07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2014年08月  
  

暴力と文明、および英雄像について 

 今回は最近学んだ事を元として考えた事を一挙にまとめたものですから、少々長くなってしまいました。
 また、これは暴力と文明、そして青少年の描く英雄像について論じたもので、私の手に余る主題かとは存知ますが、どうかご一読くだされば幸いです。

 尚、当ブログをご覧くださる折には、必ずランキングにご協力ください。
こちらのバーナー
をクリックして、ブラウザの戻るボタンで戻っていただければ結構です。

2img_1222.jpg


【ごく私的経験談】

 私の小学生の頃。
 同級生らと喧嘩になったりしたとき、学校の先生達によくこんな風に叱られたのを記憶しています。

「お前が先に手を出したんだから、お前が悪い」
 あるいは、
「暴力を振るったから、お前が悪い」
 と。

 何回かそういう風に叱られて、私は酷く反発したことがあります。
 私としては、子供ながらに暴力を振るう正当な理由があると思って暴力を振るうわけです。勿論、喧嘩は頭に血が上っているわけですから、客観的に見て正当かどうかは非常に疑わしいのですが、それは別にどうでも良い事でしょう。

 何故なら、例えばもし先生が、
「お前はそれを正当だと思っているようだけど、ぜんぜん理屈になってねえよ。お前が悪い」
 とか、
「手を出すにはまだ早い。もう少し辛抱せんか」
 という風に言ってくれていたら別に良かったわけです。

 つまり、私が反発したのは「お前が悪い」の部分ではなく、
「暴力を振るったから、悪い」
「先に手を出したから、悪い」
 という部分についてなのです。

 もっと言うと、子供というのは世界に存在して間もない存在ですから、自分の経験するこの世界がどのような基準で回っているかについて常に知ろうとして生きているものです。
 そして、もしもこの世界が「暴力を振るったから、悪い」とか「先に手を出したから、悪い」などという基準で回っているのだとしたら、私はこの世界に絶望するしかない。
 だから、これを認めるわけにはいかなかったし、謝りもしませんでした。

(※勿論、上で言ったことはある程度大きくなってからした自己反省ですから、少し過去の自分がもっと過去の自分についてした一つの解釈というものに過ぎません。子供はいちいちそんなことを思考(言語化)して行動しませんので)




【子殺しの構造】

 私の敬愛する先生の言葉を借りれば、これこそ「子殺し」の構造であると私は思うのです。
 つまり、これを言われたら子供の生が封殺されてしまう……そんな種類の言説であるという意味で。
 私からすれば、「暴力を振るったから、悪い」という理屈は、暴力以上に暴力だったのであります。

 ただ、誤解してほしくないのは、私は「子供には、子殺しされないケンリがある」などと思ってはいないという事です。
 というか、大人は子供を殺すケンリがあります。
 しかし、子供にも大人を殺すケンリがあるのです。
 だから、私は私世代から見た大人を殺しにかかっているというだけのこと。




【暴力と性欲、および高尚さ】

 そもそも、暴力の渇望は、性的な渇望に非常に似た所がある。これを踏まえるに、暴力が暴力である時点で否定をする事は、性欲が性欲である時点で否定をするのと同じ種類の事です。換言すると(卑猥な言いようで申しわけありませんが)、牙を抜くというのと、玉を抜くというのは、同工異曲の事なのです。

 私は、「性欲がなければ、人類はいなくなってしまうではないか」という開き直りが大嫌いですが、まあこれにも一理を認めざるをえないとするなら、「暴力がなければ、人間は人間でなくなってしまうではないか」という開き直りが何故されないのか不思議でたまらないのです。

 もっとも、単に性欲を垂れ流す者が『野蛮人』であるのと同様、単に暴力の渇望を垂れ流すだけの者も『野蛮人』だとも言うべきでしょう。
 ただ、性欲に関して言えば、その厄介なる人間天然の性質を、儀式や道徳で『高尚化』しようとするのもまた人間なわけです。その高尚化への意志のあるなしが、野蛮人と非・野蛮人の違いだと言う他ない。
 それと同様、暴力に関しても、『高尚な暴力』への意志のある者こそ文明人であると、とりあえずは考えてみることができます。

 高尚な暴力への意志を持つもの……とは、抽象的に言えば、日本で言う武士とか西洋で言う騎士・貴族の事だと考えてもらってよいでしょう。
 武士や騎士の根本は暴力です。人殺しの専門家です。
 しかし、暴力が暴力として単独にあるだけならば何物をも残しません。彼らの暴力がこれを『大儀』と一体化させようという営みの中にあったからこそ統治や文明が形づくられたのであり、つまり『高尚な暴力』となるわけです。(尚、遠い昔の皇室も、皇室自らの高尚な暴力によって天下をシラしめるようになったに違いないのです)

 そして、現代人も戦国乱世の物語に心を熱くしたりするわけですから、『高尚な暴力』というものを心の一部では渇望しているはずなのです。皆さんは、そこについての一貫性をどう考えているのでしょう? 昨今のごとく、戦国乱世をまるで別世界の浪漫のように捉える仕方は、甚だ卑怯なのではないでしょうか? 少なくとも、戦国乱世……高尚なる殺し合いの時代は、現代の我々と地続きであることを認めてもらわねば困るのです。



【暴力と権力】

 さて、戦乱の世や野蛮の世の中では、暴力と大儀は直接的に結びつくものですが、しかし、次第に大儀が収束していくに従って、暴力を「次善の策」にすることへの価値が生まれてきます。

 これが『権力』です。

 権力とは、暴力を次善の策とする営みなのです。乱世も、当初はその暴力の最も効率なるを突き詰めるわけですが、次第に鎧は装飾華美に、城は絢爛さ纏い、武将はシンボル化していきます。
 こうして暴力と権力が体系化されて文明的な『政府』ができる。この場合、徳川時代がそれでしょう。

 エドマンンド・バークは、「文明とは、暴力を最後の手段とするもの」であり「フランス革命のそれは、暴力を最初の手段とした野蛮である」と言ってフランス革命を論難しています。

 ただ、ここで気をつけてほしいのは、バークは「暴力が最後の手段としてはある」と前提していることです。
 文明を形づくる権力の体系の背後には、必ず暴力がある。逆に言えば、暴力を背景にしない権力はない。当たり前です。権力とは暴力を次善の策とするものなのですから。そして、権力の複雑化により、暴力が手段として後方へ押しやられていくのが文明化なのです。さらに、その権力は長い時間の効力によって、『権威』付けされていきます。これが『時効』と呼ばれるものであって、統治された文明国家に産み落とされた人々にとって「予め規定されてきたもの」であり、相続された財産と呼ばれるべきもの……ではある。

 しかし、権力も、権威も、時効も、元々は『高尚なる暴力』を背景にしている事を忘れてはなりません。
 何故なら、この事の忘れ去られた権力や権威は、酷い欺瞞と評されるべきものだからです。つまり、元々暴力的なものであるものを、暴力的ではないものと虚飾して、まるで単なる仲良しの理屈でのみそれらが回っているかのような人間観、世界観は、嘘っぱちにもほどがあるという意味で。こんな嘘っぱちの理屈で人の暴力への渇望を制限しようとするのは、暴力権という人権を踏みにじっているとしか言いようがない。

 表立って言われる必要はないかもしれませんが、あらゆる権力も権威も時効も、そもそもは暴力を含めたものの延長線上にあるものだという事をどこかで認めた上で文明を捉えなければ、自分たちの文明についての文明観に致命的な欠落を抱える事になるはずです。

 私は、以前民主党の仙石元官房長官が自衛隊を「暴力機関」と評したそれに大賛成です。加えて言えば、政府も暴力機関なのであって、司法も、立法も、皇室も、国民共同体すら暴力機関なのです。
 ただ、私はそれらが暴力機関であることを肯定的に見ます。何故なら、暴力が機関としてあることは、文明であることと同義だからであり、また、私は広義の意味での『文明』は肯定的に考えているからです。



【暴力の健全さ】

 一方、このことはやはり『最後の手段としての暴力』を認める事と表裏一体です。
 つまり、文明とは、戦争や内乱といった非常事態を常に孕んでいるものだということ。何故なら、文明の平常時が暴力を機関化して営むことなのであれば、機関の亀裂からいつ直裁的な暴力が顔を出すかは分からないはずだからです。言い換えれば、暴力は姿を変えただけで、消えて無くなったわけではないということ。

 現代の日本人はこの緊張感に欠けています。圧倒的に欠けています。

 この暴力への緊張感は、『高尚なる暴力』への意志を育むはずなのです。日常を一皮捲った所には暴力があるという緊張感がなくて、どうして『高尚』とか『高貴』ということに思いが及ぶでしょう。

 この緊張感のない非暴力的な大衆人は、野蛮かつ不健全です。
 勿論、殺人鬼とて野蛮な存在ではありますが、しかし、少なくとも健全ではある。その意味で、大衆人よりは殺人鬼の方が人間として幾分マシだとさえ、私には思われるのです。



【力での現状変更を目論め】

 ですから、例えば、「力による現状の変更は許されない」といったような言説は、教育上極めてよろしくない。

 そもそも、この世のあらゆる『現状』が暴力を下に確立されたものであることを鑑みれば、この「力によった現状」の『力』についてはどう申し開きをするのか。
 つまり、現状が力によったものであるならば、力による変更が「力による」というだけで何故許されなくなるのか、という問いです。

 もっと具体的に問いましょう。(ロシアやクリミアや尖閣や中国云々の前に、)我々は、アメリカに対して「力による現状の変更」を一切想定しないのですか?
 国際政治上のタテマエだという風に限りなく好意的に取ったとしても、どこかで「現状の変更は力に関係する形でしか行われない」という前提を手中にしておかなければ、アメリカに対する「力での現状の変更」の方も倫理的な次元で手放さざるをえなくなってしまうではないですか。

 ここで注意して欲しいのは、逆に「力ではない現状の変更」というものを割り増しして考える思考回路の上では、市場原理主義的グローバリズムの世界観は極めて都合が良いということ。
 そもそも、非暴力の前提の上では、市場原理主義的グローバリズムか、共産主義的コスモポリタニズムかに帰結せざるをえなくなるという論理的関係がそこにあるのです。何故って、世界の経済体制がそのような合理性の下統一されうると考えておけば、「現状の変更」は経済でもってなされればよい……という話にできるからです。
 この意味で、経済においても暴力が前提とされていなければ、非常に常識外れな結論を導いてしまう、とも言えます。



 ですが、ここで言いたいのはそのことではなく、浪漫の話であり、青少年の抱く『英雄像』の話です。

 人間が高尚さについて理想を抱く根元は、青少年期に抱く英雄像です。このことは人類普遍の性質であるといってよいでしょう。
 英雄とは、暴力的なものであり、そして正しいものです。つまり、『高尚な暴力』を行う者が英雄と呼ばれる。

 そして、日本の青少年にとって、あらゆる意味で最も根源的で高尚な暴力とは「アメリカにたいする、力での現状の変更」であるはずなんです。
 これが言い過ぎなら、少年が現実世界での理想的英雄像を構築する際に、「アメリカにたいする、力での現状の変更」について、これをどう位置づけるかが深刻な問題になりうる……とでも言っておきましょう。これなら明らかでしょう?

 だって、この現実世界を前提とした場合、真剣にイマジネーションを広げれば、そこには最終的にアメリカがいるのです。すると、自分の想定した英雄像がアメリカと対峙した時にどうするか……という問いは避けて通れないはずなのです。
 少なくとも私はそうでした。

 また、子供たちも、日本がアメリカに負けて、その後の大人達がこれに屈服して生きているらしいことは、何となく知っているわけです。8月になると阿呆のように敗戦の話がテレビで流れるので当然しょう。
 しかも、この屈服が自由だとか民主だとかと呼ばれているものだから、この現状を力によって変更する事は許されないような気分になってくる。

 ここで、少年の英雄像に深刻な妥協が生まれるわけです。

 さすれば、その英雄像は、現実世界を離れてしまうでしょう。
 つまり英雄を、宇宙人とか妖怪とか怪獣とか怪人の跋扈する空想の世界に想定せねばならなくなる。
 戦国乱世への憧憬が、どこか別世界のもののように捉えられているのもこれと同種のことであるように思われます。

 現実世界の中に英雄像を描けなくなってしまうと、現実は現実、理想は理想だという風に理想と現実を完全に分離せねばならなくなる。要するに、理想や英雄像といったイマジネーションを現実に活かすということができなくなるのです。


 ですから、我々は、どこかで「アメリカに対して、暴力による現状の変更」を目論んでいなければならない。
 なんだったら嘘でもいいので、大人たちはそうした意志のあることをどこかで織り込んで、子供達に見せる義務があるのですよ。



【必死や決死】

 私が神風特攻を肯定するのは、特攻隊の少年兵が抱いたであろうその英雄像に共感するからです。
 そう、私は特攻隊には『共感』するのであって、感謝なんかしてません。また、我々は彼らに感謝なんてできる身分でもありません。

 自分が本当に神風特攻隊員になったつもりになってみれば、隊員は英雄になろうとしたんだということが分かるはずです。理想を現実に活かすということをやったんです。
 イマジネーションを駆使して、その心映えに共感してみるというのは極めて重要なことで、さすれば「自分も神風特攻隊になりたい!」という高尚な暴力への意志を持つことができるはずなのです。


 神風特攻をはじめとして、203高地や、白虎隊、忠臣蔵など、決死、必死の英雄談に共感するという心は、青少年が現実を前提とした理想を抱く上で重要な事だと思うのです。どこか別の世界へ遊離し切った理想ではなく、現実を前提とした上で高尚な暴力という理想を描く為にも。

 勿論、理想ばかりを抱いていても駄目だということはあります。
 激烈な理想の上に、平静な現実感覚が必要です。
 荒海の上に、巣を作る鳥のように。
 ウォームハートだが、クールヘッドでいなくてはなりません。

 しかし、クールヘッドでクールハートでは、それは死人なのです。死人であることが現実を生きる大人であるかのような誤解が、現代では多くされているように思えてなりません。

 さらに言えば、この死人の発想を自由で民主的などと虚飾する仕方は、これこそ本当に許し難いです。
 自由で民主的……という語句は、人を生きながら死人にする語句です。

 我々は、生の為にも、もう少し命を粗末に考えてみる事さえ必要なのではないでしょうか?



(了)
関連記事
スポンサーサイト

Category: 未分類

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 0   

英霊に対する恩義……という誤魔化し 

「今の我々があるのは、大東亜戦争を戦った英霊のお陰だ」

 この時期、こういうような言葉をよく聞きます。つまり、今の我々は、英霊に恩義があるというわけです。
 しかし、私はこれを誤魔化しだと思う。

 なぜなら、我々現代日本人は、英霊に対して「恩」があるのではなく「罪」があると意識されていなければならないはずだからです。



 当ブログをご覧くださる折には、必ずランキングにご協力ください。
こちらのバーナー
をクリックして、ブラウザの戻るボタンで戻っていただければ結構です。


1crw_0145_jfr.jpg


 そもそも当時の日本は、「アメリカとその自由民主主義」というものを拒否して、「我らこれに屈セズ!」という風に奮起して戦ったのです。
 今、その「アメリカと自由で民主的な大衆社会」に屈し切って平和と飽食を享受している現代人が、その恩義を英霊に感じるというのは、いくらなんでも論理が破綻しすぎでしょう?
 だって、それは英霊が命を賭して拒否したものなのですから。彼が拒否したものを享受することについて、彼へ恩義を感じる……というのは一体どういう理屈なのか。

 そうした『論理』という意味では、世間で「サヨク」と呼ばれている人々の方が一貫してはいます。つまり、「自由で民主的な大衆社会」を肯定しつつ「英霊をキチガイ扱いする」という所に筋が通っている。しかし、それは「一貫して間違っている」という一貫性があるにすぎないわけで、それ以上の価値は認められようもない。


 こう考えると、非・サヨクの「理屈に拘らない」という姿勢は、サヨクより男らしい所があるのかもしれません。

 ですが、一方で「英霊」に恩があるだの感謝するだのなんだの言っておきながら、もう一方で「アメリカ及び自由民主主義による、現代日本人の平和と飽食」を前提とする……というのは、一貫性に欠くにもほどがある。
 その一貫性の欠如があるので、恩義とか哀悼だとか言わなくてはならなくなってしまうのです。



 なるほど、サヨクは「現代の自分を肯定」するために「前時代を否定する」という風にして一貫性を持たせるので、『超絶的な進歩主義・啓蒙主義』へと突進してゆく。社会もこれに浸食されてゆく。

 対して、非・サヨクは、「前時代を肯定」するそぶりは見せるが、そこには「現代の自分を否定しない限りにおいて」という暗黙の手加減がある。
 この「現代の自分を否定しない限りにおいて」という、現代人の都合によって、「あの日米戦争の奮闘で、結果的に現代の平和と豊かさを得ることができましたとさ……」というような暗黙のストーリーでこれを繋ぎ止める事が前提されてしまうようになっている。

 しかし、これは否!です。

 英霊の意志や恣意を、勝手に今の自分たちに都合の良い風に改竄してはなりません。

 あの日米戦争で、ますらおの日本軍人は「アメリカ及び自由民主主義」を拒否して勲を示したのでしょう。神風特攻隊や硫黄島、ペリリューの若き日本兵は、「アメリカ及び自由民主主義」なんかに屈してたまるか!……という激情で文字通り火の魂を燃やしたのです。

(尚、このアメリカ及び自由民主主義への『拒否』を認める事なくして、「大東亜戦争は自衛戦争だった」という大儀を主張する事は論理的にできない、ということはよく考えていただきたい。さらに、私はあまり好きではありませんが、「大東亜共栄圏の大儀」も自衛の大儀なくして大儀だてられないのは言うまでもないことです)

 そして、彼らがそうできたのは、自分の死後に残った日本人が「アメリカ及び自由民主主義に屈服する」などという事は絶対にしない、と疑わなかったからです。もしかしたら、脳裏をすら過ぎらなかったかもしれません。
 つまり、「アメリカが日本を攻めきれずに撤退する」か、「日本民族が全員死ぬか」しかない……という事が大前提だったわけです。

 よく勘違いされていますが、玉音放送の際、日本人が「日本が負けたことが信じられなかった」のは、大本営の情報が公開されていなかったからでも、日本一億民が竹槍と神国パワーを信じ切っていたキチガイだったからでもありません。
 つまりは、「勝つか、日本民族全滅か」だったら、負けはないということ。正しく言えば、当時の日本人は「日本が負けたことが信じられなかった」のではなく、「降参した事が信じられなかった」のです。


 同じように、必死必中の命を受けて英霊となりたまうた神風特攻隊員たちも、「勝つか、日本民族全滅か」という大前提の下、肉弾特攻したわけです。

 さあらば第一に、その『降伏』が英霊に対する罪です。
 生き残った日本人は、ここでひとたび英霊を裏切っているのです。

 この罪を贖う為には、降伏の後も「死んだフリ」をして反撃の機会を伺い続けていなければなりませんでした。堅く拒否していた「アメリカ及び自由民主主義」を受け入れた「フリ」をして大石倉之助にならねばならないはずでした。
 そして、再び牙を剥き、晴れてアメリカを滅ぼす事ができたら、そのときようやく我々は英霊に対して胸を張れるはずなのです。


 しかし、現代の日本人はなんですか。
 この「アメリカ及び自由民主主義」は、大衆のの平和と飽食に極めて都合がよく、日本人は皆これが「進歩だ」と前提して憚らない。
 あれほど英霊が体当たり攻撃や突撃で拒否した「アメリカ及び自由民主主義」に、屈服しまくりではないですか。そして、屈服して平和と飽食を享受するを大衆の大衆たるケンリだとすら思っていやがるのです。当たり前のケンリだと、そう思っているのです。

 要するに第二の罪は、「降伏してしばらくたったらいつの間にか普通にアメリカ及び自由民主主義に屈服していたこと」です。



 まあ、いいんです。日本人が英霊を裏切るというのであればそれでも。しかし、その場合は「俺は英霊を裏切る!」と、きちんと宣言してもらわねば困ります。
 英霊はキチガイだったとか、英霊に恩があるとかいって誤魔化してもらっては困るのです。
 何故なら、それは狡猾な欺瞞というやつだからです。



 しかし、できることなら、日本人には「アメリカおよび自由民主主義」を再び拒否し、アメリカへ反旗を翻す為に伏す……という意志を回復してもらいたい。そして、第二次日米開戦でもってアメリカを滅ぼすまで、我々は英霊に対して罪を追うことになるのです。

 まあ、私とて、今すぐアメリカを滅ぼせとは申しません。

 というより、現代に生きる日本人は、アメリカを滅ぼすまで英霊に対して罪があるのだ……ということが分かられていさえすれば、良いのです。
 大切なのは、誤魔化さず、「罪の意識に苛む」ということなのですから。



(了)
関連記事

Category: 未分類

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 1   

現代の軍隊に徴兵制は邪魔なのか? 

 コメント返答の記事なので、今回の内容で疑問が生じるようでしたら、前回の「集団的自衛権の前に……徴兵制をどうお考えか?」http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-204.htmlをご覧いただくようお願い申しあげます。

 当ブログをご覧くださる折には、必ずランキングにご協力ください。
こちらのバーナー
をクリックして、ブラウザの戻るボタンで戻っていただければ結構です。


2img_5871.jpg


 前回の「集団的自衛権の前に……徴兵制をどうお考えか?」http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-204.htmlという記事へ、以下のようなコメントをいただきました。


> 近代戦は高度な技術を要求されるから素人の兵隊はむしろいらない、という反論にどう答えますか?



 結論から先に申し上げますと、そのことはそこらの平民が判断する領域ではない、という事に尽きます。
 何故なら、それは軍事における「具体的判断」だからです。

 もっとも、このコメントのような話には、それなりの出生事由のあることも承知しております。
 つまり、九条の廃棄や集団的自衛権の話題のごとき軍事の問題について、サヨク的工作員や工作員的サヨクが「そんなことをすれば徴兵されるぞ」という脅しにも似た文句でこれを阻止しようとするのに対し、「近代戦は高度な技術を要求されるから素人の兵隊はむしろいらない」というような反論は有効であった……という事情です。
 それは、「現実的、合理的な見地からの反論」という装丁を施してされる為、なるほど説得力がある。

 しかし、そうしたサヨク言説に対抗して説得力を付与させようとする言動の中に、何かしら『大衆の都合』や『大衆の都合に迎合した態度』が含まれている事が、私の気にくわない部分なのです。
 その証拠に、そもそも自主防衛において、どこへどの程度徴兵された兵士が必要か、必要ではないか……などという判断を、素人ができるわけがないではありませんか。
 徴兵をする、しないの判断は、政府や軍隊がすべき領域なのです。そして、私が申しあげているのは、その『権限』が中央政府という『統治機構』に与えられていなければならない、という事なのであります。

 しかし、いただいたコメントのように、世間では何故か素人にそういった判断ができると思われている。また、そういった資格やケンリがあるとすら思われている。
 普通に考えて「現代戦に徴兵が必要か、必要でないか」の判断など、素人が兵隊をやる事よりも遙かに困難なはずにもかかわらず。

 私には、こういった類の論は次のように疑われてしかたありません。
 すなわち、「近代戦は高度な技術を要求されるから素人の兵隊はむしろいらない」という『合理』を虚飾した判断をしておけば、「徴兵が嫌だという心根を表明せず、徴兵されない為」には都合が良いので(あるいはそうした心根に迎合していなければ大衆に放逐されるので)、そういう道筋にそって理屈を積み立てているだけに過ぎないのではないか、と。



 また、そもそもこの論理は、一時的に『徴兵』そのものは否定しえても、『徴兵制度』という制度の方は否定しえません。

 何故なら、もし仮の仮に、いま、「素人の兵隊はむしろいらない」なのだとしても、その時は政府が徴兵の『権限』を執行しなければ良いだけだからです。(繰り返しますが、こうした判断を「一般国民による国民的議論」とやらがすることは、一般国民が兵隊をやることより遙かに難しい事のはずなので、それは政府の判断にしたがってもらわねば困ります)

 次に、仮に「徴兵の権限を執行しない方が良い状態」がありえたとしても、その状態が恒常的に続くという事はありえません。というかそもそも、あらゆる組織で持続的に人員の不足や過多の生じないものはないのです。
(余談ですが、これがもし生じないのであれば、市場経済は放っておいてもごく上手くいくという話にもなってしまいます。つまり、それは労働市場における完全情報社会を前提としているのと同じ事になってしまうのです)
 もし兵隊が足りなくなれば、素人でもなんでも訓練で玄人にするほかないし、その証拠に大東亜戦争まではそうしていたのです。そして、大東亜戦争の時点で、(もっと言えば日清・日露・第一次大戦の時点で)軍隊というものは高度に近代化されてしまっていたのです。それでも国民は立派に徴兵され、訓練を受け、技術を身につけ、みごと玉の緒散り給ひ、九段へ祀られなすったではありませんか。
 現代はそれにコンピュータという毛が生えた程度なのだし、兵隊の全てがコンピュータを操るという話ではないでしょう。「素人の兵隊はむしろいらない」というような話を聞くと、軍隊というものがあたかもコンピュータやアクロバティックな機器操作で完結するような具合で言われているような気がしてならないわけですが、軍隊をファミコンやレーサーと一緒にしてもらっては困るのです。
 当然、軍隊は組織であるからして便所掃除から飛行機乗りまで様々な役割があるはずで、少なくとも健康でさえあれば「いらない」などという事はありえません。
(尚、核兵器の話については、別の機会に譲る)


 確かに、軍隊をごく平時に限って論じれば、徴兵制の必要がないようにも見えるかもしれないし、徴兵が邪魔だとさえ見える場合もあるかもしれません。が、軍隊というのは「非常時」を平時から想定するからこそ存在するという事を忘れてもらっては困ります。(また、実はこの想定がなければ、九条の理屈が理屈として整合してしまうということも是非考えていただきたい。)つまり、戦争状態やら動乱状態やらを平時から想定して組織するものが軍隊であるならば、当然、軍人の「大量戦死」をも想定されていなければならないのです。
 そして、平時と非常時、平和状態と戦争状態の間では、戦死の数は違うに決まっているのです。もし、戦争状態において、人的資源にかんする手立てを何も講じないのであれば、弾薬が切れる前に戦う人間が切れることになるでしょう。
 こんな事は、下手したら小学生でも分かる話です。

 尤も、こうしたことを技術的にはどうとでも論じる事ができるかもしれませんが、私にはそうした能力も興味もありません。軍事兵器の性能とか、それに併せた軍事戦略の変遷とか、そんなマニアックな知識は軍事オタクの領域で、それは彼らに任せます。

 ただ私は、こうした誰でも本当は分かっているはずの、ごく当たり前の話を、自分の都合で分かっていないフリをするという態度が嫌で嫌でたまらないだけなのです。
 その都合というのは、「徴兵されたくない」という欲求と「生命と財産の保持」という欲求のジレンマを解消する為に、自分が生きている間はアメリカへの従属を強化・延長しておいてもらいたい、という都合。そして、その格好悪い都合を延長しながら、これを別の理屈で虚飾して、どうにか格好悪くない風体を装いたい……という都合であります。
 そのヘドロのごとく醜い都合の為に、日本の黄色く狡賢い猿共は極めて巧みで、狡猾に、飄々と、「分かっていないフリ」をし続けるのです。



 勿論私は、いくらこのような事を主張しても、世で通用しないことは分かっています。
 何故なら、その都合は『大衆の都合』の最たるものであり、大衆の都合による世の支配こそ、『戦後体制(レジーム)』というものだからです。
 戦後体制……大衆に支配された民主主義の下では、いくらそれを偽善だ欺瞞だと叫ぶ者があったとしても、大衆はこれを無視すれば放逐できる。というより、無視する態度をこそ民主的で素晴らしいとすら考えられている節すらある。
 また、大衆はこの事をすら実は把握しているのであります。自らの都合の為であればどこまでも狡猾に白痴を装い、肩を組んだ大行進で予定調和を押し通すのが大衆なのです。

 私は、このような世にもおぞましい行進から離れたい一心で言葉を編んでいます。
 さすれば、「徴兵制度の必要」は自然と出てくるのです。私のみならず、天下国家・国民というものを考える際、『大衆の都合』というものを徹底的に排除しさえすれば、徴兵制度の事に至るはず。
 少なくとも私にとってはこれに触れずに防衛だ愛国だとのたまう欺瞞の方が、「無視をされること」よりもよほど恐ろしいのであります。



(了)
関連記事

Category: 未分類

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 0   

集団的自衛権の前に……徴兵制をいかがお考えか? 

 集団的自衛権の行使容認についての話題が大いに論じられている昨今ではあります。が……こと防衛の問題にかんして考える際は、「徴兵制をどう考えるか」について腹の内を定めておかねばなりません。
 というのも、徴兵の議論を避けて昨今言われている集団的自衛などが語られては、見るに耐えない『欺瞞』が公然と容認されてしまうことになるからです。


 当ブログをご覧くださる折には、必ずランキングにご協力ください。
こちらのバーナー
をクリックして、ブラウザの戻るボタンで戻っていただければ結構です。


crw_6149_rj.jpg


 結論から先に申せば、私は徴兵制に大賛成です。
 というより、徴兵制こそ、自尊自衛の軍事体制の根幹中の根幹であると言って良いはずです。これを論じないで軍事を語るのは俗悪な欺瞞以外の何物でもない。

 また、仮に「九条の廃棄」や「集団的自衛権」に賛成でも、徴兵制について何の態度も持っていないのであれば、それは単なる自分の生命と財産についての関心に過ぎない……と糾弾せらるるべきなのです。むしろ私は、そうした人々の方が俗に言う「九条擁護論者」よりも憎く思える時があります。


 おおよそ、軍事・外交に限らずあらゆる議論で「徴兵される可能性を出来るだけ少なくする」という事は、人々の議論において無意識に前提された大命題になっています。誰も口には出しませんけれど。
 この場合、徴兵制が政策的・戦略的に「良いか、悪いか」と問う思考回路はストップしています。また、人は、その思考を巡らせる以前に、「徴兵制を不合理だとする理屈」を積み上げようと無意識に鋭意努力します。

 その「徴兵される可能性を出来るだけ少なくする」という命題へ向けて無意識に積み上げた理屈の上で、自分たちの生命と財産が最も効率的に保全されうる体制は何か……という話題が、現代日本における「軍事・防衛」の議論になってしまっている。

 勿論、この路線を前提として、結論が違う場合もあるでしょう。
 それは、「九条を守ること」だったり「アメリカに守ってもらうこと」だったりするかもしれない。しかし、実の所「自分が徴兵されるなんて真っ平ごめんだ」という事と、「よそから侵略されて、殺されて、財産を奪われるのが嫌だ」という個々人のごく個々人的な要求に迎合して出される結論であることに違いはないわけです。
 また、この場合、「アメリカに守ってもらうこと」の方の結論が圧倒的大多数の雰囲気でしょう。というのも実の所、「九条信者の論理」で自分の生命と財産が保全されると本気で思っている輩はごくごく少数であるし、「自分が生きている間はとりあえずアメリカに守ってもらって、徴兵されずに済めばしめたものだ」という方が至極現実的だからです。

 また、この「アメリカに守ってもらうこと」の方は、非常に巧みで、狡猾で、饒舌な虚飾を施して提示されます。実際、このことをそのまま口に出せばあまりに格好が悪いという事を皆分かっているからです。

 集団的自衛権行使容認の是非についても、「徴兵回避」と「自分の生命と財産」という大衆的大命題の上で、その結論が微細に違うというだけだ……とも言えるでしょう。つまり、指向が少しでも「徴兵回避」の方に振れていれば反対するであろうし、「自分の生命と財産」の方に振れていれば賛成する、というだけの事なのかもしれないということ。

 要するに、安倍首相がどうとか言うのではないけれど(私には首相に向かってどうこう言うケンリなどない為)、集団的自衛権の話題にはどうも「アメリカに守ってもらうこと」をより発展させ、「中国の具体的脅威から自分の生命と財産の保全を強固にしたい」という大衆心理への迎合から来る部分が強いと疑われてならないわけです。

 とはいえ、この時、
「集団的自衛権の行使容認は、アメリカへの従属を深める為ではなく、日本が国際社会の中で主体的・戦略的にその立場を選び取る為にあらねばならない」
 と言えば、
「その通りだ」
 と、返す人はそこそこにいるでしょう。

 しかし、この時「その通りだ」と口では言う人々でも、
a、「中国の脅威から国を守るため、自分が徴兵されても、アメリカへの従属を少しでもやめる事ができる」
 のと
b、「中国の脅威が増長しても、徴兵はされず、代わりにアメリカへの従属を深めてしまう」
 のとでは、(心根の奥底では)後者を選ぶ輩が大多数なのではないか、と私は強く疑っているのです。
 つまり、「日本が国際社会の中で主体的・戦略的にその立場を選び取る」という話になったとしても、そこでは「徴兵制は復活させない」という事は大前提とされてしまっている。そして、主体的・戦略的にアメリカへの従属を強めるというわけです。

 はっきり言って、そういう輩は「九条信者」よりも数段低劣だと思います。
 何故なら、その『欺瞞』がより狡猾な虚飾に富んでいるからです。
 もし、
「ぼくは兵隊になんぞとられたくはないけれど、生命と財産は保全されるケンリがあるはずだ。アメリカに従属しておけば、ぼくの生きている間は徴兵もされずケンリも担保されるはずなんだから、もっともっと従属しておきたまえよ」
 と正直に言っているのであれば、まだ可愛げがあるというもの。腹は立ちますが、彼はその「格好の悪さ」というリスクを負っているからです。
 しかし、格好悪さのリスクも負わずに、巧みな虚飾でこれを前提とする『欺瞞』は許し難い。それはあまりに都合が良すぎです。

 それでも、この都合の良い態度は日本人の大多数の大衆的雰囲気として前提されているから、誰も糾弾する者がいない。むしろ、これを糾弾する者は、大衆から放逐される事になるはずです。(それが仮に政治家や官僚であればなおさらでしょうよ)


 集団的自衛権行使容認の話題の推移を見ると、このことが証拠立てられます。
 まずマスコミが「徴兵の可能性」に繋げてこれを安倍政権叩きのネタにしようとする。対して集団的自衛権行使容認に賛成の者達は、これを以下のように反駁しますでしょう。

「集団的自衛権の行使容認が徴兵制の復活に繋がることはない。マスコミは国民に過度な不安感を与えて印象操作をしている」
 と。

 私は、この類の言説が気にくわなくて仕方がない。何故、「徴兵は駄目」というのが大前提なんですか?
 私ならこう反駁しますよ。

「集団的自衛権行使容認は、これが徴兵制に繋がるようでなければやる意味がない」

 と。



 さて、徴兵制について以上のような事を言うと、経験上、必ずこういうことを言われます。
「そんなに徴兵されたいなら、お前だけ勝手に自衛隊へ入隊すればいいじゃないか」
 ……これは本当に愚かな言です。

 そもそも私は、軍隊なんて別に好きじゃあないし、兵隊になんてなりたくありません。また、巷で見かける軍事オタクのように、軍事兵器なんぞにこれっぽっちの興味も憧憬もありません。

 しかし、「兵隊になんてなりたくない」という私の個人的な欲求と、「徴兵制の是非」とは全く無関係です。私は、個人的欲求では兵隊なんぞにとられたくはないですけれど、そんなものは無視されるべきなんです。個人的欲求を無視して、中央政府なり軍隊なりが、国民を強制的に兵隊として徴用するからこそ、『徴兵制』なのでしょう? 徴兵制というのは、中央政府が国民に兵役を課す『権限』を持つという事なのですから。

 勿論、「覚悟」の話はまた別です。少なくとも、徴兵における過酷な軍隊生活や、戦場で命を落としたり、死にきれず病や負傷で喘ぐ……という所までをできるだけ想像し、尚、それでも兵役を課された場合はその義務を全うするという覚悟を持とうとしていない者が、徴兵制を語る事は許されないでしょう。


 ですが、大衆の「兵隊にとられたくない」という欲求は、ことごとく無視されるべきなのです。
 このことが無視されるべきなのは、『軍隊』とは、別に「いま日本列島で日本国籍を持っている人間」の生命と財産を守る事を目的とするモノではないからであります。

 軍隊は、『国家』を存続させる事が目的なのです。国民は、「軍隊によって守られる者」ではありません。むしろ、「国民が軍隊でもって国家を守る」という考え方こそ『自主防衛』というもののはずでしょう?



(了)
関連記事

Category: 未分類

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 2