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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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日米同盟の強化は、対中抑止力にはならない 




 今日は昨日いただいたコメントにかんして考えてみようと思います。



>あと「あくまで現在取りうる『最善ではないが一番マシな』策として米国の力を借りるのだ」という意味合いにおいても「日米同盟の強化」は石川さん的には「ナシ」ですか?
今、そういう選択をしてしまえば未来永劫、そこから抜け出せないままであると?




 まず、私には、現在よりも「米国の力を借りる」ということが「最善ではないが一番マシな策」になりうるとすら思えません。

 おそらく、こういう場合に念頭におかれているのは「中国の脅威」なのでしょう。が、中国の脅威に対して「日米同盟の強化」はほぼ対抗策になりません。
 というのも、もし中国の脅威とやらで、日米同盟が役に立つとしたら、中国側が侵略の効果音をジャーンと鳴らしながら東京湾にでも乗り込んでくるような、明確かつ明瞭な侵略行為があった場合だけです。そういう明らかな行為を起こしたら、別に中国であろうとどこの国であろうと国際社会の非難を浴びます。こうした場合だけは、アメリカも日本に味方してくれるかもしれませんね。

 でも、中国がそんな阿呆のように攻めてくるなんてありえません。中国の領土覇権的な振る舞いは、いつもあくまで字面的には国際法を遵守したものなのです。つまり、俗にいう「グレーゾーン」というやつです。

 そして、日中の間で、このグレーゾーンの衝突があった場合、アメリカが日本を味方する可能性はほぼゼロと言っていいでしょう。
 何故なら、アメリカはそもそも中国と敵対しているわけではないし、中国と敵対するような理由すらないからです。また、中国は日本と違って核戦力を保持している。
 ですから、アメリカから見て、対日関係と対中関係では、どう考えても重んじるべき相手は中国なのです。日本は今のところ核を持っていませんし、どうせ刃向かってもこないでしょう。でも、中国は核をもっているし、アメリカも中国とは敵対したくはないと考えている。

 ですから、日本がいくらアメリカのお役に立ったところで、そういう召使(=日本)を助けるためだけに、「敵対しているわけでもない核戦力を持った国」(=中国)と敵対するリスクを追う蓋然性はまったくないのです。何故って、そんなリスクを追わなくても、召使はその後も召使を続けるほか生きていく道はないと考えているはずだし、仮に召使を失ったところで核戦力を持った国と敵対するよりは遥かにマシだからです。
 だから、アメリカが、日中のグレーゾーンにおいて日本に味方する必要性は、「日米同盟強化」では出てきません。

 そして、そういう必要性がアメリカにないことは中国にも当然分かっていますから、いくら日米関係を強化したところで抑止力になりません。子供だましにすらならないでしょう。

 だから、日米同盟の強化があろうと、中国の振る舞いは一緒です。すなわち、国際法を遵守しながら侵略をしかけてくる。

 ようするに、核武装もせずに、戦う覚悟もない国は、同じステージに乗ってすらいないので、「マシな策」などというものが残されているはずはないのです。



 ただ、このことで私は今の政府……首相や内閣、外務省などなどを責める気はないのですよ。

 何故なら、昨今の「さらなる日米同盟強化の流れ」というものは、単に「日米外交における敗北」というだけの話だからです。



 別に中国の脅威やテロの脅威で「日米同盟の強化」とやらが必要になったわけではないのです。

 そもそも、軍事的に依存している国に対して、外交で勝てるはずはありません。
 昔、石原慎太郎が、「日本も技術的な強みがあるのだから、アメリカへももっとモノを言えるはずだ」みたいなことを言って外務省を批判していましたが、そんなわけはありません。軍事的な牽制力の全くない丸腰の外交など、ローマとカルタゴの例を引くまでもなく、無力です。つまり、戦後一貫して日本はアメリカに対しては無力であり、日米外交は敗北のし続けであった。

 だから、日米同盟などと、「同盟」と銘打つ欺瞞は、政治家はともかく、少なくとも世間ではやめてもらいたいところです。
 そして、日米外交の敗北は今に始まったことではないし、「日米同盟強化」とやらも今始まったものではありません。

 要するに、「今、そういう選択をしてしまえば未来永劫、そこから抜け出せないまま」という時点はとっくの昔に過ぎ去っているのです。おおよそ日本はもう抜け出せないし、どう考えてもこのまま自然消滅するのが規定路線でしょう。


 また、日本が日米外交で敗北しているのは中国にもわかっているに決まっています。ならば、中国視点で見れば、中米外交を上手いことやりさえすれば、日米同盟など「のれん」に等しい存在でしょう。つまり、抑止力になんてならないということ。


 せめて、我々は、「日米同盟の強化」とやらを、中国やテロのせいにして誤魔化すのではなく、きちんと日米外交の敗北なのだと認識すべきです。
 というか、日本人は「日米外交の敗北」を認めるのは都合が悪いので、それを「中国やテロに対するベターな策」と結論付けているわけでしょう。そうやって自分たちの心が壊れないようにしているわけです。



 別に、日本の自然消滅の危機は昨今に始まったわけではなく、規定路線としてずいぶん前からある。消滅の規定路線の中で、まだ消滅はしていないという気になっているだけなのです。
 そういう中で、中国に対してだろうがなんだろうが、「最善ではないが一番マシな策」などあるわけはないでしょう。

 最小最低限の大前提として、「核武装」か「一億総特攻の気概」のどちらかがあって始めて、国家と国家のパワーバランスの論理に加わることができる。また、国家と国家のパワーバランスの論理の上にあってはじめて、「同盟」という言葉も意味がでてくる。
 ですから、そのステージにすら立っていない日本は、何をどう理屈をこねても、国際社会の波に黙って流されるほかありません。


 このことを、政治家が言えないのは当然です。(理解はしておいて欲しいと願いはしますが)
 でも、少なくとも政治家ではない言論人やらなんやらは、もう少しそこらへんを正直に言ったらどうなのだと思います。
 特に保守派はもう少しなんとかなりませんかねえ。

 だから、もし「誰が悪いか」と問われれば、「日本人みんなが悪い」と答えるほかないでしょう。



 最後になりましたが、コメントありがとうございました。
 コメントはこのように記事でお返事できることはございますので、皆様におかれましても忌憚のない意見をお待ちしております。




(了)



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憲法学者と安保法制 




 安保法制にかんする問題点は、安保法制に付随する「日米同盟の強化によるリスクの軽減」という『文脈』であると、私は考えています。
 要するに、「アメリカへの召使度を高めてリスクを減らす」という理屈が、「日米同盟の強化」ないしは「集団安全保障」という装丁を施して押し進められてしまうのは、非常に問題であると考えるわけです。

 一方、「特別措置法なしで自衛隊の海外派兵」を行ったり、「現地住民を警護」したり、「戦闘地区へ進軍」したりといった権限を、政府や軍が持つという法制そのものは、通って良いものです。また、どこに味方するか、ということを選択する権限を政府が持つのも正しいことです。むしろ、安保法制など、あまりにささやかな権限で、悲しくなるくらいでしょう。
 つまり、「アメリカへの召使度を高めてリスクを減らす」という文脈から切り離されてさえいれば、安保法制の法制自体に問題はない。




 しかし、憲法学者の言う、

「日本国憲法は集団的自衛権を認めていないから、安保法制は違憲だ」

 という理屈には一理を認めなければならないと、私は思う。



 なるほど、確かに安保法制は日本国憲法には違反しています。

 これに、
「安保法制が憲法違反であれば、自衛隊も憲法違反ではないか」
 と単純な反論してみましょう。

 でも、憲法学者の理屈から言えば、

「日本国憲法の条文を解釈してきた、戦後の積み重ね」が個別的自衛権を認めているので、自衛隊は合憲とみなすことができる。対して、また「日本国憲法の条文を解釈してきた、戦後の積み重ね」によれば集団的自衛権は認められていないので、安保法制は違憲である。

 と言うことができます。
 そして、これには一理あるのです。
 すなわち、ある一定期間積み重ねられてきた議論の前提を、一時の一部の人間がちゃぶ台を返すように変えてはならない……という「手続き論」であります。


※もっとも、私は石川健治という憲法学者の理屈しか読んでいませんが。

ex)「いやな感じ」の正体 憲法学者・石川健治






 ただ、こうした憲法学者の理屈も、欠陥はある。
 それは以下の二つです。


①日本のこれまでの議論の積み重ねで構成された前提(憲法)を、まるで1945年8月に革命が起きたかのように、戦後の積み重ねしか換算していないこと。

②憲法を、「統治機構」を縛るもの、とだけ考えていること。



 憲法に、「統治権力を縛るもの」として色合いが強かったのは、マグナカルタに始まる憲法の歴史を見れば確かではあります。が、それは統治権力側が暴走気味であった西洋の前近代の話であります。現代では、地球規模的に「大衆による支配」の暴走が甚だしくなっている。
 それに、倒幕からの日本の歴史を見れば、おおよそ暴走をしてきたのは非権力の側であり、統治権力の側は民衆の請求(大衆)という圧倒的多数の力に屈服してこざるをえなかった。
 だからといって、統治権力を縛るものがなくて良いとは言いませんし、権力の分散は必要でしょう。しかし、憲法(=国の歴史の積み重ね)が縛るものは、「政府」だけではなく、「現在たまたま生きている国民」もそうなのです。
 つまり、(権力側も、非権力側も)現在たまたま生きている国民は、すでに死んでしまったすべての国民の意志に縛られて未来を形成しなければならない、と考えられるべきなのであります。

 また、もちろん、我々は、戦前に積み重ねられたものだけを前提にものごとの基準を考えることはできません。
 しかし、戦前に積み重ねてきた大義も、戦後に積み重ねたものと同様に、今を生きる日本人を道義的に縛っていると考えられていなければどうしますか。
 1945年8月には、日本国民の総入れ替えがあったわけでも、革命が起きたわけでもありません。
 ただ戦争に負けたというだけなのですから、もし、今の我々がそれ以前の大義を完全に無視するという前提に立てば、「1945年8月に日本はアメリカに滅ぼされた」と解釈しなければならなくなる。そして、憲法学者の理屈からすると、そこから「新しい国家」が建てられて、その新しい国家の積み重ねだけが「憲法」を形作っていると考えなくてはならなくなってしまう。



 ですから、「安倍首相のやり方が立憲的ではなく、安保法制が違憲である」という憲法学者的な批判は、一理も二理も三理もあるが、やはり根本に致命的欠陥があるのです。

 つまり、「憲法」ということを考えるにしても、戦前や徳川時代以前からの積み重ねで考えられていなければならないし、こうした積み重ねは政府のみならず、今たまたま生きている国民をも縛っていると考えられなければならないということです。

 これに基づけば、軍隊を海外に展開したり、バランス・オブ・パワーの国際政治力学で味方をする国を選んだりということができる政府の権限自体は、「必要である」と考えられていなければならないでしょう。
 この、大衆の請求を超えた、「歴史的な必要」に基づくものであれば、それは「合憲」とみなされるべきなのです。



 だから、安保法制への「違憲」の批判が成り立つとすれば、こう言うべきでしょう。

 安保法制の「日米同盟の強化」という『文脈』は、「徳川時代以前、日帝期、戦後……というすべての積み重ね」に反している、と。



(了)

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信仰と文明開化(日記) 



 家の庭の木が、しばしば雨どいまで覆いかぶさる。よって、これをもう根こそぎ切ってしまうということになりました。

 午前中に業者さんが来て、酒と塩でお清めをして、切り始めます。
 すると、途端に寂しいような心持ちになってきました。



 当然のことながら、木には魂がある……と昔の人は考えた。
 私はこれに賛成ですが、本当の本当のことを言うと、魂なんてものがあるだなんて私にはちっとも信じられないのです。

 魂、神々、仏、地獄、極楽などなど、そういうものはいくら「信じてみよう」と考えたところで、私の心はちっともこれらを信じられていない。だって、そんなものはあるわけはないのです。

 でも、私のような心のありかたは、絶対に間違っています。
 何故なら、世界において神秘の領域を前提しないとなると、この世のすべての物事には価値がないという話になるからです。
 これはいわゆるニヒリズムというものですが、信仰というものが徹底して失われたらニヒリズムに至るのは論理的に必定なのであります。

 でも、間違っているからといって、頑張って「魂を信じよう」と気合を入れて信じられるのであれば、こんな楽チンなことはありません。



 ほとんどの人間は、おおよそこの深刻な事に気づきもせず、信仰を嘲笑する。それでも、大抵の人がニヒリズムにまでは至っていません。人々は一応何らかの倫理に則そうとはしている。
 この説明には、以下の二つのパターンが考えられます。


①信仰を嘲笑しながら、無自覚なままの信仰が残っている

②旧い信仰を失うと同時に、新たな原理への信仰を始めている


 パターン1の彼は、自分を知らないというだけの幸せ者です。しかし、彼の振る舞い自体は信仰を嘲笑している。ですから、彼の子供は、彼に価値意識を与えていた無自覚の信仰を受け継ぐことはできないでしょう。よしんば彼の子が受け継ぐことができても、何世代か後にはあらゆる旧信仰は死滅しているはずです。


 パターン2の彼は、自分を知らないという点では前者と一致していますが、非常に不幸せな人間です。彼は旧来の信仰をまったく失っているが、「あらゆることに価値はない」というニヒリズムに耐えられないので、「新興宗教」と呼ばれるようなものに傾斜していく。
 ここで言う振興宗教は、一般的に振興宗教と呼ばれるものだけを想定するものではありません。いわゆる「科学技術信仰」「合理主義信仰」という、いわばイデオロギー的なものも含みます。

 現在もっとも広がっている新興宗教は、「人間として生まれたことについての価値」から出発する、『近代合理主義』という教義です。すなわち、「人間の一人一人にある平等な価値」を想定して、その価値の実現のための人間組織や科学技術がまた価値付けられるという教義体系であります。
 しかし、この教義には致命的な欠陥があります。それは、その「人間の価値」を根拠付ける世界観がないということです。当たり前ですね。ここでは人間の価値は何かを価値付けるものとして大前提とされているので、人間の価値そのものには何らの説明が施されていないのですから。例えば、科学技術は「人間のためにあるもの」であって、「人間の価値付け」には一切何の役にも立たない。
 人間の価値は、旧来の信仰が形作っていた世界観に示唆されていたものであり、それを彼は失っているのです。

 ですから、近代合理主義の信仰の中にある多くの現代人は、心の奥では薄々、「人間が価値付けられていないこと」に気づいているのです。だから、実のところ無価値感を抱えながら、ほとんど気合と根性で「人間に価値がある」と思いこむ。こういう精神作業を、ほぼ無自覚にこなしているわけであります。

 これを下支えするために、「人間の快、不快の足し算引き算」に価値を置く者もいれば、「身近な人間とのコミュニケーション」に価値を置く者もいるでしょう。しかし、これらも、これらを価値付ける世界観がないので、至極あやふやな価値になってしまう。
 要するに、、「人間の快、不快の足し算引き算」も「身近な人間とのコミュニケーション」も、地球上の無数の人間達に振りかかっているのを我々は知っているので、「どこにでもあるもの」と相対化できてしまう。そのように相対化してしまったものに価値を置くのは難しいので、離婚率が高くなるのも当然なことだという話になってしまいます。
 また、人はそんな風に、「身近な人間とのコミュニケーション」を相対化してしまうことに対して酷く自己嫌悪するものであるが、これは「相対化しないようにしよう」と気合を入れればどうにかなるというものでもありません。また、ここまで自己を解釈して、精神作業の気合の入れ方を編み出せるほどの精神的文才を誰しもが持ち合わせているはずもない。


 
 ですから、旧来の信仰と信仰が示す世界観を完全に失ったパターン②では、人間が救われる見込みはほぼありません。
 個人も救われなければ、その個々人の織り成す文化圏も死滅するのです。

 これを明治以来から今日に至るまでの「文明開化」に絡めて言えばこうなります。
 文明の開化は旧来の信仰が残る時期までは価値観との歯車が噛み合ってそれなりの果実を得るように思われるかもしれないが、やがて信仰や世界観が死滅してゆくに従って、価値そのものが融解して、文化圏は没落してゆく。
 つまり、近代的文明の進歩というのは、時間制限付きなのです。平成になってとうとうその時間制限が来たので、日本は没落の一途を辿ってるというわけであります。


 しかし、そうとわかっていても、すでに失われた信仰についてどうにかできるはずはない。
 いくら信じようと気合を入れても、私は、魂や天国や地獄を信じられないし、八百万の神も信じられないし、仏も神も、お化けや妖怪に至るまで信じられないのです。

 と言うより、信じようと思って信じるということは、すでにそれは信じていないということでしょう。
 人は、「この人に恋をしよう」と思って恋をするわけではないし、「国を愛そう」と思って愛国心を抱くわけではありません。
 恋や愛や信仰という言葉は、もともと自分の心にあるものを整えて、発見するために編み出された発明です。
 だから、恋いそうと思って人を恋したり、愛そうと思って国を愛したり、信じようと思って信仰したりなどというのは、もともと恋も愛も信仰もなかったということなのです。




 ただ、私はこうは思います。

 私は魂を信じることはできないけれど、魂を信じていた昔の人の心は信頼できる、と。
 つまり、そういう心で存在していた昔の人の方が、自分よりも遥かに上等な存在であると考えておくということです。これなら私にもできる。

 例えば、昔の年寄りは写真に撮られると魂を抜かれると思い、これを怖れたそうな。
 私は、これを「不合理」と笑う人間より、昔の年寄りを信じます。
 昔の年寄りのほうが遥かに上等な存在です。


 だから、私は庭の切られた木に魂があるとはどうしても思えないけれど、昔の信仰ある人々が編み出した酒と塩によるお清めを崇高なものであると考えることによって、この木と別れることについての寂寥の感を整えることにしました。



(了)


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戦後70年談話に向けて(日記) 



 今年もまた、八月がやってきます。
 とりわけ今年は戦後70周年。

 そういうわけで、首相がまた談話を出すという。
 私はそもそも、「談話など出さなければ良いのに」と思います。

 しかし、色々な政治的な問題もあるのでしょうから、文句は言いません。
 ただ、私はこういう風に願っています。

 すなわち。
 たとえ中国、韓国に対しての謝罪やら反省やらをしたとしても、「対米開戦」だけは反省してはならない、と。

 この件にかんしては、むしろ、対米開戦さえ肯定的に見られていれば、それでいいのです。

 先の大戦における太平洋・対米戦争は、要するに、地球が狭くなり、地球規模化していく地球の中で、日本文化圏を保全するという幕末以来の一大課題に対する、一つの天才的アイディアでした。
 坂口安吾風に言えば、このアイディアは、誰か一個人が考えたものではなく、歴史の流れの中で日本人たちの頭に自然と湧きでた帰結です。あるいはこれを、運命的と評しても良い。

 つまり、文化圏を保全するために、滅びを覚悟で「国際社会の多数派」に刃向かい、猛烈な暴力精神を提示し、恒常的に文化圏の浸食を防げるような国際社会を自らの手で形成しようというアイディアです。

 このアイディアと、それを勝ち取ろうとした日本人の暴力精神だけは正しいと考えられていなければならない。
 というのも、今を生きる我々も、そして未来の子供たちも、こうした「日本ということにこだわって発揮する正しい暴力精神」を持って行かなければならないからです。
 というより、これをすべての国民が失った時点が、日本文化圏の終焉なのです。

 ですから、その最も正しい形で行われた、「対米戦争」だけは、良きものとして考えられていなければならないでしょう。



 よく遡上にあげられる、「中国や韓国への謝罪や反省」は、この問題の派生事項です。

 すなわち、「中国や韓国への謝罪や反省」をするということは、「そのような振る舞いをした日本を滅ぼしたアメリカは正しかった」という論理を下支えするものになるわけです。事実、アメリカは陰に陽に、日本へ「韓国や中国への謝罪や反省」を請求し続けている。その方がアメリカにとっても都合がよいのですから当たり前でしょう。

 ですから、「中国や韓国への謝罪や反省」がどうのというのは、いわば端論なのです。
 日本における先の大戦の中で、圧倒的な主軸として考えられるものは、誰がどう考えても「日米戦争」でしょう。

 我々は、このことだけは忘れてはならないのです。



(了)


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ヒットラーとナチズムについて(日記) 



 ドイツのヒットラーによるナチズムは、大いに悪者にされることが多いです。
 勿論、ユダヤ人への迫害意識を国家の団結の一つのツールとして使い、果てはホロコーストにまで至った部分については、確かに忌避されるべきものでしょう。

 しかし、「国家を団結し直す」という志向自体は、我々もナチの手法を見習うべきではないでしょうか。


 もちろん、ヒットラーの主導したナチズム自体は、大衆的なものであったがゆえに間違っているのですよ。
 でも、国家を団結するに際して、大衆的なるものに迎合したり、大衆を扇動したりなどという道に走らざるをえなかったのは、そもそもドイツがそういう状態に追い込まれていたからです。(そもそもユダヤ人迫害は大衆迎合の最たるものであります)

 ドイツは第一次世界大戦後、戦勝国から天文学的な賠償金支払いを命じられたのみならず、ワイマール憲法という「自由」で「民主的」な憲法を立ててしまった。もちろんこれは、第一次世界大戦中におけるドイツ自身の革命、つまり内輪モメに責任もあるわけですが、どちらにせよヒットラーを産んだのはワイマール憲法であった。

 これを、
「人の世の中には、せっかく手にいれた自由と民主という進歩を、自分から手放す馬鹿がいるものだから気をつけろ」
 と、考える仕方には、私は大反対です。

 すなわち、自由と民主……我々が「進歩」と考えているものが、「人間にとって極めて苦しいことなのではないか」と私は考えるのです。
 つまり、問題はヒットラーにあったのではなく、大衆にあり、大衆を精製したのは「自由と民主」という「進歩」だっただろうということです。
 ようするに、ナチスドイツを見るときには、「自由」「民主」「進歩」「モダン」という大問題から遡って捉えられていなければならないということ。



 そして、われわれが現今の「自由」「民主」「進歩」「モダン」を克服するためには、大衆的なるものを徹底的に排除したうえでの、「国家の団結」が目指されなければならない。
 ですから、ナチスドイツにおいても、その国家の団結のために成された、いわば「統制的な経済運営」や、「国内交通インフラ網の整備」、「ナショナリティの再考」、「軍事力の増強」といった部分については、大いに参考にするべきではないでしょうか。


 つまり私はこう考えているのです。
 我々日本は、既存の共同体に根付いた国内権力をどうにか再興させて、これを中心とした「非大衆的で封建的な国家社会主義」的な方向を目指すべきなのだ、と。



(了)



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かかとの乱れは心の乱れ(日記) 




 私は、「かかとの乱れは心の乱れ」というような道徳的な標語が大嫌いでした。

 こういうことを注意する時は、

「靴のかかとを踏むのは見苦しいからやめろ!」

 というのが最も適切であるように思われるからです。



 人に注意をするとき、小賢しい工夫を凝らすと、かえって人をイラ付かせるようなものになってしまう。

 でも難しいですよね。人は人に注意をして煙たがられるというのが基本的に嫌です。だから、どうしても歯に一枚着せて伝えようというインセンティブが働く。
 私自身も、どうしてもそういうところがあって、自己嫌悪に陥ります。


 ただ、物事を伝える時に何の工夫もしないのは、正直というよりただの馬鹿です。
 何らかの適切な工夫を言葉に凝らさなければ、正直ということもなされません。

 この両立を図るには、状況に応じた言葉遣いの妙を磨く必要がある。
 つまり、言葉に工夫を凝らすとき、それが安っぽくないようにしなければならないということ。
 安っぽいというのは、意味のない工夫、装飾のためだけの工夫がそれです。

 そのまま伝えればよいことにおいて、わざわざ皮肉的工夫を混ぜるのは、単に煙たがられるのを避けているだけのチープなものになります。
 一方、言葉における必要な工夫とは、「そのままの言葉では伝わらないことを伝える言葉の工夫」というものなのです。そして、正直であるというのはこういうことを言うのだと、私は思います。

 もっとも、その双方の見極めそのものが、とても難しいことではありますが。



(了)



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日記(2015.7.26) 


 そういえば、某SNSで、私の居住地が「名古屋」となっていました。コメントを書き込んでくださる方に、私が名古屋市民であると誤解させてしまったようです。

 実のところ、それは以前名古屋に住まっていた時の情報で、現在は愛知県の片田舎に住んでいます。
 これを更新していないのは、住まいの細かい個人情報をネット上で知られるのが嫌だということと、「名古屋」と言っておいたほうが格好が良いだろうと思っていたからです。実際、全国的に見て、愛知県の地名で名古屋以外のものを知っている人は少ないでしょうし。

 というわけで、本当のところ現在の私は、名古屋から電車で40分ほど行った田舎の町に住んでいるのですが、昨日はこのあたりでお祭りがあったようです。
 尤も、しょせん流れ者である我が一家はお祭りなどに参加するような地域共同体的繋がりを持っていないし、私自身ももはや友達もほとんどいない。ですから、お祭りがあるらしいこと自体を昨日の駅周辺の雰囲気で悟ったわけです。また、結局、どこでどのようなお祭りがあったのかということもわからないままでした。

 でも、自然にお祭りに参加しに行くような中学生くらいの子供達は、彼ら自身が夜の田舎町を幻想的に彩っています。
 私は、彼らのような人々が、どのような世界に住んでいるのかということが気になる。

 それこそ私の子供の頃はそうした人々を羨望の眼差しで眺め、妬んだものでした。
 私は自分の生が、そうした煌びやかな世界の一部になりえない、無価値で、味気のない、失われたものであるという確信を、人生のかなり初期段階から持っていたのです。

 ですから、私は、彼らのような者たちを見ると、激しい嫉妬に駆られたものでした。
 この空白を埋めるためには、何か別の……例えばスターになるとか、金持ちになるとか、権力を持つとか、そういうことがなければならない。そういう世界から超然としたもので、「失われ分」を埋めなければ、自分は永遠に価値づけられない。そういう風に考えたものです。

 そして、こういう下賎な考えに至る人間の精神を、「大衆」というのです。
 大衆というのは、いつだって嫉妬心が大量化する現象で、私はそれの最たるものなのです。

 でも、嫉妬で大衆の一部に取り込まれてしまったら、それはそれで自分が価値付けられる可能性がなくなる。
 大衆的であることは、人間の一切の価値を殺すものだからです。

 ですから私は、自分の中に湧き起こるあらゆる嫉妬を、自分自身で笑ってみせるという手法を編み出したのでした。



(了)


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日記(2015.7.25)床屋さんと組合 


 午前中に髪の毛を切ろうと思ったのですが、街に出ると時間がかかり、近くで済まそうとするとお店が12:00からしかやっていませんでした。昼間は時間がなかったので、また夜に切りに行こうと思いました。

 もちろんどこでも切ろうと思えば切れるのだろうけれど、いまさら初めて行くお店で髪を切ってもらうのは人見知りの私としては億劫だし、恥ずかしい。まあ、仕方ないのでしょう。



 そう言えば、床屋さんというのは、昔は床屋さんの組合というものがあり、組合に参画する床屋さんみんなで価格を維持していたようです。つまり、むやみに価格を下げるヤツが出ないように、組合で価格を揃えていたのですね。

 でも、最近は組合に加わらず、1000円などでスピードカットするような床屋が出て、組合に参加していた昔ながらの床屋さんがやっていけない……ということを、前にとある床屋さんの奥さんが言っていたのを聞いたことがあります。

 今の世の中では、そうやって組合で価格を維持すると「市場価格競争を阻害している」などと言われそうですが、私は産業の組合と、既得権益と、価格調整を擁護する者なので、その奥さんの床屋さんに同情したものです。そういういわゆる既存産業は、市場に任せると価格が下落し、体力のある資本しか生き残れなくなってしまいます。だから、小さなお店は、組合を形成して、資本以外の「既得権益」の論理でもって社会的に生き残る他ない。そういうことが認められなくなってしまうのはまことにケシカランことだと思います。

 共同体の中で、小さなお店を切り盛りするというのは、とても崇高なことでしょう。そして、資本と自由市場の理屈だけでは、小さなお店というのは特に既存産業においてはなりたたないのです。だから、経済においても社会的、政治的、コネ的な論理が必要なのです。

 でも、場所があまり遠いので、彼女の床屋さんへは行ってやれないのを申し訳なく思います。



(了)


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ギリシャ雑感 



 すこし前の話ですが、ギリシャがまた債務不履行の危機に陥っていたが、ユーロ側と折り合いをつけて危機を脱したという話題がありました。

 ギリシャのことが日本で話題になるのは、ギリシャを引き合いに出して、色々と日本の世事を語ろうとする志向からくるものでしょう。ギリシャ人そのものを本気で心配している日本人は、残念ながらあまりいません。

 日本人がギリシャを見るときの観点は、まず大きくわけて二つでしょう。
①ギリシャの危機が与える金融の不安定化が、日本にまで及ぶものになるかどうかを見る
②ギリシャを引き合いにして、政治的な主張をする

 ①は、とどのつまり予測ですね。ただ、今回は、それほどのショックに対する危機感があったようには思われませんでした。ギリシャとユーロ側の話合いがつきさえすれば、IMFへの返済が可能だったので、今回はユーロ側と話し合いが付くだろうと誰もが思ったでしょう。なぜなら、ギリシャ側も、ユーロ側ですら、ギリシャ支援を再開しなければ双方酷いことになることは分かっているはずだったからです。
 だから、騒がれてはいたけれど、危機感はあまりなかった。

 つまり、今回我々が気にしなければならなかったのは、おおむね②の方のみでした。
 要は、ギリシャの財政をどう見るかが、日本の財政政策をどう見るかという空気とかかわっているから関心をもたれるわけです。

 これはおおむね、ギリシャの公債を引き合いにして、日本政府の累積債務を「ケシカラン」と糾弾する口実として使われることが多かったわけです。
 でも、日本政府の国債にギリシャのような問題があると考えるのは無理がある。

日本政府の国債が、ギリシャのような債務不履行の可能性がないのは二つの理由からです。
一、 90%以上が国内で償還されている。(外国に対する負債ではない)
二、 ほぼ100%円建である。(日銀の発行できる「円」で返せばよい)

 ですから、日本の国債が債務不履行を起こすことはありえません。もちろん、日本政府が転覆すればデフォルトになるでしょうが、政府転覆以外で日本政府がデフォルトを起こすようなストーリーは論理的に考えられないのです。あるいは、「デフォルトをしよう」という強い政治力学が働けば、債務を履行しなければ確かに債務不履行にはなります。でも、債務履行が経済的に不可能になるという筋道は、ないのです。

 つまり、日本の財政破綻論は、どんなに貶さないように評したとしてもデマゴーグなのであります。



 さて、何故、公債の話題が重要になってくるかというと、それは政府の財政政策の融通の問題と絡んでくるからです。

 そして、少なくともこの十年、二十年は、「財政破綻論」を根拠に政府の国債発行と支出を制限しようとする市民ジャーナリズム的バイアスがあった。(私は、私が中学生の頃。小渕首相がこれでイジメられて、大衆にくびり殺されていたという記憶があります)
 つまり、大衆は、政府の権限を制限して満足がしたいわけです。
 そして、政府に「節約」をさせて満足がしたい。
 特に、公共事業や公務員給与を節約させることを請求したい。

 そういう醜い大衆市民ジャーナリズム的な政治力学が、薄く、広く、甘く、共有されてしまっていて、われわれは自分たちの首を絞めてきたし、これからも締め続け、苦しみ続けるのでしょう。ざまあ見やがれってなもんです。

 また、この大衆理論を下支えするために日本人は、ギリシャ人を心配するわけでもなく、ギリシャを引き合いにしてきた。



 しかし、今回、ギリシャでは「緊縮財政にNO」という国民投票を通しました。(結局これも何の意味があっての国民投票だったかわからない国民投票でしたが)
 また、これまで日本の大衆ジャーナリズムは、「民主主義」も礼賛してきた。
 すると、彼らはどうするかというと、財政のうちでも「社会保障」だけは認め、「公共土木事業」や「公務員給与」「軍事費」などなどは認めないという都合のよい立場をとるわけです。
 つまり、大衆(敵)は、どこまでも「反政府」に都合がよいようにポジションをとる。(※もちろん、社会保障も重要な支出の一部であることは大いに認めますけれどね)


 ですから、ギリシャの「反・緊縮財政」=「積極財政」の国民投票も、とりわけ良きものとして受け入れるべきものでもないと私は思う。
 私はもちろん、「緊縮財政は良くない」とは思います。今は、ギリシャでも、日本でも「積極財政」が必要なのであり、景気が流れに乗ったら、そのまま「大きな政府」を目指すべきだとも思っています。

 が、それを「民主主義」によって採択するのは駄目です。「積極財政」が「民衆の請求」でなされても、そんなもの、ろくなものになるはずはないのです。



 われわれに必要なのは、「統治者目線の積極財政」というものなのです。

「統治者目線で、民を安んずる」
 というのと、
「民として民の請求をする」
 というのでは、全然違います。

 民として民の請求をするなどということで、何か良きものが得られることはないのです。これは人類普遍の大原則なのであります。



(了)


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戦争の反省における大衆の欺瞞 

 そう言えば、8月15日の玉音放送の日くらいに戦後70年談話を出すとか、出さないとか、そういう話がありますね。

 つまり、首相が対外的に「あの戦争はこれこれこうだったなあ」という感想文のようなものを提出するということです。それで、談話とは言いながら、誰が出しても反省文のようになってしまう。
 第一に、戦勝国筆頭のアメリカに叱られないような感想文でなければならないし、第二に、中国や韓国を刺激して、その様を見た日本のマスコミに叱られないようにしなければならないからです。

 普通に考えると、もう70年経っているのだから、少なくとも対外的には黙っていればいいものを、なぜ談話など出すのかというところがまず不思議でたまりません。

 私は学生の頃から、このような対外向けの反省を見るたび、二つのことを考えたものです。

 一つは、「戦争」や「侵略」を反省するということは、裏を返すと、「われわれ日本人はかつてよその地域へ侵攻できるほど強大な力を持っていたのだ」というアピールでもあります。戦争や侵略は悪しきことだと国際社会で言われていますが、一方で「歴史的に侵略国であった」という仄めかしは国際的に権威のようなものを備えさせる。
 あるいは、国内的にも「我々は中国や韓国に悪い事をしたのだ」というのは、裏を返せば「我々は中国や韓国に悪い事をできるくらい強かったのだ」というゲスな思いを発露するために、装丁を施して提出された偽善である可能性が非常に強いのです。

 もう一つは、やはり国内的なところで、「戦争を反省すること」によって、政府への権限を剥奪しておこうとする大衆力学があるということです。戦前……とりわけ戦中は、現在と比較すれば「統制的」な政治、経済システムでした。それで、そういう「統制的」な政治、経済システムが嫌だから、そういうシステムを採択していた戦争と戦中の政府そのものを反省するよう、現在の政府へ請求する。
 そして、そうした大衆の請求に都合がよいものとして、国際社会に対する譲歩というものがある。つまり、「国際社会」を引き合いにして、中央政府の権限を剥奪しておこうという大衆力学がそこにあるわけです。


 こういうことを言うと、「大衆はそこまで考えていない」と言われます。
 それはそうでしょう。大衆はそこまで考えていない。

 しかし、自覚的に言葉で整理して考えていないからといって、「思っていない」とは限らない。
 私は、大衆のほとんど大衆本能のような、無自覚の大衆の下賎ぶりを、見たまま描写しているだけなのです。



(了)


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安倍首相への大衆的評価の無意味 



 私は基本的に、「安倍首相を支持する」あるいは「安倍首相を支持しない」という平民の声には、一切の意味を認めません。

 まず、我々国民の一人一人は、基本的に内閣総理大臣の選定に直接関与する権利はない。我々は国会議員の選定に責任を持っていますが、内閣の選定に関しては国会議員へ責任を委託している。そうした議員内閣制度の上で間接性を担保し、「大衆」の醜さを抑制する機能を担保しようとしているのだから、むやみやたら滅法に平民の一人一人が直接ピーピー政治や内閣へ口を出して良いはずはないのです。

 いいですか。そもそも、内閣に対して口を出すべきなのは国会議員なのです。とりわけ「自民党」という既存の政治組織がするべきことでした。

 特に自民党の議員が昭和時代まで発揮してきたのは、「地域共同体やコネやシガラミや既得権益を代表する」という政治力学だった。これが「内閣」と「議会」の拮抗を生み、国民の常識を中間団体を介して生かし、議論の前提や政権運営の安定性を確保してきたのです。
 しかし、(小選挙区制度の導入も無視はできませんが、)何と言っても地域共同体、産業共同体そのものが超近代(ウルトラモダン)の帰結として崩れ、自民党の政治共同体も組織の力を失ってしまいます。

 よって、小泉政権以降、内閣の力が強大になったように見えるのは、共同体に力がなくなったがゆえに議会に力がなくなって、相対的に内閣が権力を保持するようになったからなのです。

 ですから昨今の政治的様相を、安倍首相個人の人格が「良い」ないしは「悪い」などというところで説明しようとしても、そもそもあまり意味がないでしょう。
 要するに、内閣に対して拮抗すべき自民党……ひいては国民共同体の網の目が崩れ、残った権力の座が「人気者としての首相」という階級だけになってしまったということなのですから。
 このことを「安倍首相が素晴らしいから良いことである」と評価しても、「いや、やはり安倍首相の考え方そのものが劣悪なのだ」と言い張ったとしても、現実を適切に描写しているとは言いがたい。だって、そこには見逃すことのできない齟齬があるでしょう。


 かつての自民党内で行われていた「党」と「内閣」という勢力の拮抗の論理は失われてしまった。ですから、本当に必要なのは、どのようにそうした政治力学を下支えする共同体を再構築するか……という気の長い話であるはずなのです。

 さて、ここで気をつけてもらいたいことが一つ。
 すなわち、ここで「大衆市民言論」にだけは、主導権をとられてはならないということです。 
 大衆市民言論というものは、そもそも基本的に無い方が良いものなのですから。

 大衆市民言論とは、結局のところインテリとインテリのシンパで構成された有象無象なのです。

 今回の安保法制の件でピーヒャラ国会の周りを取り囲んだ青二才共。
 あるいは、若造のネットウヨクによるよくわからないデモ。
 はたまた、橋下市長の大阪都構想の応援へ熱をあげた若者たち。

 そういった群れを成してされる政治活動には一切の価値がないことを、私は強く確信しているのです。
 彼らは今は若いので、コトの恥ずかしさ、晒している醜態のおぞましさに気づかないのかもしれません。が、大人になって反芻したとき、確実に赤面せざるをえなくなるに決まっているのです。(もっとも、死ぬまで成熟しないのであれば、それはそれで幸せかもしれませんが)

 また、それを「今の若者にも希望が持てる」などと理解ある大人ぶって評す輩も、まことにケシカランことだと思います。大人なら、群れて政治活動をしようなどという若い連中など、「愚かな真似はよせ」と叱り飛ばさなければならないと思うのですが。



(了)


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日記(2015.7.20) 



 今日は暑いです。
 春秋を巡るはいつの世も同じなはずで、こういう暑さも同じだったはず。それで昔はクーラなどといった文明の利器も何もないわけです。

 すると、「暑さで死ぬ」ということは、珍しいことではなかったのでしょう。
 今は暑さで死ぬとニュースになるほどです。
 逆にクーラで死ぬ人もいるようですが、昔暑さで死んでいた人の数ほどに多いとは思えません。

 もちろん人が死ぬこと自体は悲しい場面です。
 が、「死や悲惨から遠ざかった」ことをして近代文明を良きものとして結論付ける単純な仕方は、私はしたくありません。

 前近代社会……例えば農村共同体にあったであろう死や悲惨や夭折は、共同体の光りの一部として幸福と切り離せないものだったのだろうと思うのです。そこでは、死も生とごっちゃになった一つの世界観であったに違いない。

 我々は、言葉によって小賢しくなったぶん、前近代社会を勝手に憐れみがちです。死や悲惨や夭折をもって、どうして彼らを憐れむことができるでしょう。それは我々の傲慢というものです。

 でも、現代社会に生まれた者は、氾濫する言葉によって自我が強くなっています。ですから、我々が急に前近代社会に適応しようとしても無理なのでしょう。
 暑さで死ぬのはつまらないから、クーラをかける。
 社会全体で、暑さで死んでしまう人を減らす。
 このように行動せざるをえないし、そのように行動するのがまあ正しいのでしょう。

 しかし、だからといって我々が「前近代社会と比べて上等なものを享受している」と考えるのは間違っています。
 世界の解釈における「人間の文才の発揮」と「自意識の巨大化」によって、失われた心の領域がある。
 これは深刻なことで、この深刻な問題を放っておいて、「生存権を担保しうる近代文明の素晴らしき」を前提とするのは滑稽きわまりありません。腹立だしくもあります。

 また、この失われた心の領域は、何か政治の制度的なもので克服、超克できるものではありません。何故なら本来、この心の領域を活かす形で政治を執り行うというものであったはずです。

 ですから、「近代」に解決策はないし、基本的に、我々日本文明は没落の道をごく順当に辿っていると考えるほかないのです。



(了)


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Category: 日記:思考

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日記(2015.7.19) 



 安保法制への反対運動はムカつきますね。
 でも、「安保法制でリスクを減退できる」という賛成派の理屈もムカつくのです。


 そうだ、安保法制反対をピーピー言うくらいだったら、いっそのこと日米安保からして反対してはどうなんでしょうか。

 実際、安保法制という法制自体は別に何ら一切問題はありませんでしょう。
 問題は、「集団安全保障」という欺瞞なわけです。

 よりアメリカの召使としてお役に立てるように、あるいは国際社会の多数派から仲間はずれにされないように……そうすることが、国民の生命と財産を守るという話になる。今の安保法制における「リスクを減らす」という理屈は、要するにこういう話なわけでしょう。

 我々には、イラク戦争の事例が脳裏にある。
 イラク戦争にひっついていくことが、アメリカへの覚えよろしき召使度を上げることができるので、ひっついていった。
 こういう文脈で「リスク」が減ってよござんすという程、日本人は骨の髄まで召使に成り下ったわけで、安保法制もそういう文脈であることには違いない。

 でも、こういう発想はどうでしょう。
 例えば、イラク戦争のようなことが起きた時、「イラクの味方をする」という発想です。
 アメリカを敵に回すかもしれませんが、こちらも不屈の構えでアメリカ基地に対峙すれば、そうそう言いなりにならずとも済む様になるでしょう。

 それは言い過ぎだとしても、こういう疑問は確かなもののはずです。
 すなわち、「中国に対する抑止力」を考えるのはまことに結構なことだが、「アメリカに対しての抑止力」はどう考えているのか、ということ。
 これは安保法制に賛成でも反対でも同様に突きつけられている問題ですよ。



 ちなみに私は、集団安全保障ではなく、「バランス・オブ・パワーポリティクス」の発想を目指すべきだと思っていて、それは伊藤貫先生が随所でおっしゃられていることです。以下に、氏が西部邁ゼミナールにご出演された際の動画一覧を貼り付けます。

西部邁ゼミナール 伊藤貫一覧



(了)


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日記(2015.7.17)台風など 


 台風が来ていましたね。まだ雨風も強いです。

 台風で大変な思いをされる方もいらっしゃるのに不謹慎かもしれませんが、私は子供の頃、台風が来ると何か素敵な予感がして気を昂ぶらせていたような気がします。
 これは一種、戦争にも通じるような高揚感なのではないかと当時も考えていたし、今もそう考えています。

 つまり、人は危機に対する緊張感とか、そに対して人間組織や共同体でまとまって立ち向かうとか、そういうところに活き活きとした生の躍動を発露するものなのだということです。また、台風はそういうものを察知させるような示唆的なものである気がする。

 ですから、災害に対処する土木・建築と、外敵に対処する軍事というのは、似たような崇高性を持ちうるのでしょう。
 よって、我々は、「土建大国」と「軍事大国」を目指すべきなのです。また、それによって日本国家を束ね(ファッショ)する運命共同体を構築できると私は直感しているのです。
 逆に言うと、そこがフニャけていたら、日本人はあと100年~200年くらいで「日本」という意識を完全に失ってゆくのだと思います。





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同性婚について 


 そう言えば、少し前にアメリカで同性婚についてのニュースがありました。最高裁で同性婚を認めないのは違憲であるという判断が下されたというのです。

 それに関連して、最近読んだブログ記事で面白かったのは、『The Midnight Seminar』様の以下の2記事です。これは、渋谷のパートナーシップ条例についての記事ですが、議論される要素としては一致するでしょう。
 特に、コメント欄での議論が面白いのでおすすめです。ブログ主様の論理的な思考は本当に素晴らしくて、舌を巻きますよ。

渋谷区の「同性パートナーシップ条例」とそれに対する反対運動について

同性婚の話の続き


 私も、同性婚それ自体はあまり関心のあるトピックではないですが、「基本的人権というものが、慣習から超然して、人類普遍の原則的基準として想定可能である」という考えからされる同性婚の話には吐き気がします。
 つまり、同性愛や同性婚そのものは別に勝手にすればよいと思いますが、「基本的人権」を根拠に「多様性」を政治的に実現しようとする態度が嫌なのです。

 私は、いわゆる「少数派」の「基本的人権」を「政治」が保障しなければならないだなどとはまったく思いません。そういう考えは、有害かつ不必要なのです。そんなもので少数派の心は救われない。つまり、少数派を政治的に「少数派」でなくすようなことでは、少数派は救われないということ。
 ある人の権利は、その人の予め規定された立場に応じて、「適正」に与えられてさえいれば良いのです。
 その「適正」の基準が、文化や慣習に根拠立てられたものでありさえすれば、別に「同性婚」が法制化されても良いと思いますよ。
 しかし、その基準を「基本的人権に基づく多様性の自由」などという、ほとんど一切なんの意味もない原理によって押し進めるのは止めてもらいたいです。少なくとも、「政治」の領域では。

 もっとも一方で、現在には近代化の徹底によって、その「慣習」や「文化」そのものが融解しているという問題もある。
 また、近代的な「民法」そのものがそうした融解を押し進めてきたイチ要素でもありますね。
 つまり、「慣習、文化」を対外的に守るはずのものである民法という制度が、国の内的には慣習と文化の画一化と融解を助長してきた。こういうジレンマがあるということも、見逃せない事実なのです。

 そうした意味で、いわゆる保守派の叫ぶ同性婚反対の論理は、あまりに短絡的で、そうしたジレンマに対する深刻な思いに欠けている。また、こうした深刻さに欠けていたら、その同性婚反対の論理を前提付けるものが成り立たなくなりますね。ですから、非常に滑稽なものだと言わざるを得ない。


 これは、「民法」というものをどう考えるか……たとえば、明治にされた「民法典論争」などをもう一度考えてみる必要があるというところに繋がって行く議論だと思います。
 つまり、民法典論争でされた、「天賦人権」とは本当に法律として定められて、人を幸せにするものだったのか。
 あるいは、地球が狭くなる中で、天賦人権を根拠に民法が定められなければならなかったとしたら、それは「日本の天」を防衛するためのものではなかったのか。
 では、天とは何か。天下(日本)とは何か。

 我々は、「基本的人権」などという意味不明な原理を政治的に拡張するばかりではなく、そういうもっと本当に大切なことを考える必要があるように思われます。つまり、ネイション(土着心)をステイツ(制度)に活かすという態度の徹底です。そのためには、もっと我々のネイションにかんする知見が豊かでなければならない。
 例えば、いわゆる「家制度」にどれだけの正統性があるか。平安の妻問婚やかつての農村における民俗的な家族システムなどは、制度として吸い上げられる必要はないのか。でも、やはり武士的な家制度にも一定の分があると見なされなければならないのか。
 そういうあらゆる「日本」が考慮され、我々の「型(フォーム)」を再構築していかなければならないのです。また、堕落や逸脱の自由も、型が前提されていてこそのものであります。



 さて、以下は、ネット上の気に食わなかった記事です。


「同性婚」容認が日本の安全保障のためになる理由 アメリカで画期的な判決、日米関係の新たな論点に?

 本当に、こういう考えは最低だと思います。


同性婚合法化で全米がレインボーになった本当の意味

 こういう考えが世間一般の「同性婚ってイイんじゃない?」ということをピーヒャラとのたまう輩の大多数の雰囲気なんじゃないでしょうか。



 日本人は頭が良くて狡猾ですから、本心に①を隠して口で②を掲げるという欺瞞が、これからされてゆくのではないかと私は予想しています。



(了)


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日記(2015.7.15) 


 今日は7月15日。
 雨ばかりだった先週から一転して今日は暑かったです。蝉さえもないていた。

 最近さわがれていたニュースで、
①ギリシャの問題
②安保法制の問題
 などがあります。

 あるいは、
③軍艦島世界遺産登録の「forced to work」
④新国立競技場問題
 くらいですかね。


(了)


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「言論の自由」という闘争のイデオロギー 





 私は、世で言われる「言論の自由」という言葉を、根元的に、まったく意味の無いものだと考えています。

 そもそもこの言葉は、ある者に言論的権限を与える一方、ある者の言論を圧殺することとなる論理的必然性がある。
 たとえば、なるほどマスメディアは政府の掌握していた情報統制の権限を剥奪し、「政府を弾圧する言論の自由」を得ました。しかし、今度は非マスメディアが「マスメディアによる弾圧の権限」を剥奪する、「マスメディアを弾圧する言論の自由」というものが出てきた。

 昨今でも、都合の良い小説で大衆の歓心を買った大衆作家によって「沖縄の新聞は絶対に潰さなければならない」というような発言がされましたね。沖縄の新聞に問題があることは存じていますが、大衆作家風情にどうしてそんなことを言って良いケンリがあるでしょう。それをまた「彼の言論の自由を守らなければならない」などと言って囃し立てる輩まで出る始末。
 これに対し、小林よしのりという漫画家が、「百田を叩くのは言論の自由である」という風に言っていたのは非常に示唆的でした。つまり、この種の闘争には際限がないということ。

 要するに、「言論の自由」という言葉そのものに、ある種の闘争への装置が含まれているということです。今日はこのことを詳らかにしていきたいと思います。




 まず注意して欲しいのは、世の中で言われている「言論の自由」とは、必ず「政治的決定権(権力)」にまつわる「言論」を指している、ということについてです。
 たとえば、我々は人として健常者の能力さえあれば、発音する権利は自然権(能力)としてあります。
 穴の中へ向かって、「王様の耳はロバの耳」と叫ぶ。あるいは、広告の裏紙に自分の好きなコトを書く。まず、こうした「自分以外の誰も聞かない、読まない」という言説について考えてください。

 この場合の言論の自由を制限しているのは、自分の思考と心……つまり「私」ですね。私が発声できる言葉は思考(言語化)に制限されていますし、思考(言語化)の限界は「心」に制限されています。
 つまり、まず初めに「私」の言論の自由を制限しているのは「私」なのです。

 ただ、残念ながら、世の中で「言論の自由」という言葉が使われる時、こうした「私に制限される私の言論」のことは遡上にはあげられていませんね。
 一般的に言論の自由という言葉が使われる場合、それは「支配し、支配される関係の中での私の言論」のことが話題になっているわけです。

 言い方を換えれば、「言論の自由」という言葉が使われる場合、言論は言論でも「政治的決定権にかかわることを意識しての言論」について言われているということです。




 続いて、「自由」という言葉を考えてみましょう。
 私はこの言葉が嫌いなのですが、もともと日本では明治に入るまではこんな妙ちくりんな言葉が使われていた形跡はないので、昔の日本人というのは今のそれよりもよっぽど上等なものだったようです。
 とどのつまり、「自由」というのは西洋からの外来概念であるわけですが、その元の語が何かと言えば「フリー」や「リバティ(リベラル)」ということになりますね。

 そして、この「フリー」「リバティ」といった言葉は、そもそも、「貴族や領主などへ、特別に与えられた権限」という意味であったそうな。
 つまり、もともとは、力ある者がその力によって自由にできる領域のことを自由(フリー、リバティ)と言ったのです。

 それが今日のような意味になってしまったのは、この語が使われる場合の主語が、「貴族、僧侶」から「市民」へと入れ替わってしまったからです。
 そして、「階級の低い弱者が、強者の持つ『自由』を剥奪する」という文脈で使われるようになってしまった。

 何故このような主語の反転が起こったか。

 本来、高い階級が保持していた「自由」は、低い階級……つまり市民階級よりも大きかった。が、市民階級からすると、その理由を「貴族に力と高貴さがあり、自分にはないから」と認めるのはあまりにもツラい。ので、市民らは「力あるもの達はズルをしているのだ」と結論付けて自分を慰めるようになる。また、この心的論理づけを下支えするために、「良き者に力が備わり、悪しき者には力は備わらない」という道徳的前提から「強き者は悪しきもので、弱き者は慎ましやかで結構」という道徳的前提へと、道徳の価値反転現象が起こされる。
 この道徳の反転現象を、ニーチェの造語で「ルサンチマン」と言います。


 また、都市化や印刷技術の発達が起こると、ひとつひとつの情報が大量に世へ散布されるようになります。つまり、社会が大衆情報化する。大衆情報化した社会では、「大量」であることが社会の最も高い価値であるようになってしまう傾向が非常に強い。

 例えば、スペインの哲学者ホセ・オルテガという人が、ある伯爵婦人のこんなセリフに驚いたらしいですよ。
 伯爵婦人いわく、
「私、800人以下の舞踏会には参加する気がないの」
 と。
(解説するまでもないかとは存じますが、ここで驚かれるべきなのは、伯爵婦人が舞踏会の価値を参加者の「階級」ではなく「数」においていたことなのですよ)

 このように、大衆情報化した社会で、「大量」という所に価値の基準が置かれてくるようになると、先で言った「力あるものはズルをしているのだ」という感情が、むしろ社会の主役のものと捉えられるようになる。何故なら、大衆社会の一粒一粒の大多数は力を持たないのであり、コトが大量であることに価値が置かれるようになれば、必然、ルサンチマンの代弁が主流となり言葉形成の上でも主語を獲得してゆくに決まっているからです。

 こうして、自由という語も、「力ある貴族の権限」という意味合いから、「凡庸な市民による自由の獲得(free of)」「権力者からの解放(free from)」「凡庸な市民による権力への自由(free for)」といった意味合いへ堕落していったのであります。

 この堕落した「自由」という言葉には、実は「Aという集団からBという集団が、ある権限を剥奪する」という関係的側面が常にあります。また、その剥奪の基準は常に「平等」という所に置かれる。そして、平等の基準は「民主主義」というものに置かれるのです。

 例えば、「貴族」から「市民」が権限を剥奪して自由を獲得する場合、それは双方の平等を民主主義(大量)を根拠にして謳うわけです。
 あるいは、「市民ブルジョワージ」から「労働者階級」が権限を剥奪して自由を獲得する場合も、双方の平等を民主主義(大量)を根拠にして謳う。

 前者の闘争を国是とするものを「左翼アメリカ型」と呼び、後者の闘争を国是とするものを「左翼ソビエト型」と呼んで差し支えないでしょう。双方とも、自由と平等と民主主義を根拠に、啓蒙すべき光の指す方を弁証法的に導きだすイデオロギーなのですから。

 そう言えば、戦前のアカの潮流で、「二段階革命論」という考えがありました。すなわち、「一段階目は封建社会を打破する市民革命が起こり、二段階目には労働者階級による共産主義革命が起こり、人類の歴史は完成する」という進歩をストーリー立てて前提するやり方です。

 日本においては、戦後1950年代に共産主義革命の潮流は一気に引いたのですが、一段階目の方はインテリの啓蒙的ストーリーとして根強く温存されてしましました。つまりサヨクは、「社会主義」の一方で、「自由(リベラル)と民主主義」というものに収束していったのです。

 しかし現今では、そうした極めて啓蒙的な自由民主主義が、単に「共産主義ではない」というだけで「サヨクではないニュートラルなもの」として前提されてしまっているように見受けます。特に冷戦後の日本人は、パクスアメリカーナ、アメリカによる地球平定を、歴史の最終終着点と考えて、自由と民主主義を「普遍的価値」と前提して憚らなくなった。
 いや。というか、アメリカによる日本の平定と自由と民主主義が、百年単位で国を溶かすとは薄々察知しながらも、その一瞬間一瞬間の日本人にとってはなかなか居心地が良かったので、左翼というものをとりたてて「共産主義」に限定しておいた方が、先人と子孫への裏切り感を緩和しつつこれを受容し続けられて都合が良かった……という、自己欺瞞のバイアスがあったんじゃないでしょうか。

 しかし、もし「自由民主」にしろ普遍的な人類の最終終着点なるものが存在するのであれば、「サヨクが正しかった」ということになるのですよ? だって、最終終着点へ向かって弁証法的に人類の歴史が進歩する……というのが左翼思想の根幹なんですから。
 左翼が間違っていることの最大の左証は、「左翼イデオロギーがひとつではないこと」なのです。逆に言うと、共産主義が間違っていたのは、共産主義以外にも左翼イデオロギーがあったからなのです。
 そして、共産主義ではない有力な左翼イデオロギーとは「自由(リベラル)」と「民主主義(デモクラシー)」であります。日本人の狡猾な欺瞞を徹底して排除して言えば、これは国家を百年かけて溶かす、純然たる左翼イデオロギーなのです。




 もちろん、弁証法、アウフヘーベン……すなわち「議論」というものの重要性は、私も認めます。
 しかし、市民社会の各々が、その「立場」や「階級」や「分」を越えて易々と日本国家全体の政治にピーチクパーチクいちいちいちいち文句をつけて良いなどと思ってもらっては困るのです。
 いや、と言うよりも、人間社会一般として、そのような権利がまんべんなく付与しうるものだという前提に立ってもらっては困る。

 議論とは、数々の前提があってはじめて成り立つものです。「言語、語法」の前提から「場」の前提……あらゆる前提に制限されて、人はようやく議論を成り立たせることができる。そして、人を「場」という前提に着かせるのは「共同体」以外にありません。基本的に人は、自分を埋め込む有機的な共同体の中で、役割に準じた言論だけが実体的なもののはずなのです。

 現今のように、有機的な共同体から逸脱した言論が氾濫したとき、我々の諸個人は情報の波に溺れることになります。そして、その一人一人は、大量の情報の中からたまたま得た情報と、たまたま得た経験……つまり、社会のごく一部をもって、その国家全体の政治に関して口を出すわけです。口を出して良いと勘違いする。当然のケンリだ、と。それは大衆平均人の喫茶店での会話から、大衆専門人によるインテリな発言に至るまで。

 なるほど。それぞれ一つ一つの意見は、彼の観想した一部分のみを改善する為には理想的な全体像を提出することが出来るでしょう。が、それは全体の項目を網羅するものにはなりえない単純モデルであるがゆえに根本的な欠陥を抱えた全体像なのです。
 そして、政府から「情報統制の権限」を剥奪して得たものは、市民社会に乱立する「欠陥を抱えた全体像」がそれぞれに群れて言論のシェア争いをするという「自由」だけだったわけです。

 だから「言論の自由」という言葉には「意味がない」のです。

 人間は、個人の能力で社会のあらゆることを把握できない以上、それはやはり有機的な共同体の連なり……小集団から種々の中間的組織、そして国家に至るまでの連帯の中で役割を演じる他ない。個人はその役割に制限されてはじめて実体的な議論が可能になり、隣人とのアウフヘーベンも可能になる。また、議論可能な小集団から国家の間に幾重もの中間団体を折り重ねるように配すことができていれば、各小集団によって行われた知見を吸い上げることのできるような強靭な中央政府を形成することができるかもしれない。この場合は、多少の凹凸はあっても、国家全体の項目が網羅された全体像となりますでしょう。


 さらに、ここで重要かつ重大なポイントがあります。
 それは、こうした有機的な共同体形成による議論の発達は、「個人の自由意思で選んだものではないもの」によってある程度あらかじめに規定されている必要があるということです。
 自分で選んだものではないもの、というのは「運命」ということです。言語、信仰、親、家、血縁、地縁、世襲、偏見、道徳、コネ、シガラミ、既得権益……といった「自分で選んでいないもの」に帰着した上で、「立場」や「階級」「分」がわきまえられていなければならない。

 もちろん、本当に嫌だったり、本当に別のものを選びたいのであれば、選んで良いと思いますよ。それはそれこそ政治的なことと無関係に、自分で勝手に選べば良い。が、何から何まで「選ぶのが良い」というのはガキの発想です。選ぶのは本当にこだわりのある一部で十分だし、そうした選択は別に社会に保護されている必要などない。

 つまり、共同体は共同体でも、自分で選んでいない「運命共同体」こそが必要なのです。
 この「運命」ということがないと、言論というものに、信仰ないしは信仰に準ずる「良し、悪し」を基準付ける絶対性が想定されなくなってしまいます。するとこれは、単にそれぞれが言いたいことを言う言論の自由、欲望礼賛の言論、価値相対主義というものに堕す。あるいは、理屈のための理屈のような空論が蔓延ることになってしまう。





 世の中ではなにか、

「立場の高い人の言論は制限されるべきで、立場を持たなければ持たないほど何を言っても良くなる」

 という酷い誤解がされているように見受けます。

 が、これが逆なのです。
 普通、立場の高い者にはより広い言論的権限があって然るべきだし、立場の低い者が口を挟んで良い言論的領域は限定されているべきでしょう。
 自分の家族のことを考えてください。普通、子の口だしして良い範囲は、家長の口にして良い範囲より狭いはずです。
 同様、仮に同じ言論を行ったとしても、その言った人の立場、階級が高いか低いかなどによって、その言論が許されるか許されぬかが決まってくるのは当然のことです。

 例えば、ある国会議員と、ある大衆作家がいたとします。この場合、当然、国会議員の方が大衆作家風情よりも階級は高い。よって、国会議員が言うのは許されるべきだが、大衆作家風情が口を出すべきものではないという領域はあるでしょう。仮に、その大衆作家が多くの民からの選好を集めていたとしても、そんなものは何ら政治的正統性とは関係がないのです。

 あるいは、言論の統制についても同じ事が言えます。
 言論には秩序が必要であり、とりわけ大量情報によって混沌の体をなす近代社会においては、中央政府による「言論の統制」がおそらく必要でしょう。今日のごとき野放図な大衆言論空間は、日本の国を滅亡させている大きなひとつの要因です。ですから、マスメディアへの介入ということは、行政権限としては認められるようにしていかなければならない。

 しかし、そうしたマスメディアへの統制は、高度な行政権限ですね。ですから、そういう立場にない者……例えば、いち自治体の長やいち新興政党が、自分達の政策実現のためにメディア介入をするのは、あきらかに「分」に合っていない。階級の身の丈を越えた越権行為です。単なる成り上がり者にそのような権限が認められて良いはずがないでしょう。
 むしろ、こうした単なる成り上がり者によるメディア介入を排除するために、中央統治権力がこれを統制する権限を持つべきなのだと考えてはいかがでしょうか。





 もちろん、言論には中身の精査が必要です。その言論に正当な義があるかどうか、ということですから重要なことです。
 ですが、「どのような立場、階級の者の発言か?」というのも同じくらい大切なのです。これは正統な礼、姿、フォームというもの。
 元来、正当な義とは、正統な礼があってはじめて成し得るものです。何故なら、言論の中身の精査のためにも、その人間の「分」に適しているかどうかが「良し、悪し」の重要な基準となりますでしょう。

 また、「自由」という言葉の本来のところを考えれば、そういうことでもあるのです。と言うのも、自由という言葉は「自」の「由」でしょう。つまり、「自分の理由」ということです。また、自分の理由に則した振る舞いというのは、自分の分に則した振る舞いのことですね。
 つまり、「言論の自由」ならば、「自分の分に則した言論」ということでしょう。

 冒頭で、「言論の自由という言葉には意味がない」とは言いましたが、こうした意味での言論の自由であれば、私も認める用意はあります。
 ですが、「言論の自由」という言葉をそのような語法で使っている者はほぼ皆無なので、やはり意味がないのでしょうね。



(了)


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「国が守れない」のは憲法9条のせいではない 



 今日は、憲法9条の話です。

 まず、とても基本的なところから確認しましょう。
 我々が愚かにも「憲法問題とは軍事問題である」とだけ前提して、「改憲」or「護憲」の論をやんやと騒いでいるとき、問題は①項ではなく、その②項におかれているはずですね。

 なぜなら、よく言われていることですが、この①項は、パリ不戦条約という1928年の条約の一部をほとんどそのまま引用しているだけだからです。
 以下をご覧ください。



パリ不戦条約(一部)

批准・アメリカ、日本、イギリス、フランス、ドイツなど15カ国。


第一條

締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス

(締約国は国際紛争解決のため戦争に訴うることを非とし、かつ、その相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言す)




日本国憲法二章9条①項

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。





 要は、双方ともに、「紛争解決手段」として「戦争」を用いることはしない、と謳っているのですね。
 パリ不戦条約は、1928年に締結されているわけですから、当時の列強の、第二次世界大戦にて「正当」だったと結論されている連合国常任理事国側……たとえば戦前のアメリカの振る舞いまでもが、「国際紛争解決のため戦争に訴えたわけではない」ことになります(ならば「日本の戦争も自衛だった」と叫んでやりたいところですが話が逸れるので割愛します)。そもそも、パリ不戦条約に対するアメリカの解釈は、「自衛戦争であればオッケー」というものでありました。つまり、パリ不戦条約は「アメリカがやってきた『自衛戦争』とやらのラインまでならオッケー」ということになるわけです。つまり9条①項もそれだけならば、少なくとも「アメリカがやってきた『自衛戦争』とやらのラインまでならオッケー」と言わなければおかしいでしょう。

 つまり、①項については、あってもなくても、我々の歴史的な『信義』に自信を持っていさえすればいかなる戦争行為も可能ということになる。つまり、「自衛」というものの範囲の見積もりを、我々日本民族の信義に基づいて行い、戦ったり、協和したり、といった主体的な判断を堂々として良いということです。また、ある状況において、「その戦争が我々の信義に基づく戦争かどうか」の判断をするのは、中央政府を通して行われる他ないのであるから、そうした権限も中央政府が堂々と持つべきだということになる。

 こうしたくだらない法律上の話ですら、憲法9条①項はほとんど意味をなしていない。つまり、憲法9条①項は、あってもなくても、法律上にも我々の軍事的権限を制限するものではありえないのです。





 しかし、つづいて憲法9条②項というものがあります。
 これによって、この憲法が「軍隊の保有と交戦権を禁止している」と考えられているわけです。



日本国憲法二章9条②項

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない




 これは単に条文の過激さに驚くだけでなく、少し掘り下げてみると本質的なことが浮き出てきます。

 有名な話ですが、9条②項には「芦田条項」という部分がありますね。
 芦田条項というのは「前項の目的を達するため」という部分で、草案の時にはなかったこの部分を芦田均という男がさっと挟み込んだ。それゆえ、後に「①項に反しないような戦力の保持と交戦権はない」のだと解釈できるようになったというのですが、これは明らかにおかしいですね。
 なぜなら、それならば少なくとも「前項の目的を達するため(の)」という格助詞「の」の連体修飾格が入っていなければおかしいからです。

 こうした芦田条項のようなゴマカシを排し、そもそもこの憲法全体に流れる俗悪な「民主主義イデオロギー」の文脈をもって解釈すればこういうことでしょう。

 すなわち、9条②項では、①項の目的を達成する“ため”に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と言っている。
 ということは、

「中央政府に戦力を与え、交戦権を与えると、①項に反するような『不当な戦争』を起こし、市民社会を巻き込むに違いないので、これを初めから認めない」

 という意味でしょう。

 ここで「認めない」と言っているのは誰かというと、日本国憲法の論筋で言えば「国民が」ということになる。ただ、日本国憲法10条には「国民たる要件は法律でこれを定める」とあるので、(少し端折って言えば)ここで前提されている「国民」とはすなわち「法律で定められた人間」=「単なる非政府の人民」を指していると解釈せざるをえない。
 これは憲法前文の一段落目、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言……」という部分と合致しますね。要は、政府を「権力の乱用によって戦争を起こす者」とし、非政府の人間を「戦争に巻き込まれる者」と前提しているわけです。

 勿論、この憲法の成立過程を見れば、当初は「認めない」と言っていたのは実はアメリカだったということですが、少なくとも日本国憲法は「国民」によって立てられたという体であります。さらに、この憲法を押し付けられたのは70年近く前で、それ以後、日本人はこの憲法を「民主主義の教書」として抱いてきたわけでしょう。これは9条に限らず、「人権、民主主義」といったおぞましいイデオロギーを、戦後市民社会の光の先を示すものとして崇め奉ってきた。何故なら、そのほうがその瞬間瞬間の日本列島に住む個々のホモサピエンスにとって都合が良いということを皆多かれ少なかれ察知していたからです。

(※また、大東亜戦争を悪しきものとして結論づけるのも、多分においてこの「非政府の人間」の文脈に都合が良いからされているのです。つまり、今の日本人にとって、昔の政府のあり方を否定しておく方が都合が良いから「侵略戦争とやらの反省」を一生懸命やっているわけであります。これは、軍事、政治制度、統制的経済などあらゆる領域について現代日本人の底流を流れているものでもある。ですから、自虐史観というのは「中国のせい」でも「アメリカのせい」でも「自虐」でも何でもないのですね)

 ですから、この憲法で描写されているのは「日本列島に住む非政府の人間」が「日本の中央政府」に対して、武力の保持と交戦権という権限を認めない、という論筋なのでありました。というか、日本人の大勢が、70年かけてそういう都合のよい解釈を構築、補強してきたのです。




 しかし、これに対して、誰でも疑問に思うことがあるでしょう。
 それは、中央政府に「軍備や交戦」の権限を与えないと、非政府の人間の命も危機に晒される可能性が高まる、という非常に単純なことです。
 勿論、こうした疑問は、単に「自分の生命」「自分の周りのごく狭い領域の人の安全」を考えているだけなので、ごく「卑俗」な動機からくる疑問ではあります。
 しかし、卑俗である分、世の中の多くの人に理解される事柄ですから、世論の中で明瞭に語られているところでもある。

 そういうわけで、


日本国憲法三章13条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする



 という条文と、9条②項が整合していないのではないかという考えが当然でてくるわけです。

 すなわち、憲法13条は「個人としての尊厳」「幸福追求の権利」「公共の福祉」というものを規定していると一般的に言われていますから、もし9条②項が「それらを保障するための武力も交戦権も放棄する」と述べているのだとすれば、憲法の中で互いが不整合を起こすことになる。よって、9条②項は「国民の個人としての尊厳と、幸福追求の権利と、公共の福祉を保障するための『武力と交戦権』までを制限するものではない」としなければならない……というのが、現行日本で“自衛権”が認められているといわれている有力なゆえんなのであります。

 ただ、「ならばそれで自衛隊は認められ、自衛権も認められるのだからそれで良い」とされては困ります。まだまだ掘り下げなければならない事がたくさんある。

 というのも、世の中ではみんな軽く「自衛」「自衛」と口にしますが、ひとたび「自衛」ということを掘り下げて考えると、これほど厄介な概念もないのです。
 例えば、人は個人個人の間でも「正当防衛」ということを言います。しかし、少し想像してみれば分かるとおり、「正当な防衛」と「過剰防衛」の区別というのはなかなか難しい。
 あるいは、軍事でも、「予防的先制攻撃」というものがあります。つまり、相手がこちらを攻めてきそうなので、先に相手の基地を叩いておくといったような予防としての先制です。これは自衛行為だとみなさなければならないという議論がある。でも、「いや、これは予防的先制なのです」といって侵略をやる可能性もありますね。だからといって予防的先制がありえないというのもおかしい。

 つまり、「自衛」というのは具体的に考えようとするとかなり難しい言葉なのです。
 むしろ人間にはこれを完全に把握することはできないので、「自衛」という言葉は抽象的な指針、象徴として考えられていなければならないのです。

 さらに、「自衛」というからには、もう一つ重要なポイントがあるはずです。
 それは「自」とは何か、ということ。

 例えば、自衛権を「集団的自衛権」と「個別的自衛権」に分ける仕方がされていますが、これは本来おかしいことです。
 というのも、この場合の単位は「国家」ですから、「多国の集団」になった時点で、それは「自」ではありませんね。
 自衛というのは、日本の場合はあくまで徹頭徹尾「日本」を守ることです。もちろん、長期的に日本を守るために、地球上広く軍事展開する必要があるというケースは考えられるし、それを判断できる権限を中央政府が持つことは必要でしょう。しかし、そのことと集団的自衛という考え方は、全然別問題です。
 集団的自衛という考え方で前提とされているような、「多国の国際的集団を守ること」はまったく自衛の範疇ではありません。もちろん、「その時々で、ここの国と協調し、あそこの国と敵対し」という国際関係を組むということはありえるのでしょうが、それはどれも一時的なものであると前提されていなければなりません。何故なら、「国際的なパワーバランスの上で、自分たちがどう振る舞うか」ということを中央政府によって選び取る主体性がなければ「自衛」という概念そのものが意味のないものになってしまうからです。

 つまり、保守派の前提する、いわゆる「集団安全保障」と呼ばれるものは、ある種のキレイ事なのです。「自由と民主主義という価値観を共有する国々による集団安全保障」などお花畑的なキレイ事の一種としか言えないではありませんか。「東側諸国の集団安全保障ではなく、西側自由主義諸国の集団安全保障」といった古カビの生えたような冷戦的世界観では百年単位で国家を連綿させることはできません。そんな「集団」に属していたら、ゆっくりと何世代かかけて日本は溶けて流れてなくなって行くに決まっているじゃないですか。
 まあ、政治家がキレイ事を言うのは仕方ありませんが、その辺のインテリが「集団的自衛権で中国の脅威から国民を守らなければならない」みたいなことを平気で言うのはどうにかしてもらいたいものです。

 対して、左翼的なインテリは、「政府の言う集団的自衛の『集団』とはアメリカとのことを指しているに違いないのでケシカラン」という。勿論、私もその点は全くの同意です。対米従属はケシカランです。が、彼らは集団的自衛の『集団』=『アメリカ』に従属を強めるのではなく、「中国との融和外交をすべきだ」と言う。すると、サヨクも結局、従属しようとする対象が違うというだけですね。

 要は、保守派もサヨクも、「他国家集団の自衛」を前提としている点で、実は同じ穴のムジナなのです。また、歴史認識問題についても、サヨクは中国に気を使うわけですが、ホシュはアメリカに気を使う。そういった歴史における「自」というものがない点でも、左右は同工異曲なのであります。

 つまり、自衛の重大なポイントは「自とは何か」である。そして、我々の「自の範囲」とは徹頭徹尾「日本」以外にはありえないということがまずをもって分かられていなければなりません。





 このことをさらに詳らかにするために、もう一度、憲法13条に戻りましょう。
 というのも、現状、“自衛権”を担保しているのが国民の『個人としての尊厳』『幸福追求の権利』『公共の福祉』ならば、「個人とは何か?」「尊厳とは何か?」「幸福とは何か?」「権利とは何か?」「公共の福祉とは何か?」そして「国民とは何か?」という解釈次第で、「自衛」というものの範囲も変ってくるでしょう?

 このことは非常に重要なことですから、よく考えていただきたいのです。

 もちろん、日本国憲法そのものが特に前文から二章および三章に渡って、社会契約のイデオロギーに満ちているので、その文脈上から言うと、

「単に今の一瞬間にたまたま生きている日本列島にいる人間という動物の生命と財産を守る」

 というのが“自衛権”の範囲ということになってしまう。
 すると、自衛隊とは、「その時々の市民社会の個々人」を、「外敵」や「ならず者」から守るという、単なる「公営用心棒」のようなものであると前提されてしまうわけです。

 なるほど、確かにこの前提の上では、「アメリカ従属的集団安全保障」も「中国融和外交的集団安全保障」も、どちらも理論上に合致することになる。
 何故なら、そうした「長期的な国家の芯を切り売りすること」によって「短期的に、その時々にたまたま生きている日本人の生命を守る」ことができるのであれば、この場合の目的は達成されているでしょう。
 世論調査では、「自衛隊の存在を認める」という意見が多数を占めるらしいですが、この場合の「自衛隊の存在」はこの文脈の限りにおいて認められているに過ぎないのだと私は推察します。




 さて、これに対して例えば、憲法13条の内容を次のように解釈したとすればどうでしょう。

 すなわち、「個人」に「『私』が運命的に引き受けたナショナルな領域」を含め、「尊厳」に「歴史的感覚」を含め、「幸福」に「共同体」を含め、「権利」に「世襲の理」を含め、「公共の福祉」に「文化圏の慣習」を含める、と解釈した場合です。

 この場合の自衛では、単に「日本人の命を守る」という目的だけではなく、「諸個人の中に無意識的に横たわっている日本」や「共同体の連綿の中で体現される幸福」をも『自衛』されなくてはならなくなりますね。
 すると、「日本人の命」そのものは、「自」でも「目的」でもなく、「手段」ということになります。

 そもそも、職業軍人にせよ、徴兵にせよ、「そこにいる人間という動物の命」を最終目的にするのはおかしなことですね。なぜなら、「国内の誰かの命」を使って「国内の誰かの命」を守るということをしているのだから、そこでは命の序列や順序というものが前提されていると考えなければおかしいでしょう。「命の序列や順序」があるのなら、その序列や順序の「基準」が前提としてあるはずなので、つまり「命を超える価値」というものも前提されていなければ論理的におかしいじゃないですか。

 要するに、日本列島に住む人間の命は、「諸個人の中に無意識的に横たわっている日本」や「共同体の連綿の中で体現される幸福」のための手段であるということ。
 であるからして、後者を「自衛」するために、日本人の命を「使う」ということがありえてくるのです。




 ここで注目して欲しいのは、そのような「日本人の命を使って、日本を守る自衛」という意味での「軍隊」の存在も、憲法13条をこのように解釈しさえすれば成り立つということです。
 とどのつまり、個人とは何か、尊厳とは何か、幸福とは何か、権利とは何か、公共の福祉とは何か、そして国民とは何か……といった問いに対して、「日本」というものに焦点が合っていさえすれば、「日本人の命を使って、日本を守る自衛」というものは大義づけられるわけです。




 そして最後にこの事を考えてもらいましょう。
 というのも、上のような論を展開すると、必ず次のように誤解する者が多いからです。
 すなわち、

「憲法13条を上のように解釈するためには、その国民のそれぞれがそのように思っていなければ、そもそも論理的に成り立たない。また、そのように思っているのであれば、国民はそのように行動するはずだから大丈夫なはずだ。また、思っていないのだとすれば、日本人の命を使って日本を守る自衛というのは誰の幸福にもしさないということになる。ようするに、自衛の範囲は国民が決めれば良いのだ」

 と。

 しかし、「自衛の範囲は、国民が決めればよい」という考えは根本的に間違っています。

 何故なら、国民の諸個人の選択は、必ずしも国民諸個人それぞれの心の内を正確に描写したものにはなりえないからです。
 中でも、どの様な範囲を「自分たち」と前提し、どのような時間的範囲を「自分たち」と前提して、自分の心や生活が成り立っているかを把握するのは、たとえ自分自身のことだったとしても非常に難しい。
 つまり、仮に日本国民のすべてに「ナショナリズム」があろうとも、そのことによって「ナショナリズムを活かすような選択や行動ができるかどうか」はまた別問題なのです。

 ですから、我々には「統治者」というものが必要なのであります。
 とりわけ軍事、自衛といった話においては、「統治者が国民のナショナリズムを汲み取る」という風にして取り行われなければなりません。
 また、この文脈の上で、徴兵制が認められることは非常に重要なことだと私は考えるのです。

 私は、「政治家批判」というものが大嫌いなのですが、政治家にも責任があると思うのは、「国民が軍隊を持ってよいと選択したら持ってもよい。国民がそういう選択をしないのであれば持ってはならない」というようなことを平気で言う輩が非常に多いところです。

 しかし、軍隊、自衛のあり方は、「国民の選択」などによって決められてはいけないのです。自衛の範囲とは、国民の歴史的なナショナリズムを汲み取って、中央政府が判断、決定すべきことなのです。国民は、国民としての生活のあり方を通して政府にその基準を示唆していさえすればよいのであって、「自衛すべき『自分の領域』とはこれこれこうだ」と各個が選択しなければならない責任などない。また、そんな権限を振り分けられているべきでもない。




 結論を言うと、今まで日本が「国を守れていなかった」のはこうした国家観の欠乏や民主主義礼賛が原因であり、憲法9条②項のせいではないということであります。

 もし仮に、「国民とは何か?」「個人(私)とは何か?」といった根本が常識として共有されていたら。その上で、「国民」や「個人」を活かすためにも、中央政府に軍事や自衛の範囲を判断する権限が与えられていなければならないという常識も共有されていたら。
 9条②項があろうと、「日本人の命を使って、日本を守る自衛」も認められるはずです。
 つまり、70年間失われ続けてきた国というものの、失われ方に歯止めをかけることができるようになる。

 逆に、そうした地に足のついた歴史的常識の共有がなければ、9条②項の削除が成ったとしても国は守れないのです。
 いいとこ、「その時々の日本人の生命と財産を守る」という用心棒的自衛しか見積もられないでしょう。ならば同じように、国は失われ続けるに決まっているではないですか。

 少なくとも、9条②項の問題というのは、「9条②項の文字列が独立して問題」などという単純な話ではないということだけは、よく考えてもらいたいものです。



(了)


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