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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2013年11月  
  

特定秘密保護法案について 

 最近、テレビやラジオ、新聞やらでよく『特定秘密保護法案』についての話がされているのを聞きます。
 正直、俺は、個人的にこの法案に対して大した興味はありませんでした。つーか、今もあんましありません。
 こういった問題は政府と国会の議論に任せるのが筋であって、政府外の人間がギャーギャー文句をつけるべき領域ではないと考えるからです。

 ですから、これに関しての俺の不満は、「この法案が、世論の議論の上で過剰に取り扱われていることそのもの」なのです。

法案:http://tamutamu2011.kuronowish.com/himituhogohouann.htm



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 そもそも、基本的に「政府が『特定秘密』を管理し、保護する」という話において、秘密にされる側の一部である『大衆』にどうこういう言う権利があって良いはずがありません。
 だって、秘密にされる側(衆俗)が、自ら「秘密にされ方」を設定するなど本当に冗談のような話でしょう。当然、基本的に、それは秘密にする方(政府)が「秘密の仕方」を設定するに決まっているのだし、それで良いのだし、そうあらねばならんのです。当たり前じゃあないですか。

 また、『中央政府』というものが「防衛、外交に関する国家機密を漏洩した者を罰する」なんて程度の権限を有していないのであれば、政府には「国際関係調整……軍事、外交を代表して行う責任」がないということになってしまいますでしょう?
 だって、『責任』は『権限』が与えられていてこそ生じる……という面があるわけです。ある程度の『権限』も委託しないままに『責任』だけを押しつけられるだなんて、そんな都合の良い存在はありえません。つーか、何故、『政府』に対してだけそんな都合の良い存在である事を求めて、何ら恥じ入る事がないのか……
 その都合の良い理屈、都合の良い脳内構造、都合の良い倫理は、まるで13歳のガキが全てを親のせいにして、家のあれそれへ何事にも協力せず、自分が守らるる権利だけは一丁前に請求しにかかる様に酷似していて、しかもそれがそこそこの社会的立場のある大人達のモノ言いであるというから、その、中年オヤジがランドセルを背負うようなグロテスクさには目を覆う他ありません。



 本当はこの『常識』だけで、ジャーナリズムなどという有象無象は、この法案に対してあれやこれや言って良い立場にないーーということを示すのに充分というもの。

 ただ、そう言っても、「そんな事を言ったら、『国家機密』とか言っておきつつ、時の諸大臣が何でもかんでも秘密にしてしまう可能性がある」というような疑いを述べ立てる連中を黙らせる事はできないでしょう。つまり、「権力者は、国家機密と銘打っておきつつ、不当な秘密保護をやるに違いない」というストーリーのことです。
 俺、こういう考え方は虫酸が走るほど大っ嫌いなのですが……まあ、これには一理を認めないワケにもいかない、とも思います。

 しかし、これは結局の所、非常に具体的な政策の論議になるわけです。例えば、どのような漏洩を想定し、期間や、監視体制や、非常に複雑な法律の文言や、政令への反映の仕方など、かなり具体的、専門的な話にならざるをえませんでしょう。
 そういった、具体的、専門的な話を、代わりにやってもらうために選んだのが国会議員なのです。

 つまり、「不当な秘密保護を可能な限り減らす対策」は、政府(内閣、官僚)が、議会(国会議員)と議論して詰めていく領域であるわけです。
 また、「具体的政策論を、議会で議論する」と予め決まっているからこそ、『個人個人の勝手な主張』は排除でき、国家全体における議論の秩序が保たれうるーーというのが『代議制』なわけですから、そこに、何処の馬の骨だか分からないジャーナリズムなんぞが入り込む余地は、ほぼ無いといって過言ではないのです。


 勿論、そうやって政府と議会の議論において決定した法律でも、『不当な秘密』が設定される可能性はありますけれど、そりゃあ完璧なシステムなどこの世に存在しないのだし、今のように罰則規定がなくたって『不当な秘密』は設定される可能性はあります。
 つーか、政府と言うものを人間が構成している以上、どのような状況でも、『不当な秘密』は「まあ、幾ばくかはあるであろう」と考えるのが妥当です。勿論、それでもその『不当なるもの』を減らして行く意志は必要ですが、『不当なるもの』の根絶のために『必要なもの』を設定しなかったり、なくしたりするのは、本末転倒甚だしいというもの。


 例えば、現状、日本はアメリカの属国であるわけですけれども、「現状行われているアメリカによる内政干渉は、出来うる限り公表されていていなければならない」という切実な問題があります。
 有り体に言えば、少なくとも『年次改革要望書』のように、「アメリカの指令に従って内政、外交を行っている国家の状態」は、明瞭に晒されていなければならない、とおおよそ考えられます。
 何故なら、「内政を干渉されている事を意識しつつ属国をやる」のと、「内政の干渉を意識できないままに属国をやる」のでは、ここに大きな差があるからです。

 しかし、米軍の核兵器の持ち込みに例をみるがごとく、「漏らした者が罰則を受ける受けないの法律の有る無し」にかかわらず、秘密は秘密として設定されてしまうのが属国の属国たるが所以であるわけです……
 さらに、件の米軍の核兵器持ち込みなんてのは、おおよその大人は知っている『公然の秘密』でした。すると、「属国的立場を秘密として設定するということを、政府が政府の権威と建前を確保するために行う」だなんてことは、戦後の属国民は暗黙のうちに了解していたわけでしょう。もっとダイレクトに言えば、「屈従を、実のところ屈従と知りながらも、政府によって秘密にされていると嘯くことによって、無辜の民を装いつつ自分ら一人一人の生命の安全だけは確保してきた」わけです。

 そこまで、属国民の、属国民による、属国民の為の、属国を演じてきた、我らが誇り高き日本属国民が、あたかもそれまで立派に独立してきたかのごとく「政府が、アメリカへの屈服を秘密にする可能性がある」と騒ぎ立てるのも、ある面では「滑稽極まりない」と言わざるをえません。


 要は、「政府が、アメリカへの屈服を秘密にする」という話は、「国家機密漏洩に罰則を与える、与えない」という話の遙か以前の話である、と言いたいのです。

 少なくとも、ジョージワシントンの浮かぶ東京湾の制海権すらままならぬ苛烈に悲壮な現状を踏まえつつも、それでも少しでも「屈服を減らし、屈服についての秘密も減らしていく」という態度こそ必要である……と考えるのであれば、それは高度な政治的判断や政治的妥協が求められるわけです。

 そういった高度な政治的判断や政治的妥協においては、おおよそ大衆による世論の出る幕はないのです。
 あるとすれば、「我々は独立民でありたいので、その辺どうかよろしくお願い申しあげます」と、自分らが中央に送り出す代表(国会議員)に重ねて意志を示す……という道徳的かつ抽象的な領域についてまででしょう。




 さて、また、全然別方向から、「一色さんの尖閣ビデオ流出のように、憂国の徒によるリークについても、過酷な罰則が課されてしまうのは、忍びない」あるいは、「憂国の徒が、罰則に怯んでリークが行われなくなる可能性がある」という声も聞こえてきます。

 しかし、そもそも、どんなに正当と思われるようなリークであっても、「それは漏洩である時点で何割かは罪である」ということを認識しないリークなど、憂国的リークなどと呼べるはずもありません。
 つまり、「罪を背負い、罰を覚悟してのリーク」であることが憂国的リークの絶対条件であり、そこに罪も罰も引き受ける覚悟のないリークなど、内容的にはどんなに正当に見えるリークであっても愉快犯に過ぎないのです。
 また、そう考えなければ、憂国的リークと愉快犯の違いをどう区別するのだ、という問題が出てくるでしょう。




 この『特定秘密保護法案』の件に関して俺は、「アメリカに対して、『我々は国家機密の保護の法整備を整えていますよ』という所を示して、情報の共有と同盟の強化をお願いする」という色合いのある事は、気にくわなく思っております。

 ただ、実際の所、「アメリカの要請によっての、日本版NSCの設置と特定秘密保護法」なのか、「アメリカの要請にかこつけての、日本版NSCの設置と特定秘密保護法」なのかは、判断し難い所があるわけです。
 そういったイチ平民には判断し難いところにおいては、自分がいたずらにあれこれ申し立てる領域にはない……と俺は考えますし、おそらく政治や経済に関心など持たず、常識的に日々を暮らしている日本人の多くも、おおむねそんな風に感じているのだと思います。

 しかし、そういった国民のサイレントマジョリティ(声無き声)ではない、一部の声のデカい『ジャーナリズム』や『市民』などが執拗なる特定秘密保護法案に対する反抗をしているのが現状なわけです。
 あたかも『ジャーナリズム』や『市民』が国民を代表しているかのごとく、国民の『知る権利』とやらを請求しているわけですが、おおむね、それぞれの国民は『知る権利』など欲してはいません。普通の国民は、普通にそれぞれの産業で働いたり、家をやりくりしたり、そういう日々の関心事にしか興味はないし、それで良いんです。

 そうなると、ジャーナリズムや市民の言う、『知る権利』と『人民による統治』は、『ジャーナリズムや市民が知る権利』と『ジャーナリズムや市民による統治』の事でしかなく、それを勝手に『国民』と名乗り、詐称しいているに過ぎないのです。

 つーか、ジャーナリズムや市民などという、何処の馬の骨だか分からん奴らに「国民を代表する権限」を誰が与えたというのでしょうか。片腹痛いとは正にこのこと。



 俺が、ここで最も言っておきたいのは、「特定秘密保護法案そのものについて」というよりは、『知る権利』や『人民による統治』=『直接的な民主主義』などというのは空理空論であるという当たり前の話であります。

 何故なら、特定秘密保護法案自体はおそらく通るのに決まっているのに、何故こうも反発する輩がわくのかと言えば、この先の『知る権利』や『直接的な民主主義』における、社会的な地位を確保しようという意識があっての事なのだろう……ということは容易に察する事ができるからです。

 そうなると、『特定秘密保護法案』という具体的な法案に対しても、次のような本質論を展開する必要がでてきます。

 それは、

「人民の一人一人に、政治へ直接的、具体的に意見する権利はなく、それが故に政府における全ての情報を人民の一人一人に公開する必要もない」

 ということです。


 特定秘密保護法案の反対は、それそのものを阻止される危険性より、「『人民主権』には『知る権利』が必要」という理屈を補強されるという危険性があるのです。
 ですから、再確認として、『民主主義』という主義(イズム)への否定的な態度をこそ、この議論には求められるのだと考えます。



(了)


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構造改革へのアンチテーゼとしての国土強靱化 

 前回、国土強靱化は、実証主義への懐疑の下で『人間が想定できない危機の領域』を大きく見積もり、未来は不確実であるという前提に立ちながら、その『想定外の危機』対して、『国家全体』が存続していく事を目的とした話だーーという事を論じました。

 今日は、まず、そういった『想定外の危機』を想定し『国家全体』が存続していく事を目的とした話は、『市場の論理とは真逆の態度』を取らねば行えないーーという事に着目したいと思います。
 そして、市場の論理とは真逆の態度をとる強靱化は、構造改革へのアンチテーゼでもあるという事に繋げてみます。




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 前回最後に上げましたが、「人間では想定できない『危機』の領域に対して、国家全体が存続していけるようにする体制」というのは、たとえば次のような三つの観点に着目した体制になります。

1「危機に対して、国家の中枢部に致命傷を追わない」
2「危機に対して、どこかが潰れれば全部ダメになるといった可能性を排除するため、なるべく国土の中で力を分散する」
3「危機に対応できるよう、平常時の国土には無駄なもの、既にあるものを余分に作っておく」

 人間に想定できない『危機』に対して、国家が存続していくという事に考えを及ばせるのであればこれらは至極当たり前の議論であるかと思います。

 しかし、これら全ては、「市場の論理」とは真逆の論理である事に留意してもらいたいのです。



 市場の論理というのは、たとえば企業であれば『規模の経済』をとろうとします。つまり、「企業体の規模が大きければ大きいほど、仕入れ値は下がり、一人あたりの生産量は上がり、コストが下がるので、経常利益率も上がる」という話です。
 それぞれの企業体が規模の経済を取ろうとするのは全然間違ったことではないのですが……しかし、それを国家全体を見るときに適用するとおかしな話になってしまいます。

 市場の論理を国家全体に適用したおかしな話というのは、代表的な所でいけば、いわゆる小泉政権の『聖域なき構造改革』といった話です。

 構造改革という言葉は、元々バリバリの左翼用語なのですが、小泉政権の構造改革は、
「『官から民へ』『地方分権』といった小さな政府論で、社会全体を『市場の論理』をもって効率化させよう」という構造の改革の事でした。

 つまり、「市場に対する政府の介入」を減らせば、市場の論理をもって「企業や地方は、一極化していき、効率化する」ので、社会全体の力が強くなるはずだ……とこういった理念の下にあった政策だったわけです。


 こういった小泉構造改革への批判は、多くは「弱者への配慮不足」を元にされてきました。
 つまり、「自由放任では弱者が淘汰される。そんなん可哀想だから、けしからん」という具合に……

 しかし、そういったセンチメンタリズムによる批判は、単なる弱者の請求の代弁でしかありません。
 つまり、「弱者が淘汰されて可哀想」というだけでは、「弱者が淘汰されて、強者が強くなれば、国家が強くなる」ということ自体が勘違いである……という部分を指摘できないのです。

 というか、俺は、本当に「弱者が淘汰されて、強者が強くなれば、国家が強くなる」のであれば、イチ弱者として構造改革を支持しますよ。国家の為に、喜んで淘汰されましょう。

 ですが、俺はそうではないと思うから、構造改革を全否定します。

 つまり、「弱者が淘汰されて、強者が強くなっても、国家全体は強くなっていかない」と、こう考えるのです。


 少なくとも、構造改革的に、「地方や産業や企業が一極化していき、それぞれが効率性を上げる」というのは、国家全体から見れば『脆弱化』していると考えないわけにはいきません。

 と、いうのも、最初に示した『強靱な国家の体制』というのは、概して『分散』と『余剰』の確保でした。

 つまり、国家全体における『危機』に対して、『効率化』は脆弱性を助長するーーという観点を、是非とも持って欲しいと訴えたいのです。



 そこで、未来の不確実性の話に戻ってみると、次のような筋の関係が読みとけます。

 まず、「危機が確率的に予測できる」と考えた場合、「効率化」は無批判で目指されるべき指標となります。

 対して、「未来は不確実で、危機は予測できない」と考えた場合、「効率化」は必ずしも善ではないし、政府による無駄や非効率は肯定されるべきものになります。



 もう一つ逆に考えれば、「政府が口を出すのがムカつく」ので「市場の自由な領域を増やしたい」と思いたいのであれば、「未来は確率的に予測でき、危機は管理できる」という風に考えないわけにはいかないのだろうと、推測できるというもの。
 ですから、構造改革へ無批判な者は、コンピューターなどの情報技術の力を過信している輩が多いわけです。何故なら、「未来を確率的に予測する」のは、おおむねコンピューターの力を期待しての事だからです。
 地震などの災害についても、為替や株といった金融の動向についても、コンピューターのSFティックなパワーが「未来を確率的に予測」するのであれば、「危機に対して、国家が存続していく強靱性」など気にかける必要もなく、『効率化』について無批判でいられるわけです。

 しかし、俺からすると、そういった少年的なSFファンタジーを良い大人が信じ込んでいる様は、非常にグロテスクに見えます。
 パソコンをはじめとした科学技術に、そこまでの進歩的な可能性は秘められていない……という事くらい大人になれば分かってよいものでしょうに。何故なら、「科学技術を使うのは人間の社会」なんであって、「科学技術で人間の社会を調和させる」事は、永遠にできないはずだからです。



 強靱化の筋が、「未来が不確実である」ことから「過度な効率化は、国家全体としては脆弱である」と考えるものであると捉えるのであれば、『国土強靱化』の議論は、「構造改革のアンチテーゼ」と評して問題ないのだと思います。

 そして、現在、構造改革的な指向を持った輩が内閣周辺を跋扈しているようですけれども、それに対抗しうるアンチテーゼは、「弱者救済」の論理ではなく、「強靱化」の指向だと俺は思うのです。

 だって、『構造改革』というのは、「どんなに効率化しても、生き残って行ける」という『究極の平和ボケ』の理屈なのですから。弱い人が可哀想という前に、その酷く滑稽な態度をせせら笑ってみるべきなのだと思いますよ。

 さすれば、今必要なのは、『構造改革』ではなく『構造強靱化』であり、「国家全体を、危機に際しても存続していける体制の構築」であるという事に気づくはずです。
 そして、それは、当然『市場』ではできないことなので、「政府が政治的に計画し、指導し、強制する領域なのだ」という所まで、是非認めてもらいたい所です。



(了)


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国土強靱化と未来の不確実性 

 今回は、国土強靱化の議論の中で、俺が最も注目すべき点だと考えつつも、世間一般ではあまり着目されていないと思う点を述べたいと思います。

 それは、未来の不確実性の話です。
 つまり、「人間では想定不可能な『危機』という領域は、かなり大きく存在するのだろう」という前提に立つのが『国土強靱化』の最大かつ最重要な論点なのだと主張したいのです。

 これは、本当に大切な論点なのですよ!

 というか、この論点を抜いてしまったら、それは単なる『国土強化』であって、『国土強靱化』と呼べる代物ではなくなってしまいます。
 『国土強靱化』に『靱』の文字が入れられているのは、人間では想定不可能な『危機』に対して、『靱帯』のように伸縮の利く強さをイメージしているからだ……という所は、是非とも捉えておきたい点であります。




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 国土強靱化に対して、(ある程度政治に着目する人々であっても)一般的な国土強靱化のイメージは「防災、減災によって、国民の生命を守る事」なんだろうと思います。
 つまり、東日本大地震を受け、単に「地震などの災害に備えて、物理的に『生命の安全』を確保する話」と、そういう風に捉えている人がとても多い気がするのです。

 また、「我々の命の安全を確保する話」だからこそ「我々の税金を投入する意義が認められる」と、こう考えている人も結構いるのではないでしょうか。
 もっと言えば、「政府には、国民の生命を守る義務があり、国民には生命を守ってもらう権利がある」と勘違いしているのではないかと疑っているのです。


 こういった「命の安全」を政府に請求する態度は、「未来に起こる脅威の、人間が予測できる範囲」を、もの凄く大きく見積もってしまっているが故に起こるものです。
 何故なら、仮に、命を脅かす『脅威』のほとんどの内容が、人間にとって具体的に(確率的にであっても)算出できるものであれば、その『実証的な科学』に基づいて、政府は国民個々人の命を99%は保証できるということになりますでしょう。

 対して、未来を非常に不確実なものだと見て、人間が『実証主義的』に算出した範囲など、『脅威』のほんの一部である……と、見積もれば、そこで政府に求めることができる「個人の命の安全」も同時に少なくなります。なぜなら、政府を構成するのもまた、人間だからです。


 こういった、『脅威』に対する、想定外の『危機』の見積もりによって、政府へ請求できる『生命の安全』の多い少ないが変わってくる……という関係を、まず把握していただきたいのです。


 また、その関係を掌握するのは『実証主義』への態度にあることにも軽く触れておきましょう。
 実証主義というのは、現代で自然科学と呼ばれるものの基礎的な考えになっています。つまり、「繰り返し実験して、法則性を把握する」という主義です。

 しかし、この実証主義に強烈な批判を下したのがウィトゲンシュタインという人でした。
 めちゃくちゃ乱暴に説明すると、「沢山実験して法則を掴んだと思っても、それは単にそいつが法則立ててるだけで、別な法則立ては無限にありうるぜ」という話です。
 これは、「人間が見たりして判断する基準なんて、(人間の視点を越えた所も含めた)世界のほんの一部だという事を忘れてはならない」って話でもあります。


 この、ウィトゲンシュタイン的な『実証主義』への懐疑の態度が、『国土強靱化』の中に理念的に織り込まれているのだ……と解釈するべきなのだと、俺は考えます。

 実証主義を懐疑し、人間が確率的に予想しうる『脅威』は、(人間の視点を越えた所も含めた)世界のほんの一部で、確率的にも予測できない『危機』の領域は膨大なものであるが故に未来は不確実ーー
 この前提に立った上で、その予測できない『危機』に対し、どう待ちかまえるか、というのが国土強靱化の議論なのです。


 一昔前に東電の社長が「想定外も想定しておくべきでした」と謝罪させられた事がありました。
 勿論、いち民間会社に「想定外を想定」する責任などあろうはずもないので、これは、大量の大衆にミソっくそ叩かれつつも反論したらそこに理があろうがなかろうがまた大量の非難を浴びるが故に反論できる立場になかった東電の、かろうじて絞り出した皮肉に違いないのですが……


 まあ、それは良いとして、「想定外の想定」これは民間企業には出来ませんが、『政府』ならある程度できます。

 ただそれは、『個人個人の命』を最終目的と置いては不可能です。『確率的に予想できる脅威』であれば個人個人の命を目的にして守る事も可能でしょうが、今は『想定外の危機』の話をしているのです。

 それに対し、『政府』が『想定外の危機』を想定し『国家全体の存続可能性』を高める……という話であれば、「想定外の想定」も可能であるし、確かにこれは政府のやらねばならない仕事であると言えるでしょう。

 つまり、『想定外の危機』に対して、国家『全体』が存続する上で『強靱』になるという事を目的とした話なのです。

 そして、それには国家全体が
1「危機に対して、国家の中枢部に致命傷を追わない」
2「危機に対して、どこかが潰れれば全部ダメになるといった可能性を排除するため、なるべく国土の中で力を分散する」
3「危機に対応できるよう、平常時の国土には無駄なもの、既にあるものを作っておく」
 という、体制を持つ事が必要になってきます。

 そして、先ほど「民間企業には出来ないが政府にはある程度できる」と言ったのはこの体制の1から3全てが、『市場の論理』と逆方向の性質のものだからです。
 次回は、その辺りから論じてみたいと思います。



(了)


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国土強靱化と国家社会主義的傾向 

 今週は、数回に渡って『国土強靱化』について論じてみます。要点を申せば、「国土強靱化は、現状からの方向性として国家社会主義性を強める事を示唆するものである」と、こういう話です。

 勘違いして欲しくないのですが、俺は「国土強靱化が、現状からの方向性として国家社会主義性を強める事を示唆するものであるからイカン」と言いたいのではなく、「だからこそ良い」と言いたいのです。


 尚、これは、国土強靱化の提唱者である藤井聡京都大学大学院教授が内閣官房参与としておっしゃっている事そのものではなく、あくまで俺が国土強靱化というものの議論を咀嚼し、己の論理筋立ての内で捉えたものであることも強調しておく必要があります。
(つまり、俺がここで申すことをもって、藤井教授や与党内の強靱化推進派の先生方の仰る『国土強靱化』そのものを攻撃するのは、お門違いである……と釘を刺しているのです。)




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 さて、まずは俺が国土強靱化を「現状からの方向性として国家社会主義性を強める事を示唆するものである」と捉え、それに賛同する感覚的な理由を申し上げたいと思います。

 それは、現状が「国家社会主義的傾向の『逆向き』へ極端に行きすぎている」=「個人主義、自由主義、民主主義、資本主義へと偏り過ぎている」から、方向性として逆へ舵を切るべきだ……と考えるからです。
 その原因の見解を非常に大ざっぱに言えば、大東亜戦争の敗戦によって「民主主義、個人主義」へ、冷戦の終結によって「自由主義、資本主義」へ、(時間と共に)極端に世の中が流れていったような印象を持っているのです。そういう歴史観を、俺は持っているのです。

 まあ、単純に言えば、「バランスをとれ」と主張しているのですよ。

 その、過剰なる「個人主義、自由主義、民主主義、資本主義」の傾向から、「国家主義、全体主義、社会主義」の傾向へ向かっていく議論としての『国土強靱化』というように、俺は捉えたいのです。


 また、何故そのように捉えたいのかと言えば、そもそも「(原因からの時間の経過と共に)個人主義、自由主義、民主主義、資本主義へと偏り過ぎてしまった」のは、多くの人がこれらを「人間の『進歩』の向かう先」として無意識に普遍的なものとして設定してしまっているためーーであると考えるからです。

 そのような『進歩主義』は、「人間の知性への過大評価」と「反権力、反政府」の二つが、負の相乗効果を発揮して佇むものです。つまり、「人間が、人間の進歩の向かう先を解明しうる」と考えれば考えるほどに、「権力や政府から権限を奪い取る事」ができるし、「権力や政府から権限を奪い取りたい」のであれば「人間が、人間の進歩の向かう先を解明しうる」と考えないわけにはいかなくなる……と、いったような。


 俺は、そういった「人間の『進歩』の向かう先」は、人間になんぞ絶対に解明できないと考えるし、ましてや「個人主義、自由主義、民主主義、資本主義」がそれに該当するだなんて、1ミクロも思えないのです。

 そして、一応保守派を自負しているものとしては、こうした『進歩主義』を否定し、また、現在多くの人が『進歩』と考える諸々の『主義』を否定する態度をとらないわけにはいきません。

 だって、人間の『進歩』の向かう先を、人間は解明できない……と、保守的に考えれば、現在『進歩』と考えられて進んでいる方向は、「実は、ある一定方向への偏りに過ぎない」と考えないわけにはいかないでしょう?
 というか、社会がある一定方向へ偏るというのは、「よーし、こちら側に偏ろう!」と意気込んで偏るわけではなくて、「こちら側が『進歩』の向かう先だ!」と大勢が勘違いしているから偏るわけです。
 乱暴に言えば、それに「待った」をかけ、現状で偏ったモノと逆の立場をとるのが『保守』という態度なのだと、俺は思っているのです。



 国土強靱化は、単なる「防災、減災の公共事業」とか「乗数効果を狙った経済政策」などと技術的に捉えてしまえば、それまでになってしまいます。
 ですが、全体の筋として、「今の世の諸々の『主義』の偏り」に対して反目する筋立て……つまり、「国家社会主義的な筋立て」として捉えれば、国土強靱化の『強靱』の意味が本質性を帯びてくる……と、少なくとも俺は考えています。


(了)



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さらば、反・権力 

 今日は論理というより、少し感情的な事を。

 俺がこの世で本当に気にくわないのは、いたずらに政府や、政治家や、官僚や、既得権益を『権力』と設定して、それに対して文句を喚き散らす輩です。

 つまり、『個人の思考、理屈』による『反権力』というものが、俺は大嫌いなのです。



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 俺は、感情的に、『反権力』が嫌いです。

 その理由は沢山ありますけれど、まず、「反権力を述べたてるのは至極簡単だから」というものがあります。
 中でも、「政府に対する批判」なんて、本当に簡単です。なんだってやれますし、とにかく請求していればいいのですから。


 たとえば、ある人が政治や経済に関して、文章を書いたり、議論やスピーチをする事となったとしましょう。やったことのある人は分かってくれるとは思いますけれど、これは結構難しいんですよ?
 ただ、こういった際、最も簡単な筋立てはこうです。

1、何か社会問題を取り上げる。
2、これに対する解決方法を提示する。
3、政府に対してそれを請求して、その不備を糾弾する。

 これで一丁あがりです。(順序は不同でも可能)
 これなら、多分高校生でも出来ます。

 こういう論法は、「国家の全体を統治する政府に対して、一側面の観点に立って請求している」のだから、本当はガキが親におねだりしているのと変わらないワケですけれど、一見賢そうに見えるものです。
 その上、こんな論じ方は至極簡単ですから、やれる奴はやれるし、「賢いね、賢いね」と周りがチヤホヤしてくれます。人間、そうやってお手軽にチヤホヤされたら嬉しくなっちゃうものです。

 ただ、そうすると、そいつが何事か論じている際の本当の動機は、「チヤホヤされたいから」ってことになるでしょう?
 勿論、そういう風には自分でだって思うワケにはいかないでしょうから、「人権のため」とか「国のため」とか、色々自分の中に言い訳をこさえるわけです。


 まあ、そこまで行かなくとも、結論やよく分からない所に「政府批判」や「権力批判」を添えれば、何か書けたような気分になる……という所は、間違いなくあると思います。
 そういう風に、誤魔化しに『反権力』を述べ立てる態度が、まずをもって俺は気にくわなくって仕方がないのです。しかも、おそらくそれは、無意識にやられている誤魔化しであるから、余計に厄介なわけですよ。



 現状にこれを当てはめて考えると、たとえば、安倍政権が樹立された時、「自民党ではなく、安倍晋三を支持する」という風に述べ立ててきた『保守っぽい』連中は、実は「自民党や官僚」を「権力」と設定して「反」を述べていたわけです。

 よく考えてみれば分かりますけれど、ただ単に「安倍晋三を支持する」とやると、これはとても難しい。
 しかし、そこに『権力(悪者)』を設定して、相対的にそれを『打ち破る者』として支持するならば、簡単に論理になります。

 さらにそういった簡単な論理は、簡単であるが故に大量の個人に受け入れられる理屈になるわけです。
 何故なら、「権力の中にどこか悪い奴がいて、そいつらを懲らしめれば、世の中がよろしくなるはずだ」というストーリーほど分かりやすく、多くの小市民に受け入れられる理屈はないからです。

 つまり、それは、「難しい世の中を何とか解きほぐして論じる」という面倒な作業を放棄して、「難しい世の中を権力(悪者)を設定する事で単純化する」というお手軽にチヤホヤされる論理に走る態度であるワケですから、言論における『酷い怠慢』と評さざるをえないのです。


 それに、そういう「少数の強者を、大量の小市民が寄り集まってイジメる」という薄っぺらな反権力の指向で形成された『大量の数』は、確実に、あっちに行ったりこっちに行ったりと、右往左往を繰り返すに決まっているのです。

 たとえば、もし、「安倍晋三」も「権力(悪者)」の一部だという風潮が出来れば、そういう方向に流されるに決まってます。
 何故なら、元々、大量な数が、単純かつ薄っぺらな反権力によって行動していたのであるなら、それはその時々、個々人の感覚で「彼は権力(悪者)かどうか」を好みによって判断していたに過ぎないワケですよ。



 要は、「安倍首相は、戦後レジームを打ち破る為に、権力(自民党や官僚)と戦う愛国の徒である」と考える輩と、「安倍首相も、新自由主義で民を虐げる権力(悪者)の一部である」と考える輩も、結局同じ穴のムジナであると糾弾したいのです。

 だって、どちらにせよ、「権力(悪者)を設定して、それを叩く」という論法は一緒なのです。

 そうした論法は、まず「道義的にいかがなものか」と思います。
 しかし、もっと言わせてもらえば、それは「難しい事を、何とか解きほぐす」という事に耐えきれず、「難しい事を、反権力の単純なストーリーにのせる」という風に、より楽ちんな方に流されているだけだ……と、俺には感じられるのです。

 さらに、たとえばもし、そういった反権力の指向で新自由主義が淘汰されていったとしても、それがごく単純なストーリーに乗った多数の熱量であるなら、確実にろくな事にはならないだろう……という警鐘も鳴らしておきたいと思います。



(了)


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消費増税を受けて増えた反・安倍について 

 今回は先月の頭の、消費増税の時期決定を受けて、反・安倍へと転じた種類の人々を糾弾する内容です。

消費増税の時期決定を機に反・安倍になった人には無理にと頼みません。しかし、それ以前から反・安倍だった人や、今も反・安倍ではない人は、ランキングにご協力ください。
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 まず、ひとつ。
 もし、俺に「個人の政策的判断に基づいて、内閣へ不支持を叫ぶ権利」があるのだとしたら、安倍政権に対してはTPPの交渉参加表明演説の時点で不支持です。

 しかし、(世の中の大勢の人が何か勘違いしているようですけれど)そもそも『イチ平民』に内閣を支持したり、不支持したりする権利などありません。何故なら、一介の平民の個々人には、その資格も、能力も、大儀もないからです。(これは前にも言った覚えがあります)

 ですから、俺は、いくら自分が「間違っている」と思った政策を内閣が取ろうとも、首相がいくら気に喰わない台詞をおっしゃろうとも、政府や政権に対しては「反」を唱える事はしません。

 何故なら、イチ平民である俺に、そんな権利は無いからです。

 ましてや、自民党や高級官僚を含めた既存の政治権力機構への「反」など、もっての他だと思います。



 また、昨今の「反・安倍」へ転じた一部の機運の中で、俺がすごく気にくわないのは、「TPP交渉参加」の時よりも、「消費増税の時期決定」の時の方が、「反・安倍」に転じた者の数が多そうだというところにあります。

 何故なら、「消費増税の時期決定」を受けて、反・安倍に転じた人は、少なくとも「自分に内閣へ反を唱える権利がある」と勘違いしているのです。そうやって勘違いしているのであれば、何故TPP交渉参加表明の時には反・安倍に転じなかったのか?
 答えは簡単で、そいつらにとっては「TPP交渉参加」は許せても「消費増税の時期決定」は許せなかったから……って事でしょう?


 この時点で、最近、「反・安倍」へ転じた輩の反・安倍は特に信用ならない……と、少なくとも俺には感じられるのです。
 何故なら、愛国などとのたまいつつ、「TPPよりも消費増税の順序が上」って事は、それは「国家全体の保守を目的とした愛国」というよりは、「自分を含めた個々人の便益の為の愛国」であるとしか考えようがないからです。

 「自分を含めた個々人の便益の為の愛国」をかざした都合の良い愛国ほど、信用ならんものはないと俺は思うのですよ。



(了)



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上念司という評論家について 

 今回は人物評です。それも、批判的な人物評です。
 とは言え、有名な人への名指しでの批判は結構躊躇われるものですね。

 もちろん政治家や政府官僚の言うことについては「社会的な建前が多く含まれているはずだ」という理解をもつべきであるから、「政治家や官僚を安易に批判しない」というスタンスは守り通していきたいと考えています。

 しかし、学者、評論家、コメンテーターといった言論の分野の者達は、「国家において大儀のある立場」を背負っているわけでもありません。ですから、そのぶん「言論の自由」を享受している彼らについては、それなりの厳しい態度をとって罰は当たらんだろう、と思うわけです。
 特に、政治家でもない彼らが、単にチヤホヤされたいという心持で大衆に迎合した場合は、これを徹底的に糾弾し、批判し、非難しなければならないのだと考えます。


 というわけで、今回は俺が大嫌いな評論家の一人について論評していきます。

 上念司(じょうねん つかさ)という評論家についてです。




今回は、上念氏のファンの方には無理に頼みません……が、特にそういうわけでもないという方は、ランキングにご協力ください。
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 さて、そうは言うものの、俺は上念氏の言うことの一つ一つすべてに批判的であるというわけではありません。
 例えば、「反原発に対しての批判」とか、「国債がデフォルトするという嘘話に対する批判」などの立場については、俺とて同じ考えです。

 しかし、これら一つ一つの事実認識の前に、上念氏が「経済における、政治の目的」としておいているであろう根本的な立場に、俺は賛同するわけにいかないのです。



 上念氏といえば、「金融の量的緩和」です。つまり、「日銀が円をじゃんじゃん刷って、銀行の貸し出せる円を増やす」ことによってデフレを脱却することを強く主張する立場をとっているのです。
 氏にとって、この「金融緩和」は譲れない主張であることは明白でしょう。さらに、消費税の反対で不誠実な態度をとり続けたことによって世の中からの信を失った倉山満氏の経済論の、理論的支柱が上念氏の金融緩和論であることも明々白々です。(ですから、倉山氏が信を失った中で、上念氏が飄々と世の議論に参加していることが不思議でならなかったりします)


 ただ、この「金融緩和への譲れない想い」をもって、上念氏を「単なるリフレ派」と糾弾してしまうと、氏の論法に取り込まれてしまいます。

 一般的に、リフレ的傾向を持った者は、おおよそ財政出動には消極的な場合が多いわけですが、上念氏は必ずしも「財政出動」を否定しないのです。
 例えば、議論の場に三橋貴明氏がいらっしゃる場合は、「金融緩和して刷った円を、政府が借りればよい」というようにずいぶんと財政出動の立場に寄っていったりします。
 しかし、その場に、財政出動に思い入れのある論者がいない場合は、主に金融緩和について「のみ」語るわけです。

 つまり、「財政出動にさえ賛同しておけば、金融緩和に賛同してくれそうな者」の前では、微妙に財政出動に肯定的になり、そうでない場合は否定も肯定もしないのです。さらに、「金融緩和に強い思い入れがあり、財政出動を嫌うもの」の前では、当然微妙に財政出動に否定的になります。
 勿論、人間ですから、「その場にいる人間の論調に対し、ある程度歩調を合わせる」ということは誰でもやることでしょう。
 また、本心が「実は財政出動に対して否定的」なのであれば、それはそれで良いとも思います。それならば、きっと状況に応じて議論になっていくでしょうから。


 しかし、ここで問題視したいのは、上念氏が「財政出動に対する立場」について、「否定も肯定」もない――つまり、「どっちでも良いと考えているらしい」というところであります。
 氏にとっての注目点は、「金融緩和によって、市場に投じられる円の量が増えること」であって、増えた『銀行が貸し出せる円』が、「政府によって使われよう」と、「民間にて土地や証券へ回ろう」と「ドル圏への投資へ向かおう」と、どれでもよいと考えているところが、非常に問題であると考えるわけです。

 これによって、まず、上念氏の「政府の支出についての拘りのなさ」や、「政府の役割についての思い入れのなさ」が伺えます。
 次に、「民間にて土地や証券へ回る」ということについての批判のなさは、「実体経済」への思い入れのなさと「資産価格先行」への無批判が故としか考えられません。
 さらに、「ドル圏への投資へ向かう」ということへの無批判は、「円安の礼賛」と「グローバル化への無批判」および、「アメリカからの独立についての密かな想いの欠如」が故としか考えられません。


 とりあえず、俺としては、「資産価格先行」はある程度仕方ないにしても、「円安の礼賛」と「グローバル化への無批判」および「アメリカからの独立についての密かな想いの欠如」は、到底理解しがたい指向です。これが総理大臣や外務官僚に対してであれば、「現状、東京湾すら軍事的に抑えられているし、チャイナの脅威もあるのだから仕方ない面もある」と理解する寛容精神も幾ばくか発揮しようと思えますが、氏は何の公的立場もない評論家ですからね。


 さらに、「政府の支出についての拘りのなさ」や、「政府の役割についての思い入れのなさ」は、逆に言えば「市場の一人一人が享受する便益の最大化に対する思い入れの強さ」と言い表すこともできます。
 つまり、上念氏の根底にあるのは、「『経済における自由』への無批判」及び「個人個人の便益の最大化が、イコール国家の利益であるという指向」であると糾弾したいわけです。


 上念氏は、おおむねそういう根底から筋が伸びているから、消費税には激烈に猛反発する一方で、TPPと規制緩和には批判的ではなく、小泉内閣についてずいぶんと肯定的なわけです。
 つまり、「政府が個人に対して不自由を敷く話」に関しては否定的で、「個人が自由になっていく話」については肯定的なのです。
 そうなると、上念氏がいくら「リフレ+財政出動」の立場をとっていようとも、大元にはいわゆる『新自由主義』の最もマズイ点がしっかりと根を張っている……と、評さざるをえません。




 勿論、もともと「経済における自由と、個人個人の便益の最大化」を「経済における、政治の目的」とする心根のある者からすれば、それは「良い事」なんであって、俺の記事のほうが「理解しがたい指向」なんでありましょう。

 ただ、俺は、「経済における、政治の最終目的」とは「国力の増強と、独立性の堅持」であると考えます。
 さらに、「個人個人の自由と便益は、必ずしも国力の増強と独立性の堅持に整合するわけではない」と考えるが故に、上念氏の論調に賛同することは永遠にできないわけです。




 しかし、それにしても(世の中には、もっと酷い論じ方している輩だって沢山いる中で)「自分が何故、こうも上念氏の論調が嫌いなのか」と考えた時、もう一つのことが分かりました。
 それは、上念氏の論調が、「政府に恭順したくないけれど好景気は享受したい、と要望しながら、自分を卑しい者と思わずに済む理屈」を個人個人に与えることによって、大量の個人に迎合する論調であるから……です。

 そもそも俺は、そうした指向を持つ『大量の個人の塊(大衆)』が嫌いで嫌いでたまらないので、それに迎合する姿勢も嫌いで当然なのでしょう。



(了)



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愛国心について! 

 今回は、愛国心について、俺なりに整理して書いてみました。




今回は、愛国心についての記事ですから、「我こそは愛国の徒である!」という愛国者から、「普段から愛国、愛国騒ぐのは好きじゃない」といったツンデレ的愛国者にいたるまで、遠慮なくランキングにご協力ください。
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 俺たちの世代……と、いってもいろいろいますけど、たいていは「愛国か、反日か」などという意識に関わりのないところで育っています。
 現代では、「個人個人の『安全(命)と便益』を担保する、便宜的な組織」これが『国家』であると捉えられているし、その前提の下で俺は育ち、今の子供も育っています。
 その世界観には「愛国」も「反日」もなく、ただ「個人」と「地球」と「人類」があるだけ。それが、好意だろうが反発だろうが、『国家』というものに「こだわり」のあることそのものが、おおよそ異質で、おどろおどろしいものである……という感覚です。


 こうした「個人」「地球」「人類」といった世界観の中で、『価値』や『善』を思考するのは、極めて困難です。
 確かに人間は、「個人の欲望を満たす」という命題を追っているうちは『価値』をそれに置くことができます。例えば、労働、創造意欲、知的興奮、性的興奮、恋、スポーツ、趣味などに、強烈なこだわり、思い入れがあれば、その個人の『価値』はそこへ集約していくし、価値は個人的な善の基準を形づくります。
 そこでは、たとえ「個人」「地球」「人類」といった寂しく悲しい世界観の下にあろうと、そんなことは端論でしょう。何故なら、欲望が価値を、価値が善を形づくるのであれば、その個人の主な世界は、実のところ「強烈にこだわる欲望」の方にあるわけです。すると、この個人には、個人として別な世界観を持つことができます。
 勿論、その価値や善の基準は、酷く限定された、共有する範囲の狭い価値や基準です。それでも、「人それぞれが、自分自身の考え方に従って生きるべきだ」といった相対主義的な見地から見れば、それでも良いと言うこともできます。
 もし、個人のそれぞれが、その欲望に対し「強烈にこだわり続ける事」ができるのであれば……


 しかし、ほとんどの人間は、なんらかの「個人的な欲望」について「強烈にこだわり続ける」などという事はできないものなのです。
 そして、こうした『個人』が「強烈な欲望」を持てなかったり、失ったりした場合に残るのは、価値や善の無い「個人」「地球」「人類」という寂しく悲しい空っぽな世界観だけでしょう。


 すると、人は概ね、「誰かのため」「何かのため」ということを想わずにいられないわけです。
 それが、家族や友人、恋人などなどの「思い入れのある他者」である事はよくあることですね。

 でも、さらにもうひとつ考えると、もし俺が「誰かのため」に生きるとしたら、「その誰かは、何のために生きるのか」という問いが出てきます。
 きっと、その「誰か」は、また「誰かのため」に生きるんでしょう。そのまた誰かも誰かのために生きて……という連なりの上でしか、人間は生きていけないんだと思います。

 そういった「誰かのために生きる」という横軸の繋がりと時間的な積み重ねが、様々なレベルの集団を歴史的に形作っているのだとすれば、やはり「人間は帰属レベルに応じて集団のために生きているのだろう」と、結論付けないわけにはいかないわけです。
 その、帰属集団の最終レベルが『国家』なんであって、そうなると、「自分がその国家に帰属している」という強制された運命に対して、何らかの「意地」や「こだわり」があって然るべきだし、それこそが人間らしさというもんだと考えるのです。



 ……なんだか、いい話風に論じていますが、その「自分の帰属集団へのこだわり」というのは何も「愛」だけとは限りません。「憎しみ」だって意地やこだわりです。
 つまり、国家に対する感情というのは、『愛』と『反発』があって当然だということです。

 これを認めないで「人と人との繋がり」を『愛』だけで捉えてしまうと、「国境を越えた繋がりも、愛で何とかなる」といった理屈に繋がってしまいかねません。



 そもそも俺は、「自分には愛国心があります」などと声高に表明する台詞を聞いても、全然信用することができません。
 だって、自分が生まれながらに強制された、帰属集団に対して、「愛おしさ」だけ感じて生きている野郎など存在するはずないじゃないですか。絶対に、「半分は憎ったらしくてしかたない」と感じているに決まっているのです。

 例えば、「僕の尊敬する人は、父です」というような台詞は社会的な台詞であって、誰もそれが本心を正鵠に射た台詞であるなどとは思わないでしょう。そいつだって、絶対に、父親に対して反発や憎しみも持っているはずなんですから。だけど、もう一方で、「親なんてどうでもいい」だなんて偽悪も、到底信じられるものではありませんね。そこには絶対に、親に対する愛着のようなものがあるはずですから。


 国家についても、『国』という、個人の意志で選択したわけではない、生まれながら強制的に属している集団に対して、「どうしようもない愛着」と「どうしようもない反発」があるに決まっているのです。
 俺は、この「国家に対する愛着と反発」の事を、まとめて『愛国心』と呼ぶべきなのではないか、と思っています。



 さらに、果たして我々は、こういった「愛着と反発」を、日本の国境を越えた所のエリアに、感じる事はできるか……と考えてみます。
 すると、他国や数カ国の陣営、或いは地球といったモノに対し、「愛着と反発」を同時に抱いている奴など、ほとんど世の中に存在しない事が分かります。
 特定の国々が好き、とか、特定の国々が嫌い……といった話しはあるのでしょうが、そこに「愛着と反発」が同時に含まれることはないでしょう。

 これが、我々にとっての最終帰属集団が『国家』である、ということの紛れもない証拠です。
 また、この排外的な先入見をこそ『国境』と呼ぶべきものなのだと、俺は考えます。



(了)



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さらば啓蒙~知識と知能の限界 

 エラそうな事を言うようですが、世の中には本当にワケ知り顔で政治や経済を語る連中が多いように思えます。勿論、俺を含めて。

 しかし、識者、学者、専門家、物書き、運動家、市民……といった、政治やら経済やら時事を語る者達は、「おおよそ何も分かっていない」と評して差し支えないのです。
 何故なら彼らの個人個人は、結局は人間ですから、人間の身体的(脳の容量的や、言語、五感)な能力以上に、現実を捉えるということは出来ないからです。
 そうした人間の個人個人の能力に比較して、国家や社会は、膨大かつ複雑です。
 よって、どんなに知識を積み重ね、思考を繰り返しても、国家、社会の膨大さや複雑さに比較すると、全ての人間は「ほとんど何も分かっていない」と評して相違ない……ということになるのです。




今回は結構生意気な事を言っている気がしますが、どうかお許しいただいて、ランキングにご協力ください。
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 繰り返しますが、その「分かっていない奴ら」には、俺も含まれます。
 正直、俺は政治や経済について興味のある方だと思いますが、勉強や思索をやればやるほど「分からない事、知らない事」の多さを前に途方に暮れそうになります。

 ただ、俺は、「分からない事、知らない事」が、「この世に甚大にある」ことを知っています。さらに言えば、世の中の読むべき本、知るべきモノの量は、人間個人の寿命で到底網羅できるものではない事も分かっています。

 ですから、
「国民の一人一人の政策知性を上げ、一人一人が具体的に正しい政策的世論を叫ぶようにすれば、正しい政治によって国家が救われる」
 というような『百科全書派』的な『啓蒙』の筋立ては、空理空論甚だしいとも考えるわけです。



 対して、おおむねの識者、インテリや、少々知識をかじった小市民達は、「自分が知っている学問の範囲内だけで、国家、社会の全体を把握しうる」というように勘違いしているように思えてなりません。
 そして、自分が「国家、社会の全体を把握できている」と勘違いしている輩は、おおむね上で示した『百科全書派』的な筋で世の多数を『啓蒙』しようとするはずです。
 つまり、「国民の一人一人の政策知性を上げ、一人一人が具体的に正しい政策的世論を叫ぶようにすれば、正しい政治によって国家が救われる」と、このように考える傾向があると、糾弾しているのです。
 しかし、こういう筋での『正しい政策的世論』というのは、実は「そいつにとっての正しい主張」でしかないわけです。

 そもそも、『正しい政策的世論』なるもので政治を動かそうという話は、「政府の政策と自分の主張が一致しない奴」が叫ぶ話であります。だって、もし、そいつが正しいと思う主張が政府の政策と合致しているのであれば、「世論をもって政治を正そう」などとは思わないでしょう?
 つまり、「自分の主張が正しいのに、政治家がバカで、これを選択しない」から、「自分の正しい主張を、世論の大多数に理解してもらい、それによって政治を動かそう」という風に考えるのですね。


 しかし、世の中の「世論をもって政治を正そう」と考える奴らそれぞれにとっての「正しい主張」は、立場によって全然ちがうワケでしょう。
 だったら、その幾つもある「正しい主張」とやらのうち、どれが本当に正しいのかを判断するのは誰なんでしょうか。

 勿論、それぞれは、「自分の主張こそが正しい」と、それぞれ思っているわけです。
 よって、そいつらの言う「世論の多数が理解すべき、正しい政策論」とは、どこまで行っても各々にとっての「自分の主張」の事である……としか、言えないのであります。



 こういった、いわゆる百科全書派的態度というのは、実をいうとある条件が必要になります。
 それは、
「ある一定の知識を身につければ、おおよそ全ての人間が統一的な見解を示すほど、明瞭となる事」
 という条件です。

 しかし、政治や経済……国家や社会は、膨大かつ複雑で、到底「多くの人が統一的見解を出せる程に明瞭となる」だなんて話はありえません。
 それは、個人個人がいくら勉強し、研鑽を積んだとしても絶対に不可能です。


 まとめると、
「全ての個人個人が猛勉強をしたとしても、全体として明瞭な解答を具体的に統一させる事など、絶対に不可能である」
 ということです。

 そして、このことからも、「個人個人の思考」は「明瞭な解答」など算出しえていないことが裏付けられます。
 何故なら、もし、「個人の思考」が「明瞭な解答」を算出しえるのであれば、「全ての個人個人が猛勉強」すると、全体で解答が具体的に統一されるはずだからです。


 すると、「世の中で、政治、経済を語る輩」についても同じように、本当の所は何も分かっていない」という事も裏付けられます。
 何故なら、一応猛勉強を経て来た彼らが、何かしら「分かっている」のであれば、それらの意見なりなんなりは「正しい一つの解答へ統一されていっている」はずなんです。
 でも、統一どころか、世の言論は本当にバラバラで、秩序らしい秩序も何もあったものではありませんでしょう?



 本当に、人間の個人個人が知識や知能によって、正しい政策論なるものを算出できるのであれば、少なくとも知識を持った人達の答えは一つに集約されるはずなんです。だって、「正しい」ならば、それは一つだけのはずでしょう。

 知識を持つ者……達の解答が「一つに集約していかない」時点で、解答は明瞭ではないことが知れ、また、この明瞭でない解答の中から正解を選び取る能力は、いかなる人間の個人にもありません。


 しかし、現実では、国家において全体がひと纏まりとなって、中央政府がある一定方向の政策を打ち出さねばなりませんね。
 すると、中央政府が政策をこなすには、足りない『能力』を、『権威』と『大儀』で補わねばならないことになりますね。

 つまり、
「それが正しいかどうかは分からないが、中央政府の下、国家全体の決定として出されたものには、個々人は逆らわない」
 という大前提があってこその、『中央政府』であり『国家』だという事です。



 そうなると、逆に「人間の個々人が勉強して、明瞭にしえる範囲」を多く見積もれば見積もる程、個人はより多くの「反」を政府へ唱える事ができることになります。
 だから、「自分は分かっている、知識、知恵がある」という気持ちの強い者ほど、反政府的なんですね。


 対して、俺は、「人間の個々人が勉強して、明瞭にしえる範囲」は極めて少ないと考えますので、中央政府の『権威』と『大儀』をより重んじる事にしています。



(了)



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成金の請求と、小市民の請求 

 俺は、いわゆる新自由主義的な経済の態度が大嫌いです。

 しかし同時に俺は、単なる「個々人の為の請求による反・新自由主義」も大嫌いなのです。
 つまり、個人個人の多くが、「自分の所にも今より多い益が回って来るように請求する態度」のことです。

 こういった態度を見るにつけても、新自由主義を見る以上に虫唾の走る思いがします。
 何故なら、「強者が、弱者を足手纏いとして扱う」のと「弱者が、強者の取り分を請求する」のとでは、ほとんど同じように醜いからです。
 肥えた豚の油汁と、アスファルトの熱に干からびたミミズと、どちらが醜いかと問われれば、五十歩百歩と答える以外にないでしょう?
 とどのつまりそれは、「成金の請求」か、「小市民の請求」かの違いであって、そんな議論に取り込まれてはならない、と言いたいのです。



とは言え、これは新自由主義への批判の文脈ですから、とりあえず新自由主義が嫌いだ……という方はランキングにご協力ください。
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 さて、情緒的に罵るだけではなく、「個人個人が、自分の所にも今より多い益が回って来るように請求する態度による反・新自由主義」の何がマズいかを論じていきましょう。

 一言で言ってしまえば、それは「新自由主義」というものを批判し切れていないが故に同じ穴のムジナとなってしまうからです。
 だって、それは何しろ「単なる個人個人の請求」或いは「その請求に迎合した論」なのですから。

 これは例えば、単に「個人と個人の所得格差を狭める」とか「個人がクビにされない安定性を求める」とかという、かなり具体的な請求へのみ、局所的に焦点が当たってしまうという弊害が起こるわけです。


 誤解して欲しくないのですが、俺は「所得格差を狭める」ことや「クビにされない安定性」は、社会的に重要なことであると考えています。
 しかし、そこへ至る道筋、新自由主義への批判としてもっとも重大な観点が抜け落ちていては、単なる「自分にとって都合の良い請求」の域を出ません。




 その重大な観点とは、
「人間関係のシガラミ、偏見、既得権益」
 による『不自由』が、経済活動を時間的に実体あるものにせしめている、という観点です。

 つまり、新自由主義の大問題は、「人間関係のシガラミ、偏見、既得権益」を『排除』したり『破壊』して、個々人の自由の経済活動に結果を委ねることが、個性を尊重した進歩的な世界である……などといった小便臭いSF物語を前提としている点なのです。

 こういった態度を含めた『新自由主義』への批判を持つのであれば、本当に重要なのは「不自由を保守すること」であると考える事ができます。
 つまり、「不自由を破壊し、個人を解放する事」を善しとする新自由主義のアンチテーゼとして、「不自由を保守し、『個人』を社会的に束縛された状態に留める事」を重要視する態度。こういった『反・新自由主義』でなくてはならない、という事です。

 そして、その「個人を社会的に束縛する不自由」というのが、家族、会社、産業、学校、地域、国家……に至るまでの組織における、「人間関係のシガラミ、偏見、既得権益」であります。

 さらに、そういった不自由を敷く事のできるのは、『個人の思考』なんぞではなく、「家族、会社、産業、学校、地域、国家といった組織における、『共通感覚』(=常識)」以外にはありえません。
 また、『共通感覚』というのは、人間の個々人が自由にバラバラに存在していては成り立ちませんね。家族、会社、産業、学校、地域、国家といった組織があって、はじめて『共通感覚』のようなものが存在しえるわけですから。

 つまり、『組織』は『共通感覚』なしで存在しえないし、『共通感覚』は『組織』なしには存在しえないということになります。
 その相互依存関係を成り立たせているのは、「時間の中で『組織』と『共通感覚』が、ある程度『硬直的』である」という大前提があってのこそなわけでしょう。

 そういった『硬直性』を担保するのが『政治』であって、もっとも強くそれを成せるのが、『中央政府』なわけです。


 よって、
「個々人が様々な社会的不自由に拘束され続ける状態を、『中央政府』が直接的、間接的に強制し、維持する……」
 この重要性を指摘する意味での『新自由主義への批判』こそが重要だーーと、こう言いたいのです。




 対して、こうした事を抜きにして、単に「自分にとって都合の良い請求」を、「弱い人が可哀相だから」とか、思ってもない綺麗事を小鳥のようにピーチクパーチク囀る小市民が大量に発生すると、非常に単純化、画一化された新自由主義批判になりかねません。

 その画一化は、単に「個人と個人の所得格差を狭める」とか「個人がクビにされない安定性を求める」とかという事のみを、声高に、怒りを込めて政府へ請求する方向の画一化であります。
 そうした、怒りの請求の姿勢の中で、「人間関係のシガラミ、偏見、既得権益」による『不自由』の重要性など充分に顧みられるはずもありません。

 というより、「一方で平等を唱えつつ、自由の方には大した批判を加えない」といった、甚だ都合の良い大衆根性で満ち溢れるに決まっている……というか、半ばそうなっているようにも思われます。

 だって、新自由主義への批判は、特にネット上ではよく見られはするけれど、「中央行政体制の強化」とか「議員定数の増加」とか「産業構造の維持」とか「将来的な、さらなる増税」とか、何となく多くの人にとって受け入れられないような『不自由』については置き去りにされるわけでしょう。
 ですから、多くの新自由主義に対する批判は、「自分にはお鉢が回ってこない範囲についての不自由は設定されるべきだ」という風に言っているようにしか聞こえないわけです。



(了)



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天皇についての感覚をどう引き継ぐか 

 今日は、『天皇』について論じさせていただきます。
 本当は、俺のような市井の民草が、天皇および皇室について何事か口にするなどというのは不遜以外の何物でもないのかましれません。
 ただ、日本の保守を天皇論抜きで考える事は、絶対に不可能なことですから、勇気を出して少しだけ論じてみたいと思います。




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 現在、天皇は政治に介入しないということになっています。
 しかし、これは別に「国民に主権があるので、天皇が政治へ介入して来ないようにしている」のではありません。

 これは、天皇という存在が、「常から、直接政治をお執りあそばれる存在ではない」という事になっている国家の習わしの問題なのです。

 つまり、「民の意志が政治決定権を握るべきだから、天皇に政治決定させないようにしている」のではなく、「そういう習わし」であると捉えるのが適切であるということです。



 また、この『習わし』というものは、「今、生きている日本人の多数の意見」よりも強い主権を持っています。
 何故なら、『習わし』は、今生きている国民だけではなく、もう死んでしまっている過去の国民の意思をも連ねたものであるからです。

 ですから、もし、今生きている日本国民の大多数が、「今上陛下より親政賜りたい」と思ったとしても、陛下がそのようにお振る舞いあらせられる事はないのです。
 何故なら、「今生きている日本国民の大多数の請求」よりも、「もう死んでしまった幾億の国民の意志をも含めた、習わし」の方が、より上位であるに決まっているからです。

 逆に言えば、今、陛下が親政をお執りあそばれないのも、別に「国民主権を侵さないようにするため」ではなく、そういう習わしだからと捉えるのが適切でしょう。



 それに、そもそも『国民』というモノについても、これは『習わし』であったり『伝統』であったりを強く引き継いだ「国家の属性を帯びた民」の事を言うのであって、単に「日本列島という一定地域に生まれた人間」の事を言うのではないのです。

 つまり、日本の『国の民』とは、天皇という存在がなくては、存在しようがないということです。何故なら、天皇なしに「民が、日本の国の属性を帯びる」という事は不可能ですから。国の属性を帯びない民は、『国民』と呼べるシロモノではありませんので、天皇の無いところに国民は無いというのは、よく考えれば至極当たり前の事でしょう。

 また、逆に、天皇が存在しうる為には、天皇の纏う歴史的な神秘性、世界観、宗教観、道徳観……の下にある『国の民』が、歴史上間断なく存在していなければ、不可能であったとも言えます。

 よって、天皇の存在と、国民の存在には、存在の相互依存の関係があって、「天皇がなければ日本国民は存在しないし、日本国民のないところに天皇は存在しない」という構造になっている事をまず認識していなければなりません。



 さらに、有力貴族の政治、武士、幕府の政治、大日本帝国時代に至るまでの歴史を経て醸成された、「天皇は、常から直接政治をお執りあそばれるものではない」という習わしは、次のような筋があって形作られていったものであることを理解する必要があります。

 それは、「時の天皇が直接政治をお執りあそばれる」となると、「時の天皇に対して、どれだけ影響力を及ぼすか」が「すべての政治決定の梶」となってしまう危険性があるということです。
 これの何が危険かというと、「その時の天皇に影響力を及ぼす者の言う事」が、正しいかどうかは分からないのに、その影響力を及ぼした者の言う事が、一度天皇のお言葉として出てしまうと、甚大な権威を帯びてしまう……という所があるからです。
 それが、世に言う『奸臣』かもしれないし、そうでないかもしれない。ですが、それを判断する資格や能力のある人間など、存在しえないわけです。

 また、世を見渡せば、人それぞれ色んな政治的意見というものがありますでしょう。
 その世のすべての意見をお聴きになる……などということは、いかに陛下とて不可能です。
 そして、もし、個人個人のそれぞれが勝手に、時の天皇へ直接意見を奏じることで政治を動かそうとしたならば、その「時の天皇へ直接意見を奏じる権限」を巡って、無秩序な権力争いになってしまいかねません。

 つまり、「天皇および皇室による政治介入を避ける」のは、「天皇および皇室を政治的に利用する奸臣」を危険視してのことであり、また、それは天皇をめぐる国内での争いや政府の転覆を危険視しての事なわけです。


 ですから、勿論「日本の国家として中央の意志を指し示す権威は、天皇という歴史的存在以外にあり得ない」という事は言うまでもないことですが、時の天皇へ政治的意見なり決定なりを奏上するにあたっては、その前段階として、充分な熟議を経て、全体の合意が形成されたモノである必要があるわけです。

 その「前段階としての全体の合意」というのがいわゆる政治であって、現代で言えば内閣やら国会やらでの熟議であるわけでしょう。


 勿論、だからといって、「天皇とは常に政治と関わりのない所にあらせられるのか」と問われれば、そうではないと答えます。
 例えば、『国家の非常事態』には、時の天皇より直接政治判断を下賜くださる場合もあるわけです。というより、時の天皇が直接政治判断を下賜せねばならないような『国家の非常事態』というのは起こり得るものである、と捉えるべきなのでしょう。



 さらに、これらを見ると、天皇はその権威をもって「中央政府の所存を指し示している」という側面もあると捉える事も出来ます。
 民主主義(多数決)と人は言うけれど、「その多数決をどこで、どのように行うか」、というのは民主主義で始める事はできないのです。例えば、俺がここで「今日から俺が日本の中で多数決を取るから、その多数決に基づいて政治を行います」と言ったらそれも民主主義ではあるはずだけれど、誰も相手にはしないでしょう?
 今の日本政府が、政府を名乗って多数決を取り仕切っているのは、その上に天皇があらせられ、中央の所存をお示しになっているからに他ならないわけです。

 ただ、ここで気をつけなければならないのは、そのことをもって、「天皇が中央の所存をお示しになっている」という事を『手段(機能)』と捉え、「今生きている日本人に対して、便宜を計るための政府」を『目的』として捉えるような、勘違いを起こしてはならないということです。
 だってそれは、とどのつまり「個人個人が、政府に便宜を計ってもらいたいからこそ、天皇の権威が必要だ」というような筋になってしまっていますでしょう。

 何故この勘違いがマズいかと言うと、天皇の権威とは、それを感じる国民の伝統精神が力の源であるはずだからです。つまり、先ほど述べた、天皇の纏う歴史的な神秘性、世界観、宗教観、道徳観……といったものを時代を越えて共有する精神のことです。

 そうなると、そこで「個人個人が、政府に便宜を計ってもらいたいからこそ、天皇の権威が必要だ」というような指向、心根が常識化してしまうと、たちまちのうちに天皇および皇室の力も薄れていってしまう……という事になりかねません。

 そして、厄介な事にこの指向を持った者も、一見、皇室を大変尊重しているかのように見えるわけです。



 俺も、天皇および皇室を、どう敬い、どう心の中に置くか……という事については、まだまだ答えらしい答えは出せていないのだと思います。
 それはおそらく、少し前までは常識として日本人の心にあったはずの「天皇の纏う歴史的な神秘性、世界観、宗教観、道徳観」を自然に感じる感覚をほとんど得ることなく成長してきたからでしょう。

 ただ、日本の国家を天皇抜きに捉えるのは絶対に不可能ですから、当世代として、「天皇および皇室を、どう敬い、どう心の中に置くか」を、どのように過去から引き継いだものか……と慎重に模索していく必要があるんだろうと思います。


 また、今の世にあっては、単に声高に陛下への万歳を叫び上げるだけで互いが通じ合ったりできるものではなくなっているのだとも思うのです。
 何故なら、下手をするとその万歳には「個人個人が、政府に便宜を計ってもらいたいからこそ、天皇の権威が必要だ」というような下卑た心根が含まれてしまっているのかもしれないからです。



(了)



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何故、輸出をするのか 

 世間では、「輸出を伸ばす」ことが、「とにかく良いこと」とする風潮があるように思われます。
 勿論、俺も「輸出なんぞに意義がない」などと言うつもりはありません。

 しかし、そもそも、「国家として何故輸出をしているのか」という所を置き去りにしては、輸出入に対する姿勢そのものを見誤ってしまうと思うのです。




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 何故、輸出をするのか……もっと言えば、「何故、政府が民に外国への輸出を自由にさせているか」という問い。

 これに対して、結論から申すと、
「自国で物理的に自給できないものを輸入するため」
 であると答えます。

 つまり、もし「自国で、あらゆるものを充分に自給できる」のであれば、輸入は必要ないし、輸入が必要ないということは、輸出も必要ないのです。
 いや、「必要ない」というより、そうした場合は、本当に『鎖国』するのが、国家の独立の為に最も望ましいと考えられます。

 しかし、この高度に近代化、現代化された現代の産業構造の中で、「自国で、あらゆるものを充分に自給する」ということは、ほとんど不可能です。
 とりわけ、エネルギー資源や原材料については、どんなに気合いを入れても「領土内で産出されないもの」については輸入せざるをえません。

 基本的には、そういった「輸入せざるをえないモノ」を輸入するためだけに、輸出が必要になってくるのであります。



 ですから、「個々の企業や、個人」が、「海外市場でモノを売って利益をあげる」という事そのものは、別に国家の『目的』ではないのです。
 勿論、「個々の企業や、個人」にとっては目的となり得るし、個々が利益を求める姿勢そのものは、否定されるいわれのないものでしょう。

 ただ、個々の利益の一つ一つを足し算していけば、最終的に『国家の利益』になっているかというと、そうではないのです。
 換言すれば、ベンサム的な功利主義のように「一人一人の効用を足し引きして、その解を最大する事」は、必ずしも『国力の増進』と整合するものではないということです。


 例えば、A社がX国で、100万ドルを売上げたとします。
 まず、もしA社がその中の90万ドルをX国で雇用や費用として使ってしまうとしたら、その90万ドルは日本の国とは全く関わりのないものだと考えて差し支えない、ということはおわかりでしょう。つまり、例えばA社が現地生産をしていた場合、「仕入れ、雇用、経費、諸々」が日本の国の経済に一切関わりのない所で行われているが故に、この90万ドルについてはほとんど何の意味もなさないものとして捉えるのが適切である、という事です。


 あるいは、B社が現地生産ではなく、純粋に日本国内で生産したモノを、X国の市場で売り、100万ドルを売り上げたとしましょう。X国で生じた費用は10万ドルで済んだとします。
 B社が日本国に帰属する会社であると考えるのであれば、この『90万ドル』は日本国に帰するものであると換算して良いでしょう。
 ただ、この90万ドルは、B社が永遠にそのまま90万ドルとして持っていたとしても、意味がありません。おおよそ、A社は、90万ドルを、9千万円に換えて自社の雇用や費用や利益にするわけです。

 しかし、そうなると、それは「B社が国内で製品を作り、それを日本銀行が円を刷って買って、海に捨てる」というのと何が違うのかという疑問が、瞬間わき起こるはずです。
 だって、このB社の作った製品は、とどのつまり外人が利用しているだけなのですから、作った製品による効用の方は日本国内にはないわけでしょう。
 この「X国で製品を売って、9千万得る」のと、「日銀が刷った9千万と製品を引き替える」ということの違いを見れば、『輸出』によって得られる国益が『円高』であることがわかるはずです。

 つまり、B社が90万ドルを、国際市場にある9千万円と交換したことによって、「国際市場から、日本の会社であるB社へ、円が移転した」ことが、最終的な国家の益であると考えなければ、それこそ「日銀が9千万円刷って……」という事と大差ないということになってしまうのです。
 そして、「国際市場から、日本の会社であるB社へ、円が移転」したことによる、『円高』が何故、益であるかと言えば、「その分、海外市場から安く輸入する事ができるようになる」から益と呼ぶ事ができるのです。

 円高を国益と見なすのが難しいようでしたら、あるいは、B社が「100万-10万=90万ドル」を外国で獲得し、日本の輸入企業C社が、B社の90万ドルを9千万円に引き替えたとします。
 そうすると、B社の九千万円がC社に移転したのは自国内のことですから、X国からC社に90万ドルが移転したということを見れば事足ります。
 すると、B社とC社が日本企業であることを考えると、B社が輸出したのは、C社が輸入するためであった……と考えるのがごく自然なはずです。


 つまり、国家として、民に輸出する自由を与えているのは、「国家の属性を帯びた者が外貨を獲得するため」だし、何故、外貨を獲得するのかといえば、「輸入するため」なわけです。


 さて、輸出が輸入のためにあるということを考えると、『輸出』についての思想は、『輸入』についての思想と切って切り離せないと言えます。
 つまり、『輸入』の意義について、どこまでを国益として換算するか……ということです。


 そして、「過剰なる輸出への思い入れ」には必ず「輸入による、価格の下落」=「消費者の効用」を国益として換算する態度がついてまわります。
 俺は、この事を糾弾しないわけにはいかないのです。


 輸入についての価格の下落を、消費者の益として換算する態度というのはこうです。
 例えば、自国の市場で、製品aが千円だったとします。
 それを、自国市場の外からやってきたX国の外国企業が8百円で売ったとすれば、製品価格が下がって「消費者の益」ということになる……と、こう換算したりするのですよ。
 さらに、製品aを製造していた自国の企業、産業は職を失うわけですが、彼らに対しても、「X国の市場で勝利している製品bの方を作っていくのが、両国の消費者にとって益になる」とこうやるわけです。

 もっとスゴいのになると、リカード理論なんてのもあるわけですが、今日の所はその説明は割愛します。
 ただ、どちらにせよ、「国境を越えた産業において、それぞれの国がより効率的に生産できる産業に特化する」方が良い……という理屈があって、それが『輸入』対する意義の見積もりを大きくし、それが故に『輸出』に対する意義の見積もりも大きくなっていたりするわけです。

 しかし、そもそも、「それぞれの国がそれぞれの産業に特化する」という話には、「それぞれの国の間で、あらゆるものの相対価格が同じである」という場合にしか適合されないはずです。
 例えば、二財の相対価格、製品価格と労働価格、製品価格と原材料価格、といった相対的な価値の基準が、国境を越えた場合あまりにも違うのです。
 また、「それぞれの国の間で、あらゆるものの相対価格が同じである」というのは、到底「一般に適応されうる理論」と呼べるものではなく、なにか特別な場合にのみ適応される机上の空論でしかありません。もっと言えば、「お花畑的地球観」といって差し支えないでしょう。

 また、「国境を越えた産業において、それぞれの国がより効率的に生産できる産業に特化する」ということを受け入れた場合は、「産業構造の維持」とか「自給による独立性」などといった国家論は「政治的なるもの」として除外されてしまっている、ということも糾弾しないわけにはいきません。
 もし、万が一「国境を越えた産業において、それぞれの国がより効率的に生産できる産業に特化する」というような話で短期的に上手くいったとしても、それは「産業構造が単一化した」ということと「自給可能な財が減った」というでありますから、長期的には『国力』が毀損されたと見ないわけにはいきません。




 輸出、輸出と騒がしい世の中ですが、まず「輸出とは輸入の為にある」ということを忘れてはなりません。
 また、輸入は「自国市場で価格競争を起こし、一人一人の消費者へ益をもたらすため」にあるのではなく、「国家全体で、どうしても物質的に自給出来ないものを輸入するため」であることも忘れてはならないと、俺は考えます。

 何しろ、「一人一人がより多くの効用を得る」ことよりも「自給できる産業を多く持ち、国家としての弱みを持たない」ことの方が『国力』としては価値の大きい事なのですから。



(了)



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過剰なる金融緩和への思い入れとグローバリズムの連結、についての糾弾 

 今日は、「金融緩和への強すぎる思い入れと、グローバリズムは連結する」ということと、それに対する批判を。



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 さて、このブログでは、第二次安倍政権誕生以降『リフレ』という姿勢を批判的に見てきました。
 ただ、昨今「リフレ派」と言うと、単なる悪口だと取られる事が多いので、具体的に指すと、「アベノミクスの中でも、金融政策へ過度の期待をかける態度」の事を言っているのです。



 そもそも『金融を緩和する政策』というのは、「金利を下げる」のと「一般の銀行が貸し出せるお金の量を増やす」ということです。(ちなみに、一般じゃあない銀行ってのは日本銀行です)

 しかし、金利については既にゼロ金利策が取られていたのですから、今『金融緩和』と言って騒がれているのは、おおむね『量的緩和』つまり日銀の買いオペレーションの事です。

 買いオペ、売りオペの「買い」とか、「売り」というのは、「一般の銀行が持ってる国債を、日本銀行が買ったり、売ったりする」ことであります。

 例えば、A銀行に、現金が50億円、国債が50億円分あったとします。当然ですが、貸し出しに使うことが出来るのは、現金の50億の方だけです。
 そこで、日本銀行が、A銀行の持っている国債50億を買ったとします。すると、A銀行が持つのは、100億円の現金ということになって、銀行が貸し出せるお金の量が増えましたね。

 買いオペレーション、売りオペレーションというのは、日本銀行視点の「買い、売り」って事なんです。目的語は、「一般の銀行から」と「国債を」ですね。



 しかし、「一般の銀行が貸し出せる円の量」が増えても、企業が「お金を借りて投資して、新たな工場や設備を作っても、売れないだろう」と見込んでいれば借りてくれません。銀行側も、「お金を貸して、返ってきそうだ」と見込みをつけられなければ貸しません。

 また、ゼロ金利であっても「貸さず、借りず、投資せず」であった所に、「銀行が貸し出せる円の量」だけを増やしても、国内企業が「借りず、投資せず」であったら、銀行は国内企業に貸すことができません。

 ただ、それでも「銀行が貸し出すことのできる円」が増えると、銀行はそれを金庫の中で塩漬けにしておくことはできません。銀行は金を貸して利息で食っているのですから。
 すると、国内の実体的な産業へ金を貸すことのできない銀行は、その金を証券や土地に回したり、海外への投資に回してしまったりするわけです。証券や土地へ金が回れば、株高、土地高になり、海外への投資に回れば、円安になります。

 そして、一般的に、「株高、土地高、円安」は良いこととされています。

 ですが、実体経済から先行しての「株高」「土地高」「円安」が、「国力を上げるのか?」と問われれば、俺は「上げない」と答えます。


 まず、「株高」や「土地高」は、確かに各経済主体のバランスシートの資産高を上げるので、各企業が銀行からより多く金を借りることができるようになります。しかし、「金を借りることが出来る」というのと「金を借りる」というのは違います。何度も言うようですが、「金を借りて、設備投資して、売れて、採算が取れる」と思わなければ、企業は借りません。
 あるいは、各企業のバランスシートで貸方の資産が増え、銀行から金を借りたとしても、企業がその借りたお金をまた土地や信用資産で運用してしまう……というスパイラルになると、単に資産のバブルが起こるだけで、「様々な実体的な産業を発展させる」という事に繋がりません。

 次に『円安』ですが、「円安が良い」という根拠は「『輸出』で有利になるから」と、そう思うワケでしょう。そして、「国内の労働供給の過剰分を、輸出で……海外の需要で補う」こういう理屈があるわけです。
 これについては、まず、「世界全体が供給過剰、需要不足」の状態になっている現在で、軍事力に脆弱な日本が「過剰な労働供給分を、海外の需要で補う」なんてことができるかどうか大変疑問に思います。
 しかし、もし仮に、「過剰な労働供給分を、海外の需要で補う」ことが出来たとしても、それは「国家全体の産業構造として、輸出の依存度を高めてしまう」という話でもあるわけです。輸出依存度が高まれば、国家として「外国為替の変動に左右されやすい不安定な経済構造」になってしまいます。
 また、当然ですがそうやって輸出が伸びれば、それは円高圧力になります。それでまた、円を刷って、海外に投資をして、円安になって、輸出が伸びて、円高になって、円を刷って、海外に投資をして……というスパイラルになってしまうと、仮にデフレが解消されたとしても、輸出関連産業だけが過剰に伸び、その他の産業が相対的に疲弊してしまいます。
 それは、「輸出関連企業だけズルい」とか「その他の企業が可哀相」とか言いたいわけではありません。国家全体の産業構造として、「一部の産業だけに特価した産業構造は、対外的に非常に脆弱である」という所を見ての批判であります。

 こう考えると、リフレーー「金融緩和への過剰な期待」の態度には、「グローバリズムへの無批判」と連結しているという話にもなってきます。



 誤解して欲しくないのですが、俺は『量的緩和』そのものに「すべて批判的」というわけではありません。
 ただ、「量的緩和で、景気動向をコントロールできるというのは、『市場』に対する過信である」と、言いたいだけなのです。
 つまり、「量的緩和さえすれば、政府の支出や権限を剥奪しても景気は良くなる」という指向を批判しているのです。


 今必要なのは、「日銀が刷った円を、銀行へ回して、銀行が市中へ回す」という話ではなく、「日銀が刷った円を、銀行へ回して、銀行から政府へ回す」という話だと、俺は考えます。
 これはつまり、「日銀が刷った円を、政府が回す」ということで、もっと言えば「政府が刷った金を、政府が使う」ということです。


 ですから、「日銀が円を刷る」というのは別にそれで良いのです。
 その刷った円を「どこから出発させるか」という問題において、『市場』からではなく『政府支出』から始めよ……と、こう言っているだけなのですよ。



(了)



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