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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2015年04月  
  

日本の主権は回復しているのか? 




 主権回復の日……というのは、なんとも複雑な気分になる響きです。

 もっとも、
「1952年の今日、サンフランシスコ平和条約にて大東亜戦争後のGHQ占領状態が解消された」
 という意味では主権回復と言って差し支えないのかもしれません。

 が、この事をもって「主権が回復した」と見なしてしまってよいのか……という問題が、本当のところありますでしょう。
 ありていに言えば事実上、「今に至るまで日本の主権は、アメリカ政府や連合国軍(国連)にある」と、当の日本人自体が考えてはきませんでしたでしょうか。

 これは私の言い過ぎ……などということはないでしょう。
 だって、我々日本人は、未だに「自分達を統治するもの」としての最上位に「アメリカ政府」や「連合国軍」を前提として物事を考えているじゃあないですか。実際、あたかも日本政府の上位機関としてアメリカ政府、あるいは連合国軍(国連)が位置しているかのような「言葉遣い」が当たり前のモノとして世間で通用している。

 もっとも、これは別に「アメリカが酷いヤツだ」という話をしているのではありません。
 むしろこれは、日本人の多数派大衆にとって「都合が良い」から前提とされてきた話なのだという事を、そろそろ認めるべきなのです。

 こうした話が、何故、日本人の多数派大衆にとって都合が良かったのか。
 それは、アメリカ政府や連合国軍(国連)を統治の最上位と前提しておきさえすれば、「日本政府からの自由」もしくは「日本政府に支配されない民主主義」のようなものを担保できるからです。

 つまり、下等で、下賎で、刹那的な欲求だけを優先する『多数派大衆』という種族は、「日本政府の統治」によって自分達の行動が制限されるより、アメリカや国連を上位機関と前提して「日本政府を制限」しておく方が、「その一瞬間の自分自身はより制限されずに済む」ということを大衆本能で察知していたというわけです。
 しかし、このように言葉にしてみると分かるように、これは人間としてあからさまに下等で下劣な都合ですね。
 というのも、国家の長期的運営を考えれば「日本政府の統治」が日本の統治の最上位に位置していなければならないのは明らかなのに、「日本政府によって自分が制限されたくない」というその一瞬一瞬の都合の方を常に優先し続けてきたのですから。例えば現今、「少なくとも自分が生きている間は、徴兵のない状態にしておけ」という大衆請求は暗黙の政治基準になっていますでしょう。

 ですから、日本人にはこうした自分達の醜さを飾り立てる「タテマエ」が必要になってくる。
 すなわち、「自分が生きている間さえ……」というのはあまりに格好が悪いので、(本当は心の底でそういう風に思っていても)別な理屈を拵える必要があったということ。
 戦後……とりわけ平成以降の政治論は、いかにこの「都合」に合致する論理を構築し、大衆に迎合するか、に終始してきました。こういう言い方は卑怯かもしれませんが、このことに関しては右翼も左翼も一緒です。

 そして、「日本の主権はサンフランシスコ平和条約の時点で、既に回復しているのだ」というロジックも、そうした大衆の都合に迎合した論理の一つである可能性は非常に高いと思われます。
 要は、「軍事占領状態ではないこと」が「主権の回復」だと強調しておけば、「アメリカや国連を上位機関として見なすことによって、日本政府による自分達の統治を制限する」というサンフランシスコ平和条約以降の「大衆支配の時代」を「正当なる主権回復状態」とみなしておくことができるというわけです。


 しかし、そんな都合の良い話が許されて良い筈はないのです。

 そもそも「主権」とは別名で「最高独立性」といいますね。つまり、その国の統治を、国の外の干渉を排して執り行う「権限」を主権というのです。
 要するに、主権とは統治における「排外性」を大前提にしているものなんであります。
 統治において排外的であるということは、「自分達を治めるのは自分達の歴史的な人間交際の網の目である」という当事者意識と意志がなければ無理ですよ。
 また、そうした当事者意識と意志は、やはり統治において排外的でなければ無理でしょう?

 多数派日本人は、日本について当事者意識もなければ意志もないばかりではなく、統治における排外性にすらこだわらなくなっている。
 ごくごく文明論的に自然に考えれば、そうした文明は「主権がない状態」と評されるべきでしょう。


 主権のない属国(日本)が、たかだかGHQ占領状態が解消されたくらいで「主権回復」を謳うのは、とどのつまり「自分達はこれでいいんだ」と思いたがる大衆への迎合に過ぎないのではないでしょうか。
 もっとも、GHQ占領が解消されたこと自体は良いことに違いありませんから強調してもいいのですが、それなら「主権回復の日」などと言わず、「GHQ占領解消の日」とでも呼ぶべきでしょう。
 でも、本当は大東亜戦争に勝っていれば一番で、GHQ占領など初めっからなかったほうが良かったに決まっているんですけれどね。


(了)

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ブログの名前を変更 

ブログの名前を「初代石川流~日本が日本であるために」と変更しました。


今回の変更は、Youtubeで動画をアップするようになって、「日本が日本であるために」という同一タイトルのものがあったので、紛らわしくないようにしようという動機からです。

そもそも「日本が日本であるために」なんてタイトルは誰でも考えつくようなタイトルで、特徴がないんでありますが、この名にはこだわりがあるのです。
そういえば、これまで何回かブログタイトルを変更してきました。でも、「日本が日本であるために」という部分は統一されています。

なるべくブログタイトルは変更しないで行きたいと思ってはいますので、ご承知くださるようお願い申しあげます。

(了)
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【動画】改革をやめよう! 

 自分で喋ってみたのを録音して動画にしました。
「改革をやめよう!」
 というタイトルです。

 まあ、一時間くらいでチャチャッと作ったものだからあまり大したものではないですが、修行の一貫ということで……





(了)

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愛知県民からみた大阪都構想・3 




 ともすれば、愛知県民の私に対しては「大阪都構想で大阪市がどうなろうがしょせん他人事のはずで、関係ねえだろ」というような評がされることがあります。また、私以外の愛知県民や愛知県以外の都道府県民も「大阪市の解体」のことなんか他人事のように思ってそれで済むとしている。
 そりゃ確かに、私からすれば「大阪市がどうなろうが他人事で関係ない」という部分は当然ありますよ。しかし、「関係ある」部分だって当然あるわけです。それは、とどのつまり「日本国民だ」という家族感の部分です。

 まあ、そんなようなコトを言うとキレーごとをのたまっているように思われるけど、それは誤解です。キレーごとじゃあないんです。

 例えば、東北の大地震を考えてみてください。東北の震災で町が流され、共同体が流されるという場面を知った時、遠くにいても我々は身の引き裂かれる想いが致しましたでしょう?
 どんなに偽悪的に装っていようと、また偽善的に装おうと、外国……たとえばチャイナやハイチやニュージーランドなんかの地震で人が山ほど死んだという場合などとは比較にならぬほど我々は東北の震災にはショックを受けたわけです。(そういえば小学生のとき阪神・淡路大震災で同じようなことを考えた記憶があります)これは「同じ日本人が沢山死んだのだからショックを受けよう」という恣意によってショックを受けているわけではないし、逆に「同じ人間のことなのだから、日本人が死んだからといって外人が山ほど死んだ時以上のショックを受けてはいけない」という風に思っても抑制やコントロールなんて効かない。だって、これは恣意や意志の前段階として浮かんでくる心なんだから。そういう恣意以前の心の領域というのが人間にはある。実際に「ある」のだからしょうがない。
 こうした心の前提は、先天的な情緒的個性や身体的前提、土地的前提、民族、血縁、言葉……などなど生まれ持って所与のものからくるのであるから、生まれ持った運命と評すべきものですよ。ここではこれを「ナショナルな心の領域」と呼びましょう。繰り返すと、「ナショナルな心の領域」とは、そういうものを持とうという恣意によって持つものではなく、生まれ持った運命としてある心の大きな領域のことです。運命に強制された心と言い換えても良いでしょう。
 でも、「その心の領域を自分で発見したり解釈する」という言語作業は恣意によってなされるもので、その一連の精神的動きを「ナショナリズム」と言うんです。(※ナショナルな心の領域のあることと、それを発見するナショナリズムとの間には意味として大きな差がある)

 そうしたナショナリズムの観点からいくと、「共同体の破壊」からは離れた一億の個々人に対しては仮にそれが日本人であっても具体的に関係がなければ関係がないんです。例えば、日本人は1億2千万ほどいるらしいので、そのうちの相当部分は個々人的な事由によってごく個々人的に悲惨な人生や悲惨な死に方があるかもしれません。でも、そんなものは具体的に関係がなければ関係がないんですよ。勿論、そういう話を聞きさえすればちょっとは「可哀想だなあ」と憐れむかもしれませんが、そんなものは所詮ヒューマニズムなのです。そして、関係のない人に対するヒューマニズムなんてもんは吹けば消し飛ぶようなやわいシロモノです。いや、別にヒューマニズムがいけないと言っているわけではないですよ? でも、これをとりわけ大きく見積もるのは無理があり、偽善であり、自分に対する嘘というものでしょう。



 だから私は、大阪市の廃止と解体によって「大阪市民の税金が府全域に流出し、彼らの受ける行政サービス水準が下がり、生活水準が下がる疑義が濃厚である」ということ自体は、ほんとうにどーでも良いのです。大阪市民の個々人については幾人かの知人以外ほとんど関係がないので、心配をするにしても知人についてだけですよ。関係のない大阪市民の個々人については、その暮らしの水準がどうなろうと私には関係がないし、まさに他人ごとです。(勿論、「大阪市民の税金が府全域に流出する疑義が濃厚である」という事実を住民投票の権限をもった大阪市民に提示するという実践の経路は意義あることなんですよ。でも、ここで言っているのは位相の違うことです)

 でも、大阪市の廃止と解体――つまり、「大阪市」という行政的枠組みを取っ払って、広域行政たる「府」と「(どうやっても現在の区以上ではあるが市以下にしかならない)五つのショボイ特別区」に、組織や権限や財政を振り分ける――という部分については、他人事では済まされないのですよ。この部分は、東北の震災で家が流されるのとほぼ同じ話だからです。
 だって、これは共同体の破壊行為でしょう。
 それも、並大抵の共同体を破壊するんじゃあない。あの、「大阪市」を止めちまうというのだから、トンデモねえ話ですよ。

 そう言うと、「廃止するのは市という行政単位だけで、非効率な市の重しが取れてより住民に密着した特別区ができるのだから、むしろ市民共同体は活発化するはずだ」などと思うかもしれないが、それは行政府と共同体がまるで異次元で別々に存在しているかのような前提でモノを考えているからこそ至る空論というもの。
 共同体の実際は、「政府」と「民」で明瞭に分けられるものではありません。言い方を変えると、「政府をやっている人」と「民をやっている人」という風に純然と分けることはできないということ。
 だって、お役所を見ても、そこで役人をやっている人を摘んで観察すれば、「政府の属性」と「民の属性」を帯びているでしょう。お役所で事務を執り行っている時は政府の属性が強いのでしょうけど、帰って飯を食うときは民の属性ですね。
 逆に、その辺のサラリーマンも、「民の属性」と共に「政府の属性」をもあわせ持っている。簡単に言えば選挙権があるし、それだけではなく彼の参与する産業が、政府の事業と繋がりのある事業を執り行っているかもしれないし、あるいは政府の事業と繋がりのある事業……と繋がりのある事業に加わっているかもしれない。その場合、産業を通して政府の属性を帯びるわけです。

 ですから、このような行政制度の過激な改変は、共同体の過激な改変をもたらします。
 政府の権限をもって敷いて来た「規制」や「計画」という前提。あるいは財政の執行によって回ってきた「公的な事業」の産業的前提。民間部門もこれら政府部門と不可分な形で存在しているのです。大阪市などという超巨大都市であれば、その前提の複雑さと有機性は計り知れず、歴史的に編みこまれた人間交際の英知をもってして始めてその体が成るもののはずでしょう?

 本来、こうした「歴史的に編みこまれた人間交際の英知」は、これまで大阪市民をやってきた過去の大阪市民をも含めた都市的財産なのだから、たまたま今生きているというだけに過ぎない大阪市民の多数が、「何か政府にはムダがあるような気がする」からと言ってそう安々と改革していいはずはない。それはよほど軽薄です。
 つまり、そもそも、たまたま今生きているというだけの大阪市民に、直接の「住民投票」の権限など与えられて然るべきではないのです。だって、仮に住民投票が通っても、大阪市を廃止するなんて大義が付与されていいわけがないじゃないですか。(だから、協定書には反対だが、ともかく住民投票を行うことには賛成した公明党は、「イズムとしての民主主義者」との謗りを受けるべきなのです)



 というわけで、大阪市の廃止と解体は、過激な行政制度改変であると共に、共同体の破壊行為なのです。
 私は、こういうことについてはヒューマニズムではなく、「ナショナリズム」が浮かびます。つまり、東北の津波によって町や共同体に宿る価値あるものが流されるのを見てショックを受けるような。だって、大阪市が廃止になってブチブチに5分割されてしまうのは、大阪市が津波に呑まれるというのとほぼ同じことでしょう? 違うのは、一応すぐに生命が失われるわけではないという点だけで、共同体の中で宿す魂は失われるのだから死ぬのと似たようなもんですよ。

 何故こうしたナショナリズムがありうるかというと、私の周りの世界を観察しても、価値あるものは「共同体」の中にしか宿っていないからです。そして、日本人である以上、共通感覚を持っていてそれなりに類似した共同体を編んでいる。だから、愛知だろうが、東北だろうが、大阪だろうが、その共同体の価値を私は知っているのです。価値を知っている以上、その部分においてだけはどう考えても私の問題でもある。私の問題である以上、大阪市民に口を出す正統なる権限が私にもあるのです。

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『天皇制』とは何か・1 


 おそれおおくも天皇というご存在そのものについて論じるのは、それこそ日本におけるすべての歴史(過去、現在、未来)を論じるのに等しく、一朝一夕でなせる業ではありません。
 しかし、いわゆる「天皇制」ということについてなら論の幅はごく狭まってくる。


 もっとも、「天皇制」などという言い方をすると、「天皇は制度ではない」という反発があるかもしれません。
 確かに、天皇を「制度」という風に言った時点で、それは何か人為的で、変更可能なものになってしまう。要は、「天皇制度」と「別の制度」という風に相対化されてしまうからです。

 だから、「天皇制」という言葉自体はサヨク用語……というか、「戦前にコミンテルンが天皇制打倒の為にした造語だ」なあんてことはよく言われる。もっとも、コミンテルンの謀略は全然思い通りには行ってなくて、戦前にはほとんど広まりを見せなかったが、戦後になってはじめてこれが広く普及したものではあります。



 ですが、「天皇制」という風に、ひとたび天皇というものを相対化して考えてみること自体は、悪くない。というか、やらねばならぬことでしょう。天皇を相対化する語として「天皇制」という言葉を編み出したサヨクは、天皇というものに対する前提をひっぺがして相対化させることがその打倒に繋がるに違いない……という未来に向けての進歩的歴史観を前提としていた。

 しかし、そういういわゆる「進歩」「啓蒙」の歴史観、未来観から決別すれば、こういう事も考えられるのであります。
 すなわち、「天皇制」という言葉で天皇を相対化しながらも、「天皇制度にこだわり続ける」という筋道で絶対性を獲得すればよいわけです。これは、「制度」として「既存」のものに何か先人の英知の宿ることを感じ取る真に保守的な態度を獲得することにも繋がるでしょう。

 そもそも、モダン(近代主義)の受容が粋を極めるごとに「天皇」が相対化されてゆくことはほとんど摂理なのであるから、相対化した上でいかに天皇にこだわり、天皇の背後にある崇高なるものへの連なりを担保するかという精神作業の問題からは逃れられない。そうなると、いわゆる「保守」と言われる立場の者こそ、むしろ「天皇」を国民の心と政治体制を繋ぐ「制度」として解釈する努力をするべきなのではないでしょうか。


(つづく)

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