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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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改憲の基準は何処にあるのか――大阪都構想と憲法改正 



 少しややこしいことを考えてみます。でも、気合を入れて書いたので、どうかお付き合いください。


 まず、いま、保守の言論の中にこういう考え方があるように見受けられます。


「憲法改正のためならある程度のことは許される」

「何故なら、この憲法では国を守れないからだ」


 というような。

 確かにこういう態度は一理はありますよ。
 でも、その「憲法改正」と「ある程度のこと」の天秤が狂っているように私は思われるのです。
 そしてこの天秤が狂っているということは、保守めかして改憲をいったところで、護憲サヨクと同じ穴のムジナということになる。いや、むしろ理屈が通って一貫性のあるだけサヨクの方がマシということにすらなりかねない。もちろん、理屈が通っていて一貫性があっても根本で日本という単位にこだわらないのがサヨクであるからして、結論は間違っているのですよ。でも保守派ないしは一般日本人はサヨクを「お花畑」と、笑えるのか。私は目くそ鼻くそだと思う。

 たとえば、憲法改正のことを言う人は世の中に結構いますね。
 しかし、改憲を言いながら、「憲法をどう変えるのか」「憲法とはどうあるべきか」という基準……すなわち『国家の歴史的規範感覚』を論ずる人は稀です。

 おそらく多くは、「9条のせいで中国の脅威に対抗できない」くらいな漠然としたイメージで「この憲法では国を守れない!」と思っているだけではないでしょうか?
 でも、日本国憲法は9条だけで構成されているわけではありません。また、9条2項に問題があるにしても「国家の法の根本『規範』として、9条2項がどのように問題があるのか」ということを誰も考えないのはどういうことか。
 日本人は、単に「中国が脅威だから」「テロの脅威があるから」という現実の問題から改憲のイメージを都合よく作り上げているだけです。もちろん、現実から法の根本規範を導き出さなければならない部分もある事は認めます。しかし、憲法……あるいは憲法改正の基準というのは基本的には「国家の中に歴史的に蓄積された善悪、道徳の系譜」から『大義』を導いて設定されなければならないはずです。

 そもそも『憲法』とは、法の根本規範であるからして、法を定める基準となるものです。ならばその「法の基準となる憲法の基準は一体どこにあるのか」という事が考えられていなければならないはず。
 だってそうでしょう?
 法の基準のようなものが『文章』として定められているのであれば、何故そんな文章が定められていていいのか、という問題が絶対にあるじゃないですか。これは、もしこの憲法が「占領下に制定された」という「成立過程における大義の欠損」がなかったとしても、この問題だけは絶対にある。
 何故なら、憲法を記すのは、「記す」という行為であるから、どのような場合でも一時の人が記すことになる。すると、記す後に生まれた人、あるいは記す前に死んでしまっている人に対しては、記す権限は直接的に与えられてはいないということになりますでしょう。すると、何故その一時の人達だけに憲法を記す権限が付与されていて良いのか、という問題がでてくる。
 つまり、日本国憲法のように、文字で設定された『成文憲法』には、憲法を越えた崇高な基準……つまり「日本国憲法を超えるもの」があるとされていなければおかしいのです。

 よく言われることですが、例えばイギリスには成文憲法というものがありませんね。つまり、「憲法第一条、第二条」という風に条文は制定されていない。イギリスは不文憲法、つまり「文には定められていないけれど歴史的に我々はこのようにしてきた」とか「歴史の各ターニングポイントに、このような章典が出されている」といった『国家の歴史と伝統』を法の根本規範(憲法)としているのです。つまり、彼らは「彼らのこれまでの事跡と、今の自分たちとの間で整合性を取る」という所に『憲法』を置いているわけですね。

 私は別に、イギリスのようになれ、と言っているわけではないのですよ。
 ただ、日本のように歴史のある一時点から成文憲法が定められたとしても、「成文憲法の上位に不文憲法がある」と考えることはできるし、そうでなくてはならないはずだと言っているのです。
 何故なら、日本国憲法が出来る前から……もっと言えば明治憲法が出来る前からも、『日本』はあったのですから。

 要は基本的に、成文憲法(日本国憲法)の改正は、日本の不文憲法を『基準』として行われるべきだということです。



 こうした『基準』の事を考えずに、単に「憲法改正」の字面だけに涎を垂らす態度は、パブロフの犬が如き獣の振る舞いと言えます。

 だって、これはおそらく人類普遍の法則ですが、何かを「変える」という時は、「良く変わる場合」と「悪く変わる場合」がありますね。
 つまり、改憲と言ったって、「良く変わる改憲」と「悪く変わる改憲」があるはずなのです。

 だのに、「憲法をどう変えるか?」あるいは「その良し悪しの『基準』は何処にあるか?」という議論は誰もしない。
 もっとも、憲法を変える良し悪しの『基準』なんて人間には明らかに出来ないのだとは思いますよ。が、少なくとも変える良し悪しの基準を考えもしないまま「憲法改正」とだけのたまうのは、単なる「保守っぽい層」へ向けての媚びでしかないでしょう。(また逆に、それは良し悪しの基準に思いも馳せずに「護憲」とだけのたまう態度ともなんら変わるところではないです。)

 ですから、私には、どうにも昨今世で言われているような『憲法改正』は、結局の所、憲法改正という語感に一種の夢をのせているに過ぎないように思えてならないのです。



 たとえば、いわゆる大阪都構想の騒ぎがありましたね。これにおいて、

「大阪都構想そのものについてはよく分からないけれど、憲法改正には維新の党の力が必要だから住民投票は可決された方が良い」

 というような言説が至るところでされていたように思えます。
 これの根拠は大きくいって二つ言われてきました。すなわち、


1「大阪都構想が否決されると、憲法改正に協力してくれそうな橋下徹が失脚し、中央議会の維新勢力も護憲にまわってしまうはずだ」

2「大阪都構想の住民投票可決は、国民投票可決の予行演習となるはずだ」


 大抵、こんな調子でした。

 そして、菅官房長官の種々の発言に象徴されるように、内閣は(一枚隠れた形ではあるものの)大阪都構想に協力的でありました。自民党大阪府連は大阪都構想には反対だったのですから、これは「同志を後ろから鉄砲で撃つ行為」と評されて仕方のないものです。
 でも、この内閣による、大阪市や自民党大阪府連に対する不義理を、多くの人々は「憲法改正の為なんだからしかたない」で納得していたわけです。

 要は、「いわゆる大阪都構想は確かに欠陥だらけなのかもしれないけど、憲法改正の為に維新の党の力が必要なのだから大阪がどうこうなどというのは目を瞑っておけよ」ということでしょう。これは結構、多くの人が言っていたと思いますよ。
 さらに日本人が狡猾なのは、「大阪都構想で大阪がどうなるかもやってみなければ分からないのだし……」と裏切り感を緩和させる理屈まで立ててくるところにある。これの欺瞞的なのは、大阪都構想がどのようなものか少しも知らない者でもこういう事を言うからです。知らないのであれば「やってみなければ分からない」と思うのは「知らないから」でしょう。だって、知らないのに、何で「やってみなければ分からない政策」かどうか判断できるのですか。確かに、すべての政策は「やってみなければ分からない」のかもしれませんが、そこまで開き直ったらあらゆる政策に対して良し悪しの判断を下す必要がなくなるという話になるではありませんか。
 もちろん、人は世の中のすべてのことを把握することは出来ないのですが、少なくとも知らないのであれば黙っているべきなのであり、黙るということは「やってみなければ分からない」などと無責任な事を言わないということなのです。

 まあ確かに。もし仮に「大阪の存立」以上の天に則した崇高な目的があるのであれば、「大阪を見捨てる」ことは政治的な振る舞いとして是認しうることだとは思います。
 例えば、これによって「真に日本の脊椎が定まり、百年単位で日本国民全体の統合や信義を保つことができるような憲法ができる」というのであれば、大阪を犠牲にしたってよい……どころか、名古屋を犠牲にしたって、東京を犠牲にしたって、日本人の八割、九割の生命を犠牲にしたって構わないと思いますよ。真に日本の脊椎が定まれば、一割くらいの日本人が生き残っていさえすれば大丈夫でしょうから。

 しかし、大阪都構想のケースで、「大阪市の存立」よりも上位目的だと世で設定された「憲法改正」は、論理関係から言うと非常にチープなものと言わざるをえないところに大問題があります。
 何故なら、第一に、「橋下維新がなければ、憲法改正に協力してくれなくなってしまう」という前提で「憲法改正」を考えるとなると、それは「憲法96条の改正」を言っていることに過ぎなくなるからです。

 橋下系の維新の会が「改憲派なのだ」と人は言います。しかし、その改憲の中身を一度でも気にかけたことはありますか? それは、「首相公選制」や「一院制」といった直接民主主義的な方向性での「改憲」なのです。要は、ただでさえ過激な民主主義を推奨している日本国憲法を、よりいっそう民主的に『進歩』させようという手合いなのであります。
 ちなみに、人は「進歩」というものを何か良い考えのように言うわけですが、進歩という観念こそがサヨクイデオロギーの根本なのですよ? すなわち、人間には理性(悟性)があるので、歴史が進めば進むほど人類は良い社会を手にすることができるはずだ……というのが進歩主義です。すると、弁証法的に進歩する人類の歴史は、いつか『最終到達点』に達すると想定されるでしょう。その最終到達点を光の先として啓蒙するのが、要は左翼イデオロギーなのです。
 また、「民の一人一人に対して、平等に権限を振り分ける」というのが民主主義というイデオロギーですが、これも『進歩』の一つの類型だということは、よく理解されなければならないことです。

 そして、少なくとも『維新の党』に改憲の姿勢があるように見えるのは、この左翼イデオロギーの一つである『民主主義』の『進歩』を押し進めるような『改憲』を言っているからでしょう。勿論、大衆迎合で言っているのでしょうね。(また、このような進歩的改憲は、公明党も主張している「加憲」と何ら性質は変わらないのであります)

 つまり、維新の党については、この文脈上、96条……つまり改正条項を緩和させるという部分については、もしかしたら協力してくれるかもしれないという話に過ぎないわけです。

 そもそも日本国憲法の改正条項は、衆参両院で3分の2を得た所で、国民投票にかけることができるという形になっています。その後、国民投票で過半数を得れば改正ということになる。
 その「衆参両院3分の2」を「2分の1」に変えて、「国民の一人一人に決めてもらえるケースを増やす」というのが、一般的に言われている96条の改正案です。
 ですから、「国民の一人一人に決めさせればよい」という民主主義イデオロギーの発想なのです。また、維新の党としても、これならば維新的に大衆に迎合することもできる。

 そして、この96条の改正は、安倍首相も政権発足以前から言ってきたことでもあります。首相の場合、「大衆に逆らうことなく憲法に手を加える一手」としてこれを位置づけてきたのでしょう。まあこれ自体、非常に疑問視されるべき態度だとは思いますが、ここまで大衆化した日本の中で首相をやるという所を考えれば、こうした発想を持っていたこと自体は寛容に見るべきなのだと思います。

 しかし、そんな「チープな憲法改正」が、「大阪市の存立」と天秤に乗るかどうかといったら話は別です。そんなもの乗るはずはないのです。
 96条を変えるというのは、日本全体の屋台骨に何ら寄与はしません。憲法を変えやすくはするかもしれませんが、「変えてはならないもの」を設定するわけではないからです。

 ここで問題なのは、日本人は憲法についてすら「変えればよい」と思っていて、それを民主主義の原理で押し進めれば何とかなると勘違いしているところです。
 そういう風に勘違いしているから、「橋下維新の力を温存する為に大阪市の存立を犠牲にし、96条の改正を手伝ってもらう」などということが釣り合うと思われてしまうわけでしょう?



 さて、ここまで言ってもおそらくこういう反論がでるでしょう。

「いやいや。96条を改正することは、9条2項の改正に繋がるのである」

 と。

 確かに、私も9条2項は改正すべきだと思いますよ。
 でも、世の中で言われているほど、9条2項はそこまで大した話ではありません。
 つまり、仮に、大阪の犠牲を呑んで9条2項の改正が成ったとしても、これだって到底釣り合うものではないのです。

 あるいは、96条の改正によって、首相公選制や一院制などなど、より民主的な制度を大衆迎合的に設定されてしまう危険性と引き換えにしてまで、9条2項の削除にこだわっても到底釣り合うものではありません。

 というわけで、次かその次には、今回の話を9条2項と安保法制についての論に繋げようと思います。



(了)


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経済と軍事の交差点 




 自由市場の礼賛が平成の日本大衆民達の都合によって推し進められてきたということは、
「大衆迎合としての自由市場礼賛」 http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-272.html
 にて論じました。

 これに対して、「いや、アメリカが新自由主義を押し付けてきたのだ」という反論があるかもしれません。
 これは確かにその通りだといっても良いかもしれませんが、やはりそれは少し違うでしょう。
 やはり、日本の国を一番毀損しているのは、日本人全体の人間的劣化と卑しさなのです。


 というのも「アメリカに新自由主義を押し付けられること」を良しとしてきたのは、やはり「日本大衆民の軍事的な都合」に起因するからです。これは、「自由市場礼賛」を多少懐疑する者であっても、結局取り込まれる都合であります。

 つまり、「アメリカによる軍事的な養護」と「政治・経済的な制度改変」では前者の方がより短期的な問題に属することは誰が見ても明瞭ですね。ですから、「政治・経済的な制度改変」を犠牲にして「アメリカによる軍事的な養護」の方をその時々で優先するほうが、その時々の「民の請求的な都合」に迎合する姿勢となる。

 この経済と軍事の問題の交差関係は、ごくごく明瞭なことでしょう。誰も口にしませんが、誰もが多かれ少なかれ分かっていることでもある。

 アメリカは、意識的にも無意識的にも、「自由と民主」を普遍的な価値、進歩の光の先として押し広げる傾向が非常に強い国です。そして、これに反する精神は「非自由主義」「非民主主義」の傾向と判断されるのであるから、「国際社会の少数派」として(アメリカから)見なされる。こうした関係も雰囲気として誰しもが察しているところでありましょう。
 すると、政治・経済の制度を「自由」「民主」へ「進歩」「改革」させてゆく姿勢を取らないとなると、アメリカから軍事的に庇護されうる対象から外れる。

 誤解しないでいただきたいのですが、ここで私はアメリカを非難してなどいません。アメリカはこういう国だと誰しもが思っている事実を描写しただけで、別にこのことを良いか悪いかと判断する立場に私はない。私はアメリカ国民ではないのですから。


 私にとって非難する価値のあるのは、いつだって日本人全体です。

 つまり、日本人は、長期的に国家の体制を守るためには、「国際社会多数派筆頭」=「アメリカを中心とした国際社会のスーパーパワー」による庇護から外れる、あるいはそれを敵に回す可能性を認めなければならない……のが嫌だっただけだろう、ということ。
 なぜ嫌なのかといえば、それは職業軍人が多量に戦死するケースが誰にだって想定される可能性であり、つまりは徴兵の必要性も想定され得ることが明白になる可能性だからです。

 つまり、日本人は、短期的にその時々の一人一人が「徴兵される可能性を1%でも下げたいから」「政府に民を徴兵する権限など与えるのはムカつくから」といった理由で、「政治制度、経済的な制度」という長期的なものを少しずつ少しずつ犠牲にしてきた。また、少しずつの犠牲を積み重ねることによって時間制限付きの平和と飽食を享受してきたというわけであります。まあ時間制限付きでも、その中にある日本人の一人一人は、時間制限の間に自分の寿命や青春の期間が含まれきるのであればそれで良し、と頭の何処かで計算しているに違いないのです。

 さらに、こうしたことをまさか正直に言うわけにもいかないから、日本人というのは狡猾にも、そうした自由と民主の進歩的な「政治制度、経済的な制度」に『理』をつけてくるわけです。理さえつけば国家を犠牲にしていることにはなりませんので、先人や後継に対して罪を感じないで済みますからね。

 つまり、深く掘れば「徴兵の可能性をとにかく減らしたい」という短期的都合によって、「政治制度、経済的制度」という長期的な問題を犠牲にしながら、日本人の一人一人はまだ「良い者」でいたのです。だから、そうした長期的な犠牲分を「むしろ合理的」と見積もれるような理屈を一生懸命にさがし、構築するわけであります。

 日本人というのは元々極めて優秀な民族です。なので、この卑劣を覆い隠す理屈を、実に狡猾に構築してきました。
 歴史観、宗教観、哲学、政治哲学、社会学、雑誌、新聞、インターネット、人々の喫茶店での会話、職場での世間話……様々な分野の英知が、日本人の卑劣を「合理」と見積もる為だけに総動員されてきた。要するに、それらは民主主義の論筋を正当化するという「日本人の卑劣な都合」の支配下にあったということ。
 また、この「民主主義」「自由」「進歩」の論筋は、日本人の性質のみならず、人類普遍一般として「大衆」の性質にも迎合するものでもあった。

 そして、経済学、経済雑誌、ビジネス雑誌は、「アメリカの軍事的養護の確保による、短期的な徴兵可能性の最小化」を大前提として「経済における政府の退場」という長期的経済体制の改変を容認しつつ、まだ自分達日本人を「良い者」であると思えるように、「自由市場」「市場均衡」「経済における民主主義」という合理を強調し、強調し、強調することで、日本人の卑劣な都合に迎合し続けてきたのであります。

 もう少し柔らかい表現の方が良いですかね。ではこれではどうでしょう。

 自由市場礼賛を強調すればするほど、「アメリカに屈服している感」を少なく見積もることができる、と。

 この論理関係だけは明白でしょう?

 だから、経済学、経済評論、ビジネスマンの喫煙場での会話などなどは、基本的にここの都合に迎合するように自由市場を礼賛するというわけです。
 少なくとも、そういう大衆の都合に迎合する一つのバイアスとして。


(了)


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安保法制から、ネガティブリストと『健軍の大義』および徴兵制度を考える 




 軍事の事を考える際、前回論じた『徴兵制度』つまり「政府に民を徴兵する権限を持たせる」という考えがいかに重要なポイントか。
 このことをさらに詳らかにするためには、自衛隊……軍隊というもの全体を考えてみる必要があるでしょう。

 また、軍隊というもの全体を見る為に、現在話題にされている『安保法制』に関わる所から論筋を伸ばしてゆこうと思います。



 まず、多くの皆さんは今の自衛隊がポジティブリストによって縛られているという問題はご存じでしょう。
 ポジティブリストというのは、つまり、
「これこれこういう場合は軍事力を行使して良いですよ」
 というリストのことです。
 例えば、「敵が撃ってきたら撃って良い」というような専守防衛の問題などはこれに起因しています。

 通常、軍隊は「これだけはやっちゃいけない」というリストによって縛られています。これをネガティブリストと言います。
 つまり、通常、軍人はいかなる状況にあっても武力を行使するものなのです。その前提の上で、「これだけはやってはいけない」というのがネガティブリストです。

 ネガティブリストというとネガティブなイメージかもしれませんが、「これだけはやってはいけない」というネガティブな取り決めの方が実行可能な範囲は遥かに広いのです。
 逆に、「これだけはやってよい」というポジティブな取り決めだと、実行可能範囲はごく狭まってしまいます。

 それを言うと、今の安保法制においても、単にポジティブリスト「これはやっていいですよリスト」の項目が増えるだけで、 「これだけはやっちゃいけませんよ(だけどそれ以外は全部やっていいですよ)」というネガティブリストにはなっていない。
 例えば、今までは「自衛隊の装備が破壊されそうになった場合には武力の行使ができますよ」ということだったのが、自衛隊法の改正によって、「米軍の装備が破壊されそうになった場合も武力行使できますよ」という風になる。あるいは、PKO活動中の自衛隊員が現地民の生命を守る為に「駆けつけ警護」ができるようになる。
 この程度の話なのです。つまり、「やっていい項目」が増えるだけなんであります。

 だから、保守界隈では、
「自衛隊をポジティブリストではなく、ネガティブリストで運用しなければならない」
 という事は散々言われてきたし、そうでなければ現場の自衛隊員が気の毒だという話も散々されてきた。
 そして現在でも、安保法制に平行してそうした問題意識を持つ人は少なからずいる。

 私とて、当然その通りだと思います。
 しかし、この「ネガティブリストにする」という事は、どういう意味があるのかという所を掘り下げて考えなければ、法律の字面的話題に堕してしまいます。

 ネガティブリストにするというのはつまり、軍隊法を整備し、軍事法廷を持ち、軍律を整備する体制を作るということです。
 これはどういうことか。

 それは、軍事組織が、通常の法律から超然した、別の裁きの体系を持つということです。軍隊法は議会で制定され、命令は行政からおろされるにせよ、司法、つまり、その軍隊法に軍人が違反したかどうかを裁くのは軍事組織ということになる。これが軍事法廷というもの。
 あるいは、敵前逃亡をしてはいけないとか、住民を殺戮してはならないとか、強姦をしてはいけないとか、そういう「軍律」も軍隊組織で作られる。
 ネガティブリストにするというのはそういうことです。

 もちろん私は、このように通常の刑法から超然した、軍隊によって軍人を裁く体系が必要だとは思う。軍事法廷も必要だと思う。
 そして、「自衛隊にネガティブリストで運用して、ちゃんと軍隊にしなければならない」と言っている人達も、そう思っているのだと信じておきましょう。

 しかし、ならばですよ。
 なぜ、そんな風に通常の刑法から超然して、「命令遂行の為なら、ネガティブリスト以外は武力行使してよい」などという暴力機関が存在して良いのか……という所まで思いを馳せなければならないはずです。

 日本人の生命を守る為ですか?

 単に「たまたま今生きているだけの日本人の命を守る」ということなら、「警察の延長線上としての自衛隊」で済むんですよ。

 つまり、その場その場で、国際社会の多数派に屈服し、国際法を遵守していさえすれば、『集団安全保障』という形でその時々の日本人の生命は基本的には守られることになる。少なくとも、これが最も「日本人の生命が脅かされるリスク」を減らす方法でしょう。
 と言うのも、あらゆる局面で「国際社会の多数派」に屈服しておきさえすれば、日本人の生命がリスクに晒されるケースというのは、いわゆる「テロ組織」や「ならず者国家」といった国際社会の少数派からの突発的暴力というものでしょう。
 現在、こうしたものから「日本人の生命を守る」というのが自衛隊であり軍隊である……と考えられている風潮が非常に強いようでありますが、そんなものは単なる「国民の公営用心棒」なんですよ。
 国民の公営用心棒だって「公営」とつけて差し支えない以上、立派な仕事かもしれませんが、少なくともそれは「警察」の範疇に収まるものでしょう。
 もし、このように自衛隊が警察の範疇に収まる活動(日本人の生命を守る事)としか前提としていないのであれば、「命令遂行のためにはネガティブリスト以外は武力行使してよい」という暴力機関に『大義』はないことになるでしょ。
 だって、警察はポジティブリストで動いているんですから。

 つまり、「自衛隊をネガティブリストで運用しなければならない」=「通常の法体系から超然した『軍隊』が必要」というからには、「日本人の生命を守る」という警察の大義以上の目的――建軍の大義――があるという事を前提にしていなければおかしいのです。

 では、「日本人の生命を守る」ということ以上の価値、『建軍の大義』とは何か?

 それは、百年スパンで見て、「日本という文化圏」=「天皇を中心とした文化圏」=「天下」を守るということです。
 これには、単に今生きているというだけの日本人の命を守ることより、崇高な価値がありますね。

 百年スパンでみて「日本(天下)を守る」ということは、「日本文化圏のあり方として、国際社会の多数派に屈服しておれない状況」においては、ちゃんと「国際社会の多数派に刃向かう」ということを前提することです。それは例えば、大東亜戦争のように。
 その場合、相手は「テロ組織」や「ならず者国家」ではなく、国際社会の多数派筆頭……今でいうならアメリカなどのスーパーパワーなわけです。

 そうした、「時のスーパーパワー」に対しても日本文化圏として屈しない……少なくとも百年単位では屈しない。こういう前提があって初めて、「百年スパンで、日本という文化圏を守る」ということになり、日本人の生命を守ること以上の目的が設定され、『建軍の大義』というものが生じる。

 ならばですよ。
 こうした『建軍の大義』に即した軍隊は、「大量に職業軍人が戦死する」という状況もありうる、という事を前提としていますでしょう。
 だって、いざとなったら「時のスーパーパワー」にも刃向かうことを前提するのですから。

 ならば、「徴兵制度」は軍事体系として前提されていなければおかしいでしょ。
 だって、「大量に職業軍人が戦死する」という状況もありうると前提しているのですから。



(了)
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大衆迎合としての自由市場礼賛 

「(共産主義も失敗したことだし、)経済は自由市場に任せていった方が発展するのだ」
 ……というイデオロギーは、非常に大衆ウケをするものでした。そして、二十年失われた平成日本の経済を掌握してきたのは、この「大衆迎合としての自由市場礼賛」だった。

 何故、自由市場礼賛が大衆迎合になりえたか。

 そもそも、「経済を、より自由市場に任せてゆく」というのは「経済から、政治権力を排除する」という事の言い換えでもありますね。
 そして、大衆が、最も好むのは「政治から権力を剥奪すること」です。大衆というのは、ほとんどこのことにしか興味関心はないのです。逆にいうと、政府による最大の大衆迎合は、「政府の権限を自ら手放すこと」なのだとも言える。

 さて、市場における政府の権限を剥奪する……この代表的なものが『規制緩和』と呼ばれるものです。
 規制緩和というと言葉は柔らかいが、とどのつまり「市場を規制するという政府の権限を剥奪する」ということでしょう。

 あるいは、大衆は
「産業、組合や地縁、血縁など、それまでの経緯によって構築された既得権益」
 という文明的に正統なるものを異常に嫌います。

 そして、既得権益は政治的に保全されているものだから、「市場から政治を排除すること」はイコール「市場から既得権益を排除すること」になる。
 つまり、それまで社会の一部の持っていた一種貴族的な、既存に得ている権益を剥奪して、「そいつらだけズルい。俺にもその権益が回ってくる機会よこせ」という大衆の醜くおどろおどろしい精神に迎合することになるのであります。実際は、日本人として生きている時点で、濃い薄いはあっても、それぞれ何らかの既得権益に浴する形で生きているにもかかわらず、「隣の芝は青い」ということです。

 この大衆のグロテスクな政府嫌い、既得権益嫌いは、経済における『民主主義』といったリベラルな発想がその根底にあるわけです。
 そして、「共産主義も失敗したことだし……」ということで、人類は「自由市場」という民主主義的機能に「進歩の光の先」を前提して憚らない。要は、「経済の民主主義としての自由市場」と「人民による支配、世論という政治的な民主主義」が、弁証法的に歴史の最終到達点だというわけです。

 そして、この「自由市場礼賛」=「経済における民主主義」に理論的根拠を与えてきたのが、経済学であり経済評論であります。
 つまり、「経済における民主主義」へ「効率」という理論的な大義名文を与えるわけです。
 それは大抵、以下のようにして言われます。

「各経済主体がプライステイカーの状態の自由競争は、市場均衡をもたらす。市場均衡は、パレート最適の状態――つまり貴重な資源を効率的に配分し、資本や労働といった生産手段を効率的に配分した上での効用最大化の状態――をもたらす。つまり自由市場は潜在GDP(生産、供給の能力)を高める」

 この論筋を数値的経済モデルや評論で証明することが、大学、ビジネス雑誌、新聞等々の基準となってきた。

 この点においては、実は、「新自由主義」と呼ばれる態度においてだけではなく、「社会民主主義」と呼ばれる態度においても同じだったように思われます。
 というのも、前者は、市場を自由にすると経済が効率化するので「そうしろ」という。
 後者は、市場を自由にすると経済は効率化するが、弱い人が可哀想なので「そうするな」という。

 でも、両者共に「市場から政府を追い出し、政府から権限を剥奪すれば、経済は効率化する」という前提は同じなのです。この前提から逸れることは、大衆の「民主主義」と「リベラル」の文脈から逸れることになる。
 それは、「国家」「政府」「既得権益」を擁護することであるから誰もしようとはしない。そんなことをしても誰からもチヤホヤされないからであります。

 でも、いま本当に必要なのは「大衆目線」で「自由市場の効率性を証明できるような経済理論を一生懸命弾き出す」ことではないと信じます。

 いま必要なのは「統治者目線」と言うべき目線なのです。

 その為に、大衆のサーヴァントたる経済理論、つまり「自由市場の市場均衡」を数値上成り立たせている諸前提に根本的な誤りのあることを指摘しなければならない。

 そして、そうした指摘は、「大衆の都合」に反逆をなすものなのです。



(つづく)


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徴兵制度について 




 前回、徴兵制度についてコメントをいただいたので、ご紹介申し上げます。



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「徴兵制」に関しては、自衛隊の側からすればあまりメリットがないと聞きます。

・現代の装備はハイテク化していて、徴兵された人達には扱いづらい
・徴兵された人達をちゃんと「使える」状態にまで仕込まなければならないとすると、自衛隊側の負担が現在に比べて大きくなる

などなど。

例えば「高校または大学卒業後に一定期間の自衛隊への体験入隊を義務付け」なんてのはアリかなあと。

また、有事の際の後方支援などの何らかの国防の義務を(18歳以上の?)全国民が負うこと、それに備えて日頃から訓練を積むことは大切だと思います。
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 こうした意見には、一理あるとは思うのです。
 ただ、徴兵制度は、基本的に「徴兵をされる側」の人間が「必要かどうか」を判断する立場にはないと、私は考えます。
 徴兵が必要かどうかは、「徴兵をする側」が判断するべきことです。

 そもそも、「徴兵をされる側」である多数の国民側が徴兵制度を敷くかどうかを決定して良いのであれば、それは根本的には徴兵ではなく志願ということになります。
 また、徴兵される側である多数の国民側が、「徴兵制の必要」の是非を決めるとなると、どうしても「必要がない」という論理に理屈が付きます。
 何故なら、日本人が軍隊整備を忌避する最も大きな動機は「徴兵をされたくない」「徴兵をされる確率を一ミリでも下げたい」というところにあることは明白だからです。

 徴兵制度は、徴兵をする「権限」を中央政府、または軍隊に持たせるということです。
 ですから、「徴兵が必要ない、むしろジャマ」だという判断を軍隊や中央政府がしたら、徴兵はしなければ良いのです。
 でもそれは、徴兵される側が判断することではない。

 つまり、徴兵制度は「制度」ですから、「国民を強制的に兵隊として徴用する体制を整える」ということなのです。
 こうした体制がなければ、もし、「深刻な軍事的ダメージを受けた時」「本土決戦になった時」など、職業軍人の大きな部分が殲滅されるような危機的状況をまったく想定していないということになります。

 その上で、職業軍人の大きな部分が殲滅されるような危機的状況というものを想定せずに軍事体系というものは考えられないのだと思います。
 百年、二百年のスパンで見れば、危機的状況はいつか必ず起こります。(百年先に起こるというのではないですよ。百年のうちの、明日かも知れないし百年後かもしれないということです。)
 そして、軍隊は、単なる国民の公営用心棒ではなく、天皇を中心とした文化圏を守るのが本義です。
 ですから、百年スパンでの危機というものを想定したものでなくては軍隊の本義を成さない。
 また、百年スパンでの危機を想定しないということは、単に今生きているというだけの日本人の生命と財産の防衛に終始して、文化圏の防衛を前提としないということですから、この場合、おそらく危機に直面する前に日本は溶けて流れてなくなってしまうに違いないのです。



 また、体験入隊の義務付けですが、これはもちろん良いと思います。
 けれど、体験入隊を義務付けている時点で徴兵の可能性を大前提としていることになりますでしょう。
 徴兵の可能性を前提としながらも、徴兵の制度がないというのは論理的におかしいです。
 ですから、「徴兵制ではなく体験入隊」という論理は、左翼と呼ばれる人達からすると、ツッコミどころ満載の理屈になる。左翼はバカですけど頭だけは良いですから。



 以下、当ブログにおける関連過去記事です。


「集団的自衛権の前に……徴兵制をいかがお考えか?」
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-204.html

「現代の軍隊に徴兵制は邪魔なのか?」
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-205.html



(了)


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安保法制についてのメモ 


 六月上旬はろくに更新ができていなくて残念です。
 5月の熱は6月には良くなったのですが、その休みを取り戻す為に少し時間に余裕がなくなっていたのです。

 安保法制の件が騒がれていますが、皆さんはどうみているでしょうか。
 私は、そんな法制はとっとと通しちまえば良いと思います。
 法制を通して、さっさと「日本としての軍事行動における大義」と「軍事法廷の設置を含めた、日本の軍隊の整備」についてを議論すべきす。

 非常に限定的ではありますが、「安保法制」はいわゆる海外での軍事行動や集団的自衛権についての判断を、日本政府が主体的に行う領域の増えるものです。我々は、天皇を中心とした日本文明全体として、外の世界においてどのような「暴力」が正当であるか、判断してゆく必要があります。その実現は、「中央政府の意思決定」として表してゆく他ないのであるから、我々は「正当な暴力」というものを判断できる強靭な政府を構築せねばなりません。勿論、この「正当」の基準は、アメリカを含めた外の意志に左右されるものであってはならないのです。

 また、そうした暴力、軍隊の体系というものを、日本の正統性に照らし構築しなければなりません。
 具体的には、
「軍事法廷を再整備する」
「徴兵制度を再整備する」
「核武装をする」
 という三点が、日本の軍事的な再独立の為には必要不可欠だと考えます。

 これについては、「憲法改正」という話題も結構でありますが、そうした具体的な軍事体系のヴィジョンなくして、仮に9条二項を改正してもどうにもなりません。



(了)
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五月末、発熱 



非常に個人的な話で申し訳ありませんが、五月末は発熱で倒れておりました。
6月に入り、おおよそ元気です。
ただ、タイムスリップした感がいなめません。
世の中では、今どんな議論されているのでしょうか。

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