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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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【イメージVideo】「やめておこう 都構想」 

 


 ものは試しで、一応こんなん作ってみました。




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橋下徹の大阪都構想に見える土木産業バッシング精神 




 そもそも、日本の土木建築産業は、「公共当局」と「ゼネコン」と「下請け」の有機的連関によって発展してきました。
 有機的連関などと言うと小難しく聞こえますが、ここで言う「有機的連関」はそれぞれの組織と組織との間で「既得権益」「コネ」「シガラミ」を産み出し、産業における長期的な人間交際を組み上げていく……という一種の日本的経営のことを指しています。

 しかし、この産業における「既得権益」「コネ」「シガラミ」を徹底的に嫌い抜いたのが平成の大衆であり、「改革」の精神だったわけです。その大衆も、ふと一人一人の個人に振り返ってみれば、大切なものの多くを「既得権益」「コネ」「シガラミ」の人間交際の中に抱いているにもかかわらず。

 とりわけ、公共当局……つまり、「政府」を産業から追いたてるという方向性は「改革」と名を付けられ、あらゆる方面で繰り返し焼直しがされてきました。

 例えば土木建築産業では、「政府」が保護を加えているから「ゼネコン」や「下請け」の間でコネやシガラミが出来、それが自由競争の妨げをしている、と糾弾されてきたわけです。(もっとも、この場合の「自由競争の妨げ」というのは、単によそから見た者が「政府のひいきだ」と隣の家の芝の青さを妬む心を代弁しているに過ぎないのですが)

 しかし、そもそも「政府」「ゼネコン」「下請け」の有機的連関によって営まれていた産業から、「政府」だけがフェードアウトしてしまうとどうなるか。
 ここでは詳しい話は省きますが、例えばこうなります。

ゼネコンが自らの手で招いた「建設業の衰退」外国人を入れても職人不足は解消に向かわず


 つまり、産業の中の社会(人間交際)がバランスを失い、不和を生じ、「短期的利益の競争」が「長期的公益」を棄損することになるのです。
 これは、次の一点だけ理解ができれば、当然の話です。すなわち、

「政府の組織も、産業の有機的人間交際の一部である」

 ということが。


 さて、橋下徹という人が、平成の大衆人の下衆な魂を、見事に体現した存在であることも、この一事によって解釈することができます。
 つまり、橋下徹や愚昧なる橋下徹ファン(大衆)は、「政府の組織を、今の自分を成り立たせている社会の一部だと換算していない」のです。誰しもが何らかの産業に属しているわけですけど、その産業が、今の政府の状態を組み込んで成立しているという領域を無視しうると前提している。
 ですから、政府のあり方を、行政の単位を、骨組みから解体しても今の自分は変わらないと思っていやがるわけです。

 しかし、そんなわけはありません。
 地つながりですよ。
 いや、むしろ、政府の有機的組織を土台として、産業などのあらゆる有機的組織もまた成り立っている。


 大阪の大衆人達は、今の自分達が、今の政府組織からまったく超然して成り立っていると思っていやがる。
 いや、さすがに大阪の人々のそれぞれは、そこまで稚拙で傲慢な考え方を自発的にするとは思いませんが、誰かがそういう稚拙で傲慢な考えを大きな声で叫ぶと、何となく気持ちが良くなって、何となくそれで良いんじゃないかという気持ちになってくる。
 つまり、橋下徹は、
「今の大阪が上手くいっていないのは、あなたのせいではなく、政府が悪いからなんですよ」
 として、
「だから、政府を懲らしめて、新しく理想的な政府のあり方を設計すれば、日頃のあなたの努力も苦労も、もっと報われるでしょう」
 と大衆人に媚び尽くしているわけです。

 そりゃあ気持ち良くなって、橋下徹と聞けばパブロフの犬のように涎を垂らすような大衆人が大量にわいてくるのも、もっともな事であります。


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【読感文】「西部邁の経済思想入門」 




 今日は、『西部邁の経済思想入門』というご本を取り上げさせていただきます。

 この本は、西部邁氏が、西洋における経済思想の歴史を概説してくれている本です。出版は放送大学。私のような素人にも取っ付きやすく、それでいて本質を失わない、丁寧なまとめがされている素晴らしいご本です。


 肝は、経済における「思想(前提とする考え方)」の「歴史」というところにあります。
 ともすると経済(学)は、その経済学的「理論」のようなものを突き詰めて行けば、社会の純粋型、平均型としては整合する……と誤解されていることが多いように思われます。つまり、経済を、物理学のように数理的に理論化すれば、合理のみに基づく「指針」を示すことができるのだ、というイメージです。
 しかし、経済は、人間の主観性や社会(人間交際)の中に埋め込まれてあるものなのですから、「経済学」の物理学的理論で普遍的な解釈がまとまるものではありません。いかなる理論も、必ずその理論の前提となる「思想」と絡み合う形で提示されているのです。

 しかし、「思想」といった人文系の領域は、必然的に数値的精緻さを失います。そうなると例えば、「経済についての前提、倫理はこれこれこうあるべきだ」といったような「べき論」を、基準やアタリのようなもの持たずに論じあっても「それは彼の考えだ、だが私の考えはこうだ」みたいに相対化されてしまいがちでしょう。すると、結局のところその時々の「多数」の思想が勝利をおさめることとなってしまい、経済理論の前提となる思想も単なる多数の雰囲気の代弁者に惰することになる。しかもそれは、「数値」という権威だけは付与されているわけで、余計にタチが悪い。

 ですから、思想の領域には特に、「思想の歴史」というものを基準やアタリとして用い、相対主義を可能な限り排す必要があります。また、ここまで西洋近代(モダン)を呑み込んでしまった我々は、経済についても西洋の経済思想の流れ、経緯が無視できないし、無視できるとすることがかえって一面的なウルトラ・モダンに走る要因にもなっている。

 その「西洋経済思想史」を捉えるために一番良いのは、おそらくアダムスミスやマルクス、リカードやマルサス、ケインズやハイエクといった時代を代表するような経済思想家の原典を読みこなし、自分なりの「経済思想史の系譜」を構築することでしょう。
 しかし、それはいわば達人の所業であり、一朝一夕で出来ることではありません。
 また、例えばケインズの『一般理論』を読むにしても、ケインズがどのような経緯の上でそのようなことを言いたくなったのか、という流れのイメージがなければ、中々苦しいものがあります。また、素人が(翻訳された)文面を目で撫で、少しかじった程度では、変な誤解をしてそれを思い込んでしまう危険性もある。

 ですので、素人がまずその流れのイメージをつける為には、「経済思想史の系譜の構築」からして、まずはその道の達人の概説を参照しておくのが無難です。
 ひとまず達人の概説によって西洋経済思想の歴史の流れの全体像を掴み、それから一つづつ原典にあたって、頭の中で肉付けをして行けばいいのではないか、と思うわけです。少しカンニングめいていて気が引けますけれどね。

 ともあれ、そうした達人による概説として『西部邁の経済思想入門』は掛け値なしに良著です。

 また、この書は、同じく西部氏の『ソシオエコノミクス』を読みとく補助教材としても役に立ちます。『ソシオエコノミクス』の読書感想文も、また書けたらいいなと思います。


 
西部邁の経済思想入門 (放送大学叢書)
 




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【日記】インフルエンザについての雑談 




 私の回りで、風邪が流行っています。特にインフルエンザが流行っているようで、付近の中学校では学級閉鎖がでているらしい。

 そういえば、第一次世界大戦でもっとも人を殺したのはインフルエンザだという話を聞いたことがあります。

 もし、そのインフルエンザウィルスが、当時の殺傷力を保っていたのであれば、人間は滅びていたかもしれません。ですが人間が滅びますとそのインフルエンザウィルスの生き場もなくなるわけです。だから、ウィルスは、あまり大量に人間を殺してしまわないように進化します。
 つまり、我々は一面、インフルエンザウィルスによって家畜のように飼われているとも言えるのでしょう。
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いわゆる「自由と民主主義の価値観外交」の欺瞞 





 私がイスラミックステイトによる日本人人質事件について最も気にくわないのは、大衆が政府の対応について「ああしろ、こうしろ」と請求することそのものについてです。
 そもそも事件の対応そのものについては、普通の人には情報が明らかにされていないし、明かにされるべきでもないのですから、いかなる請求も糾弾も大半は憶測がベースにされることとなる。そして、そのような憶測で政府へ口を出してよいと考えられていること自体、大衆平均人の傲慢というものなのです。
 つまり、情報の機密性が不可欠である以上、事件対応そのものについては政府の判断でやる他ないのであって、現在進行形の中で大衆が(自己責任論にせよ、生命尊重論にせよ)何か申し立てていい権限はないのです。
 よって、この領域にかんして大衆は黙っていなければならない。



 しかし、情報を獲得するべきではない非政府の人々……特に言論人は、この件にかんして何ひとつ言うべきことはないのかといえばそんなことはありません。
 分かられている明瞭な事の中で、また、もっと本質的なところで、言論人、知識人が議論すべきことがあるはずです。

 それは、くどく言うようですが、「大義」のことです。

 そもそも、日本の国がイスラミックステイトと敵対することとなった引き金は、安倍首相が「イスラミックステイトの脅威を食い止めるため」と演説をして、ヨルダン政府へ2億ドルの財政支援を発表したことでした。
 この事自体は別にコトの象徴であるわけですが、そのような財政支援が必要であったこと、また、それが敵対と見なされたことに注目すれば、次のことが分かるはずです。

 すなわち、 
「自由と民主主義というフヘン的カチをキョーユーする国々による集団安全保障的軍事圏にあること」(=地球儀を俯瞰した価値観外交)
 が、イスラミックステイトとの対立要因の全てだということです。

 要するに、別に我々日本は我々の信義に基づいて「ヨルダン政府への2億ドル支援とイスラミックステイトへの批判」という敵対行為に至ったわけではありませんね。自由と民主主義という意味不明な価値観に従属して集団安全保障を実現させようとしているから、イスラミックステイトへの敵対行為(あるいは、敵対している風体を醸すこと)に至ったわけです。そうしていないと、「自由と民主主義の軍事圏」としての立場が保てないから。

 さらに、政府がそういう立場を保っておかなければならなかったのは、その時々に生きている日本人が、せめて自分達が生きている間だけは徴兵も核武装もされずに「自由と民主主義という価値」を前提とすることによってその軍事圏に属し、生命と財産が比較的容易に守られる状態を延長しろ……と、長年大衆平均人が当然のごとく暗にし続けてきた請求に、応えておくためでしょう。


 日本は、そんな婢俗で猥褻な大衆の請求を実現するためだけに、
「自由と民主主義というフヘン的カチをキョーユーする国々による集団安全保障的軍事圏にあること」(=地球儀を俯瞰した価値観外交)
 とやらを無様に、無制限に受け入れ続けて来て、そのことによって今、本来関係のないイスラミックステイトと敵対しているわけです。



 さて、ここまで考えると、(政府のありうべき態度はまた別の話として置いておいても)少なくとも今回のことについて、日本側に百パーセントの大義があるなどとは言えなくなってくる。

 何故なら、「自由と民主主義」はフヘン的なカチじゃないし、そもそも日本の国は別に「自由と民主主義という価値の共有」なんて無関係なのです。それが関係してくるのは、ほぼ、その軍事圏へ加えておいてもらうという媚びへつらいの範囲の中においてのことなのですから。

 また、根元的にステイツというものは、国際法ではなく、ネイションの歴史性や大義を基盤としてはじめて正当性が付与されるのであるとすれば、イスラミックステイトを単なる暴力組織として換算することはできません。暴力などということを言えば、全ての国家は、その国家組織のうちの何割かが暴力で構成されているのです。法律とて同じで、暴力を背景としない法律などありえない。
 ただ、その暴力を下支えする歴史や大義の有無が、国家や法律の正統性の有無を決定付けているという所が肝なのであります。そして、「自由と民主主義」にそんな超国境的な歴史や大義なんてないのです。




 我々はイスラミックステイトとの衝突によって、
「自由と民主主義というフヘン的カチをキョーユーする国々による集団安全保障的軍事圏にあること」(=地球儀を俯瞰した価値観外交)
 の欺瞞性、偽善性、不完全性を嗅ぎとらなければならないはずなのです。
 何故なら、この「1億の生命と財産の効率的保全の理屈(価値観外交)」の上では、「日本」という暴力体系は際の際で大義と正統性を手中にすることができないからです。

 こんな単純なことが分かられていない以上、いくらこのことで改憲の必要性を説いた所で、その議論から出てくる憲法論も 「1億の生命と財産の効率的保全の理屈」を基準としたものになってしまうでしょう。
 さすれば、また、その時々の刹那的脅威(例えばソ連、中国)から単にその時々の大衆の生命を守るために、長期的脅威(アメリカ)に対してはズルズルと取り込まれるような……つまり「日米同盟」を基軸とした憲法論しか出てこないに決まっているのです。



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【日記】橋下徹と「大阪都構想」 

 どうやら、大阪都構想を唾棄するということが、日本の問題を考えるにも構えとしてかなり重要なことのようであります。


 これは、大まかには「大衆」の愚劣さの問題であり、「改革」の浅はかな姿勢の問題です。
 間違いなく、平成の世に日本をここまで凋落、没落させてきたのはありとあらゆる「改革」であります。また、その改革の気分を推し進めたのは間違えなく「大衆」でした。政治権力は大衆の傀儡とされ、常に「組織解体の改革(過ち)」が執行されたわけです。それが実際にことごとく失敗しても、ことごとくその失敗は忘れさられた。それもそのはず、そもそも誰も何も本気で言っていなかったからです。
 ですが、本気でない、軽いノリでも、積もれば多数なのです。そして、現代社会の支配者は「多数」であるらしいので、結論は「本気でない軽いノリ」=「組織解体の改革」が採択される事になる。
 その上、「民意」や「世論」といった美しき羽衣を羽織ってすらいるから、さらに厄介です。


 橋下徹が、大衆迎合の天才……つまり、人間のもっとも劣悪な精神であるところの「本気ではない多数の軽いノリ」に迎合する天才であることは間違いありません。
 すると、橋下徹が正しいことを言ったりやったりする可能性は無いということになる。何故なら、大衆が正しい事を言ったりやったりすることは無いからです。

 すると、その「大阪大衆」と「大衆迎合の天才」の無価値な蜜月の向かう先は、「組織解体の改革」に決まっている。
 この場合、「組織解体の改革」は「大阪都構想」という名で下品な意匠が凝らされているというまでのこと。
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イスラミックステイトと人質と一億 



 私は、小学生の頃だったか、教員が「人命の尊重」みたいな話をするのを聞いて、こんなことを考えた覚えがあります。
 すなわち、ある勢力が「日本国民」を人質にとって日本政府にお金を請求した場合……というような空想を。

 この空想の説明では仮に、ある勢力が日本人の人質2人をとって日本政府に対して2億ドルほど請求してきたとしましょう。
 このとき、「人命の尊重」を基準に考えようとすると、利害は真っ二つに割れるはずです。
 二つとはつまり、2人対1億人です。

 尚、「力ずくで人質を奪還して身代金を払わない」ということと「身代金を払ってなお人質が殺される」という可能性においては、相手の能力や気持ちに左右されるものだから不確定なものとして据え置くとします。
 もっとこの時点で明らかなことだけを考えてみる。すると、「金を払った場合」、「払わなかった場合」で明らかにこうは言えるのです。

・金を払った場合
「2人の命が救われる可能性は高くなり、1億人が今後命の危険に曝される可能性が高くなる」

・金を払わなかった場合
「2人の命が救われる可能性は低くなり、1億人が今後命の危険に曝される可能性は低くなる」

 人質を取られて身代金を請求された時点で、これだけは誰の目から見ても明瞭なことです。

 ですので、「生命の尊重が大事である」といったような話はもっともなことではあるが、「ある生命の尊重」と「別の生命の尊重」との間でジレンマが生じる場合がありうる。つまり、その時点の可能性の段階では、「一億の生命」と「人質の生命」の両方を尊重する振る舞いはできないということ。どちらかをとれば、どちらかが毀損される。
 そうなると、生命の尊重以上の価値基準……大義のようなものがどこかに存在していなければならない。


 さらに、小学生の時の私はこんなようなことも考えたと記憶しております。

 すなわち、この場合もし、国民のすべてが道徳のようなものを考えず、「生命の尊重」という掛け声も実のところ「(自分の)生命の尊重」というものを想定して言われているだけなのだとしたら、どうなるかと。
 それは単に、人質の2人は「払え」と念じ、残りの1億人は「払うな」と政府へ請求することになってしまう。こんな醜いことはありません。

 ですから逆にこうも考えました。道徳の次元から考えれば、人質2人は「金を払うな」と念ずるべきだし、一億人は「払え」と請求するべきである、と。つまり道徳の次元では、人質の2人は一億の命を尊重すべきだし、人質ではない一億は人質の二人の命を尊重すべきなのです。






 こんな話を書いているうちに気づきましたが、そういえば今、イスラミックステイトが日本人二人を拘束して2億ドルを請求しているそうじゃないですか。
 そして、人質ではない一億人はおおむね「テロに屈するな(払うな)」という雰囲気でいるようですね。

 勿論、上で言った空想は小学生の考えですから、実際は、 政府は金を払ってはいけないのですよ? 
 しかしそれは政府のあるべき振る舞いであって、人質ではない一億人のあるべき論調ではないのです。

 とりわけ、知識人を気取った連中が、簡単に「テロに屈してはならない」みたいなことをいうのには、本当に腹が立ちます。
 何故ならそれは、「テロに屈しない(払わない)方が、人質ではない一億の今後の生命の危険度が下がる」というところに向けての多数派(人質ではない1億)への媚びの部分が容易に見てとれるからです。
 もし、その知識人が人質だったとしたら、彼は同じように「テロに屈してはならない、払うな」と念じるでしょうか。ほとんど念じやしないのです。

 繰り返しますが、政府は身代金を払ってはいけないのですよ。
 しかし、「人質ではない一億の今後の生命の危険度を下げる」ということを考えているに過ぎない多数派が、それを「テロに屈してはならない」といって脚色する偽善的空気には吐き気がする。
 我々は、こうした板挟み状態にあっては、(自分の)生命のことばかりではなく、もっと道徳や大義のことを考えるべきなのです。


 また、日本政府とイスラミックステイトとの間のことも、単にテロだ卑怯だ暴力だと騒ぐだけではなく、大義のことが考えられているべきです。そして、大義を「中庸」と言い換えれば、中庸を欠いたのは果たしてイスラミックステイトだけかという疑問も浮かんでくる。
 もしかしたら日本はずいぶん前から、最も効率よく「今生きている国民の生命と財産」を守ろうとするあまり、「自由と民主主義というフヘン的なカチをキョウユーする国々による集団自衛」に偏って、中庸を欠いてきたのではないでしょうか。
 もし私がイスラミックステイトなら、そんな自由と民主主義に偏った連中に「中庸」を諭されたら激怒する他ないですよ。


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【第7回】永遠のゼロに見える現代大衆人の都合 (後章3―特攻隊の英雄たる所以) 




【後章3―特攻隊の英雄たる所以】

※ネタバレ注意

 前回、『永遠のゼロ』の家族愛の偽善性を見ることによって、現代大衆人は「道徳や規範」というものの感覚が既に融解していて、むしろ「卑俗」が「道徳」とみなされるようにすらなってしまっていることを指摘しました。
 これは、単に現代人が不道徳であるというような生易しい問題ではありません。不道徳が不道徳として礼賛されている内はまだマシで、事は「身体的具体性に終始した卑俗をむしろ道徳とみなしてしまう」という所まできている。
 つまり、かつては「歴史や信仰とつながりを持った上等な階級の振る舞い」が少なくとも「道徳の基準」とみなされていたのに、現代では「平均人の単なる身体的具体性の礼賛」がむしろ道徳とみなされてしまっているのです。ここでは、これを「平成における道徳の価値反転現象」と呼びましょう。
 この「平成における道徳の価値反転現象」は、いわゆる「世俗化」と呼ばれるものの髄で、「歴史や宗教から下ろされる抽象」を不合理とし、「身近な具体的身体性」を合理として、後者を道徳の次元にまで昇華してしまう現象と言い換えることもできます。近代(モダン)というものは「世俗化」を当然引き起こすものだとは言え、この徹底した世俗化は「現代」というものが(とりわけ日本では特に)単なる「ウルトラ・モダン」として「進歩」してきてしまった証拠でもある。

 ところで、この世俗化による「道徳の価値反転現象」を起こした大衆が、テロ(恐怖)とみなすものは何でありましょう?
 それは勿論、「身近な具体的身体性」よりも、「歴史や宗教から下ろされる抽象」に重きを置く人種ということになります。要は、道徳的に死ぬ……という赤穂浪士的な行動基準を持った、例えば特攻隊や9.11自爆テロのような。
 ちなみに、これは特に『永遠のゼロ』だけに限りませんが、「特攻隊は9.11自爆テロと違う」というような小賢しい言説が特にホシュ派から聞かれますけれど、それは単なる都合の良い欺瞞です。しかも、色々と都合の織り交ざった最低レベルの欺瞞です。
 そりゃあ全く同じものと言うつもりはありませんが、特攻は9.11自爆テロと大きく類似した所があります。絶対にあります。それは、「身近な具体的身体性」と「歴史や宗教から下ろされる抽象」の間で縫合不可な葛藤が生まれた時、後者を優先させたという最上級の道徳的振る舞い(テロ)においてです。
 これは注意して欲しいのですが、「身近な具体的身体性」と「歴史や宗教から下ろされる抽象」の間では、亀裂と葛藤が生じることがありえます。故に、後者へこだわるということは、その亀裂や葛藤が最終局面に至った場合の「運命的暴力」や「運命的自死」を前提とすることでもある。そのような暴力精神は、人間の本来性からすれば「道徳」とみなされるものでありました。
 しかし、徹底した世俗化によって道徳の反転現象を起こした現代人の主観からすると、それは「テロ」なわけです。現代大衆人は、「身体的具体性」よりも「歴史や宗教から下される抽象」を優先させる人間のありようそのものに「恐怖」を覚えるのです。
 ですから、現代大衆人にとっては9.11も、特攻隊も、2.26事件も、203高地も、三島由紀夫の割腹自殺も、赤穂四十七士もすべて「テロ」と呼んでいて正解なのでしょう。その意味で、『永遠のゼロ』の中で言えば、悪役のサヨク的記者高山の方がまだ正しいのです。だって、テロをテロと呼ぶところに少なくとも一貫性だけはあるじゃあないですか。
 特攻は徹底的に世俗化された者からすればテロ(恐怖)に違いないですよ。その意味で、特攻は9.11と重なる部分がある……というか、9.11に特攻と重なる部分があるわけです。そして、それを道徳とする共同体は「テロ国家」であり、日本は誇り高きテロ国家であった。
 ただ、この場合の「テロ」の意味は、「具体的身体性よりも、歴史や宗教から下される抽象にこだわって死ぬ暴力」のことですから、道徳の反転現象を起こす前の人間にとっては最上級の道徳なわけです。


 さて、この「テロ(最上級の道徳)」を、素直に特攻隊のものとして考える為には、当時の人々の「具体的身体性」と「歴史や宗教から下ろされる抽象」の間の亀裂と葛藤を解釈してみる必要がありそうです。要は、大東亜戦争当時の人々の「戦争観」についての解釈です。
 まず、本論前章の3にて、大東亜戦争の大義を「日本人の生命と財産の自衛」ではなく「百年スパンの文明の自衛」と解釈したそれを思い出してください。言い換えると、それは「ナショナリズム戦争」ということですから、(すべてとは行かないまでも)当時も多くの国民の内の中にあった感覚であったとも言える。つまり、この「百年スパンの文明の自衛戦争」という大義は、何も単に私が後付けでそう言ってみせているだけの話ではなく、当時の人々の「私」の領域にとっても無視できない大義であり、皮膚感覚であったに違いないということ。
 事実、1930年代とは、近代(モダン)や資本主義やグローバリズムがもたらす亀裂と鬱屈に、人々がたまらなく滅入っていた時期でもある。つまり、国境を越えて動き回る金融資本の不安定さと資本主義の行き詰まりに国民統制経済への大転換が、また、モダニズムによる疎外の絶望に精神的な「国民」への統合が求められていた時期なのです。
 これは、先に引用した、漱石の言う外発的開化による「近代(モダン)」と「日本人の心と人間交際」との乖離による日本人の潜在的絶望が最終局面に向かった時期、と言い換えてもいいでしょう。そもそも、そうしたモダンと心の乖離も、「楽」と「享楽」が実現されているあいだは何とかごまかせるものですが、パワーの問題や資本主義の行き詰まりの問題によって「楽」や「享楽」さえも実現されている風でなくなってくると、近代(モダン)への反発は大々的に表面化してくるに決まっているのです。すると、人々が「日本の心と人間交際」に価値と歴史的正統性を想うようになり、日本の世界観からできるだけ近代(モダン)を排除しようと思うようになるのも当然です。
 要するに大東亜戦争前夜とは、一般国民の心の前面においてもナショナリズムの時節であった。
 そして、大東亜戦争とは、(他にも参戦国はあったが主に)そうした日本のナショナリズムとアメリカのナショナリズムの衝突であったが故に、「単なる物質的な国益の衝突」に留まらない、「日本の世界観とアメリカの世界観との衝突」とも言うべきものでもあったわけです。また、世界観の衝突とは歴史の衝突であり、宗教の衝突であり、道徳の衝突であるが故に、明瞭にそれぞれの「私」の心の問題でもある。

 このような世界観の衝突というような戦争で状況が切迫すれば、それぞれの「心」には果たしてどのような「戦争観」が共有されるでしょうか?

 いろんな文献から引いてくることはできるのでしょうけど、ここでは、山田風太郎の『戦中派不戦日記』というものを引いてみたいと思います。
 山田風太郎という人は、戦後に時代物の小説で人気を博した大衆作家です。これは、彼が医学部学生時代につけていた日記で、「不戦日記」は丁度終戦の年の記録にあたります。
 山田は相当の才能のあった人らしく、当時23歳という若さで戦局、政局に対する凄まじき慧眼の持ち主であったことがテクストからありありと読み取れます。ほんとうならそれを一つ一つ現代人に突き出してやりたいくらいですが、ここ強調したいのはその慧眼ではなく、人々についての描写力です。つまり、周りの日本人たちの雰囲気というものが、その日記における描写から読み取れるということ。

 まず、当時の日本人も、今の日本人と同じように流されて戦争をしているような大衆的部分があったことは確からしいです。そのことに、山田はしばしば不満を記している。つまり、口では勇ましいことが流布されているが、多くは本気で勝つつもりで言っていない、と。
 しかし、山田自身も、またその学友たちや、東京で世話になっている夫妻、叔母などなど、個々人の言説を見てみると、ごく一般の人々もだいたい以下のように思っていたことだけは確かなようですよ。



一、大本営がなんと言おうとも戦況が著しく苦しいのは誰の目にも明らかである。
(※山田は当時にあって、いわゆるこうした「大本営発表」にすら半分の寛容を示しています。現代大衆人は山田の爪の垢でも煎じて見習うべきではないでしょうか)

二、しかし、いま降伏をすれば、日本はアメリカに二度と立ち上がれなくされるのも明白である。

三、それでも、日本が「不撓不屈」の構え……つまり、五年、十年と戦い続けても屈しないというのであれば、アメリカは無際限の殺戮戦に耐えられず、どこかで絶対に音をあげる。



 山田はさらに、8月14日の未明、あと三年戦争を継続すればアメリカが音をあげると信じ、戦意の事切れかかっている国民をあと三年戦争に駆り立てる大扇動運動を行うことを学友と共に決意します。
 勿論、誰もが山田の8月14日のような凄まじい精神状態に至ったとは言いませんが、上の一から三までの事はおおよそ一般の人々にとって共通した戦争観であったようではあります。

 つまり、「滅びを覚悟で戦う」=「勝つか、日本民族全滅か」というような構えで本土決戦を決行し、相手が折れるまで死に続ける……そうしなければ日本という世界は終わる、と。

 ここで注意してもらいたいのは、「滅びを覚悟で戦う」=「勝つか、日本民族全滅か」という構えは、実のところ極めて理にかなっているという事です。
 だって、それなら理論上「負けはない」ことになるでしょう。例えば、ベトナム戦争やイラク戦争を見てください。「滅びを覚悟で戦う」というのはこの理にあるのです。
 逆に言い換えると、戦争の未来というものがその時代にある者にとって不確実であることに注意を払えば「二、いま降伏をすれば、日本はアメリカに二度と立ち上がれなくされるのも明白」という前提に立つのが当たり前であって、その前提にある以上、「勝つか、日本民族全滅か」という構えが理論上最も理にかなっていたということになる。

 勿論その理は、「日本文化圏(=世界)」を続けるというところを基準として前提した場合の理であるから、「国民の生命と財産を守る」というところを基準と前提した場合は降伏の方に理があったと言えるかもしれない。原子爆弾の脅威がありましたから。また、そういう風に考えていた庶民もいたのかもしれない。
 しかし、少なくともそんな考えは誰も「道徳」だとは思っちゃいなかったのです。この時、道徳は「滅びを覚悟で戦う」方にあった。



 そして、その前提と道徳を解釈してはじめて、「特攻隊の英雄たるゆえん」が解釈できる。

 というのも、「滅びを覚悟で戦う」=「勝つか、日本民族全滅か」という戦争を成り立たせる為には、その構えを示すために「先に死んでみせる」という事がどうしても必要なのです。それは二つの意義においてどうしても必要なのです。

 一つは、いくらこちらに「不撓不屈」の精神があろうと、その想いが相手に伝わっていなければ、相手は音を上げないからです。そうした真心を相手に伝える為には、「身体的具体性」より「歴史や宗教から下される抽象」の方を優先させるテロ精神のあることを行動で示さなければなりません。何故なら「歴史や宗教から下される抽象」を優先させて死ぬ者たちを屈服させることは誰が見ても不可能だからです。例えば、イスラミックステートを暴力によって屈服させることが不可能そうであることは、誰の目にも明らかでしょう。

 もう一つは、「勝つか、日本民族全滅か」という戦争を想起した場合、誰でも考えるのはその死ぬ順番のことであります。つまり、理論上明らかに、死ぬ順番が後の方であるなら滅びを覚悟で戦っても生き残る可能性が高いわけです。このことは誰にでも分かることですから、「滅びを覚悟で」と口にしていても皆が後の順番で死ぬことを想定することはありうる。それでは、「滅びを覚悟で」「勝つか、日本民族全滅か」ということが成り立たなくなってくるわけですから、先に死ぬほうが偉いに決まっているのです。

 少なくともこの二つの意義において「先に死んでみせる」ということは最上級の道徳であり、英雄的振る舞いになる。 
 特攻隊を「英雄」として認めるということは、当時の人々にとっても、特攻隊員自身にとってもそういうことだったのです。





 このように当時の人々の戦争観を紐解いてみると、『永遠のゼロ』にはケシカランという以前に「奇妙な点」があることが分かるでしょう?

 それは、戦争の最中にあった人たちに、「戦争が終わったら、このようになる」という想定がそれなりに立てられ得たかのように前提されていることです。
 なるほど。現代人は、戦争の結末と戦後の成り行きを妙ちくりんなサクセス・ストーリーとして思い描いていますから、どうしてもこれを一般的な「戦争後において考えられる結末」として前提しがちです。しかし、降伏、占領体制、冷戦勃発、逆コース、朝鮮戦争、吉田ドクトリン、日米安保、高度経済成長……という軽武装商人国家への移行など、どう考えても異例で、全然一般的なんかじゃないわけです。
 私としては、こうした戦後のあゆみが「良かったこと」とされていること自体気に食わないですけど、まあそれは置いておいたとしても、少なくともこの時点の人にとって予測不可、イメージ不可なヴィジョンであったことだけは確かです。勝つか、日本民族全滅か……つまり、日本という世界が終わるか、堂々たる自立を勝ち得るかという戦争観が大東亜戦争終盤であったのだから、仮に敗戦というもののイメージがあったとすれば、それは日本の廃墟であり、世界の終焉であった。
 その中で、「敗戦後の安定の」ようなものを予測し、前提するなどということは、タイム・トラベラーにしかできないのです。当たり前すぎてつまらないことのように聞こえるかもしれませんが、このことはしばしば忘れられがちなことでしょう。

 そして、その当たり前のことを踏まえれば、永遠のゼロで言う「家族を守る為と意義付ける特攻」はタイム・トラベラーの所業だということになる。
 何故なら、特攻が「自分の家族を守るため」と意義付けられるためには、特攻後の世界(日本)が家族の生命と財産の守られるような安定したものに収束していくという予測ができていなければ成り立たない。しかし、「滅びを覚悟で戦う」をイメージするにしろ「降伏」をイメージするにしろ、そんな予測が成り立つはずがない。特攻隊にそういう予測をさせる為には、予知能力かタイム・トラベルが必要なのです。

 さて、このことが詳らかになった今、もう一度この部分を見てみましょう。




「岡部さんは、どのようにして特攻を受け入れたのですか」
「受け入れた、とは?」
「特攻に際して、どのように自分の死を納得させたのですか」
「難しい問題ですな」
 岡部は腕を組んだ。
「死を受け入れるからには、その死を上回る崇高な目的がなければ出来ないと思うのです。岡部さんにとって、そのような高次な目的とは何だったのでしょうか」
 姉の質問は意外だった。もしかしたら、前もって用意していた質問かもしれなかった。
「綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、自分が死ぬことで家族を守れるなら、喜んで命を捧げようと思いました」
「死ぬことでご家族が守れると思いましたか」
 岡部は黙って姉を見つめた。
「特攻隊の死は犬死にとおっしゃりたいのですか」
「いいえ」
 姉は少し慌てたように首を振った。岡部は言った。
「少し違う話をしていいですか」
(略)

(『永遠のゼロ』 第八章 桜花 p.411,412)





 どうです!
 ひどい誤魔化しでありましょう。欺瞞でありましょう!
 同時に、この部分が『永遠のゼロ』における致命的綻びであるともいえる。

 だって、姉の、

「死ぬことでご家族が守れると思いましたか」

 という問いは、まさに的確なのです。
 タイム・トラベラーか予知能力者でなければ、特攻が「自分の死の犠牲によって家族の生命を守ること」になるかどうかなど知れないはずなのですから。

 それを、岡部はなんと言って返していますか?

「特攻隊の死は犬死にとおっしゃりたいのですか」

 と返しているのです。
(※私なら「いぬじに」は名詞ですから「犬死」として送り仮名をつけませんが、底本に「犬死に」と珍妙な送り仮名が付けられていたので、それに準拠して引用しています)

 おそろしく卑怯でしょう?
 これは、特攻が「自分の死の犠牲によって家族の生命を守ること」と意義付けられえないとするなら、特攻を「犬死に」と言っていることになるんだぞ……という脅しじゃあないですか。
 姉だけが脅されているんじゃないですよ。読者も同時に脅されているんです。そして、特攻を「犬死に」と言うわけにはいかないから、「自分の死の犠牲によって家族の生命を守ること」の理屈も飲み込んでおかなくちゃならないと思うわけであります。

 しかし、そんな脅しは、実のところ次の言葉を頭に浮かべるだけで容易に打ち破ることができるはずなんです。すなわち、

「特攻は、自分の死の犠牲によって家族の生命を守ることと意義付けられなくても、犬死なんかじゃない」

 と。

 でも、この単純なる言葉を思い浮かべるという事ができないのは、これを言ってしまうと現代人にとって極めて都合の悪い事を考えなくてはならなくなるからです。
 というのも、「特攻は、自分の死の犠牲によって家族の生命を守ることと意義付けられなくても、犬死なんかじゃない」という風に言うと、「なら、特攻隊にとってその意義はなんだ?」と自問せざるをえなくなる。

 すると、上で言ったような「特攻隊の英雄たるゆえん」を考えざるをえなくなるわけです。
 これは現代大衆人にとって都合が悪いでしょう。

 何故なら、特攻隊の「先に死んでみせる」ということの意義を認めるとなると、それは「結局本土決戦に至る前に降伏した」ことによって裏切られていると認めなければならなくなるからです。要は、先に死んでいった者たちは「勝つか、日本民族全滅か」の大前提の上で先に死んでいったのだから、それは後に生き残ったものの「不屈」を信用しているということでもある。にもかかわらず、後から死ぬはずであったものたちは結果的に「屈した」のであって、その屈したものの上に戦後が成り立ってきたばかりか、屈することの更新によって冷戦構造という時間制限付きの平和と飽食を享受して、平成にいたってはその残滓にしがみ付く為にまた屈しているわけあります。つまり、特攻隊の「先に死んだ」という英雄性を認めると、先にも述べた珍妙な戦後のサクセスストーリーがすべて裏切りの上で成り立っていたと見なさねばならなくなる。また、この裏切り性を解消しようとすると、「アメリカへの屈服」を解消しようとしなければならなくなる。これが、現代大衆人にとって都合が悪いのです。(※去年の八月の記事「英霊に対する恩義……という誤魔化し」で言いたかったことはこういう事なのです)

 勿論、こうしたことをいちいち考えて「都合が悪い」と自問する者は皆無でしょう。が、現代大衆人は、今の自分たちのあり様を肯定するためなら極めて狡猾に、無意識的に、反射的に、「特攻隊の英雄たるゆえん」を認めないで済むように、「岡部」の脅しに屈しておくわけであります。

 ですから、多少その不自然を感じても、

「少し違う話をしていいですか」

 と流されてしまえば、それがブツ切りの話題転換でも気にも留めない。




 つまり、現代大衆人は特攻隊に感謝するような素振りを見せておきながら、実のところ、「特攻隊の英雄たるゆえん」なんてどうでもいいと思っていやがるのです。今の自分たちのあり方が肯定されうる範囲においてのみ、また、そういう自愛的な理屈の上でのみ、都合よく特攻隊を用い出すことが第一のことであり全てなのです。だから、簡単に憐れんだりできるのです。

 『永遠のゼロ』とそうした大衆の狡猾な「欲情」は見事な蜜月関係が成り立っているというわけであります。




(つづく)





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【注目ブログ記事】「Tempo rubato」様 

 今日は、日頃Facebookにてお付き合いいただいているアニメーター・演出家の平松禎史さまのブログ『Tempo rubato』より。

 いつも楽しく拝見しているブログですが、最新記事が特に素晴らしかったのでご紹介申し上げます。

「アニメの話のようで、そうでもないようなそんな話」



 このように、専門人が専門人の殻に閉じ籠るのが問題である……ということは、心ある専門人にとっては皮膚感覚で捉えられているもののようです。とりわけ平松さまは常からの言説に自問と思慮のある方ですし、このエントリについては「なるほどいつも仰っていることからこのように組み立てて考えるのか」と舌を巻く思いが致しました。



 その上でさらに、「専門人が専門人の殻に閉じ籠る」ことが何故そんなに悪いことなのか、という所をさらに掘り下げて考えてみるとこういうことになります。

 すなわち、細分化された「専門」をこなすためにも、その専門と隣り合う専門との関係、はたまたその専門が全体の中でどのような視点(スペクト)を持ったものなのかという解釈がなければ、その専門すら実は成り立たない。ならば、専門人が専門の中に閉じ籠るということは、本当に隔絶して閉じ籠っているということですらないでしょう。それは実を言うと、自分の専門以外は「多数の理屈」=「平均人でありながら平均人であることの権利を当然のものとして請求する、甘ったれた坊っちゃんの持つ世界観」を所予のものと無意識に前提しているということに過ぎない。

 すると、その閉じ籠った専門人の専門からは、甘ったれた坊っちゃんの世界観を、彼の専門(スペクト)から下支えするものしか生まれないわけです。
 にもかかわらず、こうした専門人には、「専門人」という権威が備わっている。すると、甘ったれた坊っちゃんの世界観を権威付けて「大衆世論」という常に間違え続ける巨大な化け物としている中枢には、専門人がいるということになる。



 私はアニメも演出も専門外ですからエラソーなことは言えませんが、物語の意味が人間の「美しさ」「善きあり方」「真の抱き方」をその主題のうちに示唆する所にあるなら、その作り手にも「甘ったれた坊っちゃんの世界観」に取り込まれない「総合性」が必要なのだという哲学は、まことに正しいと思うわけです。




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【日記】 新財政目標、債務残高GDP比 

 新財政目標に、債務残高GDP比が折り込まれました。
 このことは、次の記事「〔焦点〕新財政目標に債務残高GDP比採用へ、成長重視の首相意向受け」のナンセンスな論調からも読み取れるように、

a、増税をしないで済む

b、国債を刷って公共投資が出来る

 という二つのベクトルへ分岐する可能性があります。
 論理上、aとbは別々にも成り立ち得ますから。

 つまり、債務残高GDP比の採用によって財政の健全化に「経済成長」が加味されるようになること自体は前提として実情を反映したものであると言えるが、ならばその「経済成長」のビジョンが違えばこのことの放つ意味も違ってくるということ。

 概ね、このことで、「経済成長を阻害するデフレ下での増税は回避すべき」という論理は都合よく受け入れられやすいでしょう。大勢にとって都合がいいからです。
 しかし、「経済成長のためには公共投資、公的需要の拡大が必要で、デフレ下ではプライマリーバランスに拘り過ぎない方が債務残高GDPの改善にしする」という筋は都合よく無視されるに決まっているのです。何故なら、大勢にとって政府がさらなる国債を刷って支出を増やすことは、おもしろくないからです。

 でも、今ほんとうに必要なのは、「増税しないこと」なんかより、「政府支出を増やして、国債を刷って、財政赤字を増やすこと」なのです。
 ですから、結局のところ政府がしなければならないのは、「大勢」の思うところに逆らうということなのです。




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【読感文】三島由紀夫「奔馬」、感想 




 今日は、ちょっと前に読んだ三島由紀夫の『奔馬』の感想を。ネタバレの問題が出ない範囲で。

 これは、豊饒の海・第二巻なので、本来一巻目の『春の雪』から読むべきだったのでしょう。けど、聞き及んでいた粗筋から一巻はすぐに読む気がしなかったのと、二巻に非常に興味が湧いたことで、邪道ながら『奔馬』から読んだというわけです。

 何と言うか、腹のそこから熱湯が込み上げてくるような読後感でした。というのも、主人公の飯沼勲に「特攻隊」を見たからです。逆に言うと、特攻隊の心映えはきっと飯沼勲のようだったに違いないのです。

 それで私はこう思いました。現代人が、特攻隊の瞼の裏にも昇ったであろう日輪を疑って彼らを「可哀想な特攻隊」扱いするのは、ちょうど飯沼勲が警察からアカのように拷問されなかったのを痛切に不本意と思ったがごとく、特攻隊にとっては不本意であるにちがいない、と。

 でも私、勲の容貌は『潮騒』の新治のイメージで読んでいたんですよね。新治のような生活の純朴さと、勲のような暴力の純朴さは、どこか繋がって表裏一体のもののように思われます。

 ちなみに、鬼頭槇子のイメージは『愛の渇き』の悦子でした。
 三島由紀夫の作品によくでてくる、ただ生きるということが凄まじく辛そうな美女って耽美ですけどゾッとしますね。


奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)





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【日記】週刊誌シャルリエブトとテロとデモ 

 普通バカだと思うでしょう。

「仏紙、事件後初の風刺画をどう思う?」


 でもおそらく、こういう風に言う輩も出てくるのででしょうから、これを単なる「他文化の価値の尊重」の話に集約しすぎるのも注意が必要です。
 すなわち、

「イスラムの価値観も尊重しなければならないし、週刊紙シャルリエブトはケシカランけど、テロ(暴力)への反対の運動やデモの方は、それ自体としては間違っていないはずだ」

 というような。

 つまり、私が気になるのは、「他文化の尊重のし合いが、暴力を無くしうる」という前提は人間性の楽観だということ。
 勿論、「まったく尊重しあえない」などというのも非現実的な話ですが、「まったく尊重しあえる」という前提も非現実的です。
 すると、人間は暴力から逃れられないし、逃れるべきでもないということになる。

 それでもまだ暴力をシャット・アウトしようとするなら、それは「価値観の価値」の方が低く見積もられることとなるでしょう。何故なら論理上、「価値観の価値」が低く見積もられれば見積もられるほど、「暴力の価値」も低く見積もることができてしまうからです。


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【注目ブログ記事】「WJF」様 

 WJFというブログがありますね。
 そこで最近書かれている「グローバリズムと神道」という連載は意欲作です。

初回
「グローバリズムと神道(1)」
http://wondrousjapanforever.blog.fc2.com/blog-entry-535.html

 我々に、グローバリズムに対する反抗心があるということは、(単に自分が弱者で、弱者視点の請求をしているのでなければ)つまりナショナリズムがあるということです。
 ナショナリズムは「経験」の中に織り込まれているものではありますが、民がそれを体系付けて解釈し世代を超えるためには(つまり国民である条件としては)、「歴史的正統性」というものが考えられていなければなりません。
 逆に言うと、グローバリズムに対抗しえる唯一のものは、「歴史的正統性」なのです。

 我々にとってそれを純化させれば、天皇であり神道ということになる。
 しかし、神道を解釈しようとすると「記紀」を引いてこざるをえないわけですけれど、その記紀自体が「壬申の乱」の弁護としての政治性を含んでいる。ですから、記紀を引くにも、超時代的な正統の解釈が必要になってくる。

 これは簡単な問題じゃあないです。徳川時代の古学者たちの仕事も、その正統を掴み取ろうとして一生涯をかけたものだった。

 それを、現代の人がどう果敢に解釈しようとするのかには、興味関心が沸くわけです。どのように論のケリをつけるのか、注目です。


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【日記】1月15日 財政赤字 

 こんばんは。
 27年度の一般会計の予算案ですけど、決定的に赤字がたりないですよね。今は、もっと国債を刷って財政赤字を拡大することが求められているんだと思います。

 なにか勘違いしている人たちが多いと思うのですが、政府の支出は「人々が払ってもよいと思う税率」に制限されているわけではありません。
 政府の支出は、政府が支出するべきと政治的に判断した支出すべてを支出すればいいのです。それを、「増税によって賄うべき」か、「国債によって賄うべき」かが、時期によって判断されなければならないということに過ぎません。

 政府は、大衆に遠慮をして節制をしている風を装う必要などないのです。「然るべき支出」が政治的に決定されていさえすれば堂々と支出すればよいではないですか。高齢化によって社会保障費がほぼ自動的に増額されるのと同じように、中央政府の公共土木事業費や軍事費、地方交付税交付金などの必要も、政治的に必要と判断されれば、その時の歳入にかかわらず自動的に増額しちまえばよいのです。

 デフレーションを抜けるまでは赤字を増やして国債を刷り、国債を日銀が買い上げれば、有効需要、乗数効果……といったケインズ的効果も時期にかなう。
 そして、デフレを抜けたら、とっとと税率をあげちまえば良いというだけのことなのです。


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【日記】1月15日 規模の経済と農業 

 おはようございます。

 これ、良記事です。

「 農業の大規模化・企業参入促進という愚行 経済・雇用・食料自給率に打撃、自然資源劣化も」



 私は、事業規模が大きければそれだけ製品一単位あたりに対する費用が下がるので、社会全体の効率性にもかなう……みたいなドグマが前提にされると、死んだ魚の心地になるのです。
 このことがナマで前提されると、資本の集中がイコール社会益ということになってしまいます。そして資本の集中は放っておいてもされるものですから、「政治は経済にとって邪魔なもの」とする理屈がまかり通ることになる。
 でも、こうした「効率」を盾とした自由市場経済の礼賛は、「大衆の政府嫌い」に迎合したものでしかないのです。

 そもそも、事業規模が大きいものが効率的である場合が多いのは確かだと思いますが、それならば常にその時相対的に規模が大きい事業規模を持った者が平均的には勝利することになりますでしょう。
 すると最終的に残るのは少数の大資本ということになる。
 少数の大資本が勝利するということ自体は別に構わないのですが、そのような大資本によって形成された超大企業、多角経営、多国籍企業というものの「人間組織」が上手くいくとは思えない。人間組織の不均衡が進めば、結局のところ効率も犠牲にならざるをえない。

 そういう意味で、「規模の経済」は、ある人間組織に限定された範囲内にしか適用されないと考えておくべきではないでしょうか。
 つまり、予め規定された人間組織の範囲内で規模が志向されるのは「合理的」と言って良いが、規模の志向によって人間組織が形成されても経済的にも上手くいかないということです。

 農業に限ったことではありませんが、農業は最もそういう事が分かりやすい産業のような気がします。
 瑞穂の国の……ではないけれど、農業は最も土地と歴史に規定された産業だと思うからです。



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【日記】1月14日 Ⅱ 


 こんばんは。
 今、「永遠のゼロに見える現代大衆人の都合」の第7回を書いていますが、今週中には仕上がりそうです。
 来週には8回目も仕上げて、完結と行きたいところ。
 着想から考えると四ヶ月かかったことになるので、少々時間がかかり過ぎましたが、最後まで丁寧にやりたいです。


 話を変えて。
 そういえば、少し前に、北朝鮮のサイバー攻撃って話題があったでしょう。あれはタテマエの話からして普通にアメリカが悪いと思うのは私だけなんでしょうか? 

 また最近の話では、「フランスのテロを糾弾するデモ」が素晴らしくてどーのこーのという話が、嫌で嫌でしかたないです。
 テロが素晴らしいとまで言えば怒られるでしょうけど、「テロは良くありません」と皆で口をそろえるということは、つまり「自分はいざという時にテロを起こして死んでみせるような信仰や道徳を持ち合わせていない」ということを表明しているようなものです。

 まあ、アメリカにしても、フランスにしても、本当のアメリカ人やフランス人が実のところどう思っているかは分からんですけどね。そういう話をマジに受け取っているのは日本人だけなのかもしれません。


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基本的な考え 


日本が日本であるために

 当ブログはタイトル通り、「日本が日本であること」へのこだわり(ナショナリズム)に高次の「基準」を置いています。
 これは、人間として生まれたからには「私」の運命(我々の場合は大きな領域で「日本」というネイション)に強いこだわりがなければ、真、善、美にこだわる事もまたできないという人類普遍の理を根拠にするものです。また、地球がかように狭くなった以上、ネイションの保守には強いステイツ(政府)もまた必要不可欠だというのが当ブログの立場です。

 そして、真、善、美にこだわる意思を持たない卑俗な生ける屍の群れを「大衆」と呼ぶことを許していただければ、大衆による「政府権限の剥奪」と「政府へのケンリの請求」が、今日のあらゆる問題における諸悪の根元であるとも断定できます。
 よって、当ブログでは「大衆」を一貫して仮想敵とみなし、「大衆理論を圧殺する」ということに力を傾注している次第であります。



大衆理論圧殺のための具体的な立場

一、構造改革、行政改革、政治制度改革、郵政改革、農協改革……などなど改革と名のつくあらゆる「平成の諸改革」に全て反対。

一、徴兵制の必要を主張。
一、核武装の必要を主張。
一、軍事立法の必要を主張。

一、大東亜戦争を「日米100+70年(継続中)戦争」と考え、日本の勝利と独立を祈願。
一、司馬史観からの脱却の必要を主張。

一、政府の権限と支出の拡大(大きな政府)を主張。
一、資本主義、自由市場主義、民主主義への懐疑。
一、既存の国内産業既得権益とコネ、シガラミを擁護。
一、自由貿易に反対

一、アベノミクスにおいては第二の矢「財政出動」を最重視し、ケインズ政策化させることを主張。
一、リフレ、ダメ、絶対!
一、軍備増強と公共土木事業を重視。
一、国債の増刷とのセットでの、財政ファイナンスとしての金融政策には賛成。(政府が円を刷って、政府が使う)

一、長期的には消費税の増税に大賛成。
一、長期的には所得税と法人税の増税の必要も主張。

一、政治家、官僚組織に対する寛容の必要を主張。
一、政治家の定数拡大と中央官僚組織、軍事組織の強靭化を主張。
一、中央の指導と援助による各地方の発展と、各地方による中央政府組織形成の均衡を志向。
一、前項の目的を達成するため、道州制に反対。

一、皇室を尊重


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【日記】1月14日 藤井教授の記事とその感想 

内閣官房参与の藤井聡教授の記事から、財政支出にかんする議論の近況が、概括的に捉えられる記事をご紹介。

『「経済財政」を巡る議論の現状をご報告します。 』
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2015/01/13/fujii-126/

 特に、

 次年度の当初予算における公共事業関係費は昨年とほぼ同水準の6兆円以下。
  加えて、次年度補正予算が3,1兆円だと閣議決定された。
 去年の補正が5,5兆円だったことを考えれば、およそ2兆円の歳出削減になってしまう。

 という部分に注目です。
 一時的な赤字を気にし過ぎて財政政策を滞らせたら経済状況はさらに厳しくなるのは明白。
 その底には、プライマリー・バランス(基礎的財政収支)にこだわるこだわらないという争点があるとのこと。

 藤井教授はプライマリー・バランスこだわるべきではないとおっしゃられています。



 そう言えば、あれは私がまだ中学生だった小渕政権下の頃。
 学校の先生(確か社会の先生だったか)が、「日本はこれだけ借金があって自転車操業状態である。政府官僚と公共事業の既得権益によって、君らが大人になる前に日本の財政は破綻するだろう」
 というような事をおっしゃっていました。

 そういえば、去年の10月、当時中学生だった私は30になりました。



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【注目ブログ記事】「真の国益を実現するブログ」様 

 日記では、日々読んだ本やブログについての感想もあげてみたいと思います。

 今日は、私の好きなブログで、『真の国益を実現するブログ』さまから
「三重県と日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」
http://ameblo.jp/datoushinzoabe/entry-11976548843.html?frm_src=favoritemail

 私がこういう記事が好きなのは、歴史と地理の関連付けというのが国家像を明らかにし、故に自分自身も規定されるような心地になるからです。
 私からすると三重県は隣の県ですから、小旅行にも良さそうだなあと思ったり。名古屋駅から近鉄でしょうか。

 日本武尊に絡めて申し上げれば、我が愛知県には熱田神宮があって、かの「草薙の剣」が御神体です。東の方から三重や関西へいらっしゃる方はどうぞ名古屋・熱田にもお立ち寄りくださいましね。

 ちなみに、引用元と書かれていたご本は、『三重県の歴史散歩』(山川)



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【日記】1月13日 佐賀知事選 

 昼間がぱぁっと晴れると夜がひゅうと冷えるのが冬です。ですから、昼間の陽気からおそろしい気持ちになっちまいますね。


 佐賀知事選で与党が敗北したらしいですね。勝ったのは、農協の組織票を固めた山口候補。

日経新聞
「 佐賀知事選で与党敗北 農協支援の山口氏が初当選」
http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXLASDE09H06_R10C15A1PE8000/

 私は断固として農協の既得権益を擁護する者の一人ですから、とても良いことだと思います。


 でも、与党がどうの言う以前に、もはや日本人の常識そのものが「農協の既得権益を打ち破る」というような方向をむしろ「道徳」と前提してしまっているわけです。
 つまり、産業の調和を人間交際によって調整するより、恣意の介在しない自由市場で決めた方が道徳的だと思われている。

 私がムカつくのはそれなんですよねえ。



 追記 kappa様、誤字訂正ありがとうございました!

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【日記】1月12日 ブログ改修  

ブログの装丁を少しいじりました。

どうってことのない改修ですが、読みやすさ、記事の探しやすさを重視したつもりです。何かお気づきのことがあればお教えくださるとありがたいです。

また、今やっている『永遠のゼロに見える現代大衆人の都合』みたいな重たい記事と同時に、日々考えたこと、注目した記事などはこうやって日記にすることにします。
コメントのお返事など、なかなかできていなくて心苦しいところもあったのですが、コメントのお返事なども日記の中でしていけたらと思っています。

(了)
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【第6回】永遠のゼロに見える現代大衆人の都合 (後章―2 国家と家族)  



※ネタバレ注意!

 前回でも少し触れたように、まずここでは「家族」と「国家」の相対について論じる必要があります。
 というのも、『永遠のゼロ』におけるかくも都合の良い特攻論は、ある種の「家族愛」が盾にされているからです。
 さらに、前項で述べたような大衆の都合の正当化のために「身体的具体性としての家族愛」が楯にされてしまうと、その家族愛ですら何がなにやらわけのわからないものになってしまう。そのことを『永遠のゼロ』はその薄っぺらさをもって見事に体現しているわけであります。

 それでも、こんな風に……つまり、『永遠のゼロ』では常に「家族愛」という副将軍の印籠が掲げられているから、ちょっとすると世間ではほぼ無敵なわけです。というのも、「永遠のゼロを批判するものは、サヨクか、または家族愛より国家全体を優先せしめようとする極右だ」みたいな、中道を気取った小賢しい雰囲気が醸成されているでしょう?
 本当ならこんな話は、「特攻隊は平均人なんかではなく、精神的武士であった」とだけ言えば済むはずなのですが、一見整合するかのように見える「家族愛」を盾にしたこの厄介なる多数派の雰囲気を切り刻んで燃やし尽くす為には、もっと緻密な論考が必要でしょう。





 家族愛。なるほど大切なものです。本当にそう思うのですよ。これは理屈ではなく、経験則で。
 しかしこれもまた、「どのような家族愛でも良い」というわけにはいかないのです。とりわけ、昨今は「家族愛」さえ出てくれば、どんなに薄っぺらな話でも「泣いた」のなんだのピーピーいう輩が多すぎて、気持ちが悪いったらしょうがない。
 とりわけそれが、「身体的具体性としての家族の大切さ」が何よりも高い価値であると前提されてしまうような「家族主義」にまで陥ると、「個人主義」の抱える欠陥と同じような問題が出てきます。

 平凡な話をするようでなんですが、個人というものが「回りの世界」に応接することで存在しているのと同様、家族にも「回りの世界」というものが多分に含まれています。そうであらねば「家族」とは真空に浮かんで生じるものではないですから、存立不可でしょう。
 例えば、婚礼などまさにそれです。男女関係を「家族」というシンボル体系へ結びつける為には道徳や規範というものが不可欠です。普通、その道徳や規範は「共同体の歴史的慣習」や「信仰」から来ると考える他無い。すると、家族とは人間の身体的具体性としてのみ形成されるものではなく、(例えば日本ならば)日本という天下や地域共同体といったより広域な共同体における、道徳や規範、世界観と不可分にしてあるとみなされなければならない。

 要するに、「家族の集まりとしての国家」という認識と同時に、「国家に埋め込まれた家族」という認識もなければ、「家族」も「国家」も説明がつかないということです。



 例えば、「国家観」というものについて、こう言ってみせれば現代でもおおよそ総員の賛同を得ることができます。

A「我々は個人の利己のみではなく、個人を取り巻く家族というものを知っている。故に、家族を取り巻く地元を知り、地元を取り巻く日本を知るのである」

 と。
 つまり、個人、家族、地域、国家……といった風に、小集団から大集団、具体から抽象、形而下から形而上といったベクトルの解釈で捉える国家観というものなら、現代であってもおおよそ誰しもが頷くところではある。ホシュであろうがサヨクであろうが頷く。ただ、ホシュはこれを自慢げに頷き、サヨクは不満げに頷くというだけのことです。

 だのに一方、以下のようなベクトルについては誰もが都合よく無視を決め込んでいる。

B「我々は、日本の形を知るからこそ、日本の中に埋め込まれた地元の形を知る。故に、地元に埋め込まれた家族を知り、それらに埋め込まれた『私』を知るのである」

 というような。
 つまり、国家、地域、家族、私……といった風に「大集団に規定される小集団」という捉え方は、ホシュであろうがサヨクであろうが認めようとしないのです。ただ、ホシュはこれに対する否定を「中道」の根拠とし、サヨクはこれを自慢げに否定するというだけのことです。



 しかし、実際のところAのベクトル――つまり「家族から想起される国家」というようなベクトルのみではコトが不完全なのです。Bのベクトル――つまり「国家観(世界観)から規定される家族」というようなベクトルがあってはじめてAのベクトルも成り立つ。
 換言すると、国家を想起するのに「身近な家族との身体的具体性」が必要なのであれば、家族を想起するのには「国家(運命)によって予め規定される抽象の体系」が必要だということであります。何故なら、上で述べたように「家族」が成り立つためにも道徳、規範の体系が必要不可欠だからです。よって、こうした「身近な身体的具体性」と「予め規定される抽象の体系」は、実存としての「私」の中で相互依存関係として成り立っていると考えられていなければならない。



 この、国家観(世界観)から規定される家族=予め規定された抽象の体系というものが、特に現代大衆人の理解の範疇を超えるのは、それが否応もなく「ナショナルな信仰の体系」というものを考えざるをえなくさせるからでしょう。
 ホシュ派にすら多いのですが、よく「日本人は宗教的におおらかであいまいだった」という言い方がされ、またそのことをさも素晴らしいことのように言う輩がいます。しかし、「歴史的な宗教感覚」というものの希薄な文化圏は野蛮国と呼んで差し支えないのです。
 勿論、日本文化圏には神仏集合に見られるがごとく宗教的寛容さもありますし、これは一つの徳であると言ってもよい。ある種の宗教的寛容さが「徳」として考えられ得ることは、たとえばイングランドの「寛容法(1689年)」などに見られるがごとく人類普遍の感覚でもありましょう。
 しかし、そうした寛容や集合の仕方という所までに立ち至れば、日本の人間交際の中に強固な「信仰の体系」が歴史的に編まれてきたことは疑いようもないことです。一言で言えば、神々の宿る「天下」という世界観に「正統性」というものの根拠があり、その超越的世界観と我々の現実性を繋ぐものとしての天皇が超時代的にあらせられる……これが、「日本文明において予め規定されている抽象的な信仰の体系」というものでしょう。

 戦後、たとえば吉本隆明は、これを共同幻想と呼んで脱すべき偏見と見なしました。が、共同幻想から脱した近代的自我(疎外者)たちが身体的具体性にのみ基づいていくらアウフへーベンを繰り返し、「矛盾」や「偏見」を解消しても、「私」の永遠性はちっとも救われないのです。何故なら、「私」の身体的具体性はいつか必ず終わるし、残酷なことに人間はそのことを知っているからです。そう。我々は、自分がいつか必ず100パーセントの確率で死ぬ事を知っているのです。さらに言えば、身体的具体性の中で身近な愛する人のことを想起しても、その愛する人とて100パーセントの確率で死ぬし、また、人間はそのことを理解できてしまうのです。もう一つくどく言えば、愛する者の、愛する者の、愛する者……と身体的具体性から価値をいくら拡張してみせても、いつかその身体的愛の連続は途絶えてしまうし、その有限性すら人間は容易に把握できてしまうのであります。つまり、「身体の具体性」の中だけでは、人間は永遠性において絶望の状態にある。

 哲学者、神学者のキルケゴールはこうした絶望の状態を「死に至る病」と呼びました。勿論、キルケゴールは身体の具体性を無視しているわけではありません。抽象的永遠性の中へ潜って、身体の具体性をまったくの二次的なものと考える仕方もまた「有限性についての絶望」と呼んでいるのですから。しかし同時に、身体の具体性の中だけでは「無限性についての絶望」があるという命題も対比的に提出している。

 すると、運命的に与えられた抽象の中に身体の具体性というものが埋め込まれてある……というような「主観」の獲得によってしか「実存としての私」の絶望が解消される道はないことになる。しかし、これは非常に困難な精神的解釈作業だし、この解釈作業が必要となる状態というのはその時点で不幸なことなのかもしれません。
 何故なら、永遠性と身体性は「主観」の中でしか統一されないのに、その主観を客観してしまう「疎外者」は、論理上、予め規定された主観の中に直接いることができなくなるからです。ようするに、「主観を客観する私の主観、を客観する私の主観、を客観する……」という風に際限がなくなるのです。私は、このことを考えるといつも気が変になりそうになります。

 例えば、ハーバード・スペンサーの言う社会有機体説――魚群をその群れ単位で一つの有機体と見なすように、農村共同体を一つの有機体と見なすという見方を用いてみましょう。すると、一つの有機体としてある共同体の中に完全に埋め込まれた個人の主観は、彼自身としてはその主観で完結しているはずだということが分かるはずです。つまり、その抽象的信仰も、具体的身体性も、客観で区切れ目を付けるということがないので、信仰と身体は主観の上に統一されているはずなのです。
 しかし、その共同体における個が「埋め込まれ性」を失って「疎外」の状態に陥ると、自分の主観を客観するということが否応なしに行われてしまう。そうした疎外者たちは、主観性の中にあった矛盾をアウヘーベンによって解消することはできても、矛盾を含む世界観の中にあった主観性は失っているが故に絶望者でもあるのです。また、疎外者一世、二世は、その絶望性に気づかないことがままあるわけですが、これはキルケゴール風に言えば、第一の絶望――つまり、絶望の状態にあることに気づいていない種類の絶望――なのです。そして、疎外者たちが有機的共同体を再興しない限り、疎外者の子孫も引き続き絶望の状態にあることとなる。



 こうした実存のことを我々日本風に考えてみれば、「共同幻想という抽象的世界観の中に、身体の具体性というものが埋め込まれてあるという主観性」と言うことができます。しかし、こうやってその主観を客観的に述べ立てている時点で、私はその主観性を失っているという証拠でもある。

 例えば、ここで柳田国男を引いてみましょう。柳田国男の民俗学というものは、有機的共同体の中にある者達の主観性を、柳田という疎外者が客観したものなのです。たとえば、『遠野物語』を見れば、当時の遠野の人々がその信仰と、世界観と、家族との身体的具体性と、はたまた動物や妖怪までを一緒くたにした主観性の中にいたことが伺える。ですが、そうやって彼らの主観性を伺うということは、柳田も(我々も)その主観性の中にはいないということも意味するのです。当時の遠野の人々は、「自分は信仰と身体的具体性を一緒くたに暮らしているなあ」と自覚して生活していたわけではないのですから。ただ運命的に生まれ落ち、その主観性の上で生きていただけなのです。その主観の上には身体的な幸福も、暴力も、悲惨もすべてありますが、同時に永遠性もあるのです。多少の矛盾や不便や悲惨や夭折があろうと、その主観性の内にあるということは柳田にとって至極羨ましいことであったに違いありません。私も羨ましくってしょうがありません。

 つまり、私は、近代的自我を獲得してしまった疎外者として、「共同幻想」の主観性の中にいることができていない。これが、私にはツラくてツラくて仕方ないのです。でも、いくらツラくても自分の「疎外者としての浮遊した主観」をやめることは死ぬまでできません。そうなると(発狂するのでなければ)解決方法は次の二つしかない。

乙案:「身体的享楽を突き詰め、その最大値と見積もられる時点で自殺する」

甲案:「疎外者としての主観の上で共同幻想を客観的に解釈して、さらにその客観的解釈の上で具体的身体性と抽象的世界観の縫合の本質をも自覚的に解釈した上で、それを主観し、その状態を維持する」

 私を含めた憐れむべき近代的自我(疎外者)の前には、この二つの道しか開かれていないという事は、私にとってはごく人生の初期から感覚的に察知されていたことだったように思われます。しかし、乙案の方も、実のところ「永遠性についての絶望」を所与のものとして諦めたものに過ぎないことも次第に分かってくる。ドラクロワの絵の『サルダナパロスの死』みたいにはいかないのです。すると、甲案のようなほとんど救われる見込みのない極めて困難な道しか、近代的自我を持った疎外者が救われる方法はなくなります。
 ですから、理論上、現代人が救われる可能性というのは、まずその絶望に気づくかどうかで減り、次に乙案が結局のところ絶望状態を脱していないということに気づくかどうかで減り、そして、甲案の道が成功するかどうかでさらに減ります。つまり、現代人で近代的自我を持ってしまった疎外者は、ほぼ救われる見込みがないのです。
 それでも、救われる見込みのない疎外者がその主観性を獲得しようと志向するには千の意思が必要なのであって、こうした意志をもった者はその時点で少なくとも精神的武士、精神的貴族と呼んでふさわしい。ですから、武士的、貴族的な「非・大衆人」というのは、別に「家柄が良く財産がある」ということを意味するのではなく、その千の意志を持っているかどうかで決まるのです。(※勿論、「家柄が良く財産がある者」の方が千の意志を抱く可能性が高いということは言えるでしょうけど。)
 ただ、千の意志を抱く精神的武士であることは尊いこととは言えど、彼が絶望の状態を脱する主観を獲得できるかどうかは別問題です。千の意志は必要条件であり、実際にひとたび近代的自我を獲得してしまった疎外者が「絶望」の状態から脱しえる唯一の道である甲案は、ほとんど不可能といっていいほど困難なのですから。

 だからこそ私は、身体的具体性のみで物事をはかる連中、またその事を「近代的自我を獲得して矛盾を解消する正気」として前提する手合いがムカついてしょうがないのです。そういう身体的具体性についての楽観を見ると、「そんな社会的矛盾の解消なんかじゃあ俺は救われねえぞ」と怒鳴り散らしてやりたくなるのです。そういう前提で進歩主義、民主主義、自由主義が前提とされるのが嫌で嫌でたまらないのです。また、そんなものを「正気」として前提する現代大衆人……つまり、それぞれの身体的具体性だけを価値の大前提とすることを「正気」とみなすほとんどの大衆平均人は、自分たちが永遠性において絶望の状態にあることに気づいてすらいない第一の絶望者なのです。

 そうなると、一般的に「死に至る病に陥っているキチガイ」は現代大衆人の方であり、キチガイの目から見れば特攻隊という正気の若者たちはキチガイに見えるというだけのことなのではないでしょうか。しかし、だからといってキチガイの現代大衆人が、キチガイの論理で特攻隊を正気と見なせば、それは特攻を真の意味でキチガイ扱いしているということになるのです。このことは前項で明らかにしました。






 話を『永遠のゼロ』に戻しましょう。

 どんなに好意的に解釈しても、『永遠のゼロ』における「家族愛」「愛国心」というものは、上で述べた「家族愛から立ち上る愛国心」の一方通行であります。つまり、「国家(世界観)に規定される家族」のベクトルについては一縷の価値も置かれていないのです。
 これは、「身体的具体性」の価値から無矛盾な社会というものが構築されえるという合理性が前提されているという点で、前章で明らかにしてきたことと符号します。
 そして、「私を規定する抽象的世界観」の矛盾や不合理を「キチガイ」の尺度として用いているという所とも符号します。このことは前項で明らかしました。つまり、高山も武田も、「国家や天皇にこだわる」という「正統かつナショナルな信仰」を、キチガイとする尺度として採用していたのに変わりはないのですから。

 このことについては、色々問題があるのでしょうけど、ごく明瞭なことが一つあります。
 それは、「私を規定する抽象的世界観」を単なる「矛盾」と見なして捨て去ると、その世代は「身体的具体性」のみで独立して回っていけているように見えますが、次の世代ではその「身体的具体性」すらも溶解してくるということであります。
 この場合の「その世代」というのは戦中派とそれ以前の世代についてであり、「次の世代」というのは戦中派世代以降の世代のことを指しています。

 戦後、日本人はほとんど一夜にして日本の抽象的世界観を捨て、世界というものをグローブ(地球)と見なす自然科学的世界観に属したかのようにも見えます。しかし、一億民が一斉に入れ替わったわけではないのですから、戦中派世代まではそれまでの世界観が常識として残されているに決まっているのであって、その残された常識観の上で「家族」という身体的具体性が発揮されていたわけです。
 そりゃあそうですよ。先にも述べた通り、家族という身体的具体性であってもそれは「道徳」「規範」が枠組みとしてあってこその家族なのです。その道徳や規範がどこからくるのかと言えば、「歴史的偏見」からくるとしかいえないのであって、歴史的偏見は抽象的世界観……つまり正統なる信仰の体系にによって価値付け、基準付け、序列付けがされるのです。
 ですから、戦中派世代までが家族、あるいは擬似家族としての「日本的経営」などを成り立たせていたのは、戦前から引き連れた常識というものが残像として残っていたからです。

 しかし、「私を規定する抽象的世界観」が常識の中に組み込まれていない世代……つまり、その残像を引き連れえようのない戦中派以後の世代は、ナマの「身体的具体性」だけで家族というものを知覚しているに過ぎないのです。ですから、家族における道徳や規範が融解し、その「身体的具体性」すらも溶けて流れて、何がなにやら分からなくなってくる。厄介なことにそうした融解は、「分からなくなっている」ということすら分からないというシロモノであるから、この融解、離散には歯止めが利かない。

 その証拠に、昭和の終わりに戦中派世代が引退すると平成となったわけですが、平成を主導してきた団塊以降の世代は、価値あるものを何一つ生み出さなかった上に、改革によって日本の国を没落させることしかしなかった。
 それは当たり前の話で、正統なる信仰や抽象的世界観から歴史的に降りてくる道徳や規範が融解すれば家族感覚すら融解するに決まっているのです。家族感覚というものが身体的具体性のみで保ちうるというのは、それこそ家族主義の幻想なのです。そして、家族感覚が融解するのであれば、日本経済を支えていた「家族的経営」というものの感覚や、産業、生産者、消費者、労働者、事業者、組合、政治家、官僚、中央、地方などなど様々な人間交際における感覚が融解するのは当たり前であり、それらが融解するのであれば経済的な没落もまた必然なのです。何故なら、経済ですら、それは人間交際に埋め込まれた一側面だからです。
 つまり、「私を規定する抽象的世界観(ナショナルな信仰の体系)を排除すればするほど矛盾をなくすことができる」という戦後の進歩主義的理論というのは、前時代の常識を引き連れた戦中派世代が引退するまでの、時間制限つき理論だったわけです。



 そして、その「家族」における道徳、規範の融解というものが『永遠のゼロ』にははっきりとあらわれているのです。

 『永遠のゼロ』は最終的に、特攻で死んだ宮部の妻松乃を、宮部に特攻を邪魔されて生き残った大石が、宮部の代わりにこれを養い、恋に落ち、宮部の代わりに家族となる……という話でケリがつきます。視点人物の健太郎は、元々慕っていた血のつながらない祖父大石と、特攻で死んだ血の繋がった祖父宮部、そして祖母松乃の物語を知って、なにやらポジティブシンキングになるというわけです。

 しかし、良く考えれば、この話は完全に「家族の道徳」は逸脱していませんか?

 勿論、現実の人間には身体的具体性がありますので、そういう家族の事情というのもありえるとは思いますよ?
 しかし、「特攻隊員の身代わり夫」のような堕落的な話が、「現実問題として生きてゆくために仕方のない堕落」として描かれるならまだしも、「感動話」として描かれのは常軌を逸していますでしょう。でも、多くの読者は、その「感動話」に唯々諾々と感動して、縷々と涙を流している。

 誤解しないで欲しいのですが、私は別に小説の登場人物が不道徳を犯すということだけで怒る狭量で言っているわけではないのです。近代自然主義以降の小説の登場人物なんてたいてい不道徳ですしね。どれだけ不道徳かどうかを競い合ってきたのが小説というものだと言っても過言ではないでしょう。また、先に申したとおり、私とて歴史的主観性を失った疎外者ですから、道徳を引き受ける主観性を失っています。故に、不道徳を糾弾する資格も能力もない。
 私が怒っているのは、「その不道徳が、不道徳として取り扱われてすらいない」ということなのです。

 普通に考えて、戦争未亡人というものは独りを通すのが第一の道徳です。もしかしたら、夫の戦死と共に自刃するという道徳もありえたかもしれません。また、その方が絶対的に美しくはある。ただ、一方、人間には身体的具体性があるので、戦争未亡人が「新たな面影を胸に宿す」という堕落もありえることではある。
 これは、坂口安吾の「堕落論」の論理を引いているわけですが、確かに安吾は「生き残ってしまった」ものとして、こうした堕落を認めてはいる。しかし、この「堕落論」の論理では、前者が「抽象的世界観から降りた道徳」、後者が「現実的な堕落」であるという基準は手放していないのです。確かに、こうした基準を手放していない者たちならば、その「堕落」にはキリがあるのでしょう。何故なら、堕落を堕落と呼ぶためには、その一方で道徳の次元も前提されていなければ不可能だからです。逆説的ですが、道徳の無い堕落というのは観念的に存在しえませんでしょう。

 しかし、永遠のゼロの場合、この道徳基準そのものが反転している。
 つまり、従来の「現実的な堕落」が最早「道徳」として取り扱われてしまっているのです。

 この道徳の反転現象は、とどのつまり、かつての道徳が「道徳の系譜(つまりクラッシック、古き上等な階級の振る舞い)」を基準として考えられていたのに対し、現代の道徳が「大衆平均人の身体的具体性」を基準として考えられるようになっているからです。
 ですから、戦中派までの「卑属」が、現代人にとっては「道徳」となってしまっているのです。

 これが、今回指摘する『永遠のゼロ』の現代大衆人への迎合なのです。
 迎合しているでしょ? だって、「大衆平均人の卑属性がむしろ道徳的だ」という話が前提とされているのですから。大衆平均人は安心して大衆平均人を続けていられるというわけです。
 しかし、このような「道徳の反転」は、上で述べた「永遠性」において絶望しかもたらさないのです。それが気にならないのは、現代大衆人のほとんどがその絶望状態に気づいてすらいない、第一の絶望状態にあるからなのであります。



(つづく)


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【第5回】永遠のゼロに見える現代大衆人の都合 (後章―1 永遠のゼロに見える現代大衆人に都合のいい特攻解釈) 






後章 永遠のゼロと特攻隊



【後章―1 永遠のゼロに見える現代大衆人に都合のいい特攻解釈】


※ネタバレ注意!


 後半は特攻についてです。



 前半で述べたような、大衆人の都合に作品が媚びる……などというのは世間でよくされていることではあります。しかし、『永遠のゼロ』では大衆人の都合を、「特攻」の解釈にまで延長している点で、その度と罪が数十段深いのです。それは、根元の根元まで現代的あり方を前提する態度であり、この態度を基礎としつつ特攻を解釈する都合に、過剰なる軍組織批判がこれまた役に立っている。

 ここではひとまず、『永遠のゼロ』における特攻にかんするテーゼの組み立てを纏めてみましょう。
 その為には、まず九章「カミカゼアタック」での記者高山と元特攻要員武田の論争に注目する必要があります。

 高山は大新聞社の記者で、いわゆる朝日新聞的……というか、ステレオタイプなエセインテリ風な特攻論を繰り広げます。
 ただ、高山の役はいわゆる噛ませ犬で、『永遠のゼロ』は彼の論を否定するように進められていることに注意しましょう。可哀想に、彼はお姉さんにもフラれてしまいますしね。

 その憐れなる記者高山いわく、

「私は特攻はテロだと思っています。あえていうなら、特攻隊員は一種のテロリストだったのです。それは彼らの残した遺書を読めばわかります。彼らは国のために命を捨てることを嘆くよりも、むしろ誇りに思っていたのです。国のために尽くし、国のために散ることを。そこには、一種のヒロイズムさえ読みとれました」

(『永遠のゼロ』 第九章 カミカゼアタック p.420)



 この記者高山は、おおよそこうした論を提示する為だけに描かれた人物です。つまり、「特攻隊は天皇のために命を捨てるキチガイであった」といった論を。
 ただ、繰り返しますが、彼の役割はいわば「噛ませ犬」であります。『永遠のゼロ』の一つの大きな要素は、この記者高山の持ち出す特攻論に、アンチテーゼを張るというところにあるのですから。
 そして、私がここで問題にしたいのは、記者高山の朝日新聞的特攻解釈よりむしろ、そのアンチテーゼのやり方の方なのです。

 その問題のあるアンチテーゼは、元特攻隊要員で戦後に一部上場企業の社長にまでのしあがったという武田の、次のような反論で示されている。

「馬鹿者! あの遺書が特攻隊員の本心だと思うのか」
 武田は怒りで顔を真っ赤にさせた。周囲の人が皆こちらを見たが、武田はまったく気にしなかった。
「当時の手紙類の多くは、上官の検閲があった。時には日記や遺書さえもだ。戦争や軍部に批判的な文章は許されなかった。また軍人にあるまじき弱々しいことを書くことも許されなかったのだ。特攻隊員たちは、そんな厳しい制約の中で、行間に思いを込めて書いたのだ。それは読む者が読めば読みとれるものだ。報国だとか忠国だとかいう言葉にだまされるな。喜んで死ぬと書いてあるからといって、本当に喜んで死んだと思っているのか。それでも新聞記者か。あんたには想像力、いや人間の心というものがあるのか」

(『永遠のゼロ』 第九章 カミカゼアタック p.421)



 つまり、 「特攻は志願と見せかけた雰囲気的強制であったから、隊員一人一人は天皇や国家にこだわって死のうなどと思っていたはずがなく、また、手紙や遺書でのそうした言葉など本気のはずはなかった。(ので、隊員一人一人はキチガイではないし、洗脳もされていない。キチガイだったのは海軍だったのだ)」としているわけです。

 ただ、そうなると、「では特攻隊員は、心の底では特攻に意義も感じていなかったにもかかわらず、命令ならば死ぬまで唯々諾々とそれに従う、単なる根性なしだったのか?」という風に言われてしまうのは火を見るより明らかでしょう。ですから当然、『永遠のゼロ』はこれにも回答を出している。
 先程の記者高山が席を立った後、再び武田の語りにて、

 戦後、特攻隊員は様々な毀誉褒貶にあった。国のために命を投げうった真の英雄と称えられた時もあったし、歪んだ狂信的な愛国者とののしられた時もあった。
 しかし、どちらも真実をついていない。彼らは英雄でもなければ狂人でもない。逃れることの出来ない死をいかに受け入れ、その短い生を意味深いものにしようと悩み苦しんだ人間だ。私はその姿を間近に見てきた。彼らは家族のことを考え、国のことを思った。(略)

(『永遠のゼロ』 第九章 カミカゼアタック p.427,428)



 つまり、特攻隊員は、海軍司令部のキチガイぶりによってキチガイなる特攻を強いられることとなったが、それは死刑執行(同p.428では特攻が死刑執行に例えられている)のように逃れられないものだったので、隊員の一人一人はせめてそこに何か「意義」を見出そうとしていた、と。
 その意義付けの具体的内容を各人の語りでツラツラと述べるのが『永遠のゼロ』であり、武田もまたその一なのでありますが、ではその「意義付け」は特攻隊一般としてどのようなものであったと解釈しているのか。『永遠のゼロ』は一貫してこれを、「家族を守る為、また、家族を守る手段としての国家の為」だと表現している。
 このことがよく分かる一節が、少し遡って「第八章 桜花」にでてきます。

「岡部さんは、どのようにして特攻を受け入れたのですか」
「受け入れた、とは?」
「特攻に際して、どのように自分の死を納得させたのですか」
「難しい問題ですな」
 岡部は腕を組んだ。
「死を受け入れるからには、その死を上回る崇高な目的がなければ出来ないと思うのです。岡部さんにとって、そのような高次な目的とは何だったのでしょうか」
 姉の質問は意外だった。もしかしたら、前もって用意していた質問かもしれなかった。
「綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、自分が死ぬことで家族を守れるなら、喜んで命を捧げようと思いました」
「死ぬことでご家族が守れると思いましたか」
 岡部は黙って姉を見つめた。
「特攻隊の死は犬死にとおっしゃりたいのですか」
「いいえ」
 姉は少し慌てたように首を振った。岡部は言った。
「少し違う話をしていいですか」
(略)

(『永遠のゼロ』 第八章 桜花 p.411,412)



 この箇所は、特に卑怯と致命的な綻びのある部分ですからまた後にも取り上げますが、ここでいう「家族を守るため」というのは、上で言う「意義付け」の内容を先取りして直裁的に表現されたものであることに注目してください。一種の論理的な伏線といってもいいかもしれません。

 そうなると、論理上、この「家族のため」というのは、「自分の命」と「家族」を天秤に乗せてのことではないですね。ここが見過ごされがちな重大点ですから、ことさら注意してください。『永遠のゼロ』の論理で行けば「自分の命」は海軍に奪われているわけですから、ここでの天秤には「国家、天皇へのこだわり」と「家族へのこだわり」が乗っているのです。そして、「国家、天皇へのこだわり」ではなく「家族へのこだわり」が高次の価値としてあったからキチガイではなかった、という論筋になっている。


 以上を踏まえると、永遠のゼロにおける特攻解釈は、

1、特攻は志願と見せかけた雰囲気的強制であったから、隊員一人一人は天皇や国家にこだわって死のうなどと思っていたはずがなく、また、手紙や遺書でのそうした言葉など本気のはずはなかった。(ので、隊員一人一人はキチガイではないし、洗脳もされていない。キチガイだったのは海軍だったのだ)

2、特攻隊員の真意は、げにキチガイなる海軍司令部に特攻を強いられた逃れ得ない死刑執行的状況下で、これを自分の大切な家族を守るためと意義付けていった所にあり、国家や天皇にこだわって死ぬという所にはなかった。(このように、死ぬのが嫌で、天皇や国家にこだわったわけでもなく、家族の為と意義付けたのだから、家族愛を知る現代人から見ても特攻隊員の一人一人の心持ちは共感可能なはずである。)

 ……という風な解釈であると、纏めることができます。





 この永遠のゼロ的特攻論の厄介なところの一つは、高山の「朝日新聞的な特攻論」を否定しつつ提示されている為、一見、特攻隊の名誉を保全できているかのように見えるところです。
 確かに高山の言うような朝日新聞的特攻解釈は明瞭に腹が立ちますから、これへのアンチテーゼが張られている事に溜飲を下げる読者の気持ちが全く分からないというわけではありませんよ。
 しかし、 「どのようなアンチテーゼでも良い」とはいかないのです。むしろ、『永遠のゼロ』の提示するような、現代人にとって都合の良いだけの特攻解釈が許容されてしまうくらいなら、記者高山の言うようなサヨク的特攻解釈の方が幾分かマシなくらいです。
 また、もう一つの厄介な点は、これらの永遠のゼロ的特攻解釈は、その部分部分を取れば何の問題もないように見えてしまう箇所もあるという所です。上の岡部と姉の問答でも、「綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、自分が死ぬことで家族を守れるなら、喜んで命を捧げようと思いました」という一つの台詞だけをとってみれば、普通に道徳的な言葉に見える。しかし、これが「問答」になり、「語り」になると、上で纏めたような「論筋」になってしまう。勿論、『永遠のゼロ』には部分部分の言葉にも問題のある箇所が山のように散見されますが、本当に大問題なのはこの解釈の論理、筋立ての方なのです。

 さて、ここで、このことを論理的に整理するため一旦特攻の肯定、否定は横に置いておいて、「朝日新聞的記者の高山」と「永遠のゼロ的特攻要員の武田」の特攻論に対して、機械的に以下の二つの問を提出してみます。

問1
「国家や天皇にこだわって死ぬ暴力は、道徳的に可か不可か?」

問2
「国家や天皇にこだわって死ぬ激情を、特攻隊は抱いていたか?」

 こう問うてみると、高山論も武田論も、実を言うと、問1については「不可」であることが前提とされていることがわかるでしょう。その上で、問2の見解の違いが彼らの争点になっているに過ぎない。

 つまり、高山論は「特攻隊は、国家や天皇にこだわって死ぬという激情を抱いていたので、キチガイで洗脳されていた」と言っている。
 対して、武田論は「特攻隊は、国家や天皇にこだわって死ぬという激情を抱いてはいなかったので、キチガイではなかった」と言っているわけです。

 ですがしかし、そもそも、特攻隊が上の問1からして
「国家や天皇にこだわって死ぬ暴力は道徳的に可」
 と前提していた場合はどうでしょうか?
 この前提の上だと、逆に「国家や天皇にこだわって死んだので良かった」か「国家や天皇にこだわって死んだわけではないので悪かった」という評価体系になってくる。
 要は、前提される「べき論」が反転すれば、肯定しうる「である論」も反転するということです。

 そして、特攻隊の主観が「国家や天皇にこだわって死ぬ暴力」を道徳、理想の体系として前提していたことについては、かなり明瞭に見てとれるのではないでしょうか? 
(このことは、『真の国益を実現するブログ』さんの記事で、[日本人としては、『永遠のゼロ』は批判せざるを得ない http://ameblo.jp/datoushinzoabe/entry-11938275535.html]にて説得力のある論考がされていますので参照されたし。)

 すると、よぉく考えていただきたいのですが、もし特攻隊が「国家や天皇にこだわって死ぬ暴力」を理想として前提していたなら、その現実における行動も「国家や天皇にこだわって死んだ」とされなければ甲斐がないという事になりませんか?


 繰り返しますが、今の我々が国家や天皇にこだわって死ぬ暴力を道徳的に可とするか不可とするかは、ここでは横に置いていますよ(私は勿論、可だと思いますけれど)。ここでは「特攻隊員がその激情を道徳的に可としたか不可としたか」また、「特攻隊員がその激情を抱こうとする意思があったかどうか」という、死せる特攻隊員の主観の話をしているのです。
 だって、死せる特攻隊の主観は特攻の瞬間に完結しているのだから、彼らの名誉も、その主観が完結した時点での前提をもって量られねばウソでしょう? それを、「国家や天皇にこだわって死ぬ暴力は道徳的に不可」という生き残った側の主観を前提にした上で褒めそやしても、特攻隊の特攻時点での主観からすれば名誉毀損である可能性が極めて高いのです。

 ですから、記者高山のように、特攻隊の主観を根ごと否定しキチガイ扱いするのであれば、それはまだマシなやり方なんですよ。端的に言えば、問1を「不可」と考える者にキチガイ扱いされるのは、特攻隊員の主観にとってはまだ名誉かもしれないのです。
 対して、特攻要員の武田のように――つまり『永遠のゼロ』のように――問1を「不可」と前提しておきながら「特攻隊員は国家や天皇にこだわって死んだわけではない」とした場合はどうか。それは、現代人が都合よく特攻隊へ感謝がしやすくなるというだけで、特攻隊員の主観からしてみれば耐えがたき不名誉かもしれないのです。





 もっとも、こうした『永遠のゼロ』における特攻隊への名誉毀損は、別に「特攻隊を貶めてやろう」という恣意からされる種類のものではないのでしょう。これは、現代大衆人の都合に迎合して特攻を解釈したことから起こった名誉毀損なのであります。

 そもそも、日本人はなんやかんや言って、特攻隊には頭が上がらない心地ではいる。要は、特攻隊員の一人一人には感謝しておかなくてはならないような気分ではいるわけです。
 しかし、誤魔化さずナマのまま特攻隊を肯定しようとすると「国家や天皇にこだわって死ぬ暴力」を道徳的に可としなければならない部分がどうしてもでてくる。
 これが現代大衆人はイヤなのです。「天皇」はまだしも、「国家」「死」「暴力」といった種類の倫理は、「合理的にやってさえいればなくしうるもの」と考えておきたいというのが現代大衆人の大衆人たるゆえんなのですから。

 ですから、現代大衆人にとって一番都合が良いのは、「国家や天皇にこだわって死ぬ暴力を道徳的に不可」とする前提を手放さずに、特攻隊へ感謝しておける理屈なのです。また、こうした大衆の都合に合致した理屈は、多少不自然でも容認されることになる。

 しかし、もし、現代人が引き受けにくいような特攻隊員の激情をうやむやにすることで、現代人が現代的感覚の上で特攻隊へ「感謝」するようになったとしても、こんなやり方をしてはならんのです。
 第一、そんな「感謝」はろくなものではない。おぞましきことにこの場合、必ず「憐れみ」がこびりついてくるはずでしょう。特攻を「犠牲精神」として捉え、特攻隊を「犠牲者」と捉える仕方がそれです。
 そうした憐れみのこびりついた感謝というのは、穿った見方をすれば「貧乏クジを引いてくださってありがとうございました」といった種類の感謝なのです。
 そこから英雄の霊に対する「憧れ」などといったものは求められるべくもない。だって、憐れんで感謝しているということは、「特攻隊のようになりたい」とは思っていないということでしょう。「特攻隊のようになりたい」と思ってもいないくせに、なぜ彼らを「英霊」などと呼ぶのでしょう? そういうのを「都合のいい愛国心」というのです!

 故・小野田元少尉が靖国神社にて、小泉当時首相の靖国参拝の仕方を猛烈に批判したゆえんの一つもそれですよ。
 元少尉は小泉元首相の靖国参拝を評して、一つは「いたずらに騒ぎにせず黙って参拝しろ」とおっしゃり、もう一つは「英霊を憐れむなど言語道断だ」ということをおっしゃった。
 私は小野田元少尉のおっしゃていた事は、ほんとうに正しいと思います。

 多くの現代人は、こうした「感謝」や「憐れみ」が特攻隊の「激情」を踏みにじっている事に露とも気づかないのです。
 それで、今の我々があるのはそういう名もない人たち一人一人の鋭意努力のおかげである……みたいなことを言われても、それこそ「句舌の徒」の仕方であるとしか評しようがないのであります。





 さて、このように論じてみた上で、来うる反論というものが二つ考えられます。

 一つに、特攻隊員一人一人の特攻を「家族の為」と解釈する仕方は、家族から延びる「国の為」という部分については背反しない。むしろ健全かつ自然な愛国心というものは家族愛から起こっていくものではないか……という反論。

 二つに、特攻隊員に「天皇や国家にこだわって死ぬ暴力精神」があったとすると、一方で「命令としての特攻」や「戦法としての特攻」をも礼賛しなければならなくなってしまうのではないか……という反論です。

 なるほど、これらの論理は一理を認めるべき所はあります。しかし一般的に、その中に理のあるところ、誤魔化しのあるところが混然しているのが常なのであります。
 ですから、こうした「家族と国家」「隊員と海軍」の論理について「理」と「大衆の都合」に腑分けし、整理してみせる必要がありそうです。

 そして、大衆人の都合さえ無視すれば、『永遠のゼロ』のように特攻隊を「海軍に殺された」とか「健気にも家族を守る為の犠牲死だった」などと憐れまずとも、自然に特攻隊員へ尊崇の念が抱けるような特攻解釈は可能なのです。このことを何とか提示してやりたいというのが、後章の趣旨であります。



(※尚、ここでは「宮部の特攻」については論じません。その所以は、宮部の特攻の動機がお涙頂戴のラヴ・ロマンスに誤魔化されて結局のところ不明なこと。また、『永遠のゼロ』自体、宮部を一般的なものと取り扱ってはいないことがあげられます。要は、はなっからでっちあげであることを前提とした登場人物について批評をしても、国家論、大衆論、特攻論としては無意味だということです。ここでの主眼は文芸批評ではないのですから)


(つづく)
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