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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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プレ・「藤井教授V.S.リフレ派」分析――もう少し確認しておくべき前提 

 前回の事を補足しつつ、「藤井教授V.S.リフレ派」の分析に取りかかる前に確認しておくべき事をもう少し。
 なかなか具体的な所にたどり着きませんで恐縮ですが、どうかお付き合いくださればと存じます。
 また、この主題は本当に思い入れがあって、丁寧にやりたいので、想像以上に長くなるかもしれません。回を幾度も重ねると思いますから、間に他のテーマを論じる回が挟まって、飛び飛びになるかもしれません。
 ですが、ご関心のございます方は、どうかこの主題の回を追っていっていただければ嬉しいです。


 リフレが好き……という方には無理にとはいいませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。




朝顔


 「仮説――演繹」と「事実――帰納」の営みは、経済を捉えるのに双方不完全さを持ち合わせています。しかし、そもそも人間そのものが不完全であるから、帰納と演繹を越えた超越的な経済分析などというものが人間に可能なはずもありません。
 ならば、せめて経済を包括的に捉える為に必要なのは、演繹と帰納の均衡だという事になってくる。前回展開したのはここまでだったはずです。
 しかし、帰納と演繹の方法を「均衡させる」という営みにも、また、そこには「思想」が入り込むはずでしょう。

 「思想」は、イデオロギー、パラダイムと言い換えても良いです。

 そう。経済を論じる以上、パラダイムからは逃れ得ないのであります。が、少なくともその事を自覚し、常に自分自身の方法論者であらなければ、経済を論じるという意味すらあやふやになってきます。
 それでも、その人のパラダイムと方法論とに関係性を構築できれば、そこにスタイルやフォームが確立されるのであって、「仮説ーー演繹」と「事実ーー帰納」の均衡に整合のようなものがとれる……かもしれない。その可能性の限りにおいて、経済論は単なる「お洒落」に堕するを回避できる。
 経済論というのはそういった綱渡り的危うさを抱いているのです。


 もっとも、私は経済学者ではないし、経済学部にいた事もありませんから、自分の経済理論を打ち立てようなどとは思わないし、その能力もありません。
 今やろうとしているのは、「藤井聡教授V.S.リフレ派」の分析です。
 そして、その分析においても、分析をするのが「私」である以上、パラダイムの自覚と方法論との関係においてスタイルを形作らねばならない。



 そのスタイルを提示する為にも、まず、私が何故「藤井聡教授V.S.リフレ派」という具体的な「対立」に焦点を当てようとするのかを確認しておきます。というのも、経済論が「パラダイムと方法論の整合」であり、「帰納と演繹の均衡」だというのなら、それぞれのそれらを直接論じれば良いではないか、と思われる方もきっとおられるはずと思うからです。つまり、いたずらに対立など論ぜず、良いと思う側のナマの思想を提示すれば事足りるのではないか、と。

 しかし、おおむね「パラダイム」とは、高度に抽象化された観念の段階では霞をつかむようなモノです。それは、人が具体的な状況に対してどう具体的に振る舞うかという段に至ってはじめて発揮されるものでしょう。

 つまり、抽象を詳らかにする為にも具体が必要であり、具体を捉える為にも抽象が必要となるということ。
 それは、花の「美しさ」というものはなく、美しい花があるだけだ……というのと同じように、人の言動の「正しさ」などというものはなく、正しい人があるだけだからです。
 いや、これはかなり難しい事かもしれませんから、私の筆力不足でうまく伝えられていないかもしれません。別な言い方をすれば、我々が経験している世界では、人の思想、言動、事象は不可分に「ただある」ということ。それでもそうやって言葉によって「分かられて」いるのは『解釈』の為で、(そして解釈はとても重要なことではあるけれど)ほんとうは不可分にあるはずなのです。その事が分かられていないと、思想は思想、言動は言動、事象は事象で別々に論理が完結すると錯覚してしまうことがあります。

 しかし一方で、私が今していることは、世界を文字として『解釈』していることであるから、「思想、言動、事象」をいっぺんに表現する事はできません。それは、世界のあらゆる事を直接に経験する事ができないのと同時に、提示することもできないという、人間の文才の限界についてのささやかな確認です。
 それでも、人間の文才の臨界点に挑戦するためには、思想、言動、事象をそれぞれに分けて論じつつも、それらの糸をさながら綿糸のように織り込み、関連付けて、世界を出来るだけ包括的に論じようとする態度が必要なのであります。

 今回確認したのはつまりこうです。
 ここで私が、「藤井聡教授V.S.リフレ派」を論じようとして、「藤井教授の考えはこうで、リフレ派の考えはこうである」という風に展開しようとすると、それは私の中にもあるであろうパラダイムなり世界観なり知識なりを前提とした論になる。
 その事自体からは逃れられないのでありますが、それら前提をできるだけ自覚して、提示しつつ論じなければならない。また、私の文章に一人でも読み手というものが存在するならば、そのことを白状しておかねばならない。


 ほとんど私自信に言い聞かせるような話でしたが、この態度を私が確認しているという事を提示しておくのは、繊細な論を展開する為に必要な事なのだと思います。



(つづく)
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西部邁からーー経済論における帰納と演繹 

 まったく、私の意見というものは、いくら心血を注いで書こうと所詮は何の背景もない若造の戯言ですから、便所の落書きに毛の生えた程度のものなのでしょう。その事に文句はなく、むしろ世の中が正常であることに胸を撫で下ろすというもの。

 が、今回の事は私が考え出したことではなく、西部邁氏が随所で書きつづけているエッセンスの一つで、それを私なりに要約したものです。
 ですから、その分だけ信用していただけるに違いないと思っています。

 実を言えば、私の記事はそういうのの複合が多いのですが、「この部分を誰々のエッセンスを用いて、あそこの部分を云々」と一々体系立てるのは至難の業だし、ほとんど記憶している事しか用いないから、引用というものが苦手なのです。(でも、題名とか、言葉とか、そういう所に文献のパロディを入れたりしているのですが、もし、こういった事に気づいてくれている人がいたならば嬉しいです。)

 とは言え、今日は西部邁氏のエッセンスの一つでお気に入りなものを、自分の言葉で変換して纏めただけだという事を白状しておきます。


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表紙8


 経済学に限らず、社会科学の領域では、「仮説ーー演繹」という営みか、「事実ーー帰納」という営みの、どちらかを方法論として採択しています。
 これはどちらが良くて、どちらが悪い、という種類の話ではありません。不完全なる人間が、かくも膨大で複雑なる「経済」なるものを捉えようとした場合、この二通りの切り取り方でその深淵を垣間見ることくらいしか出来ない、ということなのであります。



 仮説ーー演繹の営みは、仮説を立て、前提というものをモデル化した上で、「その前提の上では必ずこうなる」という事を理論化する仕方です。
 この方法論は、演繹という特徴からして、確かに「普遍性」があるでしょう。しかし、仮説の上で、前提をモデル化(単純化)しているから、しばしば現実と食い違う事があります。
 また、この演繹が人の仮説から始まっている以上、何らかのイデオロギーの介入は不可避的であるとも言える。


 事実ーー帰納の営みは、実際に社会経済の上で起こった事を観察し、その因果を模索する仕方です。この方法論では、帰納という性質上、現実と食い違う事はありません。
 しかし、経済を事実として観察し、帰納的に理論化するというのは、極めて普遍性に欠く方法であります。まず、「膨大なる経済からどの事実を選び取るか」という問題があります。そこにイデオロギーが入り込む余地があるでしょう。
 また、ウィットゲンシュタインのパラドックスーーつまり、「一つの事実に対する法則立てが無限に存在可能である以上、事実を法則立てることは不可能」という問題がある。特に、自然科学ではない、社会科学の領域において、それはより深刻なものと考えられなければなりません。


 西部氏は、この「帰納」と「演繹」を、あるいはロゴスとミュートスと言いかえたりもします。
 そして、この「事実ーー帰納」と「仮説ーー演繹」において双方の均衡を模索する態度を持たねば、人間の経済活動を包括的に捉える事は出来ないという事を口を酸っぱくして説いているわけです。



 私は、こういうほんとうの事を言ってくれる年長者が存在すると、実に安定した心持ちになります。

 しかし、私は単にイチ西部邁ファンとして西部邁思想を紹介するためにこの事を持ち出したのではないのです。
 では何のために持ち出したかと言うと、この事を前提に「藤井聡教授V.S.リフレ派」の構造を分析できないかと思って提示したのです。


 ただ、今日はもう遅いので、それは明日やってみます。



(了)
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漫画やアニメは日本道徳の精神を現しているのか? 

 この記事は、前回の問題意識から一部を引き継いで書いたものですが、ここから読んでも大丈夫なように書いています。
 でも、遡って読んでいただけたらなお嬉しいです。


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表紙7


 昨今、保守派を称する言論人が、

「漫画やアニメをご覧なさい。日本の道徳的精神は脈々と若者に伝わっていることが分かるはずだ。そして、これは世界中に受け入れられているのだから、日本の道徳精神は世界のスタンダードとなりうるのだ」

 といった種類の事をのたまうことがありますが、これは嘘です。


 実際、この類の「若者への媚び」ほど気持ちの悪いものはありません。いや、別に漫画だから、アニメだからといってこれを軽視するような狭量な姿勢で言っているのではないのです。

 そもそも「大衆娯楽」というものが提示する道徳観念は、ほとんどが至極薄っぺらで、大量の人々に受け入れられる、都合の良い種類のものです。これは、漫画やアニメに限らず、映画にせよ、小説にせよ、です。
 たとえば、百本の映画を無作為に抽出したとして、その内の何本が見られる質のものでありましょうか。さらに、そこで「日本の道徳的精神」などという日本の内ですら千差万別で、複雑で、繊細なものを、仮に断片でも描写する事に成功した作品など、どれほどありますでしょうか。

 勿論、そうした「優れた作品」の存在する事を知らぬわけではありません。人の心にある世界観を豊かにするような名作の価値は、貴賤や媒体に限らず絶対であると認めます。

 が、しょうもない筋の物が大量に消費される場合の方が圧倒的に多い、というのが「大衆娯楽」の本質なのであります。何せ大衆は、大量に消費されていると喧伝されているものであれば、光っているだけのハリウッド映画、韓流ドラマやKpopにでさえ飛びつくのです。
 それは、自分の身の回りの小さな社会が、既に大量に消費されているものを消費する事を前提して回っているから、自分もそのように消費し、そのように感動したような気になっているだけだからです。
 こんなものを、私人の感動や共同体の精神と捉え違える仕方には、本当に我慢がならない。


 穿った見方ですが、「漫画やアニメをご覧なさい」などと媚びを売る年長の保守派は、「若者のネット右翼には漫画好き、アニメ好きが多いようだから、媚びを売っておけば彼らからの人気を獲得できるかもしれない」という下心を持って言っているだけなんじゃあないでしょうか。
 もし、真に何らかの作品に感動したというのであれば、作品を批評をする精神が出てくるはずです。少なくともその類の事を言う輩がこれだけいるのだから、具体的に作品論でもやりたくなる者がでてこなければおかしいのですよ。


 まあ、保守言論人の媚びを糾弾するというのは実際どうでも良いことで、ここで私が言いたいのは、「大衆なるものの性質」と「国民なるものの性質」が、混合されてしまっているという危惧のことであります。
 つまり、人々が「日本の精神」と言っているモノは、本当に日本の精神なのか。単なる、「大衆の予定調和」を「和の精神」と捉え違えて楽観しているだけではないのか。そういう強い疑念を、私は抱くのです。


 たとえば、若者でも日本の自然や社や寺院を美しいと言う者はいますが、それは外人が感じるように美しいと思っているに過ぎないのかもしれない。私は、そこにあったはずの信仰や儀礼や土地の神秘性を文献等で知るに過ぎず、具体的な生活と関連づけて感じることはできないのです。自分の心で共有する事ができない。これでは、日本好きの外人とどう違うのか分からない。

 果たして、私は日本人なのでしょうか?

 両親は日本人で、日本で生まれ、日本国籍を持ってはいるが、ひょっとしたら外人なのではないか。
 これは恐ろしい事です。
 もし、私が外人なのだとしたら、私はまるっきりの「自由」ではありませんか。何処へ行くのも自由ですから何処にも行くところがなく、何をするのも自由ですから何をする価値もない。

 私は、私の自由を制限してくれる、確かなる土台が欲しいのです。つまり、私の心の中にも微かにあるかもしれない、ほんとうの日本とか、ほんとうの故郷とか、そういう正統なるものに縛られたいのです。
 そうでなければ、私は外人として、大衆として、めまぐるしく移る流行の波に溺れる地獄を味わい続けなければならないではありませんか。
 ですから、この地獄を地獄と認めず、「日本だ」と虚飾する態度には本当に我慢がならない。それは「蝶だ」と言って蛾を提示されたがごとく話ですから。


 我々は、圧倒的に失っているのです。
 ただ、「大衆としての日本」を礼賛しているから、日本人の中の日本が消え失せている事に気づかないだけなのです。

 もし、そうであれば、「国民の輿論」はことごとく「大衆の世論」といったシロモノに履き違えられ、「国民の生活」は「大衆の欲望」に履き違えられるでしょう。平民の「政府に対する請求」が政治決定権を握り、それは流行によって自由放任にも弱者救済にも振れるでしょう。


 我々がすべき最初の事は、「大衆の性質」を「日本の精神」と取り違える事を恐れる……という事なのではないでしょうか。



(了)



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現代日本の開化、および没落 

 これは、前回の「自由放任と民主主義のジレンマ」の補論として書いたものが、書くにしたがって随分と深く掘り進め過ぎてしまった散文です。

 また、今回は少し難しい事を言うかもしれませんが、なるべく易しく書きますので、どうか一読くださればと存じます。


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表紙6


 まず、私は何も安倍首相の就任の時点で「日本がもうだめ」になったとか、そういう事をいっているのではないことを是非とも分かっていただきたいのです。
 日本がもうだめ……というのは、我々の天下が「近代=モダン」なるものを受け入れている以上、国家は必ず「没落」に向かっているという意味なのであります。


 近代=モダンというのは、元々「文化圏」ですとか「共同体」ですとか、そういった土着の歴史感覚を引き継いだ民(ネイション)が、道具(ステイツ)として使う分には、「進歩」をもたらしてくれます。
 何故なら、この世代の人々は、近代的な道具の諸々を使う『常識』というものを保持しているからです。
 しかし、世代を越えるにつれ、ステイツ(道具)の方がネイション(人)の原理原則を方向付けるようになってゆく。それは、共同体における常識を「保守」させることよりも、道具の発達による「進歩」が求められてしまうからです。
 そうなれば、「近代」は道具としての意味合いすらなくなってしまう。そして、常識(コモン・センス)を失った民々を救う手だては基本的にない……という意味で、「日本はもうだめ」なのです。
 これは、ほぼ運命的予定調和論と言って良いかもしれません。

 つまり分かりやすく言えば、我々は江戸時代まで我々の「天下」において「常識」を育んできた。ですから、明治以降、その常識に基づいて近代という道具を操ることができました。
 或いは、大東亜戦争まで、我々は何とか共同体の歴史や常識を保持しようという努力をしてきた。ですから、戦後の体制……つまり、日本国憲法という非常識な道具(ステイツ)であっても、歴史的に残された常識でもってそれを運用する事ができた。

 しかし、そうした中で、世代を越えるたび、元々道具であった「法」や「システム」や「科学」といったものが、常識の方に浸食してくる。


 たとえば、同じ「民主主義」という言葉ですら、現在の日本人が用いるそれと、五十年前の日本人が用いるそれでは、圧倒的に違う。
 民主主義という言葉を、「民に政治決定権がある」と捉える仕方は、戦後においてはタテマエだったのです。(尤も、当時の人々はタテマエだとか自覚して振る舞ってはいないでしょうけれど。)
 そもそも常識的に考えて、政治における民の具体的な意見など、政治決定に反映されたら大変な事になるでしょう?
 そんなこと、誰しもが分かっていたから、民主主義とは
「民の為の政治」とか
「国民が生活の中で育んだ常識を政治に反映させる」とか
「国民の道徳的判断を重んじる」とか
「民が、人柄をもって代表を選出する」
という事だと、本音では思っていた。
 つまり、世論ではなく、輿論。共同体の歴史という土台に乗った民の論を活かす……という姿勢を民主主義だと、皆思っていたのです。
 だから、戦中世代が引退するまでは、民主主義も市場経済もそこそこ上手く行っていた。

 でも、今言われている民主主義は、これとは違うでしょう?

 いわく、政治家や官僚が馬鹿だから、民の政治的意見を啓発して、高尚な世論を形成して、正しい政治を行うべし……といった調子でしょう。
 でも、本当に常識的に考えていただきたい。
「民の政治的意見を啓発して、高尚な世論を形成して、正しい政治を行う」
 なんて事が、(どのような方向であっても)できるわけないじゃないですか。何故、この事を誰も口にしないで、綺麗事ばかり述べ立てるのか。


 ですから、たとえば「自由放任の経済体制が問題である」と言うことを国民一般に広く政策的知性として啓蒙したとしても、絶対に上手く行くはずはないんです。
 何故なら、そもそもそうした政策知性を一般に共有しようとすること自体空理空論甚だしいし、そうした政策知性を用いる共同体の常識の方が既に失われているからです。

 また、もし「自由放任の経済体制が問題である」という政策知性が世間一般に広まったとしても、世間一般に広がるという時点でそれは致命的に単純化されているはずでありますから、そうした世論に従属した政策論も必ず致命的に単純化されたものになります。
 これは、反民主党が単純化されれば自由放任となり、反小泉が単純化されれば民主党になるといった手合いの出来事によく現れているでしょう。

 そうした政権へのアンチ、またはアンチのアンチ、といった指向から、何ら有意義なものが生まれなかったのは、それがつまりは道具(ステイツ)の問題だからです。
 そもそも、道具を使う母胎であるところのネイション(共同体の網の目)が損なわれているのが問題なのに、いくら道具としてのステイツを改善しようとしても空回りするのは必定でしょう。

 このことが分かられた上で、安倍首相がどうとか、政策がどうとかといった話がされているのであれば、私は文句を言いません。道具の議論も必要は必要なのですから。ただ、それはネイションをステイツに活かす為の、プラグマティックな実践として議論される限りにおいて価値づけられるものです。

 逆に、有機的な共同体や文化圏を強靱化せねばならぬという問題意識なしに、いくら首相や政権や政策について緻密に議論しても、それは目的なき方法であり、プラグマティックにならんでしょう。



 尤も、日本のネイション……歴史的、有機的な共同体や文化圏を取り戻すというのは、ほとんど不可能なことです。一度失われた共同体は、覆水盆に返らず、あとの祭りなのです。
 また、先ほども申した通り、それは近代を受け入れざるをえなかったという時点で、没落の運命的予定調和に陥っていると認めざるをえない。

 私の言う「日本はもうだめ」とはこの事です。

 しかし、没落が運命的予定調和である事を自覚した上で、「運命を拒否する」という立場はとりえるのであります。それは、意志の問題なのです。
 逆説的に言えば、没落の運命を自覚し、それを拒否する意志を持った者が一人もいなくなった時、日本は滅びた事になるのでしょう。
 また、そうした自覚と意志を携えた者がたとえ少数でもいる限り、運命はバタフライ効果的に変わるはずです。そして、この事だけが私の信じられる唯一の事なのであります。



 今回は、だいぶ抽象的な事を言っていると思われた方も多いかもしれませんが、抽象的だからといって「あやふや」なものだと思ってもらっては困ります。これは抽象的ではあるけれど、確かな事なのです。



(了)
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安倍首相評価にかんする考察ーー自由放任と民主主義のジレンマ 

 朝に単発の記事を。

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表紙5

 前回の記事で申しました通り、そもそも左翼とは、「特権」を剥奪しようとする所に行動基準がある。それも、「大勢が、よってたかって少数者の特権や既得権を剥奪する」という態度なのです。

 ところで、「特権」とは「規制」と言い換えることができます。なぜなら、規制とは、特権を保守するためにあるのですから。
 ならば、いわゆる「岩盤規制」を壊すというのは、特権を剥奪して広く自由市場に解放する……という左翼思想に他ならない。

 一方、世論主導の民主主義とは、内閣や議会、官僚機構から政治の権限を剥奪し、広く一般国民に解放する……という左翼思想といえる。


 つまり、自由放任の経済姿勢と、世論主導の民主主義は、問題としてはほぼ同じ構造を持っているのです。

 しかしこの時、政治的統治者の方からその権限を広く国民に開放しだしたら、基本的にもうその国は救われません。
 何故なら、もし大勢が黙っていても、大勢が具体的にこれを糾弾しても、どちらにしても特権・既得権益は剥奪されていってしまうからです。

 現状に照らして言えば、黙っていても経済的既得権益が破壊されるが、逆に、国民一般世論がこれを阻止しても今度は政治から権限を剥奪している事になるでしょう。

 つまり、「自由放任の経済政策」を阻止しようとすると「民主的に舵取りされる政治」が顔を出すし、「民主的に舵取りされる政治」を阻止しようとすると「自由放任の経済政策」を受け入れなければならなくなるというジレンマが生じている。
 そして「自由放任の経済政策」と「民主的に舵取りされる政治」のどちらか一方でも採択されれば、国は没落すると決まっているのです。これは人類普遍の政治法則であります。

 結論を言えば、「日本はもうだめ」なのです。

 「安倍首相が日本を救う」とか、「安倍首相が日本を駄目にする」とか、簡単に言う人が本当に多いのですが、このジレンマが分かられていない限り、首相を擁護しても批判しても駄目なものは駄目です。
 「安倍首相が日本を救う」と陽気に吐き散らかす保守派は「自由放任の経済政策」に対して楽観的すぎるし、「安倍首相が日本を駄目にする」と怒りに燃える人々は「民主的に舵取りされる政治」に楽観的過ぎる。

 そのあたり皆さんはどうお感じになっているのか、私は本当に気になるのですが。



(了)
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続・保守の敵は共産主義だけなのか? 

 前回の「保守の敵は共産主義だけなのか?」の続きです。

 というか自分は左翼だし……という方には無理にとは言いませんが、別にそんなに左翼でもないという方は、ランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。





我らが国会議事堂!


 そもそも、右翼と左翼と言う言葉は、フランス革命のあだ花が咲き乱れた十八世紀後半に生じました。時のジャコバンを筆頭に人民主権の改革を急進的に押し進める勢力が議長席の左側に、立憲君主制への帰着を主張していた勢力が右側に座った事から、「右翼」「左翼」という言葉が言われるようになったのです。
 つまり、右翼左翼という言葉自体、フランス革命基準だった。そして、十八世紀には共産主義はおろか社会主義だって登場してはいないのです。


 また、「保守」というものがまとまった体系的な思想として提示されたのは、保守主義の父とも呼ばれるイギリスの上院議員エドマンド・バークという人が、フランス革命およびフランス革命を礼賛する自国人を徹底的に糾弾したところから始まったとされます。

 ということは、「保守」の敵は、とりもなおさずフランス革命のエッセンスという事になりそうです。
 そして、繰り返すようですが、フランス革命の頃、社会主義、共産主義というモノは無い。むしろ、ルソーやボルテールの啓蒙思想を土台とし、シェイエスなど等で粋を極めた、「人間のケンリというものを根拠にした人民主権主義」が、フランス革命の思想的支柱でありました。

 勿論、フランス革命そのものに社会主義、共産主義の萌芽は見て取れます。また、バークは私有財産を擁護していますから、私有財産を制限する社会主義、共産主義的な考えは保守思想と相容れないはずだ……と言うことも出来るでしょう。そして、そう考えても問題ではないと言えば、問題ではない。

 しかし、ここでよく考えてもらいたいのは、「私有」とか「所有」とかという観念も、そんなに簡単なものではないという事です。
 例えば、バークは富者というものを二つに分類して論を展開しています。それは、「貨幣所有者階級」と「土地所有階級」です。前者を「資本家ブルジョワージ」、後者を「貴族、聖職者階級」と言ってみてもよいでしょう。
 そして、バークが強調して擁護した私有財産とは、主に貴族、聖職者階級のそれであり、土地所有についての私有財産なのです。
 対して、資本家ブルジョワージは、フランス革命における主犯格の一であって、それは土地所有者階級から土地を剥奪してやろうという妬みが発揮されてのことだとすら述べて糾弾しています。また、そうした妬みを心に抱えた貨幣所有者階級は、啓蒙思想家達のスポンサーとして世論の調子に少なからず影響を与えていたと分析しているのです。

 私はここで、単にバークの保守思想の一端を紹介して、風格を醸そうとしているのではなく、「階級」というものを今一度、次のように捉えて考えてみたらどうかと提示したかったのです。
 すなわち、

1「既存の特権階級、既得権保持階級」
2「資本家階級、貨幣所有階級」
3「労働者階級、百姓」
 という風に捉えてみる、階級にかんする考察です。

 すると、当初の左翼とは「特権階級の権利を、資本家階級が剥奪しにかかる」という方向であったが、共産主義、社会主義では「資本家階級の権利を、労働者階級が剥奪しにかかる」という風な方向へ変遷していったと捉えることもできます。


 而して、現代の日本で「保守」と呼ばれている人々は、「資本家階級の権利を、労働者階級が剥奪しにかかる」という意味での「サヨク」を敵とする事で一致した気分になっています。しかし、もう一方の「特権階級の権利を、資本家階級が剥奪しにかかる」という意味ではほとんど日本人全員が「左翼」なのです。

 また、「特権階級または既得権益の体系を剥奪する」という左翼的発想を前提とする一方、「社会主義・共産主義を敵とする」という態度を示しておけば、「愛国中道保守」的な風体は装えるというもの。そして、この事は気づかないフリをしていれば至極都合の良いものであるから此処まで思考を及ばせないけれど、比較的多くの人は心の奥底で感じ取っていることなのではないでしょうか?
 それが、まさしく欺瞞というものなのです。


 私は、既得権益にせよ、資本家階級にせよ、労働者階級にせよ、「階級闘争」なるものを煽る気はありません。
 しかし、「特権階級または既得権益の体系をそれなりに維持する」という『保守思想』のエッセンスが欠けていては、「左翼ソビエト型」は駆逐できても「左翼アメリカ型」には抵抗力が皆無ということになってしまいます。



(つづく、かも)


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保守の敵は共産主義だけなのか? 

 工作員への過大評価と共に、私がずうっと不満に思っている風潮があります。

 それは、
「左翼は共産主義・社会主義なんだから、保守であれば自由主義経済だろう」
 というように思っている人間が多すぎるということです。

 ほんとうに……私はこれがたまらなく嫌なのです!
 というのも、かくのごとき風潮をどのような角度から掘り下げてみても、ことごとく「現代日本における偽善」と呼ぶべきものにぶちあたるからであります。

 というわけで、「保守の敵は共産主義なのか?」というテーマを、何回か書こうと思います。

(尤も、等ブログの過去記事を下れば、こうした記事は過去に何度も何度も書いているのですが、これからも懲りずに何度も書こうと考えています。)


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風景



 昨今、左翼は灰燼に帰し、ただいま保守優勢……と、保守派は言います。
 しかし、私は逆に思うのです。
 つまり、日本人民の一億一千万人以上は自由民主主義者(左翼)で、保守は青色吐息だと。


 そもそも「保守」或いは「右翼」というのは一体何なのでしょうか?
 単にチャイナや韓国を馬鹿にしていれば良いのでしょうか。九条二項の愚かしさを囂しく述べ立てていれば良いのでしょうか。日本に住む日本国籍を持った人間の生命と財産を守る事がそんなに大切でしょうか。
 そして、共産主義や社会主義を敵視して、自由と民主主義を唱えること……そんな極めてくだらないものを「保守」と呼んでいいのでしょうか。

 良いはずはないのです。

 もっとも、私は「保守」を自称する事に強くこだわっています。
 ただ、私の物心ついた時には既に冷戦は終結していましたし、バブルも弾けていました。日本の自由主義経済は不況の姿しか知りませんし、子供の頃から市場も民主主義も失敗しているところしか見たことがありません。私にとって、市場や民主主義とは基本的に失敗するものであり、むしろ成功する事もあるという事を歴史的事実として知っているにすぎないのです。
 ですから、共産主義、社会主義に対する嫌悪感なんて大してありません。私からすると、ソ連とか冷戦とか共産主義とか高度経済成長とかジャパン・アズ・ナンバーワンなんぞ歴史の遺物というくらいにしか思えない。

 それでも私が「保守」にこだわるのは、人生のごく初期から漠然と「民主主義」と「自由主義」に敵意を抱いていたからです。
 ですから、私にとっての保守というのは、「自由と民主主義(リベラル・デモクラシー)」の害悪から「日本を守り、保つ」ための態度なのであります。


 そして、これは特に「保守」という態度として異端でもなんでもないのです。


(つづく)


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続・工作員の限界 

 前回の「工作員の限界」の後編です。
 今回からお読みいただいても大丈夫ですが、よろしければ前回もお読みいただけましたらうれしいです。


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斜塔


 さて、今回は少し「工作員の限界」というものを具体的に考えてみましょう。

 とは言え、外国勢力の工作活動と一言で言ってもそれは大きく分けて二種類ありますでしょう?
 つまり、
1、対象国から、情報、物、人などを盗みとってくる活動
2、対象国の政策決定や世論を誘導する内政干渉的活動
 の二種類です。
 そして、昨今とくにネット上で騒がれておりますのは2番の方であります。
 勿論、1番の方は北朝鮮の拉致事件という深刻な問題がありますし、ロシアへ渡ったスノーデンの意味の大きさには着目しないわけにはいかないでしょう。
 ただ、今回は2、特にチャイナや韓国による「政策決定や世論を誘導する内政干渉的活動」について考えてみます。


 さて、この方面における工作員の限界を見定めるには、まず自分が「外国の工作員になって日本を凋落せしめんとする立場」に成ったつもりで考えてみればいいのです。そして、反日工作員となったつもりの自分が、日本の国力を落とすような政策を促すように政策誘導なり世論誘導なりをしなければならないと仮定してみましょう。

 すると、少なくとも、「日本の国力を下げるような政策を促す」ためには、「国力を下げるような政策とは一体どんな政策か」という事が分かっていなければ成し得ない、と分かるでしょう?
 逆に、「日本の国力を上げるような政策を阻止する」ためにであっても、「国力を上げるような政策とは一体どんな政策か」という事が分かっていなければ成し得ない。
 ですから変な話、工作員には、工作活動の指針を得る為にも、「政策についてのヴィジョン」がなくてはならないはずなのです。

 しかし、「政策についての正しきヴィジョン、間違ったヴィジョン」なんてものが、そう易々と分かれば人間苦労しないわけでしょう。ですから、工作員の限界とは、「人間が、政策についてのヴィジョンの『解答』を導きえていない」という所に歴然として佇んでいるのです。
 言い換えると、「人間の理性に限界がある」という常識を参照して考えれば、工作活動も人間の理性において限界があると考えられて然るべきだということ。

 勿論、「明瞭に正しい政策」とか「明瞭に間違っている政策」と判断しうる領域もあるでしょう。
 例えば、歴史解釈などがそれです。確かにそうした部分においては外国勢力の工作活動が一定の影響を及ぼしていると考えるのは妥当で、これを排撃する事にも私は大賛成です。また、その事で多少の差別やレイシズムが起ころうと、私は特に問題だとも思いません。(別に自分がそれに加わろうとは露とも思いませんが)

 ただ、そんなことより最も問題なのは、「明瞭に正しい政策」とか「明瞭に間違っている政策」と誰しもが簡単には判断しえない領域にまで、「工作員の影響」を持ち出す態度であります。
 普通に考えれば、そういった領域において、外国の工作活動は指針を持ち得ないはずです。何故って、正誤が明瞭ではないのですから。
 もし、工作員がそうした領域に指針を持つならば、「その国や勢力における事情がこういう筋で関わっている」という、論理だった説が必要でしょう。そして、この論理が根拠に薄弱であれば、それは「陰謀論」に過ぎないはずです。

 たとえば、簡単には明瞭に出来ない政策の代表選手とは、「経済政策」です。経済政策などというものはほとんど論理で語られるものですが、どこか数値的理論で明白になると誤解されがちなところがあります。そこで、ある数値的理論を持ち出して、「この明瞭なる経済理論に意義を申し立てる輩は、中韓の手先であり、偽装転向コミンテルンである」という風に唾をとばす下臈が出現しないとも限らないではありませんか。
 あ、これは別に特定のあの人がそうであると糾弾しているわけではないのですよ。そんなつまらない事に大した意味はない。
 ただ、「陰謀論を騒ぎ立て自分の考える政策の正しさを補強する種類の人間」は、人間社会には必ず出現するのだろうし、そういう言説を面白いと思う人間も一定数いるものだろう……と、身構えておくのが常識的振る舞いだと申しているだけです。

 そして、「兎に角、工作員が悪い」という人々は(意識的であろうと、無意識的であろうと)そうした唾棄すべき扇動人に寄与してしまうのだという事について、警鐘を鳴らしたいのであります。
 それは、げに不完全なる人間社会に起こり得る「議論の混乱」を避ける姿勢としては甚だ無防備すぎるのです。


(了)
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工作員の限界 

 今回から「工作員の限界」というテーマで数回記事を分けてアップします。どうぞご覧くださればと存じます。

 そういえば先日、「ASREAD」という言論サイトに『日本国憲法の諸問題――自由への懐疑』という記事を寄稿させていただきましたので、そちらもご覧くだされば嬉しく思います。ASREADはとても素晴らしいサイトですので、私の記事を抜きにしても足をお運びいただいて損はしないと保証いたします。(リンクにありますのでそちらからどうぞ)



 それでは、「工作員の限界」というテーマを……
 尚、当サイトをご覧いただく際にはランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。




遺跡


 昨今、外人の「工作員」が、ある方向性で問題視されてきています。概して言えば、
「チャイナや韓国が工作員を用いて日本を食い物にしている」
 と、こういう話がまこしやかに囁かれるのを聞くわけです。

 もちろん、この事は何割かは本当の事でしょう。
 また、戦後の日本では、外国勢力の息がかかった工作員を排除する体制があまりに脆い(というか無い)というのはその通りだと思います。ですから、国民は多少の身を切ってでも「工作員を取り締まる法」を、しっかりと構築していくべきだと思います。


 しかし、これにもゆき過ぎは弊害があるというもの。
 とりわけ、あまりに陰謀論めいた話が跋扈するまで、兎に角「工作員」のせいにしてしまうといった一部の風潮には、私は反対です。

 察するに、そうした徒輩は「工作員も人間であること」を忘れているのではないでしょうか。いや、これは別に、「工作員も人間なのだから可哀想だろ!」と言っているのではないのです。「工作員も人間である」という理解が欠けていると、「工作員が出来うる事の『限界』」というものへの想像力が欠ける、とい言いたいのであります。




 まず、「工作員が成しうる影響以上の領域を、工作員のせいにする態度」を、私が問題視する直感的な理由からお話します。
 それは、これが「工作員さえいなければ、我々の民主主義は上手く行っていたはずだ」という前提の上で話されている理屈だからです。

 つまり、皆、現在の日本の状況があまり好ましいものではないとは、思っている。
 対して、「我々は政治の民主化に絶え間ない努力を行い、それによって経済を自由にしてきた」という自負があるのでしょう。つまり、政治家や官僚に対して文句を言いつつも、日本の社会が極めて民主的で、自由なものになっていることを一方では自覚しているのです。
 そして、皆、「我々はこんなにも自由かつ民主的に日本の国を運営しているのに、何故、全体として没落しているのか」という理由が分からない。
 すると、こう思うのです。
「そうか、我々日本人が日本の国をごく自由で民主的に運営しても上手くいかないのは、外国の勢力が邪魔しているからに違いない」
 と。

 しかしこれはどう考えても不自然な思考回路ですよ。
 何故、「日本の没落は、民主化と自由化が間違っていたからだ」と自然に考えないのか。
 外国の工作員なんぞより、日本国民全体の思考形態の方が、ずっと日本の国の良し悪しに影響を及ぼしているに決まっているではないですか。
 そして、この日本の様を作り出してきた原理原則は、「民主主義」というやつなのですから、第一に、「日本人による民主主義が失敗している」という事を認めてもらわないでは困ります。

 もちろん、外国勢力の工作員が日本の没落に寄与した役割は小さくないでしょう。しかし、その領域……工作員が日本の没落に寄与している領域を大きく見積もれば大きく見積もるほど、「日本人による民主主義が失敗している」ということを認めずに済むという論理的関係性がある。
 換言すれば、工作員が成し得る領域を大きく見積もれば見積もるほど、今の日本人は、「愛国」を唱えつつも「自由」と「民主主義」を手放さずに済むという案配なのです。



 外国勢力の工作員を取り締まる法の重要性を唱える事については諸手を上げて賛同します。
 ですが、日本国内で工作員が成し得る事には人間の能力という限界がある事が分かられていなければなりません。というか、過剰なる工作員への関心は、平民による民主主義の失政をそれらに押しつけようとする欺瞞からきているのではないかと、疑ってかかるべきなのであります。



(つづく)
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ある種の安倍首相批判にかんする考察 

 経済政策においてアベノミクスが言われるようになってずいぶんの月日がたちました。これによって、デフレやデフレ容認の経済縮小路線の雰囲気が広く問題視されるようになっていったのは確かであります。反面、その変遷において別の問題が明らかになったり、再発したりなどしたのも事実でしょう。一言で言ってしまえば、新自由主義的、親米グローバリズム的な方向へ向かってしまったという意味で。

 ですが、多くの人々による、昨今の「安倍内閣の新自由主義的色合いへの批判」は、どこか的を外しているようにも思われる。もっと言えば、節度や包括的把握に欠いているようにすら見えます。今日は、そうした「ある種の安倍首相あるいは内閣への批判」にかんして疑問視して、そこからさらに包括的に新自由主義を批判する態度を模索してみたいと思います。



 新自由主義がどうしても好きだ……という方には無理してお願い致しませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいっていただけると嬉しいです。




ドゥオーモ



 たとえば、安倍内閣における経済政策の新自由主義基調へ批判が強まると、
「安倍首相以外に誰がいる? 代案を示せ!」
 という事を言う輩が確かにいます。
 勿論、このような盲目的言説は甚だ愚かな事であると思いますから、揶揄の一つでも飛ばしてやるのが適切な対応というものでしょう。つまり、「盲目的な安倍首相支持を前提に経済政策の是非は面倒な端論として真剣に向き合おうともしない(あるいは、しばしば反共でありさえすればよいと思っている)似非保守言論人」をコケにする意味においてのみ、安倍首相の首相の座に疑問符を投げかける言説が節度として許されうるということ。

 しかし、一方で、一般の国民には首相に向かって退陣を請求したり、内閣の打倒を望んだりするケンリなど付与されていてはならないという事も分かられていなければならない。これは別に安倍内閣に限った事ではなく、民主党政権であったとしても、小泉内閣であったとしても、です。一般の国民(公の立場にあるわけでもなければ国会の議席を持つでもない平民の一人一人)に、内閣のリコールを請求する権限は与えられていてはならないのです。
 反対に、一般の国民には首相へ直接的に権限を付与する権利もありません。つまり、盲目的支持によって「世論」の信託を直接与えるというのは、それが無自覚的行動にせよ害悪以外の何ものでもないということ。

 そもそも、内閣を構成する大臣を選出する権限をもつのは首相のはずだし、その首相を選出するのは代議士のはずです。また、内閣の信任・不信任の権限を持ち、論じられるのもその国会のはずだし、そのことに責任を負っているのも国会のはずです。或いは、政府関係者や官僚にまでなら、その権限と責任は拡張しうるでしょう。
 そして、その一連の「中央政府機構」は「一般国民」の領域から何らかの独立性を保持していなければならないはずです。もし、内閣の構成について一般国民の言説が通用してよいと考えるなら、中央政府機構とは一体なんであるか。一般国民の世論が内閣の振る舞いを決め、それが国民一般を支配するのであれば、それは「無政府状態」の野蛮に近しいものではありませんか。また、そうした場合でも、一般国民というやつが「責任」をとった例は一度だってないのです。それどころか、どれだけ「一般国民の世論」によって内閣や国会議員が支配され、それによって治世に失敗しようと、「政治家が悪い」と「官僚が悪い」とやるのが一般国民世論というヤツの常套手段なのです。つまり、一般国民の世論とは、「自分が正しい、正しい」と言っては統治者の行動を支配するが、その結果の責任は統治者に取らせるという、我侭放題、唯我独尊の栄えある主権者様というわけです。この暴君(一般国民世論)を政府機構から徹底的に排除しようとする姿勢があってはじめて、政府は政府らしくあることが出来、国家は文明らしくあれると言って言い過ぎではないでしょう。

 しかし、政府を構成するのも、国民の誰かがやらねばならないというのもまた事実です。神様が降ってきて統治を行ってくれるというわけにはいかないのですから。よって現状、平民は「中央へ送り込む代表(特に中央へ送り込む『地域』からの代表)」を選出するという間接的な参政にのみ「義務」を追っている。民主主義とかいうものに何らかのプラスの意味を持たせるとするならば、そうした「義務としての民主主義」においてのみなのであります。
 おおむね、民主主義を人間の権利であるとするような「ケンリとしての民主主義」を前提にしているから、政治家に対して正しく請求すれば正しく社会が調和するなどという勘違いを起こすのです。

 私が気になってしょうがないのはこのことで、経済において反・新自由主義主義の立場をとる人々も、何か「新自由主義が弱者イジメの強者優遇でよろしくない」ということを啓蒙的に人々へ知らしめれば、正しい政治家が登場して、正しい政治が行われ、正しい秩序が形成されるはずだ……という人間性の楽観があるように思えてならないということです。
 そして、これには重大な矛盾がある。
 というのも、もし政治においてそのような啓蒙的な民主主義が通用するのであれば、経済においての新自由主義的な市場理論だって整合すると言えるはずだからです。

 尤もこれは、その反・新自由主義の心根が、「弱者が可哀想だから」とか「自分が弱者で、金持ちが妬ましいから」などという唾棄すべきキレイ事でなかったとすれば、ですよ? もし、そうした心根から反・新自由主義主義が伸びているのであれば、政治的にも啓蒙的な民主主義は整合するでしょうよ。

 しかし、私はこの種類の反・新自由主義者が新自由主義者と同じくらい大嫌いなのです。理由は簡単で、双方偽善だからです。
 一体、「弱者が可哀想だから」とか「自分が弱者で、金持ちが妬ましいから」という心根から伸びた反・新自由主義者は、「強者である取り分が欲しいから」とか「弱者に足を引っ張られたくないから」という心根から伸びた新自由主義と、どこがどう違うのか。前者は弱者の代弁として世を啓蒙せしめんとし、後者は強者の代弁として世を啓蒙せしめんとするでしょう。この時点で、啓蒙の光の先は一つではなくなってしまっているではないですか。当たり前で、それは神から示された光ではなく、人の描いた光なのですから。あらゆる種類の「啓蒙」などという新興宗教が、人の世を調和せしめる事など永遠にないのです。

 さらに、そうした輩は、反・安倍、親・安倍についても節度を逸していると、私からは見えます。
 つまり、「弱者が可哀想だから」とか「強者である取り分が欲しいから」といった種類の理想を描く者達は、そうした理想像が社会を調和せしめると考える回路を前提としているが故に、啓蒙的、民主主義的になる。そして、啓蒙的、民主主義的な発想を前提とすれば、「首相」という主題が社会そのものであるかのような錯覚を起こすのです。たとえば、「安倍首相はとにかく正しくて、自民党や官僚の閉鎖性を打ち破ってくれる」などと盲目的空想へ走ったり、「安倍首相はとにかく愚劣で、日本を破滅に導く」などとむき出しの怒りをぶつけたりする。
 しかし、私にはそうした連中が社会を一ミリだって良くできるとは、どうしても思えません。

 言っておきますけれど、安倍首相が新自由主義的な経済政策を選びがちなのは、国力を弱めようとしてやっているわけはないのですよ。これは別に「悪気はないのだから」という擁護をしようというわけではなく、「悪気がないからより厄介」という話でもあるのです。また、この種の厄介は、新自由主義批判で果敢にも安倍首相批判にまで及ぶ小市民らにも当てはまる場合が多い。つまり、新自由主義批判においては仰々しく安倍首相を批判していても、他の部分で「悪気のない厄介」を抱えている者は多いはずだということ。或いは、そういう可能性があることを恐れもしない、あまりにも大胆不適な輩が多すぎるということです。




 新自由主義的諸政策への批判は、それが人間性の解釈において甚だ楽観的であることに欺瞞を発見し、これを詳らかにしていく方向で成されていくべきです。
 さすれば、少なくとも経済についての政府の役割として「再分配」以外の議論も、もっとされるはずでしょう。勿論、適正な再分配機能というのは政府の大きな役割の一つです。が、それ「ばかり」が意識されているというのは、強者も弱者も多くは請求の事しか考えていない証拠です。

 政府の果たす経済への役割は、「統制」や「計画」といった長らく人々に忌み嫌われた所にも存在します。自由、自由と馬鹿の一つ覚えで人間性を楽観しているから、政府の統制も計画もない「素裸の市場」が均衡するという空理空論を吐けるのです。
 例えば、最近閣議決定された国土強靭化基本法。国土強靭化に基本法が必要だというのは、政府による「計画」の要素が、市場経済の機能の為にも不可欠である事を明瞭に意味しているでしょう。つまりこれは、「中央による全体のヴィジョンや方向付けというものがなければ、数値や市場からの請求だけで国土が強靭になることはない」ということを一方で認めている事にもなるわけです。
 或いは、四月に可決した公共事業の品確法は、自由で開かれた素の競争入札によっての価格決定に致命的欠陥があることを示しているのですから、つまり何らかの政府による「統制」が人間社会にとって必要不可欠であることをも象徴的に示しています。
 また、「規制緩和の是非」というのは、政府による経済の「統制」がどの程度必要であるかというヴィジョンに左右される話です。規制緩和、規制緩和……と口やかましく罵る連中は、弱者をイジメようとしているというよりは、「政府による経済の統制など一切なくても市場は均衡するし、むしろ自生的に発展する」という純粋進化論的ヴィジョンがあるからこそそう言うわけです。そして、そのヴィジョンが間違っているのが最大の問題であることが分かられていなければならない。これが、人間に対する楽観とか反政府のキレイ事の偽善であるから、私は新自由主義が嫌いで嫌いでたまらないのです。

 私自身は、「首相批判」などというげにつまらない事をする気は起きません。また、イチ平民である自分に、そういうことをするケンリがあるとも思いません。
 しかし、こうした種類の肝の部分に触れた上で尚、安倍内閣を批判する論客であれば、それはきっと筋も狙いも整然としたものであるはずです。節度もあるでしょう。そしてそれが政府関係者や官僚や国会議員といった「立場ある者」によるものであれば何の文句もない……というより、豊潤な議論のために是非喚起されるべきであるとすら思います。

 ただ、小市民の多数が、単に大雑把に「安倍首相、新自由主義、弱いものイジメ」みたいな批判の流れを作るのは大反対です。これは単におセンチになっているに過ぎないのであって、新自由主義の批判すらも包括的になされていない事になってしまうからです。それではまた、再分配を基点とした自由と平等のシーソーゲームが繰り返されるだけでしょう?

 立場の無い私のような小市民は、首相批判なんぞより、政府による「計画」や「統制」についての話をもっとすべきなのです。また、「再分配」の話にしても、自由や平等などという眠たい観点ではなく、これが「正当」の話であることを認めてからはじめてもらわねば困ります。
 正当、計画、統制……こうした話のほうが、首相や内閣の批判ですとか自由とか民主主義などといった話よりも、断然面白いはずなのですよ。



(了)
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竹中平蔵と新自由主義批判についての適切な態度 

 今回は、特に新自由主義的な言説や振る舞いを糾弾しにかかる姿勢について考えてみます。つまり、政治家の誰々が、官僚の誰々が、言論人の誰々の論説が新自由主義的でよろしくない……そういう種類の話における姿勢についてであります。
 もっとも、間違っていると思った言説を間違っていると指摘したり、その振る舞いから信用できない人間を糾弾したりといった行動そのものを否定はしません。また、二十年~三十年は失われたこの期に及んで、まだ構造改革とか規制緩和といった種類の「改革」が社会を「進歩」せしめると考える思考回路を持つ者を、徒に擁護しようとは決して思いません。
 ただ、そういった行動は本来、手段であって目的ではないということが分かられていなければならないと考えるのです。


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sora


 例えば、竹中平蔵という男がおりますでしょう。そこで、「竹中平蔵は悪い奴だ」と糾弾するのは簡単です。そして、適切な行動であるとすら思います。
 しかし、端的に言えば、「竹中平蔵が悪い奴である」ということ自体は、私からすれば本当にどうでもいいことなのです。そうした糾弾に意味があるとするならば、竹中氏の言説における論理筋立てや負の実績……つまり、『思想』の体系を具体的に否定し放逐するということにおいてあるのでしょう? この違い、つまり「人についての糾弾」と「人についての糾弾による『思想』の糾弾」の違いが明瞭に意識されていなければ、どれだけ「竹中平蔵が悪い奴である」と騒ぎ立てても悪影響しか及ぼさないはずです。これは別に、「彼だって頑張って生きているんだ、可哀想だろ!」といったような安っぽいセンチメンタリズムとか、悪者に対する判官贔屓で言っているのではないのです。分かりやすく言えば、仮に竹中平蔵氏が今急死したとしても、それでは「竹中死すとも自由は死せず」という話にしかならないという意味で言っているのであります。

 ああ、思想……人間にとってこれほど厄介なものはありません。何故なら、思想から逃れられる人物など存在しないからです。
 ともすれば、人は自分を思想的にニュートラルで中庸を保っている人物だと思いがちです。しかし、それは自分が無自覚に前提としている思想をニュートラルだと思い込んでいるに過ぎません。思考が極めて言語的な作業である以上、思考には「心」以前に「思想」という限界があるのです。これは、明々白々な人類普遍の性質であります。
 そして、思想は、きわめて社会的なものであるとも言えます。狼に育てられた少女に思想は芽生えません。何故なら社会が無いが故に言語活動もないからです。故に思考もありません。
 つまり、「社会、言語、思想、思考」の相互依存関係は、個人の内の中にも「私」という自我と不可分な形で張り巡らされているわけです。

 すると、たとえば竹中平蔵氏の強い自由主義、民主主義、個人主義、市場礼賛主義的な言説は、その思想に基づいたものであり、そうした思想は社会的な背景があると見做すのが妥当でありましょう。
 つまり、社会的な「雰囲気」の問題です。私は竹中氏の言説を聞き及ぶとき、常にビジネス雑誌の雰囲気が思い起こされます。竹中平蔵への批判は、そうした雰囲気を思想として分析して糾弾する手段としてなされなくてはならないというのがここで言いたい結論の一点目。


 二点目は、果たしてそうしたビジネス雑誌的な雰囲気は、資本家や投資家、エリート・ビジネスマンが「特別悪い奴」として生まれ出でて、その代弁をする思想だから「悪い思想」になっているのだろうか……という疑問。そして私はそうは思わないのです。
 誤解を避けるために言っておきますが、私は別に資本家や投資家やエリート・ビジネスマンの人間性を擁護したくてこんなことを言っているのではないのです。人間性批判に留まっているのは論として不毛である、と言っているだけです。
 また、これは「産業革命の折、古典派経済学が資本家の代弁者であった」というようなストーリーを範として新自由主義を批判する態度への、半分の疑義です。「半分の疑義」とは、「古典派経済学が資本家の代弁者であったという解釈から、共産主義、社会主義へつながることを警戒してのこと」ではありません。つまり、そうしたことを「半分」示すことによって「中道」を虚飾するものではないということ。

 私が言いたいのは、資本家や投資家、エリート・ビジネスマンといった人々がほぼ無自覚で前提としている新自由主義的態度は、とどのつまり「基本的人権(自由)」と「民主主義」についてのイチ解釈ではないか、という点であります。というのも、新自由主義というのは、近代を純粋化する理論としては、極めて精緻な体系をもっているからです。
 このことに思いを及ばせずに、彼らの人間性だけを批判していても、それはそれで偽善に陥る可能性が高い。
 何故って、新自由主義の思想を人間性の問題に帰結させる態度は、自分の立場から都合のよい「基本的人権(自由)」と「民主主義」の解釈は理屈として保存しつつ、そうではない「基本的人権(自由)」と「民主主義」の解釈を否定しているにすぎない……という可能性があるではありませんか。私は、こうした偽善に陥るのが恐ろしくてたまらない。
 しかし、ここに「竹中平蔵がけしからん」と言う人間が百万人いたとして、果たしてそのうちの何人がそうした偽善を恐れているか。この恐れなしに新自由主義を批判していても、それは竹中平蔵の亜種でしかないでしょう。


 そもそも、論理上、「基本的人権(自由)」と「民主主義」という言葉が必要になるのは、「政府ではない者たち」が「政府」へ何らかの請求をする場合についてのみであります。ですから、「政府」に対しては資本家も労働者も、エリートも落ちこぼれも、金持ちも貧乏人も、強者も弱者も、一様に自由と民主主義を歓迎するでしょう。というより現代人は、自由と民主主義が与えられていて当然のものだという風に思っているのかもしれません。しかし、ことが資本家と労働者、エリートと落ちこぼれ、といったような間での話に至れば、「自由と民主主義とは何か」という具体的解釈において軋轢が起きて当然なのです。何故なら、もともと「自由と民主主義」は政府に対する請求に都合が良いというだけの市民革命的ツールに過ぎなかったのですから。

 とどのつまり、新自由主義を批判したり、その理論的主柱を批判したりする際、我々が重視すべきは自由でも平等でも民主主義でもなく、「公正」のはずです。このことはつまらないようですが、とても重要な事です。

 例えば、人は、政治家や官僚が新自由主義的な政策を施すのを見て「ケシカラン」と言う。しかし、一方で「政治家の定数や公務員の数を減らせ」と言う。そして、その前後の矛盾に気づきもしない。あるいは気づいていないフリをする。
 少し考えれば、反・新自由主義的な政策とは、政府の領域を大きくすることでしょう? また、政治家や官僚が適切な仕事をしていないと感じているのであれば、むしろ人員や給与を増やして、政府を強靭な機構にしなければならないと考えるのが普通でしょう。しかし、「新自由主義的な政治家や官僚にお灸を据えて、給与を剥奪し、弱者を救済すべし……」という風にのたまう輩が後を絶たない。
 これは、新自由主義を単なる「弱者イジメの強者優遇」として「ケシカラン」と言っているからに過ぎないからでしょう。勿論、そういう問題性のあることを私も認めますが、このことばかりに目が行ってしまうのはそれが単なる都合のよい請求に堕している証拠でもあるのです。

 我々に求められているのは近代主義の純粋化としての「自由、平等、民主主義」の解釈から分岐するあらゆる思想への懐疑の姿勢であります。また、懐疑と共に引き受けざるを得ない領域の「近代」を見定める態度も必要でしょう。
 そして、それは、国家の歴史を引き継いだ者としての国民に、その共同体の網の目から時間的に濾し出した「公正」を追求する意思があって始めて成し得る姿勢や態度なのだと、私は考えるのです。


(了)
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大学改革と純粋近代的教育観 

 今後、しばらく日本国憲法についてやって行こうと思っているのですが、それと平行して、教育・学問についてもやってみようと思います。
 と、申しますのも、大学改革というのがどうも厄介な話であるということを聞き、自らの学生時代の経験も思い返すうちに、「なるほど、これは気にくわない」と日に増して思うようになってきたからであります。
 大学改革……これは様々な批判の仕方が可能な愚挙です。グローバリズムや新自由主義を内包してもいるし、特権を剥奪しにかかるルサンチマンから起こっているとも糾弾できる。

 しかし、私は、私なりの「大学改革論へのアンチテーゼ」を構築してみたいと思います。それは、「純粋近代的な教育観への批判」という指針です。

 私がこの指針にこだわるのは、「閉鎖的な大学のあり方を開放し、より世間の請求する人材を効率よく育成できるようにする」という大学改革の態度を、世間一般の人はおろか、大学の人ですら「良い事」という風に思いながら進めている様子だからです。つまり、悪くしようと思って悪くしているわけではなくて、良くしようとして悪くしているから、余計にタチが悪いということ。
 さらに、実のところそうした大学改革に懐疑的な思いがあっても、彼がそれまで「純粋近代」を礼賛する文脈で研究を進めてきた教員であれば、なかなかこれに反発するということはできない。何故なら、今までそういった社会観で理論を構築してきておきながら、自分の所にお鉢が回ってきた途端に転向するなどという振る舞いはさすがに取れないからであります。

 こうした事情によって、大学改革という大学の人の首を絞める改革を、大学の人が反発していかれないのです。ですから、大学外にある者が「純粋近代的な教育観」という所まで立ち返って、それが大学改革という指向を礼賛する根本問題である事を指し示す事に何かしらの意義があるように思われたのであります。

(ただ、今回はまだ論が錬れていないので朧なところもあるかと存じます。順次、論を洗練させていきますので、今日はとりあえずその骨子を)


 大学改革が喫緊の課題である……と考えるお方には無理にとは申しませんが、別にそうではないという方は、どうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいっていただけると嬉しいです。




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 そもそも、我々が今当たり前と思って享受し、子や孫らへ受けさせているような学校教育といったものは、種類として随分新しいものです。勿論、日本では、江戸時代から寺子屋があって町人は奉公へ出ると読み書き算盤をならっていたらしいから、庶民の識字率は相当の水準でありました。それは立派なことでありますが、こうした教育は近代以降のそれとは種類が違うのです。
 我々現代人が受けてきたのは、おおよその国民に何年も均質な義務教育を施すという「国民教育」でしょう? 国民教育などという事をしはじめたのは、日本に限らずその国が「近代主義(モダニズム)」というものを受け入れたり、受け入れざるをえなくなってからのことです。それは当たり前で、国民国家という感覚は近代のものなのですから。また、その国民教育における目的は二つに分けられます。
①「国家を全体として近代合理的に回す為には、大多数の民に『国民』としての質が求められるから」
②「個人が、近代合理的に回転する国家においてその恩恵を享受するには、『国民』としての質が求められるから」
 つまり、「近代社会の合理性の為」という側面と、「それによって個人が近代社会の恩恵を受ける為」という側面から、広く均質な教育が求められるようになるわけです。

 ここでは、こうした意味での教育を『近代的教育』と呼びましょう。



 対して、そうした近代主義の始まる前、学問やお勉強というものは概ね特権階級のものでした。
 というのも、日本の武士や西洋の貴族といったような特権階級は、百姓と比べれば暇だったのです。(勿論、平時においてはということですが)そうした立場の武士や貴族は平時が続けば次のように考えるものです。
 百姓農民が生産したモノの上で禄を噛んでいる以上、特権階級は彼らを指導する責任がある……と。そして、百姓農民を指導する為にはその実践的な術や文化的な教養を学ばなければならない。それが学問です。
 こういった考えは、日本では武士道の走りである山鹿素行が言っていますし、西洋ではノブレス・オブリージュという言葉に貴族の持つべき責任という感覚が顕れています。また、「school」の語源である「スコラ」というギリシア語の意味は、「暇な時間」とか「暇な時間をつぶす場所」という意味がある。つまり、学問というのは、労働を免れた暇な人間がやる「真剣な遊び」だったのです。

 ここでは、こうした特権階級による指導の術や文化的教養としての学問を「前近代的学問」と呼びましょう。



 さて、保守派を自称する私は、この「近代的教育」と「前近代的学問」を並列させた時、どのようにこれらを考えるべきでしょうか。
 もし、保守思想というものを、「近代というものを引き受けつつ、近代への懐疑を失わない者」と定義する事を許してもらえるのであれば、それは「近代的教育」と「前近代的学問」の均衡をこそ目指すべき学問・教育の道であると言えます。
 つまり、平民的な庶民に対する「国民教育」と、特権階級的な真剣な遊びとしての「学問」を、社会の中で調和せしめるように目指していくべきだという事。

 これに対して、「大学改革」の理念は、近代合理的な社会とその便益を受ける平民の為に広く均質な教育を求める国民教育……つまり、「近代的教育」の方しか念頭においていないのです。
 そうした、社会を一側面でしか捉えない近視眼的態度が……純粋近代的なモノの見方に収束していく大衆礼賛の気色が、私は嫌でたまらない。もし、そのように社会を一側面で捉えたならば、社会はごくスマートに、無駄なく、矛盾なく調和していくように見えるでしょう。つまり、研究者の時間的余裕、様々な学部、学科、研究、大学の自治閉鎖性……といったモノが無駄であり、矛盾であるように見えてくるでしょう。ズルイ既得権益に見えてくるでしょう。
 しかし、それらは無駄じゃあないのです。
 実を言うと、国家、社会は我々が思う以上に複雑なものですから、そうした前近代的な学問的特権を付与された層は必要なのです。また、そうした特権は、多少の余分で与えられていても、不足しているよりは遥かにマシであると言えます。

 卑俗な平民の請求に晒されず、ただ「真剣に遊ぶ」という事をする層は、絶対に必要です。
 私は、こうした前近代的学問の特権を断固擁護していく所存であります。


(了)
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筆名及び、ブログタイトルの変更 

 筆名を「後藤真」から「後藤翔」という風に変えました。
 というのも、「後藤真」と検索サイトで検索すると、後藤真紀がでてきてしまうからです。

 また、「日本が日本であるために」というブログタイトルを、「後藤翔の、日本が日本であるために」と変更しました。
 これは、似たブログ名のサイトが出来て、しかも私のよりも人気が出てしまったので、埋もれないようにするためであります。

 そういえば、「後藤」というのは、父方の祖母の旧姓です。
 それに対して、そもそも名の「真」というのは好きな字であったというだけでした。ですから、本名から一字を取って「翔」と、多少なりとも意味を持たせた名前にしてみました。

 これから少しアクションを起こそうと思っていますので、この機会にずっと気になっていた筆名変えておこうと思いまして断行した次第であります。
 これからもどうか「後藤翔」および「後藤翔の、日本が日本であるために」をよろしくお願い致します。
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