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日本が日本であるために

主に政治、経済、時事、国家論についてなどを書きます。日本が日本である、ということを主軸に論を展開していきたいです。

 

【読感文】藤井聡『プラグマティズムの作法』 



 今日は、京都大学の藤井聡教授の『プラグマティズムの作法』というご本の読書感想文を。

 プラグマティズムという語は日本語だと、実用主義、道具主義、実際主義……などという風に言われます。ですから、この題名から、単に「物質的、数値的に実用的で役に立つことをやれ」というような自己啓発的な内容を思い浮かべるかもしれませんが、ここで言われる「プラグマティズム」とは、そういうことではありません。

 簡単に、私流に要約させていただくとこうです。

 力と効果は不可分である--つまり、全ての行為(力)は、実は何らかの意味で実用的(プラグマティック)にしか存在しえていない。また、その実用(効果、目的)も、より上位の目的が前提されていて、さらにその上位の目的の目的の目的の……というように言語的な物語が(意識的にせよ無意識的にせよ)前提にあってはじめて行為(力)という概念は存在する。だから、力を考えずに効果だけを論じたり、効果を考えずに力を考えることは、人間の実際を反映していないという意味で虚像だ、というのがプラグマティズムなのです。
 そして、その効果(目的)の効果(目的)の効果(目的)……と突き詰めていくと、人は誰しも無意識的にせよ抽象的な神秘の領域(世界観)から物語上の目的が下ろされている、と考えざるをえなくなる。さらにここでは、善の世界観に帰着するプラグマティズムと、悪の世界観に帰着するプラグマティズムが存在することを前提にしています。
 この本で提示されているのは、こうしたプラグマティズムを基礎とした哲学的な人間の解釈と、この人間解釈上で言える二つの「作法」についてであります。
 第一の作法は、その行為(力)がいかなる効果(目的)を持っているか、さらにその効果の効果の効果……という物語的経路がいかなるものかを「自覚」しようとすべきだ、という作法。
 第二の作法は、その自覚された物語経路を、正統なる信仰の体系に沿わせようとする……つまり、善の世界観を持つプラグマティズムにせしめようとするべきだ、という作法であります。


 私がこの本をはじめて読んだ時は、いわゆるプラグマティズムの哲学と、ウィトゲンシュタインの哲学を関連付けて論じている所に面白味を感じたものでした。そうした藤井教授の言葉遣いの妙は、本を非常に取っ付きやすくしてくれています。また、その意味でプラグマティズム入門、ウィトゲンシュタイン入門としても有効ですよ。


 加えて最近、この本を読み返して、以下の二つのことを考えたので、それを今回の感想と致します。

1、
 まず、こうしたプラグマティズムの作法を考えた時、物語経路の自覚と、善なる世界観に帰着しようとする意思の、どちらが欠けていても作法に合わないということに注意が払われるべきということです。というのも、それならばプラグマティズムの作法に欠けた人間というのは二種類いることになりますでしょう?
 要は、無自覚か、開き直っているかの違いなのですが、この事は同じく藤井教授の『大衆社会の処方箋』で述べられている大衆の分類、つまり「自己閉塞性」と「傲慢性」に関連付けて考える事ができる。
(『大衆社会の処方箋』の読書感想文もまた書こうと思います。)

2、
 このような、ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」といった神秘の領域を前提としたプラグマティズムを考えると(あるいはプラグマティックに力の効果から神秘の領域を想起するとなると)、やはり西洋人のような「神(ゴッド)と私の関係」を、我々日本人は持ち合わせていないし、持つべきでもない……という問題に突き当たります。
 これは、我々日本人が近代(モダン)というものに直面して以降一貫して抱え続けている問題で、だからこそ我々は「語りえぬもの」をあえて語らねばならなくなっている。
 しかし、この神秘の領域をあえて語ろうとすると、何となくボンヤリした話に見えてくるのが難しい所。でも、ほんとうのほんとうは、確かなるもののはずなのですよ。
 藤井教授は、この『プラグマティズムの作法』において、それを「太陽」という言葉で表現しました。しかし、太陽の事を持ち出した後半は、パースやウィトゲンシュタインを持ち出した前半よりも評価されていないという風に聞き及んでいます。そういう事を聞くと、本当に難しいなあと思うのですよ。と言うのも、この本で藤井教授がほんとうに言いたかった事は、「太陽」のことに違いないからです。



プラグマティズムの作法 ~閉塞感を打ち破る思考の習慣 (生きる技術! 叢書)





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【終章】日本国憲法の諸問題(日本国憲法に立ち向かう保守論) 


【ひとたび大衆の手に渡った国家を救う手立ては、基本的にはない】

 以上の問題を把握すれば、そうした人権を根拠にした国民主権(自由と民主主義)という人間楽観の世界観が、「政府の権限の剥奪」を好む大衆に対し絶好の根拠を与えているという事も理解できるはずです。何故なら、人間の権利としての自由が実は良く分かられていない中で「自由(人間の権利)」を求めようとすれば、それは「より政府に制限されない」という事こそ「進歩の光の先である」と考える他なくなってしまうからです。
 また、それは第14条にも明確に現れていますが、そうした中では「政府よって与えられる特権的なもの」を排撃しようとする欲求が赤裸々に現れてきます。勿論、高貴なる階級としての特権が認められる余地はなくなってしまっているし、それだけではなく昨今では、「経済的な既得権益」すらも特権として排撃されてきているわけです。

 こうした傾向は、「一般国民」という得たいの知れない語を根拠に推し進められます。政府によって一般国民のケンリが制限されないように、政府によって特別のケンリを付与されないように……そうした事が政府への請求として「啓蒙的」に推し進められるのです。
 しかし、一般国民というのは一体どんなものを言うのでしょうか。そもそも、政府による「権利の制限」と「特別な特権の付与」は、日本国民の間で画一的ではないし、画一的である必要はないのであります。例えば、既得権益既得権益とやかましい世の中ですが、日本国民のほとんどが何らかの地域や産業に属しているわけだから、あらゆる国民は何らかの既得権益(特別の権利)を授かって生きているはずです。あるいは、何らかの「特別な権利の制限」に甘んじて生きているはずなのです。つまり、一般国民などというのは誰の事でもないのです。日本国民とは特別国民の集合である、とこう捉えるほうがより現実的でしょう?

 それを、一般国民などという良く分からない語を用いて、特別国民を端から糾弾し、特権や既得権益を排撃していけば、日本国民は日本国民によってすべて排撃されていってしまうでしょう。ある時には我こそは「多数派の一般国民である」と思っていても、数年後には「少数派の特別国民である」と排撃される側に陥るのです。何故なら特別国民ではない国民など実はいないからです。

 それでも、そうした政府への請求を正当化する根拠としての基本的人権と国民主権の文脈は、一瞬一瞬の大衆心理としては非常に都合の良いものであると言えるでしょう。
 何故なら、その時々の多数派は、政府や既得権益から権限を剥奪する事を「面白い」と思うからです。
 その面白さを都合よく正当化してくれている日本国憲法の理念が、「間違っている」という風に、多数者が思うわけがないでしょう。しかも、日本国憲法は、人権を保障する為の都合の良いサービス機関であることを政府に求めているわけで、かくのごとくパンとサーカスを保障してくれている日本国憲法を大衆(多数者)が手放したいと思うはずがありません。

 その証拠に、アメリカに押し付けられたはずの日本国憲法は、戦後一言一句変えられていないでしょう。それは、96条で示されている通り、その変更が多数の大衆によってでしか変更不可であるという事に起因するのです。大衆に都合の良い憲法が大衆によってでしか変更できないのなら、理論上、変更は永遠に不可でしょう。当たり前ではないですか。これは社会党や共産党や民主党のせいでも、チャイナや朝鮮のせいでも、アメリカのせいですらないのです。
 とどのつまり、日本国憲法の最低さは日本国民の最低さの反映である、と言うのが最も適切なのではないでしょうか。




【日本国憲法に立ち向かう保守論】

 そういうわけですから我が愛する日本国は、国家の没落を「進歩」と履き違えて突き進んでいるわけです。そして、時代が進むにつれその歩みを速くしてきている。この大衆の大行進はあまりに甚大なパワーを持って成されているから、ほぼ抵抗の余地はないとも言えます。
 それでも、これに抵抗せずに滅びるままに滅びるという態度は、死人の態度と糾弾せらるるべきものです。そこで、出てくるべきは「保守論」や「保守思想」であると私は考えるのであります。

 そもそも、法があり憲法というものがある以上、その「憲法の根拠」をどこに求めるか……という問題から逃れることはできません。
 日本国憲法は、これを「自然法」というものに求める純粋近代的な態度を取っているわけでありますが、何も我々がこの姿勢に準拠する義理は一片たりともないのです。
 憲法を保守的に考えるのであれば、憲法の根拠は「国家の伝統や権威や大儀」にあると考えられるべきはずなのです。

 そういう風に言うと、すぐに曖昧な根性論であると誤解されがちですが、そうではない。曖昧ではないのです。
 国家の伝統や権威や大儀は、日本文化圏が未だ存在しているという一事をもって、確固としてあります。何故なら、日本文化圏を形成する諸個人に内面化された「日本」というものが実存するからです。
 我々が憲法や法による秩序を獲得しようと思えば、また、外国の影響を排除する「最高独立性」という意味での「主権」を獲得しようと思えば、日本人それぞれの意識において、ほぼ無意識的に内面化されている「日本の伝統、権威、大儀」といったものに依拠するほか、仕様がないではありませんか。

 例えば、イギリスには成文憲法は存在しません。イギリスは、あらゆる時代のイギリス人が歩んだ歴史の経緯と、その時々確認された歴史的な章典をもって、「憲法」としているだけのことなのです。だから、憲法は記されていなくたって良いのです。
 我々はイギリス人ではないので、これを一切真似る必要はありませんが、この態度は大いに学ぶべきなのではないでしょうか。つまり、法の背景には国家の歴史がある、という態度のことです。

 つまり、我々は日本国憲法を国家最上の規範と考える必要はないのです。国家最上の規範は、国家の歴史的経緯であり、伝統であり、大儀であり、権威であり、道徳の系譜なのです。
 ですから、私はある意味希望を持って日本という国を観察してもいるのです。と申しますのも、人間にとって最も面白い話は、大儀や正統の話であったはずだからです。これは、「人類普遍の法則」であるといっても言い過ぎではありません。自然法を根拠に政府や既得権益から権限を剥奪するなどという話を面白がっている輩は人生を損しているのです。
 憲法問題とはとどのつまりこんな簡単な事に気づけばよいのであるから、難しい話ではないのであります。



(了)


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【第3回】日本国憲法の諸問題(基本的人権尊重主義と国民主権主義) 




【基本的人権尊重主義と国民主権主義】


 再び、三章の「国民の権利及び義務」を見てみましょう。さすれば、日本国憲法の言う「日本国民」とは「単に日本列島という場所に生きている、その時々の人間」の事を言っているに過ぎないことが分かるでしょう。

 概観するに、三章は二段階に分けてみるのが捉えやすいと思います。まず一段階目は、第10条から第13条まで。この段階は国民の権利及び義務についての『理念』を語っている部分であることが分かります。二段階目は、第14条以降ということになります。これは第10条から第13条で展開された理念を具体的に列挙して、その態度をより鮮明化していったモノと捉えるべきです。(故に、これは『人権カタログ』とも呼ばれます)
 つまり、前文で言われる「主権が国民にある」という事について三章の第10条から13条で理念として連絡していて、三章の第14条以降とそれ以降の章においてこれを具体しているわけであります。
 ここでは、前文の国民主権と連絡した理念であるところの、10条から13条を見てみましょう。


 三章では、まず先に見た第10条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」という風に提示した後、


【国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
(日本国憲法・第11条)】



 と、こう来るわけです。
 すると文脈上、『国民の権利』の根拠は、『基本的人権』にあるということになってしまう。換言すれば、「人間の権利の保障の為に、国民たる要件が法的に定められている必要がある」とこういう風に捉える他なくなってしまうのです。
 しかし、人間の権利とは一体どのような権利の事を言うのでしょう?


【この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 (日本国憲法・第12条)】



 この条文は、これを単体で見れば尤もなことのようだけれども、「この憲法が保障する自由及び権利」とは、人間の権利の事なのであります。つまり、これではまだはっきりしない。


【すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 (日本国憲法・第13条)】




 ここでこの憲法の言いたいことの根幹がようやく明瞭になってきます。
 その『国民の権利』(人間の権利)とは、
「人間個人の自由な選択が、政府機構によって制限されないこと」
 なのです。
 そして、まずそうした人間諸個人の自由な選択があって、けれどそうした中では「公共の福祉に反する事」が生じるであろうから、そこにおいてのみ「人権」は制限される……というまとめ方がされているのであります。
 要は、諸個人の自由な選択という『人権』の尊重と、『公共の福祉』との均衡が、『国民の権利及び義務』であると、そういう理念なのです。





【基本的人権尊重主義と国民主権こそ、日本国憲法のガンである】


 前節で示した、前文と三章における『基本的人権の尊重』と『国民主権(人民主権)』の文脈を、今日、否定的に言う人はほとんどいないように思われます。それは九条を否定して改憲を主張する者であっても、ほとんど同じでしょう。

 しかし、日本国憲法におけるほんとうの問題は、上記の「基本的人権の尊重と国民主権(人民主権)」の文脈にあるのです。これを言い換えて、「自由と民主主義(リベラル・デモクラシー)の文脈」としても良いでしょう。

 誤解してほしくないのですが、私には「人間」を尊重する用意はあるのです。ただ、「人権」を「国民主権」の根拠に据えるという仕方がインチキだと申したいだけなのであります。それは、先に申し上げた「国民不在の国民主権」が、「人民主権」とか「平民主権」とか「大衆主権」などといったシロモノとすり替えて提示される巧妙なレトリックなのです。

 また、それは近代主義をごく純粋化して無批判に引き受けようとする姿勢でもあります。
 日本国憲法には、「人間諸個人の自由な選択」と、「人間諸個人の選択による民主主義で導き出された公共の福祉」が均衡しうるものであるという、人間性礼賛とか人間性楽観ともいうべきヒューマニズムが赤裸々に横たわっているのです。
 これは、始原状態を想定した社会契約を根拠とした自然法的世界観が参照されていると分析するのが妥当でしょう。そうした社会契約の世界観は、ホッブズ流に主権を委託しようと、ルソー流に人民の一般意志に主権を想おうと、歴史的流れを持つかくも複雑な国家……文化圏といったものをとらえるには単調かつ画一的すぎなのです。
 それでも尚、確かに国家は一種の社会契約であると認めても良いでしょう。近代主義が、社会にただならぬ恩恵を与えてくれている事も認めないわけにもいかない。ただ、そうした社会の一側面を切り取って観察する仕様は、この膨大なる現実世界を包括的に捉えられていないのではないか、という懐疑の姿勢を持って迎えられなければならないはずなのです。

 例えば、確かに、個人の自由な選択は大事でしょう。尊重せらるるべきです。しかしそもそも、個人の自由な選択とは一体何なのでしょうか? 個人は、環境と時間の流れのなかで行動し選択するわけであるから、どこからが純粋な個人から発した行動で、どこからが環境に支配された行動であるかを区分けする事は実はできません。何故なら、主体としての個人と、個人に内面化された客体は、不可分に存在しているからであります。
 また、そういった諸個人の選択による民主主義で導き出された公共の福祉が、その具体的な運用に際して(平均的にであっても)ベターなものである為には、人間が公共の福祉なるものを至極明瞭に数値的に算出することが出来るという前提がなければなりません。しかし、公共の福祉の基準は「倫理」に関わるものであるはずだから、数値にて明瞭かつ合理的に算出できると考える方が狂っているのです。民主主義は抽象的な段階であれば平均的にベターを導いても、具体的運用にかんしてはことごとく最悪の結論を出すという事もありうるのであります。

 こうした自由と民主主義という近代主義への懐疑が僅かでもあれば、日本の歴史的経緯を統治に反映させようという姿勢があるはずですが、日本国憲法にはそれがほとんどないのです。それどころか、自由と民主主義(人権を根拠とした国民主権)を純粋化して推し進めることを強く推奨しているのがこの憲法である、と言って貶し過ぎではないでしょう。



(つづく)


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【第2回】日本国憲法の諸問題(前文と国民不在の国民主権) 



【前文と国民主権】

 ともすれば、「憲法の問題は九条だけではない」と主張すると、「そうだ。前文がマズいのだ」と応じられる場合が多々あります。そして、この有名な一説を引用するのです。


――平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(日本国憲法・前文)



 確かに、これも酷い文です。また、この前文に適合する形で九条が導き出されているのも確かでしょう。

 しかし、前文でほんとうに着目すべき所はこの部分であります。


――ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。(日本国憲法・前文)



 つまり、『国民主権』であります。日本国憲法において最も問題視されるべきはこのことなのです。

 誤解しないでいただきたいのは、私は何も「日本の主権は天皇にあるのだ! 国民に主権があるなど不敬である!」などという筋肉質な議論を展開したいわけではありません。
 というのも、この国民主権にある『国民』という言葉を丁寧にとれば、ほとんど「ここに国があります」と言っているに過ぎなくなるということもあるからです。『国民』という言葉を丁寧にとるというのはつまり、『日本の国の民』と『天皇』はイコールであるという日本文化圏における歴史的常識に基づいて解釈するということです。さすれば、国民主権と天皇主権はイコールであるという事も確認されるはずなのです。
 これは別にキレイ事で言っているわけではなくて、元々「主権」という有害なる言葉が、「国家の最高独立性」という対外的な意味でのみ必要である事を鑑みれば、国民主権と天皇主権を分けて考える必要は一切ないでしょう。もっと言えば、「主権」は日本という国家の内にありさえすればよいのであって、排外的でありさえすれば良いのであります。

 しかし、日本国憲法の全体で前提とされている『国民主権』はそうした意味で使われていないし、明らかに別の文脈をもって使われているのです。



【日本国憲法における国民主権は、国民不在である】

 このことを詳らかにするためには、三章『国民の権利及び義務』(10条から45条)を紐解く必要があります。加えて言えば、日本国憲法の最悪の問題はこの三章で明瞭に具体化されていると言って過言ではないのです。

 そもそも、前文で「主権は国民にある」とまで言っているのであるから、普通の読み手であれば当然、「では、その『国民』とは何であろうか?」と気になるはずです。
 しかし、驚くべきことに三章では次のようにある。


日本国民たる要件は、法律でこれを定める。(日本国憲法・第10条)




 常識的な人であれば、この事に軽く混乱を覚えるはずです。
 何故なら、法律というのは憲法に従って制定されるもののわけです。「国の最高法規」なのですから。そして、その憲法では「主権は国民にある」と言っている。にもかかわらず、その『国民』は「法律でこれを定める」といっているのですよ。つまり、法律は憲法を根拠にし、憲法は『国民』を根拠にし、そして『国民』は法律を根拠にしているというわけです。翻って、また法律は憲法を根拠にし……という風に考えざるをえないのだから、これは根無し草の論理と言って言い過ぎではないでしょう。

 とどのつまりこれは、日本国憲法が『国民主権』と言いつつ「国の民」を想定していない証拠であって、『国民不在の国民主権』と呼ぶべきシロモノだということに他ならないのであります。

 勿論、日本国憲法に日本国民が不在だからと言って、日本文化圏に日本国民が不在であるという事ではありません。日本の国に、日本国民はいます。また、日本文化圏は日本国憲法の出来る遥か以前からあるのです。
 ただ、それはルーツある生誕地としての国家……つまり、『ネイション』としての国家において、国民が歴史的に実存しているという事に他なりません。逆に、統治機構、システムとしての国家……つまり、『ステイツ』としての国家という意味において、日本国憲法上、『日本国民』は想定されていないということなのです。もっと言えば、日本国憲法で言う『日本国民』は、ネイションに土着した国民をステイツに反映させるという態度が非常に希薄であり、一章を除いては皆無なのであります。

 では、日本国憲法で想定している『日本国民』とは、一体どのようなものをさして言っているのでしょうか。



(つづく)


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【第1回】日本国憲法の諸問題(議論の本位を定ること) 




 ※この記事『日本国憲法の諸問題』は、昨年よそ様のサイトへ寄稿した論考の原版です。読み返してみたら我ながらなかなか良いことを言っているように思われたので、引用のくどい部分をカットしたりなどの手直しを施しつつ、当ブログにも載せていこうと思います。
 また昨今は、イスラミックステイトの件もあって、「憲法を安全保障の問題に集約しすぎた姿勢」がよりいっそう横行しているようにも見受けられますので、これを期に「憲法」の問題についての論に厚みを出せるように勉強していきたいと思っている次第でございます。



【第一回】 議論の本位を定ること

 憲法と聞けば、皆さんはどのような問題を思い浮かべるでしょうか? 巷で「憲法の問題」と言えば、すぐに九条を連想する人が多いように思われます。確かにこの九条……とりわけ二項は凄まじい文言です。特に、集団的自衛権の事が話題になっている昨今、憲法問題とは九条の話題だということが半ば大前提とされてしまっているように見受けられます。

 正直に言えば、私自身は九条の文言が大嫌いですし、集団的自衛権の問題は日本の国において大変重要な課題であると思います。
 しかし、憲法問題における意識があまりに九条の議論に終始してしまうかくのごとき状態はいかがなものでしょうか? なんと言っても日本国憲法は、前文、一章~十一章(1条から103条)まであるのです。その全容を概観せずに細部末端のみ取り上げる姿勢は、その細部における議論すら空転させてしまうのではないでしょうか。

 このことを具体的にいえば、九条ばかりにとらわれて、日本国憲法の全体に張り巡らされた純粋近代主義的な『理念』が無批判に享受されてきてしまっていることが甚だ問題だということであります。また、日本国憲法の持つ理念……根幹を論ぜずして九条だけを論じても、結局はただの罵り合いに終わるのみだということすら言えます。

 或いは、ここに九条の問題にかんしてだけは同じ意見(たとえば二項の削除)である者達があったとしても、その憲法理念に対する根本が違えば、それは立場の違う者として認識せらるるべきであるはずです。それを九条問題の雑漠たる立場の腑分けのみで議論を始めてしまっては、議論の本位を定める事は国が滅ぶるまでないでしょう。



(つづく)



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【ブログ記事批評】「大阪のこれからを考える」様より 




 最近見つけたブログなのですが、「大阪のこれからを考える」というブログがとても良くて、私はすっかりファンです。

 全部良い記事ですけれど、今日は以下の二つの記事をご紹介し、私の意見を添えさせていただきたく存じます。

「二重行政は存在しない」
(ブログ「大阪のこれからを考える」)

「二重行政という主張の出鱈目さ」
(ブログ「大阪のこれからを考える」)



 そもそも、かしましく叫ばれ続けてきた「大阪都構想」や「道州制」はたまた「地方主権」などは、二重行政……つまり、「中央・県・市といった行政単位ごとに似たような役割があって、それが行政の無駄と既得権益の温床になっている」という嘘話が根拠になっています。
 要は、その「政府の無駄」とやらを解消して効率的な政府を設計すれば、潤沢な財政が得られ、効率的に公共サービスを供給でき、非効率な公共部門の阻害から開放される民間部門は活力に満ち溢れる……」という論理なわけです。

 しかし、こうした論理は、根本の根本が嘘話で構成されている為、現実にはその上に成り立つ論理も全て砂のように崩れさります。つまり、「無駄な二重行政」など大衆(餓鬼)が言うほど存在しないし、「水ぶくれの政府」などというのは中央、地方含めて存在していないからであります。



 さて、こうした「無駄な二重行政」のような話が嘘話であることは、実は極めて具体的に示すことができます。
 たとえば、「大阪のこれからを考える」様の記事は明瞭かつ簡潔で、明らかに事実を具体的に示しているでしょう。図書館、体育館などの公共施設が「府立」と「市立」で両方あっても、双方共に使用されているのであれば、無駄ではない。それは万人の了解する当然の道理です。
 また、公共施設だけではなく、役所においても中央と府と市で似たような業務があっても、それぞれの行政単位によって違った公益への貢献の仕様があるはずで、それならば「無駄」などではない……と考える事だってできるわけです。

 しかし、こういうことを一つ一つ示しても、おそらくこう反論がくるのですよ。

「確かにそのこと一つについては間違っていたかもしれないが、全体としてはやっぱり政府の無駄と既得権益が社会を不合理にしているに決まっている」

 と。

 こうした小賢しいことを言う連中には色々と言ってやりたく思うわけですが、とりあえず大きな疑問が一つ浮かびます。
 そうした輩は、何故、まず「その一つの政府の無駄への糾弾」が「嘘」であったことに対する「不誠実」について、一瞥もくれぬのか、と。だって、もし彼に良心というものがあれば、こうした「嘘」が「政府に対する不誠実だった」と、まず考えるはずでしょう。

 しかし、多くの日本人共はそう考えない。
 何故なら、多くの現代日本人(大衆)は、「政府についての糾弾であれば、疑わしきは罰せよ。多少の虚偽は大目にみてよろしい」と思っていやがるからです。つまり、日本人の心は腐りきっているのです。

 ですから、賢明なる「大阪のこれからを考える」様は、大阪都構想に懸命に反対しておられるが、きっと大阪市民は都構想を選ぶに決まっているのです。何故なら、大阪大衆民も日本大衆民の一部であり、日本大衆民は腐っているからです。
 たとえば、「小泉郵政改革選挙」、あるいは「民主党政権交代選挙」を思い出してください。大阪都構想住民投票は、あれらと嘘話から論理までほとんど同じで、この大衆(餓鬼)による破壊から大阪市を守る手立ては理論上ないのです。これは、「日本」を大衆の魔の手から守る手立てが理論上ないのと同じことです。

 私は、「大阪には大阪であって欲しい」と願う者の一人なので、非常に残念です。




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【読感文】「小林秀雄 学生との対話」 



 今日は、『小林秀雄 学生との対話』というご本を。
 これは、全国から集まった学生に向けて小林がした講義と対話を纏めたものです。編集が国民文化研究会・新潮社。出版は新潮社。


 小林秀雄の書くものは確かに難解です。たとえば私は(あれは二十歳代の中盤だったか)、かの小林秀雄の出世作だというから『様々なる意匠』を油断して読み、終わる頃には単に青色吐息になったという苦い経験があります。


 しかし、難解で取っ付きにくいと思いつつも、「小林秀雄」に興味のある方は大勢いらっしゃるでしょう。なにしろ、日本における近代文芸批評の祖といわれていて、しかも日本の保守思想の重鎮と考えられている。その上、いわゆる「保守的な政策提言」のようなものをネームバリューを用いて大々的に主張した様子もない。
 ならば、「政治」から離れた上での「批評」というフォーム(姿)だからこそ含みうる保守思想の普遍的エッセンスを抽出して、是非とも自らの養分にしてみたい……という風に、多くの人が思うのではないでしょうか。


 そういう小林秀雄の思想と親しくなるきっかけとしての良書が、今日紹介している『小林秀雄 学生との対話』というわけです。

 学生との対話ということはつまり、小林秀雄の「はなし言葉」ということであります。ですから厳密にいうと、これは小林秀雄の著作ではありませんが、小林秀雄の仕事ではある。そして、相手は学生でありますから、学生にも理解が可能なような語りかけであらねばならないわけです。

 これがなかなか読み進めやすい。
 また、はなし言葉だからといってあなどれなくて、その講義、対話の中から小林秀雄の人間の一端のようなものを垣間見ることができます。

 たとえば、小林は批評の中で人を褒めます。はなし言葉でもそれは同じです。本居宣長を褒め、柳田國男を褒める。しかし、注目すべきは、その「褒め方」「褒めどころ」なのです。
 小林は、その創作人の「私」としての直覚、信仰、主観といったものを重視します。
 対して、万人に通用するような分析の手法、制度、数理科学、客観といったものをそれ自体として評価しません。もちろん小林とて、分析や客観を蔑ろにするわけではありません。手段として、手法として、分析や科学を駆使すべきであるとは言っている。ですが、小林が感動し、褒めるのは、創作人の直覚や信仰といった主観性なのです。だからこそ、小林は政治的イデオロギーといったものを嫌い、政治的な群れを嫌い、政治的制度論については論を伸ばさないわけであります。

 そういう態度は「実存」と「保守」と「実践」の問題としてさらに複雑な問題を孕んでいるようには思われますが、少なくとも小林秀雄の「姿(フォーム)」が、はなし言葉の中からも大いに見て取れることだけは確かです。ですから、講義、対話といった「はなし言葉」はあなどれないのであります。


 また、一度そうした小林の姿(フォーム)に触れておくと、たとえば『様々なる意匠』なども捉えやすくなる。要は、「はなし言葉での姿」が頭の中にあるので、その「書き言葉の姿」も同じ人物の心の連続の中にある……という風にイメージしやすくなるからであります。

 ただ、そうやって小林秀雄の「話し言葉の姿」「書き言葉の姿」に少々触れてみても、その姿をモノに出来ていると思うのは勘違いです。たとえば、私がこうやって本の紹介をしているのは、小林の言葉の「意」を似せているに過ぎません。その言葉の「姿」を似せようとするならば、やはり読書百遍が必要になってくる。
 しかし一方、読書百遍にしても最初の一遍からだし、また、非凡な創作者の姿(フォーム)に触れてゆくにも最初の一冊からということも言えるでしょう。



学生との対話 小林秀雄(国民文化研究会・新潮社)





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愛知県知事選挙と地方自治について 



 今日は我が愛知県の県知事選挙なのですが、これがまた極めてつまらない選挙であるわけです。
 とりあえずこれを見てください。



愛知県知事選挙立候補者

 大村 秀章 (現職)  無所属(民主、維新、公明、生活、次世代推薦)

 小松 民子       無所属(共産推薦)



 どうです! つまらないでしょう!

 私は思うのですけれど、県知事は選挙ではなく、「家柄」で決めることにしたらどうかと思うわけです。
 つまり、愛知県なら尾張徳川の血筋を引いた家督相続者が県知事を務める……つまり藩主みたいな感じで。

 いや、しかし、それだとあまりに幕藩体制的な連合国家のようになって、日本全体としての纏まりを欠き、グローバリズムに飲み込まれることになるか。
 ならば、やはり戦前のように中央から知事を派遣するのが良いか。

 どちらにせよ、地方自治において、首長も議会も住民の「投票」で決める必要なんてまったくないのではないでしょうか。

 つまり、地方自治にも
1、住民による支配
2、歴史的支配としての「世襲」
3、中央の官僚的指導
 がバランスよく振り分けられているべきなんじゃないか、ということ。

 そのうちで、「1、住民による支配」は、地方議会議員の選出だけで十分じゃないでしょうか。首長は、住民に選ばせてはいけないし、選ぶべきではないし、事実上、選ぶこともできていないのです。

 例えば、大阪の某市の市長は、あれはもうほとんどメチャクチャでしょう? 多分大阪市民の平均人徳は、あれよりは絶対マシであるはずであるから、住民が選挙で選ぶことによって、住民平均以下の人物が首長になってしまうという悲惨な出来事が起こりうるという悪い例をまのあたりにしているではないですか!

 憲法改正というのであれば、その辺の地方自治にかんする条項の削除も議論すべきかもしれないですよ。
 つまり、日本国憲法92条、93条あたりです。
 地方自治についてなど、憲法にとやかく言われる筋合いはないと思うのです、私は。


 まあ、ともあれ。愛知県知事選の投票へは行ってきます。
 書いていることが、「面倒がって投票へ行かないことの言い訳」になってしまったら嫌ですからね。
 私が選挙へ行くのはほとんどそれだけの為で、他に理由なんてあるはずもないのです。



Category: 日記

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