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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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首相の靖国参拝についての世評 

 12月26日、安倍首相が靖国神社を参拝されました。
 今回はこれについて。


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 俺は、靖国神社のまるで天を縁取ったかのようなあの大きな鳥居が好きだし、(大東亜戦争の指導者を含めて)戦没者の霊が合祀されているということに深い尊崇の念を抱いています。

 それに、総理大臣が靖国神社へ参拝することに対して、『現在生きている国民』が外交関係への懸念を理由にこれを非難する権利などない、とも思っています。当然のことですけれど、現在生きている国民は、靖国に合祀されている霊がいなければ、今存在していないのですから。

 また、「時期の意味が分からない」だとか、「言っていることがあんまりにリベラル」だとか、「保守迎合の気がある」だとか……保守派の立場からでも色々な批判のしようがあるかと思いますけれど、俺は基本的に安倍首相の靖国神社参拝を『擁護』します。
 そりゃあ総理大臣が靖国神社へ参拝するなんて当然至極のことですが、それを不自由たらしめてきたのは外国の懸念を楯にお花畑的反戦を叫びのたまわってきた大衆の中の一団なのですから、そうした不自由な立場での参拝であることに考慮を配さないわけにはいかない。何故なら、自分がその立場になった時に、果たしてそのように出来るかは分からないからです。いくら「出来る」と叫んでも、その言に担保を付与することはできないでしょう。




 ただ、「首相の靖国神社参拝」といえば、小泉首相の靖国参拝の時のような「保守の悪合同」が思い起こされ、これには危惧を覚えます。
 このことで表面的に『保守』が寄り集まってしまい、そしてリベラル色の非常に強い『改革』で政府の権限を剥奪していってしまうという、わけのわからない「悪合同」のことです。

 政権発足一年、すでに安倍政権でも同じような「保守の悪合同」が起こっているわけで、「首相の靖国神社参拝」の一方で「新自由主義的な構造改革と親米」がより強い気を帯びてなし崩し的に採択されていってしまうのではないか……という危惧は抱いておくべきだろうとは思っています。




 勿論、これは安倍首相がどうという話ではなく、むしろ『安倍首相を保守の星として祭り上げる一部の保守層』が大騒ぎするに違いない、という危惧なのです。
 そうした輩は、時には内閣と対峙する「国会や政党や官僚機構」すら首相の敵として認定し、さらにはまるで「自分の意見」が「安倍首相の意見」であるかのように語りだします。


 それは、安倍首相と保守の印籠の威を借りて、そっと自分の意見を織り交ぜるという甚だ卑劣な手法をもってなされる場合すらあるのです。

 例えば、26日、産経新聞の号外を書いた者は、

<米国とは安全保障面や環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)など経済面での関係を強化しており、首相は反発は一定レベルで抑えられると判断したとみられる。>

 といったような事を述べたてておりました。

 この記事を見た善良な国民は、安倍首相が靖国参拝をされた事を純粋に喜んだ上で、「なるほど、そういうことでのTPP交渉参加や親米基調だったのか」という思考の方向へ引きつられてしまうでしょう。もっとも、これはとどのつまり「アメリカに媚を売っておけば、チャイナに文句言われても大丈夫」という卑屈な論理以外の何ものでもないのですが、それ以前に「それが安倍首相の考えであるかという根拠はない」って所が巧妙にぼやかされているのです。




 つーか、この産経の記事には、マジで「ざまあ見ろ」と言ってやりたいですけれど、アメリカは首相の靖国参拝に文句を言ってきましたね。それもずいぶんとオフィシャルに強烈に言ってきました。国務省が「失望した」とまで言っているのですから。

 俺は、この点に強く強く注目しています。

 勘違いしてほしくはないのだけれど、俺は別にこれをもって反米を煽ろうというのではないし、アメリカが文句を言ってきたことでアメリカを罵りたいのでもありません。
 というか、アメリカが日本に対してどう処しようと、それはアメリカの問題であって、外人である彼らにどうこう指図する権利が俺にあろうはずもありません。

 俺の興味関心は、常に俺の国である日本の国の事であります。

 俺が今疑っているのは、共同通信社の世論調査で、「首相の靖国参拝については、外交に配慮する必要がある」という回答が69.8%を占めていたという絶望的な結果に関してです。
 そもそも、靖国神社のあり方は、我々の伝統と国の体系に関わる根本的な問題であるから、それについてよそ者へ配慮などしては我々の独立問題に関わります。これは、国家をやっているのであれば明白、というよりは自明の理です。
 しかし、さらに俺が疑っているのは、「アメリカの機嫌を損ねた」という所が、この69.8%の大きな理由になっているのではないかという所なのです。
 具体的に言えば、「伝統と国の体系の維持」は「アメリカの機嫌を損ねず、自分個人の身が危険にさらされない範囲でよろしく頼む」というように、メチャクチャ都合の良い本音を腹に据えている大衆が、相当数存在するんじゃあないか……という疑義です。

 勿論、俺にこれを証拠立てる術はないですが、しかし、もしチャイナや韓国が文句を言ってきただけなら、七割の人間が「外交配慮」について危惧するなどということはあり得ないのではないでしょうか。だって、別段の思想信条を持たない多くの日本人は、実のところチャイナや韓国の事など、まるっきり関心はなく、視野の外で、意識外で、好きも嫌いも良いも悪いも無いのですから。
 素直にこの七割の数値を捉えれば、「安倍ちゃん、靖国参拝するなら、アメリカの機嫌を損ねないようにしてくれたまえよ」という風に考えている輩の多さ故であると、分析するほかないでしょう? また、首相の靖国神社参拝そのものを不支持するものは、47.1%に留まっているところを見ても、なおさらそのように考える他ないのです。

 さらに言えば、きっとそういった連中の中でも、常から首相に「靖国参拝」を求めて保守ツラ掲げていた野郎も絶対いたはずです。そうした輩は、いつもは「首相は何で靖国を参拝しないんだ!」と文句を言っておきながら、いざ首相が参拝して、そしてアメリカが文句を言ってきたとなると、途端に梯子を外すわけです。




 当然ながら、俺はこの疑義が見当はずれであることを望みます。そして、こんな意地悪な口ぶりをして、ここで言いたいのはとどのつまりこういうことです。

 それは、
 小泉政権での靖国参拝では保留されていた、
「日本人は、アメリカが行くなと言った場合においては、首相の靖国神社参拝をどう捉えるか」
 という圧倒的な問いが、今提示されているのだ――という事。

 ここを、ナアナアにされては困るのです。
 せっかく、アメリカが文句を言ってきてくれたのですよ。
 俺たちは、いつかはこの問いに結論をださなければならないのだし、そして多分、もうゴマカシが効かない段階に入っているのでしょう。

 冷戦のパワーバランスは「人類の進歩と調和」の方向性ではないし、冷戦そのものが二十年以上前に終わっているのだから、東西の対立構造で回る世界ではなくなっていると、いい加減気づくべきです。
 チャイナ(仮想ソ連)が社会主義側で、アメリカが自由主義陣営……といった区分の上で、「我々は自由主義側だ!」とのたまうようなお花畑的保守観は、錆にまみれた旧貨のごとく現実世界では流通しなくなっているのです。
 アメリカとチャイナの親和性は、少なくとも日本とアメリカの親和性より明らかに高いのですから。





 俺は、首相がどういう算段で、またどういう心持で靖国神社を参拝したかという事について、何か代弁めいた論じ方をしたくありません。
 イチ平民にそんな資格も能力もあるはずはないし、第一、そうした代弁を元に首相や内閣を否定したり肯定する事は、デマゴギーの悪因になりかねないと思うからです。

 ですが、世の中で蔓延る、「安倍首相の靖国参拝」に対する「論じられ方」からは、もろ手を挙げて日本政府を擁護したいと思っています。

 第一に、マスコミの分かりやすい批判からの擁護であり、反戦の理屈をチャイナや韓国の批判に代弁させようとする傾向からの擁護。
 第二に、普段は靖国参拝に肯定的な者で、アメリカの不審を買ったからといって梯子を外しにかかる者達からの擁護。

 この二点からの擁護はどうしても提示しておかなければ気が済みません。


 そして、そうした擁護とあわせて提示しておくべきものとして、第三に、
「アメリカからの不審を一時的なノイズのようなものとして重要視しようとせず、直視しようとせず、ナアナアに、うやむやにしながら、『チャイナや韓国に向かって、毅然と靖国参拝する安倍首相』の像(イメージ)をいまだに掲げている連中の、都合の良い思考回路」
 を非難しないわけにはいかないのです。

 こうした連中は、「アメリカはチャイナに気を使っただけで、本当に不審を抱いているわけではない」から、「安倍首相の靖国参拝は、アメリカとの仲を毀損するものではない」といった、あまりに都合の良い見方をします。これは、『自由主義陣営への帰属』と『保守』との連結を、いまだに無理やりに持続させようという心根をもって、事をナアナアに捉えているだけじゃあないんでしょうか。

 そうはさせてなるものか、と俺は思います。
 反日を叩く為に、保守が合同して、『親米』とか『自由主義陣営』とか『新自由主義』とか『構造改革(アメリカナイゼーション)』とか、そういう方向へ帰結してしまうという話を、これ以上続けさせてなるものか、と思います。

 今回の事のように、「アメリカおよびアメリカナイゼーションが、もはや現実的に『日本の保守』と連結しようがない」という事が明瞭に指し示されているにもかかわらず、「チャイナや韓国のムカつきっぷり」に目を奪われて、それは端論として処理されてしまいがちです。
 ネット上の単細胞な保守に多いですけれど、「自由主義陣営として、チャイナへ毅然と立ち向かい、靖国神社へ参拝する安倍首相!」のイメージを未だに引きずり、強調し、誇張するのは、本当にやめてもらいたい。
 その誇張の一方では、確実に、「自由主義陣営というフレームワークではやっていけそうもない」という現実が、都合良くうやむやにされてしまっているのですから。




 今年最後の記事にして、ずいぶんとややっこしい論じ方をしてしまいましたけれど、今回の首相の靖国神社参拝については、いろいろな視点からの議論に対する批評を同時に示さないとおかしな事になると思うので、どうかお許しいただきたいです。
 また、年を越してからも、首相の靖国神社参拝で起きた議論をなるべく丁寧に批評していきたいと思います。


 それでは、よいお年を。




(了)




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part3減反政策の廃止について~米の生産と価格の調整への擁護 

「part2減反政策の廃止について~米の生産と価格の調整への擁護」
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-142.html
の続きです。

 この回で一度論を区切りますが、コメについてはこれからも論じて行きたいと思います。


 今回は、とにかく既得権益が嫌いだ……という人には無理にとは言いません。が、別にそうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れなきよう、押してから読んでいっていただけると嬉しいです。






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 さて、前回述べてきたような、政府の補助金や農協による価格維持、産業体の維持を、世間一般では『既得権益』といって蔑んでいるわけですけど、では、一体全体どうしろというのでしょうか。
 そう。大衆世論の論調では、それら「政府や農協の生産調整、価格調整」を取り払って、「自由な市場での需要と供給によって諸価格が決定される」のが、「民主的かつ効率的で合理的だ」というように考える風潮が根強く蔓延っているのです。
 だって、要は「自由市場で価格が決まるならもっと米価は安いはずだから、価格を維持しようと農協は生産調整で横槍を入れること自体が、既得権益だ」と、考えるわけでしょう?

 しかし、このように「政府の介入や既得権益を排除し、自由市場における自然発生的な需要と供給によって決定された価格を持って適正とする」という向きを、「自由民主主義という『理想』と、経済における『現実』の効率性を、『両立』させる魔法のツール」と考えるのは、間違っているのですよ!
 もっと率直に言わせてもらえば、間違っている上に、偽善的で、欺瞞的で、低劣で、醜く、浅ましく、愚かで、虚飾的な、甚だ都合の良い大衆理論でしかないのです。

 ここでは何をおいても、「自然発生的に起こった需要と供給が均衡したもの」こそが「適正価格」であるという発想自体が、酷い思い込みであることを指し示しておかねばなりません。いや、需要と供給によって価格が決まっていく市場の機能が存在すること自体を否定しているわけでわけないのです。ここで考えていただきたいのは以下の二点。

 一点目は、諸需要と諸供給は、「個々人から自然発生的」になど起こりえる事など絶対にありえず、必ず「ヒエラルキー、コネ、シガラミ、環境に左右される価値観」といった社会的な要因に基づいて需要、供給が決定されているということ。つまり、需要や供給は、「諸個人が諸個人から発して、諸個人の合理的な選択として帰結するもの」ではなく、「抑圧的、偏見的、硬直的な社会的枠組み(コミュニティー)の中で、はじめて需要や供給が成り立つ」のであるから、「社会のシガラミに囚われない、個々人から自然発生的に起こる需要と供給」というもの自体が、絶対に存在不可能だということです。
 もし、「社会のシガラミに囚われない、自然発生的な需要と供給」などというエセSFティックなものが存在するとすれば、自由民主主義は経済の上でも完結し、世界の統一的な秩序となって戦争はなくなっていく……という話になるわけですが、そんな『お花畑的資本主義』は、ほとんど大衆夢物語でしかないのです。

 二点目は、ある時点での『需要』と『供給』が生む均衡価格は、果たして『適正』なのかどうかは分からない、という事。
おおよそ、そうした『均衡価格』がハナッから「民主的で適正である」という前提があるからこそ、「市場均衡価格」=「適正価格」といったような捉え方がされるわけですけれども、一点目で述べた通り、そのような『民主性』は殆ど空理空論であるから、実のところ、こういった前提は成り立ちようがないわけです。
 つまり、「まず、市場の需要と供給があり、その均衡したものが適正価格」なのではなく、「まず、『適正価格』というものが社会的に先入観としてあり、その適正価格へ均衡していくような需要と供給が生じて、はじめて資本主義経済が調和する」と考えるべきだということです。
また、この『社会的先入観としての適正な価格』というものは、「モノとモノ」、「モノと労働力」といった、相対的な価値の『比』としての先入観です。
費用があり、人件費があり、給料があり、食料費があり、衣料費があり、医療費があり……といった、コミュニティーの中で生じるありとあらゆる経済活動における価値の比率についての先入観がまずあって、均衡価格とはその結果論でしかないのですよ。


 しかし、兎に角、できる限り効率的に大量に生産し、価格が下がればそれは消費者の効用であると換算する輩からすると、「米の価格の下落」は「良いこと」であると考えるわけです。



 しかし、コメの価格が下がる事は、常に良いことなのでしょうか?
 自由市場で決定されることが民主的である……という浅はかな理屈は、コメの場合においては明確に現実から逸脱していることが見て取れます。

 というのも、もし、コメの生産量が、「長期的に間断なく、毎年予測しうるもの」であり、「参入するのも、撤退するのも容易である」ならば、「価格競争で非効率農家が淘汰され、コメ産業自体が、需要にあわせた供給へと収束していくか、競争力をつけて海外へ打って出る」というような与太話も成り立つのでしょう。が、コメ……だけではなく農産物の生産量が「長期的に間断なく、毎年予測しえ」たり、「参入や撤退が容易に成せ」たりするはずがないんですよ。物理的に。
 農業は、土地の具合や天候に大きく左右される産業です。つまり、豊作かと思えば、凶作の場合もあるわけです。現在は、コメはおおよそ毎年供給過剰なわけですけれど、それでも数十年に一度は酷い凶作にみまわれたりするわけです。

 だのに、それをまったく自由な市場において、「農産業の既得権益」の介入を許さない需要と供給の均衡価格によって、毎年の米価が決まったとすれば、コメの価格が、天候や土地の具合に左右されて、「急激に上がったり、下がったり」するわけですよ。(こういった動的な現実を、経済の諸モデルが網羅しきれていないことは、今更口うるさく言及するまでもないでしょう。)

 こういう性質があるから、農産物の先物取引は投機の気を帯びるわけですけれど、とりわけ、我々日本人のほとんどすべての家計において恒常的に支出される『コメの価格』は、経済全体にめちゃくちゃ影響を及ぼすのです。
 だって、家計で消費されるコメを買うお金は、一体どこから来るかといえば、多くは給料から来るわけです。
 そして、給料、人件費の決定というのは、様々な要素が考えられますけれど、「おおよそ、これくらいの給料があれば、生活を成り立たせることが出来るだろう」という社会的な感覚が無視できないはずです。
何故なら、労働力というものは、物理的に「その労働力がどの程度の力を発揮するかは、実際に働いてからでなければ判明しない」ので、雇用条件はおおよそ「社会的な偏見」に依拠せざるをえないからです。
社会的な偏見というのは、学歴や経歴であったり、コネであったり、縁故であったり、容姿であったり、人当たりであったりするわけですが、道徳的な偏見……つまり、「生活の水準や維持」に鑑みた偏見に基づいて、労働価格が一定範囲に収まる事が常識化されているという所も含めての事です。
 良い悪いを置いておいて、物理的に、現実的に、我々はそういう『社会的先入見』に基づいてしか経済をやっていけないわけですけれども、労働価格が「生活の水準や維持」と無関係には決定されないという以上、それは「生活に必ずかかるであろう物の値段」が無関係ではないことにもなってくるわけです。(そんなものは不合理だと言ったって、社会に存在する人々は、別に合理的に生きようなどと考えて生きているわけではないので、そういったものを改変しようとしたって不可能なのですよ)

 さて、コメの話に戻るわけですが、我々は生活様式的に、確実に毎年大量のコメを消費します。
つまり、米価は、家計の消費の基準に組み込まれているわけです。そうなると、給与の基準となる『先入観』にも、(意識的か無意識的かは分かりませんが)当たり前のごとく組み込まれているはずでしょう。

 米価はまさに象徴的ではありますけれど、物価は給与と連動します。とりあえず現在の米価の下落は、デフレーションの大きな一因となってしまっているでしょう。
 しかし、ここで言いたいのはデフレの事というよりは、『コメ』のように諸家の生活様式と密接に関わるモノの値段は、とりわけ『安定的』でなければ、経済全体を調和させるに必要な様々の前提を共通了解として取りえなくなってしまうというぜ……という事です。

 価格というものは、「ある程度硬直的に安定していなければならない領域」と「別にそうでもない、自由市場に任せて良い領域」とがあるのです。常識的に考えれば当たり前のことでしょう。


 それを、「産業の性質」や「国家の属性を帯びた生活様式」との関わりといった所を無視して、何でもかんでも「既得権益を取り払って自由市場で価格を決定させれば、競争によって価格が下がって、消費者が得をして、民主的である」とする大衆世論の風潮には、本当に辟易とするのです。

 「既得権益、既得権益」と、ピーピー五月蝿いですけれど、国家の中にあって、経済の中にあって、産業、業界の中にあって、「既得権益に属していない人」なんて幸せな人物は存在しないのです。
その「既得権の大きさ」には、確かに濃い薄いがありますけれど、それはむしろそうあってもらわねば困るものです。何故なら、産業というものは平等であってはならないからです。
 だって、国家、社会の基盤になるような産業においては、それはそれなりに安定的、持続的に運営されていなければ困るに決まっているでしょう。基盤が、「今日は上がり調子、明日は下がり調子」といった風体では、その上に乗る他産業が成り立つ前提すら毀損されてしまうではありませんか。

 我々は、そういったことを、「産業の権威」とか「ヒエラルキー」といった先入観に基づいて、常識的に理解してきたはずです。
 こうした、権威やヒエラルキーは、「合理性によって打ち壊されるべきだ」とするのが、素晴らしい事のようにのたまう輩が本当に多いわけですけれど、そんなルサンチマンは今すぐ捨て去ってしまいましょう。

 一見うっとおしく思われる『権威やヒエラルキー』という不合理に、歴史の英知が含まれている……という保守論からは、こと経済においてであっても逃れられないのですから。






(了)




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part2減反政策の廃止について~米の生産と価格の調整への擁護 

「part1減反政策の廃止について~米の生産と価格の調整への擁護」
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-141.html
の続きです。



 おおよそ、減反政策と聞いて一般に思い浮かべられるのは、単に「稲作が減らされていく政策」というイメージくらいのものでしょう。日本人の米への愛着を思えば、そうしたイメージに対して反発を覚えるのは理解できるし、俺とて稲作の保守を心から願う者であります。
 ただ、そもそも『減反政策』とはなんであるか……この事を置き去りにして、これを語ってはワケがわからなってしまうでしょう。

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kigi


 結論から言えば、「稲作の減反」とは、国家による生産、価格調整なのです。
 このことを理解する為には、「豊作貧乏」という言葉を見てみるのが一番です。

 例えば、ある年、気候はとても良く、稲は爛々と実り、大変な豊作になったとします。去年は凶作だったので人々はとても喜んだのですが、何しろ大変な豊作です。人々が米を買う量よりも、農家が生産した量の方がずっと多くなってしまいました。
 すると、米は余ります。余った米は、捨てなければならなくなってしまうので、農家は価格を下げます。また、それぞれの農家はみんなそうやって価格を下げていかざるをえなくなります。
 すると、どうでしょう。豊作であったのにもかかわらず、米の価格が下がって、普段より収益が落ちてしまいました……あな、悲しや。

 というのが、豊作貧乏です。

 そして現在、米はおおむね毎年「豊作状態」である、と言えば話は分かりやすいでしょう。それは、品種改良、技術改良によって、土地あたりの生産高が向上しまくったというところが大きいわけですが、それは必ずしも良い事ことばかりではなかった……というか、それが必ずしも全体として調和するとは限らない、ということなのです。


 つまり、米が生産過剰状態になっているにも関わらず、政府や農協がコメ市場に対して何の処置も施さなければ、値崩れを起こすのですよ。

 食糧管理制度時代の減反政策は、米を国家が買い取って価格を統制しておりましたので、過剰供給分の買い上げによる政府負担を減らすという意味合いが強かったわけですが、少なくとも1994年の食糧法への移行、2004年の改正による『規制緩和』による『コメ市場の自由化』の段に至っては、「生産の調整による、価格の調整」という意義での『減反政策』に移行していったという経緯があったわけです。

 勿論、減反政策、生産調整がなかなかうまく行かなかったのも事実です。というのも、稲作の土地を他の作物に切り替えるのは技術的になかなか難しいという点がひとつと、それまで米を作ってきた人の人生はそんなに簡単に進路変更可能なものではないからです。
 つまり、減反政策が上手くいっていないというのは、作物切り替えによる生産量の抑制があまり達成されていないということなんですね。ですから、当然ながら米価も下がってきてしまっているわけです。まさにデフレの象徴とも言えます。

 ただ、これは経緯的に、「減反という規制が邪魔をしてそうなった」というのではなく、「政府による全体の規制が弱すぎる」と見るべきでしょう。論理的に考えて。
 だって、「米から他の作物への切り替えが難しい」というのは、むしろ「自由な市場競争」の中での方がネックになる事柄じゃあないですか。




 さて、現在、そんな弱々しい規制の下、なんとか値を崩さず保っていられるのは、おおむね農家と市場の間に農業共同組合が入っているところが大きい、といえるでしょう。

 「農協が間に入っている」というのは、つまりこういうことです。
バラバラ散り散りの農家が、豊作状態で自由に市場へ生産した米を流せば、そりゃあ供給過剰で、米がものすごく安くなってしまう。あるいは、価格の値崩れが無くとも、毎年の総生産高による供給状態の動向に価格が大きく左右されたら、農業なんてやっていけないわけです。
 だから、農家から、農協が安定した値で買い、価格もある程度政府や農協のコントロールと予定調和が効いて、どうにか値を崩さずにいるのです。
 また、農協を通さずに農家が直接自由市場へ米を流通させることも今は可能です。しかし、おおよそその価格だって、まず農協が買い上げた米の価格や、政府が備蓄米として買い上げた価格を『基準』として、社会的に決定されているところがあるわけです。

 米価の『適正価格』の維持には、そうした政府、地方、農産業界、農協、農家……といったコミュニティーの中での「社会的偏見と、先入見と、道徳と、コネと、シガラミと、人間関係と、予定調和と、既得権益」が絶対的に不可欠であると、俺は強く主張したいのであります!





(つづく)




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part1減反政策の廃止について~米の生産と価格の調整への擁護 

 政府は「米の減反政策の廃止」を方針として決定していますが、これより数回、これについて論じていきたいと思います。おおむね散文調にはなるかと思いますが、「米の生産において、政府や農協が生産、価格の調整行う」という計画的な経済政策を擁護する筋になっていくことと思われます。

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 俺は別に、「減反政策をやめるという事そのもの」については、別段の文句などありません。ただ、別の形での補助金や関税や規制などの「産業保護政策」や「計画的な生産調整や価格の調整」といった政府の諸権限を別な形で行使していくのであれば……という条件つきでありますが。つまり、今後、外国からの穀物輸入の制限を強め、国家全体として米の消費量を増やすように誘導して、さらに政府が買い上げる備蓄米の量を増やす……という方針での「減反政策廃止」であれば文句はない、ということです。

 一方で、世間で言われているような、「農業補助金によって自由な市場での価格決定が阻害されている! 農産業における政府や農協といった『既得権益』の介入を無くして、自由市場での競争で価格を決定すべきだ!」といった手合いのエセSFティックな志向には、本当に殺意すらわいてくる程に反対なのです。

 ただ、俺は政府の方針についてタテマエ以上の情報を手に入れられる立場ではないので、政府自体を批判する能力も資格も権限もありません。ですから、これは、政権や行政を直接的に批判するものではないということは、声を大にして申し上げておきます。

 しかし、「減反補助金の廃止」に対する現状の『大衆世論』が持つ論理筋立てについては、これを糾弾しないわけにはいかないのです。よって、この記事は例によって減反政策についての『大衆世論批判』であると、考えてもらえば幸いです。



 さて、減反政策廃止について、新聞、雑誌などで(保守系、革新系問わず)おおむね前提とされている筋は、
「減反に協力した農家に補助金を与えるという政策は、自由競争を阻害しているので、農家の発展にしさない」
 というものでしょう。
 とても不思議な事に、右派系の新聞であろうと、左派系の新聞であろうと、この前提だけは見事に同じなのです。
 違いがあるとすれば、こうした改革が「素晴らしい」とのたまうだけなのが右派系で、「改革が足りない」と不満を述べるのが左派系の論調であるというくらいでしょう。
 ということはつまり、こうした改革の筋――つまり、農業の中でとりわけ米について、「政府が介入する権限を小さくし、生産や価格を自由な市場によって決めさせていく方向性を『進歩』と見るという姿勢」については同じなのです。
 しかし、こうした『進歩』の姿勢は、俺から見れば古カビの生えたような甚だ時代遅れの『自由民主主義(リベラル・デモクラシー)』でしかありません。
 また、俺は保守派を自認しておりますが、そもそも保守の態度からすれば、世に言う『進歩』などというシロモノにはおおむね懐疑的な態度を持っているべきはずです。その証拠に、『右の本格派』と呼ばれたがっている俺は、そうした『進歩』なんぞマジでクソ食らえと思います。
 反面、本当に不思議なのは、『保守』を自称していながら自由民主主義的な『進歩』を礼賛する輩の多いことで、これが俺にはほとほと理解できないのであります。



(つづく)




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特定秘密保護法についての世評 

 今回は、また特定秘密保護法案についての世評を。


 今回は、「特定秘密保護法に絶対反対だ!」という方には無理にと言いません……が、特にそうでもないという方は、どうかランキングにご協力ください。
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 俺が、「学生運動の同窓会としての特定秘密保護法案への反対」を、ほぼ全面的に否定している事は、何回か前の記事にて示したとおりです。
 また、かび臭く、醜悪で、異常で、滑稽な彼らの様態を、あたかも「進歩への使者」がごとく取り扱うマス・コミにも、ほとほと辟易とし、脱力し、侮蔑の目を差し向けざるをえません。

 実際の所、世の中の『生活民』は、特定秘密保護法案が云々などというトピックに、ほとんど興味関心を寄せていないことは明々白々です。
 分かり易く言ってしまえば、世間一般の中で語られる頻度としては、消費増税の話題と比べて百分の一、千分の一ほどと言って過言ではないでしょう。

 にもかかわらず、おおむねこの先の現代史には「国民の権利を不当に制限する政府v.s進歩的な権利の保全を主張する一般国民」といった様相で綴られるのであろう事は、容易に推定されます。
 しかし、そもそも『国民』というのは、「今生きている国民」だけの事をいうのではないし、ましてや、「いい歳こいて、(学生気分で、或いはインテリぶって)チンドンと革命ごっこに熱狂する一部の声のデカいジジイ共」の事を言うのでもありません。
 彼らと彼らの支持者であるマス・コミが、自らを「国民の一般」と称するのは、一体どういう了見なのか、誰に断ってのことなのか、何の大儀のあってのことなのか……俺にはその辺りが不思議で堪らないのです。

 そうした「政府v.s民」という『幻像』が、一輪のあだ花として歴史の1ページを飾るのはほとほと我慢のならない事であるし、また、近現代の歴史を遡ってそれに類似した対立構造の物語を思い起こすにつけ、実の所、おおよそ「民の権利を政府へ請求する側」というのは「社会の一部で起こった学生運動的な何か」だったのではなかろうか……という疑惑の目を改めて差し向けなければならないと切に感じらるるわけです。
 勿論、「政府v.s民」の文脈で語られる歴史的事象のそれぞれが、全て「安っぽい学生運動的なるもの」で構成されているとまで言ったら、それは言い過ぎなのかもしれません。
 しかし、俺の生きてきた範囲においての事象を振り返って参照すると、綴られて提示される歴史の各々においてもそのようなきらいのあることを疑わないわけにはいかなくなります。

 このようなモノに対しては遡って権威の弁済を請求をしないではいられないのです。




 しかし、一方で、そんな彼らをあざ笑う側ーーつまり、「世間一般で、一応は保守とか右派と目されている者達」の多くにおいても、あるところでは「同じ穴のムジナではないか?」という疑義を呈さないわけにはいきません。

 まず、こういった左翼の乱チキ騒ぎを見て、外人のせいにする輩がいる事に疑問があります。
 つまり、これらを、在日が云々であるとか、華人が云々であるとか、そういう日本外のモノの工作活動の結果として非難を収束させていく論法はいかがなものか、ということです。

 だって、外人が工作活動に勤しむ事自体は、そりゃあ当たり前のことなんであって、正常といえば正常なことでしょう。

 本当に問題なのは、「特定秘密保護法のような法案に、反対して暴れ回ったり、インテリぶって理屈を吐きちらす『日本人』」の方であって、こちらの方が遙かに病的かつ異常な事象なわけです。


 この『日本人』が迷惑であることについてーー或いはその『迷惑な日本人の叫ぶ理屈』について、何かしらの反論や糾弾を無意識的に避けているからこそ、「全ては『工作員』の仕業である」という単純明快な帰結へ向かうのではないか、と俺は疑っているのです。

 と言うのも、特定秘密保護法案に関して、いわゆる左翼と呼ばれる人々が叫ぶのは、(感情的には反軍なのだとしても、理屈上は)「知る権利の保全」なわけです。
 そして、『民主主義』と『国民主権』といった筋の上で、これを原理的に突き詰めれば、確かに「知る権利の保全」は何よりも優先されるべき事柄となる……ということに、論理上なるのですよ。

 政治や経済に関するトッピクスからーーこと「情報の公開と機密」の領域に話題を限定しても、そこには『公正さ』の観点が無視出来ないというのは万人普遍に了解を得られる事柄でしょう。

 しかし、その『公正さ』とは何かという判断を、「主権者である国民による多数決」に依拠するのが、『民主主義』と『国民主権』の文脈であるわけです。(つまり、ニホンコクケンポウの文脈です)

 すると、『民主主義』と『国民主権』の筋の上では、「その機密保持が公正であるか」というのも、「主権者である国民による多数決」によって判断されなければ『公正さ』が得られない事になり、つまりは「政府による機密保持」自体が理論上あり得ない話になってくるわけです。


 とすると、本来、『保守』の立場からこれを批判するとなると、『民主主義』と『国民主権』の文脈そのものから遡って批判せねばならないはずなのです。
 つまり、『公正さ』の判断基準の根本は、「国家や土地の『歴史』がもたらした、道徳、差別、偏見、先入見」といった国民の『共通感覚(コモン・センス)』にあるという『保守の立場』に立脚すれば、「主権者である国民による多数決は、公正さの根本基準ではない」と反撃しなければならないはずだろーーと言いたいのです。
 また、国民が世代を越えて引き継いだ共通感覚を『公正さ』として活かす為に、ある部分で多数決の要素も『手段』として必要になってくるに過ぎないのであり、それが故に、知る権利(知る責任)の必要性もその運用の範囲においてそもそも有限的なはずである……といった所へ収束して初めて、いわゆる左翼的な請求に対して反を唱える論理となるはずなんです。

 というか、そう考えていなければ、理論上はいわゆる左翼と呼ばれる者の言うことが正しいということになってしまうんじゃないでしょうか?


 しかし、一般的に保守とか右派とか呼ばれるような人も、『民主主義』と『国民主権』の文脈から離れることをせず、そのまま「特定秘密保護法案は支持をする」という、論理矛盾状態を放置しているわけです。(そして、それは頭が良く、形而上学的世界に没頭するインテリ左翼にとっては、恰好な嘲笑の的となります。国民主権の理屈も分からないから保守は駄目なんだ、と)


 世の中で保守と呼ばれる者達が、この論理矛盾状態を放置できる心理的な支えは、これが「現実的な安全保障上の問題に寄与しうるものであるから」という、至極物理的な事情にあると思われます。
 つまり、単に、「チャイナの脅威が自分の生命や財産を脅かしうるから、左翼の言うような理想論だけではやっていけないだろう」という、『公正さ』からは一つ次元の下った所に、世に言う「保守」の動機が位置づけられているのではなかろうかという疑義です。

 というのも、この法案が名目上は「政府より自発的に発せられたというよりは、日米同盟の強化の一環として生じた」ということになっている事について、悲しみや失望を心の端に潜ませてすらいないのではないか?……と、疑われるからです。
 本来、我らは、我らの歴史がもたらした『公正さ』から、内的に政府へ「機密を保護する権限」を与えようとする姿勢を起こさねばなりませんでした。
 しかし、この度も結局、建前の上であろうと、その『公正さ』を「(アメリカをはじめとする)平和を愛する諸国」の公正さに依拠する……という所からこの大儀が発せられてしまっているわけです。
 これに対して、ある程度の『屈辱』や『嫌悪』を感じないというのは、動機に日本の『独立』とか『公正さ』が抜け落ちて、単に命の安全が保障されていれば良いという様に考えているとしか思われないのです。

 もし、そうであるならば……つまり、動機づけが単なる『生命の安全』にあるのならば、その心根は世の中で左翼と呼ばれている連中と大差ないのだと思われます。
 つーか、「現実的に安全が保障されるのであれば、それがアメリカの安全保障圏に属する事であろうが何であろうがなんでも良い」という姿勢の連中を保守と呼ぶのであれば、そんな保守に、左翼を貶し笑い飛ばす資格などないでしょう。


 勿論、『現実』は重要な事ですから、「アメリカの安全保障圏に属してしまっている現状」を急激かついっぺんに解消していくべきだなどとは思いませんけれど、それが更新されるにつけ「密かに『屈辱』や『嫌悪』に身を焦がし、その心持ちを言の端々に折り入れ、確認する」ということすらしないのは、単に生命の維持に固執しているだけで、国家の『独立』や『公正』に拘っているのではないんじゃなかろうかと疑われても仕方ないんじゃないでしょうか。
 しかも、保守だの愛国だのとのたまっている連中がその様であるのは、一体どういう了見なのだろうと理解に苦しむわけです。




 ただ、こういう事を言うと、すぐに『政府』をアメリカの手先だ云々と叫びのたまわって、首相をCIAだか統一教会だかの手先であるとか何とかいいつつ、「愛国的観点」から政権を打倒しようとしたり、猛烈な罵倒を施したりする輩が出てくるのは、本当に面倒な事であると思います。

 何度も言っていますが、平民の一人一人には『内閣』を直接的に非難する権利など、基本的にないのです。(逆に、議会や官僚機構に比較して、猛烈に支持する権利もありません)
 我々は、ひとまず『代議制』の英知によって、間接的に政治決定を執り行い、全体の合意を形成する事にしてきました。
 そういった前提があるのに、後から、単なる個人が(いかに愛国的であるという自負があろうと)政府に対して罵詈雑言を投げかける大儀も、資格も、能力もないのは自明の事であります。

 また、政府や政治家の言葉が多分に『建前』で彩られるのは、至極当たり前なことです。政府や政治家は、野に存ずる者共とは違って言論の自由など無きに等しいのですから。
 今回、俺が展開した批判は、生ぬるい言論の自由を存分に享受している野に存する者達に対してであって、言論に枷をかけられている政府や政治家や、ましてや安倍首相に対してではない事は、ここで明確に言っておかねばなりません。

 これは、政府の言はすべて建前であるから本気にするな……と言っているのではなく、「政府の言のどこからどこまでが建前であるかを判断する能力は、個人にはない事を知れ」と言っているのです。



(了)


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経済、2013年エントリをまとめてみた 

 2013年も残すところ二十日余りです。
 そこで、今回はこのブログ『日本が日本であるために』で、今年に論じた『経済』についての記事振り返って、抽出したものをまとめてみたいと思います。


yuuhi



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 さて、安倍政権発足後、去年の十二月――今からちょうど一年前に、

アベノミクスと、リフレとケインズ http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-47.html

 という記事を書いておいたのは、後から自慢するためだったので、紹介させてください。
 つまり、「リフレVS.ケインズの軋轢」が起こるだろうという事を予見したぜ……という、ちっぽけな自慢です。



 その後、基本的に、俺は、『リフレ』という態度を否定的に論じてきました。
 そのわけは、「経済における、金融や国境やらの自由」に無批判である所が一点目。
 もう一点は、「長期的に、政府を小さくしようとしている」あるいは「政府の規模や権限を大きくしようという姿勢がない」ところです。

 俺は、現状の政府の規模や、経済への介入の権限は、「小さすくしすぎだ!」と考えています。
 それが故にリフレは「新自由主義ではない」という顔を装って、上の二点に関する「自由への固執」をしっかりと受け継いでいるが故に、ある意味「ゴリゴリな新自由主義者」よりも厄介な存在であると考えます。
 関連する過去記事は以下。


マネタリズム・リフレ及びケインジアンの経済思想
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-110.html

上念司という評論家について
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-130.html

リフレ及び消費増税反対論に対する糾弾と、ファシズムのススメ
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-105.html



 また、世に言うグローバリズムは、「資本主義版コスモポリタニズム」以外の何物でもない――という立場から、これを否定してきました。
 つまり、経済における国境は、(ある程度開かれている必要はあるが)ある程度「閉じられていなければならない」ということを論じてきたつもりなのです。

理論上、国境を越えた経済が均衡すれば戦争はなくなる
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-94.html

何故、輸出をするのか
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-124.html

TPP、自由貿易イデオロギーについての省察
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-50.html



 このグローバリズムの志向が、『リフレ』の姿勢に含まれていることを論じたのがこちら。

過剰なる金融緩和への思い入れとグローバリズムの連結、についての糾弾
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-123.html




 そして、『消費税増税』について。
 俺は、基本的に消費増税については「大賛成」です。また、法人税、所得税の増税も主張します。
 しかし、増税は基本的に「デフレ状態で行うべきではない」し、「デフレを抜けた後の増税が望ましい」という考えには賛同します。
 つまり、消費増税においては賛成だが『時期』については「来年の四月からというのは理想的ではない」といった風に考えていたわけです。

 ただ、今年の九月に集中的になされた世間の「消費税反対」の態度は、おおよそ理屈の通じない、卑怯な論じられ方をしていたように思われたので、九月にはこれを批判してきました。


消費増税反対論に潜む醜悪な態度・改
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-103.html

西田昌司の消費増税容認、についての擁護
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-106.html

田村秀男の消費税反対論における中川昭一利用、についての糾弾
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-104.html




 俺は学者でも専門家でもないですが、こうやって振り返ってみると、「悪くない」と少しくらい自賛しても良い気がします。
 勿論、素人ですし、生活の合間に書いているので、何かしらの勘違いや思い違いはございましょうが、独自の論法を織り交ぜることができたと思うし、日本の経済を捉えるにつけ何かしらの手がかりやヒントを提示することができていたならいいなあ……と、偉そうな事を思ったりするこの師走であります。




 その他、経済に関する今年のピックアップ記事

成金の請求と、小市民の請求
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-127.html

政府における、短期的な支出と恒常的な支出
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

経済は、「政府がどうあるべきか」という思想によって語られている
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-109.html

アベノミクスにおける二つの流れと、麻生太郎の重要さ(前編)
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-90.html

アベノミクスにおける二つの流れと、麻生太郎の重要さ(後編)
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-91.html





(了)


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ガラケーという呼び名について 

 俺は、スマートフォンでない携帯電話を「ガラケー」という呼ぶ呼び方が嫌いです。
 今回は、そんな話です。

sora


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 ガラケー、これはつまり「ガラパゴス携帯電話」という意味ですよね。

 ガラパゴス諸島……つまり、世界から孤立した無人島で、独自の生態系を育んできた島々の事ですが、ここでは明らかに否定的なニュアンスがあるでしょう。
 つまり、「グローバルな市場から孤立した形態の携帯」という意味で。

 そこには、「日本の市場でしか受け入れられない形態の携帯を作っていても、メーカーがグローバルな市場で携帯を売ることができない!」という指向があります。
 対して、日本の市場で流通する携帯が『グローバルな基準』であれば、メーカーは日本の市場で獲得した『規模』や『習熟』をもって、海外へ打って出る事が出来る……という、かなり子供っぽい理屈があるわけです。


 しかし、何故、我々日本人が今まで慣れ親しんできた携帯電話の形態を、『グローバル基準』なんぞに合わせてやらなきゃならんのか。
 また、自国市場の『基準』がグローバルに合わせられたら、打って入られる危機もあるが故に、「長期的には自国内市場が不安定になってしまう」という危機感はないのか。


 これは、たかが携帯の話ですからまだいいのですが、その辺りから国民レベルで「生活基準をグローバル基準に合わせよう」というような浅はか極まりない姿勢が蔓延っているように思われてなりません。
 よもや、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの市場のありようをグローバル市場に基準付けしてもらおうと決意した」などと思っているのではないでしょうか。


 戦国乱世の昔から、織田信長は『関所』を取り払い、楽市楽座と国の境を越えた自由な経済をもって天下を統一していきました。国を滅ぼそうと思ったら、まずは軍事的にそこを抑えることが重要に決まっていますが、その次に来るのは経済の境目を無くす事なのです。
 それは日本の天下の内であったことですからまだ結構な事ですが、日本と日本外の所でそれが起こるのは、真っ平ごめんというもの。

 国内市場は、ある程度『ガラパゴス的』でなければならんのです。


 ……まあ、俺はスマートフォン使ってますけれどね。



(了)


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藤井聡『全体主義としてのグローバリズム』を聞いて 

 先日、12月2日、京都で開催されたレジリエンス研究ユニットのシンポジウム『グローバル資本主義を越えて』に参加しました。
 立派な先生方のお話を拝聴でき、一流の研究者の熱量を直に感じることができて、とても良い経験になったと思います。
(また、FBで知り合い、現地でお世話いただいた方々、ありがとうございました。)


 今回はせっかくの経験を踏まえ、拝聴した論の中で藤井聡教授の『全体主義としてのグローバリズム』を取り上げ、解釈をしてみたいと思います。



今回は、「グローバリズムが好き」という方には無理にと言いません……が、そうでもないという方は、どうかランキングにご協力ください。
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※これは、あくまで俺の捉え方ですので、藤井教授の論を正確に捉えているという保証はしかねます。また、藤井教授の『全体主義としてのグローバリズム』の論をお聞きでない方にとっては、ワケの分からない所もあると予測されますが、その点ご了承ください。



 京都大の藤井聡先生は、この度の発表にてグローバリズムの『全体主義性』をご指摘なさいました。
 つまり、「グローバリズム、ひいては新自由主義というものは、ナチズムのような『全体主義』の性質を帯びている」ということをした上で、それらを否定的に論じたわけであります。

 ただ、この論は、そもそもいわゆる新自由主義の立場から、
「国境を越えた人類普遍の経済体制(グローバル資本主義)へ反抗するのは、国家中心主義であり、全体主義である」
 といったような攻撃が意識的、無意識的になされてきたーーという予めの世の風潮を踏まえた上で、はじめてその面白さが解せるのだと、俺は考えます。

 つまり、『新自由主義、グローバリズム』といった立場からは、それらに反抗する者が『全体主義』であったわけですが、藤井教授は、『新自由主義、自由貿易主義』こそが『全体主義性』を帯びているのだ……としているわけです。
 これは、いわば「アカデミックなカウンター攻撃」のようなものと評せるのではないでしょうか。


 藤井教授のおっしゃっていた『全体主義(トータリズム)』というのは、「個に対する全体の優位性を、任意の思想や体制によって徹底する」という主義の事でした。

 この『任意の』という所が肝です。

 ここでは文脈上、「文化圏の歴史なるものから任意の」という風におっしゃっているのだと解釈するのが適切でしょう。アンナ・ハーレントがそのような筋で言っているのかどうかは、俺は存知ませんが、少なくとも藤井教授の文脈上、そのようにおっしゃっていることは明白です。

 というのも、ここにおける『全体主義』で、もし「個に対する全体の優位性」を担保する思想や体制が、「国家や文化圏の、歴史的な権威、慣例、慣習、道徳、偏見」によって、『人間を歴史的に拘束する適正なもの』であるならば、それはグローバル資本主義に対する唯一かつ最大のアンチテーゼとなるからです。

 つまり、藤井教授は、「国家や文化圏における歴史に束縛されていない『任意』の思想、体制によって……」という意味での『全体主義』を否定的に見ているのであるという所へ、特に着目すべきだと言いたいのです。
 その上で、『グローバル資本主義』ひいては『新自由主義』の思想は、「国家や文化圏における歴史に束縛されていない『任意』の思想」であるから、否定的に見た『全体主義』に当てはまるものである……と、こういった筋として、俺は『全体主義としてのグローバリズム』のお話を捉えました。


 この論の本筋については全くその通りだと賛同します。

 ですから、本当に余談だとは思うのですが、ここで俺はナチスドイツに対して一定程度の擁護をせずにはいられません。

 勿論、ホロコースト(民族に対する大量虐殺)については、人類普遍的に否定されるべき行為であるし、個に対する全体の優位性を担保するものの採択が『任意』な所もあったでしょう。端的に言えば、「民主主義が失敗した」という意味で。しかし、そもそも、ドイツをそのような『任意』な思想の徹底まで追い込んだのは、第一次世界大戦の戦勝国です。
 ドイツは敗戦国として天文学的な賠償金を課され、その上で(第一次)グローバル資本主義に対抗するのは、国家国民を統合した形での国民経済が求められたのにもかかわらず、既に『歴史』や『国家体系』が一次大戦に伴う革命騒ぎで毀損されていて、そこを補填するのに『任意』な思想や体制を構築せざるをえなかった……という側面は、無視できないと考えます。
 無視できない……というのは、つまり、「そこまで追い込まれた国家が、他にどうすれば良かったというのだ」という所と、「これを聞いた者が、ヒトラー政権の内政や経済政策の技術面をも否定的に見ることは牽制すべきだ」と思ってのことです。



 とは言え、これをもって藤井教授の論へ文句をつけるのは、あまりに狭量というものでしょう。

 だって、現実的には、戦後の世界から現在にかけて、ヒトラー、ナチズム、ファシズム、全体主義……というのは、イメージ的に絶対的な『悪の象徴』です。
 そして、そのイメージ的に絶対的な『悪の象徴』を引き合いに出して、国土強靱化や反・グローバリズムに対して「全体主義」とレッテル貼りをする卑怯な指向が、世の中にまずあるわけです。


 新自由主義やグローバリズムといった『思想』を、思想と意識せぬままに普遍的な真理と思いこんでいる輩にとって、全体主義とは単に「個に対して、国家の重要性を強調する姿勢」のことであり、グローバリズムにあだなすものの事であります。
 しかし、全体主義を「個に対して、全体の優位性を、(文化圏の歴史から)任意に採択された思想や体制でもって徹底する主義」と考えるのであれば、新自由主義やグローバリズムといった「現在、任意に採択されている思想」こそが全体主義であって、かつ、それは否定されるべきものとなります。

 つまり、そういう苛烈な『思想戦』なのだと、学術的な世界を外から見る者も理解する必要があると、俺は思うのです。



(了)


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