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日本が日本であるために

 

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はじめての選挙(経験談) 

 今日はなんだか理屈っぽい話は書きたくない気分です。
 ですので、個人的な過去の体験談……というか、自慢話を。



自慢話に付き合え……と言っておいてなんですが、ランキングにご協力ください。
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 さて、当たり前ですけれど、俺にも二十歳の時があり、はじめての選挙というものを経験しました。
 八年ほど前の事です。
 そう、俺、はじめての選挙が郵政解散総選挙だったんですよ。

 今振り返ってみると、はじめての選挙にしてはハードルの高い選挙だったんじゃあないかなあって思います。
 だって、今考えるとあれは「大衆と、大衆迎合」が「国民の参政」を阻害していた選挙であったと思うから。


 まあ、当時の俺は、ほとんど「女の人の事」しか考えていない軟派野郎でしたので、そこまでは考えていません。
 しかし、何となく、テレビや世の中から、異様な空気を感じていた……というのは覚えています。

 ただ、同時に、当時の俺は『選挙』って参加しなきゃならないものだと思っていました。
 というか、選挙に参加しないのは、何も考えていないみたいで格好悪いと思っていたのです。
 二十歳(大人)になったからには、選挙くらいそつなくこなしてみたかったのでしょう。



 そこで、まず思ったのは、「新聞とかそれなりに読んで、候補者の言葉とか聞いて、それで何らかの判断基準を得た上で選ぼう」というものです。つまり、情報を集めて、「自分が正しいと思う政治を行ってくれそうな人」を選択するのが良いだろう……と、こう思ったのです。

 しかし、しばらくやってみて、それは結局「適当に選んでいる」のと変わらないということに、すぐ気づきました。
 何故なら、「情報を集める」と言っても、限られた俺個人の脳味噌では世のほんの一部の情報しか頭に入れる事しかできないからです。

 さらに、「新聞とかそれなりに読んで、候補者の言葉とか聞く」ということで、判断基準なんて得られるわけはないということは分かっているくせに、「自分で自分を知的な奴と思いたい」が為、「それで判断基準が得られている」と、自分に対して見栄を張って投票するのは、甚だ汚い心の持ちようなんじゃないか……と、こう考えたのです。

 また、そうやって適当こいて投票する奴が、俺一人ならまだいいでしょうけど、世の中の大量の人間がそんな風に適当な「汚い心の持ちよう」で投票したとしたら、きっと今自分が存立している基盤がおかしくなっていってしまうに違いない……と怖ろしくなってしまいました。

 そして、投票をもって影響力を及ぼして良いのは「正しい投票の判断ができると自負した人間」であるべきなんであって、「自分がそうでないと思う人間」は自ら他の人の迷惑にならぬよう、辞退するのが道徳的な態度であろうと、そういう結論を出したのです。


 ですが、これで投票しないというのも、それはそれで「ただ投票所へ行くのを面倒くさがっているのに、理屈付けしているだけ」のような気もしました。


 そこで結局、俺ははじめての選挙で、わざわざ『白票』を出しにいったのです。

ーー自分は、二十歳(大人)なので、投票の義務は果たす。しかし、投票に際しての判断基準が分からないので、他の大人達の「大人な投票行動」を邪魔しないように『白票』を提出するーー
 そういう行動をとったのでした。

 自慢話というのは、その投票行動と姿勢の事であります。



 勿論、今では、「全体として正しい政治の判断ができる個人など、人間では存在しない」ということくらいは分かっていますし、また、「多くの、一人一人の投票行動は、単なる政府への請求や、思いこみや、適当なおふざけでされるものだ」ということも分かっています。

 ですから、国民の投票は基本的に「自分の所属する既得権益(中間組織)」を代表してくれる候補へ投票するか、「道徳的な偏見」をもって候補者の人柄を判断をするか、「既存の権力」への信任を表明するか、あるいは白票を投ずるかーーが、正しい投票行動なんだろう、とも思っています。


 そして、そうなると、今の俺から見ても「二十歳の時の俺は正しい投票行動をした」と思えるのです。

 それを、「政治に限らず、今よりも一段と無知甚だしかった俺」が『常識』だけで判断したというのが、とても自慢なのですよ。
 つまり、「俺には常識があったんだぜ」と、こう自慢しているのです。

 まあ、当時の自分の日常生活を振り返ると、とても常識があったという風には思われないので、何故、投票の時だけ『常識』を発揮できたか不思議で堪らなくはあるのですけれど……



(了)



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地方主権とグローバリズムの連結への批判~中央と地方の相互依存関係 

 俺は、中央に権力を集中させること、つまり『中央集権』でもって、外国との国境を高くして、日本国の保守と独立の獲得を目指すべきだと考えています。

 というわけで、今回は、三位一体改革や道州制の議論にまとわりつく『地方主権』の議論への批判から。




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 多くの人にとって、『地方主権』と聞くと、「地方が自治している感」が出て、何となく良いことのように聞こえるようです。
 反面、『中央集権』と聞くと、「中央に支配されてる感」があるので、何か悪い事のように聞こえるんですね。

 この「何となく」からも、「中央政府から権限を剥奪する事」が、「良いことである」といったような『反中央政府』の心根が、無意識に大衆の中に薄く張り巡らされているのが伺えるーーというのが指摘したい一点目。



 また、この地方主権の議論は、
ーー政府が、「生産効率の良い地方」から税を吸い上げ、「生産効率の悪い地方」へ財源を交付しているーー
 ということに対して、
「足手まといを切り捨てた方が、国力が上がりそう」
 と、『誤解』してしまった輩がかなり多いのではないか、というのが指摘したい二点目です。



 そして今回、主に取り上げたいのは二点目であります。

 そもそも、まず「足手まといを切り捨てた方が、国力が上がりそう」とか考える大衆根性そのものが「道徳的にどうなの?」って糾弾してやりたい気持ちはあります。
 しかし、そうした糾弾は、経済情勢の良いときには聞き入れてくれそうなものですが、経済情勢の悪いときは、「そんな情緒ではなく、現実を見ろ」と言われてしまいがちです。

 よって、現実として、「足手まといを切り捨てた方が、国力が上がりそう」というのは、『誤解』である……という事を述べたいと思います。



 まず、『地方主権』の議論は、何と言っても、そもそも「中央政府の指導が地方へ行き届いていなければ、国家統合を保てない」という大問題を置き去りにしているのです。
 つまり、各地方を『国家』の下で『一束ねする』という事を、『国力』として換算していないのは、『独立』に価値を思っていない証拠なのではないのか……という疑念です。

 だって、もし、「足手まといを切り捨てた方が、国力が上がる」という理屈の上で考えれば、「東京23区が日本だ、ということにするのが、最も強い国を生み出す術である」という結論になってしまうではないですか。
 しかし、今の大した規模を持った、この『日本』という国が、「全体として一纏まりになって、それぞれの役割をこなしている」というのが、そもそもの国力の源なわけですよ。
 この、「全体として、国家に帰属している」ということが、先人から引き継いだ『大いなる歴史的な財産』であることに、いい大人になっているのであるならば気づいてもらわねば困るのです。


              ・


 もう少し、具体的な所へ論を落としましょう。
 国家における産業の多様性の話です。

 国家の中には実に様々な『地方』がありますね。
 また、地方ごとに、多種多様の産業があり、あらゆる日本国民は、そこから『既得権益』を得て、国民としての属性を帯びた生活を保っているわけです。

 そして、「地方の多様性、産業の多様性、既得権益の多様性が、国家の中で一纏まりに統合されている」というのは、「外国から買わなくても良いものは、自給できる」という『国力』なのですよ。

 ですから、もし、日本の中で、「生産効率の良い地方や産業」だけを強くしても、「産業が画一化」され、「産業の多様性」が失われたら、「外国から買わねばやっていけぬモノの種類が増える」わけでありますから、国家として大変な『弱み』となってしまうでしょう?
 つまり、『国家の独立性』が損なわれてしまうわけです。


 そう考えると、「地方主権」の議論は、グローバリズムの地球観と結びついているのだということが分かるでしょう。

 つまり、「この先、経済的国境は低くなって、好きなだけ外国でモノが売れて、好きなだけ外国から物が買えるようになるはずだ」という、進歩主義的(左翼的)な地球観があって、「それぞれの地方が、国家の経済ではなく、地球のグローバル経済へ帰属していく」という、『脱国家的』な姿勢が根底になければ、「地方主権」などという議論は出てこないのではなかろうか……と、こう疑っているわけです。

 確かに、そういった『脱国家』の視点から見れば、『国家の独立性』は『効用』として換算しないという姿勢も頷けます。




 しかし、徹頭徹尾すべての基準を『国力』に置いて見るのであれば、「個々の生産効率性」なんぞは手段であり、「国家の独立性」こそが最上位の『目的』と考える態度を持っている事が大前提であるはずです。

 国家を独立せしめる『国力』の為には、中央政府が、国家に帰属する多様な『地方』『産業』『既得権益』に対し、『役割(ポジション)』を与え、国家全体としての運営の方向性を指し示す必要があります。
 一方で、その『国力』は「地方、産業、既得権益」の多様性を『保護』する力にもなるわけです。(加えて言えば、勿論そこには核兵器を含む軍事的背景という、物理的なパワーも含めて言っているのです。)


 さらに、『中央政府の指導』といっても、その『指導』の方向性は、地方、産業、既得権益といった『中間組織』が、その権益を代表する形で議論し、方向づけられていかねばならぬものであります。(何故なら、中央の指導の方向性が「個人個人の意見を集約した多数」に基づく指導であっては、直接的な民主主義になってしまうからです。)


 つまり、「中央政府は、各地方、各産業、各既得権益へ、国家的な指導を施すものである」が、逆に、「中央政府の意志決定においては、各地方、各産業、各既得権益を集めた上での議論が、大いに影響を及ぼす」という、『中央と地方の相互依存関係』という形での『中央集権』が、国家の独立の為に求められているのだと、俺は考えるのです。



(了)



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俺は左翼が嫌いです 


 俺は左翼が嫌いです。
 とりあえず以下へ、俺がこの世で最も嫌いな左翼用語を、嫌いな順に並べてみます。

一位『民主主義』

二位『自由』

二位(同率)『平等』

四位『理性』







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 さて、俺には少し理解出来ないのだけれど、左翼と言えばすべからく『共産主義』や『社会主義』の事だけを指すと考える風潮が、日本にはある気がします。
 よって、『保守』と言えば、「社会主義と逆なもの」を指すと考えられているのではないでしょうか。

 しかし、「社会主義」の逆は、「自由民主主義」(リベラルデモクラシズム)という、これまた左翼思想なわけです。


 すると、俺から見ると、日本では『左翼自由派』と『左翼平等派』が争っているだけにしか見えないのですよ。


                ・


 そもそも、『左翼』というのは、大衆の個々人が「自由と平等」を政府権力から請求する姿勢から始まります。
 ただ、よく考えると、「自由」と「平等」は背反項であること分かるでしょう。
 そして、「その背反項である自由と平等を、どのように調和させるか」という問いに対し、左翼思想は『民主主義』を唱えるわけです。それも、左翼思想における民主主義とは、「人民一人一人の直接的な意見で、多数を占めた世論」が政治決定の根拠であるといった類の『人民主権』を基礎とします。

 しかし、常識的に考えれば、「人民一人一人の直接的な意見で、多数を占めた世論」が「正しい解を導く」かどうか、これがわかりません。
 そして、これが「正しい解を導く」と考えることができれば『直接民主主義』を肯定することが出来、「誤った解を導く」と考えれば『直接民主主義』は否定されるべきものになる――という関係が成り立っているのがおわかりでしょう。

 さらに、この「人民一人一人の直接的な意見で、多数を占めた世論」が「正しい解を導く」かどうか……の議論上で、焦点となるのが、人間一人一人の持つ『理性』が、「全体として調和するか否か」というものです。


 ところで、『理性』というのは、『道徳』とは違うのですよ?
 理性とは、合理的、実証的な、人間の判断能力を言います。
 つまり、『理性』とは、「人間の持つ合理性」のことを言っているのです。

( ただ、その理性というやつには、『人間個々人の持つ博愛的な心根』も含まれて語られているので、道徳と混同されます。
 しかし、理性に基づく博愛とは、「先天的に人間が持って生まれた合理性である」という考えの倫理です。
 対して、『道徳』とは、「社会的、後天的な偏見」という考えの倫理なのです。
 ですから、強い左翼思想を持ったインテリは『道徳』を毛嫌いするのですよ。)


 左翼思想では、「この理性(合理性)に基づく一人一人の判断が、全体として調和する」と考えるわけです。
 換言すれば、「自由と平等の整合性」は、一人一人の人間が、明瞭かつ合理的に判断していけるもののはずだ――と考える思想であるといえます。
 そもそも、これを『左翼思想』と呼ぶのです。


 また、恐ろしいことに、その左翼の前提に立つと、その時々の政府が持つ権限や裁量を限りなく剥奪していくことが出来てしまいます。
 だって、「人民の多数に、明瞭かつ合理的に『正しさ』を選び取る能力がある」のであるならば、その人民の多数の意志に背く中央政府の判断は、すべからく「権力者が、人民より不当に搾取したものである」と考えなくてはならなくなるからです。

 そして、もしそうだとすると、人民の多数には『革命権』が生まれながらにしてあると考えなければならなくなります。
 だって、「人民の多数に、明瞭かつ合理的に『正しさ』を選び取る能力がある」とするならば、『政府』が「正しいかどうかも人民の多数が選びとることができる」とこう考えなくてはならなくなるからです。

 さらに過激になると、「政府打倒」を断続的に引き起こすことが、「人民主権を担保するため」に、必要なことになる……という考えになってきます。
 つまり、「政府を『信任するか、不信任するか』の手綱は、常に『人民の多数』に握られていなければならない」というような発想です。この発想は、つまり、「人民の多数の世論」が政府のあらゆる政策決定の根拠でなくてはならないという発想を極めた思想ですから、これこそを『極左』を呼んで然るべきなんじゃあないでしょうか。


                ・


 しかし、常識的に現実を見てみれば、人間の一人一人には、明瞭かつ合理的に『正しさ』を選び取る能力などないんですよ。
 どんなに科学が発展しても、イノベーションが起こって、ITに革命が起こっても、人間がそのような合理性を獲得しうるなどということはありえないのです。

 現代で左翼思想の傾向を持つ奴っていうのは、少年ティックなSF的な技術信仰があって、――『科学(人間の理性)』の進歩をもって、既存の政治権力から、権力を剥奪していく――という物語が頭の中に出来上がっているのだと察せられます。

 特に、『経済学』なんてやっていたら最悪です。

 経済学とは、『経済的合理性(人間の理性)』をもって、政府へ『自由』を請求するか、『平等』を請求するか……の、どちらかでしかないことがほとんどなのですから。

 経済学者を見た時は――経済的な合理性の仮説をもって「自由を請求する左翼」か「平等を請求する左翼」か――おおよそどっちかでしかないと考えて差し支えないのです。


 大衆世論はもっと混沌としています。

 この二十年、『政府からの自由』と『政府による平等』のどちらをより強く求めるかで、右往左往しております。

 そして、大衆がこの二つで右往左往している時点で、「人民の多数の世論」は、「明瞭な合理性など判断する能力はなかったのだ」と悟るべきなんじゃないでしょうか?







 日本を保守するために必要なのは、個人の自由や平等ではなく、理性でもなく、ましてや民主主義なんぞであろうはずもありません。


 今、日本を保守するために必要なのは、国家の伝統精神を背景に、「中央集権」と「国民統合」を計って、一致団結して夷敵を打ち払うことなのだと、俺は思います。



(了)



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純粋大衆根性批判 

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『純粋大衆根性批判』

 前回、俺が
「日本人の一人一人には、内閣を『不支持する権利』も、『支持する権利』も無い」
 という事を、とりとめのない調子で書き綴ったのは、
「安倍首相は駄目だ」
「いや、安倍首相しかいない」
 などといった風に議論しあう昨今の世の風景に対して、批判を加えたかったからです。

 もっと言えば、
「安倍は新自由主義者だ」
「いいや、新自由主義者じゃない」
 などという議論の不毛さ、愚かさ、浅はかさに対して、本当に嫌気がさしているのですよ。

 そして、現状、このような不毛な議論が世を跋扈しているのは、そもそも第二次安倍内閣が発足して以降、
「自民党を支持しているのではない! 安倍晋三を支持しているのだ!」
 などといって、盲目的に『安倍首相個人』を支持し、一方で「自民党や官僚」を叩いてきた連中の浅はかさが原因であると糾弾します。



 この、「自民党を支持しているのではない! 安倍晋三を支持しているのだ!」というような台詞、あちらこちらで聞かれた台詞だと思いますが、これは一種の『反権力』の心根を反映したものであることに、まず気づいてもらいたいのです。

 一見、「首相を支持している」のだから、権力寄りの態度であるかに取られがちでありますが、実の所これは「自民党や官僚」を『打ち破るべき敵』として設定して成り立つ態度でしょう。
(よーく考えてみると、この「既存の政治権力や既得権益」を打破してくれることを期待して首相を支持する……という指向は、小泉政権のあり方の問題に酷似しているとは思いませんか?)

 つまり、それは、

ーー「腐った既存の権力」なるものを、「国民の支持を得たトップ」が、「打破」して、政治を正しく導いていくーー

 といった、ガキ臭いストーリーの上でなりたっている、ガキ臭い『大衆根性』の問題、であると言えます。

 また、そういった連中からすると、敵は『自民党』や『日銀』や『財務省』だったりするわけです。
 しかし、俺は『自民党』や『日銀』や『財務省』が、「悪の組織」であるなどとは、一ミリも思いませんよ。つーか、俺は、それらを擁護する事を強く宣言させていただきます。


 そういう「既存の腐った権力を、安倍さんが打破してくれるはず」といったような、ガキ臭いストーリーは、現実を何一つ反映しない『少年ティックな空想』でしかないのです。
 すると、その先はどうなるかと言えば、やがて「安倍には裏切られた」とギャーギャー文句垂れるに決まっているわけですよ。或いは、さらに自民党や官僚を叩きまくるだけなのかもしれませんが。




 俺が今、本当に問題だと思うのは、「安倍首相の具体的な政策への姿勢がどうこう」などではなく、「既存の政治権力機構」や「既得権益」が、政治的な力を発揮できなくなっていることにあると考えます。つまり、内閣に対して、自民党や官僚の権限が弱くなっていることが問題であるという事です。

 自民党や官僚という『既存の政治権力機構』は、もっと力を発揮すべきです。それは、自民党や官僚の責任というよりは、自民党や官僚を、「古くさい政治権力」と決めつけ、「悪の組織」として謗り、権限を剥奪してきた『大衆根性』の方にあると思います。

 本当に困ったことに、世間の圧倒的大多数が「既存の権力(自民党や官僚)から、権限を取り上げること」が、「良い事」であると誤解しているように見えます。
 さらに驚くべき事に、「新自由主義や構造改革へ批判的な者」ですら、自民党や官僚から権限を剥奪する事には否定的でない輩がいたりするわけです。(これはもう、本当にワケの分からない事なのですよ?)



 ハッキリ言わせていただくと、そうした「大衆根性に基づいた、安倍支持」や「大衆根性に基づいた、安倍不支持」の対立は、どちらにせよ「既存の政治権力から、権限を剥奪する」という結論を導いてしまうので、いい加減止めていただきたいのです。

 とは言え、政治権力が大衆に奪われた場合、その国家を救済する事は理論上不可能であるわけですから、もう、諦める他ないのかもしれませんが……



(了)



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安倍内閣を支持すべきか否か 


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『安倍内閣を支持するべきか否か』



 安倍内閣は、堅調な支持率の一方で、TPP、消費税、規制緩和等々の議論を経て、世の一部からは不審の声を集めているように見えます。

「安倍内閣を支持すべきか否か……」

 このような『迷い』が、世の底に蠢いているように感じられてならないのです。

 そこで今回は、「内閣への支持、不支持」ということそのものについて論じてみたいと思います。



 さて、今日の結論をいきなり申せば、

「今生きているだけの日本人の一人一人には、内閣を『支持する権利』も、『不支持する権利』も無い」

 ということを、我々は肝に銘じておく必要がある……と、なります。


 誤解して欲しくないのですが、日本人の一人一人に「内閣を不支持する権利が無い」と言っているのではないのですよ? 
 日本人の一人一人には、内閣を『不支持する権利』も、『支持する権利』も、「どちらもない」という所が肝なのです。


              ・


「日本人の一人一人には、『内閣を不支持する権利』も、『支持する権利』も無い」
 この事を詳らかにするために、まずは『議院内閣制度』の趣旨に論を及ばせる必要があります。


 まず、成人した日本人で、生きている者にはすべからく、「中央議会(国会)で法律についての議論をする代表者」=『国会議員』を選ぶ責任と権限を有していますね。
 そして、それら「立法府の代表者」の中から、また代表者を選んで、「行政府の長(内閣総理大臣)」を選ぶわけです。

 つまり、我々は
ーー今生きている国民が代表者(議員)を選び、その代表者の中からまた代表(首相)を選ぶーー
 という、一見回りくどい事をやっているんです。

 これを『首相公選制』にして、「民が直接首相を選べるようにしよう」などという、甚だ浅はかな議論が横行していたりもするわけですが、『議員内閣制度』という政治制度が「回りくどい」のには、それなりの理由があるわけですよ。

 その理由とは、大きく見て二つあると言えます。
 それは、

①行政府と立法府の連携を担保するため

②民主主義の間接性を担保するため

 です。

 その辺りを、少し詳しく見てみましょう。


              ・


①「行政府と立法府との連携を担保する事」

 立法府(国会)と行政府(内閣)の間には、一定程度の連携が不可欠です。

 言わずもがな、行政府(内閣)というのは、国家の政治を執り行う所です。財政、軍事、外交、国土計画、産業政策、社会保障……諸々を高級官僚を従えて指導するトップです。
 しかし、それらは、『法律』と密接な関わりがあるわけですよ。だって、行政府(内閣)は、立法府において可決された法律を元に、政令や省令を出したりするのでしょ。政治的指導には常に『法律』が不可欠なわけです。

 逆に、立法府(国会)も、行政府が出す『法律案』を「可か不可か議論し、決を採る」のですね。それは、まず、政治的指導や政策の中で「どんな法律の案を審議するか」というものがなければ、法律案の審議、議論が自体が始まらない、ということでもあります。
(勿論、議員立法というのもありますが、それもやはり行政府の政策との関わりの上で出てくるものですね)

 つまり、『三権分立』とは言えど、あんまり分離してしまったら『立法』も『行政』も機能しないってことです。
 その、「立法と行政における一定程度の連携を担保する必要性」が、「国民が国会議員を選び、その国会議員によって首相を選ぶ」なぁんて事をする大きな理由の一つなのです。



②「民主主義の間接性を担保する事」

 また、議院内閣制などという面倒な事をやっている、もう一つの大きな理由に、「民主主義に間接性を持たせるため」というものがあります。
 民主主義を間接的にする……というのは「大衆世論が、直接的に政治へ反映されていってしまう」のを抑制するという事ですから、これは本当にとてもとても重要な事なんですよ。

 誤解してもらいたくないのですが、『大衆世論』イコール『国民の意思』ではありません。とりわけ、ここで言う『大衆世論』とは、単に「今、日本列島で生きている人間の一人一人の具体的な政治への意見」の中で「多数を占めていると思われたもの」の事を指しています。

 おおよそ、『民主主義』と呼ばれるイデオロギーの中で最も危険かつ邪悪なものは、この『大衆世論』が直接的に政治へ影響を及ぼす事なのですよ。


              ・


 さて、議院内閣制度が、①「行政府と立法府の連携を担保するため」、②「民主主義の間接性を担保するため」という機能を果たしているということを意識すれば、「今生きているというだけの日本人の一人一人」が、直接的に内閣の『不支持』や『支持』を述べ立ててしまっては、その機能が台無しであるということがわかるでしょう。
 つまり、「世論の多数の支持、不支持」が、内閣の政策のありように影響を与えてしまってはならないでしょ……という事です。



 まず、内閣への『不支持』ですが、もし「大衆世論の多数が内閣を『不支持』し、その不支持によって内閣が倒れる」という事が『アリ』なのだとすると、「内閣は、常に大衆世論の直接的な世論に迎合していなければ存続していけない」という話になってしまいます。
 つまり、「一人一人が内閣へ不支持して良い」という前提に立ってしまうと、内閣総理大臣を民なるものが直接選ばずに「代表者の、そのまた代表者」という風にして選ぶことによって得られていた「民主主義の間接性」が損なわれ、民主主義が直接的になってしまうのです。


 逆に、内閣への『支持』ですが、これも良くない。もし「大衆世論の多数が内閣を『支持』し、内閣がその支持を背景に政治を執る」ということが『アリ』なのだとすると、内閣は、『国会』での議論よりも、『大衆世論』を重んじることになるでしょう。
 つまり、一人一人の直接的な内閣への『支持』は、「行政府(内閣)と立法府(国会)の連携」においての、力のバランスを崩してしまうわけです。
 さらに、その強まった内閣の力は『大衆世論による直接的な民主主義』を背景としているわけで、また、弱まったのは『国会』=『代表者による議論という、間接的な民主主義』なわけです。
 そうなると、これもまた、「間接的な民主主義が阻害され、直接的な民主主義が力を発揮してしまっている」と、見ないわけにはいきません。


              ・


 そう考えると、『内閣支持率』なるものを集計したりする事自体、甚だ『越権的な行為』であると考えるべきでしょう。


 ましてや、時の内閣に対し、国会議員でもない人間が「内閣打倒」を叫びのたまうなどもっての他です。
 それは、たとえ民主党政権下のような内閣であっても、同様なのですよ。
 そもそも、民衆の多くは普通に働いていて忙しいですから、政治の事などほとんど一切分からないし、分からなくて自然なわけです。でも、「代表者を人柄で選ぶ」という事くらいは、生活の中で実践的に獲得しうる経験値で出来るはずだ……というのが代議制でしょう。
 その上で、もし時の内閣が劣悪であったなら、首相を選ぶ代表者達(議員)を選ぶ時に、「自分達がした人柄判断」の方に問題があったと考えるべきなんであって、後から世論をもって内閣を打倒しようなどとして良いはずないんです。


 或いは、時の内閣に対し、国会議員でもない人間が「内閣絶対支持」を叫びのたまうのも自重してもらわねば困ります。
 ましてや、「私は、自民党は支持しない。だが、安倍首相個人を絶対支持する!」などという種類の支持は、本当にマズいわけです。
 そもそも、先ほど俺は『国会』を間接的な民主主義としての「代表者の議論の場」と規定していましたが、事実上それをなしているのは、『古い自民党の体質』による『自民党内の議論』であると言って差し支えありません。
 つまり、安倍首相には、民衆の直接的な『世論』ではなく、『自民党内で熟議を経た論』の方を重んじてもらわねば困るのです。
 何故かと言えば、『自民党内で熟議を経た論』は、国内のあらゆる『地域』や『既得権益』の代表者が『議論』して出した論であり、つまり「国民の意思が間接的に反映されたもの」だからです。

 それを、「戦後レジームで腐った自民党」を「安倍さんが打破してくれるはず」……などという一種子供っぽい発想をもって、盲目的に支持して良いはずなどないのです。
 何故なら、その発想自体も、実はそいつがそう思っているだけに過ぎない、直接的な民主主義の一つでしかないからです。

 いくら「戦後体制からの脱却」という言葉が素晴らしくても、「議員による議論」という間接的な民主主義の裏打ちなければ空理空論になってしまいます。
 もし……もし仮の仮に、世論が「戦後体制からの脱却」を圧倒的に支持し、その直接的な世論を背景に内閣が政策を打ち出すということになっても、そんなものは上手くいくはずはありません。だって、そんな事になったとしても、「戦後体制からの脱却とは何か?」という所で、世論がひと纏まりの考えを持つなどということは、絶対に出来ないでしょ?
 何せ、「デフレからの脱却」ですら、世論では、多種多様の、混沌とした経済論議が繰り広げられているわけですから。


 内閣は、『議員による議論』という間接的な民主主義……つまり、「日本全国のあらゆるコネと、シガラミと、既得権益」と結びついてこそ機能するものです。
 自民党は、「国内における、コネとシガラミと既得権益」の代表者が議論し、全国の権益を調整する機能を持つ『既存の政治権力機構』ですよ。
 この、「既存の政治権力機構」を無視したり、ぶっ壊したり、打破してしまい、大衆世論の力をもって「政治を変えよう」などすれば、絶対に失敗します。
 それが、どんなに素晴らしいと思われるような『世論』であろうと、絶対に失敗すると断言してもいいです。
 何故なら、『既存の政治権力機構』の断続性の無い所で、間接的な民主主義(コネ、シガラミ、既得権益の調整)が機能しなければ、中央と家族の間にあるはずの『中間組織』(産業、地域、会社、学校)が国家の中でどう絡み合って行くか、という所がスッポリと抜け落ちてしまうからです。



 というか、俺からすると、「熱烈に安倍首相個人への支持」を表明してきた者達は、もう一方で『既存の政治権力機構』を『打破』したい……といった、ある種の「アナーキーな心根」があるように見えるのです。

 もう本当に、「既存の権力の中に腐った奴らがいて、そいつらを懲らしめれば上手く行く」といったようなガキ臭い決めつけは、止めるべきだと思いますよ。



 と、いうわけで、今回はかなりとりとめのない感じになってしまいましたが、
「安倍内閣を支持するか否か」
 という問いには、
「そもそも、内閣を『支持』したり、『不支持』したりなどしてはならないのだ」
 ということをもって答えるべきだという考えを示させていただきました。

 以後、何回かは今回のように『政治』について論じたいと思います。



(了)



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核兵器を持とう!――グローバリズムに抗う公的需要 

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『核兵器を持とう!ーーグローバリズムに抗う公的需要』


 今日は、『経済』を「国家が核兵器を所有する」ということから切り離して考える事が、どれだけ空疎で、欺瞞的な空論であるかを示す所へ向けて、論を展開して行こうと思います。




 ずいぶんとかけ離れた所から始めるようでなんですが、とりあえず昨今話題になっている『法人税減税』の話から触れていきます。

 結論から申せば、俺は法人税減税に大反対です。
 むしろ、長期的に、法人税率は上げていくべきだと考えます。少なくともバブル崩壊以前の水準までは引き戻していくべきです。

 ただこれは、別に「税金は金持ちから取れ!」といったような、大衆的、赤旗的な僻み根性で言っているのではないのですよ。

 長期的に、「法人税、消費税、そして所得税」これらの税率を上げて、中央政府が恒常的に支出できる規模を、大きくしていくべきだと言っているのです。つまり、現在のデフレで不足している国内需要は、「大衆の一人一人が自由に消費する領域」というよりは、むしろ「中央政府が公的に需要する領域」であるから、長期的には税の率を上げ、民の領域に対する政府の規模を大きくする方向で受給ギャップを是正していくべきだと主張しているのです。

 また、その一つには、「法人税を下げる」という姿勢に付随した「グローバリズム」に抗う……という事も、公的な需要として換算してのことであります。



 おおよそ、「法人税を下げれば、価格に転嫁されるはずだ」とか「法人税減税が短期の景気動向に好材料となる」などという、猿でも嘘と分かるような嘘話は置いておくとするなら、「法人税減税」の議論と「グローバリズム」の議論は連結しています。

 だって、法人税減税の賛成、反対の応酬を繰り返した後に残る議論は、
「日本の法人税は他国に比べて高いので、法人税を下げなきゃ国際競争力を上げることができないし、企業が流出するかもしれない」
 というものでしょう?

 つまり、「時代が進めば進むほど、経済においての国境は低くなっていく」という、進歩主義的な地球観が(意識的にせよ、無意識的にせよ)前提とされた上での理屈なわけです。

 しかし、まず第一にそこには、「政府の強制力によって、経済における国境の壁をどのくらいの強度で保つか」という議論があって然るべきはずなんです。
 だって、そもそも「法人税を下げないと、国際競争に負けて自国の企業が存続していけない」のであれば、それは「経済の国境を低くし過ぎてしまったのだ」と考えるのが、ごくごく自然な論理というものでしょう?

 それを、はじめから「経済的な国境を低くするという方向へ向かう事」を大前提としなければならないと決めてかかっている風潮、雰囲気そのものに、酷く歪なものを感じるわけです。



 そして、その『歪み』あるいは『欺瞞』は、「国境を越えた市場が、均衡しうる」というデマにあると考えます。
 まあ、俺が「国境を越えた市場が均衡しない!」といくら主張した所で、若造の世迷い言と鼻で笑われるのがオチなので、ここではフリードリヒ・ハイエクが市場経済を重んじた根拠に触れてみましょう。

 ハイエクは、経済に『道徳』(良い、悪いという基準の哲学)を反映させようとしたという点では(ある意味で)ケインズと共通性のある希有な経済学者であります。そして、ハイエクはその道徳がどこから来るかと考えたかと申しますと、「人間が理性(合理性)として発明したもの」などではなく、「社会の中での実践的な営み」から「感覚的に得られるもの」である、としたわけです。これは、ヒューム哲学を引いた「理性批判」であって、「良い、悪いは、合理的に算出されない」という事でもあります。

 すると、ハイエクが自由市場を重んじたのは、「ある社会の中で、経験的に引き継がれる、善悪の感覚」が、「その社会の中である程度共通している」という前提があっての事であると言えます。


 この事を踏まえると、そうした共通性を持たない「国境を越えた市場」というのは、均衡しうる根拠を一切もたない……と言ったら言い過ぎかもしれませんが、極めて機能の根拠に薄弱な市場であると言わざるをえません。ましてや、国内で均衡しなかったものを、国外で均衡しうると考えるなど、空理空論もいいところです。

 これに対し、国境を越えた市場に無理矢理共通性を見いだそうとして、「複数の国家のある一定地域で、共通ルールを作る」とする話題があります。
 しかし、ハイエクは、社会の中で実践的に得られる感覚としての『道徳』を、「法の支配」の根拠にもしていたのです。
 すると、国境を越えた所に『合理的なルール』を敷き『合理的な市場』を形成しようとする向きは、完全に『反・ハイエク』であると考えて差し支えないと言えるでしょう。

 いや、別に反・ハイエクであること自体は一向に構いませんよ。
 しかし、おおむね、『市場』へ過剰な期待を込めて政府から権限を剥奪しようとする者は、ハイエクを根拠にしていたりするわけでしょう。
 すると、この『理性批判』については、一体どのような噛み砕き方をしているのかが、俺はとても気になるのです。
(何せ、この世の『右翼』と『左翼』は、「俺たち一人一人には理性があるから、自由と平等と民主主義を与えろ!」という左翼に対して、「理性など調和するものではないから、自由や平等や民主主義などとのたまうのも大概にしろ!」という右翼……という軸をもって対立してきたのですから。)



 また、先ほど、『ルール』という言葉がでましたが、そもそもルールという言葉は「決め事」という意味の他に「統治、支配」という意味もありますね。『er』を付ければルーラー、支配者でしょ?

 つまり、ルールという言葉は、「統治する=ルールを敷く」という意味が含まれているわけですよ。

 すると、「国境を越えた所でルールを敷く」というのは、ほとんど「統治権をよそへ委譲する」という話とイコールでしょ?


 さらに言えば、『統治』や『支配』というものには、『大儀と道徳の伝統』だけではなく、もう一方で『軍事力』が必要であることなど、古今東西、人間社会において普遍的な真理なわけです。

 だって、『ルール』を敷くには、まずその不自由を課す者達に対して、物理的な強制力がなければ現実的に成り立たないでしょ? また、「もし国内で反乱が起こった場合は、ほとんど小指でやっつける事が出来るほど圧倒的な暴力を、中央政府が集中して持っている」という前提がなければ、国内は内乱続きでルールどころの騒ぎではなくなります。
 また、『主権』という言葉が「最高独立性」と言い換えられる事からも分かるように、国家において中央政府が、外的な要因を軍事的に排除し、ルールを敷いていて、始めて国家に主権があると言えるのです。

 そして、ルールを敷く権限と軍事力が切って切り離せない主権の独立性であるなら、「国境を越えた市場の為のルール作り」という話は、「軍事的圧力をもって、自分の国に都合の良いルールを相手に押しつける」か「軍事的圧力をもって、相手の国に都合の良いルールを押しつけられる」かの、せめぎ合いによって決定されるーーという事であります。



 そうなると、グローバリズムに抗い、「日本が日本である」ということを保守する為に必要な事が、すぐに二つ浮かびますよ。

 一つは、中央政府が日本経済の「中にあるもの」をある程度の規制をもって保護し、「外にあるもの」をある程度の規制で排除する……といった判断ができるような、一時の大衆世論に左右されない強固な中央行政体制の構築。

 二つは、そうした判断を執行する為に、物理的に外的な意志を排除しうる軍事力の確保。

 これらが今日必要であると主張したい公的な需要です。

 さらに、二つ目の「軍事力」を論じる際、現代において「主権=最高独立性」を獲得するためには、何をどう考えても『核兵器』の保有による『核抑止力』を獲得するという話と切って切り離せません。(というか、国際経済をむりやり核のパワーと切り離して考えているから、酷く現実から引き離れた経済議論が横行するのだと思います)
 すると再び、「核兵器という大変な兵器を保有するためにも、強固な中央集権体制によるパワーのコントロールが不可欠である」という話に戻ってきますね。


 そして、この公的な需要は、おおよそ未来へ向けて恒常的に必要なものであります。
 すると、デフレ脱却における財政出動という国債を刷って賄える短期的な事柄以上に、「国家における公的な需要の割合を大きくする」=「政府規模を大きくする」という話になるわけですから、長期的展望として税率を上げることを是としないわけにはいかないのです。


 こうした観点より、もし『愛国心』なるものを発揮するのであれば、「グローバリズムに沿うように法人税を下げる」という方向性ではなく、「法人税を含めた税率をあげていき、中央集権性を強め、グローバリズムに抗う」という方向性を取るべきなんじゃあないかと、俺は強く思うのです。



(了)



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続・西部邁v.s三橋貴明~国家基盤と政府の適正規模について 

 今回は、前回に論じ切れなかった部分(正確に言えば論じ損なった部分)を補足するところから始めたいと思います。

 何故補足が必要になったかと申しますと、前回の記事では、「消費増税が市場へ及ぼす短期的な影響」に焦点を当てすぎて、「根本的な経済観の問題」がボヤけてしまったと思うからです。

 そして、そこには「三橋先生を批判的に論ずることへの躊躇」が、俺の中に一定程度あったような気がします。つまり、「三橋先生をあまり批判的に論じたくない」という心根があって、それが故に論理の分析をもう一つ掘り下げた所で明示する態度を欠いてしまった……つまり、妥協を生んでしまったような気がするのです。



 妥協の産物である前回の記事がこれ
「チャンネル桜、『どこへ行く?参院選後の日本』7月27日の討論を振り返って検証する②(西部邁v.s三橋貴明)」 http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-115.html



 そういうわけで、まず、前回書いてボツにした部分で、三橋先生への批判がありますので、それを開陳することから始めます。

 その批判とは、
「安定した社会保障に必要なのは、増税ではなく増収だ」
 という理屈への批判です。

 実はこの三橋先生の理屈、田村先生のおっしゃっていた理屈と変わらないんですよね。
 勿論、増収が大切な事であるのには異論はありません。
 しかし、税というものの議論には「市場の表層部分に顕れる、景気による『税収』の上下」の話題と、「政府と民間における配分という意味での、適正な『税率』」の話題の双方から語られるべき問題であるはずなのですよ。

 また、あの討論での西部先生は、一方で「財政規律は問題ではないから、公債を刷って充分な公共投資を」という『税収』の話題を、もう一方で「政府が長期的、恒常的にどう社会を安定せしめるか」という『税率』の話題を、双方から提示していたわけです。

 これに対して、三橋先生と田村先生は、「政府と民間における配分という意味での、適正な『税率』」の話題を無視して、「市場の表層部分に顕れる、景気による『税収』の上下」の話題だけで議論しているので、反論がチグハグなのです。
(いくら嫌いだからといって田村先生の回だけはこの事を糾弾し、同じような事を言っていも三橋先生の回では触れずにおいたのは、我ながら公正でなかったと反省してます)


 そういうわけで、俺、前回は結構寛容的に言いましたけれど、三橋先生のように「まず短期のデフレという問題を解決し、経済を成長路線に乗せ、その後に長期的な国家の方向を付けて行く」という順序のストーリーの上でしか議論をしないということに対して、ある程度の批判を加える事に躊躇してはならないと、そう決意したわけです。



             ・



 勿論、「国家の長期的な社会基盤の安定」から始まる論理でしか考えられないのも困まりますよ?空論に終わってしまいますからね。

 しかし、西部先生のおっしゃる『鶏と卵』とは、上手い例えで、「安定的な社会基盤の為には、市場経済の成長が必要」というのも一つの理、「市場経済の成長の為には、安定的な社会基盤が必要」というのも一つの理なわけです。
 これら二つには、理論上、相互依存の関係があり、よって両サイドからの思考や議論が不可欠なモノであるはずでしょう。

 ですから、「市場における短期的な問題解決」から始まる論理でしか考えないというのも、これはこれで困るのです。



 例えば、「インフレとデフレ」という市場の不均衡があります。
 時間のある一時点を取れば、きっとインフレかデフレなんでしょうよ。また、大きな波の中には、小刻みな景気循環のようなものもあるのでしょう。

 勿論、そういった「その時々の市場の不均衡」を是正する『権限』は、政府に与えられていて然るべきです。市場は失敗をしますからね。
 しかし、そうした「市場の不均衡への介入」という政府の役割は、「政府の役割の中でも、ほんの一部の項目である」という事を忘れてはなりません。

 もっと乱暴に言えば、「『市場』に、不均衡を是正してもらう『権利』がある」のではなく、「政府に、不均衡を是正する『権限』がある」と、こう考えてもらわねば困るということです。
 つまり、市場の側から政府へ「不均衡を是正しろ」と請求して良い種類のものではない、ということでもあります。


 だって、まずをもってそもそも『市場』が市場として存在しえているのは、『国家の歴史的流れ』があり、その歴史的背景によって中央政府が『統治』をし、『社会的基盤』が形成されているからに他なりません。
 また、「統治行為としての社会基盤の形成」は、「時間のある一時点に、景気動向がどうなっているか」にかかわらず、「長期的、恒常的に中央政府が強制的に執行する」という大前提があってこそ、『基盤』となりうるのです。

 つまり、「国家において、中央政府がどのような基盤を恒常的に敷いて行くか」という話題がまずあって、その後に「できうる限りの、市場における景気動向への配慮」があるーーと、こういう順序の議論も当然必要なわけですよ。

 それを、まず「市場における景気動向への配慮」の方ばかりを先に持って来たんでは、本末転倒甚だしいでしょ?

 ましてや、

「何らかの政策が、常に正しい、間違っているという事はない。デフレの時にはデフレの政策を、インフレの時にはインフレの政策をやることが大切だ」

 というところまで来てしまうと、「政策は、短期的な景気動向を最優先にして決定されるべき」という話になってしまって、「景気動向に左右されない、国家における社会基盤の領域」への議論に、極めて薄弱になってしまうわけです。



              ・



 さて、これを書き始めるまでは、ここまでの筋しか書くつもりはなかったのですが、「単なるケインジアン」への批判を躊躇せず書いていると、何か鎖が解き放たれたようで、続いての筋が浮かんで来ました。よって、今日はこのまま続けて書いていきたいと思います。



 景気動向への介入の技術論としての『ケインジアン的な筋』では、「市場において需要が不足しているときは、政府が不足した需要を埋める為に財政を出動する」という話になります。
 俺は基本的にこれに賛成ですが、そもそも「現状の需要の不足」は一体どういった種類のものなのかーーという所まで考えると、次のようにも考えられるわけです。

 そもそも、「政府の財政出動」とかいう以前に、「政府の恒常的な支出、基本的な政府の規模」を小さくし過ぎたから、その分、毎年需要されていたはずの『公の需要』が需要されなくなっているーーのが需要不足問題の根幹なのではないか……と。

 もう少し噛み砕いていうと、
「民間の消費が滞っていて、需要が足りないから、それに対して政府が短期的に財政を出動して、市場を均衡させるべき」
 というよりは、
「そもそも、政府の恒常的な支出を削りすぎていることが需要不足の問題だから、政府の規模そのものを大きくするべき」
 なんじゃないかということです。

 これは、一見「結局やることは同じじゃね?」と思われるかもしれませんが、実は全然違います。

 例えば、『増税』に対しての態度が全然違ったものになるはずです。


 ケインジアン的に短期的な技術論のみでデフレを臨むと、「デフレ下での増税は、民間の投資意欲を削ぐ」ので、一つも理に合わない、という話になりますね。

 しかし、そもそもの需要不足の要因が、「政府の規模を小さくし過ぎた所にある」と考えた時には、『税率』を上げることには基本的に是であるはずだし、デフレ下であるからといって必ずしも否定すべきものにはなりません。
 だって、物価変動に左右されない恒常的な「政府の規模」の段階を論じるとなると、それは『税の率』を論じないわけにはいかないでしょ? 『インフレだろうがデフレだろうが常に政府が支出するもの』の割合自体が、民間に対して「小さい」のであれば、それは民間から徴収する税の率を小さくしすぎたのです。

 勿論、現状の日本で財政規律など全く問題ではありませんので、短期的な支出、財政出動は、国債を刷りまくって行えば良いと思いますよ? しかし、事が政府の適正規模そのものの議論に及べば、それは「その先の景気変動に関わりなく恒常的に支出していくという前提」に立つ話でありますから、当然、税率を上げる話とセットで考えなければならないわけです。



 また、増税に絡めてもう一つ。
 今回の消費増税で懸念されるのは、つまるところ「民間の消費意欲の減退」なわけでしょ。すると、そもそもの問題が「政府による恒常的な公の需要を減らしたところにある」という見方をすれば、「民間の消費意欲の減退の要因」である消費増税は、そこまで懸念すべき項目ではないという考え方もできます。

 つーか、俺から見ると、「世の中の個人個人が過剰に質素倹約をしすぎているから、もっと消費をして欲望を解放すべきである」だなんて到底思えません。
 つまり、需要に関しての問題は「個々人の消費意欲」ではなく、「政府による『公的な需要』の減退」の方にあると考えるのです。

 逆に、今の『民』側で問題があるとすれば、それは消費意欲などではなく、『雇用』じゃないでしょうか。つまり、失業や低賃金労働の問題なわけですが、これは『供給』サイドの問題でしょう?
 その過剰な労働供給力を補う需要は、別に「一人一人が自由に行う消費活動」である必要はなく、「政府による公的な需要」であって良いわけですよ。というより、政府を小さくし過ぎたという現状を見るに、おおよそ『恒常的な政府の需要』の方で賄って行き続けるべきだ、と主張したいのです。



             ・



 今回は、三橋先生と、「ケインジアン的な短期的技術論に終始する態度」を少し(いや、かなり)批判的に論じてしまいましたが、基本的に三橋先生はおっしゃることに理のある先生だと思っていますし、個人的に氏のブログは好きでした。ケインジアン的な技術論も、現状でそこまで批判的に見るべきでもないとも思います。

 しかし、やはり『政府の適正規模』ーー「景気動向に左右されない国家基盤の領域」についての議論を無視して、単にデフレ脱却という短期的な技術論に終始する態度は、幾ばくか批判的に見ておかねばならない、とも思うわけです。

 例えば、リフレの者が「リフレ+財政出動」という態度をとった場合、「短期的技術論が先行するケインジアン」は、おおよそ議論が一致してしまうんですね。消費税の件では、「それがよく見てとれたなぁ」とも、密かに思ってもいたのです。



 確実に誤解を招くので、何往復もして言うのですが、ここでは「短期的技術論を無視して良い」と言っているわけではありません。市場の失敗に対する短期的な技術は、必要なものです。

 ただ、「景気動向に左右されない国家基盤の領域に対する意識」なしに、経済を語れば、その技術論すらも酷く空疎なものになってしまいます。
 何故なら、「景気動向に左右されない国家基盤」が「どうあるべきか?」というのは、結局の所「国家の歴史的なあり方」に基づいて議論していかなければどうしようもないね……という所までたどり着いて、ようやく『経済論』は『保守論』との連結をみるはずだからです。



(了)



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続・チャンネル桜、『どこへ行く?参院選後の日本』7月27日の討論を振り返って検証する②(西部邁v.s三橋貴明) 

 この記事は、

「チャンネル桜、『どこへ行く?参院選後の日本』7月27日の討論を振り返って検証する①(西部邁v.s田村秀男)」
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-114.html
 の続きです。



 今回も、7月27日『どこへ行く?参院選後の日本』というチャンネル桜の討論の三時間め、消費税に関しての議論を振り返り、検証します。






 前回は、西部先生の論と、それに対する田村先生の反論を纏めていきました。そして、田村先生の反論はほとんど反論の体をなしていなかった、という事を示しました。

 尤も、西部先生と田村先生では、もともと考え方が全然違いますので、議論がてんで食い違う、ということはあるでしょう。

 しかし、今回見る西部先生と三橋先生では、考え方の相性は比較的良いはずです。
 ですから、ここでの西部先生と三橋先生の意見の違いを詳らかにするのは、一骨折らねばなりません。が、それが重要な論点を浮き彫りにするものでもあるのです。



              ・



 まずは、僭越ながらも纏めさせていただいた、この討論での西部先生の論点をもう一度示します。


1、『消費税』という税は、他の税と比べると、景気に左右されず、安定的、強制的に徴収していける税であるから、社会保障の長期的、持続的な制度を構築するのに適している。

2、デフレの時に、消費増税が消費に対して悪要因であることには一理を認めるが、一方でインフレ、デフレとはあくまで『市場』という表層的な話題に過ぎず、その市場の土台となっているはずの『社会』の長期的安定を無視して経済を論じる事はできない。

3、また、社会の不安定性は、投資、雇用、消費にも影響を与えるはずであるから、短期的な『デフレ』という問題の要因にもなっていると考えないわけにはいかない。

4、そうなると、「デフレ下の消費増税が悪影響を及ぼす」という考えの一方で、「長期的、安定的な社会保障制度を構築するために、政府は安定的な税を強制的に徴収するぜ……という所を示すという意義」に考えを及ばす必要がある。

5、さらに、日本の現状から見て『財政の規律』は大した問題になっていない。ので、『短期的なデフレ』を問題とするなら「公債を刷って、公共投資を増やす」方に重点をおくべきで、また、もしそれが十分に叶うのであれば、『長期的な観点』からは「消費税を増やして、国家における安定的な社会保障を構築する」という姿勢があっても良いはずだ。

6、加えると、長期的な国家の展望を考えた時、今まで過剰に政府を小さくしすぎたので、これからは「今よりも政府を大きくしていく」という方向性へ進むべきであるから、基本的に、税の『率』(額ではない)は増やしていくべきである。



              ・



 さて、三橋先生は、西部先生のこの筋とどう考えを異にするが故の、消費税絶対反対だったのでしょうか。

 まず、5の筋における「現状、財政規律は問題ではない」という部分と、「公債を刷って公共投資を増やすべき」という部分は、三橋先生の意見と間違いなく合致しているはずですね。
 また、三橋先生は「国家における安定的な社会保障を構築する」ことに否定的なのか、と言ったらそうでもない。
 ただ、三橋先生は、「中福祉、中負担」には賛成を唱えながらも、「それは、デフレを脱却して、インフレになったらやってください」と、こういうお立場を示されているわけです。
 或いは、こうもおっしゃっていました。
「社会保障の安定化に必要なのは、増税ではなく、増収である」
 と。

 こうした意見を、西部先生の議論と比較し、分かることはこうです。

 三橋先生は、「長期的、安定的な社会保障制度を構築するために、政府が安定的な税を強制的に徴収していく……という所を示す」ことに、『短期のデフレに対する効果』としては、そこまでの意義を感じない、或いは、増税による消費減の悪影響の方がより強いーーという風に考えておられるという事です。

 対して、西部先生は、「政府が長期的な社会保障制度の安定を担保する姿勢を打ち出す為の消費増税」であれば、長期的には勿論、短期的な問題も長期を見据える人間の心が影響を及ぼすのだから、意義を認める必要があるーーと、こういったお立場です。

 ここが最終的な結論の違いを生んでいる『分岐点』と言えるでしょう。

 この分岐点を一言で申せば、「政府によって、国家が長期的に安定していく方向を強く指し示す事が、短期の問題にも及ぼす効果の大きさ」に対する、『見解の違い』と纏める事ができると思います。



              ・



 前回も申しましたが、俺は、西部先生の意見の方に賛成です。
 ただし、三橋先生の意見も決して見当違いなものとは思わないのですよ。

 何故なら、それはやはり、「鶏と卵」=「経済成長による社会の安定か、社会の安定による経済成長か」という、問題なのであって、そんなものは人間に解明できないものだからです。

 三橋先生は、「中福祉、中負担はインフレになってからやるべき」とおっしゃることから、「経済成長による社会の安定」という順序の経済観をより強くお持ちになっていらっしゃる事がわかります。
 そして、それは一定程度正しい見解なのだと思います。
 また、これは、
「まず短期のデフレという問題を解決し、経済を成長路線に乗せ、その後に長期的な国家の方向付けて行く」
 というストーリー、筋、があるわけで、決して国家の長期的展望に無関心なわけではない……と解釈して然るべきでしょう。



 ただ、俺が、西部先生の意見に賛成するのは、「公債の増刷と財政出動」という短期の『市場』に対応する政策と、「社会保障の安定を方向付ける為の消費増税」という長期の『社会』に対応する政策は、同時に執り行っていくべきだと思うからです。

 そう思う理由は二つあります。

 一つは、三橋先生のように「まず短期のデフレという問題を解決し、経済を成長路線に乗せ、その後に長期的な国家の方向付けて行く」というストーリーはいかにも理想的ではあるものの、現実はそうは行かないはずだからです。
 だって、まずは「何をもって短期のデフレという問題が解決したとするか」という事に明瞭な基準はないのだし、短期と長期は地繋がりなんです。また、短期の問題をクリアした後、「さあ、これから長期的な事案に取りかかろうぜ」と始めようとしたって、そりゃ無理ってもんです。


 もう一つは、「長期的な国家、社会の安定へのビジョンを政府が強く指し示す事」が、「短期の経済へも強い影響を及ぼす」という話には、やはり理があると思うからです。人間は何事か先を見通して経済活動を行うわけですから、政策がおおよそ短期的なものに限定されれば、やはり金が貯蓄へまわってしまうでしょうしね。



              ・



 俺が、今になってこの討論を振り返った理由は、現実的に消費税の増税の『時期』が来年の四月と決定したからであります。

 先月はずーと「消費増税反対論のつんのめり過ぎ」を糾弾してきた俺ですが、「消費増税の時期を『延期』する」こと自体には、意義を感じておりました。
 しかし、「消費増税をしたら日本経済は終わる!」と怒鳴り散らす人がわんさか沸いていたので、現実に増税時期が決定した時、彼らはその「日本経済は終わる!」と言っていた語調をどのように整理するのだろうと、本当に疑問でしかたありませんでした。すると案の定、何の整理もつかずに、十月からの経済言論は浮遊しているような感すら覚えます。
 つまり、まさか「あーあ、増税決定したんで、日本は終わっちゃうね」と結論づける事はできないので、ついこの間まで放っていた「終わる!」という言葉はなかったことにしつつも、でもついこの間の事ですから、殆ど誰もが何も強い口調を発揮できなくなっているーーこんな状態なのではないでしょうか?


 しかし、俺は強く言いますよ。

 たかが消費税が上がるくらいで、日本経済は終わりません!

 問題は、その消費税を「どう位置づけるか」でしょう。
 せっかく、政府が長期に渡って「景気に左右されず、一定づつ強制的に徴収できる財源」を確保するという話になったのだから、今こそそれをもって長期的な国家の方向性を政府は指し示すべきだし、遠慮せず指し示して良いはずです。だって政府なんだから。
 そういった国家の方向性に、長期的な国家基盤の安定性を含める事ができれば、その基盤の上にある『市場』にとっても悪い事であるはずはないのです。つまり、それならばデフレの脱却と背反するものではなくなるということですよ。


 そして、あの消費増税反対の大合唱の中、殆ど唯一そうした筋が議論の中で論じられたのは、あの討論だけだったように思われます。
 消費増税が延期される可能性があった段では事さら着目されようもない議論だったのかもしれませんが、来年四月からの消費増税の『時期』が決定した今、この面白き討論模様をーーと言ったら失礼でしょうからーーこの素晴らしい討論をご覧になって、深く着目してみる事を強くオススメいたします。



(了)



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チャンネル桜、『どこへ行く?参院選後の日本』7月27日の討論を振り返って検証する①(西部邁v.s田村秀男) 

 俺は、重たいチャンネル桜ユーザーではないのだけれど、youtubeに上がってる討論をたまに見ます。

 近頃見た討論で印象が強かったのは、少し前にはなりますが、7月27日の『どこへ行く?参院選後の日本』という回でありまして、西部邁先生、上島嘉郎先生、田村秀男先生、関岡英之先生、三橋貴明先生等々世に名だたる先生方が出演なさっておりました。

 この討論は一時間×3ありますが、ここで取り上げたいのは、その三時間目……消費増税に関する議論であります。





 ここでは、「消費増税に対して肯定的な筋をおっしゃる西部先生」対「消費増税絶対反対の田村先生、三橋先生」……といった様相を呈していますね。(とりあえず川口ロマーン先生を置いておいたとして)


 さらに見ると、消費増税絶対阻止であっても、「増税における『時期の論理』を根拠にする三橋先生」と、「消費増税そのものに反対のはずなのに、何故か時期の論理を唱える田村先生」とで、違いがあることがお分かりでしょう。
 ですが、「来年の四月での消費増税に反対」という技術的な立場は変わりがないので、ここでは語調を同じくしているように「見える」のですね。


 そういった風に「消費増税絶対反対」の空気で纏まっていた議論の中で、西部先生はそんな空気など意に介さず、正直に疑義をぶつけなさっております。

 尤も、youtubeのコメント覧を見ると、「西部は経済が分かってない」などという、こちらまで恥ずかしくなって、全身が痒くなり、赤面してしまうようなコメントが数多く上がっています。また、よくとも「西部先生はここではあえて逆の立場に立って議論を広げているのだ」というようにボヤかすようなコメントしか見られません。ですから勿体ないことに、ここでの西部先生の発言及び、それに対する議論は、あまり着目されなかったのではないかと思うのです。

 しかし、俺は、この議論には単なる「技術論」や「抽象的な議論」に留まらぬ、非常に注目すべき点が多く含まれていると確信します。
 また、ここでの議論を振り返って、検証する事が、『来年の四月からの消費増税』が決定した現在において、これをどう考えるべきかの大きなヒントになると考えるわけです。



              ・



 結論から申せば、俺は、ここで西部先生のおっしゃっていた消費税の議論に賛成です。


 僭越ながら、以下に西部先生の論点を纏めてみました。


1、『消費税』という税は、他の税と比べると、景気に左右されず、安定的、強制的に徴収していける税であるから、社会保障の長期的、持続的な制度を構築するのに適している。

2、デフレの時に、消費増税が消費に対して悪要因であることには一理を認めるが、一方でインフレ、デフレとはあくまで『市場』という表層的な話題に過ぎず、その市場の土台となっているはずの『社会』の長期的安定を無視して経済を論じる事はできない。

3、また、社会の不安定性は、投資、雇用、消費にも影響を与えるはずであるから、短期的な『デフレ』という問題の要因にもなっていると考えないわけにはいかない。

4、そうなると、「デフレ下の消費増税が悪影響を及ぼす」という考えの一方で、「長期的、安定的な社会制度を構築するために、政府は安定的な税を強制的に徴収するぜ……という所を示すという意義」に考えを及ばす必要がある。

5、さらに、日本の現状から見て『財政の規律』は大した問題になっていない。ので、『短期的なデフレ』を問題とするなら「公債を刷って、公共投資を増やす」方に重点をおくべきで、また、もしそれが十分に叶うのであれば、『長期的な観点』からは「消費税を増やして、国家における安定的な社会保障を構築する」という姿勢があっても良いはずだ。

6、加えると、長期的な国家の展望を考えた時、今まで過剰に政府を小さくしすぎたので、これからは「今よりも政府を大きくしていく」という方向性へ進むべきであるから、基本的に、税の『率』(額ではない)は増やしていくべきである。


(※俺のような者が西部先生の言葉を纏めるのは、玉を泥水で濯ぐような愚行であると思えますが、おおよそこのような事をおっしゃっておられたと、俺は解釈しております。)



 さて、これに田村先生はこう、反論するわけです。

a「『社会保障の充実のための消費増税が経済成長にしする』というのは、民主党的な考え方である」

b「橋本内閣の消費増税では、税収が上がらなかった」

c「税収を上げる為には、経済が成長すればよいのだ」

ーーと。


 しかし、俺は、田村先生のこういった薄っぺらな理屈が、「西部先生の論を批判するもの」としては全くの見当違いであると糾弾せずにはいられません。

 とりわけc「税収を上げる為には、経済が成長すればよいのだ」という所は酷い理屈です。何故なら、経済が成長して伸びるのは『税収』だけで、政府の大きさーーつまり、『政府』と『民』の規模の割合ーーではないからです。
 西部先生が、「長期的に、政府が適正規模を保つ事や社会を安定せしめることは、短期の市場動向にも関連性がある」という筋で、税の『率』を話題としているのに、田村先生は単なる税の『額』をもって批判しているわけです。ちぐはぐもいいところだと、俺は思います。

 さらに言えば、田村先生のグラフは名目成長で増収を試算しているわけですから、「物価の上昇によって増えた分は、政府の恒常的な支出能力を上げていない」ということすら無視している……ということも申し添えておきます。(中央政府の恒常的な支出能力や権限に対する思い入れの無さが推し量れる、ということ)


 また、b「橋本政権下での減収」による批判も、西部先生の論に対する批判としては酷く筋違いです。何故なら、西部先生は「短期の財政規律は問題視しない」とおっしゃっているからです。
 もし、『財政規律の問題視』を根拠に「消費増税を今せねばならない」と言っている者があれば、「橋本政権の消費増税で、税収は下がったじゃないか」と反論して筋がとおります。
 ですが、『そもそも短期の財政規律の悪化を問題視していない』と言う者に、「橋本政権の消費増税で、税収は下がったじゃないか」と言うのは、これもちぐはぐと言わざるをえません。


 さらに、a「社会保障の充実のための消費増税が経済成長にしするというのは、民主党的な考え方である」というのは、「社会保障を重視するのは社会主義的で、保守にあるまじき」といった、あまりに単純な決めつけに過ぎません。
 西部先生は、「『社会保障による長期的な安定性が、経済を持続的成長させる』という議論と、『経済成長によって社会保障を安定させる』という議論は、どちらが先かは判然としえぬ『鶏と卵の関係』である」と、おっしゃっておられるのだから、「弱い人が可哀相だから」といったような左翼的ヒューマニズムとは別の次元の話であるのは至極明瞭なはずです。

(俺は、社会保障は安全保障を見るようにするのが適切だと思います。ので、社会保障についてはまた別の記事で論じたいです)




 このように、事を子細に読み解いて行けば、田村秀男先生による西部先生への批判の論理筋立ては、恐縮ながら「ほとんど滅茶苦茶」という風に、俺には思えます。

 ですが、『消費増税に反対』というだけで、その場の議論では田村先生に理があるような風体になり、逆に『消費増税に肯定的』というだけで西部先生の丁寧な議論が「老人の世迷い言」扱いされてしまうという、参院選後の異様な空気をお感じになりませんでしょうか?



 然れども、そもそも田村先生は、TPPには賛成派ですし、どちらかといえば、政府は小さく、民間市場の自由に任せていきたいという指向を持った先生です。
 ですので、少なくとも西部先生と田村先生の意見が一致しないというのは、何の不思議もないことですね。

 面白いのは(といったら失礼かもしれませんが)、西部先生のお立場に相性が良さそうな三橋先生も、ここでの議論では完璧に対立しているという所にあります。


 そういうわけで、次回は……

「チャンネル桜、『どこへ行く?参院選後の日本』7月27日の討論を振り返って検証する②(西部邁v.s三橋貴明)」

 という風にして、ケインズ的な指向の強いお二人に、どのような違いがあるかを論じていきたいと思います。



(了)


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※今回は評論ではなく、日頃のご支援に対する御礼および、恐れながらも今後のより一層のご支援を請わせていただき、その請わせていただきたいブログへの支援における具体的方法をあげさせていただいたものです。



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『最後に』

 これまで俺は、「文章ってのは、命を削り、それを注ぐようにして書いていればそれだけで良いはずだ」と割合マジに思ってきました。
 ただ、一方で、長いことなかなか発言力が上がらない事が、本っっっ当に悔しかったりしたわけです。


 ところが、最近、数名のお方より当ブログへあついご支援いただくようになって、一日に100名以上の方が訪れてくださるようになりました。

「はっ、そんなもんまだまだ弱小ブログじゃねえか」

 と思われるでしょうが、二年以上書いて来て、ちょっと前まで一日30アクセスくらいだったのです。
 気合いを入れた六千字の記事を書いた時でも、閑散とし、一種の静謐さすら感じらるる自ブログの風体に涙ぐんでいた一、二年間を思うと、今度はその温かさに涙ぐんでしまいそうになるというもの。(よく続いてきたもんだと、我ながら呆れ果てるくらいですw)

 また、ただ感極まるというだけではなく、「読んでくださる方のご支援はマジで大切だ」という事が強く認識されました。


 ある方は、Facebookにて本当に多大なるご評価をしていただきました。それはもう、心臓を丸ごと差し出しても良いほどありがたい事です。

 また、そういったきっかけと、別のある方のご紹介によって、あの京都大学の藤井聡教授のFacebook上で「玉石混合なネット上の言説」の一つとして、当ブログ記事をあげていただくことができたのです。尋常ならざるお忙しさの中、当ブログを弱小と侮らずに目をお通しくださったわけですから、藤井教授は実力のみならず、そのお人柄も本当に尊敬すべき先生なのだと思います。
(勿論、藤井教授が当ブログを「玉と見たか、石と見たか」は、分からないわけですが……)

 また、「良いこと言ってるんだから、もっとランキングを上げたまへ……」と、ブログ運営のアドバイスをメールしてくださるブログ主様もいらっしゃいまして、そうした事に疎い俺にとってはとても助かっております。

 そして、コメントをくださったり、毎記事をツイートしていただいたり等、このブログに対して過大とも思われるようなご評価をくださる方々のご支援のあつさは、心に染み入る次第です。それだけではなく、記事に対して鋭い指摘をされている方もいらっしゃって、それが次の記事の発想になったりもするのですよ。



 まだまだ訪れてくれる人は少なく、弱小のブログではありますが、ありがたくも「一人のお方当たりのご支援のあつさ」は、かなりいただいているのではないかと思われます。




 勿論、「人に読んでもらうこと」ばかりを気にかけて、「多くの人に媚びて書く」とか、「乱暴な事を、乱暴な筋で書き立てる」とか、「複雑な事を単純化して、分かったような気にさせる」とか、そういう風になってしまっては元も子もありません。

 しかし、これからしばらく、「ブログを強くして、発言力を高める」という所にも執着していこうと決意したところであります。
 それまで、こうした執着は格好悪いし、多数派を形成するようで嫌だったのですが、「良い筋の文章を書けるようにしていく」のと「発言力、影響力を高めていく」のは、同時にしていかなければ、おそらく『言論』になっていかないのでしょう。

 その発言力を高める手法として、「大量の人を煽って、広く浅く人気を取っていく」のではなく、「筋を丁寧にお読みいただき、評価してくださるような方々に、ご支援を請う」方が、論の中身を損なわず書いていけるのではないか……と、近頃思ったのです。


 そういった次第で、あつかましいこととは存じておりますが、これからも政治、経済、時事を、「日本が日本である」という事に全ての基準を置いた上で、出来る限り丁寧に論じて行きたいと思いますので、何卒一層のご支援賜りますよう、よろしく申し上げます。



後藤真(おーじ)



(了)
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経済は、政治から逃れられない 

 今日は、「経済は、政治から逃れられない」ということを認める重要性について。

 普通の人は、「経済は、政治から逃れられない」と聞いて、「まあ、当たり前だよね」と思う気がします。
 しかし、経済学をやったり、経済を評したりする連中からすると、これをなかなか認める事ができない。
 経済学をやっている人間は、「経済の合理性を科学的に算出できる」と勘違いしている者が多いですから、「政治の方が、経済学の合理性に従うべきだ」という風に思っているのが常です。

 よって、今回のタイトルは、見る人が見れば烈火のごとき怒りを覚えるような、挑発的なタイトルであると自負しております。



 しかし、前回、前々回で申し上げた通り、経済は『思想』で語られているのです。
 その経済の『思想』は、どういう所に根幹があるかと言えば、経済における「政府の領域」と「民、市場の領域」のどちらの割合を広げていきたいとするかーーにあります。
 そして、これも前回述べたとおり、そこには「政府の適正規模」であったり、「規制の強さ」であったり、「貿易について」だったり、「景気動向に対応する政府の権限の大きさ」だったりの『対立軸』があるわけです。
 そのそれぞれの対立軸上で、「政府の領域の割合を増やしたい」か「民の領域の割合を増やしたいか」の思想に分かれ、それぞれがそれぞれの理屈を構築するわけですが……ここで、少し立ち止まって考えて欲しいのですよ。

 それら、「政府の適正規模」、「規制の強さ」、「貿易について」、「景気動向に対応する政府の権限の大きさ」などなどは…………そもそも『政治』の領分ではないですか!

 そして、『保守』の態度から見て、『政治』とはどのようにして決定されるべきモノかと言えば、『国家の伝統』によって決められるべきものでしょう?

 この場合の『政治における国家の伝統』とは、「これまで中央政府は、国家全体の統治をどう行ってきたか?」であったり、「中央政府と、地方、産業、既得権益といった『国の民』との関係性」であったり、「国家の連綿性が培ってきた『常識』や『慣習』『畏怖』『偏見』『先入観』及び『文化』『言語』」であったりの事を言っているのです。
 政治は、そういった『元々あった根幹的なモノ』に従って行われるべきもののはずではないですか? 少なくとも、『保守』を標榜する者であれば、そう考えていてもらわなければ困ります。


 それを、例えば「政府は小さい方が合理的なのである!」と、経済学や経済評論が述べ立てているからと言って、その理屈によって『中央政府のあり方』を「抜本的に改革」などしてよいはずがありません。
 或いは、もし『今、日本列島に生きている、日本国籍を持った人間』の『圧倒的多数』が、「経済学によると、政府は小さい方が合理的らしいから、政府から予算と権限を剥奪し、我々をもっと『自由』にすべきである!」などと叫びのたまわったとしても、『政治』はそんなクソみたいな『世論』などに迎合してはならないのです。

 何故なら、この場合の『世論』は、所詮「今生きている日本人の多数の論」でしかないからです。
 だって、『日本国民』と言えば、「今生きている国民」だけではなく、「もう死んでしまった日本国民」も日本国民ですよ。もし、その『世論』に「もう死んでしまった日本国民」の意志が反映されているのであれば、政治に口を挟む権利はあって然るべきなのでしょうが、単に「今生きている日本国民の多数が選び取った合理性(世論)」に政治の決定権が付与されているなどと思い上がるのは、『天に唾吐く愚かな傲慢』であると糾弾します。

 さらに、その「もう死んでしまった日本国民」の『意志』や『あり方』を守り、保って、「未来の日本国民」へ繋ぐ『義務』が「今生きている日本国民」には生まれながらに課されているはずなのですよ。



 つまり、経済学や経済評論の言うような「理屈」は、そもそもお呼びでない……と言ったら言い過ぎかも知れませんが、「まあ、たまには参考にしてもいいかな」くらいに思われておくべきシロモノで、国家の伝統に代わって『政治』をどうこうして良い大儀や正当性のあるものではないのです。

 俺から言わせていただくと、昨今の経済学や経済評論は、「政治に出しゃばって来すぎ」です。ましてや、「科学的に算出された経済の合理性」のようないかがわしいもののに、何故、政治が言うことを聞かなきゃならないのか、全く理解ができないのですよ。



 結局の所、もし今の世で、『経済論』として必要なものがあるとすれば、

ーー単なる『思想』に過ぎない理屈を、『科学的な合理』などと虚飾して、国家のあり方を大幅に改変せしめようとする『経済学、経済言論』を、保守の立場から徹底的に糾弾する為の『経済論』ーー

 これだけではないでしょうか。


 そして、糾弾の仕方はこうです。

「経済は政治から逃れられないし、人間は国家から逃れられない」

 と。



(了)



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マネタリズム・リフレ及びケインジアンの経済思想 

 経済は、おおよそ「政府の領域を広げていきたい」とするか、「民の領域を広げていきたい」とするかの『思想』に基づいて語られています。

 そういった『経済思想』を最も簡単に窺う事ができるのは、長期的な『政府の適正規模』です。
 これは、「政府の恒常的な予算が、国家経済の中でどれくらいを占めているのが適切か」という話題であり、大きくあるべきだとする者はその思想に沿った理論を、小さくするべきだとする者もその思想に沿った理論を打ち立てるわけです。

 これを「とっても大きくあるべきだ」と考えると社会主義になります。
 逆に、「とっても小さくあるべきだ」と考えると米国のティーパーティーみたいになります。

 そして、この話題における経済思想の対立は、ほとんど宗教戦争の様を呈し、民族主義に勝るとも劣らないイデオロギー的な熱風を放ったりもするわけです。


 また、経済の思想対立は、「GDPにおける政府支出の割合」などで、比較的容易に全体像を掴む事ができる所と、そうでない所があります。
 なぜなら、政府の「大きい、小さい」とは、『予算の規模』だけではなく、『政府の権限』という観点も無視できないからです。

 例えば、『規制』がそれです。政府に権限を与えたくないとする思想の持ち主は「政府が経済にかける規制はより小さい方がいい」という理屈やモデルを作るし、政府に権限を与えるべきだとする思想の持ち主は「政府がより強く経済に規制をかけるべき」という理屈やモデルを作ります。

 あるいは、外国との貿易もそうでしょう。(これは別の記事で、もっと論じたいと思います)


 そして、「短期的な景気動向に対応する、政府の権限の大きさ」も、その一つですね。
 つまり、インフレやデフレという短期的な景気の動向に対して、政府がどれほど経済へ介入する『権限』を持っているべきか……という思想の対立の事です。
 今日はこの対立を、マネタリズム、リフレ、ケインジアンという風に分類して掘り下げてみたいと思います。



『マネタリズム』

 まず、景気循環に対して、「政府にほとんど権限を与えたくない」と考えるのが、いわゆるシカゴ学派ーーマネタリズムです。マネタリズムは、デフレやインフレに応じて「財政を出動したり、縮小したり」という話に否定的なのは勿論、「通貨発行の裁量も『行政府』には与えたくない」とする思想です。
 じゃあ何によって通貨を管理するべきだとしているのかと言えば、「彼らの編み出した理屈に従って、中央銀行が通貨供給量(マネーサプライ)を一定量づつ増やしていくように、通貨を発行していくべき」としているわけです。
 そして、「それならば長期的に『民間市場』は均衡していくはずだ」と考えるわけですから、経済における『民の領域』に対する絶対的な心棒があるのですね。

 また、マネタリスト的な人が『財金の分離』を唱えるのは、「政府がお金を刷って、政府が使う」ということが我慢ならないからに他なりません。つまり、中央銀行を、ほとんど行政府から分離、独立させた形にすれば、「政府のズルを制限できる」と、彼らは考えたのです。

 つまり、マネタリズムは、『政府の権限』をガッチガチに制限して、『市場、民の領域』に経済のおおよそ全てを任せ、「政府から自由」にさせたいとする『思想』なわけです。



『リフレ派』

 次に、リフレ派ですが、一般的にリフレとは「インフレの時は金融を引き締め、デフレの時にはお金を沢山刷る」という風に、中央銀行が金融をもって景気に対応していくべきだとする態度です。
 もっと分かりやすく言い換えると、
「インフレの時は『銀行』が貸し出せる金を制限し、デフレの時は『銀行』が貸し出せる金を多くするべきだ」
 とする姿勢の事です。

 リフレの理屈を見ると、中央銀行(政府の一機関)が景気に関与するのだから、マネタリズムよりは政府の権限を重視し、民間市場を疑う姿勢がある……かのように見えます。
 しかし、実の所、リフレという態度は、マネタリズムの文脈を前提に派生したものと考えるのが適切なのです。

 そもそも、マネタリズムの理屈の中に含まれる難問は、「『通貨供給量』を一定づつ増やしていく」という所にあります。
 通貨発行額を一定に……ではないんですよ? 『通貨供給量』ですから、「政府と(銀行などの)金融機関を除いた市場に出回っているお金の量」です。
 そうなると、「通貨供給量を一定づつ増やす」というマネタリズムの姿勢においても、「デフレ状態の時は、貨幣の発行を増やしていく」という姿勢が内包されている事になります。
 つまり、リフレにおける「デフレ状態の時、日銀は円を刷りまくれ」という態度は、マネタリズムと背反していないのです。

 その証拠に、
「銀行が貸し出せる円の量さえ適切であれば、民間市場は均衡していくはずだ」
 という指向は、これと同一のものでしょう?

 さらに、ここで一つ指摘したいのは、今の世には、

1、『マネタリストではあるが、リフレ派と呼ばれるのを嫌う者』
 と
2、『リフレ派だし、マネタリストである事を誇る者』
 と
3、『リフレ派であるが、マネタリストと呼ばれるのを嫌う者』

 がいることを、知っていなければならないということです。

 1、『マネタリストではあるが、リフレ派と呼ばれるのを嫌う者』は概ね、財金分離を強く唱える者で、そもそも「民間市場は現状も正常に回っている」と主張する者です。この種類の人は、「現状はデフレではない」とするか「デフレは問題ではない」とするかの、どちらかになります。

 2、『リフレ派だし、マネタリストである事を誇る者』はいわゆるゴリゴリな新自由主義者に多く、リフレの理屈を「政府から権限を剥奪する根拠」にしていたりします。

 そして、昨今問題になっている、3、『リフレ派であるが、マネタリストと呼ばれるのを嫌う者』ですが、彼らは経済における日銀の責任を異様に重く設定し、現状のデフレを「民間市場の失敗」であることを認めないが故に、「日銀の売国的失策」であると唱えたりします。つまり、「日銀の円を刷る量が適切であれば、民間市場は失敗するはずがないので、そもそもデフレにはならなかったはずだ」という筋があるわけです。
 彼らが「自分たちはマネタリストではない」と主張するのは、「日銀を悪の親玉とするが故に『財金分離』に固執していない」という所に集約されていると思います。ですので、3、は2、に対して、相性が良いですね。逆に、3、の最大の敵は1、ということになります。
 また、もし彼らが何とか財政出動を肯定しようとすると、必然的に「(長期的には金融緩和だけで市場は均衡するはずだが、)金融緩和だけだと『時間がかかる』ので、財政出動で時間的な短縮をはかる事の意義は否定しない」といった筋になるわけです。あちらこちらで聞き覚えのある理屈でしょ?


 ただ、これら三種類の者達は、『民間市場』へ過大なる信用置き、「通貨の量さえ適切であれば、市場は均衡する」と考えているという点で、マネタリズムの文脈の上に成り立っているシロモノと考えて差し支えないのだと俺は考えます。




『ケインジアン』

 ケインズ的な人、或いはケインジアンは、景気に対して、政府が権限を振るう事に肯定的です。

 つまり、
A「政府が財政を出動して、需要を生む」
B「企業が発注を受ける」
C「発注を受けた企業が、別の発注をしたり、人を高く雇ったり、利益にしたりする」
D「その流れで需要が広がっていく」

 というような循環を起こすために、

a「政府が財政を出動するために国債を刷る」
b「刷った国債を一般の銀行が買う」
c「銀行が持つ国債を、日銀が買う」
(つまり、実の所、政府が刷ったお金を、政府が使うという事)

 といった手法を取る『権限』を『政府』が持っていて良い……というより、それは「政府の役割である」とするのがケインジアンの文脈でしょう。

 さらに言えば、ケインジアン……というよりは、ケインズ的な立場から、「こういった手法を取る権限を政府に与える事に肯定する思想的根拠は何か」と見ると、それは「市場に対する懐疑」によるものであると言えます。

 つまり、ケインズ的な者は、

「デフレとは、市場の失敗である」

 ということを認めているのです。

 市場への懐疑の有無、ここが、現在の経済思想を見るのに、最も重要かつ明瞭な判断材料なのだと、考えます。


             ・


 個人的見解を述べれば、「市場が失敗しうる」という前提に立つことは、「民主主義が失敗しうる」ことを認めることとほとんど同義ですので、この醜き『大衆民主主義社会』の中では中々ケインズ的な発想が受け入れられないんじゃあなかろうか……と、見ています。

 しかし、これは以前申し上げた事ですが、俺はこう思うのです。

「今必要なのは多数決(市場)ではなく、血とコンクリートである」

 ーーと。



 明日は、昨日と今日論じた事を踏まえて、「経済は政治から逃れられない」という事を主張したいと思います。



(了)



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経済は、「政府がどうあるべきか」という思想によって語られている 

 このブログでは、毎回「ああでもない、こうでもない」と経済に関してエラそうな事を叫びのたまわったりしているわけですが、実を言うと、俺は経済の事なんてほとんど何一つ分かっていません。

 ただ、経済というものは、「何か明瞭な計算方法をもって、合理的な最善策を導き出せるもの」などではない、という事だけは自信を持って言うことができます。

 何故なら、もし「経済の合理性がおおよそ明瞭に算出できる」のであれば、理論上、『戦争』もなくなれば、『軍事衝突』もなくなるし、『国際(国の際)』もなくなって、最終的に『国家』が必要なくなって行くという話になるからです。

 だってそうでしょ?
 おおよそ明瞭に経済の合理性なるものが算出しうるのであれば、地球上の全ての人間が、その明瞭な合理性に従って生きてゆくのが、最も合理的だという話になるのですから。

 しかし、地球から戦争や軍事衝突がなくなるだなんてファンシーでファンキーなファンタジーは幼稚園で卒業しなければならないお伽噺ですし、国家がなくなってしまうのはそもそも「嫌」ですよね。というか、人間が『国家共同体』無しで生きていくだなんて世界は、常識的に考えてあり得ないわけです。

 このように誰でも分かる常識から振り返ってみれば、「人間には経済の最善策を合理的に算出する事など、永遠にできない」と考える他ありませんね。

(こう言うと、懐疑主義的に聞こえますが、「正解がない」と言っているわけではなくて、「人間には解明できない」と言っているだけなのですよ)



 では、一体全体、世の中の「経済を論じる人達」は、何を基準にモノを言っているのでしょうか?
 或いは、経済学者は、げに複雑な現実世界から何を基準に数値を選び、モデリングして、グラフに落とし、微分やら積分やらしてこねくり回した後で、曲線をシフトさせ……などしているのでしょう?

 一言で申せば、それは『思想』です。

 大学受験や、学生生活を思い出して欲しいのですけれど、『経済学』って、理系じゃなくて文系でしょう? または、キャンパスでは自然科学の棟ではなく、人文科学の棟に研究室を構えていたはずです。
 つまり、経済学って、あたかも物理や化学とかと並んだ学問であるかのように見せかけておいて、実は、歴史とか、哲学とか、政治学とか、文学とか、そっち系の学問の隣に並ぶ代物なのです。


 さて、では経済における『思想』とは、どのようなものなのでしょうか?
 それは、おおむね、「『政府』が経済へ関与すべき領域とは、どの程度で、どのようなものか?」という問いに対する『熱い想い』に集約されています。
 つまり、経済における『政府の領域』と『民の領域』に対する見解ですね。

 経済学の理屈って『誰々理論』とか、『云々モデル』とか、色々計算式で飾られてはいますけど、結局の所、「政府の領域を広げていきたい」とするか、「民の領域を広げていきたい」とするかの『思想』が先にあって、その思想に合わせた形で仮説を立て、数値を拾い、モデリングしているだけにすぎないーーと考えて一向に差し支えないのですよ。



 次回は、そういった「政府と民間」という『思想』の観点をもって、マネタリズムとリフレ、及びケインジアン等を分類してみたいと思います。



(了)



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政府における、短期的な支出と恒常的な支出 

 安倍政権が発足した去年の師走。アベノミクスという言葉がにわかに世論へ躍り出た頃に、このブログでは次のような記事を書いたと記憶しています。

「『アベノミクスの三本の矢』には、大まかに分けて二筋の捉え方があって、賛同している者の中でもリフレ派とケインズ派がある。今(当時)は、別段対立を起こす必要はないのかもしれないけれど、次第にそのせめぎ合いが起こっていくだろうから、せめて違いがあるというくらいは掴んでおく必要があるぜ」
※アベノミクスと、リフレとケインズ http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-47.html

 と、まあ拙い文章のクセにエラそうな調子で書き連ねていたわけです。

 ただ、自己宣伝するようでなんすが、十ヶ月ほどたって振り返ると、「この時期あって、俺もなかなか良いこと言ってたじゃん」という風に思われて、「この人を見よ!」なぁんて叫びのたまいたくなったり、ならなかったり……

 まあ、そんな俺の醜き自慢心は置いておいて、事此処に至れば、「アベノミクスの激流の中、何か違った二筋の流れが水面下でせめぎ合っていたのだろうな」ということは、広く意識され始めたのではないでしょうか。

 というのも、今回の消費税騒動で、少なくともその姿勢に「違いがある」という事は、明瞭に映し出されからです。さらに言えば、先だってのTPPへの交渉参加についてのそれぞれの姿勢も、記憶に新しいですよね。
 だって、「現時点での消費増税に猛烈な反対を示した者は、TPPには寛容」であり、「TPPに猛烈反対の者は、現時点での消費増税に寛容」であるーーというのは、中々に明瞭になっておりますでしょう。

 さらに申さば、アベノミクスにおいて甚だ不明瞭だった水面も次第に透明度を増して、次の事が多くの人の目に映っているように思われます。

 それは、『財政出動への姿勢』です。

 つまり、「消費税やTPPに対する姿勢は、財政出動に対する姿勢とも連結していたようだ」というのが、多くの人に意識され始めているのです。

 ただ、「多くの人に意識され始めている」ということは、これからは「財政出動に肯定的かどうか」だけで経済思想を眺めてはならないーーと、言うことでもあります。


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 そう言えば、消費税の件で「つんのめり過ぎ」ていて、安倍首相の発表から、その立場を浮遊せざるおえなくなった『一部のリフレ派』においても、様々な身の処し方が見受けられますよね。
 とある人は(名指しはしませんけど)、最後まで跳ね回って、世話になっていたとある報道組織にまで噛みついて、仰々しい威勢を放ったまま表舞台から撤退していきました。俺は、この人の論じ方が、「白川を討て」などと叫びのたまっていた頃から大嫌いでしたけれど、去り際の徹底した狂犬の風体は「文学的な意味では嫌いではない」と思いました。

 対して、この人の経済論における理論的支柱であった『先輩』は、後輩の跳ねっ返りを尻目に、ケインジアンにすり寄って、「財政出動」を唱えるようになりました。尤も、この『先輩』は元々そこまで財政出動に反発するタイプのリフレ派ではありませんでしたけれども、このように、「(自民党や内閣ではなく)『安倍首相個人』を心棒する姿勢をもった、一部のリフレ派」は財政出動に肯定的になっていくのではないかと思いますよ。

 何故なら、彼らの「(自民党や安倍政権、安倍内閣ではなく)『安倍首相個人』への絶対的心棒」と「リフレ派的な指向から来る消費増税への猛反発」に、今や整合性が取れなくなってしまったからです。
 今まで『安倍首相個人への心棒』を傘に保守言論会を立ち回って来た人は、安倍首相が四月よりの消費増税を決定した事によって、首相の消費税増税判断の根拠である『併せて行う経済対策の支出』を、幾ばくか支持しなければ立ち回って行かれないのでしょうしね。

(『先輩』なども「コミンテルンが云々」とか、随分と乱暴な事をおっしゃっていたと記憶しますけれど、そういった不義などまるで無かったかのように立ち振る舞われる様は、本当に如何なものかと思います……が、言論人というのはおおよそそういう性質のあるものと捉えておかなければならないのかもしれません)


             ・


 まあ、そういった一部の世事は置いておいたとしても、一転にわかに「財政出動への肯定の雰囲気」が、世に醸されたように見受けます。
 おおよそ、「消費税によって一定程度起こるであろう家計消費のマイナスに、何らかの経済政策を打たねばならんな」という気持ちが、多くの人にも沸き起こっているからでしょう。


 しかし、この『財政出動への肯定の姿勢』という観点での見方においても、一つ気を付けなければならない指向があると、俺は考えます。

 とどのつまり、それはやはり、「今いる我々一人一人に、好景気を享受させろ!」といった種類の心根による、「財政出動の請求」であってはならないという事です。

 ……いや、これは別に「単なる精神論」で言っているわけではないのですよ。
 また、俺はかねてから申し上げていますとおり、「デフレの解消には財政の出動が不可欠である」と強く考えております。何故なら、いわゆるデフレスパイラルを脱するのに、「政府が、消費性向の高い産業へ発注をすることによって有効需要を増やし、雇用を増やし、給料を増やし、収益を増やし、投資、消費を増やす……」という手法が効果的であることは、幾つかの歴史が証明しているからです。


 ただ、『財政』というものを俯瞰した時に、そこには『恒常的な支出』と『短期的な支出』があるという事を無視してはならないーーと、主張したいのです。
 これは普通に考えれば当たり前の事ですよ。だって、政府支出はそもそも景気の調整弁などではなく、『国家統治の為』にあるんですから。

 例えば、議会や省庁や軍隊などに付ける予算ーー政治家、官僚、軍人に支払う給料や、建物、軍備……諸々の費用は、恒常的に(絶え間なく)支出する領域ですよね。社会保障費だってそうでしょう。

 対して、道路、橋、堤防、鉄道などをゼネコンに発注したり、軍備を更新したりするのは、短期的な支出ですね。期間限定の減税措置なんかもそうでしょう。要は、いわゆる建設国債で賄ったりする領域です。


 すると、『財政出動を肯定する者』の中でも、次のような違いが生じ、水面下で対立するのは、ほぼ間違いないと断言できます。

 それは、

一、「短期的な支出を増やす事には肯定的だが、恒常的な支出は減らして行くべきだとする姿勢」

 と、

二、「短期的な支出は勿論、恒常的な支出も増やすべきだとする姿勢」

 です。

 これを、至極乱暴ではありますが、換言致しますと、

一、「景気対策の為の支出は増やして良いけど、政治家や官僚の待遇を良くするとかありえん」

二、「景気対策としての支出は勿論、政府の規模そのものを今より大きくするべきだ」

 という風になります。

(声を大にして叫ばせていただくと、俺は後者の立場です!)



 これは、本当に重大な『違い』ですよ?

 一見、「デフレの脱却の為の『財政出動』には双方賛成なのだから、あえてその違いを取り立てる事もないだろう」と思われるかもしれません。
 しかし、何回か申し上げている通り、デフレとは短期的な問題であるし、「長期的な国家経済へのビジョン」や「根本の経済思想」を無視して、「単に、好景気をもたらしてくれる技術論」だけを追ってしまうと、徐々に生じていく歪みや対立に右往左往する事になるんじゃあないでしょうか?
 また、好景気をもたらす技術論を遂行するために、「細かい所はおざなりにして、一つに纏まる」というのは、後から考えるとかえって話をややっこしくするような気もするのです。
 だって、それって「多数派を形成する為に、話を単純化して、多くの人に分かりやすくする」って事でしょ? 「難しい話を何とか言葉を尽くして分かりやすくする」っていうのと、「難しい話を、単純化して分かりやすくする」っていうのは全然違いますからね。
 それに、「多くの人が賛同するような理屈に向かって行く」のは、概ね「間違った方向へ進んで行く」のとイコールであると考えて差し支えないのだと思いますよ。


 よって、今は少なくとも、「短期的な財政出動を肯定する者」の中でも、「恒常的な支出を増やすか、減らすか」という所に『違いがある』というだけでも認識しておくべきなんだろうと思います。



(了)



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消費増税からの行政改革的な世論指向を、先回りして牽制する 

 俺が昨今、世の中の「強い消費増税への反発」を批判的に見てきたのは、そこにバラバラな個々人による単なる『政府への請求』の姿勢が強く含まれていると見たからに他なりません。強い消費増税への反発における『政府への請求』とは、「今を生きる我々一人一人が、もっと消費できるようにしろ」といったような、政府に向かっての『自由』の請求の事です。


 勿論、「デフレの下での増税には慎重な立場をとらなければならない」というのは俺とて同意しますし、さらには「政府には、局面に応じて、増税する前に支出を拡大する権限が与えられていて然るべきだ」とも考えています。
 しかし、短期的な技術論としては正鵠を射ていた論理も、『大量の単なる人間』に広まる度に単純化され、議論の筋は無視されて、もっといえば幾つかの『卑怯』によって微細な部分が都合良く改変され、果てには『政府への請求』へと成り果てたが故に、仕舞には「政治家や高級官僚への下品な怒り」となって顕れてしまったのではないかーーと疑ってきたわけです。


 さて、おおよそ九月の一ヶ月まるまると「怒り狂って政府への請求を怒鳴り散らして来た『大量の単なる人間たち』」は、消費増税について『自分達の請求』が通らなかった今、どのような指向を辿ってゆくと予測されるでしょうか。


 ある人は、「安倍首相がああおっしゃっておられるのだから……」と、静まりかえって行くのかもしれません。世間で言う所のいわゆる『保守』と呼ばれる人たちの安倍首相への心棒は、やはり強いものがありますから。そういう人達は、再び外人を罵ったりなどする事に心血を注ぎ始めるんじゃないでしょうか。まあ、そのくらい可愛いもんです。


 しかし、別のある人は、『消費増税に関しては受け入れられなかった請求』に代わって、『別な請求』をし始めるのではないかと疑わないではいられないのです。
 その『別な請求』というのは、「我々庶民から税金を絞りとるのであれば、政治家や高級官僚にも『痛み』を与えやがれ!」といったような、世にも醜く、けばけばしい大衆根性の事であります。
 つまり、「民の生活が苦しい分、政府にかける税金も減らせ!」といったような、いわゆる行政改革的な指向です。


 そして、今回は、先回りしてこの劣悪な『行政改革的な指向』に牽制を入れさせていただきます。

 と申しますのも、今まで「デフレでの消費増税は、国力を削ぐから反対だ!」と叫んできた人間が、もし仮に、これから「消費増税で庶民が苦しむ分、政治家や高級官僚や政府そのものにかける支出を減らせ!」などと叫び始めたら、そこには明瞭なる『矛盾』が露呈されることになるーーと強調しておく必要があると思うからです。

 だってそうでしょう?

 そもそも「デフレ期の消費増税は、国力を削ぐから反対だ!」という話は、「消費税が上がると、個人消費が減り、国家全体の消費が減る可能性があるから、『総需要が減る要因』になりえる」って所に集約されているわけです。つまり、デフレの時に国内全体の『需要』が減るのがマズい……ていう一筋の下に、「国家の為の、現時点での消費増税反対」とやらの大儀と正当性が担保されていたわけですよ。

 さればその筋の先に、同じ『需要』である『政府支出』を指して「減らせ」などと言い始めたら、どう考えてもおかしいでしょ。だって、ついこないだまで「国家全体の為に、需要の拡大が大事」という筋をもって消費税に反対した人間が、この先にデフレ下で政府の支出を減らす事を主張し始めたら、「あれ、国家全体の需要とやらの話はどこいったの?」って、脳味噌くっついている人間であれば誰でも思うわけですよ。

 もしこのような『矛盾』が散見されたなら、それはとどのつまり、「国家の為、国家の為」などと口では述べ立てておきながら、実の所「個々人の為」であるか、あるいは、「自分の為を考えたい者達に対して、都合の良い愛国的理屈を与えて迎合し、キャーキャーとチヤホヤされたいが為」に、言葉を羅列しているに過ぎないが故に起こった浅ましい『淵』のようなものだと評する他ないでしょう。
 いや、ここでの俺は未だそのような言説のあるのを確認して来たわけではないので、あくまで先回りして「もしそんな輩が湧き始めたら、それは矛盾しているぜ」と牽制しているだけではありますけど。




 さて、何故今こんなややっこしい牽制をしているのかを申しますと、昨今聞かれる「デフレ」への解釈において、「橋本龍太郎政権での消費増税」がやたらめったら非難されているのに対し、あの時代、それ以上に強いデフレの要因となったであろう『緊縮財政』と、その心理的根元であった大衆世論による『行政改革的指向』に関しては、反省してみる素振りすら見受けられないからであります。


 まあ、橋本政権の時、俺は小学生でしたから、ほとんど後知恵で申し上げているという『卑怯』はあるのですけれど……
 それでも、その頃の大人が言っていた事、世の中の雰囲気などは何となく記憶にあるものです。

 例えば、ある日、テレビの向こうの議上で時の橋本首相が「ごめんなさい」と頭を下げていました。それをもって、コメンテーター達は、「素直に謝る態度は感心だ」などと言うのです。この時、俺は子供心に、「総理大臣ってのは、日本では天皇の次に偉い人だった気がするけれど、そんな人に対してこのコメンテーターの人は何でそんなにエラそうな事を言っているのだろう」という風に思った覚えがあります。

 また、ある日、学校の先生が次のように言うのです。
「世の中には官僚という悪い人達がいて、天下りやらカラ出張やらを用いて、国民の納めた税を不当に搾取しているのだ」
 と。
(実際、こういう台詞だったかは分かりませんが、だいたいこんな風に教わった気がしますよ)

 テレビは、もっと酷い言いようだったと思いますね。
 とにかく、「政府という腐った組織の中に、腐った人達がいて、国民が納めてやっている税金を不当に搾取している」という事と、「そういう腐った政府組織の無駄を減らして、税金の負担を下げるべきだ」という事、それに「民間が不況に喘いでいるのだから、政府組織の人間も同じような競争に晒されるべきである」という事が、繰り返し叫ばれていたように記憶します。

 勿論、当時の俺はそういった世の風潮を言語で整理していたわけではなく、何となく「大人の話によると、政府ってのはたいそう悪いヤツららしい」という風にボンヤリと掴むくらいであったのでしょう。
 ただ、これもボンヤリとですが、「そりゃあ、何かおかしな話だな」とも思っていた気がします。


 そして、ある程度大きくなって、「世の中を威猛々しく闊歩する『世論』なるものは、八割方が嘘っぱちであると考えて差し支えないのだ」ということくらいは分かるようになると、行政改革的指向が緊縮財政を生み出す流れの、げに醜き『(国の民ではないバラバラな個々人という意味での)大衆』の心根が推し量られて、恐ろしくてたまらなくなるわけです。


 まず、俺は、橋本政権時のデフレ政策の問題は、消費増税もそうですが、むしろ『緊縮財政』が非常にマズかったのだ、と考えます。
 次に、『緊縮財政』は、何故行われたのかと考えると、それは大衆世論の政府への請求として、「政府や権力から、特権を剥奪し、それを世へ平らかに解放せよ」といった指向が津波のように押し寄せていたからだ、と考えます。「一部の組織の者から権限を剥奪すれば、それが巡って来て、自分の生活が幾ばくか楽になるはずだ」という卑猥な発想が世論の多数を占めて、政治が財政を緊縮せざるをえなくなったーーといったような所があったんじゃあないんでしょうか?
 また、政府へ緊縮を求める指向が、消費増税の指向と無関係であったとは考えられないと思います。そうなると、『とある政府への請求』が『別の政府への請求』を満たすのを阻害していたという面だってあったはずでしょう。

 勿論、それらに迎合したのは橋本内閣なんでしょうけど、政治が世論に迎合せざるをえなくさせたのは、そもそも先に『政治制度改革騒ぎ』による非自民連立政権の茶番と、「二大政党制が民主的で良い」などという低劣な大衆世論の理屈による「小選挙区制への移行」があったからなんじゃあないでしょうか?

 勿論、当時ガキ過ぎて世の雰囲気に対する記憶も定かではない俺が、後知恵でここまで言うのは甚だ傲慢な気がします。しかし、こういった『外野』の騒ぎを糾弾せずに、政治家や官僚を無能呼ばわりしているだけでは同じような轍を踏むに違いないと思うし、もっと言えば甚だ不健全だと思うのですよ。




 俺から見ると、今我々が受けているデフレとか不況とかいった苦しみは、「権力者が不当にも苛政を敷いたから」というよりは、単に「民主主義が失敗したから」と捉えるのが、最も自然だと思います。

 ですから、『デフレを脱却するような安定した政治』を求めたいのであれば、「国民全体の政策知性を上げる」とかそういう意味の分からない『百科全書派的な空論』ではなく、「どう民主主義を制限し、どう『間接性』を持たせて行くのが、国家の歴史的経緯として適切か?」という保守的な態度をこそ持つべきなのだと思うのです。



(了)



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西田昌司の消費増税容認、についての擁護 

 自民党参議院議員の西田昌司先生は、youtubeなどに動画をアップなされ、ネットを活用して自らのお立場を示される先生です。
 これは、政治家先生ともあろうお人が、ネットなどという衆俗にまみれた所へ下ってきてまで論を展開せねばならぬほど、『世論』といったものが甚だ無秩序で厄介なモノになっているという顕れでもあり、つくづく現代の政治家は苦労の多い職業であると同情を禁じ得ない所ではありますが……


 まあ、それは良いとして。
 そんな西田先生は近頃、「消費増税容認へ寝返った」として、ネット上では「裏切り者」と罵られております。それはもう酷い言われようで、ネットユーザーは、西田氏が何を言おうと馬耳東風の体。はたまた何処で何を聞きかじって来たのかは知りませんが「経済を勉強しろ」だとか「売国奴」などとのたまう輩まで出る始末です。

 おおよそ、この世で俺が最も嫌いな人種は、こういった連中であります。
 つまり、「自分の理解力の無さを顧みずに、ワケも分からず立場ある人を口汚く罵る小市民ら」の事です。


 まず、昨今のネットユーザーの口振りでは、「西田昌司は消費税反対の立場を土壇場で翻した」という事らしいのですが、その時点で彼らには日本語に不自由な所があるのだと断定できるというものです。
 何故なら、(西田氏の言説が正しいかどうかを置いておいたとしても)、その言説における筋は『一貫している』からです。
 つまり、最初から「西田昌司の話は間違っている! 何故ならこれこれ云々だから」と言っているのであれば分かるのです。しかし、「前は正しかったが、今は間違っている。裏切られた!」とのたまう輩は、ただ日本語を論理立てて理解する事が出来ていないか、最初から話を聞いていなかったか、どちらかしかないわけですよ。
 日本語の筋を理解していないか、話を聞いていない連中の中で、「なるほど、西田は消費税に反対なのか」と、自分らの理解できる範囲だけで勝手に筋を咀嚼していたに過ぎないのに、自分らの理屈に合わなくなったからといって「裏切られた」と、ピーピーギャーギャーとガキのように騒ぎ立てる様は、まさに地獄の餓鬼の蠢く様がごとく醜く浅ましく思われ、悪寒すら覚えるというもの。


 なんと言ったって、そもそも西田昌司氏の基本的立場は、「消費増税に大賛成」でしょ? 以前から何度もそうおっしゃっておられたではないですか。というか、長期的には、もっと多くの種類の税の率を上げて行く方向性が、氏の立場であったはずです。
 つまり、西田氏は『今よりは大きな政府』を目指すべきだと主張していたわけですよ。そもそも『構造改革反対派』ですしね。
 ただ、デフレでの増税はタイミングが悪いので、現時点での増税には『消極的』だったに過ぎないわけです。



 さらに申せば、タイミング論として「デフレ下での消費増税」に反対ないしは消極的な立場を示す筋にも、大雑把に分ければ二通りの筋があるのですよ。


 一つは、デフレを解消するための「需要不足の解消」を「民なるものがより多く消費をしていく事」によって解決しようとする立場によるものです。この立場に立つ者にとっては、「民の消費を減らす要因」=「経済的な売国的行為」とすら思われるはずですから、消費増税に対する反対の姿勢は極めて強いものになるわけです。昨今、世間で騒がれている「デフレで増税ダメ論」はおおよそこちらの筋で述べ立てられているように見受けます。(俺から言わせていただくと、「自分達がより多く消費していくことが、デフレギャップを解消して国益になる」など、都合の良い愛国心もあったものだと感心してしまうのですが……)


 もう一つは、デフレを解消するための「需要不足の解消」を「政府がより多く支出する事」によって解消しようとする立場によるものです。つまり、政府の支出による需要不足の解消から、民なるものへの『雇用』を巡らせていくという立場です。この立場で「デフレ下での消費増税に消極的な姿勢を取る理由」は、概ね『財政ファイナンスの肯定』にあります。
 まったくもって世の中には、色々な『政府への文句の付けよう』がありまして、中には「政府はそんなに国債を刷るんじゃない! ましてや中央銀行に買い取らせるだなんてズルだ!」と騒ぎ立てる連中もいるのです。しかし、デフレの時に国債を刷って、刷った国債を中央銀行が買うーーとどのつまりは、政府が刷った円を政府が使うーーくらいの権限は、中央政府が持っているべきだろ、というのが「デフレにおける財政ファイナンスの肯定」です。
 つまり、この立場からの「デフレ下での消費増税の消極性」は、あくまで二次的な話なのですよ。だって、まず、「政府支出による需要の拡大」があり、「増税をしなくたって、政府には支出をする権限があって然るべきである」という指向に繋がるわけですから。
 そうなると、『デフレでの消費増税』への態度も、「何も、デフレの時期に慌ててやる必要は無い」くらいの弱い否定なのは当然でしょう? だって、そもそも需要不足を埋める論理は政府支出に重きを置いているのだし、ましてや「消費増税そのもの」には大賛成なのですから。


 そして、西田昌司氏は、明らかに後者の方の立場を示していたわけです。
 されば、消費増税そのものに大賛成なのは勿論、『時期』の話においてもそれなりに容認の姿勢を取るのは至極当然ではないですか。


 繰り返すようですけれど、「初めから西田氏の筋に賛同しない」という者については、別にとやかく言うつもりはないのです。それならば、少なくとも筋の上で議論にはなりますから。

 しかし、こうした筋の違いも理解しないままに、単に「デフレ下での消費増税に消極的」であった所に賛同していたに過ぎない輩が、これまた単に「現時点での消費増税を容認」したからといって罵詈雑言を投げつけるという、あまりに低劣な小市民が湧きすぎて見るに耐えないのですよ。
 しかも、そういった日本語能力に不備のある小市民らが、政治家先生に向かって、「経済を勉強しろ」などと下っ歯痒いことをのたまうわけです。端から見ていても恥ずかしくって仕方なくなっちまいますよ。笑えない滑稽さが痛々しいというのは、正にこういった種類のことでしょう。



 それにしても、(正にこれを書いている時に知ったのですが)安倍首相より、来年四月からの消費税8%が正式に発表されましたね。
 今まで、消費増税容認してきた麻生太郎大臣や西田昌司先生を叩いて、「安倍さん信じてる!」とやってきた『愛国者』達は、一体その心をどのように処すのでしょうか。

 気軽に悪口を言える西田昌司先生を叩いていた事など忘れて、「安倍さんの言うことなら……」とコロっと変節するのでしょうか。
 はたまた、「増税を阻止できない首相では、デフレ脱却など出来ない」と、安倍首相をも叩き出すのでしょうか。

 どちらにしろ、厄介極まりないですねえ。
 しかも、こういった連中は、自分が厄介な存在だという事をこれっぽっちも自覚しないが故に、本当に厄介ですよ。

 在日朝鮮人やら在日華人やらもそりゃあ厄介ですけど、こういった恥知らずな連中の方が、日本人であるだけ余計に厄介かもしれません。外人が厄介なのは至極当たり前の事ですけれど、厄介な日本人というのは糾弾や摘発が難しいでしょう?

 本当、政治に対して余計な口出しをせずに、日々の生活を全うしてさえいれば、誇りある日本国民としてあれたものを、多くの人は何故よく分かりもしない複雑な政治というものに手を出して、あえて醜き小市民に成り下がろうとするのでしょうか。
 普通の日本国民は、普通に自らの政治への無知を自覚しているものです。さらに言えば、どれほどの勉強や思考や議論を積んで研鑽したとて、人間の個々人には『政治』や『経済』などという遙かなる項目のほんの一部しか知ることが出来ないわけですよ。
 そういうわけで我々一人一人は知らない事だらけなのだけれど、現実は刻々と動いていくのだから、誰かがその分からないことだらけの政治や経済を運営していかなきゃならんのです。
 少なくともそれを分かっていれば、『政府』とか『政治家』とか『官僚』とかいったものに対し、軽々しく罵るだなんて事はできないはずだし、政治に対する意見を述べるにしても、自らの言説が何か恥ずべき様相を呈していないかと恐れる心くらいは持てるはずなのですが……
 今回の消費増税騒ぎには、「どれほど落ちぶれてもそれくらいの最低限の常識は失わないでいたいものだ」と、背筋の凍る思いをさせられました。



(了)



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