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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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愛知県民からみた大阪都構想・2 



 たとえば、我が愛知県にも「中京都構想」なんて話がありました。
 2010年に、愛知県知事の大村秀章が知事選挙へ出馬する際の公約に掲げていたという経緯がありますので、まあそういう話があったということは確かなんです。

 しかし、そんなもん誰も本気にしちゃあいない。当初からお題目みたいな話であったし、今じゃあ構想の体をなしていないですし。

 まあ、そりゃあ当然ですよ。

 というのも、(これは、愛知県民にしか分からない感覚でしょうけれど)「名古屋市」という範囲、行政単位、共同体は、それ自体に大きな「性格(キャラクター)」というものがあるのです。

 そもそも、会社を「法人」という風にして有機的な性格が付与されるように、共同体にはその共同体そのものが生物のような格調を帯びるようになりますね。ですから、都道府県であろうと、市区町村であろうと、それぞれの制度的行政単位と不可分な形で有機的な「性格」というものができあがりますでしょう?

 愛知県であれば、日本国の中で「愛知」という共同体に生物性が帯びるのと同時に、名古屋市だとか、豊田市だとか、瀬戸市だとか、常滑市だとか、という市区町村ごとの生物性を帯びるようになる。
 また、それぞれの市には各種各様の特性があり、権力の均衡があり、役割分担がある。しかし、だからこそ、それぞれの市は平等ではないし、平等である必要もないのです。だって、共同体の性格が違うんだから。ピッチャーに向いていて目立つ奴もいれば、分析の得意なベンチウォーマーもいるに決まっている。

 そして、「名古屋」という性格(キャラクター)には単に愛知県の中の「一つの市」ということ以上の意味があるのは明白です。愛知県は、名古屋以外に都市はありますが、名古屋は別格だとみんなが思っている。
 これは、おおよそ「県庁所在地」という事に留まらないのです。
 おそらく、「名古屋」というキャラクターは、「愛知」というキャラクターと同等かそれ以上の強さをもっています。それだけの歴史もある、伝統もある、人間交際の網の目もある。

 当然ながら政令指定都市ですし、日本有数の大都市である。また、そういう名古屋という大都市の「核」があることによって、周りの市区町村も自分達の役割を演じることができるのです。これは、統治の恩恵の一つともいうものであり、そのくらいのことは愛知県民であれば大体皮膚感覚で分かっている。



 そういう「名古屋」という性格(キャラクター)は、いわばこの地域の文明的の財産ですよ。これの解体は我々の存立に関わるが故に、タテマエの題目以上の域は出なかったのです。要はキレイ事の領域であり、本気の話にはなりようがなかった。
 だって、名古屋という性格(キャラクター)を保つには、「名古屋市」という行政単位にそれ相応の「権限」があってこそです。つまり、名古屋という単位で振るう事の出来る権限が保障されていなければ、そのキャラクターは持続不可能なのです。何故なら、確かに共同体は生物的であっても、それを構成する個々人の人間というものがあり、恣意があるのですから。それを、もし「名古屋」という単位で振るうことのできた権限を「愛知県」という広域行政に移譲すれば、名古屋の中で行われていた密な都市的人間交際は土台を失うのです。

 それほど、「行政的権限」というのは共同体の維持や人間の交際に密接で、だからこそちゃぶ台をひっくり返すような「行政の改革」はしちゃいけないのであります。
 いくら「役人なんか気に食わない」と思っていてもね。



 加えて言えば、中京都構想の場合、当初積極的に打ち出したのは大村秀章という「愛知県知事」の方だったことにも注目してもらいたいものです。これは当然の話で、名古屋の権限を愛知に移譲するのが都構想なのであるからして、ごく順当にいけば広域行政の知事の方が乗気になるのは当然でしょう。

 しかし大阪の場合、都構想を唱えているのは大阪府知事ではなく、大阪市長だというから本当に病的という他ありません。
 まあ、こうした「大阪市廃止」を大阪市民が喝采する病的な状況は、「行政から権限を剥奪し民間へ流すことが、効率的で進歩的で自由で民主的である」といったような、平成大衆ガキ理論から来ているわけだから、大阪市民だけが悪いというわけではないのでしょう。日本人全体も、しばしば今の大阪市民のようになり、政治制度改革だの、郵政改革だの、政権交代だのといって改革、改革、改革……と、ことごとく全て失敗してきたのですから、人の事ばかりは言えません。



(つづく)
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貴人と賎民の差――良心に基づく民主主義批判 


 今日は少し哲学的な思索から出発します。

 まず、「美」ということを考えてみましょう。
 美しい……と感じる心。そういう気団が心のうちに生じることが人間にはある。これは人間普遍的なことです。

 紀貫之は土佐日記で「楫とり、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひ」=「船頭は情緒を介さないので自分勝手に酒を飲んで……」という風な表現している。つまり、ものを「あはれ」と感じる情緒は高貴なる歌人にしかなく、船頭などという下賎な連中の心の中には情緒などうまれはしない、ということを意味しているわけです。

 でも、これはおかしな話ですね。だって、心の中に「情緒」の浮かばない人間などいないでしょう? 貴族であろうが、平民であろうが、船頭であろうが、乞食であろうが、世界の美しさに接して心に浮かぶ情緒そのものは普遍的に存在すると考えるのが、どうみたって妥当です。

 しかし、ここで気をつけてもらいたいのは、だからといって「全ての人間に同じ価値がある」ということにはならないということです。世間では、情緒の領域が人間普遍的だからといって、生きている人間の価値が全て同等だと早合点する輩が多すぎる。そんな風に安直に考える仕方は、「自由と民主主義」が大好きな現代人の悪弊で、人間の価値には貴賎がある。絶対にある。また、あるべきである。

 ただ、「心に浮かぶ情緒の段階」では、その貴賎の基準になりようがないという事はきちんと認識しておくべきなのです。土佐日記の「楫とり……」の文はそういう意味での紀貫之のミスであるというだけで、「人に貴賎のある」という前提そのものは別に間違っていない。
 では、人間の価値、貴賎というのは、どのような心の段階をもって量られるのが適切か?
 それは、そうした自分の「心に浮かぶ気団としての情緒」を「解釈」する精神的作業の厚みをもって量られるべきなのです。

 例えば、「船頭」の心には情緒が浮かび得ます。花にだろうが、霞にだろうが「あはれ」という気団が心に生じる。これは人間だから当然です。しかし、そうした自分に生じている情緒の気団を解釈しようとする精神作業……つまり、「綿密な自問」は、船頭ではできぬことです。自問というのは、思考の領域ですから、すなわち言葉の領域です。だから、この解釈、思考、自問といった領域こそが、「歌人」の住処なのです。つまり、言葉を操り、「私」という経験主体と「世界」という経験客体の総体を解釈する言語作業の厚みが、貴人と賎民の違いである。



 これは「美」についてだけではなく、例えば「良心」ということについても同じことです。
 人間は、(生まれ持って狂人の0.1%のモンスター以外は、)99.9%の人間に「良心」というものがあります。
 だから、「良心のあること」は、別に人間の高貴さのゆえんにはならんのです。そういう心の気団というのは万人が持っているのですから。自分の心に絶対あるはずの良心を、自問によって解釈する言語的、精神的作業を経てはじめて「良心」というものが現実世界に活きてくる。

 こうした解釈、思考、自問といった領域が、なぜ人間に高貴さを付与しうるかといえば、その精神作業はとどのつまり最終的には「崇高なるもの」へのつながりに収束していかざるを得ないからです。西洋で言えばゴッドとの解釈的筋道ということになるが、我々であれば天皇……あるいは天皇が媒介となって先にある「太陽」への解釈的つながりを持とうとしていく。
 そもそも、人間にこうした崇高さへの解釈的連なりがなければ「文明」というものはありえないのです。また、「文明」は人々がどう正統なる崇高さへの解釈的道筋を発現するような「自問」や「人間交際」を獲得していくかによって、興亡が決まってくる。
 ですから、文明は時間の進むごとに進歩していくものではないのです。時間と共に必ず進むように見えるのは科学技術(テクノロジー)だけで、文明は春夏秋冬四季のごとく発達したり衰えたりするものなのであります。とりわけ、高貴、崇高といったものを失った文明にもたらされるのは、いいとこ科学技術や便利の発達だけで、「文明」は没落してゆくのです。日本文明の場合、太陽の燦燦と降り注ぐ夏は徳川時代にあり、されど明治のご維新で寂しげな秋を迎え、大東亜戦争後には冬が訪れ、現代になり文明の幕を閉じようとしている。


 さらに、ここで「政治」や「統治」に、人々の「良心」を活かそうとした場合を考えてみましょう。この際、よくされる過ちが、「民主主義」と呼ばれる最悪のイデオロギーです。
 すなわち、人間には99.9%の人に良心がある。だから、0.1%のモンスターに政治権力を握らせない為に、100%全てへ平等に権力を割り振ればその多数は「モンスターが導くような最悪の結論」は導かないだろう、と。また、民主主義は「ベスト」は導かないかもしれないが「ベター」は保証する……などと言われたりします。
 しかし、それが過ちなのです。少なくとも私の物心ついた以降の世の中では、「民主主義」は常に最悪な結論を導いてきた。
 それは当たり前です。だって、99.9%の持つ「良心」は先で申した心の気団の領域であり、それを自問の領域でもって現実世界に活かすという高貴なる作業を実とする者はほとんどいないのです。おおよそ、政道に向けて良心を活かす言語的自問を積み重ねた者は、これも全体の0.1%ほどではないでしょうか。

 ですから、「万民に良心のあること」は、「万民に政治権力を振り分けること」の根拠にはならないのであります。だって、良心を持つ万民は、その良心を言語の領域にまで発現させることができないのですから。実際に民主的に多数の言葉として現れるそれは、常に最悪の言葉群(世論)となって現れる。その最悪な言語群であるところの「世論」に支配された世の中では、政治家は常にその最悪な結論に従って政策を執りおこなっていかねばならなくなる。だから、今の世の誰が可哀想かって、政治家が最も可哀想なのです。

 我々が、真に万民の良心に基づいた「輿論」を人間交際の網の目に活かそうとするのなら、むしろ0.1%の崇高なる自問を経た貴人の言葉をどう政治に活かすかという事を考えるべきなのであります。
 逆に、もし、いつまでも「民主主義」などという眠たい話にうつつをぬかしていると日本文明はこのまま溶けて流れて没落、消滅してゆくに相違ないのです。後に残されるのは、非文明的で無色透明な「文字列としての法」と「科学技術」だけの野蛮地域ということになるでしょう。



(了)
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愛知県民からみた大阪都構想・1 

 いわゆる大阪都構想というものが単なる愚であることは、実を言えば大阪人以外からすると至極明瞭なことであります。
 しかし、当の大阪市民だけが「維新」や「大阪都構想」という軽薄な響きに群がり、虚構の理を信じ、あたかも狂騒乱舞のごとき様相を呈している。
 
 喩えて言えば、これはほとんど、ギャンブラーが望み薄の逆転劇に無理やり「理」を構築し、無為に財産を突っ込んでゆく様と同じです。
 周りの客観的な視点から見れば、彼の無理やりな「理」はまったく空理、空論、夢想、蒙昧でしかない。
 ただ、そのギャンブラーに向かって「やめておけ」と周りが諭しても、彼は「自分の事は自分が一番よく分かっている」と思っていますから聞く耳を持たない。あるいは、「代案を示せ」と開き直るかもしれない。
 でも、明らかに取りやめるべきギャンブルをやめる事に「代案」など必要ないでしょう。あえて言うのであれば、ギャンブルをやめること自体が代案なのです。そして地道な道を歩んで行くのが王道というものでしょう。



 そういえば、私石川は、愛知県のさる田舎町に住んでおります。もっとも我が一族は所詮は流れ者であるからして純然たる愛知県民というわけではないが、かなり長い間住んでいるので私個人としてはとりあえず愛知県民という自覚がある。

 そんな愛知県民である私が、大阪都構想の騒ぎを聞いてまず驚愕したのは、関西圏では「維新」とか「橋下徹」とかいったワードがネガティブにせよポジティブにせよ未だそれなりの話題にのぼっているらしいこと自体なのです。
 と、申しますのも、私の普段の生活的印象からすると、維新は当然のこととして橋下徹などという名前も既に「過去の人」であったからです。だって、街や世間で聞く日常的な時事的話題に上ることは皆無だし、滅多にみませんがテレビ、新聞、ラジオ、雑誌などのメジャーな媒体に出てくることもなくなっていた。
 大阪の人でこれが嘘だと思う者あらば、ためしに東海道新幹線に乗って名古屋にいらっしゃい。それで駅の構内の辺を闊歩するビジネスマン風の男たちに問いただしてみるがいいでしょう。「橋下、維新をどう思うか?」と。
 いいところ、
「ああ、そんな人もいたね。まだ政治家やっているの?」
 という調子で答えられるのみですから。
 我々からすると、「橋下徹」とか「維新」とはそれほどマイナーな存在なのです。橋下徹はいいとこ「そのまんま東」に毛が生えたようなものだし、維新は「みんなの党」のようなものというのが我々の実感なのです。いや、橋下徹よりも「維新」の方がまだ認知度は高いかもしれません。というのも、かつて「日本維新の会」がありましたから、そちらのほうのイメージはあるのです。というか、ほとんどそのイメージしかありません。そして、我々にとって維新は、既に敗れ去って風化してゆくかつての微風としか捉えていない。石原慎太郎も引退をしましたしね。
 橋下徹に至っては言うなれば、昔日の一発屋芸人という形容がもっともそれに近い気がします。その証拠に、我々が橋下徹と聞くと、かつての一時で僅かな流行の軽薄さを振り返ってする時に決まって零れる「苦笑い」が、必ずその顔面に浮かびますから。
 だから私は、大阪人の大きな割合が、未だに橋下徹を「時の人」として扱っているらしいという実態そのものに驚愕もし、酷いギャップを感じたのです。
 というか初め、関西の知人の言だけでは到底そんな実感は理解しえませんでした。でも、インターネット上の大阪市民の言なんかを無作為に見てみますと、確かにいわゆる「橋下信者」のような有象無象がいまだ大量に蠢いている。かなり尋常ではないレベルで。
 これには、酷く歪で禍々しいものをすら感じました。

 このような維新、橋下に対する大阪人との感覚的ギャップは、何も我々愛知県とに限ったことではないと思いますよ。
 関東はおろか、東北、北陸……たぶん、関西テレビ圏以外は、我々愛知県民と似たような感覚でいるように思われます。
 要は、もう日本全国、大阪以外は「橋下徹」なんて男のことは忘れていて……いや、よしんば名前くらいは覚えていたとしても何を言っていたかなんか覚えちゃいないのです。あとはただただ「軽薄で取るに足らない」という印象だけだから、普通に相手にしていないだけというのが実情でしょう。でも人は普通、相手にしていないということをわざわざ表明したりはしませんね。何故なら、相手にしていないんですから。だから、なかなか相手にされていないということに気が付きにくいのです。

 つまり実際、未だに橋本徹をチヤホヤしているのは、大阪人だけなのです。
 逆に、このことを大阪市民に説いても、中々理解されない。本当に、まだまだ橋下徹が「時の人」だと思い込んでいる。維新が「時流」に乗っていると思い込んでいる。
 大阪の「時」とやらは、周りの者がふとその様を覗き込めば甚だ時代遅れでカビ臭さすら漂わせている。でも大阪の人は、「大阪こそが世界であり、大阪の一番がすなわち天下一」だと思っている節があり、また、「大阪のことは、大阪人が一番よく分かる」と閉じこもっているから、中々周りの意見なんて聞きません。そりゃあ大阪市民にとっては、周りの意見より「大阪の英雄」たる橋下徹の方がその東京コンプレックスをうやむやにするのに都合がいい「理」を提供してくれるものだから、いつまでたっても盲目的に彼を信じ続ける。案の定、周りがいくら「都構想なんて空理空論に頼るのはよしておけ」と言っても「代案を示せ」「よそ者に何が分かる」などと返してくるわけです。



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楽チンに暮らせる国だから愛すという似非愛国心 



 近頃、「愛国心」ということを言う人も増えてきました。良いことのように思われる反面、浅薄なことを言う輩も増えているように思われます。一言で言うと、「都合の良い愛国心」とでも称してやりたくなるような。

 例えば、少し前ですが、次世代の党の杉田水脈前衆議院議員がネット上の言論かなんかを引いてきて、「日本に生まれた時点で三億円の宝くじに当選したくらいの価値がある」なんて事を言っていましたが、これなんぞ「都合の似非愛国心」の代表的な現われではないでしょうか。

参考:「日本の良さって何だ!?」https://www.youtube.com/watch?v=qPgsDgi-5ao

 まったくもって、仮にも成人した良い大人が、なんという浅はかなことを言うのだろうと驚きました。



 しかし、こういう「日本に生まれた時点で三億円の宝くじに当選したくらいの価値がある」みたいな下賤で汚らしい大衆的心根が「日本という国を好きでいる動機」になって愛国心を唱えているような連中は、そこら中に結構見かけるわけです。
 これはつまり、今の自分が「日本人として生まれたというだけで、よその発展途上国の人々よりは楽チンな生活を送る為のアドバンテージを持っていること」そのものに、優越意識を持っているということでしょう? まあ、百歩譲って、そういう優越意識のあること自体は許してやっても良いですが、その心根を臆面もなく曝け出して恥ずかしくないどころか自慢げにのたまうという道徳的センスの欠如は看過できない醜さでしょう。

 第一、こういう連中というのは、とどのつまり、そういうアドバンテージを付与してくれるような日本であるからこそ愛に繋がっているという筋になっているのだから、もし、「日本」がそういうアドバンテージを付与しなくなった場合は霧散する愛ということになる。これじゃあ、「金の切れ目が縁の切れ目」みたいなもんでしょう。こういう愛はふつう「偽愛」というのであって、つまり愛ではないのです。

 少なくとも、愛国心……国を愛する心を強調するのであれば、もし、日本という属性が自分に対して世界最低水準の生活基盤しか与えない事になろうと、「日本」ということにこだわる激烈な魂がなければ嘘ですよ。
 そもそも、我々が自分の事を日本人と思うからにはまず、日本というものへの土着心というものがあるはずです。その土着心の共通集合の事を「ネイション」という。こうした土着心は、通常自覚されない心の領域ではあるけれども、何事かそこに危機が生じるとそこへの「こだわり」という心的作用によって強烈に自覚せざるをえなくなる。
 この心的作用の事を愛国心(ナショナリズム)というのであって、「楽チンな生活を送る為のアドバンテージを持っていること」なんてのはオモチャのような話なのです。


(了)
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【ブログ記事批評】WJF様より「自民党が大阪都構想を批判する呆れた理由」について 




 今回はよそ様のブログ記事についてで、WJF様の「自民党が大阪都構想を批判する呆れた理由」という記事について批評を試みてみたいと思います。

 これは少々前の記事でありますが、WJF様のように自分の考えの正直な所を大胆に開陳するような言説は、世に言論多しと言えどもなかなかもって稀有で、また、その稀有が現れた瞬間にこちらの生活的時間や批評的精神の状態が合致するとも限りませんから、取り上げるのに多少の時間的ズレのあることは致し方のない所でもあるのです。どうぞご了承くださいまし。



 さて、このWJF様の記事。なるほど、さすがに良い事を言っています。

 まず、自民党大阪府連のwebページで示されているような、
「大阪都構想は、道州制の妨げにしかならない」
 という筋での大阪都構想への反対が論理上ありうる、という指摘に着目しましょう。
 なるほどこの場合では、大阪都構想への反対の議論の前に、ちゃっかり道州制が既定のものとして前提とされていることになる。これが拡張されると、「大阪都構想か、道州制か」といったような二元的議論に集約されて型が仕立てられてゆく恐れもあるでしょう。
 一方、このことを多元的……つまり、総合的に考えれば、「道州制も大阪都構想も両方クソッタレ」という発想もありうる事が分かるし、そしてそれが良識的な姿勢であるということも分かる。

 この点においてはまったくもって頭の先から指の先まで大賛同なわけですが、ある部分についてだけ異論があるのです。

 それは、そうした「二元的発想」というものを、「大衆操作の常套手段」と捉えている所。また、そうした常套手段を駆使する実体的な敵の存在することを前提とし、「自民党」という既存の政治組織をその中心部として見なしている所です。もっと言うと、朝三暮四で「操られている猿側」を非権力の大衆側とし、「操っている主人側」を自民党をはじめとする既存の政治権力機構側と見なすことを前提としていることが、世の実際を表していないように思われるのです。
 もっとも、現代大衆日本人が「黄色い猿」であることにはまったく異論はないですが、この場合、主人の方は猿の請求に迎合し続けなければ存立不可だったということも無視できない。ですから、(特に平成時代には顕著に)むしろ主人方は猿方の傀儡として操られる側に甘んじてきた……というのが私の見方です。

 故に、WJF様のように、世で起こる「二元的発想」というものが、何らかの敵の恣意によってのみもたらされているという前提は、ずいぶんと大衆に優し過ぎる見方のように思われるのです。それが大衆だからといって過剰に厳しく評ずる必要はないけれど、現実の実際として「二元的発想」のごときは多数派大衆の代表的性質の一に違いない。

 確かにグローバル資本やアメリカ、新自由主義者に自民党を傀儡せしめる恣意があることは明確だろうし、そうした部分を無視するわけにはいきませんけれど、それは自民党という「既存の政治組織」の全てを説明する要因にはなりません。はたまた、そうした既存の政治組織の組織性の中での政策的運動の範囲までを含めて「新自由主義と道州制の肚心を隠し持った徒輩」と換算するのは、「政治」と「権力」に対してあまりに不寛容というもの。
 政治と権力に不寛容であることそれ自体は別に構う所ではないのですが、その分だけ「自分は平均人様だ」と傍若無人よろしく好き勝手にふるまう多数派大衆の罪と低劣さが小さく見積もられることになってしまうのは都合が悪い。
 もっと言うと、自民党という既存の権力組織や、その助言者たる藤井聡教授の政治的ふるまいまでが「悪漠とした大衆操作者」と見積もられてしまうと、それらがスケープゴートとなって大衆平均人共は無罪放免屁のカッパということになってしまう。


 道州制や大阪都構想の場合、つまりはこういうことです。


 まず一方、「維新の会」とやらの特に大阪都構想における実体は、大阪周辺の大阪大衆平均人達のヘドロティックな欲情にあることは、他県民からすればかなり明瞭に見て取れるでしょう。
 大阪の市民は、「今の大阪が、十八番である商業ですら東京に遅れをとっているのはどうしてだろうか」と考える。その場合、大衆は「自分が悪い」とは考えません。何せ大衆ですから。「世界で一番生活の苦労をしているのは自分で、生活の苦労があるからには悪くないはずだ」と考えていやがるに決まっている。そして概ね大衆平均人は、「権力者、支配者、政治家、役人……が悪い!」とブーイングを続ける。また、「なぜそうした悪たる支配者、権力者が悠然としていられるか」と考え、結局「既存の権力機構、組織が、既得権益の吹き溜まりになって権力者がズルをしているからだ」と結論する。
 だから、「一旦、今の大阪市や大阪府から権限を取り上げちまうのがよろしかろう」と振る舞う。そういうことは大衆にとって非常な享楽で、大衆は権力から権力を取り上げるのがおもしろくてたまらないのです。
 さらに大阪の場合、妙ちくりんでみっともない「東京コンプレックス」があるので、新しく打ち立てる行政組織は「大阪都」という風にするのが最もスマートでよろしかろうと考える。もっとも、ご案内の通りいわゆる大阪都構想を決める住民投票は、これが通ろうとも名称は「大阪都」にはなりません。が、多くの大阪市民のイメージとしては「大阪都」というワードが念頭にあるのは紛れもない事実でしょう。また、理屈の上でも、今の大阪府にそれぞれ市が持っていた権限を集中させ、村長区の単位を広範な特別区として纏めあげるというのは、明らかに「東京都」をモデルにした発想なのですから。


 もう一方、そうした実体の腐根が「大衆」の方にあるというのは、「道州制」にしたってまったく同じです。つまり、道州制の実体は、日本人全体のヘドロティックな欲情にあるということ。
 その証拠に、「道州制」はそもそもが「地方主権」のドグマが大衆の中にあり、その拡張から成り立っているものじゃあないですか。
 例えば大衆は、小泉政権下で喧伝された「三位一体改革」における地方主権論を喝采していましたね。遡れば平成の御世から――はたまた戦後、あるいは近代(モダン)の純粋系として――という事になるかもしれないが、地方主権のドグマが大衆の請求によって色合いを強くしてきたことの証拠として小泉政権というものが提出できるでしょう。
 ここでは三位一体改革の説明は省きますけれど、この類いの愚かしい改革話がなぜ支持されていたのかを考えれば、やはりその祖は大衆のガキ性ということになる。尤も、小泉純一郎だって自民党じゃあないかと申されるかもしれないが、「自民党をぶっ壊す」といった言葉に象徴されるように、小泉政権の勢力が「自民党」というよりは「大衆」を背景にしていたことは紛れもない事実であります。「大衆」という暴力的な力の前では、「自民党」という政治組織の力は絶望的に無力だった……というのが小泉政権の大体のあらましなのですから。
 そして、三位一体改革が喝采されたゆえんは、以下のような大衆日本人の敷く低劣な前提があったからです。

1、政府からは権限を取り上げた方が自由で民主的である

2、中央政府に権限があるより、地方政府に権限を持たせた方が自由で民主的である

 こういった小学生級の前提が大衆世論の不文律としてまずあったので、三位一体改革、地方主権……といった志向が生まれてしまった。というか、そうした大衆迎合に最も長けた小泉純一郎がごとき輩に、力が与えられてしまった。

 しかし、生活の「運命」には一向に頓着しない大衆も、生活の「苦労」といったものには敏感であるからして、三位一体改革的な方向性のとある一つの問題点だけはかなり指摘されることになる。
 それはつまり、「地方切り捨て」の議論です。
 当時、「三位一体改革は、地方切り捨てだ」という反撃が世間でよくされていたのを記憶しております。私もその点あながち間違いではないとは思いましたが、しかし、結局のところ世間で言われていたそれは単に「弱い人が可哀想」とおセンチになっているに過ぎない反撃だった。しかも一方で、上であげた大衆の敷く二つの前提は手放していないという都合の良さ。
 そうなるとまたまた結局のところどうなるかと言えば、こうなる。すなわち、

「地方政府の単位を大きくして、そこへ権限を集約すれば、その規模故に地方自治体が各独力で存立しえるし、弱い都道府県もその州に含まれて運営されるからして切り捨てにならないはずだ」

 というような。

 そう。ですから、こうした大衆日本人による「地方主権のドグマ」の流れの上にあるのが道州制なのです。また、それが大阪に適用された場合は大阪都構想になっているというまでのこと。




 そうなると私は、道州制推進で新自由主義者とグローバリズムに国を売っていたのは、自民党というよりむしろ大衆……そこら辺にいる普通の平均的日本人の多数だったとしか考えようがないと思うのです。
 言い換えれば、維新の会の実体は「大衆」にあり、自民党に新自由主義的色合いを求めてきたのも大衆であったということ。

 しかし、「維新の会」と「自民党」では、決定的に違う要素がある。
 それは、「維新の会」が新参の新興政治勢力であり、大衆の欲情そのものであるのに対し、「自民党」は既存の政治組織であり、大衆の欲情に干渉を受けるものであるという点です。


 私は、大衆の浅薄で短期的欲情に対抗する唯一のものとして、「既存の組織体」の土台の中で育てられてきた人間交際のシガラミを重視します。既存の組織体は、それぞれ諸個人を制限し、選好を制限し、振る舞いを制限するが故に、それら歴史的制限の上で「常識」というものを形成します。この「常識」が、人間社会、天下国家の包括性、総合性を担保し、近視眼的な大衆の請求を棄却する唯一の対抗手段なのです。
 つまり、「組織」は古い方が良く、シガラミがある方が良く、既得権益に縛られていた方が良いに決まっているのです。

 政治組織においては、自民党や官僚の組織がそれにあたります。この場合、例えば自民党を「変える」というような志向ではなく、自民党の自民党的組織的シガラミを重視し、「元に戻す」とか「変えない」という事が重視されるべきでしょう。よしんば「変える」にしても、既存の組織を既存たらしめ、その組織の常識が現状においてより活かされるという風に変えられなければならない。それであれば、変革は現状に対応しての微調整というものに集約していくはずであります。

 その上で、もし人が「政治的な意志」を抱くとすれば、それはその既存の組織における既存性、制度、手続き……といったものを十分に尊重した振る舞いであらねばならぬはず。政治組織であれば自民党や官僚組織の既存性に即した形で、そして「嘘は言っていない」という言葉遣いの慎重さを持って、その政治的意志を実現してゆくような振る舞いが求められるということ。
 逆に言えば、政治的活動とは、こうした振る舞いの如何によって「正統性」のあるやなしやが評価されるべきなのです。

 ですからもしWJF様が、藤井教授の「大阪都構想:知っていてほしい7つの事実」や、自民市議団の柳本顕幹事長の議論を批判するのであれば、こうした正統性のあるやなしやが語られていなければならないのではないか、と考えるのです。私は、これらは立派な政治的活動であると考えますが、仮に「そうでない」と言うのであれば政治的活動としての振る舞いに至ってまで論じられての事でなければ不当のように思われる。
 それを、ただ単に「道州制に推進的な自民党に関わっているから駄目」というのでは、現実世界における政治的振る舞いというものが不可能になってしまう。何故なら、「自民党」は、「道州制に推進的な……」という大衆的属性と共に、「既存の政治組織」という属性もあるからです。
 もし、もはや既存の組織に即した政治的振る舞いということが認められない段階にあるというのであれば――つまり自民党という組織の政治体制がその「既存性」の中に含んでいた人間交際のシガラミや常識や総合性を完全に失っていると考えるのであれば――それは、正統なる政治的振る舞いそのものが存在しえないということになる。何故なら現今、既存の政治権力組織とは「自民党」と「官僚」しかないのですから。
 そういう判断であれば、そういう判断でもかまわないのですが、ならば、政治的言論というのもまた「既存」という正統性を失うことになるが故に、もはやペンを捨て、剣を持たねばならないという話になってくる。つまり、そういう判断をしているのであれば、事は暴力の段階に入っているという判断でなければおかしいということ。何故なら、既存組織を離れた所でペンを持って多数派を形成するというような民主的発想に、正統性などないのですから。
(媚びるわけではありませんが、私はWJFのファンでありますから、WJF様となら政治的暴力……つまり、暗殺やクーデターといった「行動」を共にする「同志」となる事も厭わないという空想が起こらないわけでもありません。が、私はまだ、日本社会における「既存組織」の残滓のようなものは残っているように考えていますので、暴力は最終手段として残しておこうと、一応考えています。)




 また、そもそも、「大阪都構想」や「道州制」が、「スパナで頭を殴られる」「金槌で頭を殴られる」と形容されるごときものであると考えるゆえんは、そうした「既存の組織的前提」が取り払われてしまうと、その組織と連関する形で存在している「既存の共同体の網の目」が融解してしまう……と考えるからこそのことじゃあないのでしょうか。共同体の網の目は、あらゆる既存組織、また既存組織の枠組みというものの連関で出来ており、そして最終的に「日本」という既存の天下国家観で収束されている。
 加えて言えば、地方行政単位や地方自治体といった役所の制度も、超然と空の上に佇んでいるのではなく、動体的な共同体に埋め込まれた形で連関して存在しているのです。逆に言えば、非政府の「共同体」も、既存の制度や行政単位から超然として営まれているわけではなく、地つながりで連関して生活の実際がある。
 そして、「生活の苦労」を楯にした大衆人の反政府的欲情が、「国民の生活の実際(ネイション)」を蔑ろにするという所に、「大阪都構想」や「道州制」の根本問題があるはず。(この問題が、グローバル新自由主義や共産主義コスモポリタンに都合が良いというだけのことのように、私には思われるのです)

 ならばそれは、「政治権力組織」についても同じ風に考えられていなければおかしいのではないでしょうか。
 つまり、これまでの政治権力体制、制度、手続き、すなわち、地方組織と自民党組織との関係、自民党組織と議会や官僚との関係、中央官僚と地方役人との関係といった既存の政治的人間交際(ステイツ)が、既存の日本国民生活の実際(ネイション)と地つながりであるという意味で。


 すると、それこそ「多元的」に考えるとするならば、こうはなりはしまいか。
 既存の日本文化圏(ネイション)にこだわるなら、人間交際の土台であり舞台である「既存の行政単位や制度」はある程度硬直的でなければならないし、また、こうした単位や制度を運営し演出する「既存の政治権力の網の目」もある程度硬直的でなければならない、と。
 そして、「既存の行政単位や制度」を保守しようという政治的意思、志向があるとすれば、その実践方法としては「既存の政治権力の網の目」に即した政治的振る舞いでなければ、総合的、包括的、多元的に見て整合しない。つまり、もし「道州制」を阻止しようとするにしても、その「阻止」の志向を下支えする大義を損なわぬ為には、「自民党や官僚という既存の政治組織」にある程度即した政治的実践が求められるはず。たとえ、自民党そのものの内に「道州制の推進」が現れていようとも、です。



 以上が、私なりに多元的な保守の姿勢を発揮して考えた事でありますが、WJF様はこうした点についてどうお考えでしょうか。
 尤も、このような弱小ブログで問うたところで、目に触れぬ確率の方が高いことは承知仕る次第ではございますが……



(了)


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