズムといった傾向は、本当にすべからく忌避すべきものなのか?」という所まで踏み込まねばならないはずです。

 つまり、大手マスコミの、麻生大臣の発言への態度として問題なのは、「民主主義への無批判な礼賛と、ファシズム的なるものへの反射的な嫌悪」といった姿勢そのものであって、曲解しているとか、そういう話じゃあないんです。

 また、世間では「保守」と捉えられているような人も、「民主主義への無批判な礼賛と、ファシズム的なるものへの反射的な嫌悪」の姿勢は、無意識のうちに体の随まで刻み込まれているから、「麻生大臣は、ナチを非民主主義的なものとして反面教師にしろと言っているのだ」という無理矢理な擁護しかできないわけです。
 つまり、世の中の「保守派」と捉えられている人の多くが、実はリベラルデモクラシスト(自由民主主義者)という意味では、無意識に極端な左翼思想の論理の中で物事を論じてしまっているのです。


 麻生大臣の発言の是非は、「民主主義にもある程度の肯定と懐疑を持ち、ファシズム的なるものにもある程度の肯定と懐疑を持つ」
という麻生大臣の立場ーーを、ありのままで支持するか、しないか、で論じ合われるべきもののはずです。

 大手マスコミは、これを支持しないらしいです。
 何故なら、大手マスコミは、「民主主義は普遍的な正義」であり、「ファシズム的なるものは、普遍的に悪」という極端な立場を持っているからですね。


 俺は、「民主主義が普遍的に正義で、ファシズムが普遍的に悪」だなんて考えは、ちょっと頭がおかしいんじゃないかと思います。
 ですから、俺は、麻生大臣の発言をそのままの意味で捉えた上で、支持します。
 つまり、「民主主義にもある程度の肯定と懐疑を、ファシズム的なるものにもある程度の肯定と懐疑を持つ」という立場は、国の指導者として至極まっとうな態度であるーーというのが、俺の麻生大臣発言支持の根拠なのです。



 最後に、もう一度、麻生大臣の発言を、じっくり読んでみることをおすすめしておきます。

朝日の全文書き起こし(要約なし)



(了)



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麻生ナチス発言は、本当にナチスの省察か 

 先日、麻生太郎副総理兼財務相兼金融担当相が、ナチスのワイマール憲法無効化について、「あの手口に学んだらどうかね」との発言をしたとして、マスコミ各社が批判を浴びせました。

 これについて、ある有名なコメンテーターを始め、保守っぽい人達や、Twitterなどの意見を見ると、おおむね次のようにマスコミに対して反発しています。

「発言の全てを見れば、麻生大臣は『ナチスの手法を反面教師にすべき』と言っている事が分かる。マスコミは、麻生氏の発言の一部を切り取って、まったく180度正反対の事を言っている風にミスリードしているのだ!けしからん!云々……」
 ……と。

 しかし、果たして。本当にそうなんでしょうか?

 俺は、麻生大臣の発言を通して見ても、必ずしも「ナチスを反面教師とすべき」などと仰られているとは、読めません。(礼賛してるとも読めませんが)

 発言の文脈上、憲法の改正についての「あの手口に学ぶべき」という部分は、(皮肉を込めてではあるけれど)そのままの意味で「学ぶべき」と仰っていると解釈するのが自然ではないでしょうか。少なくとも、俺にはそう読めます。

 その上で……
 俺は、この麻生大臣の発言を全面的に支持します。正しい事を仰っていると、主張します。

 つまり、麻生大臣の仰った発言内容を、「ナチスがワイマール憲法を静かに無効化した態度に、一定程度、学ぶべき所がある」と、(皮肉を込めて)仰っているのだと普通に解釈した上で、俺はそれを全面的に支持するのです。




 さて、とりあえず、発言そのものをじっくり見てみましょう。

youtube音声



朝日の全文書き起こし(要約なし)




 そもそも、麻生大臣の発言の本旨は、「憲法を喧噪の中で変えてはならない」というものですね。
 そして、ここでの『喧噪の中』というのは、「民衆の、直接的な『世論』の熱(民主主義)」というようなもののことを言っていると解釈するのが自然です。
 何故なら、「ナチスは、ワイマール憲法の下で民主主義によって選出された」という例を挙げているからです。

 この、「ナチスは極めて民主主義的な状況下で選ばれた」という例は、現在、世論一般で通用している「民主主義に対する無批判な礼賛」と「ファシズム、全体主義といったモノへの反射的嫌悪」の同居に、矛盾がある事をまざまざと示しています。
 つまり、「民主主義を原理的に肯定し、ファシズムを反射的に嫌悪する」という態度は、「じゃあ、民主主義がファシズムを支持したらどうするの?」という問いに答えられないということです。
 まさに、「この矛をもってこの盾を通さば如何」という『矛盾』ですね。

 そして、麻生大臣は、この例のこの部分においては、確かにナチスを否定的な例として扱っています。ただ、それは同時に「ワイマール憲法下での、ドイツ大衆の直接的な世論を反映した、無批判な民主主義」をも否定しているのです。
 つまり、もしナチスを否定的に見るならば、同時に「民主主義への懐疑」も必要なはずだぜーーという、事を仰っているのですね。




 対して、後半部分、
『静かにやろうや、と言うことでワイマール憲法は、あの手口に、云々』
 と仰っているこの部分は、先ほどの「ナチスを選んだ民主主義」の話題からは、明らかに筋立てとして独立しています。(皮肉として念頭におかれていますけど。)

 だって、最後、
『私は民主主義を否定する気はまったくないが、喧噪の中で決めて欲しくない』
 という文言がありますけれど、この『喧噪の中で決めて欲しくない」の部分は、『私は民主主義を否定する気はまったくないが』と、逆接の後に続いているのです。ということは、「ある程度、世間で言われているような民主主義を、部分的に否定する内容」を後に言っていなければ成り立ちません。文法上、順接ではなく、逆接で繋がれているのですから。中学生でも分かる国語文法ですよ。

 例えば、
 『私は民主主義を否定する気はまったくないが』ーー民主主義は素晴らしいーーと続いたら日本語としておかしいわけです。
 やはり、
 『私は民主主義を否定する気はまったくないが』ーー民主主義にも懐疑するべき所はあるーーという筋でなければ日本語にならんわけです。


 つまり、後半部分は、少なくとも、「喧噪の民主主義」での憲法改正ではなかったという点については、ナチスの手口は学ぶべきところがあるーーと、(無批判で熱の籠もった民主主義に対して皮肉を含めつつ)、仰っておられるのだと解釈するのがごく自然ではありませんか?


 さて、麻生大臣の発言をそのように自然に解釈した上で問います。
 この発言の、何が問題なんですか?
 何か、間違った所が、あるのでしょうか?


 そもそも、この発言での『憲法』の焦点は、軍事の話でした。つまり、「日本の憲法とは?日本の伝統的規範とは?日本の法の道徳規準とは?そういったものは、本来どう示されるべきか?」とかいった根本の話題ではなく、単に9条に関しての話題だったんですね。
『憲法を守っていれば、平和が維持されると思ったら大間違い。(成文)憲法は目的ではなく手段』
 と仰っていられる事からも、これは間違いないですよ。

 つまり、軍隊などという「そもそも政府が保有し、指揮し、運営すべきもの」を、「世論」とか「国民的議論」とかいう、「直接的な民主主義の熱」によって云々しない方が良いということですね。
 軍隊をどうするだなんて具体的な事は、政治家が高級官僚を駆使して、実際的な軍事力の確保に勤めりゃいいだけの事なのです。(具体的に言えば、麻生大臣は、内閣法制局の解釈の変更による、9条の形骸化の事を仰られているのだと思います)
 これだって、国民の常識の上に成り立っている代表者による政治、という立派な「間接的な民主主義」ですしね。

 ともすれば、世の中では、「国民的議論によって軍隊をどうするか論じ合い、世論の了承を得た上で、9条をどうするべきか決めるべきだ」という筋立てが、前提とされているように見受けられます。
 しかし、そもそも、軍隊の運営とは、世論が口を出すべき領域ではありませんね。これは、政府が「今を生きる国民だけではなく、もう死んでしまった国民、これから生まれてくる国民」に対して責任を負って、強制してやるべき領域です。

 これが、憲法に記す国民の道徳とか伝統とか、そういった領域の話であるならば、国民的議論だとか世論の意向に、ある程度従う意義があるでしょう。
 しかし、9条の話というのは、軍隊の話で、いわば具体的、技術的な端論ですから、世論なるものの伺いを立てるべき領域ではありません。政府がさっさと、GDPに対する軍事費の制限を取り払い、先制攻撃を法的に可能にし、静かに軍隊の軍隊たる要件を技術的に揃えていけば良いだけの話です。

 考えてもみて欲しいのですが、もし、国民の大多数において「我が国の国防とは、これこれこういった具合で、こうされるべきだ云々……」と盛んに論じ合われる国なんて、キモチワルくないですか?
 というか、そうやって論じ合われた末に出る結論は、おおよそ「ものすごーく鳩派」か「ものすごーく鷹派」かのどちらかになります。

 そういうのを「喧噪の中で決めること」と、麻生大臣は仰っているのであって、ナチス云々の前に「熱狂的世論に基づいた民主主義」を批判しているのですよ。



 ただ、こうした態度は、ある角度、ある意味から捉えると、「国民世論に直接伺いを立てず、内閣法制局の解釈で9条を形骸化させる」=「軍隊のあり方を、静かに変える」=「弱い意味でナチス的な手口」とも言えます。
 そして、物事を本当に真摯に考えたなら、どこかで「ナチス的な手口と思われるような事」も是としないわけにはいかないはずなんです。

 そもそも、「ナチスのやった事は、頭から爪先まで全て間違えだった」などという話は、ちょっと頭のおかしな人の考える事ですね。そんな非現実的な事が、あり得るはずがありませんので。

 少なくとも、「ワイマール憲法での行きすぎた民主主義が、行きすぎた独裁と、原理的には表裏一体であった」というのは歴史の大きな皮肉なのですから、「民主主義であろうと、ファシズムであろうと、ある程度の肯定と、ある程度の懐疑を持って捉える」というのが、常識的かつ現実的な態度であるはずです。
 つまり、物事はおおよそ中庸を取るのが肝要だと言うのであれば、独裁主義に偏るのも「偏り」なら、民主主義に偏るのも「偏り」なんですよ。



 ただ、そうしたことを俺のブログのようにとうとうと説くと、あまりに長ったらしく、分かりづらい上に、つまんなくて、説教臭いでしょ?
 こうした、かなり入り組んだ話を、何かしら真理をついた上で表現するのに有効かつ適切な手法が、「皮肉」というものなのですよ。

 世間では、「皮肉」というと、何か「ふざけた態度」と取られがちですが、そういったものだけが皮肉であるとは限りません。
 この世界は非常に複雑で、入り組んでいて、ワケの分からんものですから、「皮肉でしか言い表せない領域、皮肉めかすことが適切な領域」というものがあるのです。
 ここで言えば、「世論の熱に浮かされた民主主義への皮肉」ですね。
 そして、それは人々に笑いをもたらしながらも、実は、ものすごく真面目で真摯な言葉であって、深く物事を捉えようとするものでもあります。


 それを何か、「麻生大臣はナチスを反面教師として例にしている」と紋切り型の解釈してしまうのは、あまりに勿体ない事で、知的怠慢と言っても過言ではないと考えます。


 さらに、この麻生大臣の皮肉めかした発言を、正確に読みとっているのは、むしろいわゆる反日的、左翼的と呼ばれている人々の方だと思います。
 その皮肉が真理をついていると、理解する知性があるからこそ、彼らは反発するのです。
 具体的に言えば、その皮肉が「原理的な民主主義というイデオロギーへの皮肉」である事が、ある程度理解できているから、反発しているのでしょう?

 おおよそ、左翼的な人たちというのは頭が良いのです。だって、なんらかの左翼イデオロギーの理屈って、とても小難しいもので、それを理解する知性が少なくともあるということですからね。

 マスコミを始めとする左翼連中は、知性があるからこそ理解ができ、理解できるからこそ反発しているんです。
 まあ、彼らが反発する事自体は別に良いのですけれど、問題は、彼らは、彼らの反発をきちんと紐解いて提示するということをやらないんですね。何故なら、彼らはその自分たちの反国家的な理屈に基づいた筋立てをきちんと表明すると、大衆に受け入れられない事を知っているからです。
 ですから、何か印象的な言葉をもってごく表層部分だけを論じるのですよ。
 ね、頭良いでしょう?


 こうした連中の振る舞いの卑怯さから比べると、幾分罪は軽いのかもしれませんが、それでも、「発言の全てを見れば、麻生大臣は『ナチスの手法を反面教師にすべき』と言っている事が分かる。」という風な筋でのマスコミ批判も、それはそれで卑劣だと思います。
 だって、上で示した通り、明らかにおかしな解釈なのですもの。
 おかしな解釈なだけならまだ良いですが、麻生大臣の発言の優れた部分を霧散させてしまう解釈なのですから、やり切れない気持ちで一杯になります。


 いやね、麻生大臣ご自身が、「あれはナチスを反面教師にせよと言いたかったのだ」と、後からおっしゃるのは良いのです。
 何故なら、政治家だからです。
 政治家は、マスコミがワケの分からん事を騒げば、自分の言いたかった事をねじ曲げてでも、事の沈静化に勤めなければなりません。
 我々は、その点、政治家に対しては寛容な態度を持つべきなのです。
 特に、この狂乱の大衆民主主義の中では、政治家に「表現の自由」など皆無なのですから。


 しかし、評論家、コメンテーターといった言論人においては、そういったゴマカしは許されるものではありません。政治家ほど制限された立場でもなく、ある程度自由に立ち振る舞える者は、言葉に対して真摯でなければ、何のための自由な立場だというのでしょう。もし、大衆に迎合する筋立てを展開して、チヤホヤされるための言論の自由なのであれば、そんなクソみてえな自由は早急に制限されてしかるべきなのです。




 もう一度言いますが、「過度な民主主義」と「過度な独裁」は、表裏一体なのであって、ヒトラーを否定するなら、ワイマール憲法による民主主義も否定されるべきはずなのです。

 物事には、「民主主義的世論に伺いを立てるべき領域」と、「政府が、民主主義的世論に伺いを立てずに決定すべき領域」の、双方があるだなんて事は、至極当たり前の話です。
 それは、憲法の中でも主に軍事などの具体的な技術論に及べば、「直接的民主主義たる世論」に伺いなど立てる必要があるはずがありません。というか、それは直接的民主主義に伺いなど立てるべきではない領域なのです。

 ともすれば、世の中、「憲法の改正や運用は、国民的議論、国民的世論の下に多数が形成されることによってのみ、変更が許される」という前提がある気がします。
 しかし、その考えの下にあるのは、「今、日本列島に生息している人類の一人一人が、こうしたい、ああしたい、と希求するものの多数が、主権であり、憲法を形成できる」という考えであるが故に、完璧ににルソー以来の左翼思想の筋立てと一致していますね。
 別に、そういうのが好きで、「自分はそういった意味では左翼なのだ」と意識しているのなら勝手にしてもらえれば良いのですが、無意識に原理的な民主主義を前提にしている輩は、本当に厄介だと思います。

 俺は、そういう極端で古くさい「人間主権」といったようなイデオロギーは勘弁だなあと思う者なので、麻生大臣の発言を自然に解釈した上で、支持するのです。



(了)



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消費増税反対論に潜む醜悪な態度 

 今回のテーマは消費税の増税に関してです。
 昨今、世論では「消費税の増税への反対」が錦の御旗のように掲げられ、いたる所で反対の声があがっていますね。
 かく言う俺も、「来年からの消費増税」には慎重になるべきだとは思います。
 しかし、もう一方で、「消費税の増税そのもの」には大賛成であると、声を大にして申しあげたい。


 そもそも、税の議論には、二方向の視点が必要だと考えています。


 まず、世間でよく言われている「タイミングの問題」です。つまり、『デフレ状態』での増税は、消費を滞らせ、需要を縮小させて、逆に税収を下げてしまう――という議論です。ただ、この『デフレ』の問題は、長くとも三年から五年の短期的な話ですね。(というか、短期的な問題にしなければなりません)


 もう一方で、税を考える時には、『政府の適正規模』という長期的な話題もあわせて考えなければなりません。
 つまり、民なるものの経済のパイに対して、政府が強制的に徴収すべき税の『割合』の話題です。
 なんと言っても、『税』本来の役割は、「インフレ、デフレの調整弁」などではなく、「適正な規模の政府を保ための財源を、民から強制的に徴収し、割り当てる事」なのですから。当然、本来的には、「国家全体からどの程度の『割合』、政府へ割り当てられるのが適正か」という議論が欠かせないはずですね。


 つまり、今、同じく『消費増税反対』と叫ぶ者の中でも、「短期的な状況として反対だが、国家の長期的方向性として消費税は上げるべきである」とするか、「短期的な状況として反対だし、方向性として消費税は上げるべきではない」とするかの、二種類存在するはずなのです。


 そして、長期的な方向性としての税をどうするか、つまり、「政府の適正規模は、現状よりも大きくすべきか、小さくすべきか」の考えを詳らかにせず、単に「デフレ下での増税はむしろ減収を招く」という事のみを述べるのは、議論を混乱させる元だと考えます。
 何故なら、「デフレ下での増税はむしろ減収を招く」という
技術論だけが横行すると、ただ単純に「自分が物を買う時に消費税が上がってると嫌だ」と考えているだけの世間の多くの人間が、さも「何か全体に考えを及ばせている」というポーズを取りつつ見当違いの消費税反対論を物知り顔で叫びのたまうことができてしまうからです。

 俺は、こういう『少し知識を付けて声を荒げる一般市民』みたいな連中が森羅万象において最も嫌いです。醜くて、おぞましくて、吐き気がします。
 いや、正直に「自分が物を買う時に消費税が上がってると嫌だ」と言って反対しているのなら、何も文句はないのですよ。ただ、単なる「増税がイヤだ」という気持ちを、いかにも全体の事を考えている風体を装い、部分的な理屈だけををツギハギする態度が低劣で汚らしくてしょうがなく見えるのです。


 例えば、「デフレ下での増税はむしろ減収を招く」ので「消費増税には反対だ」ーーと、こうやるわけでしょう?
 だけど、これって、一つ掘り下げて考えるとおかしいわけです。
 だって、この「デフレ下での増税はむしろ税収減を招く」という論法は、どこまで行っても、「消費税を『今』上げること」に反対する根拠にしかならないわけです。
 デフレが永遠に続くという前提である場合以外、『デフレ』は「消費税の増税そのもの」を恒常的に反対する根拠には絶対に成り得ません。
(これから先、ずうっとデフレを解消する意志が無いのなら別ですけれど)


 また、「消費税を『今』上げることに反対する論理」を聞いたら、「じゃあ、デフレ状態でなくなった時は、消費税をどうすべきなのか」と、脳味噌のある人間は気になるはずですよね。
 しかし、コメンテータとか評論家達は、これへの言及を避けるわけです。
 何故なら、デフレを根拠にできる『短期的な話題』に終始しておけば、世の中の「とにかく増税とか嫌だしムカつく」という心理に迎合できるからです。しかも、そういう心理を表層に出さずにいられて、何か大儀名分がたっているかのような理屈ですので、大衆にとってはすこぶる都合が良い。
 また、『政府の規模』という長期的な話に及ぶとなると、インフレ、デフレの根拠を持ち出すことは論理的に不可能になりますから、言及を控えている傾向にあるような気もします。



 勿論、「長期的にはみんな死ぬ」というのは真理ですから、短期的な『物価』『タイミング』といった話題は重要視すべきです。
 しかし、だからと言って、長期的な方向性の何もない所で、短期的な話題にのみ終始していたら、その「短期的な話題」自体にも意味がなくなってしまいますよ。或いは、短期的な論理を、本来長期的な話題であろうはずの所へも適用しだす輩が増えてしまうでしょう。

 つまり、まず「政府の適正規模に鑑みて、税そのものをどうすべきか」という長期的方向性の議論があり、その上で技術論としての短期的な「税と物価動向の話題」でなければ、何が何やら分からなくなってしまうのです。
 だって、「政府の適正規模を論じ、増税か、維持か、減税かの方向性を定める」事なしに『タイミング』は計りようがないでしょう? タイミングを取る技術の方が先にあっても、一体何のタイミングを計れば良いのか分からないではどうしようもないじゃあないですか。



 俺は、「現在の日本政府の規模は民間の領域に比較して小さすぎになっている」ので、「せめて六、七十年代の頃の政府の大きさに戻すべきだ」と考えています。故に、政府が増税を強制して、国民負担率を上げ、民の領域に偏った力の配分を政府の領域に適正な分割り振り、バランスを取るべきだ、と思っているのです。

 ですから、俺は、消費増税そのものには大、大、大賛成です!

 しかし、短期的な技術論として、デフレ状態での増税は、タイミングが悪いと考えるので、『今』の増税には慎重になるべきだと考えるわけです。



 勿論、この俺の考えが絶対に正しいとは言いませんが、せめて、政府の適正規模に議論を及ばせて、消費増税そのものに賛成か反対かの方向性を示した後に、短期的な技術論を論じるべきです。

 例えば、「そもそも消費税の増税そのものに反対」という考えならば、別にそれでも良いのですよ。ですが、「消費増税そのものへの反対」の根拠を「デフレだから」とするのは、あまりに卑怯なゴマカしじゃあないですか?

 繰り返しますが、「デフレだから」は、「今現時点での増税の断行」を否定する根拠にしかなっていないのです。

 「消費増税そのものに反対」の者は、誤魔化さず、きちんとそれなりの根拠を正直に示すべきです。
 まあ、消費増税そのものに反対する人々の思考の筋立ては、色々と想像ができますよ。「政府が嫌いだから、小さな政府にしたい」とか、「累進性に欠くのが気にくわない」とか、「単に税金が上がるのが嫌だ」とか。
 そういった事を正直に提示しているのなら、まあ、意見としてはあって良いんじゃないんですかね。賛成はしませんけど。
 しかし、意識的にか無意識的にか知りませんが、そういった心底を露わにせず、「デフレだから、消費増税そのものに反対」と、筋立てをスリ替える大衆の偽善はマジで許しがたいです。



 まあ、俺がムカつくというだけなら別に良いんですが、「デフレだから消費増税にそのものに反対」というワケの分からん論法をもって、軽々に政府を批判する輩共がいますよね。

 最も近い話で具体的に言えば、麻生財務相がG20にて「消費増税は国際公約」と発言した事に対する過剰な批判。
 確かに、「消費税の増税」が、国内で決定していない内にこの発言があったのなら、「国家の主権を国際社会に放棄する行為だ」との批判はあって然るべきでしょう。しかし、ご存じだとは思いますが、「消費税の増税」は『既に国内の法律で決定されている事項』なのですよ?誤解して欲しくないのですが、いわゆる『附則18条』は、消費増税を止める可能性を示唆した条項じゃないですからね。景気の動向によって、「消費増税の時期を延期する条項」なのですよ。つまり、「将来、消費税が上がること自体」は、もう決定している事なのです。

 それで何故、大臣が、議会の議決の通った、もう法律で決まっている『消費税の増税』に肯定的じゃあいけないんですか?
 デフレだから?
 何もデフレのうちに上げるなどとは仰っていないじゃあないですか。ただ、「消費税の増税」そのものを肯定しているだけでしょう?しかも、もう法律で決まっている事を仰っているだけなんですよ。

 いや、これも別に、「消費増税そのもの」に反対する観点を示して批判するならまだ筋立てとして理解はできるのですが、ここでも「デフレだから」という論法で大臣を批判しにかかるのは、正直ワケが分かりません。
 もし、麻生財務相が、消費増税に関して「附則を適用せず」といった旨の発言を行っていたのなら、「デフレだから論法」での批判は成り立ちますよ?しかし、全然そうではないじゃないですか。


 一般大衆が「税金が上がるのが嫌、ムカつく」と思うことについては別に批判しません。が、ゴチャゴチャな理屈で自分を正当化するのは、マジでみっともないから止めて欲しいです。正直に、「税金が上がるのが嫌だから、ムカつくから」と言えば良いんですよ。
 或いは、そう思っている人間の大多数の心理に迎合している者は、自分が大衆迎合をやっていると少なくとも意識して欲しいものです。



(了)



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