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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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3月26日、経済 

 経済にかんする私の基本的な考えを整理してみます。

 まず、デフレの脱却にアベノミクスが言われるようになって久しいですが、デフレの脱却というのはあくまで短期的な話題であります。その先どのような長期ビジョンを前提しているか、という所が違えば、当然ながらアベノミクスという短期の話題においても姿勢が違ってきます。
 ですから、たとえば、財政出動に重きを置くか、金融緩和に重きを置くか……という対立は、単なる短期的技術論以上に、その長期ビジョンの違いに根本があると見るのが適切であるという事です。

 ここで問題にしたい長期ビジョンとは、主に『政府の適正規模』の話題であります。
 ごく単純に言えば、これから先、我々の国家においてどのような支出規模、支出体系を持った政府を築いていくか、という話題です。

 もし、ある人が政府の支出規模(あるいは社会保障費以外の支出)は減らして行くべきだという『小さな政府論』を大前提としているのであれば、デフレの脱却の為であっても財政出動は歓迎されるものではないでしょう。また、金融緩和はどれだけしても政府の支出が増えるわけではありません。ですから、短期の話題にしても、「金融緩和でデフレは脱却できる」とリフレの技術論が出てくるわけです。

 また、仮に財政出動を容認する論者がいたとしても、彼がどのような長期ビジョンを持っているかは一見したところ見えにくいものです。というのも、前提としては小さな政府論を志向しているが、デフレのほんの一時だけ財政の出動を容認するといったような考え……つまり、民間市場のカンフル剤としての財政出動を技術論として述べているに過ぎない、かもしれないからです。加えて言えば、財政出動派論者の前では財政出動を一応リップサービスで言っておく……という気持ちの悪いすり寄りもさかんに横行するような御時世であります。



 しかし、そもそも『大きな政府論』を志向していくべきだとする者からすれば、話は違ってくるのです。
 たとえば私からすれば、そもそもデフレの需要不足、供給過多は、政府による公的需要を減らした分であると考えます。つまり、需給ギャップについて、別に民間消費で埋めていく必要はないし、むしろ恒常的に政府支出で埋めていくので何が悪いのか、と考えるのです。
 たとえば、財政出動といって年間の公共事業を五兆円から十兆円に上げたとしましょう。ただ、もしめでたく数年後に物価がインフレに振れたとしても、その十兆を下げる必要は別にありません。その時は、支出を減らすのではなく、増税をすればよいのです。

 デフレの時は、本格的な増税をするべきではないので、支出を増やしつつ、国債を刷ればよいでしょう。しかし、デフレを抜けた後は、過度のインフレを抑制したり、財政の均衡を考えたりせねばなりません。その場合、二通りの考えがあって、「デフレを抜けたら政府支出を再び減らす」か、「デフレを抜けたら増税をする」というものです。
 前者の方が、確かに国民一人一人が自由に市場で消費できるようになる量は多いでしょう。しかし、政府とは別に「国民一人一人が自由に市場で消費できるようになる量」を増やす事が目的ではありません。当然ながら政府の使命は、「国家を存続させる事」であります。また、これは国民の使命でもあるのです。
 もし、国民の消費力が不足しているのが国家存続の第一の問題であると観相するならば、デフレを抜けた後は政府支出を減らすべきでしょう。しかし、現代の日本はどう考えても(平均値として)まだまだ飽食の時代です。それぞれの家計の消費が物質的に清貧しすぎているから経済成長できない……などというようには考えられません。
 ですから、経済成長してゆく『需要』は、民間消費よりは『公の需要』に求められるべきだと考えるのです。

 公の需要、つまりーー軍事費、公共事業費、教育・開発費、公務員の数と給与の増加、国会議員の定数の増加ーーなどなどです。

 需要ギャップを埋めるべきはむしろこうした公的な需要で、そしてその先、供給が不足するようになった場合は国民の雇用、労働がそこを埋めていけるわけです。
 つまり、国民の働ける量を増やす一方、将来的に増税をして、最終的に支出を増やすのは主に政府……と、こういう方向性を目指すべきなのだと、私は考えるのです。




 こういう筋を、私はこのブログで何度も何度も繰り返しているわけですが、この世では、おそらくもっと論理的で説得力を持った装丁を施さねば通用しないのでしょう。ですから今回は、そうした強固で説得力のある論理の組み立てを、この基本線にそって行っていきたいという確認を取ったまでであります。
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3月25日 

 先週からまた高熱が出てダウンしておりました……
 丈夫なだけが取り柄だったのですが、無理がきかなくなってきたのでしょうか。私は現在29歳。もう決して若くはないのかもしれません。

 それはそうと、今朝、一応熱が下がってきて、新聞を読むくらいの事はできるほど回復したのですが、大阪市長選の投票率の低さは、病に弱った私の心を癒してくれました。23.59%というのは驚きです。白票の数も一割弱とのこと。
 近頃、大阪に良いイメージをもっていなかったのですが、今回は私の中の大阪市民の印象が良くなった事は間違いありません。さすがに、橋本徹という人の言っている事、やっていることが支離滅裂であることが赤裸々になってきたという事でしょうか。

 私は基本的に、投票率は低くて良いと考えております。その理由の第一のものは、投票率が高いと浮動票が『流行の民意』に集まってしまう、という事。それに、第二に、より多くの多数決の方が、より正しい……などという話には根拠がない、という事です。
 橋本氏はこのままフェイド・アウトしていってもらえたらありがたいですが、第二、第三の橋本(あるいは小泉)の登場を防ぐ為にも、この先も『民意』にはおとなしくしてもらいたいものです。
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3月21日 

 近況報告をば。

 先週末、京都へ行っていました。
 とは言えど、別に観光で行ったわけではなくて勉強をしに行ったのです。とても勉強になりましたし、楽しかったです。

 この成果は、文章として形で示したいのですが、それは少し時間がかかると思われます。生活の合間に少しづつ書いて発揮していきたいと考えております。
 というか、また少し忙しいので、少しづつやっていくしかありません。

 しかしそれにしても、経済や政治、思想や哲学という種類の事に深く触れると、おおよそ精神が病んでいくような気がしてなりません。きっと不健康なことなんでしょうね。
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コンピューターにかんする考察d 

 コンピューターの演算する『確率』や『制御』が、この社会の総体を網羅しうるなどという安っぽいSFのような誤解を前提として話がされる……このことが導く悲惨は、例えば『金融』において顕著に顕れました。

 金融において、情報を集積し、危機を管理する為それぞれがリスクとリターンを確率的に算出し有効に資産を運用していくというのは、確かに合理的であります。それは、コンピューターによってより精度が増すことになり、それぞれはより合理的な資産運用ができるという話なわけです。
 しかし、コンピューターの情報技術による(個人、法人含めた)それぞれの合理的な資産運用が、社会全体としても調和し続けていくのだという考える向きは、圧倒的に誤解なのであります。
 そのことは、おおよそリーマンショックで分かられているべき事です。

 まず第一に、金融資産のリスクやリターンを確率的に予測するということは、コンピューターにも無理に決まっています。もし、コンピューターの中にほとんど丸ごと現実世界を移植できるならば可能かもしれませんが、そのような事は不可能なのであります。それほどまでに、我々の生きる現実世界とは膨大なのです。未来永劫不可能であると断言してよいです。
 特に金融についてコンピューターが算出する確率は『ごく短期の至極安定的な状況』など、そういう限定された所でしか通用しないエセ確率論なのだと考えるべきなのであります。

 第二に、もし、その限定された確率論を有効に使用し、それぞれとしては結果として合理的に振る舞ったとしても、それが社会全体として調和するとは限らないわけです。(合成の誤謬)
 時に、全ての個々が合理的に振る舞うことがバブルを起こし、恐慌を起こし、デフレを起こす場合もあるのですから。



 さて、私がこの事で思い起こすのは、やはり進歩主義の害悪なのです。
 たとえば、もし、人間の理性が完璧に近いほど優れているのであれば、政府が無くなったとしても、我々は社会をごく調和せしめることができるでしょう。(牧歌的社会契約説における牧歌的な自然状態のように)
 そんな中、どうやら人間の理性とは不完全なものであるらしい事は、分かられてきている。

 しかし、そこで、コンピューターという存在を、人間の不完全性を補ってくれるものとして扱えば、技術の進歩がいつしか合理的に社会を調和せしめる事ができるのだ、という具合の誤解が生まれるわけです。そして、人々は、その描いた進歩の先を見つめ、合理性と効率性が、社会の矛盾を解消してくれている社会を想定します。
(つまり、コンピューターのある牧歌的な自然状態を仮想しているのです)


 私には、この『自然状態+コンピューター』による進歩主義が、政府の権限を剥奪したり、ケンリを請求をしたりするのに、とても都合の良い誤解に見えるのです。

 金融については、政府から『規制』や『介入』の権限の剥奪を。
 あるいは、災害については、政府へ(近頃では電力会社へも)あらゆる『危機』を予測する事と、「健康で文化的な生活」が守られるケンリを。
 それぞれ請求する為には、とても都合が良い誤解でしょう?

 多くの人は実のところ、そうしたコンピューターへの誤解が誤解であるという事に気づいているくせに、都合が良いからといって気づかないフリをしているんじゃあないかと疑ってしまいそうになるくらいです。

(つづく)
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嫌韓にかんする考察a 

 もし、「嫌いな国を三つ上げろ」と言われれば、私は躊躇なく「アメリカ、チャイナ、そして韓国」と答えます。

 ただ、実の所、私はそれら憎き国々そのものが憎いのかといえば、そうではないのでしょう。
 と、申しますのも、私は正直、『外国』の一つ一つへそこまでの思い入れを持つ事ができないのであります。何かを嫌うには、それなりに思い入れのあることが大前提でありましょうが、私には『日本ではない国々』に対してそのような思い入れを持つほどの義理はないのです。
 いえ、外国や国際情勢に「関心がない」というのではありません。
 ただ、外国というのは、やはり決定的に『ヨソ』であって、心の正直な部分では一定程度「どうでもよいヨソの事」なのであります。


 例えば、私は何らかの災害でヨソの国の人々が甚大な被害を被った事を聞けば、一応、悲しい気持ちにはなります。火山噴火、戦争、地震、津波、ハリケーン、台風……様々な災害がこの地球上では起こり、人々の生命を無情に奪ってゆくのです。場合によっては募金をしてみたりなどもします。

 しかし、外国で起こった災害でどれほどの人が被害を被ったことがテレビニュースで報じられようと、東日本大震災の報を受けた時の百分の一のショックにも達しないのであります。

 或いは、阪神淡路大震災の時、私は小学生で直接の被害は受けておりませんが、その時の大人達もやはり日本人の被った大災害に大きなショックを受けていたようでした。それは、他の国で起こった災害ーーたとえば火山や戦争ーーがどれだけの人間の生命を奪おうとも、決して達する事のない狼狽えようであったのです。

 私は子供ながらに、「おかしいな」と思いました。
 と言うのも、常々、大人達は「人間の命ほど大切なものはない」と言い、また、「国境はくだらないものだ」と言うわけです。
 その事が本当ならば、そのショックや関心において、日本で起こった事だけが特別に強いのはおかしいのです。

 私は阪神淡路大震災の当時、子供ながらにこう結論づけました。

 要は、「人間の命ほど大切なものはない」という事と、「国境はくだらないものだ」ということは、大きな部分において「日本人が、日本社会の中で円滑に過ごすための『たてまえ』」なのだ、と。
 そして、そのたてまえが『たてまえ』だということも、みんな実は分かっているに違いないのだ、と。
 ただ、それがたてまえだということを口にしてしまえば、それはたてまえではなくなってしまうから、口にしないだけなのだ、と。

 そう考えなければ、大人達が堂々と言動に矛盾をきたして平然としていられる事由を、解釈することができなかったのであります。



 しかし、これは大きくなってから気づいた事ですが、多くの日本人は、あまりにもそういった『たてまえ』ばかりを口にするものだから、それがたてまえだという事を忘れ去ってしまっているのです。
 それでも、それはやはり『たてまえ』であるから、内実の個々人はとてもナショナルな感情に依拠し続けているのです。
 そして、精神的に抑圧されたナショナリズムは、酷くねじ曲げられた形で表出されてくるのであります。

(つづく)
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3月11日(コンピューターにかんする考察c) 

 コンピューターの演算する『確率』や『制御』が、限定された状況でしか通用しない……などという事は、実は、おおよその人達は常識論として分っている事のはずなのです。
 しかし、多くの人がその事を認識するなり確認するなりという態度を持ち続けるのは困難な事でありますから、コンピューターの演算における眼界を見定めようという意志や姿勢は発揮されなくなります。逆に、そうした技術の進歩はセンセーショナルであるから、どうしても其方に目を奪われてしまうものです。

 すると、いつの間にか、そうしたコンピューターによって演算された『確率』や『制御』が『無限の状況』に適応されうるという前提に立って、世の様々な話がされるようになってしまうのであります。

 例えば、『リスク・マネジメント(危機管理)』という酷い言葉に、その誤解が顕著に見てとれます。

 勿論、発生頻度の高い危険に対して、その発生確率を抑制し、また起こった際のダメージを抑制できるよう、あらかじめの対策を打っておく……というのはとても重要な事でしょう。それ自体は、良い事であるし、コンピューターも役に立つのです。

 しかし、大問題は、それを臆面もなく『リスク・マネジメント(危機管理)』と呼んでしまう所にあります。

 何故これが大問題かと言えば、そのようにして人が予測しうる危険というのは、実はこの経験世界における膨大な『危機の可能性』のほんの一部である……ということが分かられていれば、リスク(危機)を管理(マネジメント)するなどという言葉を易々と使用できるはずはないからです。

 つまり、コンピューターによって演算される『危険』の確率が、経験世界における『危機(リスク)』の可能性の総体をおおむね網羅できているという誤解が、知らず知らずのうちにされてしまっているわけです。

 もし、コンピューターによって演算される『危険』の確率が網羅しうる領域が、経験世界の『危機(リスク)』を管理できるほどに広いのであれば、我々は我々の社会を、ごく無駄なく、矛盾なく、効率的に運用していけるという事に理屈上なります。或いは、今は不完全でも、世界をそのような進歩したモノへせしめることが可能である、という雰囲気が醸成されます。

 ただ、それは世界に対する誤解なのです。
 
 この誤解がコンピューターの問題の根っこであって、そして、その誤解とは進歩主義であります。
 逆に言えば、もし、コンピューターの網羅しうる領域が、膨大な経験世界と社会においては、限定された部分にしか適応されるべきではない事が分かられていれば、我々はもっと『保守的』であるはずなのです。
 コンピューターによる進歩が『危機(リスク)』を管理できないことが分かられていれば、少なくともあらゆる意味で『未来は不確実』であることが見通せます。すると、一見、無駄で、矛盾に満ちて、非効率な社会のありようも、その中に人間組織の英知が幾ばくか含まれている事を感じ取れ、変革を躊躇できるはずだからです。

(つづく)
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3月10日Ⅱ(コンピューターにかんする考察b) 

 コンピュータによる高度な演算が網羅しうる領域に対する過信、という問題。

 それは、コンピュータの高度な演算によって、人間の理性の不完全性を補う事ができる……と過信すればするほど、進歩主義的世界観を肯定することができる、という論理的な関係性の問題であります。

 コンピューターとは演算機であります。大量の数値を蓄積し、法則の下に確率を算出したり、機器を制御したりするのです。
 それは、人間の能力を遙かに越えた演算能力で、人間の目から見るとコンピューターの出す『確率』や『制御』は世界の多くの矛盾や葛藤を、合理的に解消してくれるもののように思われるのです。
 つまり、我々の社会は、その『確率』や『制御』を指針にして運営されていくのが『科学的』であるという、ドグマの問題であります。

 勿論、そういった確率は、状況がとても限定されているのであれば、確かに良い意味で合理的でしょう。
 例えば、そもそもコンピューターやインターネット技術とは軍事用に開発それたものでありますが、戦場というのは状況が限定されているわけです。
 その、限定された戦場というフィールドの上では、行動もその目的もある程度限定されていますでしょう。

 しかし、我々の経験するこの世界は至極膨大であります。そして、我々は、この膨大なる経験世界の中を生きているわけです。

 その事を踏まえれば、コンピューターの演算する『確率』や『制御』が、我々の社会に踏み込んで来てよい領域は、限定的であると考えるべきなのです。また、その限界を見定めない態度は、都合のよい進歩主義的世界観の温床にもなりかねません。

(つづく)
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3月10日(コンピューターにかんする考察a) 

 コンピュータの問題としてよく聞かれるのは、IT犯罪ですとか、現実世界でのコミュニケーションの欠如ですとか、そういった問題点が指摘される事が多いです。つまり、インターネットによる高度情報化において人間の社会のほうが振り回される、という問題です。
 これは、高度情報化社会において、人と人々が現実世界の実践によって得るはずの自生的な言語感覚を失っていくという問題、とも言い換えられます。

 私はこの危惧に賛成です。
 インターネット上ーーソーシャルネットワークやゲーム、ブログ、Twitterなどで行き交う大量で簡易なコミュニケーションは、現実の複雑なコミュニケーションを具体的に阻害しているように思われるからです。

 しかし、
 私は、こうしたIT(インターネット)による高度情報化社会の問題は、コンピュータ技術の抱える諸問題全体の中で最終的に顕在化されたものとして捉えておく必要があるのではないかという意見を持っています。

 つまり、そこにはインターネット以前の『コンピュータによる高度な演算が網羅しうる領域に対する過信』という問題がまず根底にあるはずだ、という意見です。

(つづく)

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3月9日(自信) 

 そう、自信です。
 自信こそ、我々が『正当』というものへ拘るために不可欠なものであり、また、正当に拘る事ができてこそ、真の自信を得る事ができるのです。

 それは心理学でいう『抑圧』からしつらえた虚飾の自信ではなく、心の奥底から、自分が自分であるという事についての信念の事であります。

 我々の市場をグローバライズ(アメリカナイズ)したり、グローバルな(アメリカの)経済圏に時代と共により属して行く……などという事を心から歓迎している者が、本当はどれほどいるでしょうか。私は、もはや世界はそのような事が可能な風に出来ていないと考えますけれど、それ以前に普通に嫌でしょう。
 実は、「嫌だけれど現実的に考えて、チャイナよりはアメリカの方がマシ」と考えて、それで妥協していたはずなのです。

 いや、現実を見て妥協することは良いのですよ。
 しかし、それを妥協と認めないでいると、妥協した現実から理想へ向かう『意志』が欠如するのです。

 例えば、「我々には柔軟性があるから、自ら進んで市場をアメリカ化しているのだ」とか、「我々は民族的に勤労的で、優秀だから、グローバル市場(アメリカ圏市場)で競争して勝てるはずだ。だから、自ら進んで市場を開いているのだ」などと言い張ったり。

 こういうのは自信ではなく、『虚勢』というものです。
 本当は誇りが傷つけられているのに、「傷つけられていません」とする方便です。
(視点を変えて見れば、それは、現時点での徴兵可能性を一ミリでも増やしたくない一方、ナショナリズムだけは充足させたい……という信じられないほど勝手な民衆の都合へ上手に応えた虚勢や方便でもあるのですが)


 我々に必要なのは、日本が日本である事への自信であります。
 日本を、日本ではないものにして代替的に得る虚飾の自信など必要ないのです。

 政府のあり方、経済のあり方、市場のあり方、産業のあり方、そして生活のあり方に至るまで、我々の歴史的な正統、正当、適正、価値、基準諸々における共通感覚についての自信……つまり、独立への自信こそが必要なのです。

 当たり前ですが、経済は政治と切り離せないし、また、軍事や外交とも切り離せません。
 それは単に貿易が政治的パワー・ゲームだというだけの話に留まらないのです。
 つまり、国際関係において、我々が我々の思う大儀に基づいて適正に振る舞うという独立した立場を持ってこそ、国内政治や経済においても自分たちの内発な『公正についての共通感覚』を信じてやっていこうという気になる……という意味で。
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3月8日(クリミア、米露、国内経済論) 

 だから、私の思いますのは、外交や国際情勢が、国内での経済論に影響を及ぼすところは大きいという事です。それは、間接的な事柄であってもそうなのです。昨年のTPPへの交渉参加は、アメリカへの従属を寛容に見る風潮ばかりでなく、アベノミクスにおいて第一矢の重視、第二の矢の軽視、そして、第三の矢は産業政策ではなく、構造改革、規制緩和だという風潮を世間で支配的にしました。明白に、TPP交渉参加が分水嶺になっていたのです。
 そして、世の風潮に、政府が支配される部分は我々が思っている以上に大きいのだと考えます。


 さて、ウクライナ、クリミア半島の情勢が切迫しております昨今。ロシアとクリミア自治共和国は、クリミアのロシア編入に向かっているようですが、それにいきり立つのはヨーロッパ諸国ではなく、アメリカです。
 そして、やはりアメリカの大統領や国務長官は、下手くそをやっているとの見方が多いようで、どう考えても前のめりに過ぎる。経済制裁と言って、アメリカがロシアにどれだけの事ができるのか。アメリカが、「経済制裁!」と号令をかければ、他国……EU諸国も追従すると予測しての、いわば『アナウンス効果』的なものをねらっての事でしょうか。私には、アメリカにも金融の緩和にも、無限のアナウンス効果などない、と思いますけれどね。
 また、ここまで口先の語気のみを強めれば強めるほど、後に何も出来なかった時、損なわれるアメリカの威信は大きいと考えなかったのかというのは、非常に疑問です。

 どうやらアメリカは上手くやれていない。そこで、日本がアメリカとの距離を取りつつ、米露間を上手く立ち回る事ができたら。
 これは日本の国際的な威信を高めるという以上に、日本国内における国民の自信に繋がるでしょう。

 自信というのは非常に大切です。それも、薄っぺらで、虚飾の、空元気としての自信ではなく、「日本は国として独立して振る舞っているのだ」という確かな誇りに基づいた自信が必要なのです。
 そうした確かなる自信を、ーーほんのひと欠片でもーー対米露間の間での政府の振る舞いで獲得できたのであれば、国内における経済論の風潮も大きく目が変わると思います。
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3月7日②(昨年の経済論とアメリカ) 

 支持率の高い行政府の下では、一つの政府のAという行動が、世の風潮へ強い影響を与えてA'という風潮を生みだし、その世のA'の風潮が再び政府のA"という行動へ影響を与えるという力学が在ると、私は考えます。
 そして、そのAが外交案件であったり、国際情勢に強く影響を受けての行動だったり、はたまた偶然起こった事であることもーーいや、むしろそうである時の方がーーありうるのです。

 少し時を遡って経緯を振り返ります。
 例えば去年。政府がTPP交渉参加という決定をすると、これに世は多大なる影響を受けました。TPP寛容派が優勢になり、反対派が劣性になるというのは勿論の事、TPPを肯定する筋の経済論理そのものが優勢になっていったのです。

 TPP交渉参加の以前、アベノミクス第一の矢『金融緩和』と第二の矢『財政出動』における姿勢は、「デフレ脱却に最前を尽くす」という話の下、一時的に融和した情勢でした。
 また、第三の矢『経済成長戦略』においての具体論はナアナアにされておりました。「規制緩和と構造改革」の基調なんぞを述べる者は少数で、一部では麻生蔵相のように全く逆方向の「産業政策」を述べるような者すらあったのです。

 しかし、昨年の日米会談後、TPPへの交渉参加が決定されると、TPPへの寛容論だけでなく、第一の矢『金融緩和』に重心を置き、第二の矢である『財政出動』は「ちょっと」で、第三の矢『経済成長戦略』はイコール「規制緩和と構造改革」であるという意見が、優勢になってしまいます。
 これは至極当然の事で、要は、優勢になった『TPPを寛容的に見る人たち』が、そういう意見だったからです。逆に、構造改革でモノを安く作り、金融緩和で為替を有利にし、政府は小さく、税は少なく、経済や貿易に口を出さない方が、輸出によって民間市場が成長出来る……という意見でなければ、TPPに寛容になれるような経済論としての筋はないのです。
 よって、TPPの交渉参加によって、国内の雰囲気としての『三本の矢の飛ばし方』が、その向きへ傾きを強くしていったわけであります。
 すると、政府の方も、世の雰囲気に影響を受けて、(意識してか、しないでか)そうした三本の矢の飛ばし方へ傾きを強めていく……という、あまり私としてはよろしいとは思われない循環に入っていった、と分析します。

 また、そうした三本の矢の飛ばし方が、需要不足を輸出で補うという(あるいは、金融を緩和すれば需要不足は輸出で補われていくはずだという)ところへ行き着く以上、TPPへの寛容はアメリカの経済圏というモノへの強い強い信頼を前提としているという事も指摘しておくべきでしょう。
 それは、中国による軍事的脅威に肝が冷え、強きアメリカ圏に属することを頼りしたかった日本の民衆が、それを直接的に言うのではあまりに自尊心が傷つけられるので、経済という布でオブラートに包んだ話にしてくれる事を歓迎した……という所があって、はじめて成り立つ話ではあるのですけれども。
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3月7日(遡ってソチ五輪、浅田真央) 

 そういえば、先月、冬季オリンピックが行われましたね。
 私ほとんど見ていないのだけれど、最初と最後のフィギュアのシングルだけは見ました。これは妹の影響で、フィギュアスケートは結構見るのです。


 男子の羽生選手の金メダルは確かに素晴らしい出来事でした。彼の見かけによらない闘志とド根性には、いつも心が熱くさせられるというもの。
 ただ、やはりそれ以上に女子の浅田選手の渾身の試合に心動かされる所が大きかったように思います。
 この感動の凄いところは、浅田選手が順位としては六位入賞に過ぎなかったという所にあるでしょう。いや、そうは言っても、これは別に「参加する事に意義があるから」とか「一生懸命やったから」とか、その他の安っぽいメッセージ性によってされたものでは決してありません。
 この感動は、ただ浅田選手がその天才をもって、複雑な諸々を完膚なきまでに圧倒した……という情景そのものにありました。


 ところで、今シーズンの浅田選手のフリー・プログラムでの曲は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番であります。この曲はあまりにメジャーな名曲であると共に、また、次のエピソードもよく知られているものです。

 ラフマニノフは少年期より神童で、ピアノ、指揮、そして作曲でその天才をいかんなく発揮した人物です。ですが、ピアノ協奏曲第一番という曲を作ってそれが演奏された折、評論家からボロボロに酷評され、自信を失ってしまいます。その後、彼は曲が書けなくなってしまうのです。
 しかし、ラフマニノフは実に四年の時をかけて精神を回復させ、ついに大作を書いて作曲に復帰します。それが、ピアノ協奏曲第二番なのです。

 天才というのは、天才というだけで何かしら粗探しをされ、寄ってたかって好き勝手言われるものです。
 天才とて人間ですから潰れてしまう者の方が多いのでしょう。しかし、天才が、その天才をもって諸々を完膚なきまでに圧倒するという美しい出来事は、実在するのであります。それは、この大量の醜き世界から蒸留した一滴の澄んだ真水のごとく、私には思われるのです。



 浅田選手のフリー・スケーティングは、まさにラフマニノフのそれでした。


 あの、見るからに複雑で、厄介なシガラミが多分に含まれている事のわかる採点競技において、街の連中は浅田選手の試合がある度に、ああでもないこうでもないとナンセンスな文句を付けてきたわけです。今回のソチ・オリンピックでも、世の中では森元首相の発言がやたらめったら叩かれていましたが、街の人々が語っていた浅田選手の失敗はもっともっと好き勝手な事をのたまっていたように思えますよ。(そして、これは今に始まったことではないのです)
 街の中で、道の端で、電車やバスの中で、飲食店内で……それも、揃って同じような事を言うのです。やれ、「キムヨナよりスピード感が無い」だとか、「トリプルアクセルを無理してやる必要はないんだ」とか、「あの娘はプレッシャーに弱すぎる」だとか、訳知り顔で。
 しかも、それは絶対にナショナリズムの裏返しなわけです。自分達が優秀な代表選手へナショナルな期待をかけていたからこそ、打ちひしがれ、失望していたのでしょう。その事を認めて失望しているのならまだしも、お隣の発展途上国の選手の事も寛容をもって祝福しています……といったような風体をとって、自分はナショナルなモノに過剰な思い入れを込めてなんぞおりませんと取り繕う様は、おおよそゲテモノの類の食材がウヨウヨと蠢くごとくであると評して差し支えのないものでしょう。


 スポーツにナショナリズムを持ち込む事は大いに結構なのです。が、その取り繕い方、裏っかえり方があまりに汚らしく身勝手だと私には思われるのであります。
 オリンピックやワールドカップについては、この種の類の人々の身勝手な論評が、いつも私を陰鬱な思いにさせます。政治・経済と違って、人々そのものが憎くてたまらなくなるのです。


 しかし、浅田選手の圧倒的天才は、金メダルを取っていないのにもかかわらず(人々の都合の良いナショナリズムを充足させていないのにもかかわらず)、試合内容だけで人々を圧倒してしまいました。

 この様が、私にとっては感動的でたまらなかったのです。
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3月6日②(ウクライナ、ユーロマイダン、オレンジ革命) 

ウクライナにおけるオレンジ革命からユーロマイダンにかけての、素晴らしい分析をしている記事を見つけましたので、紹介をば。

ウクライナ情勢が、日々混迷の度を増しています。
反政府勢力が政府側に弾圧されていた――かと思ったら、「停戦協定」の直後に「大統領失脚」、そして「暫定政権」発足。
――これにロシアが反発し、クリミア半島に「謎の武装集団」が現れました。それに対して米国とEUは……
と転変する情勢を見て素人の感想をつらつらと。...
ウクライナ情勢 -「欧米好み」の「新たな神話」と「繰り返される歴史」-




欧米は、「ユーロマイダンの勝利」を「民主主義の勝利」とみなして「新たな神話」を描き、ロシアに対して「普遍的価値観」によるこの「新たな神話」を覆すな――と要求(もっと悪い言い方をすれば「恫喝」)をしているということです。

 という結論がまさに正論であり、さらに、それは十年前のオレンジ革命で一度失敗している神話である事が、分かりやすく書かれております。

 私としては、この首都キエフでの繰り返される革命騒ぎは、政府、指導者なるものは(親露派であろうと、親米欧であろうと)放逐しなければ気がすまなくなるという大衆なるものの末期症状であり、指導者を放逐した後に自由民主主義、グローバル資本主義が都合よく用意されている……という話に見えてなりません。
 勿論、米欧側のプロの革命家がキエフに入り込んでいることは、クリミア半島にプロのロシア軍が入りこんでいるのと同じくらいには明白ですが、恐ろしいのはやはり民衆というものなのだと考えます。
 何故なら、この度のユーロマイダンが上手く行くのだとすれば、オレンジ革命の後に上手く行っているというのは誰でも思うはずの話であり、それでも彼らはもう抑えが効かないのであります。典型的な大衆健忘症とでも言うべきでしょうか。
 そんな状態の大衆を、手続き的に問題のある暫定政権が統治せしめることができるのか、いわんや四十歳以下の者に徴兵を実施するなどできるのか、甚だ疑問であります。軍服や銃剣の用意など、この問題に比べれば端論のはずです。

 また、アメリカは、どさくさに紛れて、この暫定政権に経済支援をしようとしているわけですが、これはやはりどう考えたって問題があると思います。政府転覆を肯定するがごとき話ではありませんか。まだクリミア半島にアメリカ軍を投入した方が、(たとえ戦争になっても)道義的にはマシだと、私なら思います。

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3月6日(クリミア半島) 

 ウクライナとクリミア半島について。

 革命めいた政変の起こったウクライナにおいて、クリミア半島をロシア勢力が掌握し、アメリカがこれを猛烈に非難しているらしい……という話は、瞬間、我々に大戦争を想起させるもののはずです。

 しかし、大戦争を恐れる前に、私はこう考えました。

 そもそも、ロシアがクリミア半島にて至極密接なかかわりがあるのに対し、アメリカにとってのウクライナは遠く異国の地の話であるわけです。勿論、ウクライナはロシア圏とEU圏の最前と化しておりますが、東西冷戦があるわけでもなし、防共の云々という話であるはずもありません。EU圏が積極的に非難するのであればまだ話は分かるけれど、アメリカが先頭に立って最も広角泡を飛ばしてこれを非難するのは、やはり話が合わない。
 この話の合わなさをねじ込めるのが、冷戦後のアメリカによる世界の警察たる威容であったわけです。

 つまり、かくのごとく遠くの地に関する事をも、このアメリカの非難をもって『国際世論』となれば、世界は未だ相当程度アメリカに覆われていると考えるべきなのでしょう。
 逆に、ロシアがウクライナとクリミア半島について、EU圏の反発を抑えつつ処理できたとしたなら、アメリカによる世界の一極支配という気持ちの悪い現象が、また一段と権威を失ってくれるという話でもあるわけです。

 勿論、それによってあまりにロシアが膨張するような事があればそれは問題でしょう。
 しかし、少なくともクリミア半島について、ロシアの言い分はそれなりに大儀があるように思われます。
 これに対してアメリカの大統領や国務長官の弁は直情過ぎのきらいがあるように見えます。

 というか、今のところロシアは上手くやっていて、アメリカは非難の仕方に苦しんでいるという様相ではないでしょうか。


 ただ、アメリカにはお得意の経済制裁があります。
 もし、EU圏がアメリカの経済制裁に従うなら、ロシアの負けでしょう。しかし、EU圏の経済制裁参加が限定的でアメリカ一国がいきり立つというだけなら、何とかなるかもしれません。
 というのも、ロシアと経済的繋がりが深いのは、やはりヨーロッパだからです。

 ロシアが、アメリカの反発を招かないように振る舞うというのはもう不可能でしょう。ですので、ロシアにとっては、ヨーロッパの反発を招かないような振る舞いができるかというのが肝のように思われます。


 正直、私は心情的にはロシアが上手くやるよう願っておりますよ。
 何なんでしょう、あのアメリカの威張り散らした態度は。あんなものがそのまま国際世論になるおぞましい世の中は、一刻も早く終わってもらいたいものです。
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3月4日 

 ウクライナのクリミア半島について、少しづつ考察していきたいと思っていたけれど、風邪をひいてしまいました。

 雷のように頭痛が走り、寒気がはためいて、胃がおかしく殆ど飯が喉を通らない上に、ずいぶんと熱が出ています。こういう本格的なのは何年かぶりで、風邪というのはこんなにも苦しいものだったか知らと驚かれる次第です。

また明日。

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3月3日(都知事選について) 

 そういえば今年になって、最も論じたかったのは都知事選の事でした。もっと言えば、都知事選の細川・小泉タッグと世論の有様についてです。

 今日はこれについて考えていた事を、少しだけ。


 先の都知事選においては、都民は細川・小泉コンビによる原発ゼロのワンフレーズ・ポリティクスを支持しなかったと、結果的にはなります。二強など評されていながら、細川候補は三位惨敗でしたから。
 ただこれを、民衆(この場合は都民)が「原発ゼロなど非現実的で、都政で論じるべき争点でもないから」などというマトモな理由で支持しなかったのだ、という風に分析してはなりません。

 では、民衆は、何故今回、細川・小泉流ワンフレーズ・ポリティクスを受け入れなかったのか?

 それは、単に「原発ゼロ」が、既に流行ではなかったからです。

 この論証は簡単です。
 何故なら、もし、この都知事選が同じ候補、同じ主張で、福島第一の件の直後に行われていたら、民衆は細川・小泉コンビのワンフレーズ・ポリティクスを選択していたはずだからです。
 これは、疑う余地なく、絶対です。福島第一の件の後、どれだけ奇妙キテレツな発電論が国民の間で流行したか、忘れたとは言わせません。

 ワンフレーズ・ポリティクスとはただ単に、『それが流行であるかどうか』だけによって支持、不支持の具合が決まる政治手法なのです。
 間違っても、「多数の世論のふるいにかけて、最悪な政策を排除し、ベストではないがベターな政策を展開する性質を持ったもの」ではないし、また、その政策が上等であるか下等であるかなど関係ないのです。
 ですから、政策的に下等でも、そのワンフレーズ、シングル・イシューが『流行』のものならば、民衆の多数は支持をします。

 その実例が、まさに郵政改革、構造改革、(行政改革、)政治制度改革といった平成の諸改革だということを、そろそろ認めるべきなのです。
 つまり、ワンフレーズ・ポリティクスーー民衆による政策選択が可能な唯一の方法ーーが流行を掴み、下等な政策選択を行ったという実例は、つい最近に山ほどあったのです。

 しかし、多くの民衆の頭は、(政治家など裸足で逃げ出してしまうほど)都合良く物事を忘れてしまいますから、今回、細川・小泉コンビが急におかしな事を言い始めたがごとく振る舞います。
 政治家の健忘症はよってたかって罵倒されますが、民衆の健忘症は見過ごされるものです。当たり前ですね。誰も追求する者がいないのですから。もし追求する者があっても、彼の言は黙殺されるばかりであります。
 そして、責任を追求されない自由で平等な権力者たち(大衆)は、また新たな改革(流行)を請求し始めるのでしょう。何かしら、流行の綺麗事に則して……
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3月2日(澪標) 

 大衆礼賛の風潮による、(国)民主権および、民主主義と市場原理主義への批判を、誰に向けて話すべきか……あるいは、文芸として誰へ語りかける体裁を整えるべきか。

 それは、現代の第一権力者であるところの大衆そのものにではなく、むしろ『知識人』と『統治人』へ向かって話しかけるべきなのでしょう。
 つまり、知識人に向かっては「民に向かって寧言を弄するのは止せ」と。統治人へ向かっては「統治者が持っていて然るべき正統かつ正当なる権限は、自信を持って行使せよ」と。



 知識人や統治人……あるいは知識階級の人々へ向けて、こうした文章を書くわけですから、それなりの装丁と説得力と威嚇が必要になってくるでしょう。
 私は、文章をそのように洗練していかねばなりません。


 あるいは、私は、私の文章が広告の裏紙に書く落書きで終わらぬように、authorize(権威付け)をしなければならないのかもしれません。
 最も単純なのは、私自身が権威を纏う事です。しかし、これは単純だが簡単ではありません。私の環境と若かりし日の放蕩が、それを限りなく不可能たらしめてしまったのであるから、自業自得でしょう。

 では、現在の言説のほぼ大半がそうであるように、まずは大量の人々からの支持を纏って、自らの言説を明るみに出すというのはどうでしょうか。

 世の中には、ほとんど文章というものを読み書きできない層の人々というのは実在し、どんなに少なく見積もっても半数以上の現代日本人はそうであると言って差し支えないでしょう。
 そうした人々は扇情的(sensational)で激烈だが画一化された言説へ群がるものです。あたかも、街灯に群がる虫のように、けばけばしい光の方へぱぁーっと、反射的に群がってゆくのであります。
 つまり、人々のそういう性質を利用し、筆先より光を放って、量を集めて、量そのものを権威とするのはどうか、という事。

 ただ、私はそれが嫌で嫌でたまらないわけです。

 例えば、韓国人の悪口を言うくらいの迎合はやぶさかではありませんが、惚れ惚れするほど上手に韓国人をコケにする人は沢山いるし、私自身はそれほどそうした手合いの遊戯には熱中できそうにもない。そんなに面白いものだとは思えないからであります。
 また、政策的、経済的諸問題について、大衆礼賛ーーそれが人間性であろうが、国民性であろうがーーに迎合するくらいなら、舌を噛みきった方がマシです。
 というか第一、私にそうした才があるとは思われません。


 そうなると、現状、私がとるべき方向は、文章を洗練させ、literacy(読み書き能力)のある人々をことごとく惹きつけて権威とする……ということになってきます。
 それは、論理性、理論性、学術性、文学性、表現力、品位、時事性、実践性、などにおいて総合的に高度な精度を保持してゆく研鑽の事であります。私は、そういったファクターの、今まで粗の目立った所について、改めて見直す必要があるのでしょう。

 勿論、そうした研鑽をすれば、literacy(読み書き能力)のある人々を惹きつける事ができるのか、といえばそうではありません。それには圧倒的に才というものが必要です。
 しかし臆面もなく言えば、私には、ヒトが生まれ持っているべき不可欠な要素の多くに欠けているという事と引き換えに、一片の奇妙な才があるのです。
 この澪標があるからこそ、そこへ身を尽くしてみるかという気分が起こり、その気分にせっつかれて書いている次第であります。
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3月1日②(自生的秩序と、組織的統治) 

 民のケンリなるものは、『自生的秩序』と『組織的な統治』によって制限されるべきだと、私は考えます。(つまり、民あるいは消費者なるものに主権があるなどというのは、甚だおかしな話だという事です)

1、自生的秩序
 自生的秩序というのは、要は、誰が理屈付けたわけでもない、社会における実践的な経験の中で自然に発生した道徳、価値規準による秩序ーーというような意味です。
 これは、F.A.ハイエクという人が、『spontaneous order』(自生的秩序)と言って強調し、貨幣経済と法の支配の根拠にした論理であります。


2、組織的な統治
 組織的な統治の代表的かつ最大なものは、中央政府による統治であります。
 確かに、人間の自然な有り様として、『spontaneous order』(自生的秩序)があるからこそ個々人の選択の自由が混沌へ向かわない……という領域はあると思います。しかし、人間は、人間が存在し始めた遙か太古の昔より、共同体の下に政府なるものを組織しつつ、その構成員の中で統治と被統治の関係を形作り続けてきたわけです。されば、ごくごく自然に考えると、自生的な秩序へ人と人々が自発的に従う領域の他に、政府が人と人々を規制し、強制し、抑圧し、計画し、土台を作り、方向付けるべき領域が相当程度あるのだとしなければならないはずでしょう。
 それは、政治的には民主主義を、経済的には市場原理主義を、政府が抑圧すべき領域もあるのだ……という当たり前の話です。


 私としては、偽善たらしい綺麗事を排し、この当たり前の事を当たり前の事として認めてもらわねば困る、ということばかりを常々考えています。
 ここで言う偽善たらしい綺麗事とはヒューマニズムのことであり、政治にしろ経済にしろ、規制されぬ人々がその人間性でもって社会を至極調和せしめることができるのだ……といったような、おぞましき欺瞞の事であります。

 まず、人間は、共同体の歴史に基づく『自生的秩序』に拘束されなければならないし、さらに共同体の歴史に基づく硬直的な偏見、権威、権力の体系による組織からの『統治』を受けねばならんのです。

 そして、この当たり前の事を誰が認めるべきかといえば、以下の二種類の人々が認めるべきなのです。

1、「政府組織からの権限剥奪を主張する事によって、あたかも権力と偏見に立ち向かっているという風体を装う似非知識人たち」

2、「実際に統治行為を担う組織に従事してはいるが、自分たちの持つ大権を民なるものへ解き放つ事こそが、進歩的で民主的で素晴らしい事なのだ、と勘違いしている人たち」

 であります。



(つづく)
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3月1日(生活という政治行為) 

 そもそも、民主主義や市場原理主義といった『多数者礼賛の主義』への批判を多数者へ向けて説くというのは、全くの無意味とは言わないまでもやはり不毛な事なのかもしれません。

 というのも、多数者……大衆、一般国民といったモノを実質上構成している一人一人の庶民、生活民は、特に強くケンリを請求している積もりはないからです。だいたい多くの個々人は、慣習や習慣による慣性によって生活をし、刺激による反射によって経験する世界に彩りを持たせる……といった具合なのですから。

 ただ、私はこの類の人々(庶民)の有り様を否定する積もりはありません。というのも、それぞれの生活民が、家族で、学校で、会社で、地域社会で、それぞれの仕事や生活を日々こなすという事はそれだけで充分すぎるほど政治行為であり、国家と経済に貢献しており、国民的義務は果たせているからです。

 しかし、こうした生活民による選択の、多数の支持を得た財やサービス、そして政策が、上等なものであるかは別の話であります。
 あるいは、『生活民の多数による選択』を上等にせしめんが為に生活民そのものを『啓蒙』するなどという事が、多数による選択を上等にするわけもありません。これが上手くいく為には、啓蒙が指し示す光の先が完璧かつ画一的である必要があるからです。完璧な理屈など存在するわけはないし、国家、社会が画一的な理論で回るはずもないでしょう。

 生活民の多数による選択が、常に下等なものである……とは言いませんが、生活民の多数(大衆)の選択に任せて良い領域には限界があると、少なくとも考えるべきなのです。
 これはつまり、国民主権(日本国憲法上、厳密には人民主権)の考えの否定であります。民の主権は、制限されるべきなのです。

 では、民の主権は、何によって制限さるべきなのか。
 もっと言えば、民なるものの選択の自由を規制する領域は、いかなるものが支配するのが正当であるか、という問いです。

 それは二つにあって、一つは、「自生的な秩序」であり、もう一つが「組織的な統治」であります。


(つづく)
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