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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2014年07月  
  

公務員給与倍増計画 

 私は本当に不思議で仕方ないのです。デフレで、これだけ給与や賃金の事が言われる中で、何故、「公務員の給与を上げろ!」という声が聞こえて来ないのか、という事が……


 公務員給与倍増だなんて反対だ……という方には無理にとは申しませんが、そうではない方はランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。





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 当たり前ですが、民間企業の給与は政府の政策ですぐにどうすることなどできません。それは、市場のコンディションの中での、労使の問題に帰着するからです。

 しかし、公務員の給与は、政府の『計画』ですぐに上げる事ができます。


「国民の給与の上がらない事が、消費の落ち込み、需要の落ち込み……つまりデフレの原因で国力停滞の原因だ」

 という風に、国を憂いている人は結構見かけますが、それならば何故、まず第一に政策で即座に上げることができる公務員の給与を「上げるべし!」と請求しないのでしょう。

 よもや、公務員は国民ではないとでも思われているのでしょうか?
 それとも、その憂国の情は、実の所、「(自分の)給与を上げろ!」という請求を虚飾したもの……あるいは、そうした請求を代弁したもの、なんじゃあないでしょうか?


 意地悪を言うようですが、これは極めて重要なポイントです。


 本当に「国民の給与が上がらない事」が問題だと思うのであれば、自分が公務員でなくとも(いや、公務員でない者こそ)「公務員の給与を上げろ!」と言っていなければウソです。偽善です。

 世の中の政治的『デモ』や『活動』のようなものは(ネット上のものを含めて)、大抵こうした偽善の映し鏡です。何故ならそれらは、自分の為にケンリを請求をするか、左翼が気にくわないとか、右翼が気にくわないとか、権力が気にくわないとか、金持ちが気にくわないとか、貧乏人が気にくわないとか……そうしたことでしか主張を行わないでしょう。



 そもそも、バブルが弾け、銀行が潰れ、デフレ状態に入って行かんとする際に、日本人どもは公務員についてどう言っていたかご記憶でしょうか?

「不況で民間が喘いでいて、リストラ云々で『痛み』を負っているのに、官僚をはじめとする公務員には『痛み』が回って行かないではないか!」

 というような丸出しの僻み根性を、ほぼ休みなしに発揮し続けてきたでしょう。
 私は子供ながら、そういった言説を聞く度に、酷く陰鬱な気持ちになったものです。つまり、大人が気持ち悪かったのであります。


 さらに大衆は、「公務員の給与を削減すれば、自分たちの所にその分が幾ばくか回ってくるだろう」とでも思っていたに違いありません。
 ところがこれが逆なのです。
 なぜなら、民間の企業は、公務員の待遇を基準とするところがあるからです。それは公務員の待遇が、民間で労使の長期的関係性の『基準』として捉えられている部分があるからでしょう。
 もっとも、給与水準についての理論は経済学では色々言われていて面倒なのですが、これだけは言えます。
 すなわち、不況下で公務員給与を下げれば民間の給与水準もそれに併せて下がる……と。


 今の日本人は、この十年、二十年発揮し続けてきた醜い僻み根性の報いを受けているという一面もあるわけですから、「きちんと生活を苦しまなければならない」とすら私は思います。(私も含めて)

 ただ、それだと日本はコロっと滅びてしまうので、今からでも「公務員給与倍増計画」を声高く請求してはいかがでしょうか?

 しかも、それは公務員がやってもあまり意味はありません。
 公務員ではない人々が、「公務員の給与を増やせ!」と請求できてはじめて意味があるのです。つまり、「自分自身の事ではない請求」だという意味が。
 また、私何ぞは、そんなことが起これば「痛快だ」とすら思います。


 そんな痛快さのみならず、公務員の給与から増やすのが、国民全体の所得上昇の最も現実的な筋立てなのです。
 なぜなら、公務員の給与が上昇すれば、企業は人材確保の為に給与を引き上げざるをえなくなりますでしょう?
 勿論、生産費用がかかるようになって、海外での価格競争に勝てなくなるかとは思いますが、そんなもの問題ではありません。自衛隊員の給与も上げれば、きっと軍事力で我が国の市場を保護する事ができるようになるはずです。



(了)
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父子DNA鑑定訴訟について 

 デフレと賃金についての話の途中でしたが、気にくわないニュースがあったので予定を変更します。
 気にくわないニュースとは、父子DNA鑑定訴訟についてであります。

 最高裁の父子DNA鑑定判決にどうしても賛成だ……という方には無理にとは申しませんが、そうではない方はランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。





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 父子DNA鑑定訴訟というのは、つまりこういうことです。

 ある夫妻がいて、その婦人が妊娠したとする。
 この時、そのお腹の子は「妊娠時点で夫だった男」の子だとすることを『嫡出推定』と言います。
 しかし、後からDNA鑑定で、その子が夫の子でないと分かった。つまり、婦人がよそでこさえて来ちまった子だと判明したわけです。
 この度の最高裁での判決ですと、それでも嫡出推定が優先されるという話になってしまいました。
 つまり、夫は、「妻がよその子種で孕んできた子供」を、養育する義務が生じるというわけです。


 勿論、そもそもの嫡出推定そのものは、頷かざるをえない部分もある。
 つまり、まず『一家』があり、この時婦人が妊娠したならばその『家』の子だ、という考えにおいて。
 そもそも父は生物的特性上(お腹を痛めないという意味で)、おおよそ子を「子」だと推定しているに過ぎませんから、そのあたりは妻を信用する事にする他ありません。その前提の上で、ある家の中で妻が身籠もれば、それは夫の子であると考える……というのは基本的に常識でしょう。こう考えないというのは、「この子は俺の子じゃあないはずだ」と父親が主張すれば、簡単に子供は追ん出されてしまうという事になります。そして、男というのは確かにそういう疑念を抱きがちなしょうもない生き物であるらしい。

 しかし、そういった考えは、女子に『姦通罪』があった事とセットだったはずです。
 つまり、『嫡出推定』と『姦通罪』の倫理観はセットなのです。
 そのことを無視して、『姦通罪』が女性蔑視であるといったような話が、まずをもって私にはよく理解ができない。



 まあ、百歩譲って、嫡出推定があって姦通罪のない事を認めたとしましょう。(私とて、今さら姦通罪の復活を主張しようとも思いませんし。)

 それでも、だからと言って、「妻がよそでこさえて来た子であっても、子供のケンリを保護する為に、彼の生まれた時に母の夫だった男が父である」という風に捉えるのは、あまりに拡大解釈というもの。
 そもそも『嫡出推定』は、「一家の妻は、よその子を孕んできたりしないだろう」という信用を前提としている事を、忘れてもらっては困る。
 別に、「誰の子であっても、子供が子供として生まれてきたそのケンリを保証する為」にあったわけではないのです。
 強いて言えば、「その夫婦の子供であると『推定』される子が、よその子だと疑われないようにする為」くらいのものだったはずです。

 そして、だからこそ嫡出『推定』なのです。何を推定しているかと言えば、「夫と妻の子である」という事を推定しているのであって、そうでなければ一体何を推定しているというのでしょうか?
 つまり、これが水掛け論になりうる状況下においてはじめて、推定は推定の意味を成すのです。
 DNA鑑定は百パーセントではないとは言えど、明らかにこの「推定」が覆される場合では、「推定」は不可能でしょう。言葉の論理的として当然の事です。



 とは言えど人間ですから、時にはそういった腹に重たい事情の諸々が起こる事もあるでしょう。誰もが規範や道徳に従順ではないし、どうしようもない状況がある場合だってあるかもしれない。

 その上で、もし、後よりその子に父の血が流れていないことが判明した場合は、それはもう基本的に、『家』の問題として内々に解決してもらわなければ困ります。(事実、『調停』などの手段で解決している場合の方が多いのです)
 また、どうしてもそれが無理で裁判にならざるをえない場合は、裁判官がめいめいの各種各様複雑な事情を勘案し、別個に判断する……という事で何が問題なのでしょう?

 最高裁は、こうした事に対する判決に、具体的かつ一般的な意味を付与しようとしすぎではないでしょうか? 
 昨年の、婚外子相続の問題もそうです。
 いわゆる『天賦人権』を保護するという名目のために、法律が基準を示すべきではないごく具体的な場合についても基準を設定しようとしすぎなのです。

 要は、法律や判例として予め規定されて良い領域には限りがあるということ。裏を返すと、そうした領域があるからこそ「裁判官」が必要なのであって、予めの法律が全ての具体的状況を網羅しうるのであれば、裁判官はパソコンで良いということになってしまいます。予めの法律というのは、抽象的であってよいのです。


 ところで、最も分かりやすい天賦人権とは、「罪のない子供」というやつでしょう。そりゃあ子供は慈しまれるべきものでしょうが、子供とは『王様』とか『神様』なのですか? ただ生まれてきたというだけで、何故も全ての基準を「子供のケンリ」とやらに合わせねばならぬのでしょう。しかも、そんな虚飾のケンリは、子供をすら何人も救わないはずなのです。

 我々は、「男と女」という厄介な天然の性質を、『家』という偏見の体系でもって制御してきたわけであります。
 その歴史的英知を、『天賦の人権』などというさっぱりワケの分からんモノサシで裁断すれば、ワケの分からん事になるのは当たり前でしょう。



(了)
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賃金にかんする序章 

 今日は、賃金の問題から論じてみます。

 あ、それと、へんてこな更新時間になってしまってごめんなさい。

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 賃金の話題をするために、まず、『名目賃金』と『実質賃金』というものを説明しておきましょう。

 字面は何だか小難しいようですが簡単な事です。

 名目賃金は、その額面とおりの賃金です。
 たとえば、ある人が一年間働いて200万円の給料をもらったならば、その「200万円」が名目賃金というわけです。

 実質賃金は、その額に「物価」を加味したものとなります。
 たとえば、ある人が一年間働いて200万円の給料をもらったとしても、世の中の「物の値段」が上がれば、その「200万円」の価値は、当初の200万円より下がっているでしょう?
 逆に、「物の値段」が下がれば、その200万円の価値は、当初の200万円より上がっている。
 つまり、缶コーヒー1本100円である世の中の200万円と、缶コーヒー1本千円である世の中の200万円では、200万円の価値が違うのです。

 そういう風に考えると、一見、「物の値段が下がりつづける」というのは、良いことのように思えます。と言うのも、物の値段が下がり続ければ、200万円で買える缶コーヒーの数は増え続けるでしょう?
 ですから、『デフレーション』(物の値段が下がり続けること)というのは問題ではないと言う人達が、かなりいました。

 しかし、デフレーションを、『デフレスパイラル』として一連の流れとして考えてみると、少し厄介な事がわかる。

 デフレスパイラルとは、

1、モノの値段が下がる
2、企業の粗利が下がる
3、給与が下がる
4、消費(需要)が下がる
5、供給が余る
6、モノの値段がまた下がる

 という循環です。

 つまり、物の値段、企業の粗利、給与、消費、投資……といった経済項目は、相互に連関しあっているということ。

 ただそれでも、その相互連関が市場の中で『均衡』して進むのであれば、デフレーションは問題ではないという事になります。
 この場合の『均衡』というのは、「物の値段、企業の粗利、給与、消費、投資」といったもののあらゆる推移を人々が予測し、そしてその通りに進んでゆく……という意味です。(あるいは平均としては)

 しかし、現実世界の人々に、そこまでの『理性』はありません。
 つまり、人々の『予測』は極めて不完全であるし、また、人々は自分の予測が不完全であるという事も知っています。

 特に企業は、需要が減り、粗利が減ってゆく世の中では、将来が不確実であると見なし、貨幣を信用資産として保有しておこうとします。(流動性選好)
 すると、物の値段が下がる以上に、『給与』と『投資』が減り、貨幣は『企業の内部留保』や『投機』へと向かってしまう。

 ですから、人間の理性が不完全であるという前提に立てば、デフレーションが問題なのは確かなのです。



 さて、ここで実質賃金、名目賃金の話に戻りましょう。

 そもそも、「デフレーションは問題ではない」と見なす者は、実質賃金を重視すべしと主張します。というのも、賃金の下落に沿うように物の値段が下落するなら、デフレーションは問題ではないということになるでしょう?

 対して、「デフレーションが問題だ」と見なす者は、実質賃金を重視する態度に疑問符を投げかけます。つまり、労使共に物価の下落と賃金の下落を予測し切っていたりなどしないからです。


 デフレーションが問題であると思う私は勿論、「賃金は実質で見るべきではない」とは思います。しかし、このことを酷くねじ曲げた格好で拡張したのが、リフレ派です。
 リフレ派は、「労働者は賃金を額面(名目)でしか考えないから、物価上昇に伴う実質賃金下げ圧力は問題ではない」というところまで拡張して、さらに「その名目と実質の差分で、労働者を安く使える分だけ、収益を上げる事ができるようになる」ということを「インフレーションでなければいけない理由」の一つだとするような、酷いねじ曲げ方をするのです。

 この理屈が酷いのは「やまと心」さえあれば分かるでしょう。
 しかし、仮に日本人に一切のやまと心が消失してしまっていたとしても、馬鹿でなければおかしいと分かるはずです。

 何故って、名目賃金と実質賃金の差分でコストを実質でカットできるのだとして、そのことによって起こる投資には、やはり見通しが必要になってくるのです。つまり製品を安く『供給』できるようになることと、その安い製品が『需要』される事は別問題で、また、企業の方もそのことを分かっているから全体として投資が増えることもない。
 つまり、物価と賃金にかんするリフレ流解釈は、『供給』サイドの領域しか網羅していないのです。そして、供給サイドの領域しか網羅しないのであれば、そもそも「デフレーションが問題である」とする論理の方に、綻びが出てしまう。
 何故なら、供給されるものが全て需要される、あるいは需要されるものしか供給されない……といった完全情報的市場では、「デフレーションでも市場は均衡する」と考えなければならないからであります。



 これに対して、『需要』サイドを考えれば、やはり『賃金』の上昇は無視できない話題になります。

 ただ、だからと言って、少し前の三橋貴明氏のように「実質賃金」を問題にするのは、本末転倒というもの。賃金を実質で考えてしまうと、これはこれで「デフレーションが問題である」という所への論理が絶えてしまうからです。

 また、私は、別に人々が「手に入れられる物質の量」を増やす事が良い、などとは全然思いません。
 というのも、現代大衆人はまだまだ全体として飽食であって、たとえば「一家に一台だった車を二台買えるようにする賃金上昇」だなんて、不必要かつ有害であるとさえ思います。
 そういった意味でも、賃金を実質で見る事には、たとえリフレ派を糾弾する意図であっても賛成できかねます。


 これは長期的スパンを臨んだ場合の、『態度』の問題ですが、やはり賃金は『名目』で見るべきです。と言うより、税引き前の額面で見るべき、といった方が正確でしょう。
 つまり、「人々が、より多くの物質を手に入れられるようにする為」ではなく、「実体的労働が、長期的に額面として評価される為」に賃金は上がっていくべきなのです。

 勿論、「名目賃金が、上昇する物価以上に上がっていく」という意味での実質賃金上昇(三橋氏はそういう意味で言っているのでしょうが)を望むことは否定しませんが、最終的に、その実質での賃金上昇分は、「人々の欲望としての需要」ではなく「公の恒常的需要」としてされていくべきだろうと、私は強く主張するのものです。
 つまり、デフレーション脱却につれての(あらゆる種類の)増税という方法で。

 これは長期的ビジョンにかんする話で、デフレーションの方は短期の話なので、「まず短期の問題を解決する」という考えには賛成です。また、現状の政府支出の拡大は、公債をもってこれに当てればよろしいでしょう。
 しかし、『需要』にかんする長期的なビジョンとしては、「賃金上昇と消費拡大」というよりは、「賃金上昇を税金で徴収、恒常的な公の支出の拡大」という方向性を向くべきなのです。
 つまり、大きな政府へ向かうという事であり、その長期ビジョンを睨んだ短期的問題解決の連続でなければならない。


 話をまとめると、人々の労働についての名目賃金は評価上昇され続けて行くべきで、それが物価の上昇率以上に上昇し、実質賃金としての上昇率分が消費の上昇に繋がり、『需要』の上昇に繋がると考える仕方は、短期的には悪くない。
 ただ、長期的には、その需要の上昇は「人々のそのままの消費活動の上昇」として行われる必要は全くなく、むしろ増税をして、需要の方は政府がこれを公のものとして行えば問題ない……と考えてはいかがか、という事。


 つまり、人々の賃金を上げる必要はあるが、それを『需要』するのは政府がやるべきだということ。
 また、裏を返せば、別に人々が「消費」で購入できる財の量が増えなくとも、賃金は額面で上昇していかなければならないということです。

 この事を考えていただかないと、「デフレーション脱却」と銘打たれたそれは、単なるミニバブルで終わる可能性が高いでしょう。



(了)
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100億の橋は150億で買うべし 

 今回は、土建業の供給力不足問題などに絡めて。

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 そういえば、外国人労働者の受け入れ拡大の議論は、土建需要の拡大に伴う労働供給力不足が根拠にされることがありますでしょう?

 この事は一方で、リフレ派が「財政出動」を牽制する理屈でもあります。
 つまり、「土建労働力はそんなに一気に増えない」から、「公共投資を短期的な景気刺激策として活用するには限度がある」ので、「限度のない金融緩和をやっていればいいのだ」というリフレ理論です。
 これに付随した格好で、またはその議論にかこつけて、外国人労働者受け入れの話がされるようになった「流れ」がある。



 しかし、次のような事も考えられはしないか、と私は思うのです。

 たとえば、ある地域で政府が、Aという橋を100億円で発注するとします。勿論この時、さらにBという50億円の道路工事を付け加えるという発想も悪くはないでしょう。
 が、もしここでBという道路工事を行わなくても、100億で買えたはずのAという橋を150億円で発注しさえすれば、これでも全く問題ない。これはこれで前者と同額の支出ができているでしょう。

 簡単な算数です。

Ⅰ.A橋(100億)+B道路(50億)=150億
 と 
Ⅱ.A橋(100億+50億)=150億

 なら、どちらも150億の政府支出です。
 これで、何が問題でしょうか?
 何一つ問題などないのであります。


 もし、公共事業を増やすということが、「100億のA橋に、50億のB道路工事を加える」という方向性でのみ考えなければならないのだとしたら、B道路工事に対する人手不足を「外国人労働者でもって補わなければならない!」という発想も出てくるのかもしれません。
 しかし、「100億円の橋を、150億で買う」という方向の発想が許されるのであれば、もし仮にB道路に及ぶまでの労働力が無かったとしても、ちゃんと政府は150億を需要できるのです。ましてや、外国人労働者受け入れ拡大の話など浮上しようもありません。


 ところで、「100億円の橋を150億で買うべし」というような事を言うと、おそらく、
「その余分にかけた50億は、『無駄』じゃあないか。国民の税金を無駄なものに費やして、土建業のみを潤わすなんて許せない」
 という反論を聞くことになると思います。
 つまり、その余分な50億円は、「穴掘り事業」と同じではないか……という。


 しかし、100億円の橋を150億で買うことは、「50億の無駄を加算した」という話ではありません。
 これはいわば、「その事業にプラス50億分の価値があることにした」という事なのです。

 そもそも、政府には、「現状の市場価格から鑑みて最安値でA橋を購入する」なんて行動を取る必要など一切ありません。
 逆に、政府は「だいたいこの事業には、このくらいの価値があるという事にしておきましょう」という『価格基準』を提示する機能を実は果たしているし、果たすべきなのです。

 政府が「A橋には150億円の価値がある!」といえば、A橋には150億円の価値があるのだなあ、と思っておけば良いのです。別に、一般競争入札による最安値がA橋の価値である必要はないのです。
 要は、それが「政府の支出である」というだけで、全て「その額面通りの価値がある」という風に考えてしまえば良いのであって、市場価格を基準に政府支出の『無駄』を摘発するなどというのは基本的にナンセンス極まりない話なのであります。



 これは確かに茶番と呼んで然るべき話かもしれません。しかし、この茶番は茶番でも良き茶番……つまり、儀式や手続きとして「権威ある茶番」と評すべきものです。

 A橋が150億円だという事にしてしまえば、A橋を造る土建職人達の給与を上げる事ができます。(あるいは、労務単価を上げるように指示する事ができます)または、重機、機材などへの投資へ回す事もできるでしょう。

 単純に言い換えると、「A橋に150億円の価値がある」ということにしてしまうというのは、「土建職人の仕事の価値」や「重機、機材の価値」が「とても高い」という風に評価してしまうということ。

 そう。政府の評価で、土建職人を「高度人材」という事にしちまえば良いのです。

 また、土建職人が「高度人材」だという事にしてしまい、高度人材的給与が支払われるようになれば、土建労働力は長期的にも短期的にも増えます。
 というのも、今の不足気味の土建労働力は、あくまでも「今の土建給与水準で集まる労働力」なので、もし強制的に高い給与水準を設定すれば今よりも潤沢な労働力が確保できるはずなのです。

 当たり前ですけれど、土建職人だって職を選好します。
 土建事業に参加して左官をやるより、コンビニバイトで店員をやるほうが割に合うと思えば、コンビニをやるのです。(実際この類の事は多くあるらしい)

 しかし、政府が100億円で落札可能な橋を150億で発注し、土建職人を高度人材と見なすことにすれば、その給与と誇りを求め、コンビニで働いていた彼らは、土建現場へと帰ってくるでしょう。

 さすれば、A橋に加えて、B道路工事にかかる土建労働力も確保せらるかもしれない。
 こうなればしめたもので、両方やればよい。
 この場合、A橋は150億で発注したけれど、B道路工事は70億といったように発注するのが良いでしょう。

 つまり、各事業に対するコストを増やすことで、労働供給力を増やすこともできるわけです。



 勿論、こういう事をすれば、住宅価格等々は上がるでしょう。何故なら、公共の事業における労働価格が上がれば、民間も労働価格を上げなければ、労働力を確保できませんから。
 しかし、これによって人々の住宅購入が多少困難になろうと、私は知ったことではありません。経済政策は、別に市民らが住宅を購入しやすくする為にあるわけではないからであります。

 そもそも、デフレで物価が下がっているのが問題だと言っているのだから、不動産価格、住宅価格が上がるのは良い事ではないですか。そんなに家を買いたいなら、多少辛抱して、価格の上がった住宅を買えばいいのです。無理だったら、借家で何の問題がありますか?

 そんな一人一人の消費欲……安くモノを手に入れたいという大衆欲に迎合するのではなく、公共の事業に対し市場価格から超然した評価を付与する方が、政府のやるべき事なのであります。



(了)
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日本民族超優秀説 

 引きつづき、「外国人労働者受け入れ拡大」という考え方の問題について。

 労働供給力不足があれば、そのつど外国から出稼ぎを集えばよい……という強い主張をお持ちの方には無理にと申しませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。





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 前回、外国人労働者受け入れ拡大の件で最も問題なのは、「その時々で労働供給力の足りていない部分に、外国人を適宜投入する」という発想そのものであると論じました。


 そもそもお気づきでしょうか? 
 新成長戦略の外国人活用の話は、「これが移民政策か、そうでないか」という焦点で議論されてしまっているということを。
 肯定する者は「移民政策ではない」といって肯定するのだし、否定する者は「移民政策だ」といって否定する。つまり、これを「移民政策」として肯定している者はほとんどいないのです。

 もっと言えば、「外国人労働者受け入れ拡大は、移民政策だ!」と糾弾する者でも、一方で「これが外国人の短期の出稼ぎの活用で済むのであれば良いが……」という前提に立っている事が少なくない。
 別に「安倍首相批判」をしても良いのですが、それに熱中するあまり移民政策としてこれを批判することに固執し、「外国人の出稼ぎの活用」という考えの方はボンヤリと受け入れられてしまったら、元も子もありません。
 この事はよぉく考えてもらわねば困るのです。



 なにはともあれ、根本的に「労働供給力の足りていない部分に、外国人の出稼ぎを活用する」という考えは、『市場』というものに対する誤解なのです。
 この考えは、「自由市場の合理性の為に、人間が世界中を動き回れる」という前提に立ったものです。この場合、労働力の需要と供給における偏りや斑(まだら)な部分について、外国人やグローバル人材を『調整弁』として活用してみせるという『合理性』であります。
 確かに、日本で短期的でも稼ぎを上げたい貧乏な外国人はいくらでもいるでしょう。また、日本人では賃金を上げねばやりたがらないような仕事を、安い賃金でやってくれる外国人労働者は、企業にとって大助かりでしょう。
 しかし、日本人がやりたがらない仕事を外国人が安い賃金でやり、日本人は各々の日本人のやりたい仕事を……それこそ「日本人高度人材」としてやってゆく……というような事で、市場の相貌を保っていけるでしょうか?


 ここで、仮に、日本民族が民族的にとても優秀で、外国人に比べて、ほとんどが「高度人材であり得る」という空想をしてみましょう。
 すると非高度人材のやるような「便所掃除」のような仕事は、地球上に数多いる日本民族以外の劣等な民族を派遣し、適宜従事させれば良いということになる。というのも、日本民族は優秀であるから、「高度人材」として、高度な仕事に従事すれば、高度な付加価値を産みだし、高度な給与を獲得でき、高度な消費行動を行うことができる……という事になるからです。ただ、かくも優秀な日本民族は一億二千万人ほどもいるらしいから、日本国内に限れば「高度な仕事」は行き渡らないかもしれない。ならば、今度は、地球上で高度人材の高度人材たるを発揮できる所へゆけば良い、というような話になってくる。

 この「日本民族超優秀仮説」の上で、以上のようなイメージを抱いている人が多すぎる気がします。
 ここまで極端でなくとも、労働力の需要、供給の偏りを、「貧乏外国人の出稼ぎ」や「高度グローバル人材としての日本人」というものの交換で埋めようとする姿勢には、これに類似した世界観が根本にあるはずです。
 あるいは、その日本民族優秀説は、「平均的にはそうなる」という風に平均型として前提されているのかもしれません。ですから、外国からも高度人材を受け入れるという構えをとるのです。つまり、グローバルな基準で高度と低度の人材を行き来させるのだとしたら、「平均的」に日本は『高度』の方の輩出源になるはずだ、という根拠のない自信が前提とされているから、これが国力をあげると錯覚をするのでしょう。

 まあ、いいです。その「日本民族が超優秀である」という私の右翼心を満たしてくれそうな仮定をひとたび採用してみるとしましょう。
 しかし、たとえこの仮定に立っても、その国境を越えた人材の交換は、「市場の相貌」を『混沌』に近いモノへとすると断言できます。

 何故なら、労働力の需要、供給は、市場における様々な経済活動との連関で行われるものだからです。
 たとえば、労働力の需要は、企業の投資や生産計画に関わりがあります。企業の投資や生産計画は、市場における長期的な『需要』に対する見込みによって決定されます。需要の最も大きな要素は人々の消費活動です。そして、消費は労働力供給者によってなされる部分が最も大きい。

 つまり、外国人出稼ぎ労働者についても、彼らは労働者としてやってくるのと同時に、消費者としてもやってくるのです。(もしかしたら投資家でさえあるかもしれません)あるいは、日本人がグローバル人材として海外へ飛べば、その分の期待されていた日本人的消費が市場から消失することになる。(彼らは地球上には存在するのだから、彼らの飛んだ先へ輸出をすれば良いという考えは、消費行動にかんする誤解です。個人の消費行動が、環境に支配されているという常識を無視してもらっては困ります)

 そして、市場への人の出入りによって消費の性質があまりに様々に移り変わってしまうとすれば、需要にかんする見通しはごく不透明なモノになる。こうした不確実性が増せば、実体経済への投資は抑制されます。
 これを簡単に言い換えれば、市場を構成する「人」がそんなに簡単に出たり入ったりするのであれば、そこでどのような消費活動が行われ、どのような価値が前提とされるかという事について予測を立てようがないということ。


 結論を言えば、現実世界で「市場の相貌」は硬直的でなければならないということに尽きます。「硬直的」と言って言い過ぎなら、「弾力的でなければならない」と表現しても良いでしょう。
 で、なければ、市場のさまざまな経済活動において、予測が成り立たなくなってしまうのです。予測が成り立たない状況では、人は何もしない事を選択します。つまり、貯蓄や内部留保が増え、投資は減るのです。(経済学で習う、貯蓄イコール投資は短期では成り立たない)


 おそらく特に冷戦崩壊後、日本人は「自由市場、自由市場」とのたまってきたのでしょう?
 しかし、『市場』が適正に機能する為には、市場を市場として成り立たせる「土台」が必要なのです。その「土台」とは、共同体とか国家のことです。

 さらに、そもそも共同体と国家が、市場の土台となりうるのは、「慣習、慣例」や「歴史、文化」や「道徳、偏見」や「生活スタイル」といった所までをある低度共有することになるからです。それは、人々の経済活動が、人々によってある低度予測されうる為の条件でもあります。

 そして、この条件は、人の「定住」を前提としなければ成り立ちません。
 当たり前ですが、人が地球上を飛び回る事を前提とすれば、「共有」の前提もなく、「国家、共同体」がないが故に、「土台なき市場」という事になってしまいますでしょう。
 この『土台』の保守の為、人の出入りは制限されていなければならないのです。

 土台なき市場でもそれが自由な市場であれば均衡しうる……と考えるのは、「理性への過信」と呼ぶべき態度なのですから。



(了)
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仮にそれが『移民政策』でなかったとしても…… 

 私がこの件で言いたいのは、仮にそれが『移民政策』でなかったとしても、外国人労働者は受け入れは拡大してはならない……という事です。


 労働供給力不足があれば、そのつど外国から出稼ぎを集えばよい……という強い主張をお持ちの方には無理にと申しませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。





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 新成長戦略における、外国人労働者の受け入れ拡大の話題につきましては様々な方向から批判が相次いでおりますし、実際その通りだと思うモノが多々ありはするのですが、あまりに技術的、表面的に多彩な議論が飛び交って、常識的かつ根本的な所が見失われがちのように思われます。

 常識的で根本的な所というのは、
「人間は基本的に定住して社会を築く生き物である」
 という所です。

 そう。要はこの一事さえ分かられていれば良いのです。

 極端な話、この事が分かられていれば、仮に政府が法規をどうこうしようと、どうって事はない。
 逆に、仮に法的に移民政策に至る事を阻止できても、この事が分かられていなければ、駄目なものは駄目なのです。


 これを詳らかにする為には、
「部分部分の労働供給力の便宜として、外国人労働力を『短期的』に拡大する」
 という発想について、これを徹底して否定せねばならないでしょう。

 つまり、仮に、「治安悪化」とか「反日スパイ」について政府が完璧にこれをクリアしたとしても、あるいは、少数の「高度技能人材」以外には永住資格が与えられなかったとしても、外国人労働者の受け入れ拡大は社会・経済に悪影響を与える、と言いたいのです。
(加えて言えば、仮の仮に、このことが日本人の給与の下げ圧力に一切ならなかったとしても、です。)

 要するに、もし、それが短期の出稼ぎであっても、日本人の給与の下げ圧力にならなくとも、地球上に反日勢力というものがなくとも、「労働供給力の便宜として、外国人労働力を短期的に拡大する」という発想そのものからして間違っているから、上手くゆくはずはないのであります。

 このことが意外に論じられていないのが気になって仕方ありません。

 常識に基づけば、最も重要なのはこの事なのです。反日勢力のスパイ行為を助長するとか、外人に永住権を渡してしまって移民政策になるとか、一般の日本人の給与が下がるかもしれないとか、そういう事はそれはそれで大変な話ではあるけれども、(誤解を恐れず申せば)表層的な問題に過ぎません。

 もっとも問題なのは、「その時々で労働供給力の足りていない部分に、外国人を適宜投入する」などという陳腐で餓鬼くさい戦略が、現実世界で上手くいきっこない、ということが日本人に分かられていない所にある。
 何故これが問題なのかと言えば、そんなことはふつう常識で分かられている事のはずだったからです。

 その「非常識」は、「人間の理性についての過信」とも言えるし、「国家・人間社会を異様に単純な模型として考える傲慢」とも言えます。


 そういうわけで、新成長戦略で言われているような外国人労働者受け入れ拡大というのは、仮にそれが『移民政策』にならなかったとしても、戦略として「非常識」かつ「合理性についての過信」であるから駄目なのです。
 常識ある大人であれば、移民政策云々の以前に、そもそも「短期の外国からの出稼ぎ」を利用して経済を上手く回す……なんて戦略は空理空論甚だしい、と思わなければ嘘なのであります。

 このことについては、さらに掘り下げてみましょう。



(つづく)
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移民政策にかんする序章 

 これから、いみ……外国人労働者受け入れ拡大について、少し触れてみようと思います。これは、その序章。


 移民政策賛成……という方には無理にとはいいませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。





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 もっとも、「いみ……外国人労働者受け入れ拡大に反対!」などというのはおそらく大学生でも言える事ですのであまり話題にはしたくありませんでした。

 いや、そもそも、去年の始め頃に「アベノミクスを金融緩和重視で考え出す事」と、今年の「外国人労働者受け入れを含めた新成長戦略」とは完全に直結しているのであります。(間にTPPを入れれば分かりやすいでしょうか?)ですから、前者の流れを礼賛して「共通の事業」を無視してきた大衆には、後者を拒否するケンリはないのです。

 また、もし安倍首相を批判をするのだとしたら、「新成長戦略は、金持ち優遇で弱者をイジメだ! 安倍は人非人だ!」とやってもらっては困ります。
 安倍首相が非難されるとしたら、安倍首相が『大衆』あるいは『大衆の代弁者』となって三本の矢を放ちはじめ、「共通の事業」を指し示さなくなった所が焦点とされるべきです。新成長戦略は大衆理論の帰結なのであって、怒りでこの事を忘れてもらったら困る。
 言い換えれば、そもそも悪の根元は大衆なのであって、安倍首相は「首相でありながら大衆である」という所に限って糾弾せらるべきなのです。ですから、もし、その『弱者』が『大衆』なのだとしたら、弱者であったとしても安倍首相批判に走るケンリはない。「大衆的小市民」が、「大衆的首相」を批判する事は許されないのです。それらは共に『大衆』として糾弾されるべき側なのですから。


 そういえば、(人事の経緯からして別に擁護したい人物ではありませんでしたが、)白川元日銀総裁というのがいましたでしょう? 今の『新成長戦略』は、去年の重要な時期に「白川を討て」とイジメに走った小市民(あるいは傍観者)が今度はイジメられる番になったというだけ、という一面もあるわけです。そう、イジメとは順番で回ってくるのであります。散々人をイジメておいて、自分がイジメられる番になった時だけこれを拒否できるなどと考えるのは、あまりに都合が良すぎでしょう。
 たとえば、少なくともそうした小市民だけは、新成長戦略でもって淘汰されることを拒否するケンリは絶対にない。もうやり直しは効かないので潔く淘汰されるべきなのです。

 しかし、リフレ派および小市民ら(大衆)が、「頑張っている俺たちが報われないのは、日銀が仕事をしていないからだ!」と吐き散らかした帰結によって、放った矢の進路が180度曲がり傷つけにかかる対象は、彼らだけではないのが大問題です。

 つまり、歴史的な既得権益の下で、ふつうに黙って魚捕ったり、稲育てたり、モノ作ったり、運んだり、床屋やったり、饅頭作って売ったりしているだけで、おおよそ政治に口出しなどしない『庶民』にも矢は降り注ぐのです。
 あるいは、かくのごとく国家に矢尻の向く事は、国を造りあげてきた先人に対してはほとほと申し訳なく思うというもの。



 せっかくのアベノミクスを、リフレ派と小市民(大衆)が台無しにしてしまったこの一年半を振り返ると、いみ……外国人労働者受け入れ拡大を始めとする新成長戦略をどうこう言う気力は殆どなくなります。つまり、大衆を含めて擁護することになってしまうから。

 しかし、当ブログは一応『日本が日本であるために』と銘打っているわけですから、日本に保守すべき領域がまだ残されているという前提に立たねば何を言う意味もなくなってしまいます。つまり、この日本に、大衆ではない、『国家国民』の領域がまだ残されているという前提です。それは、国家の歴史的相続財産を既得権益として享受し、生活する、日本国民による共同体の領域のことです。
 この、国家国民の領域を、安倍政権を映し鏡とした『大衆』が破壊しにかかることに対する批判として、移民政策や新成長戦略をどうこういう言う意味が出てくるのであります。

 逆に、これより私が移民政策を批判する場合も、単に「何ら共通の事業に加わろうとしないくせに、弱いというだけでケンリを請求しにかかる小市民が、外人から迷惑を被る事を危惧して」のことではないのは、どうか分かっていてもらいたいものです。



(了)
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関岡英之先生と産経新聞、および言論について 

 先日、私の拙稿日本国憲法の諸問題を掲載いただいたASREADという言論サイトにて、関岡英之先生が次のような記事を執筆されておりましたので、ご紹介申し上げます。

「移民問題トークライブ」に関わる産経新聞本社の不可解な対応をすべて暴露
http://asread.info/archives/932


 この件に絡め、今日は「表現における大衆からの自由」について。

 新聞、テレビ、大衆メディアが大好き……という方には無理にとはいいませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。




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 関岡先生の件におきましては、まず何よりも産経新聞の編集に真が無いということに尽きると思います。これをやられたら言論人はたまらないのであって、氏の胸中は察するにあまりあるというもの。

 ただ、情報を『大衆』へ大量に販売せしめて利潤とす、という産業ーーつまり、マスコミ産業ーーがすることですので、振る舞いに下賤な所があって当たり前だ、ということも一つ考えておかねばなりません。これは別に、「当たり前だから仕方がない」と言っているのではなくて、「大衆報道産業なるものが正しくなることは永遠にない」という当たり前のことについてのささやかな確認です。
 またこれは、このことをもって「産経新聞までもが、中国共産党の手先と化したのか!」というような一途だが筋肉質で単細胞な議論に堕する事への避雷針でもあります。

 つまり、いくら「保守っぽい」ことを言っていても、産経新聞とはしょせん大衆新聞なのです。

 大衆新聞であるから、『大衆理論』から逸脱したものを書くのを避ける。これは殆ど大衆新聞の習性とすら呼べるもので、つまり彼らの『表現の自由』は、「大衆と利潤」に制限されているということ。

 結論を申せば、『正論』の存在や「移民問題トークライブ」の内容は、「大衆理論」に適合していなかったからこそ、大衆新聞によって大衆理論に適合する形へ歪曲されてしまったのだ……と考えるべきだということです。



 もっとも、正直に申しますと、私は、主催者の『正論』の論調や「移民問題トークライブ」の内容全てに、頭っから論を同じうする者ではありません。(移民についての論考についてはまた後日書きます)
 しかし、大衆理論に屈しないこうした言論は、人に物事を考えさせる一つの切っ掛けに成り得るはず。この場合、移民というものが、人や人の集団にとってどのような事か……ということを想像しはじめる切っ掛けになったはずです。
(特に関岡先生はそうした事を意識しつつ、あえて分かりやすく反日国家からの戦略的移民に焦点を絞って論を展開されたのでしょう。それも、あのように歪曲されてしまっては台無しです)

 私は『表現の自由』という言葉が大嫌いですが、そうした意味では表現は自由であるべきなのです。つまり、表現、言論は、「大衆(および利潤)」から独立していなければいけない、という意味で。

 勿論、「表現の自由」は、金科玉条の価値として崇められるべきものではありません。というのも、いかなる表現も『正統なるタブー』は侵してはならないからです。
 分かりやすく単純に言えば、「皇室タブー」を侵す表現の自由などあってはならんでしょう。皇室タブーだけではなく、国家、社会、共同体には「タブー」があり、中には「正統なるタブー」が存在するのであるから、これを侵す「表現の自由のケンリ」など、何人たりとてありません。

 ただ、表現および言論は、「大衆(多数者)」からは自由であるべきなのです。何故なら、大衆、多数者の雰囲気をそのままで大量に代弁し、流布する言論は、国家、社会に害悪以外の何物ももたらさないからであります。

 マスコミは「表現の自由」を副将軍の印籠がごとく掲げはするけれども、実の所、彼らの表現の自由は『大衆』に雁字搦めに制限されているではありませんか。
 民営報道は、少数派ーーつまり異端言論を歪曲せずに報道してはじめて人に考える切っ掛けを与えます。彼らは、この一時においてのみ天下国家に貢献しうるのであって、単に「これがありました」「あれがありました」という事を大衆目線でしらしめるだけであれば、大衆向け報道機関はすべて官営にしてしまえばよろしい。

 そう、産経新聞を含め、寡占的巨大マスコミ……大量の情報を大量の人間へ報道する巨大な機関というものが、民間の手にあること自体、不健全なのです。何故なら、大量の人間へ向けて報道し利潤とするのであれば、言論が大衆から強い不自由を受けないわけにはいかなくなるからです。

 メディアの寡占化は政府によって『規制』されて然るべき領域でしょう。そもそも、民営報道機関がある程度の規模以上に成長し、報道市場を席巻する事は規制されなければならなかったのです。

 こうしたことを言うと、「表現の自由の侵害だ!」とのたまう輩もおられるでしょうが、そうではありません。民営大規模メディアを規制によって廃止すれば、メディアは『大衆』から解放されるではありませんか。つまり、中、小規模メディアとして。

 言論を大衆の従属下に置かない為……もっと言えば、言論を大衆から保護する為、民営報道機関の規模には制限がつけられて然るべきではないでしょうか。「表現の自由」における最大の敵は、政府ではなく大衆なのですから。



(了)

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議員定数を増やしてみてはいかがか? 

 岩盤規制を突破するだとか、官から民へとか、既得権益を打破する(構造改革)だとか、自民党政治や官僚政治から脱却するだとか……

 私にとって、そうした話はまったくもって気にくわない話であります。
 実際、私だけではなく比較的多くの人が、平成になって幾度となく繰り返されたこうした類の話にいいかげん辟易としているようです。
 勿論これも、単なる「金持ち優遇、弱者イジメへの腹立ち」としてのみ反発している人が圧倒的大多数でしょうから、一概に良しと捉えることはできないかもしれません。
 しかし、そうしたこと以上に、その「改革の浅薄な世界観」に対して苛立ちをお感じの常識人も、少数ながらいらっしゃるようにお見受け申し上げます。

 そうした精神的高貴さをお持ちの方々にご提案申しあげたいのですが、構造改革へのアンチテーゼとして、まずは「国会議員の定数を増やすこと」を求めてみてはいかがでしょうか?


 議員定数を増やすとかマジあり得ん……という方には無理にとはいいませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。





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 そもそも、規制緩和や構造改革、行政改革や小さな政府……といった、「脱・云々」といった改革話は、別に安倍内閣にはじまった事ではなく、ここ十年、二十年の世論の潮流でした。少なくとも、私の物心ついたような時分には、同じような事が求められていたのです。
 ですから、安倍内閣の経済政策は、世論の潮流に従ってそのようにしているに過ぎないわけであります。
 そう、この事を無視してもらっては困るのです。
 つまり、安倍内閣の経済政策に関する問題は、「安倍首相の人格」にあるとかそういう話ではなく、「世論の風潮を前提にしていること」にあるわけです。

 しかし、そうしたことを言うと、すぐにこういう事を言い出す輩がでます。すなわち、
「国民へ正しい政策的知識を拡散して『正しい世論』を形成すれば、指導者へ正しい政治を求める事ができるのだ」
 というような。
 このような『百科全書的な啓蒙論』へ走ってしまう人が本当に多いのですが、それは空理空論というものです。

 というのも、そもそも大衆の世論が正しかった事など人類の歴史で一度もないし、これからも正しくなることは永遠にないからです。

 つまり、大衆世論が間違っていた事の方が駄目だったのではなく(間違っていて当然だという意味で)、むしろ内閣が大衆世論に迎合せざるをえないことに政治の不均衡があると考えるべきなのであります。


 では、内閣は、内閣の勝手で政策を決定すればよいのでしょうか?
 勿論、それもありえません。議論なき政策論など、良きもののはずはないからです。

 政策の決定において絶対的に必要なのは「議論」である……この事に意義を唱える者はいないでしょう。

 ただ、それは国民的議論だとかテレビ番組でされるような単なる井戸端会議ではなく、正統なる手続きの上で正統なる場でされた正統なる議論でなければならない。
 つまり、『国会』での議論です。
 国会こそ我らの最も正統な政策論議の場でしょう。

 そもそも、現代人は政治と聞けば「民主主義、民主主義」とのたまうくせに、国会(議会)を軽視しすぎです。
 国会というのは、国内の様々な地方、様々な産業、様々な組合、様々な既得権益の代表者が集って議論する場です。つまり、国会での議論は国内での利益調整を兼ねる。「政党」を英語で「party」と言いますが、これは文字通り「part(部分)」の代表という意味合いなのです。
 この事は、各地方、各産業、各組合、各既得権益を保護する「規制」を担保し、「構造」に弾力性を与えます。つまり、国内の各「部分」が互いに相互依存関係をもって共同していく調整……これが政治であり、また経済(経世済民)のほんとうなのです。


 規制緩和で構造改革か、ヒューマニズムで弱者救済か……という政治のシーソー・ゲームは、内閣が「国会の議論」よりも「大衆の世論」により強く媚びざるをえなくなったから起こっているのではないでしょうか?

 さすれば、国会を強靱なものにする以外に、政治の混乱を是正する手だてはありません。特に、我々の中央政府は、議員内閣制度をとっているのです。内閣には、「大衆の世論」ではなく「国会の議論」の方を重んじてもらわなければならない。
 よって、まずは議員定数を増やしてみることから始めてみたらいかがかと、ご提案申しあげるのであります。


 ただ、こういうことを申し上げますと、

「国会議員など、ろくな奴がいないではないか。自民党も、野党も、国民の為に働かない奴ばかりだ(あるいは戦後利得者ばかりだ)。そんな奴らを増やしても税金の無駄である」

 と、おっしゃる方も多いでしょう。ですから、「世間一般の国民の議論の方を重視せよ」という論筋へ向かうのかもしれませんが、前述の通り、これは空論であります。


 そもそも、私は不思議でたまらないのですが、ほんとうに「議員がどうしようもない奴ばかりで、国会が機能していない」と思うのであったら、ふつう、「議員を増やせ」と求めなければならないのではないでしょうか?
 だって、国会が機能していないんだったら大変じゃあないですか。
 なおかつ、日本国民に人を見る目がなくって、国会議員がどうしようもない奴ばかりならば、より多くの選択枠が必要なはずでしょう? 
 また、より多くの選択枠は、より多くの国家内小集団が国会へ代表者を送る事を可能にします。すると、その国家内小集団の既得権益を守る為に『規制』は国家を網の目に張り巡らされ、各レヴェルの共同体を有機的かつ強靱にすることでありましょう。



 だのに、世間一般で聞かれるのは、
「政治家はどうしようもないから税金の無駄だ。消費増税の前に政治家を減らせ」
 というような、よく意味の分からない戯れ言ばかり。

 もし、「国会は十分すぎるほどに機能している」と言っているのであれば、「議員定数を増やす必要もない」と言って整合しますよ。
 しかし、日本人はこれだけ朝から晩まで(国民の責任で選出した)国会議員をコケにしているにもかかわらず、何故、「議員定数を減らして大丈夫」だと思うのでしょう?



 正しい政策論を世間一般に拡散すれば、正しい世論が形成され、内閣の暴走を国民の正しき運動で制限できる……と考えるのは、間違っています。
 よしんば、彼がまことに「正しき政策論」をもっていたとしても、それは「正統なる論」ではない。正統性のない意見を行政府に対して直裁的に世論の力でもって通そうとする姿勢は、おおよそ大儀にあわないと考えられなければならない。
 勿論、これは手続き的問題なのではありますが、「色々な種類の国民を、各々代表して国会議員がおり、国会議員の代表が、内閣を形成する」という議員内閣制度の手続きの上で、我らは日本国全体の政治的合意を取っているのです。(尚、この事に正統性があるのは、『時効』によってです。)
 そのことを鑑みれば、おおよそ日本人は政治において「手続き」を軽視しすぎなのです。

 安倍政権の経済政策の諸々が本当に問題だと思うなら、直裁的に具体的な政策の変更を請求するより、国会の強靱化を求めるほうがよっぽど正統だと、私は思います。
 議員内閣制度の下での、内閣を制御する正統なる存在とは、国会の議論……つまり、『輿論』なのですから。



(了)
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我々の、共通の事業といふこと 

 とどのつまり、私がリフレ派を嫌うのは、彼らが常に「大衆の代弁者」であるからです。そもそも私は、リフレ派そのものが嫌いなのではなく、大衆が嫌いなのでありました。
 そして、リフレ派は、「大衆の選好」の都合に沿う……という事を大前提として経済政策を論じるから、これが『欺瞞』であり、『害悪』であるので「黙れ」と申し上げているだけなのであります。

 対して、私が藤井教授とその「国土強靱化」を良いと思うのは、それが『共通の事業』の提示だからです。



 リフレが好きでたまらない……という方には無理にとはいいませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。




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 大衆は、おおよそ「共通の事業」という『感覚』を理解しません。
 いや、共通の事業という感覚を理解しない者達が「一般人であることのケンリ」を請求する現象を『大衆』と呼ぶのであって、別に「教養と財産の無い者」を大衆と呼ぶのではありません。教養と財産の無い者でも、「自分の仕事や、生活の中で得た常識」でもって、大衆の予定調和から距離を取ろうとする者は「賢者」であり、また、そういった人々は概ね沈黙を良しとするもの。

 ただ、「教養と財産のある者」は、家柄の良い場合が多く、家柄の良い者は「共通の事業」を解す者が比較的多いという事は言えるでしょう。「共通の事業」においては、方向を指し示す意志を持った高貴なる階級が必要であり、家柄よろしき人々は生まれもってそうした義務を強制的に課されてきたのです。あるいは、「自分にはそうした義務が強制的に課されているのだ」という自負のある者の家が、よろしき家柄と呼ばれるようになるのか。いずれにせよ、「良識ある人は貴族を好む(キケロ)」のです。

 また、いくら財産があろうと、しょせん下賤な出自の成金には、「共通の事業」といった高貴なる感覚は芽生えない事が多いものです。勿論、十把一絡げにはできませんが、ふつう、成金にろくな奴はいない。
 もともと、資産家は三代もってこそようやく世間に『良家』と認められたものらしいです。このような社会的偏見はまったくもって正統で、未だ金を儲けただけという成金に大した発言権など与えられて良いはずがないのです。されど、この成金の言葉をありがたがるのが現代の日本人の習俗であるから、(私を含め)もはや日本人は日本社会の常識を失ってしまったのでしょう。


 ところで、最も力強く、正統なる「共通の事業」とは何でしょう。
 それは、陛下の歴史的権威の下にある中央政府による「公的支出」であります。
 その意味で、「議会」「行政府・省庁」「軍事」「公共投資」「社会保障」などなどの予算は、すべて「日本共通の事業」なのです。ほんとうにこの事を分かっていれば、「日本共通の事業」はすべて『強靱』であらねばならぬはず。

 しかし、リフレ派……だけでなく、大衆迎合がほとんど無自覚的に思考回路へ組み込まれている経済論者、政治評論家は、これを個々人の『効用』にまで還元させようとします。(要素還元主義)
 そして、個々人の効用にまで還元できない政府予算を「無駄」と断じるわけです。そこには、個々人へ数的に還元できない『国家共有の効用』というものは想定されていません。

 例えば、「チャイナの脅威によって軍事安全保障に対する理解が得られるようになった」と人はいいますが、大衆にとっての自衛隊とは「税金を納めている自分たちの生命と財産を外国から守る用心棒」というくらいなものでしょう。「再び国家の独立を勝ち取ろう」という『日本共通の事業』など、誰も抱いていない。ましてや、「アメリカが滅びるまで、我々は意地でも滅びない」とか、そういう『国家共有の目標』を抱く高貴なる者などほぼ皆無でありましょう。

 つまり、大衆にとっては、軍隊でさえも「個々人へ数的に還元できない」のであれば「無駄」ということになっている。
 いやこれでは語弊がある。言い方を変えます。
 大衆は、「個々人へ数的に還元できる範囲(生命と財産の保全)においてのみ、軍隊へ金をかける用意がある」と……実はこう思っているわけでしょう!


 さて、ここでリフレ派を例にとりましょう。
 確かに、彼らは「公共事業を否定しているわけではない」とは言う。しかし、それは、国民の個々人へ、具体的に「効用」をもたらす支出の場合においては……と言うのです。
 つまり、政府支出は国民の税金(経済活動)によって賄われるわけだから、その納税者たる国民の効用とならねばならない、というわけです。

 勿論、もし、この意味を広義に取るなら、私とて反対ではありません。
 広義に取るというのは、その『効用』が人間によっては決して基数化できない事を認めたうえで、「現在、過去、未来における全ての国民の効用とならねばならない」という意味で言うのであれば……という事。

 そう、リフレ派の経済論における最も卑怯なところは、「公共事業」においては、「その『効用』を基数化できる」という前提を、密かに織り交ぜている所なのです。
 そして、彼らは、基数化できない公共事業による効用の領域を「無駄」とし、基数化できる公共事業による効用の領域だけは「否定していない」というだけなのであります。

 さらに卑怯なのは、公共事業については「コスト&ベネフィット」で、その効用を計算によって導きだそうとするくせに、民間消費、民間投資については、「市場価格=効用」という前提が、あたかも経済論の前提であるがごとくのたまう態度であります!

 そもそも、市場価格=効用なのだとしたら、何故、「効用関数の無差別曲線」などといって、わざわざ効用を相対化する必要があったでしょうか。そりゃあ、簿記では「資産の増加」を市場価格で借方に記入しますが、それは経済学の前提ですら決してないはずです。

 この事の最も問題なのは、「市場価格=効用」の前提を取り、「公共投資による効用を計算する」となると、それは必然的に「公共投資は、市場価格として立ち現れる領域についてのみ、効用として基数化される」という前提に立つ事となります。

 さすれば、実にスマートな公共投資で結構……という事になるでしょうよ。ある一定方向(市場価格を基準とした効用)から見れば、政府はおおよそ単純な仕事をしていれば良いという風に見えるのですから。

 しかし、単純な政府というのは、精一杯悪く言わないとしても根本的に欠陥があるものです。もしも、たった一つの観点だけから社会を観想するのであれば、こうした単純な政府はすべて限りなく魅惑的でしょう。ですが、気に入った部分に対してだけ過度に注意が払われ、他の部分が全く無視されてしまうよりは、不完全で凹凸はあっても全体にわたって手が打たれる方が望ましいのです。(※バーク)


 この、「市場価格=効用」の前提は、とどのつまり『大衆の選好』を社会の最終価値としておく論理の仕方であります。
 そもそも、市場価格は市場価格というだけで、市場価格としての「意味合い」があるはずです。しかし、そこへさらに「市場価格=効用」という形で価値を付与しようとするのは、大衆の選好に対する媚び以外の何モノでもありません。
 そして、大衆への媚びから政府の支出を制限しようとする傾きを、巧妙に隠蔽しつつ提示するのがリフレ派であるから、卑怯だと申し上げているのです。


 そもそも政府の支出とは、大衆に媚びたり迎合したりしてするものではありません。
 政府が、政治的に「共通の事業」としてやるべきと思った事を全てやればいいのです。
 むしろ、何故、政府の提示した「共通の事業」を『正統』なるものと見なそうとしないのか? わざわざコスト&ベネフィットとして効用を基数化せねば気が済まないのか?

 国家共通の事業……このことが、日本列島にいる人間を『大衆』ではない『国民』へと統合せしめる唯一の方策なのです。そう、国の事業が民をファッショ(束ねる)するのです。
 ですから、アベノミクスにおける国土強靱化とは、『大衆』に対する呼びかけでもあった。大衆などというツマらんものでいるより、日本国民として共通の事業を思い描く方がよっぽど楽しいはずだ、というような。

 しかし、多くの日本人は、「国家共通の事業の活力と循環による正統な配分」よりも、「日銀が金を刷って、それが自分の給料へ回ってくる」という論理の方を好んだのです。その後、その論理の延長線上で弱者イジメの経済政策が行われても「自業自得」と言うほかありません。



(了)
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私の選好とは何か? 

 私は、何かしら『正統』なるものに『制限』されてはじめて、『私』を得たと感じることができます。
 逆に、正統なるものの存在があやふやな状態ーー自由な状態では、『私』は極めて窮屈な思いをするのであります。
 私を窮屈にしているのはつまり、「大衆の選好」なるものです。

 と、いうわけで、今回は「私の選好とは何か?」ということについて。


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倉敷

 個々人の自由な選好を最大限に重んじようとするのが、市場原理主義の持つ(隠された)倫理観ということでありましょう。
 しかし、皆さんは、「何でも自由に選んでよろしい」と言われながら、実は自分でなんか選んでいないような心持ちになった覚えはありませんでしょうか。

 そもそも、人は、空白の中で物事を考えたり、選んだりしているわけではありません。「私」や、その「選好」とは、常に私が経験している「世界」に応接しているからこそある。
 故に、私の「選好」は、私外の世界が、この私をどう限定するかという所と不可分かつ相互依存関係にあるはずでしょう。

 つまり、もし私を取り巻くこの世界が『正統』を失ったら、私の選好も『正統』を失うのです。
(と、言うより、既に世界が正統を失っているから、私は、「正統の基準」を持っていないのです。私は、この事が悲しくて仕方ない。)


 正統なる「制限」が取り払われると、人は瞬間「自由」になった気がするのかもしれません。
 が、正統なる制限が取り払われても、「私からはじまり私に帰結する選好」など存在不可なのだから、人の選好は新たに別のモノに『制限』されるようになる。

 それは、極めて猥雑で、不正統な、『大衆の選好』というものです。

 つまり、「正統」を取り払ってしまうと、「大衆が求めているモノ」こそ、個人の選好の基準となってしまう。換言すると、個人は「正統」から解放されると、次に「大衆の選好」に制限されるのであります。
 この場合、「大衆の選好」こそ、最も権威あるものとして個人を制限するようになるというわけです。

 また、大衆の選好が社会の「平均」であるなどというのは大きな誤解です。あるいはそれは、市場原理主義を楯に政府から権限を剥奪せしめんとする大衆の方便です。
 大衆の選好は、単に「大量の人が選んだモノ」というだけですから、実は誰も選んでなんかいないのですから。


 既に、この日本は、正統なる選好の基準を失っているので、最も権威ある選考の基準は「大衆の選好」ということになっている。
 それは、学校や職場などといった、ごく狭い社会体に及んでいて、誰もが「大衆の選好」通りに消費せざるをえなくなっています。しかも、それを「自分が選んだ」と思いこんでいるのです。

 私は、「大衆の選好」などという不正統なものを基準にして選択などしたくない。ましてや、大衆の選好に屈服してとった行動を「私の選好」だと換算してもらってはたまらない。

 私はもっと、正統なものに制限されたいのです。

 百姓階級はこうあるべきとか、高貴なる階級はこうあるべきとか、真理を探求すべき学者はこうあるべきとか、男はこうあるべきとか、女はこうあるべきとか……そういった『偏見』が社会の中に確固として威厳を持っていて欲しい。また、そうした『偏見』は、共同体の中で、閉鎖的、排外的に、独自に、歴史的に、抑圧的に育まれたものでなければならない。そして、生まれた瞬間から、それが私を制限していなければならない。

 さすれば、私は、その偏見に「従う」か「刃向かう」か選択できるではありませんか。勿論、何でもかんでも偏見に従って選好することもなければ、何でもかんでも偏見に刃向かって選好することもないでしょう。
 ただ、こういった選好の方が、「ほんとうの私が選好した」と言えるのです。



(了)
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3.藤井聡教授V.Sリフレ派 

 マンデルフレミングを見ても分かるように、実の所、藤井教授とリフレ派の対立は、「TPP」を始めとする国際経済についての立場を見る必要が絶対にあります。
 何故なら、「投資の期待の先にある主要な需要」を『公共支出』と想定するか『輸出』と想定するか……という所に、文脈の根本的対立があるからです。

(※安倍政権発足時から安部首相のTPP交渉参加表明までは、この事を指摘しようとすると「保守分断だ!」と言われかねない情勢でした。が、TPPの件以降、リフレ派はマンデルフレミングを持ち出す等して、この事を別に隠そうともしなくなりました。都合の良い時には「保守分断だ!」と言って意見を牽制しておきながら、情勢が変わった途端に態度を変えるというのは本当に『卑怯』な人々だなあと、私は感じていたわけですが……)

 まあ、なにはともあれ、今回は需要のビジョンにかんする『公的支出』と『輸出』を焦点に。


 リフレがどうしても好きでたまらない……という方には無理にとはいいませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。




はなはな1


 まず、「投資の期待の先にある主要な需要」について、藤井教授とリフレ派の違いをザッと区別してみます。


【藤井教授】

 藤井教授は『公的需要』を「投資の期待の先にある主要な需要」と考えます。
 公的需要に喚起される形での民間投資、および民間投資に喚起される形での民間需要(乗数効果)というような形での『短期的なビジョン』を提示しているわけです。

 そして『長期的ビジョン』にも(これが見過ごされがちですが)、公的需要を主、民間需要を従とした『大きな政府』への指向があります。(ですから、長期的には増税に賛成のはずなんです)

 その国内経済循環の為、対外的には、保護貿易を指向します。(ですから、TPPには絶対反対だったのです)



【リフレ派】

 リフレ派は「輸出」を「投資の期待の先にある主要な需要」と想定します。
 海外の需要を取り込む事を前提として民間投資、および民間投資に喚起される形での民間需要という『短期ビジョン』を提示しているわけです。(ですから、円安を国益と換算している)

 そして『長期的ビジョン』にも(これが見過ごされがちですが)、海外需要とそれに喚起される国内民間需要を主、公共需要を従とした、『小さな政府』への指向があります。(ですから、長期的にも増税には絶対反対なのでしょう)

 さすれば当然、対外的には自由貿易を指向します。(ですから、TPPには賛成、あるいは容認するわけです)



【考察】

 そもそも、ケインズの『一般理論』での「流動性選好」(貨幣を信用財産として所有しようとする気分)は、未来の「不確実性」を前提にしていました。
 流動性選好で投資が控えられているというのは、イコール「投資――供給増」に見合う「需要のビジョン」がない……つまり、「金を借りて、投資をして、供給をしても、売れないだろう」と見通す企業家の気分、精神が、「貨幣を信用財産として保有」したり、「銀行から金を借りて投資することを控え」たりという行動に繋がる。企業家は、別に「物価下落による貨幣価値の高まりに投資していた」わけではないのであるから、仮に彼らが将来のインフレを予測したとしても、将来における需要の見通しがつかなければ投資しないのです。
 言い換えれば、「投資して、供給しても、需要されえない」という『不確実』よりも、『信用資産』として貨幣を保有する『確実』を選好してしまう、あるいは銀行からお金を借りて投資する『不確実』を避けてしまう……というのが、『雇用利子および貨幣の一般理論』でいわれる「流動性選好」の本旨のはず。
 そして、IS――LM分析がこの事を致命的に取りこぼしているのは、その制作者であるヒックスも認める所なのです。

 藤井教授の『国土強靱化』は、一般理論の不確実性の考えを継承したものだという側面もある。何故なら、政府支出およびその乗数効果は、企業家にとって『確実』な需要のはずだからです。おおむね、人々は政府の悪口を言いますが、実の所は政府ほど確実なものはないということは知っているでしょう。



 これに対してリフレ派的に、IS――LM分析のLM曲線を、単に金融緩和によって右へシフトさせるというのは、不確実性を考慮にいれていないという話になってしまう。

 ところで、リフレ派は純粋に貨幣数量説に基づいてモノを言っているのかと言えば、必ずしもそうではありません。長期的にはそう思っているのだとしても、短期的には直裁的に貨幣数量説を取っているわけではない。
 彼らはつまり、長期的には貨幣数量説の世界観を持っているが、短期的には、「将来の貨幣数量に対する予測を、確実なものにする」という事で、インフレ予測を起こし、「将来インフレになるんだったら投資しなければ損だ」と企業家に思わせて、投資増から実体経済のデフレ脱却を指向する……という、インフレ・ターゲット論を主張しているのであります。(そういえば、小泉政権下で言われていた「上げ潮派」という名称は何処へ行ったのでしょう)

 ただ、この考えで行くと、投資の結果に供給されるものは、必ず需要される(あるいは、必ず需要されるものを供給できる)という、セイの法則を前提としたサプライサイド経済学(パパ・ブッシュがブードゥー経済学と揶揄した)になってしまう。
 実際、この問題はリフレ派であっても流石に分かられていることであるから、次の事が(密かに)前提とされている。

 それは、

「投資によって増えた供給は、(必ずしも国内で需要されるとは限らないが、)輸出によっては必ず需要される」

 あるいは

「輸出によって需要されるものを必ず察知でき、供給できる」

 はたまた、

「平均的には、そうである」

 と、いうような話であります。
 リフレ派においては、これが(おそらく無自覚に)前提とされている。

 だから、彼らは需要にかんする不確実性は考慮にいれない。
 いや、需要にかんする不確実性は「輸出」によって解消されていると見なすことを前提としている。
 で、あるから、IS――LM分析の流動性選好が、未来の「不確実性」を表現し切れていない事に何の配慮もなく、マンデルフレミングモデルという形で歪に拡張されたモノを持ち出す事に躊躇いもないのです。

 ただ、この前提は、そもそも『大衆』が前提とする指向であり、リフレ派は大衆の気分や風潮を引き受けた格好だ、とも言えます。

 日本現代大衆人は、企業家には「輸出によって需要されるものを察知」することを強要するのであり、国内市場の消費者には「輸出によって需要されるものを需要する事」を強要するのであります。これは、「グローバル市場から取り残されるガラケー(ガラパゴスケータイ)は止めて、スマフォを使いましょう」というような運動(流行)に、象徴的に現れているでしょう。
 この、タッチパネルの広まりも、消費者の自発的な選好だというのでしょうか?(あるいは平均的にはそうだというのでしょうか?)だとすればグローバル市場に対し、こんなに都合の良い選好はありません。だって、消費者の自発的な選好に任せておけば、彼らは自発的にアメリカ市場で求められるモノを選好してくれるというワケでしょう?
 でも常識で考えればそんなわけありません。あれは自然に考えて、アメリカ市場で需要されるものを供給するために、需要するよう促されたんです。
 これは誰が促した……という話ではなく、日本人がです。大衆が喜んでこの事を選好したのです。
 家電メーカー、広告代理店、消費者という、一個の塊……大衆が、共有された雰囲気の上で全体としてそういう行動をとった。それが『流行』を形づくった。でも、大衆が喜んですることを礼賛する事を、日本語で『大衆迎合』とか『民主主義』というのです。

 リフレ派の『前提』は、大衆のこうした指向を引き受けています。むしろ、大衆が喜んでこうした風潮へ進んでゆく事を、「個々人の自由な選好」として肯定的に捉えるきらいさえあります。
 また、政府公共支出より、そうした大衆の眩示的欲求に従った方が民主的でよろしい……というような発想は、まさに大衆礼賛の髄とも言えるでしょう。

 故に、私はこれを『大衆パラダイム』と呼ぶのです。

 このパラダイムは、「アニマルスピリット」というよりは「フロンティアスピリット」と呼ばれるべきシロモノでしょう。
 そして、大衆によるフロンティアスピリットの大行進を、「ノベルスオブリージュ(高貴なる者に強制的に課された責任)」によって棄却する呼びかけが『国土強靱化』だったのです。



(つづく)
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【番外】前回記事にいただいたコメントへの反駁 

 今回の記事が、前回の記事で「空き地さま」という方からいただいたコメントに対する返答として書かれたものであることを読者に知らせておくことは、必ずしも無益ではないでしょう。
 コメントとして要点を書き始めていくうちに、長くなり、次記事で述べようと思っていた事に随時言及する形となったので、記事として掲載致しました次第でございます。
 議論に乱暴な所、端折った所などございますが、どうかごらんいただければと存じます。


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サクラダ




前回記事「2.藤井聡教授V.Sリフレ派(マンデルフレミングモデル)」
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-186.html


空き地さまよりいただいたコメント http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-186.html#cm


 これに対しての反駁を、以下の8点に纏めました。


1、小渕政権、麻生政権での円高が、財政支出によるものだとする所までの筋がわからない。円高の要因で最も考え得るのは民間部門の輸出超過のはず。(あるいは、金融緩和が足りなかったんじゃあないでしょうか?)


2、もし、「空き地さま」に孫引用いただいたhttp://ameblo.jp/typexr/entry-11717184761.htmlで飯田氏の言うように、マンデルフレミングやクラウディングアウトが現実世界では決済と共に徐々に立ち現れるものだとするならば、その時間差での金利高はいつあったのか不明。
 実際に時間差の後に立ち現れなくても、金利高圧力が水面化ではあったのだ……という論法が成り立つなら、どんな理論を下にしようが、何を言おうが良いことになってしまう。
 また、引用元のブログ主は、自分ではなんら理論を説明したり、自分の意見を提示したりしていないで、単に飯田氏の文章をそのまま長文で引用しているだけのくせに、悪口だけは上等なようである。このような文章だけは書きたくないものだと、肝の冷える思いがさせられたというもの。


3、もし仮に、麻生、小渕政権の財政出動が、「決済と共に次第に金利上昇が起こるだろうという予測」を海外の投資家にさせ、予算の発表時に円買いが集まり、円高が起こった……と、相当無理矢理に解釈するのであれば、それは海外の投資家が間違っていたということになる。事実、時間差を置いても金利はいつまでたっても上がらなかったのだから。
 その上でまだ、政府は「海外投資家の中で前提とされているだろう経済モデルによって決定される投資家マインド」を予測して、政策を決定せねばならないのか。かしこくも天皇陛下を戴く我らが中央政府は、この歴史と伝統ある日本国をそんなフワフワしたものに媚びて統治せしめなければならないのか。


4、マンデルフレミングやクラウディングアウトは、「政府支出の増大そのものが金利を上げる」とは示していなくて、「政府支出の増大によって、貨幣需要が伸びるから、金利が上がる」と示している。それならば、焦点は財政出動の規模ではなく「公債による資金の吸い上げ」あるいは「予算成立時に予想しうる、公債による資金の吸い上げがどれほどになるかという予測」であるはず。ならばそもそも焦点は財政出動そのものではなく、政府支出の規模全体か、公債の発行額にあてられるべきである。というわけで、小渕政権や麻生政権を焦点とするのは、マンデルフレミングの「仮説ーー演繹」を検証する筋に合っていない。何故、公債発行高のより高かった政権の円相場に焦点をあてないのか?


5、そもそも円高は必ずしも問題ではないし、輸出が円高によって減ることなどある程度問題ではない。
 輸出は「国内で産出不可なものを輸入をするため」にあるのであって、別に輸出を増すことそのものに大した意義はない。
 勿論、経常赤字はよろしくないが、大幅な黒字貿易をもって「需要」を取り込んでも別に『国力』は上がらない。
 需要を海外に求めるのではなく、恒常的、長期的に政府の公的需要を増やし、その土台の上で国内の閉鎖性を担保し、国内で多様な産業と各地域経済の保全をもって安定性を確保しつつ、需給バランスを均衡させ、内部の経済循環を活発化させていく方向を向くべき。「イノベーションを喚起するグローバルで自由な投資環境」を整えるよりも、「国力を強くする環境」を整える方が、よほど大事なことなのだから。
(ここが、私の論で最も主張したいところですから、次かその次でもっとじっくりと)


6、空き地さまは、「リフレ派は、マンデルフレミングで『金融政策無効論』を反駁しているだけで財政政策を否定しているわけではない。被害妄想だ」とおっしゃるが、金融政策無効論を反駁したいだけなのであれば、マンデルフレミングを持ち出す必要はない。ISーーLM分析で十分すぎるほど十分なのである。
 わざわざそれを解放経済に拡張したマンデルフレミングを持ち出す時点で、「政府支出という国内需要」より「民間輸出による需要取り込み」を重視する事を前提に話を進めようとする恣意がある事を、誤魔化すことはできないはず。それを誤魔化せると思うのは、「どうせ経済理論なんて分かってねえ奴の方が多いはずだ」とタカを括っている左証となる。あるいは、どうせ「政府支出」より「民間企業の海外への輸出」の方が格好の良い響きで、世間的に受け入れられるであろうから、わざわざ深く掘り下げられる事もあるまいとタカを括っているのか。
 また、逆に、「財政政策を重んじつつ、金融政策そのものに反対している論者」を、私は見たことがない。いるなら教えて欲しい。
(金融政策あっての財政出動であることは、私も認める所である)


7、財政政策を主、金融政策を従とする発想を、「固定相場制を指向するもの」だとする「空き地さま」のお考えは、どこにどう根拠があるのか分からない。
 それは、そもそも「空き地さま」がまずマンデルフレミングを前提としつつ財政出動を重視する論者を見て、「あ、固定相場制を指向しているな」と断じているにすぎないのではないか。
 あるいは、「国境を越えた資本移動の自由を制限する」という事と、「固定相場制を指向する」ということを取り違えておられるのではないか。
 また、現下、金本位制を指向している者も見たことがない。『金本位制論者』という見えない敵と戦っておられるのは「空き地さま」の方ではないか。


8、7から、藤井教授が「マンデルフレミングを否定しながら、マンデルフレミングを前提にしている」という糾弾は、根拠を失うはず。
 また、もしそのように見えるのであれば、藤井教授は、マンデルフレミングではなく、ISーーLM分析の元であるケインズの『一般理論』の方を前提にしているからであり、そして、一般理論では不況下での金融政策は単独では効果がない事を示唆している。
 繰り返すが、それを「為替変動によって輸出が減るから財政出動に効果がなくなる」というような、「輸出」と「国内の需要(政府であろうと民間であろうと)」とを(暗黙の内に)等価値として前提し、拡張したのがマンデルフレミングである。
 そして、そもそも、ISーーLM分析として図式化した時点で、「未来の不確実性」や「流動性の罠」の議論は見えづらくなってしまったのであって、さらにマンデルフレミングモデルでの拡張で、これらは灰燼に帰してしまった。
 一般理論を前提としての「仮説ーー演繹」の営みであるにもかかわらず、一般理論の議論を都合良く置き去りにしている……という卑怯をやっているのは、マンデルとフレミングとリフレ派の方ではないか。
 また、そのことをプロの経済学者や評論家が分からないはずはないのであり、リフレ派は、「どうせモデル成立までの経緯など知らない奴の方が多いに決まっている」とタカを括っているのではないかと疑われてくる。



(了)

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2.藤井聡教授V.S.リフレ派(マンデルフレミングモデル前半) 

 アベノミクス登場以来、アベノミクスを「金融政策を重んじ、財政政策を軽んじるリフレ政策」として解釈した者達は、マンデル・フレミングというモデルを振りかざすか、あるいは、マンデル・フレミングモデル的世界観を前提としております。
 というわけで、今日はマンデルフレミングを「藤井教授対リフレ派」の対立項として論じます。

 なお、「マンデルフレミングモデル!」などと、さながら必殺技のような名前に怯む方もおられるでしょうが、安心してください。
 これは全然難しくないし、実際くだらない話です。「マンデルフレミングモデル」ではなく「まんでる・ふれみんぐ・もでる」と可愛いらしく表記すれば驚かれなくて良いのかもしれませんね。


 マンデルフレミングモデルがどうしても好きでたまらない……という方には無理にとはいいませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。





ローマ


 確かに、マンデル・フレミングモデルによれば「変動相場制で資本移動が自由ならば、財政政策は無効で、金融政策はとても有効」という結論が導かれはします。
 しかし、これは『仮説ーー演繹』の営みであるから、「仮説を成り立たせる条件の揃った状況下では、普遍的に適応される」という性質のものであります。つまり、「現実世界」と「仮説ーー演繹の経済モデルにおける世界」の間には『乖離』があるはずなのです。

 では、マンデルフレミングモデルの世界では一体どんなことが起こって「変動相場制で資本移動が自由ならば、財政政策は無効で、金融政策はとても有効」という風になるのでしょうか?
 その流れをごく簡単に説明すると以下です。

「政府が公債を発行し、政府が支出を増やせば確かに需要が増える。しかし、政府が市場の通貨を需要すれば、その分だけ市場の通貨が減り、金利が上がる(貸したい側が減り、借りたい側が増えるはずだから)。金利が上がれば海外から円を買う動きが出て円高になる。円高になれば輸出が減る。『総需要=消費+投資+政府支出+輸出-輸入』だから、政府支出で増えた分の需要も、輸出減で相殺される」

 こうやって説明されると、「なるほど、そうかもしれない」と思われるかもしれませんが、これは色々と綻びの多い論理なのです。


 その中でも藤井教授は、これに極めて有効な反撃をしています。
 それは、「政府が市場の通貨を需要すれば、その分だけ市場の通貨が減り、金利が上がる」という部分が成り立たなければ、上の理屈はまるで現実世界では通用しないはずだ、という反論です。

 まず、政府が公債によって通貨を吸い上げても、まだ貸す側が借りる側よりも過剰ならば、金利は上がりません。つまり、そもそもデフレで資金需要が低く(お金を銀行から借りてまで投資するという見通しのつく企業が少ないから)、銀行が貸し所に困っている状況で、公債の発行による金利の上昇は考えられない。つまり、マンデルフレミングモデルが成り立つためには、「通貨を貸したいという供給より、借りたいという需要の方が多い」という状況……インフレの場合でしか当てはまらないのです。
 つぎに、財政出動に併せて金融を緩和するのであれば、通貨の供給不足による金利上昇は避けられるという事も、指摘されております。『財政政策』を『金融政策』で補佐するというのは、こういう事です。
 さらに、これまで公債を発行しているが金利は低いままできたという「事実」があります。これで、マンデルフレミングの演繹が、現下の帰納的な分析においては適用できない事がほぼ明白にされていますでしょう。勿論、帰納はその普遍性を立証できませんが、「過度な演繹を帰納で、過度な帰納を演繹で批判する」という常識的態度を持てば、これは無視のできないことのはずです。

 まとめると、
「デフレでは政府の公債発行は金利を上昇させないし、財政出動に金融緩和を併せれば金利上昇は抑えられるし、その証拠に今までの公債発行は金利を上げていない」
 ということ。
 それならば、少なくとも現下でマンデルフレミングは適用できないし、さらにクラウディングアウト(公債発行が金利を上げ、民間投資を圧迫するという理論)も適用できないはずです。

 乱暴にまとめてしまいましたが、藤井教授の反駁の要旨は、概ね以上のようなものです。
 そして、この反駁に対するリフレ派の反駁で、有効なものを見た試しがありません。(何処かにそういったものがあれば、教えていただきたいくらいです)



 さて、この対立を外から眺めていると、ふと、疑問に思う事があります。
 というのも、「マンデルフレミングがインフレ時にしか適応できない」という藤井教授の論はもっともではあるけれど、そもそも「ISーーLM分析」を拡張したものがマンデルフレミングモデルであったはずなのに、それがインフレ時にしか適応できないというのは一体どういうことなのか……

 次回はこの疑問を探る方向で論を進めたいと思います。



(つづく)
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1.藤井聡教授V.S.リフレ派 

 現内閣官房参与で、京都大学大学院教授の藤井聡教授と、俗にリフレ派と呼ばれている経済論者達の対立……というテーマについて、何回かやっていきます。一年半前とは違い、既に「保守分断だ!」などと文句を言う人も少なくなっているでしょうから、思う存分やります。
 今回は、そのフィールドであったアベノミクスの経緯から。


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倉敷2


 「藤井聡教授とリフレ派の対立」は、アベノミクスが登場し、その経緯の中で鮮明化していった対立であります。(勿論、思想背反そのものは以前からありましたが、アベノミクスがそのフィールドになったということ)

 アベノミクスとは「三本の矢」ーー
第一の矢『金融政策』
第二の矢『財政政策』
第三の矢『経済成長戦略』
 と言って、自民党復権総選挙の少し前に提示された経済政策の指針のようなものです。
 ただ、そもそもの登場時点では、それは「二本の矢」言って然るべきものでした。
 というのも、第一の矢、第二の矢に比べ、三本目の矢「経済成長戦略」はこれがなんなのか誰にも分かられていなかったのです。(勿論、安倍首相にも)

 ただ、少なくとも、方向性としては次の二通りの理屈が考えられたはずです。

1、政府の指導による経済成長の戦略(計画・統制)
2、政府の排除による経済成長の戦略(規制緩和・構造改革)

 今でこそ、第三の矢、経済成長戦略とは2の規制緩和・構造改革路線だという話になっていますが、少なくとも一年半前の衆議院総選挙で、安部首相はこれを「研究開発等の政府投資」としておっしゃっていたのであり、また、麻生財務大臣は「経産省による産業政策」とすらおっしゃっておられたのです。
 ちなみに、「産業政策」とは、明治に礎石を築いた「殖産興業」とか、戦後に成功した「傾斜生産方式」というような、官僚による産業の統制のようなもので、構造改革や規制緩和といったような政府の権限を剥奪して市場に開放する方向性とは『真逆』な政策論だとすら言えるものです。

 勿論逆に、安部首相の言葉の端々に構造改革的なきらいは垣間見えていたし、産業競争力会議などの設置という問題は当初からありましたから、第三の矢、経済成長戦略が「計画、統制」か「規制緩和、構造改革」のどちらの方向へ向かって行くかは、判然としないという非常に微妙な情勢が「政権樹立前後」から「TPP交渉参加表明」まで続きました。それは、ちょっとした国際情勢だとか、大衆の都合だとか、それに応じて影響力の大小が決まっていく内閣周辺の雰囲気だとかに左右されるような繊細な情勢でした。

 その雰囲気の「鍵」となっていたのは、明らかに「一本目の矢、金融緩和」と「二本目の矢、財政出動」とを束ねる『文脈』だったのです。
 つまり、金融緩和と財政出動という二つの脱デフレ政策を、どう関連づけ、どう運用するか……この短期の方向性が、第三の矢、「経済成長戦略」という長期の方向性についても、密接に関わっていたということ。

 そう。急所ーーツボはここだったのです!

 その「金融緩和」と「財政出動」の文脈をどう捉えるかというところに、「藤井聡教授とリフレ派の対立」があったし、アベノミクスがどういった方向で形作られ、方向付けられてゆくかという「雰囲気の焦点」があったのであります。


 今日はとりあえず、ものすごく大まかにこの「藤井、国土強靱化」と「リフレ派」の態度を腑分けしておきます。


・藤井聡教授、国土強靱化
 第二の矢『財政政策』を主に、第一の矢『金融政策』は補佐として考える。
 さすれば、必然的に第三の矢『経済成長戦略』は、「政府投資」や「産業政策」といった計画、統制、大きな政府……の方向性を前提としてゆくことになる。


・リフレ派
 第一の矢『金融政策』を主に、第二の矢『財政政策』は補佐として考えるか、否定する。
 さすれば、必然的に第三の矢『経済成長戦略』は、「規制緩和」や「構造改革」といった自由市場解放、輸出主導、小さな政府……の方向性を前提としてゆくことになる。


 少し乱暴でしたが、大枠の対立項はこういう事だった。
 今でこそ、アベノミクスとは「リフレで構造改革」だということになっていますが、それは次第にその度を強めていったに過ぎない。そして、この「アベノミクスにおけるリフレの勝利の原動力」は、やはり『民主主義』だったのです。結論を言ってしまうと、この度もまた、民主主義が失敗したということに過ぎないのであります。
 何故なら、リフレの論理における思想ーーパラダイムは、「大衆のパラダイム」と呼ぶべきシロモノだからです。

 果たして、リフレ派が大衆の純粋化された姿なのか、リフレ派が大衆を代表したのか。それは見極める事ができませんし、それは大した問題ではないでしょう。
 ただ、藤井聡教授が果敢にもリフレ派と闘い続けてくれたお陰で、その形跡に、リフレの思想=大衆のパラダイムというものが分かりやすく見て取れるようになっている。

 そのために、次回はマンデル・フレミングという一昔前にリフレ派の間で流行った(今も流行っているのでしょうか?)話を、振り返ってみようと思います。



(つづく)


※参考過去記事
 おおよそ一年半前の記事なので、今から見ると拙すぎて恥ずかしいのですが、2012年12月以来、主張が変わっていないことの証明として。
「アベノミクスとリフレとケインズ」
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-47.html
「アベノミクスとリフレとケインズ2」
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-49.html


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