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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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総選挙から総選挙まで雑感 

 『永遠のゼロ』を論じていたとこでありますが、後章へゆくにあたって引用箇所や構成を少し手直しをしたくなりました。ですから、『永遠のゼロに見える現代大衆人の都合』の後章の更新はもう少しお待ちいただければと存じます。この作業は比較的すぐ済むはずです。
 今日は、衆議院選挙も結果が出たことですから、少し昨今の情勢に絡めた事について考察したく思います。




 今回の選挙は、非常に静かなものでした。
 それを象徴しているのは投票率です。今回は約52%で戦後最低を更新したようであります。前回二年前の衆院総選挙が59,32%でこれも当時の戦後最低であったことを考えると、今回の投票率の低さは目を見張るものがあります。(※投票率、読売新聞より)
 しかし、これまたその前の民主党政権交代総選挙が69,28%、さらに前の小泉郵政総選挙が67,51%であったことを見れば、投票率の高いことはむしろ選挙というものを悪しきものにするのかもしれません。

 ここ十年を見るだけでも投票率の高かった「民主党政権交代選挙」や「小泉郵政選挙」は、政策的な「争点」のようなものがあり、政権や政策の具体的内容について国民全体がその是非を選択するといったような選挙でありました。つまり、選挙が「何かの選択の為」にされていたわけです。
 こうした「具体的な政策論を国民一人一人が選ぶ」というような選挙は、なるほど「選択している感」をもたらすので投票率は上がるでしょう。また、「国民主権」な感じもするでしょう。

 ですが、「具体的な政策論を国民一人一人が選ぶ」などということが公民の教科書的に上手くいくはずはありません。例えば「政治主導、コンクリートから人へ」はたまた「郵政民営化、官から民へ」などという具体的な政策論に対し、国民の一人一人が意見を持っていたはずはないし、そもそも持つ必要すらない。

 国民一人一人が政策論を選べるわけがないのだから、国会議員を「日本代表」と見立てて政権を選ぼうなどとしてもその基準がない。
 議員はむしろ、自分達の地域の発展に貢献した家の者とか、産業の既得権を代表してくれる人とかを送り込む「全国大会」と考えられて然るべきものだったのです。そういう発想でいれば、個々人の恣意を直接国政に通すことはできなくとも、それぞれの生活が否が応にも持つコネやシガラミや既得権の塊を、国内の意見調整の場(議会)で確固たるものにできる。また、そうした全国大会(議会)で意見調整をしつつルール(法律)を定め、その代表者の中からそのまた代表者(内閣)を選んで国家全体の行政にあたってもらう……という緻密な間接性を担保しようとする態度こそが議員内閣制度の本旨であったはず。
 そして、そうした間接性を担保しておく方が、「1人1人の意見をより集めた多数を、直接国政に持ち出す」という発想より、国民の意思を反映していると考えることもできるのです。何故なら、そうした間接性は「国政」と「中間の団体」と「生活の実践」とを地繋がりのものにするはずであるが故に、時間的繋がりをも参照せざるをえなくなるからです。時間的繋がりを参照するということは、過去の国民の意思、未来の国民の意思を参照することですから、「たまたま今生きているというだけの、日本列島に住む、日本国籍を持った人間の意見」よりも重いに決まっています。

 要するに、政治制度改革で見られたような小選挙区の理想が間違いだったことは最早明白なのであります。政権選択を前提する小選挙区的な、人民が政府へ鎖を付けるという意味での「国民主権」の発想からして、根本的に大間違いだった。また、何が何でも投票率を重視するというのは、「より多くの多数決の方がより正しい」という根拠のない人間性への楽観であったし、「より多くの多数決の方が、より多くの国民の意思を反映できる」という発想すら全くの思い違いだったのです。

 ここまでは、かなり明白なことであります。



 さて、この事を踏まえれば、投票率が低かった事そのものは別に悪いことではないでしょう。人は、今回の選挙は「何を選択して良いか分からなかった」と思うかもしれませんが、全ての平均人が何か特別な「選択」を選挙を通して直接しようとすること自体そもそも不健全なのです。

 しかし、昨今の投票率の低さを、人々が自粛して「自発的制限選挙」をおこなったから……とポジティブに解釈することも、これまたできない。
 というのも、今回と前回の総選挙で大衆が投票所へ向かわなかったのは、「民主党政権」と「小泉政権」をやってしまった後で、大衆の歓心を買うような政治的「サーカス」のネタが提供されなかったからに過ぎないからです。それは、ほとぼりが冷めてサーカスのネタさえあれば再び大衆の熱狂が始まるということを意味するのみならず、静かなる今であっても以前の熱狂のうちにあった理屈、論理が生き続けていることをも意味します。
 つまり、大衆による支配というのは厳然としてそこにあり、その大衆が前提とする政治観とは未だに「民主党政権」と「小泉政権」なのです。勿論、人々は「民主党」「小泉」と聞けばこれを唾棄するでしょう。しかし、民主党の言っていたこと、小泉の言っていた事を別の人間が言えば、それは拍手喝采となる。橋下徹なんぞがいい例(悪い例?)ですよ。
 最早、熱狂のうちに拡散された「民主党」と「小泉」は、薄められた形で、当たり前の大前提とされてしまっているというわけです。ですから、今現在何らの熱狂がなくとも、大衆世論で奨励されるものの枠組みは小泉的か民主党的なるものに誰しもが引きずられる。しかも、おおよそ無意識で、その事に気づいていない手合いの引きずられ方だから、一層にタチが悪い。

 たとえば、小泉政権を経済右派の小さな政府論、民主党政権を経済左派の大きな政府論と見立て、この間の中庸を求める政治観が散見されますでしょう。自由放任と弱者救済の中庸こそ「中道」のあり方だというわけです。
 しかし、こうした「中道」を気取った構えこそ、小泉と民主党の論理の上でしかモノを考えられなくなっている証拠なのです。

 なるほど、小泉政権のそれは自由放任の小さな政府論であった。しかし、民主党のそれは果たして大きな政府でありましたでしょうか? 子ども手当に象徴されるような給付の面については確かに薄っぺらい福祉的な側面を提示していたかもしれません。が、たとえば「コンクリートから人へ」といって公共事業費が、あるいは「政治主導」といって公務員とその給与が、はたまた「事業仕分け」といって独法や省庁予算がカットされていった。それは、小泉政権の「官から民へ」「行政改革」「聖域なき構造改革」の焼き直しとしか言いようがないのです。

 つまり、民主党的大きな政府論であろうと、小泉的小さな政府であろうと、「政府から権限を剥奪する」という点は一貫していたのです。そして、剥奪した政府の権限を、強者に振り分けるか、弱者に振り分けるかの分配観の違いが、「小泉」か「民主党」かの違いであるに過ぎない。

 さらに言えば、この類いの前提は小泉や民主党そのものが「悪い人」だったからという事ですらない。この類いの「政府からの権限の剥奪」を請求してきたのは、表面上主にマスコミであります。でも、マスコミは何を代弁して利益を上げているかと言えば、結局の所は「大衆」なのです。
 要は、「政府からの権限の剥奪」をガキのように請求してきたのは平成の「大衆」であり、小泉や民主党は大衆の言う通りをやったに過ぎない。

 このことは公共事業が実に分かりやすいので、少し公共事業に注目してみましょう。
 おおむね平成の「大きな政府論」「小さな政府論」という基軸は、「直接的に弱者を救済するか、しないか」のみであり、どちらにしても公共事業に関しては一貫して減らされる事が正しいとされてきた。
  つまり、大衆にとっては、(有効需要や乗数効果というケインズ的なところへ思いが至るかどうか以前に)公共の事業がどうなろうと知ったことではなかったのです。大きな政府論、小さな政府論に関係なく、公共事業については、はなっから「削減」で大衆世論の結論は決まっていたのですから。
 そもそも、公共事業はその効果、効用がすぐさま短期的に個々人へ還元されることが明瞭ではないものだから、その時々の刹那的ヴィジョンしか持たない大衆の都合には合致しないのです。公共事業へ税金を費やすくらいなら、その分だけ主権者様の税金を減らすか、主権者様へ給付を施すべし……というわけです。
 勿論、大衆は、「公共事業へ回る分の税金が、減税なり給付なりで自分達のところに回ってくる事を期待している」などとあけすけに言うわけにはいかないので、古カビの生えたような「政治家と土建業者の蜜月」への糾弾をしつこく盾にし続けた。あるいは、自由市場を介していないことを根拠に「公共事業はムダ」という話が都合よく言われ続けた。

 しかし、それらの過剰はしょせん「税金が公共事業へ回ることへの嫌悪感」から来る政府権限の剥奪の欲求を、見目麗しく装う為の偽善でしかなかったわけです。

 ですから、2012年の総選挙前後で言われ出した経済政策「三本の矢」の中で特筆すべきは第二の矢であるところの「財政出動」だったわけです。財政出動だけが異色であり、財政出動こそ全ての鍵であった。

 財政出動によるデフレ経済の是正という志向は、経済における「政治」の介入を認める志向です。市場経済による民主的需要ではない、政治的な需要を「計画」する権限を政府公共当局に認めるということです。
 これは、「政府の権限を剥奪する」という小泉的、民主党的、平成大衆的な志向と真っ向から対立するもののはずでありました。
 空想を言うようですが、もし政府がより果敢に「大衆」というものへ反逆をし、堂々と「計画の権限」を行使していたならば、平成の大衆レジームからの「大転換」がなされていたかもしれません。さすれば、小泉的、民主党的なスキームも払拭できていたかもしれないのです。そして、国土計画、軍備増強計画、社会福祉計画……などなど、様々な国家的「長期計画」を提示できていれば、それは確実な需要の見込みであるから、事業者の投資計画スケジュールにおける不確実感も払拭できたはずであります。人々は、口では「政府は信用できない」と言っておきながら、政府が圧倒的暴力と権威に裏打ちされた最も強固な組織体であることを実は知っているのですから。


 しかし、「三本の矢」という経済政策は、論理的に「大衆理論への逃れ道」が多分に用意されている理屈でもあった。

(※このことは、このブログでは2012年時点で指摘していることなので、詳しくは「アベノミクスと、リフレとケインズ」http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-47.html をご覧ください。)

 端的に言えばこういうことです。

 経済政策「三本の矢」のうち、短期のデフレ不況対策となりうるのは実は「1、金融の量的緩和」と「2、財政の出動政策」である。
 この組み合わせとしては実のところ二つあって、

「a.政府が刷ったお金を、政府が使う。すると、需要が生まれ、雇用が生まれ、消費が起こり、その消費はまた別の需要となる……ということを目指す」(ケインズ的)

「b.政府がお金を刷れば、相対的にモノより金が多くなる。インフレを予測する投資家は、市場の利子率がそれを下回ることも予測するはず。すると銀行預金は実質で損となるので、投資が起こり、需要も増えていく……ということを目指す。尚、この経緯には時間差があるので、時間差を埋める為に財政出動もやむ無しである」(リフレ的)

 と、なります。

 このaとbの考え方では、実際上、短期的に行う事は同じように見えます。とどのつまり、金融緩和と財政出動をやるわけです。だからこそ、2012年段階では、その辺りを曖昧にしておくことができた。曖昧にしておくことで、総裁選で安倍氏は麻生氏の支持を得ることができ、総選挙で自民党はより広い支持を獲得できたわけです。

 しかし、経済における政府の「計画」というものを許容しうるのは前者のケインズ的文脈なのです。たとえば、「国土強靭化計画」のような「計画」を、自由市場の評価から超然した所で行う権限を政府に許容しうる論理は、やはりケインズ的文脈の方だったのであります。

 対して、リフレ理論は、自由市場というものへの強固な信頼が前提とされている。というのもそれは、投資家……というか資本が、貨幣の数量的前提さえ整えておけば、合理的予測に基づいて適宜合理的に動く事を前提にしているからです。それは、自分以外の他人も合理的予測をするはずだ……という予測すらも合理的にされる事を前提するものであります。

 そして、これが最も重要なことですが、そのようなハイパーな合理性というものを自由市場……はたまた資本に前提したがる本当の理由は、「政府へ権限を与えたくないから」なのです。
 というのも、自由市場や資本というものに、本当にそうした合理性があるならば、その合理性の分だけ政府の持つべき権限を少なく見積もることができる。

 すると、「政府から権限を剥奪したい」という小泉、民主党理論を引きずった大衆は、やはりリフレ派理論に引きずられてゆくのです。
 そもそも、リフレ・エコノミストそのものが、自分の専門範囲以外は大衆理論しか持ち合わせていない大衆平均人なのでありました。つまり、彼らの理論はその専門範囲からして「専門的に、政府へ権限を与えたくないという大衆の欲情を代弁する」というものに成り下がったものなのです。

 リフレ理論は、主に、大衆資本家、大衆ビジネスマンといった層が中心となって、また、そういった連中のことを「進歩的」で「西側的」で格好いいと思ってしまう全ての軽薄なる平均人によって推し進められました。
 私は政治家批判や官僚批判というものが大嫌いなのですけど、大衆政治家平均人や大衆官僚平均人が、ごく大衆的に振る舞ってリフレ理論に傾いていったはずであることすらも認めねばならぬでしょう。(勿論、政治家一般や官僚一般は、投機家一般やビジネスマン一般よりは遥かにマシであるはずですけれど。)

 一方、人々を「国民」として統合しうる、市場価格に換算できない国家的長期事業に生の活力を想起する者は、残念ながらごくごく少数派であった。



 さて、そうやって第一の矢と第二の矢の結びつけにリフレ理論が横行すると、「第三の矢、経済成長戦略」に重大な問題が生じます。
 それが、規制緩和と構造改革です。

 そもそも2012年、第三の矢である「経済成長戦略」については、当初ほぼ何も言っていないに等しかった。第一の矢と第二の矢は、デフレという短期の問題に対処する政策であるが、第三の矢は長期の経済戦略だというくらいの言い方であったのです。

 すると、具体的な短期の政策の性向が、長期の政策の具体化に影響を与えることになる。
 そして、リフレ理論とは「政府へ計画の権限を与えずにやるデフレ対策の理屈」であるから、リフレ理論が横行してしまうと長期戦略においても「政府からの権限の剥奪」であるところの「規制緩和」の方へ理が付くのは、当然予測しうる成り行きだった。

 ちなみに、リフレ理論に傾きさえしなければ、第三の矢が「通産省的産業政策」によって政府の指導力を強める方向へ向かう可能性もあったのです。その証拠に、2012年の総選挙で唯一「第三の矢」について明言されていた麻生氏は、これを「通産省による産業政策」とハッキリおっしゃっていた。勿論、今回の2014年総選挙においては、逆に第三の矢について何らお触れにならなくなりましたが。
 微細なことですが、この事でも三本の矢の経済政策が、かなり幅をもって捉えられてしまうことが分かりますでしょう。

 というより、今年「新成長戦略」とやらが出た事は記憶に新しいですが、ああやってわざわざ第三の矢というものを更新しなければならなかったこと自体、アベノミクスに後からどうとでも言える(従来の大衆理論へ逃れる事のできる)便利な性質があった事を左証しているのです。
 そして、おおよそ大衆感覚に引き戻される格好で、アベノミクスというものは小泉的な上げ潮リフレ+構造改革というものに陳腐化してしまった。


 この一事を見るだけでも大衆というものが政策を陳腐化することへ大いに貢献することが分かるでしょう。そして、この二年の「残念」な部分ははおおよそこれに類する事であった。




 それは、陳腐化しなかった政策の方が、むしろ大衆の世論に逆らってされたものであることからも分かります。
 私は第二次安倍政権の中で、特定機密保護法などは立派な法律だったと思います。しかし、これは非常に人気の出ない政策だった。
 ちなみに、仮に規制緩和に反対であっても、特定機密保護法に反対だった連中を、私は信用しません。何故なら、規制緩和とは、「政府が規制の権限を手放すこと」なのです。逆に特定機密保護は、「政府が情報規制の権限を行使すること」でしょう? 一方で、「権限を手放すな」と言っておきながら、もう一方で「権限を行使するな」と言うのは、一貫していないし、単に大衆貧乏人の都合を代弁しているだけの可能性がある。
 この相対については、「規制緩和に反対なら、特定機密保護法には賛成」というのが一貫したものの言いようというものですよ。
 よって、逆接的ですが、特定機密保護法が陳腐化しなかったのは、大衆に逆らったから、と言えるわけです。

 対して、集団的自衛権の行使容認などは、軍隊というものを「国民の生命と財産を守る」という所へ押し留めておこうとする大衆の都合に引きずられ、至極陳腐化してしまった。むしろ「文化圏の独立を守る」という意味での自衛については、戦後レジーム的な所へ後退してしまったといっていいくらいであります。



 さて、ここで私が何を言いたいかの結論を出します。
 つまり、今の問題とは、やはり「大衆」の問題の延長線上にあって、政策の陳腐化は、「大衆迎合」や「政府の大衆化」にあるわけです。すると、選挙による「選択」でこれを解決することは、理論上不可能だということになる。何故なら、選挙を「選択的」にするということは、大衆の力を借りるということだったのですから。
 要は、そもそも諸悪の根元が大衆多数人にあるのに、多数派大衆のゴキゲンを伺う選挙でこれが是正されるはずはないのです。

 ですから私は、はなっから選挙なんてものに一切これっぽっちの期待もかけていなかったし、今も「多数」ということを何らの根拠として認めたりはできないのです。
 今必要なのは、「それぞれ1の意思を持った一億人」という論理ではなく、「千の意思を持った少数」の論理なのですから。
 そして、千の意思を持つ少数にナショナリズムと貴族的責任精神(ノブレス・オブリージュ)があるならば、その意思の方こそ「国民の意思」と呼ぶに相応しいはずなのであります。
 もし、選挙というものに思う所があるとすれば、そうした高貴なる千の意思を持った代表者が一人でも二人でも(大衆の目を盗んで)議席を獲得していたら良いなあ……という願いくらいなのです。


(了)





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【第4回】永遠のゼロに見える現代大衆人の都合(前章ー4:日本的人間交際(ソサイエティ)の領域) 






【前章ー4:日本的人間交際(ソサイエティ)の領域】

(※ネタバレ注意)

 前項で、明治以降の日本文明は、外発的開化による「近代模型的組織」と「日本的人間交際」の軋轢や矛盾を縫合し、接ぎ木しながら進んできたということを述べました。また、このことは、外発的開化の矛盾を解消せんとするはずの軍隊組織についても同様であることも述べました。
 つまり、日本の近代軍隊組織の中にも、「近代模型的組織」の部分と「日本的人間交際」の部分があったはずなのです。



 さて、このことを踏まえた上で、『永遠のゼロ』のように、結果論による徹底した司令部批判をもってすればどういうことになってしまうか。
 それは究極的に、組織における諸個人を制限できるのは「近代模型的組織」の合理的部分だけである、というような話になってしまうのです。
 そもそも、一貫して後知恵の、徹底して結果論による軍司令部の戦略批判では、どこまでも合理的な事が言えます。しかし、そのような合理性は、組織を形作る個々人と巨大な近代的軍隊組織との連関すら合理的に成され得るという前提の上でしか成り立ちません。
 そしてこの場合、「組織を形作る個々人と巨大な近代軍隊組織との連関の合理性」とは「アメリカ的人間交際」のことであると、暗黙のうちに前提されてしまうのです。



 ここで、先に述べた7章の姉弟の会話をもう少し詳しくみてみましょう。
 たとえば、

「当時の海軍について調べてみると。あることに気がついたのよ。それは日本海軍の人事は基本的に海軍兵学校の席次――ハンモックナンバーって言うらしいけど、それがものを言うってこと」
「卒業成績が一生を決めるってことだね」
「そう。つまり試験の優等生がそのまま出世していくのよ。今の官僚と同じね。(――以下略)」

(『永遠のゼロ』 第七章 狂気 p.368)



 などで、海軍における発言力がペーパーテストに依居していたことへの批判が強調されている。
 とりあえず言っておくと、これに付随した『永遠のゼロ』のテーマはほとんど中学生級の作文レベルの組織批判であります。と、いうのも、(私とてペーパー・テストなんぞクソったれだと思いますが、)近代軍隊組織や官僚組織といった巨大な模型的組織を形成する際(いや、遡れば律令制の昔から)、ペーパーテストに頼らざるをえない部分はどうしてもあるに決まっているからです。
 ただ、『永遠のゼロ』とて、さすがにこの程度の反論は織り込み済みらしく、同じように近代軍隊組織を形成していたはずの(つまり、ペーパーテストに頼る部分があったはずの)アメリカ軍を引き合いに出して、こう言ってもいる。

「アメリカはどうなの?」
「そこまでは詳しく調べてないけど、出世に関してはアメリカも同じみたいね。海軍大学の卒業次席が大きくものを言う。ただしそれはあくまで平時の場合で、いざ戦争になったら、戦闘の指揮に優れた人物が抜擢されるらしいの。(――以下略)」

(『永遠のゼロ』 第七章 狂気 p.369)



 なるほど、確かに『永遠のゼロ』全体でも、アメリカ軍というものはそのように描かれている。
 つまり、個々人の競争による評価がなされるような「アメリカ的人間交際」は近代組織を柔軟に運用していた、と。対して、没個的な「日本的人間交際」は近代組織を硬直的にしか運用できていなかったので、テストだけできて愚かな輩が威張るはめになって実践的な戦争ができず兵隊はいっぱい犠牲になった……という話になっているのです。

 しかし、これにしたって実に幼稚な理屈ですよ。

 まず、「戦闘の指揮に優れた人物が抜擢される」といったって、ならばそれを抜擢する人物を抜擢するのには一体どんな体系があったというのでしょうか。そりゃあ勝った方の軍の「抜擢された人物」のほうが、結果的に「戦闘の指揮に優れていた」ということになっているのは当然のことであって、それで日本的人間交際よりアメリカ的人間交際のほうが柔軟性があったみたいな言われ方をしても、納得がいきません。

 また、何を言っても、我々は日本人なのです。日本人が「アメリカ的人間交際」を範としてしまえば、これはもうおしまいでしょう? 何故なら、「アメリカ的人間交際」をやったらばアメリカが一番すごいに決まっているのであり、さすれば日本がアメリカをやっつける日の来る可能性は永遠に0ということになってしまうではありませんか!
 先に述べたように、日本において近代的模型的組織は外発的開化によって発展したかもしれませんが、人間交際の方にまで外発的開化を延長させてしまっては元も子もないのです。そうやって、どんどんどんどん外発的開化の領域を拡張して出来上がるのは、良いところアメリカのレプリカなのですから。そして、アメリカのレプリカがアメリカを倒す事はできないのです。アメリカのレプリカは、いいとこアメリカのサーヴァントと成り下がって、時間制限付きの平和と飽食を享受することくらいしかできないでしょう。

 もし仮に、我々日本人の人間交際が封建的で、犬儒的で、恥の文化的で、没個的で、それが近代的模型的組織を硬直的にしか運用できていなかったのだとしても、我々は日本的人間交際の上でしか生きて行けないし、日本的人間交際にこだわるべきなのです。何故なら、これは運命と呼ぶべきものだからです。我々のできることは、「日本的人間交際の中にありながらそれを内発的に発達させ、近代模型的組織を使いこなそうと志向すること」なのであって、「近代模型的組織に合致するような人間交際を目指すこと」ではないのであります。

 また、没個的な日本的人間交際が、大東亜戦争においてすべてマイナスにしか作用しなかったという見解はあまりにステレオタイプ過ぎはしまいか。
 例えば、『永遠のゼロ』は大東亜戦争で良しとされるような部分……つまり、真珠湾以来の航空機で戦艦を沈める「艦爆」「艦攻」といった戦法の独創性や、零戦の性能などの功を、おおよそパイロットや技術者の「根性」に集約しています。つまり、大東亜戦争における良き部分についてだけは「一人一人が頑張ったから」という話にしてしまっているのです。
 しかし、もしかしたらこれは日本的人間交際の中にこうした独創的戦法を成しうるある種の実践性があったことを示している……のかもしれないでしょう? たとえば、桶狭間の信長のような戦国武士の実践性が、大東亜戦争時においても日本的人間交際の中に残されていたから、かもしれないのです。
 そうした日本的人間交際の功を旧日本軍組織の方にも認めるならば、一見没個的で、権威主義的で、硬直的に見える日本的人間交際の中にも、「良き」ところを見いだせる。というか、そもそもこれだけ永く愉快な歴史と伝統をもった文明の人間交際に、独創性や柔軟性がないはずはないのです。
 さすれば、その良き部分の方を発達せしめようとする志向も生まれてくるはず。しかし、それを『永遠のゼロ』のように、大東亜戦争の「良き」部分だけはパイロットや技術者の個々人の「頑張り」に押し止めてしまえば、日本的人間交際にはおおよそ悪しき部分しかなかったという話になってしまうのです。



 負けた戦争の反省というのは本当に難しいものです。
 なるほど、近頃では「反戦としての反省」や「自虐史観からの反省」などのサヨク的な反省が責め立てられてはいる。朝日新聞の謝罪等の出来事も記憶に新しい事でしょう。これを便宜的に「朝日新聞的な戦争の反省」と呼んでおきましょうか。
 そうした「朝日新聞的な戦争の反省」がナンセンスであることは異論なしです。朝日新聞がどうしようもないというのは諸手を挙げて賛成ですよ。
 が、そうした「朝日新聞的な戦争の反省……への反発」の大部分は、単にそれが「日本人一人一人のDNA的民族性を、スゴいと思う事を邪魔する反省」だから責め立てているだけなのかもしれません。
 事実、「朝日新聞的な戦争の反省」を責め立てる者でも、民族性礼賛の都合を邪魔しない反省……つまり、「政治家や司令部や軍組織による不合理的抑圧が、戦争を負けに導いてしまった」とか「そうした上からの抑圧に唯々諾々と従う日本的封建性が不合理を助長した」とか「近代的自我が欠如していた」とかいう反省については、嬉々としてやってみせるではありませんか。それは、「日本人一人一人は頑張り屋さんなのである」という自愛的民族性礼賛を邪魔しない反省だから、反省しても腹は痛まないというわけです。

 しかも、その反省の根拠はおおよそ、「負け」という結果を根拠にしているに過ぎない。そうした輩の多くは逆に、日清・日露など勝った戦争については結果論として合理性を強調し、民族性礼賛の根拠とするのです。
 こういった種類の歴史観を、俗に「司馬史観」といいますでしょう。司馬遼太郎の『坂上の雲』をはじめとする歴史小説に見える歴史観のことです。
 結局のところ『永遠のゼロ』も、司馬史観を踏襲してしまっているわけです。しかも、より単純化され、純粋化されて。
 そして、司馬史観的な歴史観こそ、戦後日本における歴史観の癌なのです。



 結果論の戦略批判は、結果論ゆえに合理の明瞭なる範囲が過大に見積もられがちです。また、近代的組織を活用する主体は、結局のところ人間交際なのであり、またそうした人間交際は文明の歴史的共通感覚の上でしか活用されえないということも忘れられがちになります。何故なら、結果論の合理性は、軍隊組織における人間交際の現実性など度外視にして考えられるからこそ楽しめてしまうものだからです。それは、あたかもファミコンゲームのごとく。

 勿論、そうした種類の戦争の反省から、日本的人間交際の「発達」の必要性が論じられるならば、その範囲においてのみ肯定されるべきなのかもしれません。
 しかし、それは日本的人間交際の発達の議論が先にあって、「その発達をもって近代合理性を使いこなしてみせる」という志向から起きなければなりません。逆に、これで「近代合理性に合致するような人間交際」みたいなものが求められては絶対にダメなのです。繰り返しますが、それでは人間交際における「日本的」なるものを排除していくことが光の指し示す方向であるかのような進歩主義に陥ってしまう。また、戦後においてその光はアメリカ的人間交際のことであると無意識的に捉えられていたわけであります。

 そう。これは、そうした転化の起こりやすい、非常に微細な議論なのです。ましてや、『永遠のゼロ』のように終始乱暴で一方的な軍隊組織批判を繰り返していたら、物語の筋は「近代合理性に合致するような人間交際」を求めるよう筆が向いていくのはほぼ必定なのであります。



 頭の良い人間は、そうした小賢しい結果論の反省によって、「だから日本的人間交際は合理性に合致しない」という進歩主義的組織観に陥っていきがちです。それならば、戦争の反省など一切しないバカの方が百倍マシなのです。

 むしろ、我々が本当に反省しなければならないのは「戦争」ではなく「戦争の反省」の方ではありませんか?
 進歩主義的組織観に陥るような結果論的反省は、戦後一様に蔓延し、平成に至るやこれは常識化され、平成の諸改革というものを引き起こしてしまった。
 我々は、「戦争の反省」というものを真摯に反省し、「平成の諸改革という過ちは繰り返しません」と銘肝すべきなのです。


 さらに言えば、「日本的人間交際の発達」についての議論も、別に「戦争の反省」から行われる必要などないかもしれないのです。
 確かに、日本的人間交際にはある種の愚鈍さがあることも認めます。しかし、それは「平成」の歴史を反省しさえすれば充分事足りることなのです。平成日本人の人間交際は、どう考えても当時より議論力不足で愚鈍なのですから。


(前章「永遠のゼロに見える平成の諸改革」おわり)
※後章「特攻について」へ続く

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【第3回】永遠のゼロに見える現代大衆人の都合(前章ー3:日本文明における近代的軍隊組織) 






【前章ー3:日本文明における近代的軍隊組織】

 ここで少し、日本文明にとって軍隊組織というものが、そもそもどういうものであったかを掘り下げてみましょう。
 ここで言う軍隊組織とは、明治以降のいわゆる近代的な軍隊組織のことです。



 ですから、まず、「近代」という言葉を解釈する必要があります。ここでは西部邁流を引いて、「近代」を「モダン・エイジ」という英語の方で捉えてみましょう。
 モダンという言葉は「モード(流行)」と「モデル(模型)」という語の派生語で、つまり「社会や組織の模型化が流行として蔓延る時代」という語感が含まれているのです。
 社会、組織の模型化は、なるほど大規模な分業と協業を可能にし、大量の熱量を発揮することができる。しかし、それが模型化である以上、その熱量のベクトルが必ずしもよい方向へ向かうとは限りません。と言うのも、模型化とはいわば単純化であり、人間は意外と結構に複雑なものだからです。
 ですから西洋人……とりわけヨーロッパ人におけるほんとうの近代(モダン・エイジ)は、近代を純粋化して進歩せしめようとする「ウルトラ・モダン」と、近代を懐疑し前近代を引用しようとする「プレ・モダン」のせめぎ合いの中にあった。
 要するに、「モダン」(模型化の流行)とは、産みの親である西洋人においてですら諸刃の剣だったのです。



 さて、日本文明においてこうした問題はさらに深刻なものとなります。
 そもそも、日本において近代的な枠組み(モダン)と言うのは、何の為に導入されたものだったでしょうか。結論から言えば、それは軍事力の為です。
 明治以来、あらゆる旧習を捨て、人々の(特に武士階級と農民階級の)慣習や信仰を蔑ろにしてまで、議会制度や官僚制度、工業都市化、封建的身分組織の解体、はたまた民法、資本主義貨幣経済や自由貿易に至るまでを導入し続けた唯一の「大義」は、その模型化による熱量と、国内では生産不可な科学と物質を輸入することによって、「軍事的パワー」を得る事にあった。これだけは確かであり、他にモダンなどという厄介極まりないものを引き受ける理由などあるはずもないのです。

 そして、何故、軍事力を高める必要があったかというと、これはまことに奇妙な事に、日本の文化圏(天下)を近代(モダン)の猛威から守る為であった。
 つまり、近代(モダン)を拒否するために、日本を近代(モダン)化せねばならなかったという、錯綜がまずあったわけです。




 具体的に言うと、まず、我々日本文明は、徳川時代末期に「西洋文明」と本格的に対峙することになりました。これは西洋の造船技術の発達によって地球が狭くなったからです。これを「グローバル化」と言い換えるも可でしょう。そして、地球が狭くなればより強い暴力をもった国と弱い国が相対することになる。
 この場合、弱い方は日本であり、日本は「強制的な自由貿易および経済の自由化」による「自生的な産業、文化、信仰」の危機に直面しました。この危機は、外人が「模型化」の急激かつ純粋なるを「暴力」を背景として強制的に推し進め、彼らの短期的便益にしするよう改変しようとするベクトルからきています。

 そこで我々は、せめてその「模型化」の速度と色合いを、強い中央政府組織によって何事か内的にコントロールしながら、軍事的対抗力をつけなければならないという話になったのです。
 もっとも私は、将軍や武士階級の権威を完全に放逐する形での倒幕、明治維新といういわゆる「ご一新」に偽善や欺瞞を感じる者の一人ですが、仮にああいう形でなくとも、日本文明圏に強い中央政府体制が必要であったことは確かだったはずです。強い中央政府体制とは、戦国乱世の結果としての幕藩体制ではなく、日本文明を束ね(ファッショ)する中央集権的模型のことであります。これ以外に、日本文明の連綿性を外圧から保全する手だてはなかったのですから。(そして、それは現在もまったく同じです)




 その後、明治維新という「ファッショ(束ね)」は、対西洋として西洋から吸収する技術と制度……という意味での開化を一定成功させたように見えました。日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ち、第一次世界大戦にも勝ち、その日本の「模型」は一流とすら言えるものとなったわけです。
 しかし、その技術と制度の発達は、日本文明における人間交際の発達と共に歴史的段階を踏んで成されたわけではありません。モダンを産んだ文明はヨーロッパであり、日本文明は外圧に対する必要性にかられて模型を移植したに過ぎないのですから。故に、「模型化の単純性」と「そこにいる人間の複雑性」というものの解離は、より深刻なものであったわけです。

 夏目漱石は『現代日本の文明開化』という名講演で、こうした日本の近代化を「外発的開化」と呼びました。いわく、日本の外発的開化は、平均値として人や人々に楽や享楽を与えはしたけれど、反面、人の心や人々の交際には解離と苦しみを強いることになった、と分析しているのです。
 げに軽薄なる現代人達はおおむね「一般庶民が、近代的生活様式や近代的自我を獲得することとなるはじめの光」として、開国や開化というものを解釈していますけれど、私はそんな見解はクソッタレだと思うし、漱石の言っている事の方がほんとうだと思います。大衆や市民などという無機質な諸個人ではなく、歴史的に続いてきた土地(ネイション)の生活の中にある「ナショナルな民」の安寧を考えれば、開国、近代的生活様式、近代的自我などという外発的開化など迷惑千万な話であるはずなのです。何故なら我々は人間であり、生まれ落ちた場における人間交際があり、信仰があり、主観性があり、心があるからです。また、仮にむしろ民のほうが開化をより「選好」していたとしても、「選好」と「民の安寧」は別問題です。何故なら、選好は人の主観性を必ずしも体現しないし、ましてや心の安寧を保証したりはしないからです。

 もっとも先に述べたように、いかに迷惑千万なものであろうと、近代を引き受けなければならない外的な状況があるからこその「外発的開化」ではある。ですから、漱石は、この問題に「解決の希望はない」ということを堂々と言ってのけ、日本人というものを心底気の毒がっているのです。この絶望にこそ、どうか注目していただきたい。

 つまり、一方で、パワーの問題としても、近代の不可遡の観点からも、我々が外発的開化から逃れる術はない。いくら内発的開花を志向しても、厳然と外圧というものがあり、地球は狭くなっているのですから。
 また一方で、もし「ならばいっそのこと西洋人になってしまえばどうか」という考えに至ったとしても、日本人は絶対に西洋人にはなれない。ちょっと西洋人っぽく(現代で言えばアメリカ人っぽく、グローバル人材っぽく)ふるまってみたところで、街を歩くすべての日本人の容姿は黄色い猿のごとく滑稽で醜いのです。女性はまだしも、日本男性の容姿の酷さといったらない。鼻梁はハッキリせず、足は冗談のように短く、体格そのものも貧弱です。そして、あちらにひときわ目付きの悪い猿がいたかと思えば、それはビルのガラスに映った自分自身であったりするわけであります。外面ですらここまで違うのだから、内面についてはさらなり。

 つまり漱石が日本人を気の毒がっているのは、日本人としてしか存在しようがない日本人達が、日本人でありながら極めて不自然に近代(モダン)を引き受けなければならないという運命に対してなのであります。

 また、二百年弱の日本史の中で、大東亜戦争はこの運命的ジレンマが最も赤裸々に表出した事象だ、とも言えます。
 と、いうのも、大東亜戦争は一方で幕末以来の対・西洋近代……つまり外発的開化に終止符を打つという「近代の超克」戦争の意味合いが色濃くあった。だって、相手は米、英ですから、これを打ち倒すことが出来れば、幕末以来のパワーの問題が劇的に解消され、ジレンマは相当程度解消されるはずでしょう。つまり大東亜戦争は、開国以来の百年単位で見た「文明の自衛」としての戦争であったと言う事もできるのです。

 ちなみに、この百年単位の文明の自衛を大義として認めないならば、大東亜戦争を「自衛戦争」と呼ぶ根拠などないのです。
 よく「大東亜戦争は自衛であった」という言が主に保守派から聞かれます。が、もし「自衛」の意味を、現代人が前提としているような「日本人の生命と財産を守る」という意味での自衛と考えるなら、大東亜戦争は自衛戦争などではないのです。
 だって、もし自衛の意味を「日本人の生命と財産を守る」ということと見るなら、「ハルノートを受け入れて大陸から撤退すべきだった」というサヨクの理屈に一理も二理もあるということになる。少なくとも、結果的にはその方が「日本人の生命と財産」は守られていたかもしれないでしょう。その意味でサヨクには一貫性というものだけはある。
 しかし、ハルノートが受諾不可であったのは、それまでの経緯というものがあり、百年単位の「文明の自衛」の為には受け入れられぬものであったからです。つまり、大東亜戦争を「自衛戦争」と言う時、その「自衛」は「日本人の生命と財産を守る」という意味での自衛ではありえない。
 というより三島由紀夫が言う通り、そもそも軍隊の建軍の大義とは、自衛隊にせよ帝国陸海軍にせよ、天皇を中心とした「文化圏」を守るというところにある。「日本人の生命と財産を守る」という所に大義はないのです。そこのところ勘違いしてもらっては困ります。むしろ逆で、軍隊とは「日本人の生命と財産によって、日本文化圏を守る手段」なのです。
 そして、「自衛」というのも本来そうした意味でしかあり得ないし、大東亜戦争の「自衛」もそうした百年単位の文明の自衛という所にあった。


 しかし、もう一方で、その文明の自衛の手段として用いている軍隊とは、「近代(モダン)」の最も粋なるものだという現実もあった。
 つまり、大東亜戦争とは、百年単位で見た近代の超克戦争の様相があったが、その手だてたる軍隊組織そのものの中にも外発的開化による「近代模型的組織」と「日本人の心や人間交際」との軋轢という問題を一定程度抱えざるをえなかったはずなのであります。

 さすれば、現代の我々は、文明が百年単位で抱えてきた「モダン」と「日本人」の軋轢を見るようにして、軍隊組織の「モダン」と「日本人」を見なければならないはずです。


(つづく)



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【第2回】永遠のゼロに見える現代大衆人の都合(前章ー2:軍隊組織へ適用された行政改革的組織破壊理論) 






【前章ー2:軍隊組織へ適用された行政改革的組織破壊理論】

(※ネタバレ注意)

 そもそも、戦争はファミコンゲームとは違うのですから、「軍略」の一方で「軍略を運営する組織」の問題が常にセットとして胚胎します。

 これは当然、『永遠のゼロ』でも同じです。「戦略の糾弾」と「組織の糾弾」は連なって提示されている。そして、『永遠のゼロ』の最も問題なのは、その「組織の糾弾」の仕方なのです。というより、戦略の結果論的糾弾が問題なのは、それが安易なる組織の糾弾を許してしまうから、と言った方がよいでしょう。

 私からすると、『永遠のゼロ』のこうした乱暴さは、平成におけるいわゆる「改革」の禍々しき精神が爛々と映じているように見えるのです。ここでいう「改革」とは、とりわけ行政改革、政治制度改革、郵政改革、構造改革……といった平成になって以降次々と断行され、そして次々と失敗していった諸改革のことであります。
 つまり、こうした現代の「改革」を喜ぶような大衆の心映えが、大東亜戦争や旧日本軍に対しての解釈まで延長されれば、ちょうど『永遠のゼロ』のようなものになるということ。


 このことが最も象徴的に表されているのは、七章の後半における姉弟の会話です。
 そこを全部引用するわけにはいきませんから、筋をまとめてみますとこうなります。


1「一般兵や下士官は、軍司令部の愚かさの犠牲になった」

2「軍司令部の愚かさの所以は、軍組織の硬直的な『官僚的』体質にあり、穿った見方(?)をすれば、軍略が無能な上層部の出世競争の具にされていた」
(※永遠のゼロで言う「官僚的」というのは、「ムラ社会的」くらいの意味で使っている節がある)

3「そうした官僚的、ムラ社会的体質と、没個的な体質が、軍隊における能力による評価を阻害していた」

4「アメリカの軍隊にも階級の厳しさはあったが、そちらには武功の競争によって個が能力を発揮できるような柔軟性があった」

5「日本という国は昔っから組織の体質は最悪であるが、名もない一般の人々はいつも頑張っていた。組織の体質に足を引っ張られながらも、そうした人たちの頑張りによって日本という国はやってこれたのである」


 と、七章後半でされるこのような姉弟の会話の筋が、話全体における扇の要となっているわけであります。
(というのも、お話が登場人物たちの「語り」で進行していく構造上、必然、聞き手である姉弟の総括がテーマの骨格となっているのです。そして、作中でこの姉弟が出した1つの大きな結論がこの会話なわけです。尚、この七章後半部については後にもまた取り上げます)


 つまり、何の事はない。
 『永遠のゼロ』は、行政改革の請求で官僚組織をバッシングするように、軍隊組織をバッシングしているに過ぎない作品なのです。
 行政改革とは、90年代後半から00年前半に実行され、そして大失敗をしながらも未だに根強い人気のある愚かな「改革話」のひとつです。
 これは要するに、「日本の政治は高級官僚の手に握られていて、その官僚組織は硬直的でエリート主義で民主的ではなく、穿った見方をすれば政策論が出世競争の具にされて合理的ではないので、官僚組織から権限を剥奪して広く民衆へ解放せねばならない」といった調子の改革話であります。そして、一時的に大衆の熱狂的人気を勝ち取った「維新の会」「民主党」「小泉純一郎」などなどは、左右を問わず(マニフェストから石原慎太郎に至るまで)「悪しき官僚から権限を剥奪する」という幼稚園級の理屈を述べ、そしてその度に喝采を受けてきたわけであります。もちろん、名前だけは「政治主導」(民主党)ですとか「船中八策」(日本維新の党)といったように張り替えられて提示されはするのですけれど。
 こうした現代の官僚バッシングの場合は「まるで旧日本軍のようだ」と言って中傷が行われるわけですが、『永遠のゼロ』の場合は「まるで官僚のようだ」と言って旧日本軍への中傷が行われている。


 ここで問題なのは、こうした類いのバッシングが、常に「旧来的な組織構造の性質」そのものを排除していこうとする、進歩主義的な組織破壊の志向へ走って行く所にあります。
 その証拠に、こうした「組織の体質への改革的志向」は、軍隊組織や官僚へ対してに限った事ではありませんでした。とりわけ軍隊組織のように官僚組織がバッシングされ、官僚組織のように公共事業が、土建産業が、郵政事業が、族議員が、政治家の派閥が、地方が、農産業が、労働組合が……バッシングされてきたわけです。 この志向が延長された果てには、およそ1億が大衆に放逐されるという、ワケのわからない話になってくる。というのも、官僚バッシングの場合は農業従事者は「下士官」であるが、農産業バッシングの場合は農業従事者は「海軍」ということになるからです。おそらく貴方も、今は大衆平均人として「下士官」側にいられているかもしれませんが、いつかは「海軍」役のお鉢が回ってくることでしょうよ。

 大衆は、結果や現状に不満があると、どこかに悪いヤツ等がいると考えます。穿った見方をすれば、「自分はこんなに頑張っているから悪いはずはない。全体が上手くいかないのは他のどこかに悪いヤツらがいるからだ」と思うわけです。そして、悪いヤツらが悪いヤツら的に存在していられる「組織の体質」の方を抜本的にぶっ壊せば、自分達の「頑張り」はもっと報われているはずなのに……と結論付ける。
 なるほど、こうした精神の持ち主達が戦争を振り返るとつまりこうなる。「一般の日本人ひとりひとりは真面目で道徳的な民族性をもっていたはずなのに、たくさん人が死に、戦争にも負けたからには、どこかに悪いヤツがいたはずだ」と。そして、そういう悪いヤツが悪いヤツ的にいられたのは、組織の旧来的体質が悪かったからだ、という話になる。まさに瓜二つの論理であります。

 さて、その上で、この場合の「組織の悪い体質」というものの説明には、おおよそ「日本的旧来性」が用いられてきたことに注意しましょう。最も分かりやすいのが、「日本的経営はよろしくない」といったような流行り言葉で、そうした日本の旧来性を引き継いだ組織運営を「不合理な既得権」と見なし、この不合理を「改革」によって排除すれば合理的進歩が実現されるはずだ……という考えこそ、平成の「改革」の根本精神なのです。(そして、私がこの世界で最も気にくわない精神がこれなのです)

 また、そうした「組織の日本的旧来性」を「悪しきもの」として否定するのに、常に「旧日本軍の軍隊組織の否定」が引き合いに出されて来たことも忘れてはなりません。(例えば、ルース・ベネディクトの『菊と刀』などが引用されて)
 言い方を変えると、ある種の「戦争の反省」は「平成の諸改革」に連なるのです。
 いや。というより、戦後、日本人は阿呆のように毎年毎年八月には戦争を反省し、黄色い猿のようにアメリカをお手本にしてきたのでありますが、平成に至るにこれがごく純粋化、単純化され、常識にまで昇華されて、結果として平成という改革による没落の時代が来るべくして来た、と言った方が的確なのでしょう。



 ……この種類のことを言うと、「それでは、組織の日本的旧来性というものに対しては何ら批判が許されないのか?」と問われることが多いです。
 勿論、これに対する正当な批判というものもありうるでしょう。
 しかし、逆に不当な批判というものもありうるのです。そして、私が言いたいのは、大衆支配の元では「組織の日本的旧来性に対する不当な批判」が社会的にごく容認されやすくなっているということであり、『永遠のゼロ』をその証拠として提出しているのであります。

 その上で、この「組織の中の日本」というものについて、議論が必要であることについては全力で認めます。また、漸進的な発達の必要なことも認めます。とは言え、こうした見極めは、あらゆる場合において非常に難しいのが常ですが……
 よって、少し遠回りにはなりますが、一旦「近代軍隊組織」や「大東亜戦争」とはそももどういった経緯の上にあったかを論じ、せめてその腑分けによって、永遠のゼロ的ではない「組織観」も考えうるということを提示してみたいと思います。

(つづく)
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【第1回】永遠のゼロに見える現代大衆人の都合(前章ー1:上層部に対する結果論的不寛容) 






前章 永遠のゼロに見える平成の諸改革



【前章ー1:上層部に対する結果論的不寛容】

(※ネタバレ注意)

 私のはじめての『永遠のゼロ』経験は、この映画化が話題になるやいなやといったような時期に、これを本屋でペラペラと立ち読みをした時でありました。
 そこで私は、以下の登場人物の台詞などが目に入って、非常に不愉快な気分になり、本を閉じたのです。


「でも戦争は祖父に生きることを許さなかったのですね」
「戦争じゃないわ」
 姉が鋭く言った。
「おじいさんは海軍に殺されたのよ」
 武田は頷いた。
「あなたのおっしゃるように、あの人を殺したのは海軍かもしれません」

(『永遠のゼロ』第九章 カミカゼアタック p.451)




(※アメリカのスミソニアン博物館に桜花が「バカボム」と名付けられ、吊るされていたことの語りで)
「BAKA――BOMB、すなわちバカ爆弾です。私は夫婦夫妻が隣にいるにもかかわらず、声を上げて泣きました。悔しくて、情けなくて――いくら泣いても涙が止まりませんでした。しかし本当のところは、『BAKA』そのものずばりだったのです。すべての特攻作戦そのものが、狂った軍隊が考えた史上最大の『バカ作戦』だったのです。しかしそれだけで泣いたのではありません。そんなバカな作戦で死んでいった高橋たちが、ただただ、哀れで、哀れで、涙が止まらなかったのです」
(『永遠のゼロ』第8章 桜花 p.408,409)




「日本って、何て国なの?」
 その問いには答えようがなかった。姉も答えを期待して言ったわけではないだろう。僕は言った。
「軍隊や一部の官僚のことを知ると暗い気持ちになるけど、名もない人たちはいつも一生懸命頑張っている。この国はそんな人たちで支えられているんだと思う。あの戦争も、兵や下士官は本当によく戦ったと思う。戦争でよく戦うことがいいことなのかどうかは別にして、彼らは自分の任務を全うした」
(『永遠のゼロ』第7章 狂気 p.374)




 私は、文字を眺める気がしなくなり、本屋を出ました。
 それ以来、二度と開くまいと思っていたのですが、これを論じるにあたっては誤解があるといけないので、この度リキを入れて読み返してみました。
 すると、以前のファースト・インプレッションには何の誤解もなく、やはり最低の内容であることに確信が持てたというわけです。

 さて、この小説。右翼だ保守だと噂されていたらしいですが、よく読んでみるとそうした方向でプラスイメージで描写されているのは、主に零戦をはじめとした兵器の性能であったり、パイロットの腕であったり、航空戦の駆け引きであったりで、いわば単なる軍事オタク的な領域のみでしょう?
 その反面、政府や軍部といった上層部については殆ど疑わしきは罰せよといった体であります。

 例えば、「三章、真珠湾」の伊藤がこのような事をカタっています。


「そうです。我々は、宣戦布告と同時に真珠湾を攻撃すると聞かされてきました。しかしそうはならなかったのです。理由はワシントンの日本大使館職員が宣戦布告の暗号をタイプするのに手間取り、それをアメリカ国務長官に手交するのが遅れたからですが、その原因というのが、前日に大使館職員たちが送別会か何かのパーティーで夜遅くまで飲んで、そのために当日の出勤に遅れたからだといいます」
「そうなのですか」
「一部の大使館職員のために我々が『だまし討ち』のレッテルを着せられたのです。いや、日本民族そのものが『卑怯きわまりない国民』というレッテルを貼られたのです。我々は、宣戦布告と同時に真珠湾を攻撃すると聞かされていました。それが、こんなことに――これほど悔しいことはありません」
(『永遠のゼロ』第3章 真珠湾 p.92)




 私は必ずしも「真珠湾はアメリカの罠だった」というような陰謀論的なものを完全に信じる者ではありません。が、真珠湾の宣戦布告については種々の議論があることは皆さんご承知のところでしょう?
 確かに、大使が直前夜にパーティーへ出席していたことは事実らしいですが、「このことがパイロットの奮闘を台無しにした」みたいな言いぶりは、果たして正当なのでしょうか。

 また、そもそも、「宣戦布告が遅れた」というだけでこれを異常にギャーギャー喚きたてたアメリカ政府には、計画的にせよそうでないにせよ自国の世論を好戦的せしめる恣意があったことは明白でしょう。
 そりゃあハーグ条約の開戦に関する条約はありましたがこれは事実上国際的に死文化していたし、あの状況、あの経緯で攻撃を受けたからとて真珠湾を「騙し打ち」と騒ぐアメリカの方がキチガイなのです。その証拠に、宣戦布告を遅らせるとはなっから予定していたマレー沖海戦に、イギリスは大した文句はつけていないのですよ。

 『永遠のゼロ』での言い方ですと、まるで「政府高官のくだらない怠惰が、零戦パイロットの奮闘を台無しにした。まったく日本という国は、いつも上層部は愚かな奴等ばかりで、マジメな現場人はワリを喰って酷いもんだ」というような書きぶりではありませんか。そのうえ、(このことに限りませんが)アメリカ側についての文句は一つも無いのです。
 そりゃあ、とにかく政府高官が悪くてバカだったということにしちまえば色々と都合が良いでしょうよ。当時の政府官僚を悪者にしても現代人は誰も怒らないし、アメリカの方を非難しないままでパイロットの仕事の方だけは擁護できるというわけでありますから。

 しかし、私はこういう卑怯こそ一番腹が立つのです!

 このように、『永遠のゼロ』では、一方で兵器や前線の兵士の能力だけは軍事オタク的に賛美しておきながら、もう一方で「政府が悪かった」「軍の官僚的体質が悪かった」「軍の精神主義が悪かった」などなどの部分をとにかく多く見積る態度が目に着き過ぎる。 特に、軍司令部や軍組織、政治家や官僚などの上層部に対しては、ほとんど駄々のように文句をつけ続け、人間扱いしていない始末。
(※もしそれが、そのことで前線兵の名誉だけは守ろうという志向からくるものでもダメなもんはダメです。詳しくは後章でまた述べますが、そんな誤魔化しではひとつ掘り下げてみると前線兵の名誉だって守れていないことになるのです。)



 そして、そうした態度は現代の大衆の都合に徹頭徹尾迎合した姿勢であるとも言えます。
 まず、大衆日本人は、「旧日本軍人が強かった」と言われる事を、実は好みます。現に、世の中を見渡せば、やれオリンピックだワールドカップだといってキチガイのごとく大騒ぎをし、勝てば乱チキ騒ぎ、負ければ戦犯探しに没頭するではありませんか。野球少年がWBCに、サッカー少年がWCに熱中するというならまだしも、多くの割合そうではないでしょう。
 つまり、日本人は「俺たち日本は凄いのだ」という低俗な民族性礼賛が大好きなのです。スポーツですらそうなのだから、いわんや戦争をや。

 しかし現在、旧日本軍の強さの方は広く礼賛されている風でもないのは、戦争の場合は現代大衆人にとってのネックが二つあるからです。
 一つ目は、そんなことを言っていて、自分が戦争に駆り出されたらたまらない……と思っていやがるということ。
 二つ目は、アメリカとの戦争を主導した当時の政府を肯定すると、現在アメリカとアメリカ的大衆社会に徹底して屈服している今の自分達の状態を否定せねばならなくなる……ということ。

 この二つのネックを解消して日本軍人や兵器の強さだけを切り取ってもてはやすのに、「政府が悪かった」「軍の官僚的体質が悪かった」「軍の精神主義が悪かった」 はたまた「朝日新聞を中心としたマスコミが悪かった」というのは、非常に便利なのです。また、これによって二つのネックさえ解消されていれば、「日本軍人のスゴさ」を強調されるのは、大衆にとって悦楽と感じられるのであります。
 というのも、戦争の主体性がすべて「悪たる政府や軍組織」にあり、一般の兵士はただ目の前の戦闘に没頭していただけである……という前提を取れば、その兵士や兵器の優秀さだけ切り取って褒め称えながらも、日本の国が現在進行形でアメリカに対して因縁のあることを認めずに済むし、現在の政府に対しても「絶対に戦争へ巻き込まないで、徴兵もしない」という事を請求し続けていられるからです。

 とどのつまり、アメリカとアメリカ的大衆社会に屈服して時間制限的な飽食の残滓を享受している現代を否定することなく、一般国民の徴兵や戦争協力を否定し続けられる論理の上であれば、大衆は嬉々として旧日本軍人のスゴさを礼賛するのであります。

 勿論、当時の軍組織や政府やマスコミに悪いところがなかったは言いません。戦争全体を神視点で俯瞰して、戦略的な反省をする意義も認めます。『永遠のゼロ』で言われているような軍組織批判も半分は当たっているのでしょう。
 さらに、私は日本に「戦争責任」や「開戦責任」などは絶対に無いと考えますが、統治者の「敗戦責任」だけはあるとは考えます。敗残の将は、いかなる場合においても「負けた」という一事をもって揃って腹をかっ捌くべきなのです。 ですから、そうした意味で上層部と一般兵とでは純然たる責任の差というものはある。

 しかし、今の自分達の都合の為に、当時の政府や軍上層部へ過剰に責任をなすりつける仕方は、徹底的に排除し、放逐されなければなりません。
 この現代大衆人の都合の良さを許してはならないのです。何故なら、上で述べた民主主義的多数派現代人における二つのネックは、基本的に無視されるべきものだからです。

 戦略を振り返るにしても、そのせいで兵士を犠牲にした責任を見積り、兵士を「可哀想な犠牲者」に仕立てあげようとする姿勢が出る時点で、単なる結果論に堕する危険性がある。結果論の理想論を語れば、そこで見積もられる犠牲分は青天上であり、この膨大な見積り分を回避する事を請求されては、現代の政府はいかなる場合でも戦争や徴兵を決断することができなくなってしまう。
 というより、現代大衆人は、一般の旧日本軍人を「可哀想な犠牲者」と見立てれば見立てるほど、いま現在で「戦争」や「徴兵」と「アメリカへのチャレンジ」を拒否する理屈を積み上げるのに都合がよい事をほぼ無意識的に察知しているのです。
 逆に言うと、現代の大衆人が「政府からの自由」と「アメリカニズムの受容」を肯定する為には、旧日本軍は悪者だということにせねばならない。が、一般兵士だけは「可哀想な犠牲者」として捉えておけば、その技量や強さだけを切り離して褒め称える事ができる。これならば一方で、旧日本軍のあり方そのものは悪しきものと結論付けることができるのであり、その結論付けさえあれば現代の日本人が「政府からの自由」と「アメリカニズムの受容」を肯定するのに十分というわけであります。
 『永遠のゼロ』に限らず、現代大衆人の大東亜戦争観には、おおよそこのような都合が張り巡らされているのです。というのも、大東亜戦争の見方は、「現代の日本社会をどう見て、どうしていくべきか」という見方と思想的に直結するからです。

(つづく)
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【第0回】永遠のゼロに見える現代大衆人の都合 

【序】
 お久しぶりです。

 今回から、おそらく8回(本エントリを合わせると9回)に渡ると思いますが、『永遠のゼロ』という少し前に流行った大衆小説を論じたいと思います。
 ちなみに、更新を滞らせていたのは、このことを書いているうちに何万字にもなってしまったからなのです。実に8月からこればかり書いてきました。とは言え、いい加減キリがないし、ようやく全体の纏まりを付けることもできたので、この度、順次載せていこうとしている次第であります。

 もっとも、『永遠のゼロ』だなんて、論じるにも少々時代遅れな感はあります。が、ここで論じたいのは『永遠のゼロ』そのものというよりは、『永遠のゼロ』に見える「大衆の都合」の方なのです。つまり、平成という無脊椎の時代に一貫してある問題を論ずるのに、 『永遠のゼロ』のテクストを便宜的に用いてみようという試みです。

 とは言え昨今は、衆議院解散により翌月総選挙が実施されようという情勢です。
 ですが……いや、だからこそ、日本文明や平成という時代が抱える諸問題の方を改めて掘り下げてみる必要があります。でなければ選挙は、アイドルグループのそれのような単なる人気投票に堕してしまいます。そして、少なくとも平成の御代の「小選挙区制」の下では、この傾向が加速度的に増してきてしまった。
 そのような選挙の投票率がいくら上がろうとも、好転が生まれないばかりか、状況はますます混迷を極めるはずなのです。
 これは当たり前で、我々が政治家の問題だと思っているそれは、実は政治家を支配している「大衆」の軽薄さ、ガキっぽさの問題だからです。現状、政治の実権を握っているのは「大衆の都合」であり、彼らの「駄々」に媚びなければ政治家として選挙に勝てないでしょう。
 現代日本の政治を支配しているのは、そうした大衆の都合のよさ、欲情、ガキっぽさであり、また、そのことは甚だ狡猾に理屈やセンチメンタリズムで隠蔽されていたりする。

 なれば、我々日本民族がその時々の状況に何事かの一貫性をもってあたるためは、「世」の中から「大衆の都合のよさ」や「都合のいい保守っぽさ」を駆除し尽くす事が、絶対に必要だと言う他ない。
 大衆の都合を排斥し、燃やし、排除する……このことによって、大衆人の理屈を論理的に封殺し、「黙らす」ということをせねばならないのです。
 大衆というものが黙って、その発言権を放棄しさえすえば、少なくとも各少数者達のせめぎ合いに発展できる。その結果、良き少数者達が勝利をおさめるかは分からないけれど、最低でも「多数派の意見」よりは十倍マシなものになるはずです。

 私としては、その目論見の一つとして、大衆の都合が赤裸々に映じている『永遠のゼロ』を批評しようと思っているわけです。
 ですから、大衆の都合に徹底的に媚びたこの小説を、どちらかと言えば批判的に論じていきます。



 尚、『永遠のゼロ』というと映画から大ヒットになったらしいですが、ここでは便宜上、小説の方を基準とします。多くの場合、映画の方が批判的に論じられると「原作を読め」という反発が返って来がちのように見受けるからです。
 また、『永遠のゼロ』はその構造上、ほとんどのテクストが「語り」ですから、何を指摘しようと、「それは、その登場人物の意見として提示されているに過ぎない」といった種類の反論が来ることが予見されます。ですがそれですと、この小説に対する批評は「感動した、泣いた、面白かった」とか「よく調べられていた」とか、そういう小学生級の読書感想文的なものしか許されないことになってしまいます。
 語りの構造であっても、曲がりなりにも小説を名乗っている以上、そのテクストには筋があり、テーマがあり、テーゼがあります。よって、語りの部分を引用しはしますが、私が批判的に論じたいのは、その筋やテーマやテーゼでありますので、その点ご理解いただきたく存じます。


 さて、論の構成ですが、ここでは、論を「前章」と「後章」にわけます。
 前章は『永遠のゼロに見える平成の諸改革』と題し、文明論的なことをやります。
 後章は『特攻について』と題し、特攻論をやります。


 底本は、『永遠の0』百田尚樹著、講談社文庫出版、2009年7月15日第一刷発行の47刷版です。
 本論内で、「」(ー章、ーページ)と記述する場合は、底本を意味します。





・目次


第0回 序 (※本エントリ)


【前章:永遠のゼロに見える平成の諸改革】

第1回 前章ー1:上層部に対する結果論的不寛容 (※ 更新済)

第2回 前章ー2:軍隊組織へ適用された行政改革的組織破壊理論 ( ※更新済)

第3回 前章ー3:日本文明における近代的軍隊組織 ( ※更新済)

第4回 前章ー4:日本的人間交際(ソサイエティ)の領域 
( ※更新済)


【後章:永遠のゼロと特攻隊】

第5回 後章―1 永遠のゼロに見える現代大衆人に都合のいい特攻解釈 (※更新済)

第6回 後章ー2 国家と家族 (※更新済)

第7回 後章―3 特攻隊の英雄たるゆえん (※未)

第8回 後章―4 特攻と葉隠 (※未)
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Janre: 政治・経済

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