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日本が日本であるために

 

      TOP > ARCHIVE - 2015年05月  
  

都構想否決を期に『改革』をやめよう 




 日本人全体としては、「大阪都構想否決」をこんな風に解釈したいのでしょう。



大阪都構想「反対」 改革論議は継続すべきだ(産経ニュースより)
http://www.sankei.com/column/news/150518/clm1505180003-n1.html

《有権者は現状維持を望んだとはいえまい。大阪が抱える難問を解決し、地盤沈下を食い止めるためには、改革論議をストップしてはならない。
 まれにみる大接戦だった。「大阪市をなくせば元に戻れない」という反対派のシンプルな訴えが勝ったが、肝心の「大阪の未来をどうするか」の議論が深まったかは疑問だ。
 府市の二重行政を解消して司令塔を一本化し、広域行政を府に、身近な住民サービスは特別区に再編すれば無駄がなくなるというのが大阪都構想だった。》



 私からすると、何故『改革』によって大阪の難問を解決できると考えるのか分からない。

 また、今回のような「住民総員」による議論の深まりによって「大阪の未来」とやらを決める必要はまったくない。
 大阪市の未来は大阪市民総員の生活(生きる活力)にかかっている……これは確かでしょう。
 が、「個々の行政に関する意見」を市政に反映させる必要など一切ないし、むしろそんなものに大義を付与する発想は有害でしかないんであります。

 そして我々は、「民主主義によって、二重行政を解消する。行政の無駄をなくす……」という発想自体をそろそろ止めるべきなのです。



 これは、日本の中央政府にかんする見方にも通じているものです。
 平成において、この発想は中央政府に対する大衆の請求でもあり続けた。
 こうした『民主主義』による『改革』が日本全体の地盤沈下を引き起こしていることを、そろそろ悟るべきなのであります。


(了)


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大阪都構想否決後に予想される大衆迎合論筋 



 いわゆる大阪都構想(大阪市廃止・五分割構想)は具体的な政策論としても、極めて杜撰で、あらゆる意味で穴だらけのものであったに違いありません。
 だから、住民投票で否決されたのは、大阪市という巨大な都市の、政策的、統治的観点から見ても、「九死に一生を得た」といった出来事であったに違いない。

 でも、本当に大切なのは、いわゆる大阪都構想……ひいては維新のごとき「改革的大衆思想」を、「時代遅れ」なものとして追いやる思考転換なのだと思うのです。

 すなわち、これを期に、
「既存の組織を壊し、民主主義で一から設計することによって、既存の社会にあるシロアリ(コネ、シガラミ、既得権益)を排除する」
 というような『平成大衆ガキ理論』を、もうそろそろ止めにする……という転換であります。

 日本の存続には、この大転換が不可欠だと私は考えます。
 が、多分、この大転換は起こらないでしょう。



 何故なら、大衆というのは物事を「それぞれ自分の都合の良いほう」へ解釈していくものであります。
 というより、都合のよい(通りのよい、聞こえのよい)解釈に注目が集まる。また、言論者達は注目される解釈を文に綴る。「大衆」とは、そういう悪循環をもって大量の人非人(ゾンビ)を排出していく現象そのものであります。


 そして、平成の御世にあって「都合のよい、通りの良いもの」とは、「改革」的なるものであり、「維新」的なるものである。
 改革的で維新的なものとは、もう一度言いますが、
「既存の組織を壊し、民主主義で一から設計することによって、既存の社会にあるシロアリ(コネ、シガラミ、既得権益)を排除する」
 というような『平成大衆ガキ理論』のことです。
 これが大衆にとって都合がよく、そしてそれが故に最も世間で通りのよい理屈としてハバを効かせているというわけです。

 すると、大阪都構想が否決され、よしんばこれから「維新の党」「橋下徹」といった具体的な対象の求心力が低下したとても、「改革的なるもの」「維新的なるもの」は大衆理論として温存されてしまう可能性が非常に高い。というより、まず温存されてしまうでしょう。

 さしあたってその経路を予測すれば、次の二つの論筋が考え得る。



【大阪都構想否決後に予想される大衆迎合論筋・パターン1】

「大阪都構想という改革案は良かったが、既得権益の妨害に合い、市民が誤った投票行動に誘導された。市民はこれに負けず、権力(シロアリ)と闘わなければならない」
(類似のものとして考えられるのは、「だから、日本人はまだまだ近代的自我に欠けていて、「市民」的要素にかけているのだ」などといった論筋である)

【大阪都構想否決後に予想される大衆迎合論筋・パターン2】

「大阪都構想という改革案は市民に受け入れられなかったが、「抜本的改革」は必要であると皆言っているのだから、別の「改革なるもの」「維新的なるもの」を拵えなくてはならない」



 おそらく大衆は、これらの論筋を薄くぼんやり蔓延させることによって、「大阪都構想否決」という脱・改革の契機がうやむやにしてゆくはずです。
 そのほうが、刹那的な請求を都合よくのたまう事しかしない大衆にとって都合が良いということを、大衆本能によって大衆は察知しているから。
 そして、大衆の察知を言論人は察知しているものだから、引き続き人々は保守であろうと革新であろうと「改革」「維新」をのたまい続けるはず。
(また、厄介なのは、そこに憲法問題すらも絡まっているらしいということ。このことは、後に別記事で語りたいと思います。)

 でも、その「都合」を許してはならないのです。
 何故なら、そうした「大衆の都合」は文明を没落させるからであります。
 また、平成の日本文明を常に没落させてきた要因は、ことごとく「改革」でした。

 この改革……大衆ガキ理論を打ち倒すのは、大阪都構想なるものを打ち倒すより遥かに困難なことです。

 でも、大阪都構想を打ち倒すことができたのだから、もしかしたら「大衆・改革・維新」といった強大で凶悪な化物を打ち倒すことも「ひょっとしたら可能なんじゃないか?」と希望を持っている今日この頃であります。



(了)


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大阪都構想否決、橋下徹引退 



 大阪都構想の住民投票が否決されました。


《大阪市を廃止し、5つの特別区に分割する「大阪都構想」の住民投票は17日投開票され、反対多数となることが確実となった。政令指定都市として初めて存廃が問われた大阪市の存続が決まった。大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長は、12月までの市長任期を全うした上で政界を引退する意向だ。市選管によると、当日有権者数は210万4076人で、投票率は66・83%だった。(産経WESTより)》


 私は生まれてこの方、「確かなる意志」というものが「大衆」に打ち勝つ様を初めて目撃しました。

 いわゆる大阪都構想とは、極めてチープな、ままごとのような大衆迎合ではありましたが、大衆迎合には違いなかった。大衆迎合である以上、それは津波のように強大な勢力を誇った。平成日本の第一支配者は、常に「大衆」だったのですから。

 でも、今回はその強大な大衆の力が負けたのです。「民主主義(全体主義)」が敗北したのであります。
 勝ったのは、少数の「意志」です。
 文明を「統治」する「意志」に基づいて、民主主義に抗った少数者が、大勢を翻した。

 これは本当にすごいことなんだと思います。私は、こんなすごいものを見たことはありません。
 たとえはじめは一人二人の意志であっても、大衆に抗い、その予定調和を翻すことができる。
 大事なのは、誰かが勇気をもって大衆の予定調和を「クソッタレ」と叫ぶことだったのです。


 これを受けて色々考えなければならないことは沢山あるのでしょうが、
 今日は素朴に、生まれて初めて「大衆」の負けたところを拝むことができた……この素晴らしさを噛みしめて眠ることにします。



(了)


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飯島勲の反・維新についてなど 




 内閣参与の飯島勲氏が「大阪都構想」および「橋下徹」「維新の党」を痛烈に批判しています。
 ここではこの記事について


なぜ大阪から企業が逃げていくか 飯島勲「リーダーの掟」
http://president.jp/articles/-/15233


 大阪都構想だけではなく、橋下徹と維新の党の諸政策そのものを「漫才」と評しているのは、正に的確な比喩といえるでしょう。
 しかも、明日の住民投票については、

《この住民投票は、都構想の是非ではなく、お笑いタレント出身の橋下が繰り出す漫才をこれからも聞きたいか、聞きたくないかで、大阪の人は投票しようとしているように見えるからだ》

 とし、

《そうでなければ、大阪経済が下降の一途を辿りながら、あれだけの恥ずかしい失敗を繰り返せるはずがない。》

 とまで言っている。ボロクソではあるが、以降あげている内容も実に的確です。橋下・維新側からすればグウの音もでないでしょう。


 また、とりわけ、この部分

《そんなことは、私に言われなくても、大多数の大阪人は気づいているはずで、わかっていて面白がっているのだろう。》

 という部分には考えさせるものがあります。
 私は大阪市民ではないので、大阪の雰囲気が未だによく分からないのだが、「わかっていて面白がっている」という部分は容易に想像できる。
 何故なら、「わかっていて面白がる」というこの世でもっともヘドロティックな性癖は、少なくとも平成日本人全体の特徴であったからです。単に、その日本列島民のヘドロティックな性癖が、今現在発疹している場所が大阪であるというだけなのでしょうから。

 まさに、

《大阪に住み、大阪の将来を真剣に考える良識ある人々が、私は不憫でならない。》
 
 し、政治的、思想潮流的に考えて、単に大阪の問題に限定されるものではないのであります。



(了)



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動画・五分で分かる大阪都構想 





大阪都構想にまつわる動画作成のラストということで。

5月17日を固唾を呑んで見守るのみ。

「大阪市」が残ることを祈っています。


「五分で分かる大阪都構想」








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いわゆる「大阪都構想」の危険性を指摘する学者は100名をゆうに超える 

 かねてより「いわゆる大阪都構想」の危険性を明らかにしてこられた京都大学大学院の藤井聡教授。
 教授が、学者を対象に「大阪都構想の危険性の所見」を公募した所、一週間で百名以上の様々な分野の学者先生から「所見供出意向の申し出」があったとのこと。(サトシフジイドットコムより)

 様々な分野の百名以上の学者による「危険性の指摘」というのは極めて重視されるべきことであります。
 前回、このブログでは「大衆の世論よりも、議会の議論の重視」を主張したところであります。が、もう一つ国家社会で「重視されるべきもの」を上げるとすれば「学者の意見」以外にはないでしょう。

 勿論、学者の意見であればなんでもよいというわけではありません。例えば、学者はその細分化された専門性によって、全体の視点としては大衆的な視点に組み込まれてしまいがちだという問題もある。
 しかし、この「いわゆる大阪都構想の危険性」については、一人二人の学者が指摘しているというだけの話ではなく、一週間で百名以上、さらに様々な学術領域からの指摘があるのです。
 つまり、全体のあらゆる方角から見て、いわゆる大阪都構想とは「危険性」が明らかだという話であります。

 だから、この場合、「百名以上の学者の指摘」というのは非常に重たい出来事なのです。場合によっては、議会の議論に匹敵する権威をもってみられるべき事柄でしょう。(大衆の世論より遥かに価値の高いことは言うまでもありません)



 というわけで、大阪市民および、大阪都構想について少しでも関心のある日本人は、以下の「学者所見(抜粋コメント)」だけでも目を通して然るべきと存知ます。


『大阪都構想』の危険性に関する学者所見(抜粋コメント)
http://satoshi-fujii.com/scholarviews2/

サトシフジイドットコム 大阪都構想を考える
http://satoshi-fujii.com/



(了)
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後編・いわゆる大阪都構想『住民投票』という民主主義イデオロギー 



 さて、こうした前提の上では、一種おかしなことが許容されることになります。
 その一つが、「議会の議論」と「住民すべてへ平等に振り分けられた政治権限による多数決」で、後者が優先されうるという狂った発想です。
 例えば、大阪の「特別区設置協定書」についてもそうです。これは大阪府議会、大阪市議会の両議会で議論された段階で一度「否決」されているんです。議会での議論で、「二重行政の問題解消によって財源など濾し出せない」ことから、「市廃止と特別区設置に反対の堺市との関連によって区割りが大阪市に画一的に限定されている」ことまで論じられて、『論外』という事になった。勿論、維新の党だけは賛成票を投じたのでしょうけど、議会での議論で滅茶苦茶な協定書である旨結論が出たわけであるから、それ以外の政党は皆反対票を投じる。維新の党は府市両議会で過半数を得ていませんでしたから、去年の10月の時点では当然の結果として否決されたのです。
 しかし、公明党という政党が出てきて、こんな風に言うのです。
「協定書の内容には反対だが、判断を住民に問うことには賛成である」
 こうして公明党が維新の党へ協力に転じた結果、今年の二月にほぼ同内容で再提出された協定書は過半数を得て府市両議会にて承認されたという話なのです。
 ここで注目してもらいたいのは、大阪市も大阪府も、議会の結論としては、「この特別区設置協定書はダメだ」という結論を出しているという点です。結論を出しているにもかかわらず、「大阪市民の多数決」によって決めてもらおうというわけです。
 だったら、「議会」は何であるんですか?
 議会が「良い」と結論したものを住民投票で問うのならまだしも、「悪い」と結論したものまで住民の判断によって決めていいのだとしたら、議会は必要ないって話になりませんか?
 さらに、この場合、「議会の議論」より「住民すべてへ平等に振り分けられた政治権限による多数決」を比較した場合、後者が優先されるべきであると前提していますでしょう。つまり、「民主主義」の発想なわけです。
 でも、「民主主義」というのは、歴史的にも平成の経験的にも、常に間違い続けてきたイデオロギーでしょう。
 実際、「世論」や「住民すべてへ平等に振り分けられた政治権限による多数決」に近い政治決定というのは、七割方間違っているんです。何故なら、平等に振り分けられた政治権限では、その一人一人は「統治に無知」であり「統治として物事を考える」ということはできないからであります。そうした、統治に無知で、統治として物事を考えることのできぬ人々の多数の意見を塵のように寄り集めても、結論は「統治に無知で、統治として物事を考えることのできない人の意見」に集約されていくに決まっているのです。
 対して、少なくとも「議会の議論」であれば統治にかんする一定程度の知と考の水準を担保できます。世の中ではやたら「議員」を馬鹿にする風潮があってまことにケシカランことではあるが、よく考えてもみてもらいたいものです。少なくとも彼らは、統治に携わる「時間」というものがある。議論の場というものもある。議員ではない別の仕事をしている者たちは、別の仕事をしているのですから、別の仕事については議員よりも優れているに決まっていますが、統治にかんしては議員の方が(平均して)熟知しているに決まっているのです。
 ですから、そもそも「住民投票」なんてものより「議会の議論」の方が、はるかに「統治」という目的には即しているのです。もしあなたが愚劣なる民主主義者でなければ、このくらいのことは常識でわかるでしょう。
 それでも、5月17日には大阪市の住民投票があり、大阪市民は投票へ出かける「義務」がある。この面倒にはまことに同情せざるをえないけれど、大阪市民は議会の議論を尊重した上での投票を心がけておきさえすれば間違いありません。また、議会の議論では「特別区設置協定書」はダメだと結論されていて、その議員を選んだのもまた「大阪市民」なのですから、投票行動に一貫性をもたせようとするのなら、これも「ダメだ」という結論が出なければおかしいですしね。


(了)
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前編・いわゆる大阪都構想『住民投票』という民主主義イデオロギー 



 5月17日に史上最大とも言われる住民投票が大阪市で行われます。有権者数は211万人に上るとのことです。
 私は、大阪市を廃止して五分割する、いわゆる大阪都構想などというシロモノは、その内容自体が「大衆迎合」の手合であり、大阪市を滅ぼすのみならず日本全体にも思想的、政治的、経済的に大きな害悪をもたらすものであると確信しています。
 が、それとは別個の問題として、そもそも「住民投票によって法律の成否を決する」という手続きの方も最悪なものであるということが分かられていなければならないと思うのです。

 さて、これまで多くの日本人は、「住民投票」というものが、何かすばらしいことのように勘違いしていきました。
 つまり、平成日本の社会では「政治について市民が直接的に権限を持つ」ということは、「民主的で良いことだ」というようなドグマが前提とされてきたということ。
 これが極まると、「世論や市民の選択」に主権がある……つまり、民というものに統治権があるというような最悪なイデオロギー=「民主主義」へ文明が堕することになる。歴史的に見て、民主主義に堕した文明は長期的に没落の段階にあって、これを救う手立ては理論上ありませえん。
 そして少なくとも現今、日本の国の最も劣悪な問題は「民主主義」にあると、私は確信しているのです。

 ちなみに、「民主的な制度」と「民主主義」は別のものとして考えていただきたい。
 前者の「民主的な制度」というのは、「制度」のことですから、制度を活かす「目的」は別にあるのです。この場合、目的は「国家の統治」にあります。国家の統治に価値目的が置かれる根拠は、伝統、権威、信仰といった歴史的正統性にある。また、歴史的正統性を根拠にした統治に価値目的が置かれた人間集団をもってしてはじめて、文明・国家を冠するに値する人間集団足りえるのです。
 そして、国家の統治という目的のために「民主的な制度」が、(とりわけ近代以降の国民国家においては、)好むと好まざるとにかかわらず必要ではある……この事には私とて異論はありません。具体的に言えば、議会を置き、権力を分散し、広く議論を喚起し、自治体や組合など国家に幾重もの共同体的段階を設けるといったような制度。こうした民主的な制度なしに、日本文明を近代国民国家として統治することは極めて困難でしょう。(勿論、戦争などの非常時・危機の場合は、民主的制度を超えた政府権限、軍事権限が優先されるべきことは言うまでもありませんが)
 対して、「民主主義」というのは「主義(イズム)」と冠しているのですから、「民主」自体が「目的」なのです。前者とは逆に、民の政治決定、民の政治判断、民の政治選択……といったものを「統治の根拠」とするイデオロギー。それが民主主義です。要は、それが正しいか間違っているかにかかわらず、「民の政治選択」そのものに最終的な価値が置かれるのですね。

 さらに、民主主義のおそろしい所は、世間で「民の政治選択」と考えられているものが正しかったことなどほとんどない、という所にあります。何故なら、「民の政治選択とは何か?」という事を一つ掘り下げて考えると、それは「政治権限の平等化」ひいては民の「多数」の選択を意味せざるをえなくなるからです。
 尤も、「民の政治選択」といった場合に、「任意の民一人の政治選択」というケースも含まれるのであればその限りではないでしょう。つまり、仮に「一人による独裁」であっても、その「一人」も「民」であることには違いないから、これも「民の政治選択」の一ケースとして換算するというのであれば、おおよそあらゆる統治タイプを「民の政治選択」と銘打つことができる。これならば、「民の政治選択」という語は「政治選択に外人が介入しないのであれば良い」という話で留まるがゆえに健全でありうる。
 しかし、世間で「民の政治選択」と言われた場合、「民一人の独裁」をもその一ケースに含めて話されていることは稀です。
 おおよそ、人が「民の政治選択」と口にする時、それは「全体の民一人一人へ、政治権限を平等に振り分ける」ことと「その多数の選択」という意味を暗黙の内に含んで前提している。それは同時に、「政治権限の平等」と「多数」の醸す香りが統治の正当性になりうるということを前提としてもいるわけです。


(つづく)
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維新とは何か?(動画音声バージョン) 

 以下は、昨日の「『維新』とは何か?」という記事を読み上げ、音声化して、動画にしたものです。
 ブログの記事と、動画の音声を併せてご覧いただければ、より分かりやすいと存じます。
 また、普段よりYoutubeのアカウントをご利用の方は、チャンネル登録などでご支援いただけたら嬉しいです。






(了)
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『維新』とは何か? 


 「維新」という言葉がありますね。その「維」という文字は、そもそも「糸の筋」を表していて、それが転じ「国家の大綱」というような意味合いを持った。
 ですから、そもそも明治の「維新」という言葉は、復古によって新しきを得るという所から来ていると思われるのです。要は、「本来、天皇にあったはずの統治権を、武士が掌握してしまっている」という心地の悪さが徳川時代に至るまで我が国の底流にあって、危機にあたり王政復古によってその心地悪さを払拭しようという所に、「倒幕」という最悪な不道徳の中にかろうじて微かな大義を主張することができたということ。

 一方、現今に至っては「維新」という言葉を単に「新」の一文字だけに注目して、「既存の政治家や役人(シロアリ)を排除する為に、政治制度・行政枠組みを改変する」というものとして考えられている傾向が非常に強い。つまり、もはや微かな大義すら主張しなくなっているのです。またその文脈で、明治の「維新」の方も返りみられることが多くなってきてはいまいか。

 そもそも、オリジナルの明治「維新」の方も、あれが本当に良きものであったかどうかは非常に疑わしいものです。いや、むしろ大いに疑ってかかるべきものでしょう。

 しかし、現今は、保守派と呼ばれる人々であってもそうなのですが、明治の維新を「進歩」や「開明」の文脈で捉えて、これを礼賛するという輩が多い。つまり彼らは、徳川時代までの「封建的」で「階級的」な社会を、「黒船」という危機に対処することで刷新した所に日本を誇る根拠を置くわけです。このやり方は、昭和時代までは、丸山正男などの左翼の手法だったですよ。そうした連中は、おおむね「日清・日露までは開明的で合理的で素晴らしくて、大東亜戦争に差し掛かるに従って軍部が暴走した。けど国民の一人一人には罪はない」みたいな論筋を前提とする。これは多くの日本人に受け入れられる論筋であるが、私はこんな都合の良い歴史観には正直反吐が出る。つまりいわゆる「司馬史観」というヤツですね。これならばまだいわゆる「自虐史観」の方が全然マシなくらいですよ。

 勿論、黒船に象徴される「世界が狭くなった」という(現在完了進行形の)この危機に、「対処する」ということは必要なことでありましたし、西欧列強の侵食に対処し闘ってきたことに誇りを持つこと自体については悪いとは言いません。
 しかし、その危機に対処することによって内的な「既存の権力(幕府)」を打破し、「封建的階級」を打破し、開明的で進歩的な「自由と民主主義と資本主義」を取り入れることができた……というような志向が含まれると、「維新礼賛のケ」がでてくるわけです。この維新礼賛のケには、つまり「一般大衆」が外国からの圧力に弱った「既存の権力」から権限を剥奪し、「自由と民主主義と資本主義」によって啓蒙的・進歩的な恩恵を受けたのである……というような歴史的ストーリーが必要とされます。だから、大衆にとって司馬史観というのは都合が良いのです。何故なら、「維新礼賛のケ」を担保してくれるストーリーだから。

 そして、絶望的なのは、「保守だ、日本が大切だ!」と言いながら「維新礼賛のケ」を前提とすることは、世間的にはごく一般的な「保守の態度」として見られてしまっているということです。
 すると、「維新」=「一般大衆が外国からの圧力に弱った既存の権力から権限を剥奪し、自由と民主主義と資本主義によって啓蒙的・進歩的な恩恵を受けた」というような極めて左翼(リベラル)的な文脈の論理を、保守と呼ばれる多数の者達が喧しくのたまうという事になってしまう。
 また、このリベラルの文脈が平成に至っては広く繰り返しされてきて、「政治制度改革、行政改革、郵政改革、民主党政権交代、構造改革」といった様々な諸改革となって急激に国家を滅びへと誘っているわけです。

 その最も純粋化されて象徴的な存在が、現今の「維新の党」という存在でしょう。勿論、「維新の党」は関西圏以外ではもはや注目されるようなモノではなくなっていますが、関西圏での彼らを俯瞰すると、それは平成の日本人の愚劣な振る舞いを純粋化して濾しだした象徴的な存在であると見れるのです。
 逆に言えば、維新の党のやるような大衆迎合が忌避されるような言語空間さえ醸成できれば、我々は日本の滅びを百年先延ばしにすることができるに違いない。

 いま、俄かに騒がれている「いわゆる大阪都構想の住民投票(大阪市を廃止してよいかを決める住民投票)」ですが、こうした「大衆迎合を忌避する言論空間」を志向する為にも、「日本人全体」が唾棄しておくべきシロモノなのだと思います。
 つまり、改革とか「維新」とかいうものは基本的に大衆迎合の手合であるという認識を、日本人の「常識」にせしめるべきなのです。




(了)


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いわゆる大阪都構想Youtube動画 




 最近、いわゆる大阪都構想にかんしてのイメージ動画をポツポツと上げているので、拡散等いただけたらと存じます。

CM「いわゆる大阪都構想 5 17住民投票で何が決まるの?」https://youtu.be/QaavhNJMCbE

いわゆる大阪都構想 「シロアリ駆除に建物ごと壊しますか?」 https://youtu.be/e2YJH6DuLf0

CM「save osaka! 5 17」~都構想じゃ、大阪市はなくなります。 https://youtu.be/BbyVb9C54o8



(了)


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