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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2017年02月  
  

自己の制御 



 小学校高学年くらいから中学生くらいにかけて「自己の制御」というようなことをよく考えていたような気がする。

 もちろん、自己の制御をまったくしていない人はまれですが(まったくしないのをキチガイと言う)、ポイントは
「自己の制御を意識的に体系化しているか、いないか……」
 だと思った。

 で、世の中には、

1 自己の制御をそれほど意識せずとも、周りと上手くやっていけるヤツ

2 自己の制御を常に意識しつつ、周りとなんとかやっているヤツ

3 自己の制御を意識しているけれども、周りと上手くいかないヤツ

4 自己の制御を意識せず、周りと上手くいっていないのだけれど、そのことに気づいていないヤツ

 の四パターンに大別できると思ったものです。


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Category: 日記:思考

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観光と用事 



 テレビやスマフォで日本の名所とか見ていると、ちょっと感激して「行ってみたいなあ」と思ったりもする。

 でも、それで実際に行ってみても、これは単なる「観光」です。

 観光というのは大衆的なもので、外人が日本を見に行くようなものになりがちだから、疲れるだけ疲れて実際のところツマラナイことが多い。


 まあ、そういう観光もたまには良いかもしれないけれど、でも、本当に楽しいのは、遠い場所へ何か「用事」があって行く機会の方だと思います。

 親戚や友人のところへ行くとか、出張とか、何かしらの用事で行く土地は、いつもの実生活と繋がりのある土地になって、愛着や親しみが配分される気がする。

 あるいは、何かしらのこだわりがあって、その土地に何度も何度も行くようになると、これもまた地繋がりの土地になってゆく……ということはあるかもしれない。




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Category: 社会:現代社会批評

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政府の赤字財政を拡大するには「公共土木事業を増やす志向」と「税率を上げない志向」がある 


 まず、

1
「デフレの時には赤字財政を拡大しなければならない」

2
「少なくとも日本の中央政府の国債が金融的に破綻する心配はない」

……という2点は大前提にします。




 でも、そのことが認められても、これには以下の二つの志向が論理的に考えられます。

 1つは、
「税率を上げない」
 という志向。
 あるいは、減税の志向です。

 対して、2つめは
「公共土木事業を増やす」
 という志向。



 これは「両方やれば良い」とおっしゃる方もおられるだろうし、私とてそうは思いますが、『どちらがより重要であるか』という認識は、しっかり持たれていなければなりません。


 これはすなわち、税金を増やさないことなんかより、『政府が公共土木事業の支出を増額すること』の方が、デフレには百倍重要なことなのです。



 ここを、単なる「税金を上げない論」に終始してしまうと、単なる「財務省悪玉論」と単なる「金融政策論」に抱きつかれてしまいます。

 すると、結局、政府の公共土木事業の支出は拡大されず、ゆえにデフレは克服できないということになる。

 そして、デフレという短期の問題を克服しない限り、日本のいかなる長期的なことも実現不可なのです。


 でも、ずいぶん前からもう誰も本気で日本をやっていこうと思っていないということは百も承知ですから、またみんなはぐらかすってことくらいわかっていますけれど。




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Category: 経済:デフレ問題

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藤井聡教授のシンゴジラ批判 


 今日、ちょっと前のものだけど、京都大学の藤井聡教授の『シンゴジラ』批判を見ました。
 チャンネル桜の討論みたいなやつがまとめられているユーチューブの動画です。

 私はシンゴジラは見ていないのだけれど、この批判は面白かった。

 だからと言ってシンゴジラそのものを見ようとは今のところ思わないですけれど。



 私には、映画や漫画や小説に対して「これは見てもムカつくヤツだ」という察知能力のようなものがあって、そういうものは精神衛生上見ないようにしているのだけれど、こういう面白い批判を見ると「ちゃんと見て、ちゃんとムカついておくことも重要かな」とも思えてきます。


 そういえば、ちょっと前に『永遠のゼロ』というのが流行っていましたが、これは読まなくても確実に腐臭を放っていることがほぼ間違いなく察知できるシロモノでした。

 でも、ものすごく流行っていましたから、その察知される腐臭の実際を見極める必要があると思って、結局『永遠のゼロ』は読んだ……ということが何年か前にあったのです。

 そして予想どおりムカつくことになった。

 そのムカつきを自己解釈してみることでそれなりの果実を得たとは思うけれど、でもこれは相当の精神的疲弊でした。



 だから、そういうムカつくであろうと察知される物語をあえて鑑賞して、「ちゃんとムカつく」ということはとても重要なことだけれども、精神的な消耗はかなり激しいので、そのあたりエネルギー配分をしておかないとたぶん病みます。

Category: 批評:映画、小説、漫画、物語

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