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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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海へ行ってきました・日記 



 そういえば、首相の談話が出たそうですが、いまは見る気がしません。
 明日は「敗戦記念日」ですが、これについても何か考える気が起こりません。


 今日は、海へ行ってきました。
 というのも、副業で海水浴場にかんする紹介記事を書いていて、書いていると何だか行きたくなったからです。

 自宅の最寄駅から520円で海水浴場近くの駅へたどり着きます。
 海と言うのは、よく見てみると恐ろしく壮大なものでした。

 海は青くありません。
 幾万、幾億の煌く陽が宝石のように散らばっていて、光色であふれています。
 遠くではいくつかの巨大な荷船が、お風呂のオモチャのようにのっそり浮かんでいました。

 私は、一人浜沿いを歩き、浜で遊ぶ夥しい人々を眺めます。
 家族連れ、刺青を入れた若い男女、子供の集団などなどが夢中になって遊んでいる。
 あるいは声を掛け合い、波を掛け合い、身体を絡めあう。

 そう。
 私はこういうことができない人間でした。
 よしんば、類似の場面にあったとして、私はそれまでの記憶を辿り、引き出しを一つづつ提出するようにしてしかその場にあれなかった。つまり、私は「みんなの遊び」の中で「私」を振る舞わせることはできても、「みんなの遊び」の中へ私が入っていくことはできないのです。

 ですから、私はいつからか、こうやって楽しそうに「みんなの遊び」をやっている人達を見ているだけで良い、と悟ったのでした。
 そういう人たちを見て、彼らの中に光を見るという形でかかわることでしか、私が世界とかかわる方法はないからです。



 さて、海に背を向けて浜沿いの小道をみれば、一つ一つの民家が何らかの売店を開いていた。さすがに大繁盛です。
 浜沿いの土地に民家……なんという既得権益でしょう。
 これは想像ですが、おそらくある種の暴力によって、その既得権益の秩序は保たれている。

 でも、それで良いのだと私は思います。
 彼らの雑多な暮らしと、かき入れ時の活気。
 そこにも光があります。

 私には、なぜ人間がこのような複雑なことをやれるのかが不思議でたまりません。
 人々は、人々自身が自覚していること以上に複雑で難解なことをやっています。


 私のような価値のない人間は、そういうかくも複雑な暮らしや遊びに着いている人々の、その光を崇めることによってしか価値づけられえません。

 たとえば、そこに「戦争の反省」はあるか。
 あるはずありません。
 そこには、ただ八月があるのみです。

 インテリが小賢しく述べたてる「戦争の反省によって統治権力を制限して得る、国民のケンリ」など、ちっとも「光の先」ではありません。価値もありません。

 暮らしや遊びの複雑性は、そんなことは無関係に営まれています。
 そこに戦争の反省はなく、八月があるだけです。


 おおよそ何があろうと、人間は暮らし、遊ぶのでしょう。
 日本列島でもそういう人間の複雑な営みが続いていくに違いない。
 動乱があろうと、平和であろうと、人間はあるようにしてあるし、流れるようにして流れる。


 でも、私は、「なるほど、人間達はそこであるようにしてあるのだから、それで良ござんしょ」とは、どうしても思えないのです。
 このような種類のことは、戦後に、山田風太郎が言っていた。あるいは、坂口安吾も言っていた。
 私は彼らを尊敬するものではあるが、そんな風に「無常の中でも人は人として営んで行くのだ」……というのでは納得が行かない。


 やはり、人間の集団は、信仰や忠義の「正統性」にこだわるということがあって、営みが整えられ、「世界観」を帯びるものでしょう。
 なるほど、人の営みは、どのような世界観の中でも続いていく。しかし、どのような世界観でも良い、というわけにはいかないのです。
 では、その世界観の良し悪しの基準とは何か、と考えた時に、それは過去からやってくる。つまり正統性であります。

 ですから、もし人が知識を究めて何かを言おうとするのなら、「戦争は人がたくさん死んで良くないので、そういうことの起きない楽チンな社会を目指しましょう」と進歩的な光の先を示すのではなく、「過去から今に至るまでの人々の営みを解釈し、信仰と忠義における正統というものを示唆する」ということをやるべきなのです。

 何故なら、人間は、信仰と忠義における正統性にこだわって、場合によっては率先して死ぬ……という絶対的なコアがなければ、それこそ世界観は「どのような世界観でもよろしい」という話になってしまうからです。
 すると、「あるようにしてある」という主観性すら、獲得できなくなっていきます。何故って、無自覚ながら持つ世界観があやふやで、人が「あるようにしてある」なんて想定できませんでしょう。

 よしんば、あるようにしてあれない人が「よし、あるようにしてあろう」と気合いを込めたとしましょう。
 しかし、それは「あるようにしてある」ということを選択している時点で、あるようにしてあるとはなっていないのです。

 つまり、この場合、彼は未だ絶望の中にいる。
 絶望の中にいるのに、絶望の中にいないフリをしているだけです。
 キルケゴール風に言えば、「死に至る病」というやつでありあす。



 なるほど、現代にも「あるようにしてある」という人間の営みはある。そしてそれは崇高なものでありましょう。
 しかし、そうした営みを弁証法的に進歩させていくというような志向だけでは、人間の「あるようにしてある」という崇高性からして霧散させ、死に至る病が蔓延するに決まっているのです。

 そして、日本人として死に至る病を克服するには、やはり信仰と忠義の正統性が重んじられるようにしなければならないのであります。



……こんなようなことを、海を眺めながら考えていました。



(了)


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黙れ民主主義――庶民、大衆、統治者の定義 

 今日は、庶民ということと、大衆ということ、そして統治者ということを定義づけながら論じます。

 結論を先に言えば、「庶民」というのは第一、崇高なものである。
 そして、その庶民の崇高性を「発見」する視点にある者が「統治者階級」である。

 こういうことです。

 しかし、近代(モダン)は、庶民が自分自身で自分自身を「庶民」だと発見せざるを得なくなる。
 これが人間に尽大な苦痛を強いる『近代的自我』というものです。

 そして、庶民自らが庶民であることを強烈に認識せざるをえないほど「社会の画一化と情報化」(モダン)が進み、「庶民としてのケンリ」を庶民が請求するようになったら、それは『大衆』になるわけです。

 こうなれば、その文化圏を没落から救う手立ては基本的にありません。





 我々は、「庶民」という言葉を平気で使い、無造作に使っています。
 もちろん、言葉の語法は、厳密の上に厳密を重ねれば、千人千色の語法となっているに決まっている。
 ただ、だからと言って、どのような語法でも良いというわけにはいきませんね。
 言葉というのは、想像力と共に使われて初めて意味がでてくるのです。

 そもそも、「庶民」という種類の言葉が、庶民自身によって使われ始めたはずはありません。
 なぜなら、庶民は、自分を庶民であると認識しながら庶民をやっていたのではなく、ただあるようにあっただけに決まっているからです。
 ようするに、民の一己には、一己の周りに広がる経験世界があり、生活の実践の中で一己の認識は共同組織に埋め込まれ、一己の一生は「あるようにあった」ということであります。

 そして、こうした庶民を「ordinary people(一般の人々)」と考えるのであれば、それは「一般ではない人々」=「統治者」が、「庶民」を発見するのです。

 つまり、「ただあるようにある」という庶民の存在は、統治者的な「一般ではない人々」によって発見されて、初めて崇高性を持つのであります。
 逆に言えば、庶民は、統治者という視点があって初めて存在するということ。
 そして、この関係は人類が存在したその瞬間からあったに違いないのです。


 もっとも、社会が複雑化し、現代に近くなれば、勿論、この庶民と統治者の関係は一国の中で重層(レイヤー)を帯びて展開されてくる。
 たとえば、伝統的な「家」を見れば、統治者は家長であり、場合によっては婦人でありましょう。子らは庶民です。そういう身分があり、持ち場がある。
 あるいは、その家と家が集団を組んでいる場合、統治者であった家長も庶民となります。統治者はその地域をまとめあげる首長ということになる。
 だが、一国という単位で見れば首長も庶民の一ということになります。国の統治者は天皇であり、幕府や中央政府だということになる。
 勿論、これは状況によって変動するものだが、基本的にそういう身分があり持ち場があることによって、発見者である「統治者」と発見される側の「庶民」との関係性が有機的に編み込まれているのです。




 こうした庶民と統治者の関係は、人と人との身分関係がごく秩序だった社会においては、明瞭に見て取れます。
 たとえば、封建の社会では、武士の家に生まれれば武士、~村に生まれたら~村の村民、商家に生まれれば商家、職人の家で育てば職人……といったように、それぞれの身分の「範囲」が一己の一生で完結しているので、これは分かりやすい。もちろん、農民の生まれでも商家の生まれでも、武士になることはあるが、それはそれなりの手続きを踏まえ、正統な過程があってのことであり、また、そうした手続きそのものも人の立場を明瞭にする一つの英知なのでありました。

 しかし、我々の文化圏にとって致命傷だったのは、倒幕・維新という歴史です。

 勿論、封建の世を何から何まで礼賛する必要もないし、地球が狭くなった事に対する処置としての中央集権化が必要であったことは紛れもないが、「幕府を倒し、藩を廃し、封建的階級というものを消し去る」ような暴挙は、やはり致命的なものでありました。

 つまり、我々は、「倒幕・維新」によって、封建的秩序という財産の根幹部分をごっそり放逐してしまったのです。
 



 ただ、こうした封建秩序の制度的な放逐の後も、それは「発見者」としての武士(制度としての封建)が放逐されてしまっただけなので、「あるようにしてある」という庶民側のあり方は、そのまま引き続き「あった」のです。ごくわかりやすく言えば、倒幕後に武士階級がなくなっても、封建的な地方農村は残っていた。

 ですから、そうした封建時代が育んだ庶民の生活があり、常識があり、身分意識があり、前提があり、「封建」はそこに温存されていたわけです。
 また、「封建」が温存されていたからこそ、「近代(モダン)」が機能しえたということでもある。

 しかし、政治制度上では「封建」は解体していますから、庶民の中に温存された封建も世代を重ねるごとに霧散していくのは必定です。世代を重ねるごとに生活に含まれていた常識、身分意識、社会的前提が霧散していき、代わりに一国全体が画一化していく。そして、その「霧散」の歴史こそ明治以来、現在に至るまでの日本の苦難の歴史であります。
 勿論、あいだに大東亜戦争、日米決戦という近代への反逆は起こったが、基本的に「霧散」の歴史は倒幕後から始まった。そして、戦後にはそれがいっそう「進歩」していき、平成に至っては「日本」そのものが霧散し、現今ではついに消滅してしまったというわけであります。


 もっとも、こうした社会の複雑化に伴う「画一化」や「情報化」は徳川時代はおろか、人間の社会が発生したその瞬間よりあった。
 しかし、夏目漱石流に言えば、こうした複雑化が『内発的』に行われるということと、『外発的』に行われるということは決定的に違う。
 幕府を倒した後のそれは、どんなに「和魂洋才」を謳ったところで、所詮は外発的な制度移植であり、その画一化、複雑化に我々のあり方を反映させていくというステップを踏んだものではありませんでした。
 勿論、それは地球が狭くなったことによって、我々がどうしようもなく直面せざるをえなかったことではある。が、この問題を我々は未だにちっとも解決していないということはハッキリ認識すべきなのです。
 逆に、無理やり解決されている風に前提するのは、「近代の徹底」がその解決手段になりえているという進歩主義的な、人間に対する楽観でしかありません。

 つまり、我々は未だに倒幕以来の外発的な「画一化」「情報化」に適応していないどころか、この不適合にかんする整理すらつけていないのです。




 さて、この莫大な画一化、情報化の進歩の中では、人々のそれぞれが画一された形式の中で砂粒のように生きざるをえなくなる。と同時に、いやおうなく、「自分が砂粒にすぎない」ということを自分で強く自覚してしまう。そして、砂粒(平均人)自体が社会の大量な砂粒(平均人)を発見する。こうした自我を、『近代的自我』と呼びます。

 なるほど、近代的自我を持った一粒一粒(平均人たち)には、前近代では考えられないような物質量、利便性、情報量が行き渡ってはいる。
 ただ、その物質、利便、情報の方向性は、封建の世で武士、貴族階級が享受していたものを模範とし、基本線としてはそれをあらゆる階層にも大量に効率的に行き渡らせるという方向で進められてきているのです。
 想像してみてください。18世紀の武士階級、貴族階級が享受したその暮らしと、現在の我々平民の暮らし。一体このどちらが物質的に豊かで、利便性があり、情報量があるか。明らかに後者でしょう。
 ですから、現代は、前近代に比較して、その「生の熱量」の総量においては圧倒している。これだけは確かです。

 ただ、人は生まれ、死ぬので、世代というものが変っていきます。
 つまり、後から生まれた世代にとっては、その「生の熱量」は当たり前のものとして、生まれた時から与えられたものとなりますね。
 以前は、武士階級といった優れた階級の者が勝ち取る生の熱量(ケンリ)であったものが、大量に、効率的に行き渡った生の熱量(ケンリ)においては「享受して当たり前のケンリ」という風に前提されてしまうようになる。この「享受して当たり前のケンリ」というものに装丁を施して提出されているのが、いわゆる「基本的人権」というものです。

 つまり、ホセ・オルテガ流に言えば、「平均人が、平均人としてのケンリを請求する」のであります。

 ようするに「大衆」とは、平均人が平均人としてのケンリを請求する大量の動きのことなのです。
 ただ、一見平均人(ordinary people)のように見える者でも、自分の生活の中に組み込まれ、そして黙ってさえいれば、彼は「崇高なる庶民」であると言えるでしょう。しかし、そんな崇高なる庶民である彼も、一度喫茶店へ行き、「まったく政府は我々庶民の暮らしのことをまったく考えていない云々」などと吐き散らかした時点で、げに醜き『大衆』となるわけです。そして彼は、そうした喫茶店で吐いた自分の文句が、「世論」として政治に反映されていないことに不満を持ちさえする。よしんば反映されたとしても、そんなものが上手くいくはずはないので、また別の文句を吐きちらかす。




 対して、専門人、エリートというものを考えてみましょう。
 たとえば、オルテガはその著書『大衆の叛逆』で「大衆専門人」というものを描写した。
 しかし、この大衆専門人ということを考える際に気をつけてもらいたいことがあります。

 それはすなわち、大衆専門人ということを言うと、

「なるほど。大衆の問題においても、やはり悪いのは頭の固い専門人やエリートであって、我々庶民に責任はないのだ」

 というような、都合の良い捉え方をする連中が少なからずいるという点です。日本人というのはどこまでも狡猾で欺瞞的な民族であるから、すぐにこういう都合の良い捉え方をする。でもそれは間違っています。

 オルテガが言った大衆専門人というのは、すなわちこういうことです。
 まず、近代(モダン)による社会の複雑化と共に、「学問の細分化」という問題が提出されます。
 この「細分化」というものが「専門」の問題の根本なのです。
 細分化された専門領域は、社会のある一側面からの視点を極めるということですね。だから、専門人たちはその領域のことだけは、社会のあらゆる人よりも熟知している。

 しかし、実際のところ、いかなる社会の一側面も、社会全体との関わりによって成立しているわけです。それでも専門人は、自分の専門には熟知しているが、それ以外の視点では世で平均人たちがのたまわっている平均的観相以上のものを持ち合わせていない。すると、彼自身の専門領域についてすら、その平均人たちの観相を下支えし、迎合するような、通りの良い、画一的なものにしかなりません。

 つまり、大衆専門人とは、大衆平均人たちの都合を増幅させる装置なのです。

 ですから、「大衆の問題においても、やはり悪いのは頭の固い専門人やエリートであって、庶民に責任はないのだ」という都合の良い発想は、それこそ大衆専門人的な発想なのであります。言い方を変えれば、狡猾に装丁を施された「大衆迎合」ということになる。




 さて、こうなってしまったら我々は文化圏を救う手立てはないのであるが、原理的に考えれば「どうすれば良いのか」という方向性は考えられえます。

 オルテガはそれを「生の哲学」という形で示しました。

 これは、「一人一人が自分のケンリを請求する」という志向から抜けて、一人一人が「統治者目線」を持ち、そういう「意志」を持つということです。

 言い方を変えれば、庶民からエリートに至るまで、「貴族的であること」を求めたわけです。
 そして、その庶民からエリートに至るまでを貴族的あらしめるためには、共通の『事業』を観相することが必要であると論じた。




 オルテガの「生の哲学」は、なるほど方向性、原則論としては正しいと思う。
 しかし、それを具体化して考えるとなると、やはりオルテガの立場にも楽観があったようにも、私には思われます。

 オルテガは、生の哲学を根拠に「自由民主主義」へ期待をかけた。選挙制度さえ正しければ、自由民主主義は機能する、と。つまり、事を具体的に下ろすと、相当リベラルなことを言っていたわけです。
 そして、具体的な『事業』についても、オルテガは「ヨーロッパ共同体」を提出していた。

 でも、私はヨーロッパ共同体は実現しないと思うし、自由民主主義を機能せしめるような「正しい選挙制度」など人間には確立しえないと思う。



 もう一度言いますが、「生の哲学」の考え方は、抽象的な段階における原則論、方向性としては絶対に正しい。
 しかし、抽象的な方向性を具体化していくにあたっては、様々な現実的問題が出てきます。

 たとえば、「一人一人が自分のケンリを請求する」ということと「共通の事業感を持つ貴族的なあり方」を対比するにしても、実際にはその判断(ジャジ)を社会的にどうやっていくかという問題が出てきますでしょう。

 人間は、おおよそ自分を「良い人」と思うためであるならどこまでも狡猾に頭を使います。
 すなわち「いや、これはみんなのために言っているのだ」と彼自身すら思っていたとしても、実は一皮捲れば「それが自分のケンリ請求に都合が良い」ことを無自覚のうちに察知していて、「みんなのため」という理屈が「自分を自分で良い人であると思っておくため」の単なる装飾である、という可能性もあるわけです。

 その点、人間とはとてつもなく不完全であり、卑怯に流れ、欲情に流れやすい生き物なのです。

 それをどうにか「生の哲学」の貴族的なあり方へと整えるものが、歴史的フォームであり、身分であり、道徳であり、偏見であり……過去から引き継いだ文化圏の英知だと私は考えるのであります。
 言い方を変えれば、いま生きている人間は「我々の未来を形作る意思」という貴族的精神を持ちうるが、生きている人間は心身共にまったく不完全であるので、過去からその枠組みを前提として引用しながらやっていかなければならないということです。

 要するに、生の哲学を真実への意思としての「義」であると考えれば、歴史的な枠組みはそれを整える「礼」です。



 図らずもオルテガに触れることが多くなりましたが、オルテガ自身もこう言っていたと記憶します。

 すなわち。貴族的であることと大衆的であることは、家柄の良し悪しで決まるのではない。生の意思を持っているかいないかで決まるのだ。しかし、家柄の良い者の方が、生の意思を持っている可能性が高いということは言えるだろう。

 と。
 つまり、貴族的であるということは原理的には家柄では決まらないとは言いつつ、その判断を社会的にジャッジする困難がそこにあることは、きちんと示唆されているのです。



 現今は、義を掲げて、統治権力へ向かって「あーでもない、こうでもない」と、右も左も徒党を組む。
 義を想うことは結構なことだが、その義が「一人一人が自分のケンリを請求する」という大衆の都合に迎合したものではないと言えるのでしょうか。
 とりわけ、群れて、通りの良い、画一化された訴えをしているのであれば、それが偽善と欺瞞を孕んでいないはずはないのです。それは世の中で、右派と呼ばれるようなものでも、左派と呼ばれるようなものでも同じです。

 そういう大衆(群れ)を放逐し、本当に「義」を求めようとするのであれば、やはり「礼」が必要なのです。
 この場合、「分や立場をわきまえる」ということです。



 その意味で、封建の世は分や立場に則すという事は知られていた。分や立場が明瞭でわかりやすかったからです。
 しかし、現今であっても、人の「分」や「立場」というものは存在します。
 社会的立場、役職はもちろん、年齢、家柄、性別などなど、歴史的に引き継いだ封建的、社会的偏見というものは微かに残されている。
 もし、残されているものがあまりにも少なくなってしまったと感じるのであれば、それは過去から「封建」を引用する形で、則する「分」や「立場」という前提を想定することもできましょう。あるいは、そこに「運命」というものを持ち出してもいいかもしれません。たとえば、政治家というのは根本的に、運命によってなると考えられるべきものなのです。

 これくらいしか、日本国家の霧散、自然消滅に抗う手段は、私には思いつきません。
 そして、そのためには、そういう「分」や「立場」というものを超え出た言説、振る舞いは徹底的に棄却され、放逐されなければならない。

 もっとも、日本人は臆病ですから、皮膚感覚として一人一人が各個で分や立場を超え出た言説や振る舞いをしたりなどはしません。
 そうした場合は、必ず群れてモノを言う。
 群れて、集団的にモノを言えば、分や立場を超え出た言説や振る舞いも、なるほど気軽にできるというわけです。

 日本人は、こんな下劣で、卑怯で、低劣で、醜く、禍々しく、おどろおどろしく、夥しい平均人の渦を、「民主主義」という言葉で「進歩」と換算してきたわけであります。しばしば「自分で考え、自分を表すことができて、よござんす」というように。でも、それは自分を表しているのではなく、「群れて平均人としての請求をしている」だけでしょう。

 私は、これに「黙れ」と言っているだけなのです。
 私は本当に、それ以外のことは何も望みません。
 お願いだから、そういう低劣な姿を、私の目の前に晒すのを止めて欲しい。これによって、私の日々は、吐き気との闘いに終始せざるを得なくなってしまっているから。




 確かに、人には「どうしてもこうとしか思われない」という深刻な思いが沸きあがることがあり、それが自らの今の「分」や「立場」を超え出る形でしか成しえないこともあるでしょう。そんなことが百万分の一、千万分の一もあるとは思われないが、本当に自分で真剣に考えた結果、「義」に則するためには分や立場という「礼」を踏みにじらざるをえない状況も、人間にはありうる。

 でも、それならば、正々堂々と「暴力」でやってもらわなければ困ります。

 群れを作って、民主的な活動でいまの「分」や「立場」を超え出ようというのは卑怯であり、人間のあり方として絶対に間違っているのであります。



(了)


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三十にして立つ?・日記 



 最近運動をすると膝が痛くなることがあります。
 もう少し若いときはビシバシ動いてもピンピンしていたのですが。

 そう言えば、私の年齢は現在30歳です。
 子供の頃は、30歳にもなれば世の中のことの大半はわかって、心も落ち着くところに落ち着いて、何をどうするべきかの見当もついているものだと思っていましたが、とんでもありません。

 孔子なら「三十にして立つ」という話なのでしょう。つまり、自分がどういう方向性でやっていくかのアタリが付くということです。

 でも、私は孔子のようには全然行きません。
 まだ、「自分が何なのか?」ということすら、何が何やらサッパリわけがわかっていないような気がする。

 でも、体だけはくたびれて、枯れ果ててゆく。
 英知溢るる立派な老人になろうという私の野望は、ちゃんとした歳の取り方をしなければ成らないはず。
 しかし、私はそういう自信が一切持てないし、心は鬱としてくる。

 だから逆に、自分がワケわかってないということすらわからずに、自信満々と口やかましくののしる連中が嫌でたまらないのであります。



(了)


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現代における「庶民」「大衆」「統治者」・序 


 今朝のエントリ『あらゆる市民的政治運動に価値はない・日記』の中で述べた、

「基本的に、庶民は政策的知識など持っている必要もなければ、世に訴えたり、政府に請求運動などする必要はないのです」

 という部分は、誤解を与える表現だったと思います。



 そして、以下のようなコメントをいただきました。


>まあ、江戸時代までならそれで通用したでしょう。
ですが明治維新が起きて日本は(不本意ながらも?)民主制になってしまったので、そういう「庶民」が存在するようになったということでしょうね。

>あと「現代社会における庶民」は「政治家や官僚以外の人々」を指すのですか?「学者」も除かれますか?
官僚や学者は一応、エリート教育を受けた上でその職業に就きますが、政治家の場合は「いわゆる普通の人」が(数か月間の準備を経るにせよ)政治家に転身、ということもありますよね。
「庶民」の中にも一定数は「政策的知識を持つ人≒政治家になりうる人材」がいないと、政治家の子供しか政治家になれなくなってしまうと思いますが・・・石川さんはそれを良しとしますか?

>上に書いた「政治家の子供しか政治家になれなくなる」は正確な言い方ではないかもしれません。
ともかく「現代における庶民」の定義をはっきりさせていただけるとありがたいです。



 当然の疑問かと存じます。

 しかし、私の

「基本的に、庶民は政策的知識など持っている必要もなければ、世に訴えたり、政府に請求運動などする必要はない」

 という言葉は、何も思いつきでいっているわけではありませんで、色々な自分内議論を重ねて達した結論であります。
 ですから、このところの意味をもう少し厳密に論じる必要があります。が、そのためには、おっしゃるように現代における「庶民」ということ、それから「大衆」ということ、そして、「非・庶民(統治者的)」ということの定義づけを丁寧に論じる必要があります。


 それは明日……は少し忙しいので、2,3日中には論じようと思います。
 乞うご期待くださいませ。



(了)



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あらゆる市民的政治運動に価値はない・日記 



 今朝少し雨が降ったようで地面が少し冷えました。
 暑さもちょっとだけマシになったようでありがたいです。



 私の住むところから車で20分ほど行くと、太平洋に辿りつきます。
 その海沿いの道を行って、コンビニに立ち寄ると、こんな田舎にも安保法制反対運動がやられていました。

 国会前とは比較になりませんが、5名ほどの50代、60代の男女が代わり番でマイクを握り、海の民へ「訴え」を起こしていた。
 醜いです。



 これに対して、「安保法制賛成運動」というのもあるらしい。
 直接は見たことがないが、そのビラのようなものをネット上ですがみたことがあります。
 すなわち、
「安保法制があれば、みんなで安全を守れるようになり、抑止力がつき、戦争のリスクが減ります」
 と書かれていた。
 醜いです。



 私は、こうした「市民政治活動」みたいなものが、左右にかかわらず大嫌いです。何故、ああやって群れてモノを言うのでしょう。

 彼らは、インテリの拡声器にすぎません。
 インテリの拡声器にすぎないにかかわらず自分で自分を政治的実践性のある、ノンポリよりは意識の高い者であると思い込んでいる。

 いいですか。
 基本的に、庶民は政策的知識など持っている必要もなければ、世に訴えたり、政府に請求運動などする必要はないのです。
 そんなものは余計なもので、もっと言えば、自意識過剰の産物でしょう。


 もちろん、それは私もそうです。
 このブログなんて、意味はない。
 また、私の政治についての関心など、世の中で一縷の価値もないのです。
 ですから、私は、私のために考え、書いているのであって、別に自分の訴えが政治的に実現されることを政府に求めてなどいません。
 よって、政治家、官僚、産業……などなどといった存在には、私は最大限の寛容精神を発揮するものであります。私は、自分が彼らを糾弾したりするほどの「身分」にはないことを知っているからです。



 海の向こうでは、無価値な政治運動の金切り声をよそに、荷船が汽笛をあげていました。



(了)
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集団安全保障から離れるための集団的自衛権 



 私は、日本の集団的自衛権の行使には大賛成です。

 しかし、集団安全保障という未来ヴィジョンに大反対なのです。



 そもそも集団的自衛権は、勢力均衡(バランス・オヴ・パワー・ポリティクス)を前提とした軍事同盟には欠かせないものです。

 集団的自衛権のような権限を政府が持たなければ、その時々の状況で、「誰と組み、誰と敵対するか」という立場取りができなくなります。
 我々は、この
「誰と組み、誰と敵対するか」
 の選択によって、国際的な勢力(パワー)バランスを取るということを考えなければならないはずなのです。


 対して、集団安全保障の考え方は、そうした「誰と組み、誰と敵対するか」という勢力均衡の論理を想定しません。
 要するに、
「みんなトモダチ」
 というわけです。
 それで、「トモダチ」の中で「悪いトモダチ」が出てきたら、トモダチ皆で叩くというのが『集団安全保障』です。

 私はこれに反対だし、おそらくサヨクが想定するような集団安全保障の時代なんて人類に訪れないと思っています。




 しかし、厄介なのは、ある意味、保守派も集団安全保障の未来を想定しているということです。

 というのは、集団的自衛権の行使で、「日米同盟」のみが想定されているからです。
 つまり、保守派は、東西冷戦で西側が勝ったので、「世界中を西側化することでの集団安全保障の未来」を無自覚のうちに想定しているというわけです。

 ようするに、『自由と民主主義という普遍的な価値の共有』というヴィジョンにおける集団安全保障。これが念頭にある。
 すると、まことに混乱してくるが、「集団的自衛権」という勢力均衡を前提にした考えの上で、なぜか「集団安全保障」の未来が想定されるという話になってくる。

 とどのつまり、日米同盟を大前提にした集団的自衛権は、「世界中を自由と民主主義で染め上げる集団安全保障」への途中過程として想定されてしまっているというわけであります。


 これに対して、「みんなトモダチ」のサヨクの集団安全保障に比べると、保守派の「世界中を自由と民主主義で染め上げる集団安全保障」は何かニュートラルのようなものに見えるかもしれないが、とんでもない。

 これらは双方、「世界を統一して国家という枠組みを薄くしていく」という未来ヴィジョンであるが故に、有害でしかない考え方なのであります。




 さらに加えて、いま言われている安保法制は、「あれで集団的自衛権が容認されたと言ってよいのか?」という問題もあるので、さらにややこしい話になっているのであります。

 あの法制自体のことを言えば、「集団的自衛権」の権限自体は、もっともっと強化されてしかるべきなのです。
 でもそれは、日米同盟のためではなく、「集団安全保障」という考え方から離れ、勢力均衡(バランス・オヴ・パワー)の考え方に移行し、国家の独立性を高めていくという方向でやられなければなりません。



(了)


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自分的論点羅列・日記 

ここでは、いま論じておかなければといういくつかのことを、ごくザックリと書き留めておくことにします。
 粗雑で乱暴な論になりますが、概観ですからご容赦ください。




 このブログでは何回も言ってきたことですが、私がこの世で最も嫌いな言葉は、
「民主主義」
 です。
 そう。民主主義という言葉は、私の逆鱗に触れます。

 つづいて、二番目は、「自由」
 三番目は、「基本的人権」

 別に偽悪で言っているのではなく、これらの語が我々人間を生きながらにして殺しているとしか考えられないからです。



 これに関連して、「憲法」あるいは「立憲主義」というものが語られえます。
 民主主義は嫌いな私でも、立憲主義というものなら認める用意はある。

 しかし、最近、「憲法は統治権力を縛るものである」という話がまことしやかにされているのを聞きました。
 主に憲法学者がしている話が、SNSやネット上でリフレインされているのだと見受けます。

 そりゃあ、安保法制が日本国憲法に違反しているという点だけには一理があるとしても、しかし、

「憲法は統治権力を縛るものである」

 という考えかたは、人間的に絶対に間違っています。

 これについては『憲法学者と安保法制』で少し論じました


 でも、後日もう少し丁寧に論じる必要があるでしょう。

 時間の関係上、今日は下の動画を紹介しておくに留めます。

【柿沢未途】憲法改正論と首相公選制【西部邁】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17740792




 つづいて、国際政治。
 いわゆる「集団安全保障」という話の欺瞞です。

 私は、いわゆる「集団安全保障」という国際社会は存在してこなかったのはもちろん、未来永劫やってこないと考えます。
 また、やってきたとしても、それは唾棄されるべき「文化的のっぺらぼうな地球」になってしまうに違いないのです。

 我々が考えるべきなのは「勢力均衡(バランス・オヴ・パワー)」で各国間の緊張状態の中で、国家独立性を高めてゆくことなのです。

 しかし、保守派は「アメリカ(西側)を中心とした集団安全保障の未来」を先に想定しているし、左派は「みんな平等な集団安全保障の未来」を先に想定している。

 でも、それらは双方お花畑なのです。歴史にそんな理想的な人類の最終到達点など想定しえません。




 さて、そして、こうした軍事、国際の話は、経済とも繋がりが出てくる。

 たとえば、「集団安全保障」というヴィジョンは「TPP」のヴィジョンと酷似している。(このことも丁寧に論じたいところです)

 あるいは、TPPを基礎にした輸出主導の成長論は、異次元金融緩和という「リフレ派」の議論とも通じる。
 リフレ派の議論は、「経済における自由」と「消費者選好による民主主義」と考えかたとして繋がってくる。
 そして、それはやはり、日本国憲法の考え方と似通っているのであります。


 このように、政治哲学から、軍事から、外交から、内政から、経済から色んなものが間違いだらけなのであるから、こうした大衆性を一気に完封するくらいの気でやっていくらいの気概がなければ、到底正気を保っていけません。



(了)


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SEALDs諸君へ! 

 私は、安保法制そのものがどうという前に、「安保法制反対デモ」というデモに価値を認めません。

 確かに、安保法制における「アメリカの召使度をあげて、リスクを下げる」という理屈が唾棄されるべきものであることは間違いありません。(安保法制の法制自体は、別に問題はないと思いますが)
 ですから、単に「リスク減」の文脈で安保法制を礼賛する保守派の活動も、同じくらい価値がなく、同じくらい醜いとは思う。

 でも、だからと言って、反対側の「安保法制反対デモ」が許せるかと言ったら許せないのです。



 特に、『SEALDs』という若者の団体が、私は見るに耐えない。胸をかきむしられるようです。

 もっとも、SEALDsについては、「工作員動員説」「サヨク団体動員説」などなど色々言われているが、それは違うと思う。
 彼らは自分の頭で考え、自分で行動している。

 むしろ、工作員やサヨクの動員であったらいいなという願望を抱くぐらいですよ。しかし、様子を見る限り一人一人の自発的な活動であるに違いないのです。

 なるほど。おそらく、彼らは現今の近代的社会という世界観に「価値」というものがなくなっていることを見抜いてはいるのです。その点の鋭さがある。
 彼らは、大学を卒業して、就職をして、果たして何か価値感のある世界観をえることができたでしょうか。
 できやしない、と思ったのでしょう。
 また、その予測はおそらく当たっているのです。
 彼らに用意された社会は、酷く画一的で、平坦であるのみならず、没落の最中にあり、一枚隠された形で虐げられて行くことは明白だった。彼らをそういう状態に追いやったのは、彼らが大学を卒業する前までに社会を作ってきたすべての大人たちの大衆性であります。

 だからSEALDsの彼らは、別の価値を想定できる世界観を見つけて、そちらに行きたかったのでしょう。
 それで、「民主主義」やら「反戦」やらの枠組みを見つけて、自らそこへ向かっていった。
(ですから、これを「就職で採用しない」とか言って弾圧するのは得策ではありません。むしろ、かえって彼らは、彼ら自身が正しいという錯覚を逞しくするでしょう)



 でも、私が一番思うのは、彼らが見つけたその枠組みも、無価値で平坦で人を圧殺する「近代社会」を作った大人たちの理屈の一柱を担っていたものではないか、というところです。

 なるほど、確かに「対米従属の自由民主主義」も大人の理屈ではある。しかし、「単なる平和主義の自由民主主義」も大人の理屈なのです。
 反抗するのであれば、この双方に反抗しなければならない。

 なぜ彼らは、後者の大人の理屈によって前者の大人の理屈を攻撃することで、「別の価値ある世界」へ行けると勘違いするのか。

 それはすなわち、「群れる」からです。

 彼らはきっと、途中までは鬱屈とした中で、自分の頭で考えていたのでしょう。
 この世の価値とは何かを考え、その世界観を探しあぐねていたに違いない。
 しかし、途中で寂しくなって、「集団的に考えること」をしてしまったのです。
 ツイッターなどのSNSを用いて、「同じ意見」という集団を作って、集団的に考えるようになってしまった。

 だから、「民主主義」がどうだのという薄っぺらな大人の言葉でピーピー群れる羽目になったというわけです。



 だって、安保法制反対の理屈は、次のように言えば、こうも簡単に崩れるものなのですよ。

 なるほど、安保法制があれば、アフガン戦争、イラク戦争のような戦争について、アメリカのお手伝いをさせられるようになるかもしれない。これは、共産党をはじめとするサヨク陣営の言うとおりではある。
 しかし一方、安保法制という法制があれば理論上、イラク戦争のような戦争の時に、「イラクに味方する」という主体的な戦争参加ができるということでもあるわけです。

 アメリカのお手伝いをするような、無価値な戦争、大義のない戦争に参加するのが嫌なのでしょう?
 先のイラク戦争は、どう考えてもアメリカが悪かった。それなら大義上、正義上、原理的に言えば、我々は「戦争に参加しない」という態度ではなく、「イラクを擁護する立場で戦争に加わらなければならなかった」のではないですか?

 本当にただ単に「戦争へ行きたくない」という本当の軟弱精神から安保法制に反対しているのなら別ですが、本当は、「大義のない戦いには与したくない」と思っているだけなのでしょう?
 逆に、大義のある戦いであれば、よそへ出向いてでもやらなければならないはずでしょう。

 だったら、反対するべきなのは、「安保法制」ではなく、「日米安保(日米同盟)」なのではないでしょうか?

 また、安保法制の持つ、「自衛隊の海外派兵」「戦闘地域へ武器輸送」などといった権限は、我々が世界で主体的な軍事行動をとるという意志さえ持てば、問題ないでしょう。
 つまり、大義を考えることのできるような国家の意思統一。これができるような、強靭な中央政府をどう構築していくかという話をすればいいのです。



 私とて、アメリカの召使として戦争に狩り出されるのは御免こうむる。
 しかし、アメリカに召使にされないためには、「アメリカに対して反抗する暴力」という意味での軍事力も必要でしょう。
 あるいは、アメリカ以外の国、たとえばロシアなどとの同盟も考えてみる必要だってあるはずで、それなら安保法制は逆にアメリカにとって脅威になるかもしれないでしょう。



 そう言えば、私は軍隊へなんぞ行きたくありませんが、アメリカに対しての特攻要員としてならば、徴兵されても一向に構いません。
 そういう風に思っている若者は、実は多いのだと信じます。
 また、アメリカに召使にされないためには、核武装だって必要でしょう。だってアメリカはわんさか核を持っているのです。

 論理上、そういうことになりませんか?



(了)


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夏花粉・日記 



 夏の花粉がでているような気がします。
 目と喉が痒くて、クシャミが連発する。頭も重い。
 多分イネなのだろうとは思うけれど、正確なことはわかりません。

 そもそも私は、春や夏は季節的に嫌いです。夏の暑いのは最悪だし、春は死にたくなる。

 秋や冬の方がよっぽど良い。
 特に秋は良いです。

 そう言えば、大昔の日本では、春か秋かが来た時に一年と数えていたとか何とかいう話を聞いたことがあります。
 春夏で一年、秋冬で一年。
 つまり、いまの一年は当時では二年だったということです。
 そういう日本にかんする記述が大陸の文献にあったらしいのです。

 それで、神武天皇を初めとする初期の天皇の寿命が100歳を超えているのも、一年を二年と数えていたからに違いないという話が確かあった。

 しかし、そんな春か秋かが来るたびに一年と数えるだなんて仕方を人がするものなのでしょうかね。
 いや、するのかもしれないですけれど。

 寿命については、後の人が話を盛ったという方が、人間らしくて良いと私は思いますね。



(了)


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現代日本経済における諸問題 




 貨幣経済における自由市場の問題が述べられるとき、おおよそ「格差」というものに焦点があたる場合が多い。もちろん、あまりにも人々が経済的に格差づけられるというのは、問題であるに決まっています。

 しかし、格差の問題のみがクローズアップされることになると、政府による市場の修正が、「所得再分配」のみで事足りるという向きへ傾くことになりますでしょう。

 つまり、
「経済の発展は自由市場に任せ、後から政府が金持ちから金を巻き上げて弱い者に配る」
 というヴィジョンです。

 私はこの考えがそもそも間違っていると思う。




 そもそも、政府の財政政策という非・市場的な主体は、三つの機能があると言われています。

1、所得再分配
2、経済安定化
3、資源配分




 実のところ、社会民主的な経済の発想も、新自由主義的な経済の発想も、経済における政府の役割を「1、所得再分配」だけに限定してものを言っている点では同じでしょう。

 社会民主主義的な経済の発想は、「経済の発展が自由市場によってなされる」ということを認めた上で、「政治的には多数の弱者が、金持ちから金を巻き上げる」という発想へ傾斜します。
 対して、新自由主義的な経済の発想は、「弱者へのセーフティーネットは政府によってなされる」ということを根拠に、「市場の自由化」に大義名分を与えようとする。

 つまり、双方、拠り立つ前提は同じで、単にどちらがより「弱い人が可哀想」と思っているかの違いなのです。




 しかし、いま、我々に一番必要なのは、財政政策(政府による恣意的な自由市場への介入)を、「2、経済安定化」にも「3、資源配分」にすら認めるということなのです。

 経済の安定化というのは、すなわちケインズ的な介入で、短期的な問題解決としての財政政策です。
 現今は、社会全体として供給能力が総需要を上回って、価格が下がり、給与が下がり、投資意欲が減退しています。
 この不足した需要分を公共事業などの政府の支出の増大によって補う。
 すると、事業者たちは投資の必要性を見込むことができ、自ずと人件費がかかるようになる。
 その投資や人件費の(貯蓄を除いた)何割かはまた他の支出となる。またまた、他で支出されたものは何割かは別の支出となって……というように、最初は公共事業としての支出だったものが、民間に広く、社会全体の需要の創造になるわけです。

 これが「乗数効果」のいわゆる呼び水効果ということですが、この短期的な流れを中長期に渡って持続させるためには、事業者に「将来における需要の予測」を多く見積もってもらわなければなりません。

 何故なら、事業者が投資をするときは、常に将来を予測してするものだからです。色々な予測がありえますが、特に「将来における需要の予測」は予測の最も大きな決定要因になります。
 これは事業者として投資をする立場になったと想像してみればよいのです。事業者の投資は将来の生産規模を増やしますが、将来の社会にこの需要がなければ、つまり売れなかった場合、彼は首を括る以外に道はなくなってしまいます。

 ですから、社会全体として投資を存在させるためには、持続的な需要の見込みが前提された社会が想定されていなければ不可能なのです。


 しかし、ここで問題があります。
 というのも、民間消費は、投資を除けばあとは個人消費ですが、個人消費の増大の予測には限界があるということです。

 もちろん、短期的には、個人消費の増大を見積もることができるでしょう。
 しかし、根本的に、長期的に、我々の個人消費の増大よりも、機械化、生産性の拡大による供給能力の増大の方が大きくなってしまっているという問題がある。

 ここが自由市場における資源配分の不整合なのです。

 つまり、生産性の増大を、「消費者の選好」による需要で捌ききれないということであります。

 とりわけ、昨今の世の中では、「消費者の選好」を礼賛するケが非常に強い。しかし、大衆化された社会ではそもそも幻を掴むようで低劣な消費が散々されているのであります。要は、「消費者が選ぶ」ということに価値をおきすぎるのは、その消費者達の選好が低劣である可能性を大いに含む以上、よろしくないということです。
 これは別に、禁欲的な精神から言っているのではありません。消費者の選好が低劣だった場合、その低劣な選好に迎合して生産者も生産を行うことになる。そして価格が付き、価格そのものがその低劣なものに権威を与える。すると、社会全体のものとものにおける相対的な価値が狂ってくるのです。
 つまり、本来価値のあった公なものの価値が低く見積もられ、本来何の価値もないものの価値が高く見積もられる。これが大衆的に行われる現象が、「大衆消費社会」というものであります。
(※私が将来の消費税増税に大賛成なのは、この点を見てのことでもあります)


 もっとも、私とて「消費者の選好」のすべてを蔑ろにするわけではありません。
 しかし、消費者による選好を価値の源泉として考えるような経済の見方は、間違っています。
 そもそも、消費者の選好では、事業者による需要の見込みに確実感を与えるのに限界があります。つまり、増大する供給力を消化させる需要を創りだせない。


 ですから、ここは民間需要ではない、政府による公的な需要を考えるべきなのです。
 つまり、先ほど展開した、短期的で呼び水効果的な財政出動に留まらず、長期的に、恒常的に、政府の支出規模を増やして行くという方向です。
 言い方を変えれば、資源配分において、市場に頼っていた部分を、何割か政府の恣意的な決定に預け続けるということであります。

 たとえば、公共事業も、単にデフレの解消という期間限定のものではなく、毎年、恒常的に20兆、30兆の規模を確保する。土木や建築の公的な支出に伴い、我々の供給能力が、土建産業として消化されていくでしょう。その土建産業として消化された供給能力は、国土を整備し、交通をより張り巡らし、国民統合を促すという国家全体の益としての需要を満たすはずです。

 あるいは軍事産業にしてもそうです。高い軍事費を恒常的に政府支出として計上すれば、我々の生産能力を軍事産業として消化させ、国家全体の益としての需要を満たす。

 さらに、国会議員の定数や公務員を増やし、彼らの給与を上げるという策も必要でしょう。
 これは性質的に、短期的な財政出動として考えることは不可能でした。しかし、恒常的な政府支出の増大として考えるならば全く問題はないはずです。
 議員や公務員の増大と潤沢な給与による人材の確保という形で、より我々の人的資源を投入できれば、強靭な政府を形づくることができる。
 また、公共事業、軍事費、社会保障にいたるまで政府支出を拡大していくのであれば、これを捌く政府そのものも大きくしなければならないのは当然のことです。



 対して、我々の増大した供給能力を「輸出によって消化すべき」というヴィジョンを抱いている者が多い気がしますが、そういう考えは決定的な間違いを犯している。というのも、輸出とは、輸入をするために行うものであり、長期的な生産能力の過剰を消化する為には最低限度、軍事力を背景にした国際政治力が必要になるからです。また、もし日本にそうした軍事力があったとしても、過度な輸出、輸入の摩擦は、経済を安定づけることはできないはずです。



 以上のことから、我々の増大した供給能力を消化する新たな需要は、おおむね「大きな政府」として方向づけられるべきなのだと、私は考えるのです。



(了)


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日本人の暴力性 


 日本人は歴史的にも農耕民族で、和を持って尊しとなして、八紘一宇であり……がゆえに平和を好んでいるのである、ということがよく言われます。

 しかし、日本人は他の民族に優るとも劣らない激烈な暴力性を持っていたと、私は考えます。



 たとえば、柳田國男の『遠野物語』でこんな話があったはずです。

 ある男がいた。そして、彼の嫁と姑がいた。姑はつまり、男のお母さんです。
 そんな中、姑は、男の嫁を毎日毎日ネチネチとイジメ続ける。
 ある日、男は
「もう我慢ならない。僕はお母さんを殺すことにします」
 と言って、鎌を研ぎだしました。
 姑は泣いて謝るが、男は許さず鎌を研ぎ続けます。
 姑は泣く、男は研ぐ。
 そうこうしている間に逃げればよいものの、姑は泣いて謝り続ける。

 結局のところ、彼が母親に手をかける前に巡査に止められて話は終わるわけですが、暴力とは本来こういうものではないでしょうか。

 つまり、暴力精神とは本来、生活の和の中に潜在的に含まれた実に素朴な感情だということ。
 そして、私は、こうした素朴な感情こそが、われわれ日本人本来の暴力精神なのだと考えるわけです。

 さらに言えば、暴力精神を言語上で解釈し、整えるものが「武」というものです。
 武という字は、「矛を進める」という意味と「矛を止める」という意味の両方を含んでいます。つまり、矛を進めたり、止めたりする基準を整えようとする動きが人間にあり、それを描出したのが「武」という字体だということであります。

 なぜ矛を進めたり、止めたりする基準が必要なのか。暴力精神があるからに決まっています。

 また、暴力精神の整えられたものというのはすなわち統治の論理であり、権威や権力と繋がるものです。
 たとえば、戦国の世から徳川時代に至る武士の論理ですね。

 私は、徳川時代の貴族的な武士の論理を重んじる者ではあります。が、そうした武士の論理を生んだ、そもそもの暴力精神という素朴な感情の段階を無視しては、何がなにやらわからないではありませんか。

 あるいは、八紘一宇や憲法十七条も、なぜそういう言葉があったかと考えれば、日本人に苛烈な暴力性があり、これを整えるための「基準」が必要だったからでしょう。
 たとえば、古代クレタ文明に、そういう言葉があったでしょうか。もちろん、クレタ文明の文字は解読されていませんので、これを明らかにすることはできません。だから、これは私の想像ですが、クレタ文明に「和を持って尊し」のような言葉はなかったのではないでしょうか。つまり、本当に闘争のない民族は、言葉にするまでもなく平和をやっているということです。もっとも、そういう文明はよそからの侵略に対しても無力ではありますが。



 よって、これを整える「武」というものは、そもそも素朴な暴力精神があったからこそ生まれるものです。
 つまり、我々日本人はある種の激烈な暴力性を持った民族なのです。
 この暴力精神を認めて、解釈して、われわれの暴力精神を今この現状でどう整えるかということが「武」であり「統治の論理」でしょう。
 そして、本来、われわれは、われわれの暴力精神を、日本国家の独立に活かせるはずなのです。

 アメリカに刃向かい、中国を黙らせ、世界のどの国にも屈服しない、激烈な反抗心として発露させれば、できないことはないはずでしょう。
 すなわち、われわれの激烈な暴力精神を、天皇と中央政府を中心として整え、国家の隅々までまとめあげることさえできれば良いのです。

 もっとも。何の気も無しに「暴力反対」というサヨクも、何の思慮もなく「八紘一宇」を掲げる右翼も、日本人の暴力精神を認めようとする者は稀ですから、もはや、我々の暴力精神が整えられ、活かされる場面もなく、文化圏は溶けて流れてゆくのでしょうけれど。



(了)


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蜘蛛と不合理・日記 



 私の家の近くには、川が多く走っています。
 その汚らしい川を沿いを歩いていると、ものすごい角度で蜘蛛が巣を張っていて、その中心には植物の綿毛のようなものがかかっていました。

 立派な蜘蛛が、規律正しく糸をたどり、一生懸命に獲物を食そうとするのだけれど、なにしろそれは綿毛ですから一向に食せる気配がない。
 それでも彼は一生懸命に何度も糸を辿り、獲物を食そうとする。

 私は用があって十分程度彼を眺めた後、去ってしまいましたが、果たして彼はあれからどうしたでしょうか。
 餓死するまで綿毛を食そうとして、果ててしまったでしょうか。


 なるほど。私は一応人間ですから、蜘蛛の不合理な行動を理解することができる。
 しかし、人間以上の存在があったと仮定して、そいつが月かなんかから人間社会を俯瞰した時には、人間などきっと多くの不合理をやっているに違いないのです。

 しかし、蜘蛛が蜘蛛の能力と主観性の中で蜘蛛をやるほかないのと同様、人間も人間の能力と主観性の中で人間をやる他ありません。ですから、あらゆる人間社会の不合理を整合させる人類の最終到達点など、人間によっては、永遠に編み出すことはできないのであります。



(了)


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ナチスのホロコーストは過分に見積もられているか? 


 少し前の記事で、『ヒットラーとナチズムについて(日記)』というものを書いたのですが、そこでこんなコメントをいただきました。



>あと、ホロコーストはね、かなり事実を彎曲されてると考えざろう得ません。なぜかドイツではナチスに言及するだけに罪になります。言論の自由を侵してまで触れないように封印するのか。




 このことは、だいぶ前に某所で議論になっていたのを聞いた覚えがあって、なるほど、そういうこともありうるだろうと思った記憶があります。

 実際、戦後ドイツでは、元ナチス党員だというだけで酷い差別を受けてきたと聞き及んでいます。また、ナチス的なものへの言論統制を行っているということも確からしい。
 また、これは私の想像ですが、ドイツ国民には「ナチ時代を否定することによって現在のドイツを肯定する」という都合があり、それによって特に21世紀に入ってからの過度な補償、過度な反省へと傾斜してしまった所があるのではないでしょうか。そして、その過程で、ナチス時代の統制的な経済運営やドイツ国民の団結も同時に軽んじられた。これによって、現在ドイツの拝金主義的な新自由主義への傾斜も起きたのではないか……と、あたりをつけることもできます。

 だから、コメントにある「ホロコーストにおける事実の歪曲」は、確かな見方とみるべきだと思います。



 ただ、私はドイツ人ではありませんので、ホロコーストの過大な見積もりについて何か擁護を施してやる義理はありません。 
 また、「言論の自由」という言葉に至っては、それ自体、意味があるとも思えません。



 確かに、ホロコーストの見積もりに何処までの信憑性があるかは非常に疑わしいものがあります。
 我々は、連合国側の東京裁判の都合によってされた、南京の改ざん、強制連行の改ざんに苦しんでいる。
 あるいは、19世紀トルコ帝国によるキオス島でのギリシャ人大虐殺も、当時のギリシャ人人口以上の虐殺が見積もられているのであり、つまり当時のヨーロッパ社会のギリシャ愛好的な都合であったわけであります。

 つまり、世界の悲劇の多くは、悲劇を評価する者の都合によってなされるということです。



 しかし一方で、迫害やそのエスカレーションによる虐殺は、評価とは別のところで存在したはずでしょう。誰が、誰を、どの程度……という評価はできないし、よそ様の件については評価するべきでもないが、そういう評価から超然した事象としては、誰かしらが何かしらを迫害、虐殺している。

 迫害や虐殺は、我々が記号的に考えている範疇を超えて行われているはずなのです。そして、一見、迫害や虐殺に見えないものも含めて迫害や虐殺を想定すると、迫害、虐殺の「被害者・加害者」は反転しながら断続的に続いていると見なす必要があるでしょう。


 たとえば、戦後ドイツをナチスへの差別・言論統制・迫害と見るのであれば、ナチスドイツ時代のユダヤ人への差別もやはり(評価の過分はあるかもしれないが)迫害であることには違いなかった。
 もちろんその見積もりに過多はあるに違いないが、その「過分な虐殺の見積もり」も戦後ナチス党員迫害の一種であると見なすべきなのでしょう。

 もちろん、そう見なすことで戦後ドイツのナチス党員への迫害を容認するわけではありません。

 ただ、この場合、「迫害」と「虐殺の過分な見積もり」は、迫害の被害者、加害者が入れ替わったというだけだということが分かられていれば良いのです。

 人間が生きている限り、迫害は、「被害者、加害者」が入れ替わって、永遠に行われていく。
 そもそも、ユダヤ人は帝政ローマ期にキリスト者を迫害していたわけです。すると、ナチスドイツという時と場所では、たまたまユダヤ人が迫害される側にあったというだけと捉える方が適切でしょう。そして、戦後ドイツはナチスという枠組みがたまたま迫害される側にある時と場所だったというまでのこと。




 しかし、帝政ローマ期を考えるときはキリスト者迫害を、ナチスドイツを考えるときはユダヤ迫害を、そして戦後ドイツを考えるときはナチス党員迫害をそれぞれ想像するというのは必要なことです。
 何故なら、同じユダヤ人、キリスト者、ナチ党員だったとしても、一個人単位で見れば迫害者と被迫害者は必ずしも一致していないはずだからです。いや、別に「一個人単位で見た時には、きっと迫害されっぱなしの人がいるはずで可哀想」ということを言っているのではありません。
 それらの迫害が、必ず「群れとしての個人」によって行われていることを把握すべきであるということを言っているのです。

 人間はおそらく、人間がいなくなるまで人間を迫害することをやめないでしょう。もし、具体的に把握された迫害行為そのものを規制しても、あらゆる形に変形して、差別や虐殺は行われてゆくのです。これは人類普遍の性質です。

 特に、その迫害にひとたび群れ(大衆)の熱が篭るようになった時は、迫害し、迫害されるという闘争の連鎖が社会を焼き尽くすに決まっているのです。
 それは、目に見える迫害や虐殺を「やめよう」と活動したって、今度はその活動そのものが迫害を生む。
 ようするに、人が大量の群れとして世間の趨勢を握るようになると、人間の「迫害精神」とも言えるものが大々的に出てきて、「迫害し、迫害される」という闘争の連鎖が止まなくなる。
 ですから、現代ドイツはまだ迫害の連鎖の炎の中にあると見るべきなのでしょう。


 ナチスのホロコーストが過剰に見積もられているかどうかについては、基本的に我々が口を出すべきことではないので、以上のことだけ把握していれば充分なのではないでしょうか。



(了)


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Category: 歴史:近代、大東亜戦争

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近代的スポーツ・日記 



 暑いのだけど、昨日、今日とスポーツの用事があって体育館にいます。

 非常に不健康なことだと思いますが、一応スポーツは「健康に良い」というタテマエでされているから不思議なものであります。

 スポーツというと、昔、日本ではスポーツというものはなかったそうな。
 スポーツは明治に西欧からやってきた。つまり、近代化の一つなのです。

 そう言えば、夏目漱石の『我輩は猫である』の中の話で、近代化によるスポーツの流行を揶揄する、風刺的なのがあったと思う。
 要するに、猫が庭で遊んでいるだけのことを、スポーツと銘打ってしまうものであります。

 視点は猫の一人称だから、猫が「スポーツとはこれこれこうでまったく云々」とエラそうに口上を述べて、庭で猫らしく遊んでいるものを、彼自身はスポーツだと言ってやるわけです。
 それを見て読者は、「何がスポーツだ、ナマイキを言いやがって」と滑稽さを覚える。

 しかし一方、スポーツ、スポーツとハイカラぶるが、スポーツなどというものは、猫が庭で遊ぶのと大差のないものではないかという感を得もするわけです。

 スポーツなどと言っても、猫が庭で遊ぶ以上でも以下でもない。
 やれ「文明だ」「スポーツだ」と威張って滑稽なのは、日本人の方も同じなのかもしれません。

 それは別に明治、大正の御世にとどまらず、やれオリンピックだといって威張り散らしている現代平成の御世も、おんなじように滑稽なのでしょう。

 ただ、現代人は、そうしたことを「滑稽だ」と言って自嘲してみせる度量も能力も失っていますね。だから、まるで余裕がなくなってしまっていて、こうも醜いのではないでしょうか。



(了)


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Category: 社会:現代社会批評

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日本消滅の規定路線(大衆)に刃向かうということ 

 昨日の記事で、私は、

「日本の消滅はすでにとっくの昔に規定路線で、今のところまだ消滅していない気になっているだけ」

 ということを言いました。


 これは事実です。

 狭い意味で言えば、前回言ったように、日本人全体が一度よそに暴力を依存し、依存することを良しとしてしまった上に、それを屈服や裏切りと換算するのを誤魔化すようになった遥か昔の時点で……すくなくとも1970~80代年の段階で日本の消滅は確定的になったと言ってよいと思います。




 でも、「消滅の規定路線である」という『事実』を認めることと、「消滅してもよい」ということは違います。

 だって、日本が消滅して良いはずはないじゃないですか。
 我々は何か物事を言うとすれば、「日本を千年先も日本としてあらしめること」を最上級価値に置く義務がある。

 でも、たぶん、あと50年から150年くらいで日本という世界観は消滅するでしょう。
 それで250年ほど未来の世界史の教科書には「昔、日本という文明があったが、1945年アメリカに滅ぼされた」と書かれているに違いないのです。

 論理的に考えれば、間違いなくそうなる。これは事実だから、事実として認めてもらわなければ困ります。



 これをちゃんと認めた上で、徹底的に刃向かえばいいのです。



 現代大衆日本人は、右も左も、権力者も非権力者も、これを誤魔化して砂上の「希望」を作り上げる。何故なら、自分達(一億のそれぞれ)ができるだけ楽チンでいたいという刹那的欲求からくる、様々な天下(日本)への罪や裏切りを、「希望」によって誤魔化しておくためです。

 ようするに、

「我々は、こういう希望を想定しているので裏切っていない」

 という大衆根性なのです。
 誤魔化して、罪や裏切りを犯しつつ、まだ自分を「イイ人」と思っておきたい。

 これには実に様々な誤魔化しかたが蔓延っている。いやはや、日本人というのは、自分をイイ人と思っておくためにはいくらでも狡猾な誤魔化しができる、頭の良い民族のようです。



 でも、その都合の良い大衆の誤魔化しがある以上、消滅の規定路線は規定路線で進むことになる。論理的にそうなるでしょう?



 まず私は、そのあらゆる方策でなされる大衆の「都合の良い誤魔化し」に対し、徹底的に刃向かうことが必要だと考えています。

 そういうあらゆる大衆の狡猾で刹那的な誤魔化しを徹底的に糾弾し、燃やし、ひっぺがして、「日本消滅の規定路線」を認めさすことから始めなければならないのです。

 逆に言えば、これを誤魔化しなしに白日の下に晒し、ありとあらゆる大衆の都合の良い誤魔化しを黙らせることができたら、はじめて希望のようなものがでるかもしれない。

 もっとも、日本人というのは狡猾な民族ですから、何をどう言っても、自分を「イイ人」としておくための欺瞞を続けるのでしょう。
 が、続けるに違いないという事実、予測と、それを許せるかどうかはまた別問題なのです。



(了)




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