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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2017年05月  
  

三橋理論と資本主義 


 今日は、私が「三橋理論」と呼んでいる経済に関する考えをご紹介しようと思います。

 ここで「三橋」というのは、『今日から俺は!!』(西森博之)という昔のヤンキー漫画の主人公の名前です。

 私はこの漫画そのモノもとても気に入っているのですが、その話はここでは置いておきます。

 今日は、そこに登場するひとつの天才的なシーンを紹介し、これを資本主義論と貨幣論に応用してみるのが主眼なのです。



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◆三橋理論◆



 まず、三橋くんは学校の友達Aくんに千円を借りていました。
 
「三橋さん。千円返しておくれよ」
 
 当然、しばらくたつとAくんはそうやって催促にきます。

(※三橋くんは金髪のヤンキーで、とてもケンカが強いので、同級生からも「さん」付けで呼ばれることが多いのです)

 しかし、困ったことに三橋くんはおカネを返したくありませんでした。
 
 そこで彼は以下のような天才的アイディアを思い付くのです。
 

 
1 とりあえずBくんに千円借りて、Aくんに千円返しておく

2 しばらくたつとBくんが「返しておくれ」と催促にくる

3 今度はとりあえずCくんに千円借りて、Bくんに千円返しておく

4 しばらくたつとCくんが「返しておくれ」と催促にくる

5 その次はとりあえずDくんに千円借りて、Cくんに千円返しておく

6 しばらくたつとDくんが……(エンドレス)
 
 

 こうすれば、三橋くんは千円を返す必要がなくなる。
 
 しかも以下のようによーく考えると、これは「世の中で回るおカネが千円増えている」ことになるのです。



A 三橋くんの使った千円はお店やさんからすれば買ってもらえて嬉しい。

B 三橋くんは千円を使ってモノが手に入って嬉しい。

C 三橋くんにおカネを貸した学校の友達たちも、結局はおカネを返してもらうので誰も損しない。


 
 すなわち、存在しなかったはずの千円が世の中に回っていき、三橋くんには千円分のモノが手に入る上に、誰も損しない。

 だから、「世の中のためなのだ」と三橋くんは言い張るわけです。
 
 
 
 ……私は、十年以上前だったかココを読んだ時、「これ描いている人は天才なんじゃねえか?」と衝撃を受けた覚えがあります。
 
 
 
 もちろん、この三橋理論が成り立つには「無利子」である必要があります。
 
 そして、友人から無利子で借金ができるのは、友人という間柄だからであり、それを利用して上記アイディアにて千円を生み出すのはお話的にイカンでしょう。
 
 だから、漫画ではヒロインにたしなめられて、三橋くんがこのアイディアを実行することはなかったんですけれどね。

 でも、この三橋理論は経済のいろいろなことについての説明に応用が効きます。


 

◆応用1◆


 
 たとえば、三橋くんがこの借りた千円を投資に回していたらどうでしょうか。
 
 仮に、千円を借りるのに年利10%かかるとする。

 しかし、千円の投資で生み出す利回りが年11パーセントだとしたら利子は消化できるし、サヤの1パーセントは三橋くん自身のおカネになる。
 
 また、その1010円を一年投資すれば……と続けて行けば、「借りて返して、借りて返して」とやっても彼のおカネはどんどん増えていきます。
 
 だったら、どうせなら1000円ではなくて1万円借りておけば仮に同じ1パーセントの利幅だったとしても、一年間で100円が三橋くんのおカネになりますでしょう。

 こうして、借金して投資をして資本を増やしていこうとする連中が増え、事業やお金の流れが増えていく経済が「資本主義経済」です。
 
(この場合、投資家にとって「利回り-金利」の将来見積もりが大きければ社会全体の借金が増えて経済は成長します。逆に見積もりがマイナスで現金を資産として保有しようとする意識が上がって、社会全体の借金が減れば、デフレで資本主義は成り立たなくなります)



◆応用2◆


 
 あるいは、「借りて返して借りて返して……」というのは、実は「日本円」がそれなのです。
 
 そもそもおカネというのはどのようにして生まれるか。
 
 それは企業間の「売掛」「買掛」の概念が分かれば簡単です。
 
 もし、未開社会のようなごく単純な社会ならば、この「売掛」「買掛」の概念でなんとなく互いにすべて記憶できるので、おカネは必要ありません。
 
 たとえば、「アイツにはあの時あれくらいの借りがあったから、今度はこれくらいのことをしてやろう」というような感覚がありますでしょう。

 未開社会ではこれを高度に記憶し、数ではなく感覚で互いに「貸し」と「借り」を了解しつつ社会をやっているわけ。

 そして、これが「おカネ」という考えの素なのです。
 
 その上で、社会が複雑で膨大になると未開社会のように「記憶で了解しておく」ではやっていけないので、証書や貨幣でやり取りしなければ済まなくなる。

  これはよくよく考えてみれば「借りの常態化」でしょう。
 
 おカネとは「常態化した借りが流通している」ということなのです。
 
 そして、「日本政府の借り」として常態化したものが「円」ということになるのです。
 
 
 
 だから、三橋理論は、もし三橋くんが「政府」であればまったく正しい。
 
 だって、よくよく考えると「政府の支出」というのは、政府が国民に対して「借り」を持つということと同義です。
 
 対して「政府の税収」というのは、国民の「国家に貢献しなければならない義務」を円によって「貸し」にしておいてやっていることと同義でしょう。

 だから、そもそも「円」というものの価値も三橋理論によってできがっているわけです。


(了)

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Jアラートは「政府が警報できる権限」であるべき 

 
 昨日5月29日、また北朝鮮が弾道ミサイルを発射し、日本海に着弾したそうです。
 
 北朝鮮のミサイル発射は5月には三度目。

 そういえば、排他的経済水域に着弾した今回も「全国瞬時警報システム」Jアラートは使用されませんでした。
 
 そのことが少し言われているみたいですね。


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ライオン


 菅官房長官は、Jアラートを「作動しなかった」と報道すると「作動しようとしたのに、システムに問題があって作動しなかった」かのごとく聞こえるから「作動させなかったと理解すべし」というような話をなさっていたようですね。

 これはつまり、今回本土に着弾する可能性はなかったので、Jアラートは使用しないと政府が判断した……ということだったわけです。

 この話においては(菅さんご自身が国家の指導陣としてふさわしいかは別問題として、)菅官房長官に一理あると思いますよ。

 ただ、一つ言っておくと、内閣府は次のように言ってはいるのです。
 
 
 jアラート

 (内閣府HPより)

 
 これを見ると、政府は

「弾道ミサイル発射」
 
 の時点で
 
「①ミサイル発射情報・避難の呼びかけ」
 
 を、やると言っているじゃないか……と、言いたくなるかもしれない。



 ただ、よくよく考えてみると、これはJアラートを、以下の二つの前提のどちらを基礎にして考えるかによって違ってくることでもあるのです。


  • 1「国民は、政府に警報してもらうケンリがある」

  • 2「政府は、国民に警報する権限がある」



 で、もし2を前提に考えれば、Jアラートが鳴らなかったといって文句を言う筋合いはないわけです。

 しかし、多くの人は1番を前提にしているからおかしな話になる。



 ◇◆◇◆◇◆



 政府に警報してもらうケンリがあると考えている人は、より具体的には以下のストーリーを前提しているように思われます。


  • 1 ミサイル発射

  • 2 「ミサイルが飛んできたぞー」

  • 3 「マジか!隠れろー」

  • 4 隠れる

  • 5 ちゅどーん!!

  • 6 ふう。危ないところだった……



 というような。

 しかし、そんなんムリでしょう。

 だって、核ミサイルが飛んで来て、隠れるところのある状況ってどんなでしょう。



 だから、Jアラートは

「ミサイルが飛んできた時に、諸個人が命を守るため」

 という想定ではちょっと考えられない。



 すなわち、この場合、

1「国民は、政府に警報してもらうケンリがある」

 という前提でいるのは、そもそもおかしいということ。



 では、Jアラートのようなシステムが不必要で、ミサイルが飛んできたら潔く観念するべき……なのか?

 そうではないと私は考えます。

 例えば、私の住む愛知県に核ミサイルが飛んで来たとする。

 直撃したら愛知県民は死ぬでしょう。

 でも、愛知県民以外の日本人は生きている可能性が高いわけです。

 すると、生き残った愛知県民以外の日本人は、ただちに「核ミサイルを落とされた後の日本」をやらなければならない。

 それはいわば超法規的な憲法の停止状態が必要かもしれないし、そうでなくとも政府、あるいは軍隊が国民を強く制限し、指揮しなければならないでしょうね。

 日本国民はこうした状況をすぐに理解し、軍や政府の指示に従い、全体で国家を持続させねばならない。

 だから、北海道から沖縄まで「全国」瞬時警報であるのが大切なのです。



 すなわち、この場合、

「日本人のある一定割合が死んでも、残りの日本人で日本を続ける」

 というのが、一番重要なことなのです。

 そして、「核ミサイルが飛んできた」→「生き残る側だったらそーゆー状況である」というのを、すべての国民にいち早く知らせるものとして考えれば、Jアラートは有効なものでしょう。

 そして、その知らしめるタイミングは当然ながら「日本の政府」が判断する他ないのであるから、

2「政府は、国民に警報する権限がある」

 という話なのです。

(で、首相や官房長官も含めて、内心でも政府にそういう統治者意識があるように思われないのが問題である……という話をすれば良いのに、すぐに「俺に知らされてないぞ!」というケンリの請求を始めるのが現代人の悪弊だと思います)



 ◇◆◇◆◇◆



 そこらへん、みんな何か勘違いしているのではないでしょうか。

 というか、みんな「大変だ大変だ」と騒いでいるわりには、本当に北朝鮮のミサイルなんて飛んでこないと思っているのでは?

 だから、きっとフザけて言ってるんでしょ。

 その想像力の欠如とフザけてる感が、私にはすごくムカつかれるのです。

(了)

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Janre: 政治・経済

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「デフレ派世代」の反逆 


 かつて、戦争中に20代を過ごした世代は「戦中派世代」と呼ばれたそうです。

 その他、安保闘争世代とか、団塊の世代とか、団塊ジュニアとか、ロスジェネ世代とか……世代には色々と印象的なネーミングが付けられてきた。

 ならば私のような、2000年代、2010年代に20代を過ごした世代はなんと呼ぶべきでしょう?

 色々と案は思い浮かぶのですけれど、私はあえて次のように呼んでみたいと思います。

 デフレの時代に若者時代を過ごした世代という意味で、

「デフレ派世代」

 と。


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瓦




 私が20代の頃、大人はこう言ったものです。


「不況をイイワケにしてはいけない」

「今の時代は平和だし、昔はモノの食えない時代もあったのである」

「第一、不況でも技術や組織が進歩しているから、同じお金で手に入るモノ(やサービス)の質は上がっているじゃないか」

 ……ets


 私は、こういう大人のセリフを聞くたびに腹の底から猛烈な殺意と、吐き気と、目の眩むような絶望とがみるみる沸き上がって、視界が真っ赤になったり、真っ黒になったりしたものです。

 でも、十代後半から二十代にかけての私には、何故これがそんなにムカつくのか説明もできなければ、自己解釈すらできませんでした。

 大人の言うことも確かに一理はあるのだし、中学生じゃないのだからただ刃向かえば良いというわけには済まない。



 それに、これへむやみに逆らえば、

「単に自分のうだつの上がらないのを、時代のせいにしている」

 とか、

「単なる甘ったれの根性なし」

 とか、

「貧乏人のイイワケ、弱者のひがみ」

 のように断じられて終わりです。

 また、そのデフレ派世代としての怒りにも本当に「時代のせい」にしたり「甘ったれや根性なし」「イイワケ、ひがみ」の部分が存在する可能性もある。

 そこが唯一「大人理論」の一理あるところではあるのです。



 しかし私は、上記大人理論に対して

「それじゃあ国家全体が回っていかないじゃん」

 という強い確信と疑念がありました。


 つまり、「大人たちの言っていた経済観には国家をやっていくことに対して正当性がない」という強い「確信」です。

 そして、現今、国家をやっていかないのであれば、「核家族の形式」に正当性もなくなるのであり、すると子供を作ることそのものにも正当性がなくなるでしょう。

 だから、その「国家不在の経済観」で、いくら個人としてハングリーさを発揮し競争に勝っても、価値はないのです。

 また、その欺瞞に大人たち本人も薄々カン付いているのではないか……と私は察知していたものです。

 大人たちは、そのクセ何か「ちゃんとバトンを渡した」かのごとく言い張るために、気づかないフリをしてトボけているだけなのではなかったか。

 でも、これを証明するのはとても難しいことでした。



 ・



 だから私は逆に、「自分視点」で不満を述べたり、「弱者が可哀想」というので「強者を引きずり下ろそう」というリベラル的な手合いにだけは引きずられたくはなかった。

 この「若者の自分自身の不満」や「弱い人が可哀想」という筋は、ムカつきポイントとして正当性を欠いているからです。

 そして、正当性を欠いたムカつきを混入させてしまうと、「大人理論の不正当性」を糾弾する正当性も失われるでしょう。

 だから、「不満」や「可哀想」を基準とするのは、できうる限り排除しておくべきなのです。

 これは、私がリベラル、サヨクを嫌う大きな要因でもあります。

 また、少子高齢化で現役世代に負担が……みたいな筋はどーでも良い話です。

 そんな「不満」に正当性はないし、実際、少子高齢化と現役世代の減少がそこまで経済的なマイナス要因であるなどという証拠は大してないのです。

 むしろ、現役世代が減っている分、国家全体として雇用の席が確保され、まだデフレの苦しみがマシになっているところがあるかもしれないので、少子高齢化は「恩恵」の部類かもしれないでしょ。



 ・



 そうではなくて、我々デフレ派世代は「大人たちの経済観は国家をやっていくことに対して正当性がなかった」という点について反逆すべきなのです。

 それは、ひとつ具体的に言えば、すなわち大人たちのやってきた「民主主義と資本主義の徹底」が、論理的に国家持続不可能なものであると明らかにすることです。



 資本主義の徹底は、論理必然的に資産バブルを起こし、その後、デフレを引き起こします。

 そして、デフレは

1 資本主義が成り立たず、国家全体の経済が縮小してゆく

2 政府の支出拡大によってしか抜け出すことができない

 という性質を持つものです。

 しかし、その一方で、民主主義が徹底されているので、大衆民主的に政治、統治能力が制限され、支出を拡大することができない。



 つまり、資本主義と民主主義の徹底が、デフレを常態化させてしまったのが、21世紀の日本なのです。

 しかし、この21世紀のデフレ以前に若者時代をやっちまった世代は、「資本主義と民主主義の徹底の過程」において「その恩恵」をもっとも受けてきた世代だとも言えるわけ。

 それが「ズルい」などと言うつもりはありませんが、A「資本主義と民主主義の徹底の帰結としてのデフレで苦しんでいるデフレ派世代」 に対してB「資本主義と民主主義の徹底の過程の恩恵に浴してきた世代」が、「これが資本主義と民主主義の帰結だから文句言うな」的な態度で開き直っているのは、そりゃあフザケンなと思われて当然でしょう。


(了)

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SNSをやめよう(後編) 


 SNSは、「膨大な近代社会の中でバラバラな個々を情報ネットワーク化するサービス」という前提の時点で、その俗悪性を決定付けています。

 これはすなわち、「疎外者」として土地から浮遊した個体が「群れる」ことを前提したシステムだということ。

 土地から浮遊した疎外者であることそのものは近現代人として生まれた以上やむをえないにせよ、「土地から浮遊した『粒』の疎外者として慣れ合って群れる」のはイコール人間の死を意味します。

 それは、労働資本としての歯車に堕すということのみならず、「自分が好んでこう選ぶ」という部門においてすら歯車として選び、振る舞うという意味において死以下の地獄なのです。

 そして、そのゾンビの群れが「大量」であればあるほど社会的な価値が付与されるというわけで、そうしたもの全体の醜さはいわば魑魅魍魎の類に等しいのです。


前回:『SNSをやめよう』(前編)

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ぶら下がり




 さらにおそろしいのは、こうした「不特定の社会ネットワーク」の「形式」を、「既存の生活民」がありがたがって真似し始めるということです。

 それはあたかも、地方の人間が自分達の生活の価値に無自覚で、いたずらに東京モンのやり方を真似る……といったような力学と同様です。



 そもそも、ほんの十年ほど前まではSNSに限らずネット社会上で個人が実名を名乗ったりなどはしなかった。

 実名を名乗るのは著名な人間に限られていたし、それはメディア露出の一貫に過ぎなかった。

 しかし、昨今はそのへんの素人が実名でSNSをやるようになって久しい。

 これで「匿名性が解消されてネット上の無責任な発言が抑制できる」とするのは、ネット社会視点の近視眼というものでしょう。

 と言うのも、個々の生活視点でいけば、これは「生活上の私」の意識そのままでネット社会へ入ってゆくことに他なりません。

「生活上の私」と「ネットの私」

 の間に一線が画されていれば、まだ「生活上の私」がネット社会の論理に取り込まれる領分は少なかった。

 しかし、LINEなど生活上の繋がりの中でネットへのアクセスが求められるようになり、その生活上の繋がりの輪がネット社会の論理へ組み込まれてしまうことになる。



 たとえば、twitterやFaceBookなどで会社や学校の仲間と繋がったとしましょう。

 すると、その「生活上の繋がり一単位」は、「フォロー数」や「友達数」「リツイート」「シェア」の社会論理の中に放りこまれるわけ。

 人間「個人の価値意識」は、強く「身近な生活的繋がり」の中に埋め込まれていますけれど、その「生活的繋がり」の中の価値意識が「SNS社会の価値意識」に組み込まれる。

 ということは、ほぼ無自覚的に「個人の価値意識」も「SNS社会の価値感覚」に取り込まれてゆくということも意味しますでしょう。

 たとえば学生の仲間うちで「フォロー数1万」の知らないおじさんをありがたがったり、会社での話題がいつもSNSで数を動員したニュースをなぞっていたり……といったような。

 そして、その仲間内の価値基準が、個人の価値基準を強く前提づけるのです。

 現代人はともすれば、自分の強く取り込まれているSNSで騒がれていることが、世の中の相当部分を反映しているという錯覚さえ覚えるようであります。

 つまり、まだ生活的、共同体的なものへ組み込まれていた価値ある層の国民が、「ネット上で数を動員できるもの」の「大量」の価値感覚へ、より強く取り込まれていってしまうということです。



「それはテレビやラジオ、新聞と同じじゃないか」

 という反論も聞こえてきそうだが、テレビやラジオは一方で「国民的~」の意識を醸成するだけまだプラスの面もあったかもしれないのです。(とは言えマスメディアは低劣なものですけれど)

 が、インターネット、SNSは、ユーザーが細分化されて、ヘタに「選択性」と「多様性」が出てしまっているから、「国民的~」の意識をすら醸成しない。

 そして、「国民的~」から逃れられている分、「個人」が「グローバルな世界」で選択しているような雰囲気に包まれてしまうという力学も、紛れもなく存在すると思う。



 ・


 もちろん、昨今はSNSとてまったく使わないというわけにもいかない世の中だからある程度は仕方ないかもしれません。

 しかし、少なくともこれがそういう俗悪なサービスであるということは自覚しながら利用するなら利用すべきでしょう。

 それは、ビッグデータとか個人情報とかの社会的な問題以上に、本当に個人が個人としての思想や心を大切にするためにも必要な観点だと思うのです。


(了)

……という記事を「SNSでシェアしてください」と頼まなければならない性質上、やはりブログも不健康なんでしょうね。
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Janre: 政治・経済

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シチリアG7保護主義と闘う(笑) 

 27日、イタリアシチリア島でG7サミットが開かれました。

 トランプのアメリカを含め

「保護主義と闘う」

 という文言が、再び確認されたそうです。


 ……これが「偽善」です。



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赤傘



◆◇保護主義の時代~自由貿易主義の終焉◇◆



 保護主義とは、国内の産業を保護するために、国家として貿易の自由を規制すること。

 実際のところ、リーマンショック後の世界各国で必要とされていたのは、この「保護貿易」と「財政支出拡大」で内需を増やし各国のナショナリズム経済を扶養することであった。

 つまり、グローバリズムの幻想はとっくに終わっているのです。



 これは、冷戦の西側勝利によって蔓延した、

「資本主義、自由市場経済の合理性による世界統一」

 というアメリカ的幻想が、やはり幻想であったと判然したということでもあります。



 でも、

「自由貿易主義」=「民主的」

 みたいなキレーゴトの体系が残っていたから、みんな社交辞令のように自由貿易を言ってきた。

 しかし2016年、よくも悪くもキレーゴトを言わないトランプ大統領の誕生や、ブレグジットによって、グローバリズムや自由貿易がキレーゴトとしても通用しなくなってきていたのです。



◆◇「俺は保護貿易をやるけど、お前らは自由貿易をやれ」◇◆



 そういえば、

「保護主義と闘う」

 という表現は、オバマ政権下で開かれた昨年の伊勢志摩サミットで言われた表現でしたね。

 しかし、今これが言われるというのは意味合いが違います。

 アメリカは、

「自由かつ公正で相互に利益のある貿易」が「経済成長と雇用創出の主要な原動力になる」

 と主張していますが、これはイコール、

「アメリカはこれまで障壁を低くしすぎて不公正だったから保護主義へ舵を切る。しかし、もっと障壁を下げ、自由に輸出できるようにすべき市場があるよな(たとえば日本とか)」

 という意味なのです。



 つまり、アメリカはまだ一番強いので、

「俺は保護貿易をやるけど、お前らは自由貿易をやれ」

 と言っているわけ。

 それでもヨーロッパの国々は狡猾だから、こうしたアメリカのジャイアニズムにも口だけ「はいはい」と言うだけでしょう。

 けど、日本の自由貿易信仰はどうやらマジモノであるようだし、「アメリカに対する核抑止力」もないわけですから、さらに国内構造を改革して貿易障壁を下げてゆくのでしょうね。



◆◇ゴマカシが効かない屈服◇◆



 これからはますます、

「核兵器と国際政治力のある国家」は「保護主義」を進め、

「核兵器と国際政治力の無い国家」は「自由貿易という名の市場解放」を強いられてゆくでしょう。



 これはもちろんこれまでもそうだったのですが、赤裸々にそうなっていくであろうということ。

 日本は、日米構造協議以来「アメリカの属国でいるための国家の切り売り」をやってきましたが、構造改革論や規制緩和論で「これは合理的なことなんだ」と自分に言い聞かせて屈服感を和らげてきました。

 しかし、これからは屈服感をゴマカすこともさせてもらえなくなって、「赤裸々に屈服感丸出しの屈服」を強いられるようになるでしょう。



 その証拠に、TPPなど、自由貿易協定の促進に関する文言は消えたらしいです。

 なんだか笑っちまう話ですが、これは、もうそういうゴマカシも許してもらえなくなる……ということなのです。

 普通そうばれば怒ると思われますね。

 でも、断言しておくと、日本人は立ち上がりません。

 もはや日本人はいかに赤裸々に屈服させられても、アクロバティックに「これは屈服ではなくて、合理的で戦略的なことなんだ」と言い張るに決まっているのです。



◆◇余談◇◆



 余談ですが、サミット後の記者会見を見ていたら、外国の記者もいる中、加計学園問題について質問するバカな日本人記者がいました。

 私は加計学園問題はもっと気合い入れて責めるべきと思っていますが、さすがにこれには強い違和感を感じました。


(了)


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Category: 経済:反グローバリズム

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Janre: 政治・経済

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前川喜平・文科省元事務次官を証人喚問せよ! 

 文科省の元事務次官(事務次官=省庁側のトップ)前川喜平氏が「加計学園問題に関する文部省内の文章はあった」と口を割っていますね。

 さらに記者会見を開き、証人喚問に応じる意向も示している。

 この意義を、加計学園問題そもそもの流れから簡単に説明するとこうです。



1 安倍首相は、規制緩和策の「国家戦略特区」を利用し、加計学園(学長が首相の友達)に獣医学部の新設を許可するよう文部科学省へ圧力をかけていたのではないか……という疑惑があがった。

2 証拠として「官邸の最高レベルの意向だ」などという文部省内の文章があり、それがリークされた。

3 文科省は「調べた結果、あんな文章はなかった。ありゃデタラメだ」と言った。

4 前川元事務次官が「いや、ああいう文章はあったよ」と口を割り、証人喚問に応じる意欲を示した。


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マスク1


 加計学園問題の意義を突き詰めて言うと、

「既得権益を打破すると言われて進められた『岩盤規制の緩和』そのものが、既得権益である可能性を象徴的に表していること」

 です。

 だから、これはとてもとても重要な問題なのです。



 まず、この問題で「従来的な規制緩和論」の「岩盤規制をかける者」として想定されているのは「文部科学省」でしょう。

 そして、「既得権益」として想定されるのは「既に獣医学部のある大学」ということになります。

 で、文部科学省の張っていた「岩盤規制」が「緩和」されると、「既に獣医学部のある大学だけが持っていた獣医学部をやるという既得権益」が打破されて、「他の大学にも獣医学部をやるチャンス」が巡ってくる。

 そうなると、「獣医学部」の「供給」が増える。

 供給が増えると「獣医学部」の競争が起こって、経済的にも合理的になる。

 これが従来的な「岩盤規制を打破する」的な規制緩和論の筋ということになり、また、これがグローバリズムの「競争力」の筋にも繋がってきた。

(さらに言えば、この「規制緩和論」「グローバルな競争力」の筋は、「アメリカへ市場を開放することに対する屈服感を和らげる大衆的効果」とも繋がりがあったのです。)



 そして政治的には、こうした「規制緩和論」を「政治主導」で行うことが「民主的」で「合理的」で「正しいのだ」というような筋が張られてきました。

 しかしこれは、小泉政権、民主党政権を経て、おおむね失敗に終わったのが歴史であった。

 それでも、安倍首相ご自身を含めた「大衆」は、もはやこの「規制緩和」「政治主導」の「物語」を無自覚レベルで大前提しているので、国家戦略特区のような政策も大して違和感なく受け入れられてしまっていたのです。



 しかし、加計学園問題では、その従来の規制緩和論で「敵」と想定されていた「規制をかける者側(官僚側)」が反逆を起こした。

 それが前川喜平元事務次官ということになります。

 これは画期的なことなのです。

 だって、「岩盤規制を緩和する者としての官邸と専門家(政治主導や産業競争力会議的なモノ)」に対して「岩盤規制を敷く者(官僚や産業構造)」が刃向かう……というストーリーは、他で見たことがありません。

 私は純粋に、この「岩盤規制を敷く者(官僚や産業構造)」が「岩盤規制を緩和する者(政治主導や産業競争力会議的なモノ)」へ刃向かうところを応援したいと強く強く思うのです。



 もちろん、加計学園問題についてそういう応援の仕方をしている人はまれで、単に「安倍首相が気に食わない」というモチベーションで叩く人間が多数であることは承知しています。

 また、そうした連中は「安倍叩き」と同時に「官僚叩き」「自民党叩き」「既得権益叩き」にも「ヘイト」を燃やすことも承知しています。

 が、単なる安倍叩きのヘイトでも、上記ストーリーを完成させる力学となるならば肯定的に見ておこうとは思えます。

(※そこが、この問題の森友学園問題とは違うところです)



 逆に、ここで前川氏の人となりを「天下りモノだ」とか「出会いバーに行っていたヤツ」などとして文句をつけ、安倍擁護に回るのは卑怯です。

 というのも、(第一に「天下り」がそんなに悪いことであるとも思わないというのもあるのですが)ここではこの人自体がどのような人物であるかは関係がない。

 前川氏が「かつて文部科学省のトップであった」という事実は事実なのであり、その上で加計学園問題の「官邸の意向だ」という文章について知っているというなら、それだけで重大な証言と言えますでしょう。

 そんなに嘘だというなら証人喚問すれば良いのです。



 あるいは、「中国からカネを貰っているに違いない」みたいな話に至っては言いがかりでしかありませんね。

 こうした前川バッシングは「ホシュの安倍擁護」に加えて「規制緩和論擁護」の力学も織り交ざっているように見えます。



 ◇◆◇



 もっとも、私は「証拠不十分」や「これでは首相の責任とまでは言えない」という筋での首相擁護ならば、論理的には整合すると思うのですよ?

 しかし、規制緩和論を前提にした人間が、安倍擁護のホシュ派に媚びを売るように「前川氏は中国、韓国からカネをもらっているに違いない。それだけ安倍さんが怖いのだ」みたいなことを言うのは、まったく噴飯ものと言う他ないのです。


(了)


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Janre: 政治・経済

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北朝鮮は核開発をしているから国際社会の敵なのか?   

 
 北朝鮮がミサイル実験を繰り返しています。
 
 これは隣国である我々日本人目線にとって脅威であることは間違いない。
 
 また、現在の日本の北朝鮮に対する最重要項目は「拉致被害者を取り戻そうとすること」です。
 
 そして、優先順位としては「今、日本にいる日本国籍を持った人間の生命と財産を守ること」はその次であるべきでしょう。
 
 すなわち、太陽視点で言えば、
 
「たとえこちらにいる日本国籍人が何万人死のうとも、拉致被害者数百名を取り戻そうとする」
 
 という態度が、北朝鮮の拉致が判明した後の日本国家には求められていた。
 
 
 ただ、これが「国際社会目線」ということを考えると、北朝鮮のミサイル実験や核開発の何がイケナイことなのかよくわからない部分がありますでしょう。
 
 だって、地球上で核ミサイルを持っている国家は、アメリカを筆頭にわんさかあるわけです。
 
 何故、北朝鮮が核兵器を持つことが国際社会にとってイケナイことなのか。


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 例えば、今から十数年前、私がまだ学生だった頃にイラク戦争というのがありましたけれど、あの時、何故「イラクが核兵器を持つことが悪だ」みたいな話になっていたのか。
 
「大量破壊兵器を持っているに違いない」
 
 と言ってアメリカがフセインを滅ぼした後、結局イラクから大量破壊兵器は見つからなかったというのが歴史でした。
 
 が、たとえイラクが核ミサイルを持っていたのだったとしても、それの何が「悪」だったのでしょう。
 
 その基準で言ったら、世界最悪の「極悪国家」はアメリカ合衆国だということになるじゃないですか。
(その意味では正しい基準なのかもしれませんが)
 
 
 
 ただ、よくよく考えてみればそりゃあそうなのです。
 
 だって、「核兵器の保有国」は、まだ核を持っていない国に対しては核を持たせないようにしたいと思うに決まっているからです。
 
 当然ながら、「核保有国」の「核を持っていない国」に対するアドバンテージは、「核を持っていない国が、核を持っていないから」存在するのです。
 
 そういう意味で、「核不拡散」という都合は、原理的に言って「核保有国の都合」であるわけ。
 
 言い方を変えると、核不拡散は核保有国の核による脅しによって成されてきたということでもある。
 
 
 
 でも、それは核保有国視点から見た都合でしょう。
 
 核を持っていない国家からすると、なんとか核を開発して核保有国の言うなりになるのを避けたいと思うに決まっている。

(日本とかいう国はそう思わんらしいくて、「政府が核を持つと自分が国家により制限される可能性が上がってイヤだ」という大衆の請求が国家主権として発揮されているようですが)
 
 まあ、これも核を持っていない国家の都合だから必ずしも善とは言われないかもしれないが、必ずしも「悪」とも言われないはずでしょう。
 
 
 
 だのに、何か中立的社会として想定された「国際社会」なるものが「核を持っていない国家が核を持つ」というだけでこれを「悪」とみなすのはちゃんちゃらおかしい。
 
 それは、その「国際社会」なるものが実は単なる「国際社会の強者(核保有国)の都合」(とりわけアメリカの都合)であるからだと見なさないわけにはいかなくなる。
 
 すなわち、この場合「国際社会」は、
 
「現在強いことになっている国家に対して、弱い国家が力で逆らおうとすること」
 
 を「悪」としていることになるのです。
 
 
 ・
 
 
 この「国際社会の強者(核保有国)の都合」を前提として、北朝鮮ミサイル実験を非難する連中を私は信用しません。
 
 そもそも北朝鮮だって国家なのですからミサイル実験をすること自体はなんらおかしな話でもないのです。
 
 経済制裁を解除せよ、さもないと……という脅しをしているから悪というのもおかしくて、そもそも「北朝鮮の核開発に対する、アメリカを中心とした経済制裁」が核保有国側の不当な抑圧だというあちらの言い分は一理あるかもしれないでしょう。
 
 
 
 だから、我々は北朝鮮のミサイル実験そのものを「国際社会への挑戦」として非難することはできないのです。
 
 我々ができるとすれば、

1「北朝鮮そのものが問題ある国家である」

 ことを言った上で、だから、

2「問題ある国家が核を保有するのは問題である」

 と論理付けなければならない。

 また、北朝鮮が問題ある国家であることは拉致問題を言えば事足りるのであり、「社会主義だから」とか「民主主義じゃないから」とか、そーゆー民主的な筋に足をすくわれるのもヤメテ欲しい。



 繰り返しますが、我々は北朝鮮の「核保有そのもの」を悪として非難することはできないのです。

 もし現時点の我々がアメリカや中国のような核保有国であればそれでよいかもしれません。

 が、我々日本国家は「これから核を持っていこうとするべき国家」なのですから、新たに国家が核保有することそのものは否定すべきではないのです。

「北朝鮮に問題があるから、問題のある国家が核を持つのが問題である」

 という筋立てが、(少なくとも我々日本人の間だけでも)是非とも前提されるべきなのであります。

 また、そこがアメリカと日本の

「利害が一致しない点」

 であると想定されるべきなのです。


(了)

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Janre: 政治・経済

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共謀罪法案には賛成しておくべき 

 そういえば私は、共謀罪(テロ等準備罪)は方向性として大賛成です。

 そのあたりは、保守系の人たちと意見は一致で、

「真面目に審議をやっていないのは野党だ」

 というふうに見える。


 野党が真面目にやっていない……という意味は、彼らが「法案そのものを拒絶する」ことに固執し、駄々をこねるのみだからです。

(だからと言って安倍政権を支持しなきゃならんという話ではありませんよ。第一、「自民党総裁の入れ替わり」という道もあるのですから、「野党がダメ」→「安倍支持」というのは論理的におかしい)


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夜月


 確かに、共謀罪にはそれなりの危険性があるように思われます。

 組織的テロ犯罪と言えど、警察権力へ「犯罪前の捜査」の権限を与えるわけですから、国民のプライバシー権や、場合によっては表現の自由も毀損される可能性もないともいわれないでしょう。



 しかし、世の中にはこうした「個人の人権」以上に大切なものはあるのです。

 個人の人権より大切なものとは、「日本国家全体を存続させる」ことです。



 ならば、もし共謀罪が「国民の個人のケンリを毀損する可能性」と引き換えに「日本国家全体を存続させる」ことに資するものであるならば、政府はそうすべきなのです。

 何故なら、政府の最終目的は「日本国家をこの先も千年存続させること」だから。


 ただ、もちろん「日本国憲法」を字面どおり解釈すれば、この方向は許されません。

 日本国憲法は「基本的人権のための国民主権」を謳っているのであり、

「日本国家の存続」<「一人一人のケンリ」

 という姿勢を、政府へ強いるものである。


 だから、一人一人の日本国籍民によって日本国憲法を押し付けられている日本政府は、なんとかこの日本国憲法を誤魔化して解釈して、

「日本国家の存続」>「一人一人のケンリ」

 という態度を活かそうとしなければならない。

 まだ日本政府が存在すると解釈するならば、そういう位相があって然るべきはずなのです。



 そういう意味で、国家は、政治権力によって「通常の刑法を超えた秘密的な取り締まり」をやらなければならないはずなのです。

 共謀罪(テロ等準備法)は、基本的人権を最終目的とした通常の刑法から見れば異質ですが、「国家に通常の刑法を超えた秘密的な取り締まりが必要である」ことを認めればごく当たり前の話になりますでしょう。

 こうした話は、たとえば「スパイ防止法」などとも共通する話です。



 もちろん、これは「方向性として正しい」という話であって、「安倍政権の共謀罪」に法律的な精度の甘さなどがあるとすれば、修正を求めるべきでしょう。
(細かな法律的なことは、私には難しくてよくわかりませんが)

 また、個人の人権は「政府の最終目的であるべきではない」というだけで、近代国家を成り立たせるために大切なものではあります。

 ですから、法制上、個人の人権へできうる限りの配慮を施す努力は求められるべきでしょう。


 しかし、共謀罪のような法制を肯定する「政府観」をもっておくことは、それなりに大切になってくると思うのです。

 それは、憲法改正や教育基本法改正の「方向性」そのものだけは、(安倍政権が行うこれらの内容の良し悪しとは別問題で)一声認めるべきだというのと同じなのです。



(了)


Category: 時事:共謀罪(テロ等準備罪)

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Janre: 政治・経済

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憲法問題と属国民のホンネ 

 
 そもそも私は、日本国憲法というシロモノが大っ嫌いなのですが、まずここでその「私なりの憲法の嫌い方」というのを簡単に開陳しておくのも、無駄なことではないでしょう。
 
 と言うのも、世の中の多くでされている九条二項の「非武装、不交戦」と、前文二段落目の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、我らの安全と生存を保持しようと決意した」という二つのポイントは、別に日本国憲法における腐食の震源地ではないと考えるからです。
 
 そして、私から見ると、九条二項や前文二段落目の「平和を愛する諸国民……」の方ばかり論じられて、その腐食の震源地があまり論じられていないというのは、少なからず不満なのです。
 

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 ピストル

 
 確かに、九条二項の非武装、不交戦は激烈なものがありましょう。
 
 でも実際、今の日本も戦車や鉄砲で武装しているし、平和を愛する諸国民などと本気で信じている者はリベラルですらごく少数だと思います。
 
 リベラル……というより、多くの現代日本人は、「徴兵される確率を一パーセントでも下げておきたい」というような下等な心持ちから、「日本国憲法によって政府を制限しておきたい」と考えていやがるだけでしょ?
 
 だから、自衛隊が国民(自分)の安全と生存を護衛してくれる領分については、リベラルも現代日本人も強いて反対はしないのです。
 
 そんな中、安倍首相を含めて現在の保守の滑稽さは、架空のサヨクを敵に見立て「この憲法では国民の安全と生存を守れない!」とやるところだと思います。
 
 
 
 すなわち、現代の日本人ですら、九条二項と前文二段落目だけはお題目として、実質的にある程度無視する……というような(狡猾な)常識は持ち合わせているのです。
 
 これは現代でも、保守も、リベラルも、フツーの人も、おおよそ一致して、暗黙に了解していることです。
 
 そりゃあそうですよ。
 
 だって、「九条があるけど、外国が攻めてきたらどうするの?」くらいのこと、小学生だって思います。
 
 でも別にそれは「立派な常識」などではなくって、単なる反射的な「生き残り勘定」でしょう。
 
 問題と言えば、まずここが問題なのです。
 
 つまり、現代の日本人も、「外国から攻められた時には、国民(自分)の安全と生存を守れ!政府!」と請求することだけは余念がないということに過ぎないということ。
 
  そしてそれは、自衛隊の最大目的を「日本国民一人一人の安全と生存を守る」ことへ置くことを前提とするような態度を容認してしまうことにもなりかねません。
 
 そもそも、生命以上の価値を設定せず、こうして自衛隊を「公営用心棒」のように前提する仕方は、「日本人の生命によって日本人の生命を守る」ということに最終的な正当性を見出だしえませんから、してはならないやり方だと思うのですが……。
 
 
 
 ただ、このような不道徳な常識の上ではありますが、日本国民は現在であっても「九条二項と平和を愛する諸国民の前提はある程度無視する」という暗黙の了解の上で日本国憲法を使っている。
 
 すると、もし、日本国憲法の根幹が、九条と平和を愛する諸国民にあるのだとすれば、別に憲法がこのままでも問題はないということになりますでしょう。だってそこはある程度無視して使っているんですから。
 
 不都合があれば、内閣法制局の解釈でもっと無視してゆけばいいだけということになる。
 
 
 
 ただ、それでも日本国憲法がクソッタレ憲法なのは、平和を愛する諸国民のタテマエの、さらにもう一つ奥に別の重大な「腐りの震源地」があり、それが我々の『属国民のホンネ』とも言うべきものにとって極めて都合のイイものだからです!
 
 
 
 なるほど、みなさん前文でも二段落目の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、我らの安全と生存を保持しようと決意した……」という部分についてはいろいろおっしゃる。
 
 しかし、ならばそもそも、このあまりにも有名な「平和を愛する諸国民……」という部分は、一体どういう文脈の上で書かれなければならなかったのでしょうか?
 
 当然、ある文章の二段落目を理解するためには、一段落目を読めば良いのです。
 
 そして、前文一段落目の核心部分はここにあります。
 
《政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。》 (日本国憲法・前文 第一段落目)
 
 ここです!ここです!日本国憲法はこのテーゼから始められているのだし、憲法全体のキモ中のキモ、核心中の核心、腐食の震源地もここなのです!
 
 そして、これは「属国民の刻印」とも言うべき「魔の裏取引」の言葉なのです!
 
 
 
 そもそも、(普遍的な体を取り繕おうとはしていますが、)これはどう解釈したって、先の大東亜戦争を指さして言っているとする他ないでしょう。
 
 つまり、『二度と戦争の惨禍が起こらぬよう』と言っているそれは、どう考えたって「大東亜戦争」を引き合いにして言っているのであり、また、その『政府』とは、「大東亜戦争を主導した政府のこと」とする他ない。
 
 すると、もう少し丁寧に表現し直してやればこういうことになりますでしょう。
 
「悲惨なる大東亜戦争を引き起こすような日本の悪い政府は『何者か』にやっつけられて、(平和を愛するはずの)非政府の日本国民はその悪い政府から解放され、解放された人々全員に主権があると確認された」
 
 と。
 
 
 
 ここでとりあえず、有名な憲法前文二段落目「平和を愛する諸国民」のタテマエが、何故必要とされたのかを考えてみましょう。一段落目→二段落目と読み進むのですから、これが正当な順序でしょう。
 
 そもそも、一段落目の「政府の行為によって戦争の惨禍が起こらないようにするよう、国民に主権が存することを確認し……」という裏取引を成立させるためには、「国民に主権があれば悪い戦争は起こらない」という前提が絶対に必要になりますね。
 
 すると、他の国家も「国民に主権がある限り悪い戦争は起こらない」ということにしなければ済まないじゃあないですか。
 
 そうでなければ、日本国民だけがとりわけ平和を愛しまくる国民という話になってしまう。
 
 ならば必然的に「あらゆる国家で、国民に主権がある限り悪い戦争は起こさない」=「あらゆる国家の諸国民は平和を愛する」ということになる。
 
 そして、それでも戦争が起きたのはそうした諸国民の「公正」と「信義」を「信頼」しない日本の「政府」があったからだ……という意味になるのです。
 
 また、これは暗に、「アメリカは民主主義の国であり、国民主権であるから普通にしていれば戦争を起こすはずはなく、日本の「政府」が侵略のために平和を愛する日本国民を戦争に駆り立てたから、アメリカとも戦争になったのである」という理論を支えていることにもなります。
 
 
 
 つまり、この有名な前文二段落目の
 
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した」
 
 という文は、一段落目の
 
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
 
 の流れの上で、これを強く補足するものとしてあるはずだということ。
 
 
 
 要するに日本国憲法というのは、第一にGHQが「アメリカは、『平和を愛する日本国民』を、『戦争を起こす悪い日本政府』から解放した『解放軍』なのだ」と言いたい都合のためにしつらえられたもののはずなのです。
 
 でも、そのこと自体は別にどーでもイイこと。
 
 憲法前文は完全無欠にGHQが書いたものを直訳しただけなんですから、これがアメリカにとって「認めさせたいストーリー」から書き始められているというのは、ごく自然かつ当たり前のことでしょう。
 
 
 
 問題は、第二に、これが日本で生き残った「非政府の日本人」と「その子孫たちすべて」にとっても、一種都合の良いストーリーである可能性があるということです。
 
 その可能性とは、『戦争を起こす悪い日本政府』から解放された側の『非政府の国民』として解放民としての(属)国民主権を謳うことに、ウマ味を感じていやがるという可能性です!
 
 つまり、「解放軍の都合」と「解放民の都合」が合致して、あらゆる瞬間瞬間の戦後日本国籍民とGHQとの間で断続的に「裏取引」が成立してしまっている可能性。
 
 
 これは恐ろしいことです!
 
 
 そもそも、このストーリーを完全に呑んでしまった時点で、我々は『敗戦国民』から『属国民』へと成り下がるわけでしょう?
 
 でも、このストーリーは、我々にとって蜜のごとく甘く、真綿のごとく重たく、傾国の美女のごとく媚びついて、これを保持するためならばあらゆる道徳をズルズル手放してしまえるほど魅力的です。
 
 クセになり、いつの間にか「決して手放したくない」と思う麻薬のようなストーリー。
 
 そして、七十年もたつと、慣性の法則によって、これが当たり前の基準と前提されてしまうようにもなる。
 
 また、このストーリーに反しないという基準の上で道徳がしつらえられるから、かつての道徳が不道徳に、かつての不道徳が道徳に……と、道徳の価値反転現象が起こってくる。
 
 道徳は暴力と切り離され、薄っぺらになり、人間は安っぽくなる。
 
 何故こんなことになるかと言えば、このストーリーが「属国民として安全と生存を保持するため」には極めて都合が良いからです。
 
 あえて、「悪い政府」をやっつけた『何者か』を強調しさえしなければ、『何者か』の暴力的背景の加護の下(あるいは『何者か』をも包摂すると空想された地球、集団安全保障的な国際社会なるものの加護の下)、我々は解放民としての(属)国民主権を謳い続けることができるのですから。
 
 さらに言うと、属国民主権としての最大のウマ味とは、「自分たちで組織した政府によって、暴力に関係する道徳を判断しなくても済む」という怠惰のウマ味です。
 
 そもそも、「暴力に関係する道徳を自分たちで判断するために、国内の最大暴力機関を背景として政府を形作らなければならない」というのが独立国であることの一番の大変さであるわけです。
 
 だが、属国民でありさえすればこれを最終的に政府によって判断しなくても『何者か』が基準を決めてくれるから楽チンというわけです。
 
 でも、これでは人間として死んでいますでしょう。
 
 
 
 私は、この恐ろしさを、昭和時代までの日本人はどこかで察知していたように思われるのです。つまり、「自分のホンネがもしそのような邪悪なモノから来ているのであったらどうしよう……」という恐れです。
 
 これが、昭和期の日本人の、良心と換算して然るべき『常識』というものだったのではないでしょうか?
 
 そして、月視点でこのことを望めば、この常識が霧散した時点で日本は敗戦国から属国に成り下がったのであり、属国に成り下がるということは長期的に見て日本をあきらめるということなのです。
 
 
 
 ・
 
 
 
 上記のごとく、天地に誓って日本国憲法はクソったれ憲法です!
 
 何故なら属国民のホンネにとってこんなに都合のイイものはないからです。
 
 
 
 だから、「このままなんとなく日本国憲法を容認する」という態度だけには抵抗しなければならない。
 
 でも難しいのは、昨今保守派に跋扈するような「日本国憲法を変えれば何かが良くなる」という雰囲気に流されるわけにもいかないということ。
 
 と言うのも、大事なのは「属国民のホンネに逆らうこと」であり、その「改憲」がより属国民のホンネを延長させるためのものであったなら、それは「日本国憲法をより日本国憲法にしている」だけだからです。
 
 たとえば、「9条2項を維持して自衛隊を明記」などという安倍首相の改憲案などはまさにそれです。
 
 これは、「属国民のホンネの都合を補強している」ことであり、すなわち「戦後レジームを補強している」ことに他なりません。
 
 
 
 繰り返しますが、大事なのは「属国民のホンネに逆らう」ということなのです。
 
 改憲の基準はそこにあるべきであり、属国民のホンネに逆らう改憲が「良い改憲」であり、属国民のホンネを補強する改憲が「悪い改憲」なのです!
 
 
 
 ただ、法律上ではこれは無理なのだということはわかっています。
 
 何故なら、日本国憲法には改正条項というのがありますが、ここでは最後に時の国民に対して国民投票にかけることとなっている。
 
 すなわち、国民投票で過半数を得るような改憲しか、法律上はなされないのです。
 
 
 
 しかし、その「時の国民」に対して「属国民のホンネ」という話をしても、みんなニヤニヤと話を逸らしたりしてゴマカすでしょう。
 
 ゴマカしておかないとみんな心が壊れてしまうから。
 
 すると、「属国民のホンネに逆らう改憲」というのは、法律上では論理上、絶対不可能ということになってしまう。
 
 我々は国家が霧散し切るまで属国民をやり続けるほかないということになってしまう。
 
 
 絶望というのは、こういうことを言うのです。
 
 
 ただ、それでも日本をあきらめない以上、我々は我々自身の『属国民のホンネ』と闘い続けなければならないのですけれども。


(了)

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加計学園問題は、安倍政権が「政府の国家権力を放棄する」問題である 

 世論では、何か

「安倍政権が強権を振るって政府機関を扶養し、我々国民(自分)を圧迫している!」

 という筋での「不満」を述べ立てる者があります。

 あるいは逆に、

「安倍政権が強権を振るって政府機関を扶養し、我々国民(自分)を守ってくれているのだ」

 と擁護する者もある。



 しかし、それは両方間違っているのです。

 だって、安倍政権のおおよその実際は、

「強権を振るって、政府機関から権力を剥奪している」

 のですから。

 そして、こうした「政府機関から権力を剥奪すること」は、実のところ国家そのものを毀損することでもあるから「問題」なのです。

 ここらへんのところ、よくよく考えていただきたいところです。


(ちなみに、これを「安倍政権は、政府機関から権力を剥奪しているから良いのだ」という連中もいるので話がややこしくなる。と、言うか、こういうやつが一番多い気もするし、私が一番ムカつくのもこういう連中)


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炎


 まず、世論の大衆的気分としては、以下の前提がほぼ無自覚に敷かれています。


1 国家権力や政府機関からは、その権限を剥奪した方が民主的で楽チンできる。

2 時の政治権力は、国家権力や政府機関を扶養しようとするもので、これによって個人が国家に縛り付けられてしまいそうで嫌だ。 

3 故に、強権的な政権は、国家権力、政治権力を扶養しようとする。これが嫌だ。


 ……そういう物語を前提しているから、「手続き的に強権的な感じのある安倍政権」については、当然、「国家権力、政府権力を扶養している者」として捉え、その前提の上で「支持」だの「不支持」だのと騒いでいる。

 しかし、それはまず前提が間違っているから、ちゃんちゃらおかしな話になっているわけです。



 例えば昨今、加計学園問題というのが持ちあがっていますが、あの問題の筋は、

「文科省という政府機関の、『今、日本国家で獣医学部の増設が必要かどうか』の判断と設立許可を施す集権的国家権力」

 を、首相の地位を利用して都合のいいふうに剥奪したんじゃねえの?……という疑惑でしょう。

 つまり、

「規制緩和」=「政府機関が国家権力を手放すこと」

 を、首相の都合の良いふうにしたんじゃないの?……という疑惑じゃないですか。

 これを国家戦略特区という「一定区域において強権的に国家権力を手放すことができる」という政策を利用して行っている……という話なわけでしょう。

(つまり、竹中平蔵のパソナが戦略特区を利用して外国人家政婦を派遣している筋と同様なのです。)


 ・


 だから、加計学園問題は「規制緩和論者」や「規制緩和という言葉を知らなくても、その物語を前提している大衆」からも「安倍擁護」の力学として現れるのであります。

 故に、案の定あまり燃え上がっていない。

(リベラルはリベラルで共謀罪でもちきりですし。)

 大衆動向として森友学園と違うのはそこらへんなのです。

 何度も言っていますが、「森友学園問題は大衆にとって都合が良いもの」で、加計学園問題は「大衆にとって都合の悪いもの」なのです。

 森友学園問題を騒げば「戦前コスプレ保守」を「踏み絵」にして政府が国民(自分)を制限してくるのを牽制できる……という「大衆的都合の良さ」があるわけですが、加計学園問題を騒ぐとこれは今まで自分達が請求してきた論筋上の疑獄であるから大衆的に都合が悪いのです。


 ・


 この大衆力学に抗うためには、安倍政権一般の問題が、

「強権を振るって、政府機関から権力を剥奪していること」

 だという根本的な理解が必要になります。

 それはすなわち、「安倍政権の問題」とはイコール「平成の大衆の問題である」と反省することと同義なのです。



 ……もちろん、誰もそんな反省はしないに決まっているでしょうけれど。


(了)

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SNSをやめよう 

「タッチパネルじゃないのはグローバル市場から見ると日本市場のガラパゴス化だ!」

 ……などというグローバル企業と経済ジャーナリズムのゴリ押しキャンペーンによって、大量の大衆から「選好」(?)されていったスマートフォン。

 それと共にTwitterやFaceBook、インスタグラムなどのSNS(ソーシャルネットワークシステム)の利用も急激に増えていきました。

 しかし、昨今では「SNS疲れ」などということが言われたりもしているそうですね。

 事実、冷静な生活的個人としてこれを外から見れば、SNSに溢れるゴミ溜めのごとき通信や情報ほどおぞましいものはない……と感じる場面は多々あるでしょう。



フラミンゴ



 そもそもSNSに限らず、高度情報化は、

A「生活上の便宜で通信する私」

 というところから、

B「不特定な個人として通信する私」

 というところまでその領域を広げてしまいました。



 例えば、このブログを書く私は、みなさんからすると不特定の個人でしょう。

 また、私からしても、みなさんは本来通信の前提としてあるべき「生活的繋がり」の無い、不特定の個々であります。

 つまり、不特定の個人として、不特定の個々へ情報を提示しようと試みているのがブログというものの振るまいなのです。



 で、このような

「不特定の個として情報にアクセスし、不特定の個々と繋がりを持つ私」

 というのは、めちゃくちゃ「大衆人」の性質を保有するものなのです。



 というのもブログを書く私や、読むあなたは、今この瞬間は土地性、生活性、身体性から浮遊しているでしょう。

 このように浮遊したバラバラの自意識を「大衆人」というのであり、それが砂鉄のように大量に群れる現象を「大衆現象」と言うのであります。



 ですから、ブログというのも実はそういう邪悪さを持ったものなのです。

 だから私は去年、それなりに大事に思ってきたこのブログをもうやめてしまおうかとも思っていたのであります。

 ただ、IT社会化をどれだけ憎んでも、今日に至っては現代人としてIT社会化から逃れられないようです。

 それは、車社会から逃れられないのと同じごとく逃れられないのであり、いわば徴兵のようなものでしょう。

 そして、ブログというのはSNSに比するとまだマシだと思われるところもあったので、こうして再び書き出しているというわけです。



 ちなみに、「ブログのマシなところ」とは、いわばこれが自分の「城」であるという点です。

 ブログを書く私は、土地や生活から浮遊してはいるものの「群れる」必要はないでしょう。

 その点、まだマシである可能性を残しているんです。


 ◇◆◇◆◇


 対して、SNSは、いわば「とりわけ男女の出会いを想定しない出会い系」のようなものです。

 そもそも男女関係に関してならば、「出会い系」や「街コン」などの不特定多数の大衆市民的文脈は軽蔑されるものとして想定されるでしょう?

 当然、地元の繋がりや学校、職場といった生活上の文脈から発生した男女関係の方が正当で上等な関係に感じられるはず。

 でも一方で、みんな「社会的なネットワーク」をSNSの「出会い系的システム」で構築することの大衆市民性をおぞましく感じない様子なのは、まったく不思議なことです。



 本当にそこらへん、よくよく考えてみていただきたいのです。

 例えば、恋愛において考えれば、土地や生活や身体性の「あらかじめの前提(運命)」から延びた文脈がなければ、実のところなんらの官能性すら生じないことは明白でしょう。

 それと同様、「社会的なネットワーク」というものも、土地や生活や身体性の「あらかじめの前提(運命)」から延びた文脈がなければなんらの活力も生じないに決まっているのです。

 運命から浮遊した個々の過剰な馴れ合いは、「馴れ合いそのもの」が目的化する他なく、偽善や欺瞞、あるいは偽悪やニヒリズムに堕落してゆくのは火を見るより明らかでしょう。

 それは、出会い系や街コンで知り合ったカップルほどわざとらしく「好き」を強調しなければならなくなるのとほとんど同じことなのです。



(つづく)

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再び日本海へ北朝鮮のミサイル~「国際社会視点」という欺瞞 

 昨日5月21日の4時59分ごろに、北朝鮮から弾道ミサイルが発射され、日本海に落ちたそうです。

 今回は日本の排他的経済水域の外であったとは推定されている模様。

 北朝鮮国営の朝鮮中央通信は今日22日、地対地中距離弾道ミサイル「北極星2型」の発射実験に成功したと報じました。

 これに対して日本では、安倍首相が「国際社会の平和的解決に向けた努力を踏みにじるものであり、世界に対する挑戦です」と強く非難した……と報じられています。


参考:
『弾道ミサイル「実戦配備承認」=「北極星2型」量産指示―発射成功と報道・北朝鮮』
時事通信 5/22(月) 6:57配信


参考:
『北朝鮮ミサイル 安倍首相「世界に対する挑戦」』
フジテレビ系(FNN) 5/22(月) 0:41配信



 ここで気になるのは、首相に限らず日本人全体が、北朝鮮の問題を「アメリカを中心とする国際社会」VS「北朝鮮」という視点で見過ぎだということです。

 でも、拉致の問題がある中、「アメリカを中心とする国際社会」の視点で北朝鮮問題を見過ぎるのは、「いま日本にいる日本国籍を持ったホモサピエンンス」が「拉致被害者」を「見捨てている」ということを意味する可能性は非常に高いでしょう。



 本当ならば日本は、日本の視点での「日本」VS「北朝鮮」の(敵対)関係を作らなければならない。

 隣国であるし、拉致被害者を取り戻さなければならないからです。

 この事情は、アメリカも国際社会も共有してはくれません。

 しかし、(果敢にも)世界に挑戦している北朝鮮目線で言っても、もはや日本は「アメリカのポチとして経済制裁に加わっているコバンザメ」に過ぎなくなってしまっている。

 これでは拉致被害者の「ら」の字も出なくなるのは当然の仕儀でしょう。



 でも、こうしたいわば「裏切り」の状況は「いま日本にいる日本国籍を持ったホモサピエンスたち」が「自分の安全と生存」を「保持」するためには、最も合理的でもあるのです。



 つまり、安倍首相が代弁しているのは、

「国際協調を言ってアメリカの後ろに隠れ、拉致被害者を見捨てておくのが自分の生命と財産を安全たらしめるのに最も合理的である」

 という狡猾な計算をうまくゴマカシて「それほど悪いことでもない感」を醸しておきたい……という大衆の都合なのです。


(了)

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Janre: 政治・経済

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国家戦略特区のガキ性 

 国家戦略特区のガキ性は、

 特定の区域で「政府が統治権力を手放す」

 ことによって、「グローバルな競争力をつける」

 という思想構造にあります。



 これは単に、

「労働者をコキ使えるように、労働者を保護する法律を緩和する区域としての問題」

 ということに留まらない。



 むしろ、平成で言われてきた「経済思想」を、集約して純粋化したものが国家戦略特区というものだというふうに見ておくのが適切なのです。



 そのストーリーは、「規制緩和」で日本の構造を改革して、経済におけるグローバルな競争に勝つ……というもの。

 そして、これは人生で一度も「規制緩和」「構造改革」「グローバリズム」などという言葉を使わなかったり、大して意味を把握していない者でも、

 社会人としての「処世」

 で、そのストーリーを前提して時事諸々を語ってきたのであります。

 その上、大衆はそのような前提で集約された「改革」が民主的に断行されてゆかないことに不満を述べ立てたりさえした。


ゴリラ



 平成大衆市民は、自分が恩恵に授かっている既得権益以外の既得権益を「ズルい!」と述べ立ててきました。

 で、「政治権力が既得権を構成し、経済合理性を阻害している」という経済ジャーナリズム的な物語を好む。



 また、国内の既得権益の打破の理論は、常にグローバリズムを引き連れてきた。

 この辺りは、「日米構造協議」や「年次改革要望書」など以来の関係性であるから、

「冷戦構造が弱まった中でも、徴兵される確率を1%でも下げておきたいからアメリカに軍事依存しておきたいので、市場開放で屈服しておこうとする力学を、グローバリズムの想定でゴマかしておく」

 ために、規制緩和の方向性に合理性を付与してきたのかもしれない。


 なので、

1 「規制緩和構造改革で既得権益を壊したい」→「グローバリズム」

2 「グローバリズムで徴兵される確率を1%でも下げておきたい」→「規制緩和、構造改革へ合理性を言う」

 という二つの大衆力学が、この方向性を押し進めていった。

 少なくとも、私には平成という時代はそのように見えた。



 そして、この平成の時代を用意したのは、丸山正男的な「日本的な組織を脱して、近代民主主義の合理性を極めるべき」という民主主義的なインテリ思想でもあった。

 政治における民主主義の徹底は、経済における民主主義の徹底とほぼ構造としては同じなのです。


 ・


 しかし、よくよく考えてみれば、真の日本の庶民の生活は「政治的な既得権益」の中にあったのです。

 各地方共同体や産業の構造に「政治的既得権益」として残された「封建的前提」が、政治の基盤になり、市場経済の土台にもなっていた。

 そこから切り離された「バラバラな大衆」は、原理的に言うと「どうなってもいい者」でしょう。

 だって、国民が国民であるのは、国民的な慣習を土地や共同体、組織などに埋め込まれて存在しているからであって、そこから切り離されて「バラバラの大衆」と堕したならば、「単に日本国籍を持った人間」ということになるから、そんな連中が別に死のうが生きようがどうでもイイじゃないですか。


 ・


 第一、既得権を打破してそこから個人として自由になりたい……だんて思想を好むのは、10代後半から20前後のガキの仕方というものです。

 10代後半から20前後のガキは、自分を縛る前提がいかに不合理であり不条理であるかという屁理屈を述べ立て、そこから自由になりたいということばかりを請求するものでしょう。

 子供なら仕方ありませんが、それを大人になっても続けているのが「平成の大人」なのです。



(了)

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Category: 時事:加計学園問題

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Janre: 政治・経済

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加計学園問題でこそ安倍叩きをやるべき! 

 私は、森友学園問題での安倍首相叩きの方は、その騒ぎ方に「卑劣」なものがあったと思っています。

 それは別に安倍首相や森友学園を擁護したくて言うのではなくって、疑惑の筋そのもののショボさに反比例してあれだけ騒ぐということは「コスプレ的な戦前を踏み絵にして、政府を制限し、国家に縛られないようにしておこう」という大衆の都合の力学がその背景にあったようにしか見えないからです。

 それは本当に、(汚い言い方ですみませんが)ウンコみたいな精神集合体なのですよ。



 しかし、一方。

 第二の森友学園問題とも言われる

「加計学園問題」

 は、騒ぐべきです!

 これで安倍首相を叩くべきです!

 積極的に「炎上」すべきです!



 そもそも、森友騒ぎで安倍内閣が潰れても潰れなくても何一つ意味なんてなかった。

 が、仮に加計学園問題で安倍内閣が潰れれば、これは日本国家にとって大きな意味を持つでしょう。

 また、もしこれで安倍内閣が潰れはしなかったとしても、加計学園問題が騒がれる「度合い」は森友学園騒ぎを凌駕しなければならないはずなのです。


月光工場


 もっとも、現時点ではこの加計学園問題とて、確かに疑獄の筋としてはショボいし、朝日新聞の「文科省内部文書」とやらが本当かどうかは知れない。

 でも、たとえ内部文書がどうであっても疑獄の筋は残るのです。

 また、証拠というのは本当とエセが混ざるものでもあるはずで、仮に一つがエセだからと言って、その次が本当でないという話にはなりませんでしょう。

 それに、日本国民は森友学園であれだけ大騒ぎしたのであるから、当然、これくらいの無理筋でも同等に騒いでもらわなければ困る。



 森友学園は、無理筋な疑獄を騒ぐことで「戦前コスプレ右翼」を「踏み絵」にして「政府を制限」して「徴兵される確率を1%でもさげておこうとする」みたいな「無自覚的な大衆の都合」の力学が確かにあった。

 ならば、加計学園の無理筋な疑獄でも、「国家戦略特区」を「踏み絵」にして「規制緩和、構造改革、自由貿易主義的なものを反省しておこう」という力学にすることは理論上『可能』なはずです。


 ・


 ただ、もちろんこれは「理論上には可能」ということであって、おそらく「加計学園問題」は「森友学園問題」に比して100分の1くらいにしか燃え上がらないでしょう。

 何故なら大衆にとって、

X「戦前コスプレ右翼を踏み絵にして政府が個人(自分)を制限しないように牽制する」

 ことの方が、

Y「国家戦略特区を踏み絵にして規制緩和、構造改革、自由貿易主義的なものを反省する」

 ことよりも100倍気になることだからです。


 すなわち、この砂鉄のようにバラバラな大衆の個々の無自覚な都合上、

X:Y
 =
100:1
 =
「森友学園問題の燃度」:「加計学園の燃度」

 というくらいなもんでしょう。

 本当に、どーせその程度なんです。



 私は本当に、こうした大衆クソ力学をどうしたら駆逐できるか……という類いのことばかりを考えているのです。

 もし仮に万が一、加計学園問題が森友学園問題騒ぎ以上の炎上の体を見せたら、そういう意味でも大きなことだと思います。


(了)

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名目成長率0で実質成長率が0.5でデフレだなあ……というだけのこと 

 昨日18日に、内閣府が2017年1~3月期のGDP速報値を発表しました。

「名目成長率は前期比マイナス0.0%」

「実質成長率は前期比プラス0.5%」

 だそうです。


工業



 これは直近の3ヶ月間のGDPが、前の3ヶ月に比べてどれだけ伸びたか?……ということだから、いちいち年率に換算されたりします。

 だから、

「年換算すると実質は2.2%伸びたよ」

 というふうに報道される。
 ので、ワケわからんふうになる。


・GDP実質2.2%増 1~3月年率、輸出けん引
http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXLASFS18H0G_Y7A510C1MM0000/

・GDP1─3月期年率+2 .2%、5期連続のプラス成長
https://newspicks.com/news/2250312



 ・



 それから、

「実質」成長率というのは「物価変動を加味したGDPの前期比較」

 という意味。

「名目」成長率というのは「額面どおりのGDPの前期比較」

 という意味です。



 だから、「名目成長」=「普通にお金の額面どおりの成長率」でいけば直近の三ヶ月はゼロ成長だった。

 でも、物価が下がったから、物価を勘案すれば(実質では)0.5%伸びた……ということなのです。



 つまり、「デフレ」ということ。

 事実、

「GDPデフレーターは前年同期比マイナス0.8%で3四半期連続でマイナス」

 だそうです。



 ・



 これを、

「デフレで下駄を履かせてもらっているから楽観できない」

 みたいに言う人がいますが、それはまだまだ楽観です。

 何故なら、

「デフレ」
 =
「物価が下がる状態が続くこと」
 =
「実質成長率が名目成長率を上回るのが続くこと」

 そのものが問題だからです。

 まだまだ、あたかも「名目より実質の方が重要かのごとき誤解」を大前提する振る舞いは、みんなの思想にこびりついているように見えます。



 でも、大事なのは、物価を加味しない額面どおりの『名目成長率』の方なのです。

 すなわち、「物価を加味しない額面どおりの名目成長率」が「物価を加味した実質成長率」を上回ることなのです。



 ・



 ただ、厄介なのは、「金融緩和さえしときゃデフレは克服できるという前提で、財政出動には消極的な連中」=「リフレ派」も、「名目成長が大事」という線までは言うということ。

 直近で失敗しているので現今リフレ派はもう死に体ですが、リフレ派は「ちょっとしたら復活する」というしぶとい性質があるので、警戒が必要です。

 実質で成長すりゃあいい……という誤解は「デフレは問題ではない思想」の問題で、これはリフレ派の問題とはズレる。



 たから、デフレ克服の敵は、

1「経済成長はもうできない派(リベラル)」

2「デフレは問題ではない派(経済学者)」

3「金融緩和さえしときゃ良い派(リフレ派、ホシュ)」

 などなど多様にあるという理解が必要になってきます。

 彼らは「政府は無駄遣いするに決まってる」という不況時の大衆的反政府的気分を、代わる代わるに代表するのであり、だからこそ適切な財政政策が施されずデフレが長期化しているわけです。

 そう考えると、日本人は自業自得でデフレで苦しんでいるのであり、まさに「ザマーミロ」という話なのですが、これからの若者のことを考えるとそうも言っていられないですね。



(了)

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森友騒ぎと大衆の卑劣さ 

 
 まず、森友学園問題騒ぎを振り返るのに、
 
ブログ“The Midnight Seminar”様の
 
『森友学園問題を理解するための個人的なメモと、まとめ年表』
http://blog.midnightseminar.net/entry/2017/03/31/132501
 
 を紹介させていただきたいと思います。
 
 
 左右いろいろな説明が施されてきた森友学園問題ですが、あの渦中にあってこの記事がおそらく日本で最も冷静な分析をされていたと思います。
 
 ほんとうに素晴らしいまとめだと思いました。
 
 私がこのまとめを要約してしまうと主旨を損なう可能性があるので、是非直接ご覧になってください。
 
 
 
 ・
 
 
 
 ただ、ここで気をつけたいことが一つあります。
 
 たとえば、推奨したこの記事には一つコメントが付いているのですが、この無粋なコメントを見ればわかるように、ただ「そうであること」を「そう」と言っているだけの記事に対して、すぐに「在日がどう」「サヨクがどう」という話をして誤魔化す人間がいるということです。
 
 でも、この森友学園問題「騒ぎ」の本質は、「これだけショボいこと」に対してあたかも三流芸人のごとくオーバーリアクションを取りまくる「大衆」がこれほど卑劣で、醜く、浅ましく、滑稽であるということに尽きるのです。
 


 ・



 そんなふうに言うと、

「大衆はそこまで考えていない」

「実際に森友学園問題を騒いでいたのはリベラルやマスコミじゃないか」

 と、おっしゃる方もおられるかもしれません。


 しかし、そうではないのです。
 
 そりゃあ大衆の一人一人は、別にサヨクのように森友騒ぎで「ウヨク叩き」をやろうなどとは積極的に思っていないでしょう。
 
 また、(内閣支持率というのが「イコール大衆の支持率」だと前提すると)大衆は安倍内閣を大いに信任してさえいる。
 
 
 ただ、そもそも大衆が安倍内閣を信任する理由を象徴的にかいつまんで言えば、
 
「なんか戦略感を醸して屈服感をやわらげつつアメリカに屈服して、その上で自衛隊を重んじる」
 ことによって
「自衛隊以外の国民(自分)の生命と財産を守ってもらえそう」
 
 という計算が一人一人の大衆の心うちに、ほぼ無自覚的にあるからでしょ。
 
 さらに、中国やISや北朝鮮など対外的な脅威への不安が高まる中、この力学はさらに大きいものとなっているので、自然と内閣支持率も高水準を維持するわけです。
 
 
 
 ただ、その一方、大衆はこうも思っている。
 
 すなわち、国家に縛られたくない……と。
 
 
 
 つまり、大衆というのは、「国家に縛られたくない」けれど「(自分の)生命と財産は守って欲しい」わけです。
 
 だから、自分の生命と財産が守られる前提の上で、なるべく国家が個人(自分)を制限しない程度に「政府を制限」しておけたらベスト……とほぼ無自覚的に計算している。
 
 そして、こうした無自覚の計算があることは、現代では別にノンポリもホシュっぽい人もリベラルっぽい人も同じなのです。
 
 ただ、その「計算観」がノンポリとホシュっぽい人とリベラルっぽい人で違うということに過ぎないのです。
 
(※こういう計算が大人の中にあることは、私は中学生の時から知っていることでしたので、当然今の子供も知っていることでしょう。そういう意味で子供は、このような属国民としての大人を憐れみ、自分も将来属国民として生きることになるのだと絶望しながら成長してゆくのです。また、これは今の大人も子供の頃は知っていたことだったに違いないけれど、社会に出て家族を作るためには知らないフリをしていないと心が壊れてしまうであろうことは明瞭なので、みんな「無自覚に計算しておく鍛錬」を積んでから社会へ羽ばたいてゆくのであります)
 
 
 
 だから大衆は、森友学園問題の騒ぎで「政府を制限していた」のです。

 つまり、

1「国民(自分)の生命と財産を守れよ!安倍!」

 という大衆的請求はデフォルトとしてあり、その上で、

2「国民(自分)を縛るんじゃねえぞ!安倍!」

 という制限を施すために、「戦前」を「踏み絵」にするのはとても都合が良いということ。


 誤解して欲しくはないのですが、私は別に戦前を取り立てて捨象して礼賛するつもりはないし、森友学園に至ってはそもそも嫌いです。
(※あんなに非人道的にイジメられて倒産させられるほどの罪があるとは思われませんけど)

 でも、「戦前」を「踏み絵」に「政府を制限」して「国家に縛られなくて済むようにしよう」とする仕方は、現代において戦前を取り扱う場合のメジャーなやり方でしょう。

 そりゃあ、今を戦前にする必要もなければ、今は戦前にならない。

 しかし、「今を戦前にさせない」などという強調がわざわざ必要になるのはそういうことでしょう。

 森友学園のような「戦前コスプレ保守」に対する「軽蔑」も普通限度というものがあるはずで、限度を越えた軽蔑は「差別」になるのであり、そして何故そういう差別が必要になるかというかと言えば「踏み絵」にして「政府を制限」し、「国民(自分)が国家に縛られないようにしている」からなのです。



 もちろん、大衆の大多数は「今を戦前にさせない」とか言わないし、「森友学園の戦前ウヨク教育がケシカラン」などとも直接言いません。

 それを言うのはサヨクの役割ですよ。

 でも、サヨクにそういう役割があるのは、そういう大衆の需要があるからです。

 そう。大衆は卑劣にも自分では直接言わないのです。

 だって、「これみよがしなウヨク叩き」は「これみよがしなウヨクそのもの」と同等に大衆の一人一人の処世としてはよろしくないでしょ。

 だから、「これみよがしなウヨク叩き」は、リベラルが大衆の求めるところを代行するというわけ。

 しかし、これへ大衆が直接加われる筋が一つあります。

 それは汚職や疑獄事件という筋です。

 大衆的処世では、「ウヨクがケシカラン」という差別はギョッとされるものであるが、「政治家叩き」や「既得権益叩き」や「役人叩き」はどれだけピーピー言っても許されえる差別ということになっている。

 だから、疑獄事件という装丁さえあれば、大衆処世的にはこれを騒ぐ障壁が緩和されることになるのです。

 すると、
1「疑獄事件を騒いでいる」
 という体で、
2「戦前のイメージを踏み絵にして政府を制限する」
 ことによって
3「国家に国民(自分)を縛らせないようにする」
 ということが可能になるでしょう。

 これは極めて都合が良い。

 都合が良いので大量に騒ぐ。

 森友騒ぎは、そういう大衆精神構造的に見事なまで都合の良い体系を有していたので「炎上」したのです。



 もちろん、その疑獄事件としての内容そのものが、それなりの騒ぎに値する内容であれば、上で申したような「大衆の都合」と断じるのは不当かもしれません。

 しかし、“The Midnight Seminar”様の『森友学園問題を理解するための個人的なメモと、まとめ年表』 でも述べられている通り、疑獄事件としての内容そのものはあまりに「ショボい」のです。

 でも、その「ショボさ」に関わらず大量の騒ぎに発展したのは、疑獄事件以外の都合が大量の大衆に共有されたからと考える他ないのです。

 さらに言えば、大衆はそうやってピーヒャラ騒いでいる時も、別に安倍内閣を倒そうと思っているわけですらない。

 ここでの大衆の目的は、安倍首相に「なんか戦略感を醸して屈服感をやわらげつつアメリカに屈服して、その上で自衛隊を重んじる」ことによって「自衛隊以外の国民(自分)の生命と財産」を守らせつつも、「戦前の踏み絵」を首相に踏ませて「政府を制限」して、なるべく国民(自分)を国家に縛らせないようにすること……なのですから。

 そして大衆はこうした卑劣で狡猾な態度を、「ニュートラル」で「中道」で「戦略的」で「国益を重視したもの」とすら思っていたりするのです。


(了)

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一票の格差の問題の問題~衆院選挙区の区割り 

・区割り法案が閣議決定 衆院97選挙区で見直し
https://m.newspicks.com/news/2245424



 第一に、「一票の格差」が個人のケンリを毀損しているというような最高裁判所の違憲判決は極めてチープ。

 最高裁判所が間違っているか、憲法が間違っているか。



 第二に、仮に一票の格差を是正するにしても、「議員定数を増やす道」も想定しうるのに、定数削減が大前提とされているのはおかしい。

 そもそも国家が複雑になればなるほど政治家の数が必要なのは明らか。



 第三に、そもそも一票の格差が広がった背景には国民全体で大騒ぎして行った90年代の「政治制度改革」によって小選挙区制度が導入されたことが大きな原因にもなっている。

 あの改革騒ぎが「あやまち」であったことについての国民レベルの反省がないままに、個々のケンリの保全ばかりに目が行くのは現代人の悪弊。



 第四に、一票の格差是正のために、人口の少ない選挙区の定数を減らしたり、道州制の発想に見られるように地方行政の過激な統合を進めれば、地方の経済や共同体をさらに衰退させてしまうことは明らか。

 すると、長期的に見ると、「一票の格差問題」→「是正」→「地方衰退と一極集中」→「さらなる人口格差」→「一票の格差」というふうに堂々巡りになってしまうはず。


(了)

Category: 時事

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Janre: 政治・経済

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藤井聡教授のフィナンシャルタイムズ訳から読みとく~赤字財政拡大でアベノミクスは成功する 

 京都大学の藤井聡教授が以下のような記事を書かれております。


・英FT紙はなぜ「プライマリーバランス亡国論」を日本に警告するのか?=内閣官房参与 藤井聡
https://www.google.co.jp/amp/www.mag2.com/p/money/226316/amp

 内容は、イギリスのフィナンシャルタイムズのコラムが『 静かな、しかし実質的なアベノミクスの成功』と題して指摘する「アベノミクスの評価と不足箇所」を紹介するものでした。

 結論を言えば、「アベノミクスの不足箇所」とは、ひとえに「財政拡大の不足」ということです。

 つまり、

「政府がもっと借金をしてお金を使っていればアベノミクスは大成功してたんじゃね?」

 ということを、フィナンシャル・タイムズが指摘していたのです。




 そもそもアベノミクスは当初、「三本の矢」と言われて始められました。

 そのうち「第二の矢」というのはまさにその「財政出動」……つまり、「政府がよりカネを使うこと」であった。

 しかし、フィナンシャルタイムズの述べるところでは、

「政府の支出するお金がこれじゃ全然足りん。だから(そこそこ効果は出ているものの)アベノミクスは微妙な感じになっているのだ」

 というふうに言っているわけです。



 実際、第二次安倍政権成立以降、財政拡大と言える予算は2013年度だけです。

 2014年度以降は、当初予算こそ微増であるものの、補正予算の方は抑制され、年間の支出規模は総じて抑制されている。

 デフレを脱却しようという時に、これは明らかな支出不足です。

 だから、アベノミクスの問題は「金融緩和のやりすぎ」ではなく、「財政拡大のやらなすぎ」にある。

 そういう話なのです。


 ・


 では、何でこのような「財政支出の不足」が起こっているか。

 それは、日本政府が「愚かで場当たり的」な「財政均衡」にこだわっているからだと、フィナンシャルタイムズは指摘します。

 すなわち、年間の政府の「支出」を「収入」のぶんだけに抑えようとする思想が、結果として「政府支出の不足」を起こしていると言っているのです。



 ちなみに、この
「年間の政府の支出を収入のぶんだけに抑えようとする目標」
 を、
「プライマリーバランス目標」
 と言います。

 年間の支出が、年間の収入とピタリ一致して、プラス・マイナスゼロになれば、目標達成というわけです。

 このプライマリーバランス目標を、政府は2020年までに実現すると言ってきました。



 しかし、このプライマリーバランス目標実現のために「政府支出の拡大が抑制されてきた」ことが、アベノミクスにおける最大の癌(ガン)だと、藤井教授は訴えます。

 そして、フィナンシャルタイムズは、こうした目標によって政府の支出権限を制限するのは、「愚かで場当たり的」な対応であると非難しているのです。

 つまり、プライマリーバランス目標を撤廃することが、アベノミクスを真の成功へ導く第一歩なのです。

 逆に言えば、プライマリーバランス目標が存在する限り、適切な財政出動が不可能になり、デフレを克服することができず、故に税収も伸びず、プライマリーバランスそのものも毀損されてしまうでしょう。


 ・


 これらは安倍政権そのものがどうであろうと、別問題の厳然たる事実です。

 政府が赤字と借金を恐れずに「財政支出拡大」をしさえすれば、安倍政権の是非は別としても、アベノミクスは成功するのです。


(了)


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Category: 経済:デフレ問題

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普通に2018年自民党総裁選で首相交代ではダメなのか? 


 そう言えば私、2016年はほぼ丸々一年ブログを書く余裕がなくお休みしていました。

 ですが、それなりに時事などを見ていた感想から言うと、去年はとりわけ酷い年でしたね。

 マジで病むかと思いました。

 ちなみに、私はそれで「倒閣運動をやろう」だなんて思わないけれど、「暴力ならば命と引き換えな分ギリギリセーフかも」とは思う派です。(やりませんけれど)

 それで、2016年は首相に「天誅」が下されても致し方ない出来事が少なくともすぐに三つは思い浮かぶ。


 第一に、天皇のお気持ちに従わず、専門家会議に従って譲位を特例法で済まそうとしていること。

 第二に、オバマの広島訪問後の真珠湾慰霊。

 第三に、トランプ当選後のTPP関連法案強行採決。


 他にも、日露外交の失敗やIR法案などあったし、おまけにギリギリ2015年末だったけど日韓合意がありました。

 2017年になっても相変わらず自由貿易路線は変わらないし、水道法や種子法など構造改革路線の「国家の切り売り」は加速しているようです。


 ・


 しかし一方で、「国民の政権選択で政権に鉄槌を……」みたいな話に至ると、私はそこには同意できません。

 何故なら、小選挙区制度に象徴される「一人一人の国民の政権選択によって時の政権に鎖を付ける」という民主主義的力学を、私は信じないからです。

 そう。
 原則として(暗殺でなければ)、安倍内閣は普通に自民党の総裁選で終わるべきなのです。

 ここ数年のことで言えば、2015年自民党の総裁選で他の候補が出なかったことが最大の問題だったのであり、衆議院選や参院選は別に自民党の勝ちでいいのだし、それ以外にありませんよ。

 安倍政権の問題とは別で「政権与党は自民党であるべき」だし、「安倍首相がダメ」ということと「自民党でなくても済むかどうか」ということはまた別問題でしょう。


 ・


 小沢、小泉に破壊されたとは言え、「自民党」の位相を抜きにして、行政官僚を中心にした国家の諸機能が果たされないのは、これまた無視せざるべからざる現実なのです。

 それは90年代の非自民連立、2000年代後半の民主党政権の歴史から見ても明らかでしょう。

 でも、自民党の位相がマストであるからと言って、別に安倍晋三氏が総裁、首相でなければならないということにはならない……というだけのこと。

 むしろ、安倍内閣が強く長期化すればするほど、次の総裁が首相をやるときの世論の風当たりが強くなる懸念がある。

 私の予想では、おそらく安倍政権後の数年後、再びリベラル政権が立つと思います。

 なぜなら、現今の大衆は、安倍政権を放逐しはしないだろうが、その次の自民党総裁を徹底的に放逐しにかかるであろうからです。

 つまり、結局のところ安倍総裁の次か、次の次で政権交代が起こる可能性が高い。

 それは、安倍政権が不当に長期化すればするほど、確率のあがる最悪な未来予測なのです。


 ・


 2018年に総裁選があり後に衆院選がありますけれど、これは「安倍三選」などという暴挙を許さないのが大事なのであって、現今では「自民党が新たな総裁で衆院選を勝ち抜く」という道筋が、考えうるあらゆる筋の中で一番マシなのです。

 その意味では、今年の三月の自民党党大会で正式に三選が党規則で認められることとなってしまったのは、非常に痛いことなのかもしれません。

 派閥組織や族議員の構造が壊れてしまっている以上、「首相の支持率」にすがる他ないという力学が自民党に蔓延しているのかもしれませんが、それでは自民党に未来はありません。

 自民党に未来がなくなることそのものは別にどーでもいいのですが、自民党に未来がなくなれば、日本は既存の政治構造を抜本的に失うことになります。

 自民党員にはそこらへんよくふまえて、次期総裁と2018年総裁選について真剣に考えてもらいたいです。


(了)

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Category: 政治:安倍「批判・擁護」問題

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安倍信者と反・安倍についての雑感 


 すごくざっくり言って安倍晋三首相の最大の問題は、「自民党」内の意見を無視し、既存の「政治慣習」を打ち破って改革するところにあります。

 これは昨今では特に適菜治さんが盛んに指摘しているとこりでありますし、リベラルの中でも同じようなことを言う者はある。

 で、その問題指摘そのものは確かに正しいのです。



 逆に、「安倍信者」と評して差し支えないホシュ言論人は、むしろ「自民党」や「政治慣習」を蔑ろにすることが多い。

 これは意外に思われるかもしれないが、実際そうなのです。

 要するに、「安倍さんは、ロクでもない自民党や官僚と戦っているんだ理論」です。

 でも、この都合のイイ理論こそが安倍政権の「癌(ガン)」を象徴的に表しているということは、強調しておかなければなりません。

 だって、これもよく言われることですが、こうした「人気内閣が自民党の構造や政治慣習に囚われず改革する」という構造は、小泉政権の改革力学と同じでしょう。

 人気首相が自民党や官僚に囚われないで改革するという話は、ようするに直接民主主義であり、ガキ理論なのです。

 内閣、行政府に大切なのは、「地方や産業の構造」に繋がる「自民党の構造」や、複雑なる国家における様々な行政機能を組織として果たす「中央官僚の構造」に囚われておくことなのです。

 これらは、例え現在相当部分が壊されたとて、複雑なる国家を運営するためにはこの歴史的構造物の土台の上で政府機能を存立させる以外に道はないのであり、逆に言えば、政府機能の強化は「自民党と官僚の力に囚われる内閣」でしかなし得ないとすら言えるのです。

(ただ、もちろんそれは状況次第で、危機に応じて独裁的トップダウンが求められる場合は当然あるでしょう。例えば、戦争やデフレ脱却など)


 ・


 でも、安倍首相が小泉首相と違うのは、構造改革的なものに加えて「ホシュっぽさを醸すもの」をより強く入れるところです。

 これが話をややこしくしている。

 例えば、第一次安倍政権を象徴する政策を二、三取り上げると、小泉首相の「聖域なき構造改革」の延長線上としての「道路特定財源の一般財源化」など行うと同時に、「教育基本法の改正」を断行したりもした。

 そりゃあ確かに、教育基本法の改正は、日本国憲法の改正に次ぐ「戦後レジーム」の持つ重大課題でした。

 でも、この教育基本法改正の「内容」は、いわば「毒にも薬にもならない」ものであり、良く言って「一石を投じるもの」くらいでしかなかった。
 憲法で言えば、「九条二項をいじらず自衛隊を明記」みたいなもんです。

 でも道路特定財源の一般財源化はそのとおり進んだわけです。


 ・


 そう。安倍首相のホシュっぽい政策はおおよそかくのごとくで、「ホシュっぽさ」を強調するだけはするものの「内容はスカスカ」なのでした。

 それは、安保法制や、2020年へ向けた改憲提言にも見られるごとくです。
(その中では、教育基本法改正はまだ立派なものの部類に入ると思いますけれど)

 その一方、構造改革路線……すなわち日米構造協議や年次改革要望書でアメリカに提案され続けてきた「日本市場のアメリカ化による、市場解放」に沿った改革路線の方は着実に進められてきた。


 ・


 まとめると、安倍政権で実際に起こることは、

1「構造改革路線の強行」

 と、

2「中身のスカスカなホシュ政策の強行」

 ということになります。

 それで、ホシュは2を見て喜び、リベラルは2を見てムカつくというわけ。

 一方で1は規定路線として進んでいくというわけです。


 ・


 ただ、こうした安倍首相の問題構造に対し、安保法制から森友学園問題に至ると、少しおかしな方向での安倍批判が目立つようにもなった。


 それは、大きくわけて二つ。


 一つは、安倍首相の「中身のスカスカなホシュ政策」の「ホシュっぽさそのもの」に過剰反応する「問題視の仕方」です。

 そもそも「ホシュっぽさを醸す」のが低劣なのは、「ホシュっぽさを醸すことによって、別の都合を果たそうとする」精神構造があるからです。

 でも、「醸されたホシュっぽさそのもの」を「マジ」に受け取って反発するのは単なる「反・ウヨク」にすぎないでしょう。



 もう一つは、安保法制で流行った「立憲主義は政府を制限するもの」という詭弁に象徴される、民主主義的気分です。

 その詭弁を下支えするのは、「政府権力は必ず暴走するから」というものですが、それは反政府的な政治活動に都合のイイ「物語」というものです。

 だって、「政府を制限しさえすればよい」というわけにはいかないのであるし、立憲主義が政府を制限すると共に「政府の存立根拠」にもなっていることは、あきらかなのです。

 こうした都合のイイ詭弁は、必ず「政府は暴走するものだから、何を言ってもよい」となったり、「大衆的ケンリ請求」を甘く見る根拠になったりするのです。

 すなわち、「今の政権がよろしくないから、とにかく攻撃すればよい」という話になってくる。


 ・


 確かに、安倍政権は構造改革路線の継続を日に増し強くし、国家を切り売りしていると思います。

 その割りには支持率が高いのも、非常に問題だとも思う。

 ただ、森友学園問題や安保法制の騒ぎのごとき政権批判は、「政権の暴走」に対する「民主主義の暴走」でしかない。

 で、仮に民主主義の暴走で安倍政権が倒れても、構造改革路線は解消されません。

 「ホシュっぽい政策」の強調がなくなるだけです。

 あってもなくても良いような「ホシュっぽい政策」がなくなっても、実際はどうということはないはずでしょう。

 でも、これへとりわけ敵愾心が集約されやすいのは、反安倍、政権批判が、単に「国家に縛られたくない」という請求に堕しやすいからです。

 少し前の「特定機密保護法」への反発や、昨今の「共謀罪」への過剰な反発などはまさにそれです。

 でも、そういう単に「国家に縛られたくない」という個人視線の請求へ堕すことは、「個人の思想の死」を意味するのです。

 必要なのは、「個人目線の個人的請求の集約した政権批判」ではなく、「必ずしも時の政権に従うばかりではない、統治者目線の思想」なのです。

 そうであればこそ、我々は我々の「政府」を再構築してゆく可能性が生じるのであります。



(了)
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Janre: 政治・経済

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騒がれなくなったところで森友学園問題について 

 今ではからっきし騒がれなくなりましたが、つい二、三ヶ月前までは「森友学園問題」というのが連日騒がれていましたね。

 これについては知り合いの中でもいろいろと言っていた人がいますけれど、私はどうしてもこれに同調することはできませんでした。



 誤解しないでいただきたいのですが、「安倍首相の人格に問題があること」や「森友学園がおかしな学校法人であること」は、別にそれでいいと思うのですよ。

 でも、それとは別問題で、「森友学園問題という騒ぎそのもの」がどう見ても無理筋であり、正当性が感じられなかった。

 それは単に「安倍憎し」で群れていたり、かつての「教育基本法改正の恨みを晴らす」的な怨念が含まれているようにしか見えなかったのです。

 ちなみに、私は別に第一次安倍政権の教育基本法改正を特段礼賛するつもりすらないのですよ。

 けれど、それを別のところで晴らすのは不正当であるし、また「もともとの教育基本法が低劣である」ということも明らかなのだから、そういう乱暴は話をおかしくさせるに決まっているということを言っているのです。



 しかし一方。

 あの騒ぎの渦中でいたずらに「森友学園騒ぎは低劣である」と言うと、無意味に政権扶養に荷担することにもなりかねなかった。

 だから、森友学園問題の渦中では「沈黙」か「苦笑」が、もっとも正しい振る舞いであったのです。



 でも、こうして今や問題が冷めて誰も森友学園の「も」の字も口にしなくなったわけだから、もはやそういう「いたずらに政権扶養に荷担することになってしまう可能性」を心配する必要もなくなった。

 よって、今こそ、あの「森友学園問題の騒ぎ」というものがいかに卑怯で、低劣で、くだらない騒ぎであったかということは再確認しておくべきなのです。

 何故なら、ああいう「群れ」的な政治的運動の乱暴は人間の「教育観」「国家観」といった個々人の思想に必ず悪影響を及ぼしているはずだからです。

 今になって「あれはちょっとイカン部分もあったな」と冷静に思いだした人は、今からでもおそくないから、何がイカンかったのかを冷静に解釈しておくべきです。

 それは、別に誰のためでもなく、あなたの思想の均衡のためなのです。


(了)


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Janre: 政治・経済

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「反自由貿易」と「政府支出拡大」の関係 

 去年のトランプ現象やブレグジットなどから、

「グローバリズム、自由貿易主義の推進が、キレー事としても通用しなくなっている」

 ということは再三申し上げてきている通りです。


 その上で、こうした「保護主義」の世界的潮流は、「財政政策」とも関連があるはずだということは強調しておくべきでしょう。

 すなわち、貿易における自由の規制としての「保護主義」は、内政的な経済政策としての「財政政策」とも思想的な関係がある。

 どういう関係かと言えば、「自由貿易推進を善」とすればするほど「政府支出を抑制する」という理論が立ち、「自由貿易を抑制しなければならない」ならば「政府支出を拡大する以外に道はない」という理論になる……という関係性です。


20170513003155a36.jpg


 何故こうなるかと言えば、現今の世界は日本も含めて「需要不足」と「投資不足」によって、「一定期間における経済取引の総量(GDP)」が伸びていかない状態にあるからです。

 逆にいうと、各国の経済は「生産力過多」かつ「投資先の見つからない資金剰り」の状態であり、どのように「供給力」と「資金運用」を消化するか……というところに根本の問題があるということ。

 つまり、現在と将来の「需要」の見積もり観をどこにおくかというのが、現在の各「国民国家の経済」において最大の問題なのです。

 で、「需要」が萎み、「供給」と「資金」が過剰な状態では、一定期間における経済取引の総量(GDP)は、総供給量ではなく「総需要量」で決まってくる。

GDP
 =
総需要
 =
「民間の総消費」
 +
「民間の総投資」
 +
「政府の支出」
 +
「貿易黒字ー貿易赤字」

 ということになります。

 その上で、ひと度「民間の総消費と総投資が伸びてゆかない状態(デフレ)」に嵌まって黙っていると、十年でも二十年でもこれは続いてしまうものなのです。

 これが日本の二十年来の状態であり、またリーマンショック後の世界各国の状態でもある。

(また、資本主義は論理必然的にこの状態……すなわちデフレの状態に嵌まるものなのです。)

 このように「民間市場の消費と投資の行くままでは需要が萎み続けてしまう状態(デフレスパイラル)」に陥った場合、解決法は上の式を見れば明らかに二通りしかありませんでしょう。

 すなわち、

1 「貿易黒字を増やす」

 か

2 「政府支出を増やす」

 です。



 ただ、ここで「貿易黒字を増やす」方にはいろいろな問題がある。

 そのひとつに、現在、地球全体がそれこそグローバルにデフレということです。

 つまり、どちらかといえばどこも貿易黒字を増やしたいという状況にある。

 ならばその競争に勝てばよい……という単純な話ではすみません。

 だって、たとえ万一勝者となり貿易黒字を増やしたとて、その価格競争はさらなる労働価格の下落を招き、故にさらなるグローバルな需要の低下を招く。

 そうなった場合、地球の外に貿易黒字を求めることはできないでしょう?

 また、地球政府はないのだし、あるべきでもないのだから、グローバルな公共事業なんて想定し得ない。

 つまり、国境を越えたグローバルな資本主義というのは、論理的に言って存立不可能なのです。



 だから、本当は「国民国家による政府支出の拡大」しか道はないのであります。

 そして、各国が貿易に制限を施し、各国の自国産業を保護し、政府支出という「公的な需要」を増やすことで国内の経済循環を膨らませて、内需拡大の軌道に乗せる……これが今日本にも、そして世界経済にも求められている道筋なのです。

 言い換えれば、今重要なのは、各国のナショナリズム経済なのです。



 しかし、それでも「自由貿易推進による貿易黒字の拡大」が果たしうる領分を大きく見積もれば、「政府支出の拡大」を考えずに済むでしょう。

 これは、それが実際かどうかではなく、自由貿易に対する楽観の「見積もり」さえ大きくとっておけば、「政府支出の拡大」を考えずに済むという関係があるということです。


 で、一方。

 政治的には現在の日本は「大衆民主主義」に堕している。

 言い換えれば、大衆が第一権力を握っており、政府に「統治的判断の意思」が剥奪された状態。

 それでも大衆は、その普遍的性質として「国家的なもの」や「政府的なもの」を嫌いますから、「政府にたくさんの支出をさせたくない」と思うものです。

 すなわち、政府機関が大きな予算を執行するということは、政府の裁量や権力を大きくすることだから、これがまずもって大衆にとってはたまらなくムカつくことなのです。

 だって、何かにつけて大衆は「政府は俺たちの税金でムダなことをやっている!」とピーピー言って日々の個人的不満を解消したがるものだし、政府が権力を振るうことに関して異常なほどの不寛容を発揮する。

 また、そういう大衆の力学を知識階級はおおよそ無自覚ながら把握しているので、彼らの内心では「なるべく政府支出は拡大せずに済む理屈を言っていたほうが無難だ」という計算が、ほぼ無自覚的に働いているはずなのです。

(たぶん我々も一歩外で集団的に交際するとなれば、似たような反政府的な処世で振る舞っているのではないでしょうか?)

 だから、この力学も「自由貿易推進」に対する楽観がばっこする理由になっているに違いないわけです。

 これは、「金融を緩和さえやっていればインフレになり投資が起こる」というリフレ派の理屈と同じです。

 というか、リフレ派(金融緩和至上主義者)はその理論の根拠の多くを、輸出拡大においていたものです。



 逆に言えば、「政府支出の拡大」に対して真剣にならないのは、「民間自由貿易に対する楽観」がはびこってきたからとも言えます。



 そういう思想的関係が、「自由貿易、保護主義」と「政府支出」にはあるのです。



(了)
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ネット言説は「評論家の劣化バージョン」なのか? 

 昔は、「評論家なんてのは、いかがわしい連中だ」というのは、生活民の常識だったそうな。

 そりゃあもっともで、普通に生きていれば評論家になんてならずに済むのであるし、第一、評論家がどのようにして成り立つかを考えてみれば、すぐに察しがつく。

 と言うのも、評論家という生業は、どう考えても「数」を動員しなければ成り立ちませんでしょう。

 そして、もともとの「権威」というものの代替として「数」に価値の移る力学が、大衆社会における重大な悪弊の一つでもあったのでした。

 だから、「評論家はいかがわしい」という生活民の常識はおおむね正しいと見ておくべきなのです。


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 そもそも、世の中に影響を与える者は、正統な権威というものが背景にあらねばならない。

 これは人類普遍の大原則です。

 影響を与えるということは「良い影響」と「悪い影響」があるわけで、それが「良い影響」であるための最終的な根拠はその地域における時間的な「慣習」と「権威」以外にないのですから。

 つまり、本来「政治的な領域への発言権」は、その地域における「暴力を祖に持つ特権階級」にのみ、付与されているべきものなのです。

 これは日本で言えば、かつての武士階級ということになるでしょう。

 で、世界が狭くなり、日本は近代化へ向かい150年以上たったわけですが、それでも可能な限りこの一大原則は保守されていなければならない……というのは日本生活民としての「底流の常識」としてあった。

 だから、維新後の政府、やむをえずしつらえた議会、官僚制度、経済制度、昭和期の軍組織を背景とした政府、戦後の「地方の既得権を背景とした自民党」と「中央官僚」という政治体制……などなども、

「暴力を祖にもつ特権階級……を祖にもつ権力」

 だったのです。


 ・


 これに対して、都市大衆市民の「不満」などに迎合して数を動員する存在が、評論家などのいわゆる「知識人」であった。

 評論家、知識人という職業は、地方や共同体や市民社会、産業社会に適合しないハグレ者が、わずかな知識を糧に生活したりチヤホヤしてもらうための一方策であった……と表現することもできます。

 この場合、 彼らを生活的に埋め込む人間組織は非常に希薄で、「暴力を祖にもつ特権階級……を祖にもつ権力」の体系からは一見して超然していることが多かった。

 哲学用語で言えば「疎外」の状態。

 疎外された知識人は「暴力を祖にもつ特権階級……を祖にもつ権力」と「被権力者たちの生活」を外から眺め、そこに「偏見(道徳)」と「矛盾」を指摘し、人々をびっくりさせ得意になっていたわけです。

 こういう「びっくり」によって、生活民の中から大衆性を喚起し、「偏見(道徳)」や「矛盾」や「権力」を打ち破ろうとするのが知識人のメジャーなスタイルであった。

 評論家、知識人がロクなものではないというのは、論理的に解釈すればこういうことなのであります。


 ・


 しかし、平成に入り「暴力を祖にもつ特権階級……を祖にもつ権力」 もいよいよ滅ぼされてしまった。

 政治制度改革と小泉純一郎によって自民党が壊され、行政改革によって官僚組織が壊され、その他構造改革で産業と地方が壊されて……と、日本の人間組織はもはや焼け野原といったザマです。



 これはまったくかつての評論家、知識人たちが望んだ状況でしょう。

 例えば、丸山正男の『であることとすること』という低劣な評論を高校で習いますね。

 上の「平成の諸改革」はまさにこの丸山正男の言う「すること」の社会を目指すために「であること」を破壊するものであった。

 言い換えれば、こうした知識人によって「啓蒙」された世代が社会の責任あるポジションにつくようになったのが平成という時代であり、平成の失われた30年は「ほんとうにその通りにやればこのような失敗が起こる」という順当なことが起こったにすぎないとも言える。

(加えて言えば、この世代は自分が国家社会のリソースの恩恵をたっぷり受けておきながら、なんら感謝の情もないだけではなく、これをぶち壊し、焼け野原を残して引退し、「日本人は勤勉さを失った」とか「今の若者は元気がない」とか「内向きでなく、世界へ出ていかなければならない」云々のたまっているわけで、そりゃあ嫌われて当然の世代だと言わざるをえないのです。)



 ただ、こうなってしまえば、かつての知識人的な生業も、成り立っていきません。

 皮肉なことに、壊す対象が本当に壊れてしまえば、壊す運動はその勢いを失い、生業としても存立しなくなるのです。

 でも、それで「めでたし」といかないのは、そんなかつての知識人たちの啓蒙は、現在ではおおよそ「社会人」としての常識として昇華されてしまっているからです。

 これは非常に深刻なことです。

 何故なら、その常識の上では国家の意識は百年続かず、国家の意識がなくなれば「社会」も存立しなくなり、厳密に言えば「社会人」が子供を作る正当性が無くなることになるからです。

 何故なら、継続しないことを前提とした社会の上で子供を作るのは、罪以外の何物でもないからです。


 ・


 そしてこれに対して、21世紀にはネットの言説というのも出てきましたね。

 マスメディアに根城を置く評論家に対して、ネット上の言説はかつての知識人の理屈に反を唱える様々な筋が繰り広げられてはきた。

 このブログもその末席を汚すものです。



 しかし私は、この「ネット上の言説」というやつにも希望を見いだすことはできません。

 希望を見いだせないどころか、これが非常に汚濁にまみれた低劣な様相を呈しているのも明らかです。

 特にスマートフォンやSNSなどの隆盛によりネット空間が急激に大衆化すると共に、その低劣さは右から左、上から下まで異臭を放つほどとなった。



 でも、それは当然と言えば当然なのです。

 だって、よくよく考えてみればこうしたネット上の言説は、かつての知識人の「大衆市民に向けての数の動員」という論理の繰り返しでもありますでしょう。

 ブログの「バズる」の論理などまさにそれです。

 さらに、知的な鍛練の無いぶん、ネット上の言説は「かつての知識人の劣化バージョン」とも言える。

 だからと言って、「反知性主義」などと言って知識人の知性を礼賛するのもチープこの上ないけれど、逆に、知性がないということが希望の根拠になるとも思われない。

 のみならず、ネット上の「生半可な知識」の表出が、実はかつて繰り返された知識人たちの議論の、非常に浅薄な部分を抽出し焼き直されたものに過ぎないなどということはよくあることでしょう。



 ・



 ならば我々生活民は黙っているのが最も良い……とも思われるが、それは「暴力を祖にもつ特権階級、を祖にもつ権力」が残っていればこそ成り立つ態度である。

 もはや、国家構造、官僚構造、地方の構造、自民党の構造、産業構造……もろもろが壊されバラバラであり、我々はフと気を抜けば、ほぼなんの事業観を共同することなく、ただ一個のホモサピエンスとして丸い地球上にポツンと佇むだけの空虚な存在に成り下がってしまう。

 そこで黙っているのは、漫然と国家の終わりを待つのと同じことになるし、そういう人間に「子供を作る正当性」はないのです。

 だから、我々は本当に振る舞いようがない。

 生活民のよきあり方は「政治に口を出さないこと」なのに、もはや黙っていることさえ正当な生き方として想定できないのですから。

 まあ、ギリギリセーフとして想定しうるのは、
「なるべく良い口の出し方をするのを維持し続ける」
 というくらいです。

 ネット言説に 「かつての知識人の劣化バージョン」 以外のものを求めうる可能性はそこだけでしょう。

 すなわち、我々には、まず黙ってやる生活がある。

 これが前提で、その生活と繋がりを失わない上でギリギリセーフの態度を示すという部分だけ、「評論家」風情よりもまともな言説となる可能性が出てくるわけです。



 とは言えこの可能性が現実のものとして活かされるためには、やはり「知性」が備わっていなければなりません。

 そうなると、以下の三つの条件が必須になってきます。


 第一に、
「言説以外で、生活を成り立たす生業があること」

 第二に、
「生活を成り立たした上で、時間的余裕がすごくあること」

 第三に、
「天皇に対して信仰と忠誠を持ち、国民に対して統治者目線を持ち合わせていること」



 まあ……そう考えると、ネット言説が全体としてロクなものでないのは当然でしょう。

 だって、そんな条件の揃うヤツ、ゴロゴロいはしないんですからね。

 総じて平均すりゃあ知性に欠けた暴論がばっこし、「評論家の劣化バージョン」に集約されていくに決まってはいるのです。



(了)
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フランス大統領選マクロン氏の勝利とEUグローバリズムについて 

 先日、フランス大統領選でマクロン氏が勝ったそうですね。


 今回のフランス大統領選挙はざっくり言って、

「EUグローバリズムのマクロン」

 VS

「反EUグローバリズムのルペン」

 という対立と見るのが適当だと思われます。



 そして、残念ながら今回は「EUグローバリズム側の一勝」ということになったようです。

 しかし、昨年から世界はいよいよグローバリズムの終わりが着実に見え始めています。

 と言うのも、まずアメリカのトランプは保護主義(国家権力が貿易の自由を制限して国内産業を保護すること)を掲げています。

 また、イギリスはEU離脱を国民投票で決していますね。

 これは、もはやグローバリズムが「キレー事としてすら通用しなくなってきている」ということであり、時代の大きな流れでもある。


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 で、今回。フランスはそれこそ世界の潮流に対応できずに逆行してしまった……と表現することもできるでしょう。

 現大統領のオランド氏は「大多数がEUへの愛着を示した偉大な勝利」と言っているそうですが、この邪悪な言葉が逆に象徴的です。

 すなわちこのフランス大統領選挙は、

1 フランス人が「EU」を最大単位として経験世界に愛着を持つか。

2 それともフランスという「国民国家」を最大単位として経験世界に愛着を持つのか。

 という話でもあったのですから。

(この関係性はブレグジットと同じでしょう。フランスでは勝敗が逆に振れたということだけです)



 で、実際。

 世界の潮流は、たとえ経済であっても人類は「国民国家」を超えることはできないし、超えるべきでもない……という方向へ向かっています。

 経済で地球を一つにするなどという「キレー事の進歩的未来観」は崩れ、「国家権力が各国民経済の循環を重んじなければ、地球全体の経済循環も成り立っていかない」ということが赤裸々になってきているからです。

 そんなことはこれまでも、例えばフランスのエマニュエル・トッド氏などが盛んに発言されていて、日本でも非常に多く読まれているでしょう。
(同じエマニュエルでも大違いですね!)

 とりわけ、リーマン・ショック後はグローバリズムの限界が明瞭になってきていた。

 でも、政治的には「キレー事としてのグローバリズム」が表面上は取り繕われていたのだけれど、それも去年に終わったのです。

 そういう意味で、今回「EUを最大単位」として選んだフランスは「バスに乗り遅れた」と言っても過言ではないのです。



 ところが。

 フランスだけではなく、先進国における「グローバリズムの終わり」という世界の流れに取り残されている国がもう一つあります。

 言うまでもなく日本です。


安倍首相「EUへの信任」 マクロン氏勝利で
http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXLASFS08H0K_Y7A500C1EAF000



 例えば、首相は一貫して、去年のトランプ当選やブレグジットなど「反グローバリズム的な動き」に対してはこれを諌めるポジション取りをしてきました。

 すなわち、

「保護主義の台頭を牽制し、自由貿易の推進によって平和を維持しよう」

 と、そういう理屈で。

 そして、今回のマクロン当選のような「グローバリズム維持の動き」に対しては好意的なポジション取るというわけです。


 さて、2016年からのこの流れの上で、「安倍首相はご自身でもイイコトをやっているという自信をもって保護主義の牽制と自由貿易推進を訴えている」ということが、論理上でも明かになってしまったということでもあります。

 そもそも、トランプ当選まではこうした立場取りがタテマエである可能性を少なくとも論理上は否定することができなかった。

 ですが、2016年には「本気でそう考えている」ことが論理上も明らかになったということでもあります。

 何せ、アメリカにおもんばかって市場を開放せざるをえない……という筋がなくなったのですから。



 ただ、もう一皮捲って首相の心理を読み解いてみるとこういうことなのだろうと察せられる。

 それは、ここ数十年、日本がやってきたキレー事の枠組みが「自由貿易とグローバリズム」だったから、急に「保護主義も大切」という話になってもどうして良いかわからないので、「保護主義を牽制して、自由貿易を訴える」という態度を取ることにより旧来の枠組みにしがみついてホッとしている……ということです。

 でも、首相ご自身ではそのようなことは自覚言語的に考えていなくて、あくまでご本人としては「保護主義を牽制して、自由貿易を主張し、道徳的高みに立つのだ」とお考えになっているのだと思われます。

 何故、そんなややこしい精神作業が必要であるかと言えば、「自分がイイことをやっている」と思っておくためです。

 これは非常に低劣なことでしょう?



 でも、こうしたことはなにも首相に限ったことではないというのが、もっと困ったことなのです。

 本当に深刻なことですが、こうした「国境を越えた移動や経済の自由」を進歩の光の先とみなし、「国内産業構造を保護すること」を常に旧弊と見なすのは、現代の日本のメジャーな処世枠組みでしょう。

 これは特に政治や経済に関心のないフツーの人も同様です。

 つまり、おおよそ一億人くらいは安倍さんと同じなのです。



 また、この点に関しては、いわゆる「安倍信者」も「反安倍を言っている人たち」もそうです。

 安倍信者は言うに及ばず、反安倍の人たちの「反」のモチベーションは単に「国家に縛られたくない」だから、共謀罪とかそーゆーどーでも良いことをピーピー騒ぐことに終止していて、グローバリズムに対してはおおよそ無言です。

 何故無言かと言えば、自由貿易は国家権力を弱めることであり、リベラルからしてもそれは好意的にみられることであるが、安倍首相が保守派のスターであるから、そんな保守派のスターであるところの安倍首相が行うことについては、仮に自分の好意的に見ているものを推し進めているのだとしても好意的に言うわけにはゆかず、だからと言って非難するわけにもいかないので、自然と「その部分については無言でいる」という態度へ集約されていくというわけです。

 だから、実際リベラルはおおよそ自由貿易主義なのですよ。

 そういう意味で、グローバリズムの筋で安倍批判をしている勢力は共産党くらいなものです。

 だから、サヨクの中でも共産党はえらいんです。



 つまり、日本のインテリ、大衆の間では、未だに「グローバリズム」が「キレー事の体系」として大前提されているというわけです。

 その点、フランスの方が何倍もマシだとも言えます。

 だって、我々は、
「自由貿易へ舵を切るか、保護主義へ舵を切るか」
 などと議論にすらなりませんでしょう?

 議論の余地なく自由貿易の方向性は前提されている。

 何故かと言えば、現在の我々はそういう進歩の「未来観」を前提しているからです。

 また、何故そんな未来観を前提しているかと言えば、現代の日本人は「国家が関係なくなる未来の到来を前提して、敗戦国民としての屈辱をゴマカス」という基礎トレーニングを積んだ上で「社会人」をやっているからです。

 つまり、グローバリズムの未来観というのは、現代の我々日本人の都合によって仕立て上げられている世界観であり、日本より小さな世界観なのです。

 我々の持つ「グローバル」の世界観は「日本」より小さい。

 このことを言う者は少ないけれど、心の奥ではおそらくわかっているのだと思います。

 ただ、これを明瞭に自覚すると心が壊れてしまうので、気づかないフリをしているだけに違いないのです。

 だからこそ日本人は特に「グローバル」の世界観へ固執せざるをえなくなっている。



 首相の自由貿易路線は、国民全体のこうした力学の「映し鏡」であると見なすのが、最も適当なのではないでしょうか。



 その証拠に、日本のマスコミを見ても、ルペン氏については「極右」という枕詞をつけずにおれないようだし、今回のマクロン氏の勝利を世界秩序のプラスに換算する態度で一貫されている。

 また、それに大した疑問符も付されていないというのが現状なのです。

 まず、国民全体レベルでこれをなんとかしなければならないのだと思います。


(了)

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愛国心について 

(※この記事は某所で内々に書いたものなのですが、そこそこうまく書けたと思うので一部改稿してブログにも掲載してみることにしました。)

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 今回は今話題の「愛国心」について気合いを入れて書きます。



 そもそも我々は日本人である時点で、自覚的にも無自覚的にも「日本」に大きく前提付けられていることは言うまでもないことでしょう。

 ここでは、こうした我々の「日本に前提付けられたもの」の中から、とりわけ「愛」を強調したものが「愛国心」という言葉だと定義しておきます。

 とは言え、愛国心という言葉は、まずそうやって「愛」などと強調している時点で、もうその言葉遣いが「日本的ではない」というようにも思われるものです。

 そんなきっちりかっちりした言葉を直栽的に使ってしまうと、もう「気持ちそのもの」ではなくなってしまう……ような気がするからです。

 そして、こうした感性が失われてしまったなら、日本人の「日本人性」も失われてしまったことになってしまうかもしれないから、原理的に言えば日本人は「愛」や「愛国心」などという言葉を使うべきではないかもしれないとも思う。



 そういうわけで、我々は「愛国心」を語る前に、まず「愛のようなもの」についてもっと慎重に語らなければならないようです。

 そもそも「愛」という言葉そのものに「押し付け」や「薄っぺらさ」や「画一化」という危険性が含まれているのは明らかなのですから、「愛のようなもの」を語るにあたってその文脈に応分の注意が必要となるのも明らかでしょう。



 ならば、ここでまずはその文脈(物語)ということについて少し注意してみたいと思います。

 ここでは我々個々人の文脈的な精神を以下の三層に分けて考えてみます。



1「無自覚的に経験世界を文脈として解釈している精神」

2「自覚的に思考して文脈を編む精神」

3「他者と文脈として関係する精神」



 これら三層の文脈が複雑かつ膨大な循環を絶えず行っているから、人間は「私」としての意識を持ち得ている。

 逆に言えば、こうした文脈の循環がない状態は、人間以外の言葉を持たない動物の状態であり、つまり本能がそのまま意識である状態でしょう。

 ここで重要なのは、「動物は無自覚的にも経験世界を解釈してはいないであろう」ということです。

 この点が本当に重要で、動物が「言葉でコミュニケーションしないこと」や「言葉によって思考しないこと」は明らかだから誰でもすぐにわかるのですが、ということはつまりイコール「無自覚に経験世界を解釈してもいない」ということはなかなかわかりずらいところです。

 というのも、「人間が言語文脈的に経験世界を解釈して生きている」ということがそもそも多く無自覚だからです。

 でも、動物はその部分も本能の機能として備わっているらしいということは、動物に言葉がないことからも明らかなのです。

(だからと言って人間が動物より上等だなどとはこれっぽっちも思いませんが、我々は人間なのですから仕方がありません)



 このことは、我々の意識がどれほど深く日本語に支配されているか、ということの証拠になります。

 言い換えれば、我々は日本語でコミュニケーションするだけではなく、日本語で思考するのみならず、「日本語の世界」を生きているのです。

 だから、たとえば「人間に愛のようなものがある」と信じても、それは日本語の文脈からの信仰であるから、別に日本語から超越して人間愛を掴み取っているわけではない。

 言い換えると、我々は日本語の世界でしか愛を知ることはできないということです。



 するとつまり、我々が愛のようなものを思うとき、それは日本語を初めとした様々な日本的なものを介して愛しているのだということになります。

 純粋に、

「私が愛したいから愛す」

 などというのは人間には不可能なのです。

 何故なら、「私が愛したい」という気持ちの時点ではすでに私以外のものが前提として大いに混入しているからです。



 感情の前提ということならば日本語以外にも、「日本の土地」や「日本人としての身体」や「日本的人間交際の組織循環」といったものが考えられますが、日本語が最もわかりやすく根本的なところでもあると思います。

 と言うより、「土地や身体や組織」は「日本語」によって絶えず解釈されているのと同時に、「日本語」も「土地や身体や組織」によって絶えず更新されていると見るのが適当でしょう。

 だとすると我々は、いわば「日本によって愛する」ということだけは間違いなく無自覚的にやっていることになります(1%のサイコパス以外は、でしょうけど)。

 この無自覚な愛国心は絶対に存在すると前提しなければなりません。つまり、「国を愛する心」というよりは「国によって愛する心」という意味の愛国心です。



 さて、ひとまずこうした「無自覚的に、日本によって愛する心」が「ある」と前提したとしましょう。

 しかし、それでもすぐに大きな問題に突き当たります。

 それは、我々に「無自覚的に、日本によって愛する心」があったとしても、それが思考やコミュニケーションの段階に活かされるかどうかは別問題だということです。

 ざっくり言って、前近代、封建の時代は別にそんなものは自覚せずとも一己の一生は土地や信仰や共同体に埋め込まれて自然に「日本によって愛する心」が活かされる可能性は高かった。

 こういうことを自覚しなければならなかったのはこれを指導し成り立たせる責任を持った特権階級であった。

 と言うか、だからこそ彼らは特権階級だったのです。

 しかし、ざっくり言って近代化をすると、狭い土地から人の心が離れ、ゆえに信仰は世俗化し、共同体はバラけ、一人一人の自我の領域がデカくなるので、ポケーっとしていても「国によって愛する心」が活かされるなどという可能性は極めて低くなる。

 何故なら、そもそも我々が無自覚のままに「国によって愛する心」を活かせていたのは、「土地や信仰や共同体」にその機能が編み込まれていたからでしょう。

 また、その機能を維持していた特権階級や特権階級を祖に持つ権力も、次第にこれを剥奪されてゆくのが近代なのです。



 さて、このような状態にあって、「近代的な自我を持ったバラバラな諸個人」には二つの生の可能性があると考えられます。



 ひとつは「自分の生存期間内で、できるだけ快楽を多く、不快を少なく生きる」ことを最終目的とする生です。

 で、おそろしいことにこの世界がそうした邪悪な世界である可能性もなくはないのです。また、こうした生は別にサイコパスの専売特許ではありません。

 人に狡猾や偽善、欺瞞が存在しうる以上、また、人が自分に対しても嘘をつける動物である以上、その経路のヴァリエーションは上から下まで実に多種様々です。

 ちなみに、森友学園やAPPA懸賞論文のような「愛国専門人」も、愛国を言っていれば仲間内でチヤホヤされるという目的に帰着しいているのが明瞭である以上、「快楽・不快の生」の一形態であるということに過ぎないのです。
(ということは、別の形態の「快楽・不快の生」を生きている者は愛国専門人をバカにできないということでもあるのだけれど)

 それに、大衆現象や全体主義現象を形作る一粒一粒は、凡庸でありながらもこの邪悪なる生を生きているに違いないのです。

 この場合、その一粒一粒が凡庸なのは、単なる能力不足か、偏見や道徳に縛られて欲望を発揮しきれていないから……という話にならざるをえないでしょう。

 これの本当におそろしいのは、この生の方が正しいのかもしれないという可能性を百%は否定できないところです。



 それに対してもうひとつは、「国によって愛する心」を自覚して、思考や交際に活かそうとする生です。

 つまり、かつての特権階級のやっていたことを、近代的な個人としての「私」がやっちまえば良いのです。

 ちなみに、現代の「社会人」というもの一人一人が、かつての特権階級のレベルで国によって愛する心を自覚するのなら、民主主義が成功する可能性があるかもしれません。

 もちろんそんなこと自体がありえない話なので封建の完全に消え去った民主主義は失敗し、ナショナリズムの減退と共に市民社会も産業社会も崩れてゆくのですが、理論上はそうでしょう。

 そして、理論上でそうだということは、現代人として生きざるをえない一人の「私」としては「国によって愛する心を自覚して、思考や交際に活かそうとする生」の道筋が残されているということなのです。



 でも、この道筋が残されているというだけでは、まだまだ問題は残ります。

 そもそも、自分の「日本によって愛する心」をまるごと自覚するのは人間個人の能力として不可能ですし、気合いをいれればどうにかなるってもんでもないのですから、「正統な伝統形式(スタイル)」がどうしても必要になる。

 これは封建の特権階級だってそうだったでしょう。

 この正統、伝統、形式というのが特に重要なのは、「どのような自覚でも良いというわけにはいかない」からです。

 それこそ新興宗教から愛国詐欺に至るまで「自覚」の論理は無数に伸び得ます。

 すると、正統、伝統、形式がなければ、それは単なる「相対主義」か「狂信」か「オタク趣味」か「専門主義」に堕することになり、そうなった時点で「快楽・不快の生」へ転落することにもなる。



 ここで、現代の日本でも許され得る最終最後の正統な伝統スタイルとは「天皇へ頭を垂れる私」というスタイルであると前提します。

 これはプロテスタントの「ゴッドと私の関係」と被るようでいてやはり違うものです。

 日本人の個人は別に天皇へ語りかけたりはしません。天皇は天の下をシラしめる存在であり、その眼差しに対して頭を垂れるというのが日本人のスタイルなのです。

 そして、天皇へ頭を垂れる私が思考し他者と関係するから、「日本による愛のようなもの」をこの日本語の世界で自覚的に活かすことができるというわけです。

 これらは愛国心という言葉よりは、「信仰心と忠誠心」と表現する方が適切なのかもしれません。

 でもこれをとりたてて「愛国」という言葉でまとめあげなければならないのは、「近代」の問題の他に「国際」という問題が存在していたからです。

 そもそも我々は、普段は愛だなんて言葉をポンポン使ったりはしないものの、一定の「危機」に面した時はギアがひとつ変わり言葉が直栽的になったりします。

 別にギアが変わるからと言って「日本人が立ち上がる」とかそういう話をしているのではなくって、たとえば災害や事故や家庭的な危機に直面した時、普段当たり前だと思っていたものへの愛着が急に自覚されて、言葉が直栽的にならざるをえないことはあるでしょう。

 日本国家という単位で見れば、二百年近く前からは常に「危機」の状態にあるわけです。

 何故なら、この先もっともっと地球が狭くなって日本国家が溶けて流れて消滅する
であろうことは、ほぼ確定的に思われるから。

(◇ちなみに、「それで何が問題なの?」となってしまうと、我々には子供を作る正当性がなくなります。だって、日本を永劫続かせようという意思が前提にあるから、この日本の世界観の中で生まれて死んで、死んで生まれてする必要が出るので、子供を作ることが低劣な行為ではなくなる一縷の可能性が出るわけでしょう。そうでなければ、子供は単なる欲望と避妊失敗の産物であるか、単に「愛玩」のためにしつらえているということになってしまうのです)



 この国際化による百年単位の危機の下で、日本人を束ね、中央政府以下一億連帯するために直栽的な言葉が必要である部分はあるのです。

 例えば、愛国的連帯がなければ新幹線を通すという事業を共同することはできなかったのだし、市民社会や産業社会も協力や共同の枠組みがなければ存立しえない以上、日本人の愛国的連帯が基礎になければ存立していない。

 現今存立しているように見えるのは、崩れてゆくまでのタイムラグにあるというだけなのですから。

 戦争で愛国的連帯が必要なのはもちろんのこととして、現在当たり前のものとして使っている多くの制度や組織や共通の事業も、愛国的連帯がなければ成り立たないことは明らかなのです。

 なのに、ほとんどの連中がこれを知らんぷりしているのは本当にムカつかれることです。



 ただ、こうした国際的な危機に対して求められた戦争能力、市民社会、産業社会を仕立てるための愛国的連帯は、何事か「私」の「国によって愛する心」から乖離することになります。

 直栽的な言葉で人を束ねる政治的な愛国心は、心そのものを画一的に寸断するものでもある。

 言い換えれば、「愛国的連帯」は、「天皇へ頭を垂れる私」と衝突することがありえるということ。

 そして、「政治的な愛国的連帯」が、「私の国によって愛する心」を踏みにじらざるをえない時もあるのです。



 例えば、「徴兵」などはその可能性を含みますでしょう。

 もちろん、この場合も「国によって愛する心」と「愛国的連帯」が重なる部分もあるでしょうが、乖離する部分もある。

 例えば、ここに祭りの若衆などやって地元に埋め込まれていた妻子持ちの土方の青年がいたとします。

 そんな彼が兵隊に取られた場合、愛国的連帯にコミットできる部分と、地元を離れたくないと思う部分とが当然あるでしょう。

 それでもその時、国家に兵隊が必要であるなら、「政府の強権」は彼へ兵役を強制する義務があるのです。



 また、こうした政府の強権的な力学は別に徴兵でなくても、現在も市民社会や産業社会を通して当たり前のごとく働いている力学でもあります。

 でもそれは仕方のないことであるし、むしろ現在は政府が統治力を手放しすぎなところの方が多い。



 ただし、ここで気をつけなければならないのは、こうした政府の強権は「強権を振ってる感を醸すこと」や「支配することそのもの」が目的化するおそれがありうるということです。

 地球の狭くなる危機に対応するため中央政府に強権を集中させざるをえず、ゆえに「国によって愛する心」を踏みにじってしまう領域までは万やむをえないにせよ、「強権を振るっている感」を醸し出すための改革が「国によって愛する心」を踏みにじることはあってはならない……ということだけは言えます。

(◇また、こうした改革が実は統治権力を手放す改革である場合が多いのも留意しておかねばなりません。現首相もそうですが、平成の諸改革の強権性は政府機関の強権性ではなく、「慣習を破る手続き的な強引さ」である場合が多い)



 しかしでも、ならばその政府が「正しく強権を振るっているか、強権を振るっている感を醸しているだけか」を判断するのは誰なのでしょう。

 民主主義の発想では、国民がそれを判断するというわけでしょう。

 でも、その「国民」という意味が単なる「日本国籍を持った一人一人の人間」ということならば、到底うなずくことはできない。

 一人一人の判断の寄せ集めが全体の判断として正当性を帯びてしまうと、単に「あーしたい、こーしたい」とか「政府に縛られたくない」とか「徴兵される確率を1%でも下げておきたい」とか「政府に権限を持たせているのがムカつく」といったような力学も判断の正当性に含めてよいということになってしまうでしょう。

「政府権力の暴走を防ぐため」という根拠でこうした請求に正当性を付与する理屈は詭弁中の詭弁です。

 第一そんな醜い力学ならば、別に政府の暴走に轢かれたとて何の問題もないじゃないですか。



 ただ、もし「国民が判断する」の意味が、「国によって愛する心を国民全体で活かして判断する」という意味であれば、とりあえずうなずける。

 そして、「国によって愛する心を国民全体で活かして判断する」 とはどういうことなのか……というところに至って、議員制内閣制度や自民党の構造、地方構造、産業構造、省庁構造における「政治的慣習」や「手続き」に、過去から現在に至る総国民の叡知があらかじめ埋め込まれている……という話をすることができるのであり、愛国論は保守政治論に繋がりをみせるのです。



 ただしそれでも、その構造自体が現在どれほどぶち壊されたかという評価や、危機に応じた独裁権力の必要の評価という厄介な問題は残りますけれど。


(了)

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特別会計を膨らまそう! 


 中央政府の予算には「一般会計」と「特別会計」「財政投融資」があります。

 普通に政府の予算といえば「一般会計」の方を指していることが多いです。
 こちらの方が予算委員会などがテレビ放映されてメジャーなのです。



 一般会計は、所得税や法人税、消費税といった目的を限定しない税収入によって賄われます。
 支出は一年がかりで各省庁が請求をして、最終的に予算委員会で国会議員が予算案を通すというものです。

 特別会計は、かつての道路特定財源のように、「ガソリン税で道路を作る」というふうに目的を限定した財源によって、各々独自採算をとっているものです。



 で、だいたいこの「特別会計」は、大衆によって「政府の無駄遣い論」の悪玉にされてきたのがここ二十年の歴史です。

「一般会計の陰に隠れて、特別会計で政府はムダづかいしているに違いない」

 ……というわけです。

 もちろん、こういう「チープ」な決めつけは少し実体を見てみれば言い過ぎだということがわかられるものですが、これが大量の世論ともなると、「一般会計の陰に隠れて、特別会計で政府はムダづかいしているに違いない説」が有力になる。

 小泉首相の「聖域なき構造改革」や民主党の「事業仕分け」は、これに類するものです。

 また、第一次安倍政権(第一次ですよ?)の、道路特定財源の一般財源化などは、明確に小泉首相の「聖域なき構造改革」の後を継いだものであった。

(※これはいわゆる「右も左も大衆に媚びへつらっている」ということの典型です)
(※また、特別会計の「埋蔵金」などと言われ、「財政赤字が大変だデマ」を根拠に「ムダを削れ論」が多くされてきた)



 こういう21世紀の「大衆的予算観」を、我々は真剣に反省しなければならないのだと思います。

 そもそも、自主財源を持つ公的な事業は、「国家にとって大切」なものです。

 特別会計にも、もちろん「ムダ」があるかもしれないことは否定しませんが、「もっとやるべきで足りない」という部分がある可能性だってありますでしょう。

 でも誰もそんなことは言わない。「ムダを削れ」の方ばかり言う。

 何故かと言えば、「権力者が俺たちの税金をムダづかいしている!」と言っていた方が気持ちイイし、世の中で通りが良く、処世的に都合がイイからでしょう。

 みんなそういう力学であることを薄々感じとりながらも、国家のことよりその場その場の処世の方が大事だから気づかないフリをしているだけに違いないのです。



 そういうゲロ以下の大衆力学が全体として集約された予算観が、本当に国家を毀損してきたのでした。

 これは、本当にリベラルも保守もそうだったのです。

 リベラルは政府に対する情報開示的な志向で。

 保守は新自由主義的な志向で。

 ちなみに、新自由主義、市場原理主義的な志向で特別会計がムダ扱いされるのは、あらゆる需要を「民間市場で需要されるもの」を基礎にして価値見積もりする「価格観」が基礎にあるからです。

 山本幸三地方創成担当大臣が、

「ガンは文化学芸員。観光マインドがまったくない」

 などと発言したのは、まさにその薄く広く甘く蔓延しているイデオロギーが基礎にあるからに違いないのです。

 言うまでもなく観光は市場で需要されるものですが、文化学芸員の仕事はむしろ「国家的な文化の再解釈そのもの」にあるに決まっているじゃないですか。

 このように市場原理主義者は、こうした国家、政府が政治的に需要する他ない「公的需要」を価値として換算しない価格観を有している。

 仮に公的な事業に価値を認めたとしても、「最終的に民間市場の価格に裏打ちされた価値を生み出すか否か」のみをその存立根拠として認めるにすぎない。

 そこには、極めて強い個人主義が胚胎しているのであるし、単にこうしたバラバラな個人主義が寄り集まったものが国家……という空虚な国家観が根底にあるとも言える。

 だから、こうした市場原理主義に、リベラルも結託してきたのです。

 リベラルは、「弱い人が可哀想」と言って新自由主義を攻撃しながらも、都合がイイ部分だけ(政府を糾弾できる部分だけ)市場原理主義的な枠組みを採用して、それでもいけしゃあしゃあと「自分たちは保守とは違う」というふうに振舞ってきた。

(※もっとも、リベラルは「国家にこだわらない」ことを前提にしているのであるから、論理的に整合してはいるかもしれないのだけれど、それは「論理的に整合している」ということ以上の価値を持たない整合です。だって、国家にこだわっていないのですから)

 ・

 加えて言えば、こうした「公的な需要」というのは、何も「経済」の足を引っ張るばかりではないのです。

 デフレということを考えれば、「政治的な需要」というものは確固たる有効需要であるし、確固たる有効需要は投資の「確実観」にも繋がる。

 また、長期的に見ても、別に「民間の需要」に対して「政治的な需要」が増えたって全然問題ないでしょう。

 GDPに占める政府支出の割合が増えるだけです。

 政府の支出は国家にとって大切なことをやるのであるし、仮にそうでないと思ったとしたら「改善する」根拠にはなったとしても、別に「削る」根拠にはまったくならないのです。


 ならば、例えば一般会計の特別会計への繰り入れなど、かつてのやり方を見直してみるのも良いのではないでしょうか。

 たとえば、再び道路特定財源を作り、特別会計で道路を作るとか。



 で、こういう発想は、我々日本人はリベラル的発想では無理で、おおよそ「ナショナリズム」を喚起してしか行われないと、私は強く感じているのであります。

 我々が「公共の価値」というものを想えるのは、日本へのこだわり、ナショナリズムが基礎にあるからこそでしょう。

 少なくとも私はナショナリズムの基礎がない公共的価値なんて想定不可です。

 逆に言えば、ナショナリズムが霧散してしまったので、公共の価値が空洞化したということでもあるに違いないのだけれど。


Category: 政治&経済:財政規模、大きな政府

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憲法記念日と安倍首相の改憲ビデオレターについて 

 憲法記念日に首相が改憲の意思を明確にするビデオレターを発表されたそうです。

http://m.huffpost.com/jp/entry/16405764

 その内容は、9条に自衛隊を明記するという案でした。(2項は据え置きで)

 これはどう考えても毒にも薬にもならない改憲案です。
(ちなみに、以前言われていた改正条項の改正は「毒」ですからね!)

 意地悪な言い方をすれば、安倍首相はとにかく毒にも薬にもならなくても「憲法改正」という保守っぽい功績が欲しいということでしょう。

 いや、私は別にそれ自体には反対しないのですよ。

 でも、毒にも薬にもならない憲法改正のために犠牲にしてよい見積もり分というものがある……ということは言えますでしょう。

 安倍政権は、かつて
1「改憲のため」
 に
2「維新の会の協力を得るため」
 に
3「大阪都構想に際して大阪の自民党を裏切った」
 という前科があります。

 この場合、もし「前文を破棄する」とか、日本の100年を決定付けるような改憲であるならばまだしも、「毒にも薬にもならない改憲で保守っぽい功績を得るため」の犠牲としてはデカすぎます。
(ちなみに、9条2項破棄や前文破棄では、維新の協力って得られないですからね!)
 大阪都構想は住民投票で否決されたからまだよかったけれど、大阪市という重要な都市の存立と引き換えに「毒にも薬にもならない改憲で保守っぽい功績を得る」のは、マイナスがデカすぎでしょう。
 さらには、自民党の結束を損なっているわけですから。

 毒にも薬にもならない改憲に「一石を投じる」的な意味があったとしても、その引き換え材料の判断基準が狂っているのが問題なのです。

 逆に言えば、こういう安倍政権の「保守っぽい格好つけ」に最大の尽力をつくしまくる性質が問題なので、私は別に改憲の意思の表明そのものは問題だとも思いません。

 ただ、改正目標は「2020年に」ということですが、2018年にはまた自民党総裁選があります。
 自民党の建て直しを思えば、来年はもう引き下がるのが正しいと思うのですが。


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政治制度改革と安倍政権 

 今、安倍政権論を用意しているのですが、その中で一つの重要な腐食の根源地だと思われるのが、政治制度改革だと考えています。


 昨今、安倍政権の問題として言われるのが、

「自民党における党執行部の権力の増大」

 という話です。

 色々省きますが、これは問題なのです。

 一部では、
「腐った自民党にとらわれずに安倍さんが保守っぽいことを断行してくれている」
 というような保守派もいますが、これは間違っています。

 第一、安倍政権の保守っぽい政策は別にサヨクに見せつけるためのお題目的なものばかりで、事実上意味をなさないものがほとんどなのです。
 事実上意味をなさないものについて保守っぽいから反抗しているのがリベラルであるなら、事実上意味をなさないものについて保守っぽいから信任しているのが保守ということになる。

 で、さらに言えば、保守っぽい人も「自民党の構造」というのが嫌いな人が多いから、首相が何か断行している感を醸すことそのものがスッキリするわけです。

 これは小泉改革と同じ構造で、安倍首相の場合、「保守っぽさ」を小泉元首相より多く醸しているというだけです。

 事実上意味をなさないものを断行するのに、さらに「自民党の構造」を蔑ろにするというのは、その時点でよろしくないと思われます。

 何故なら、私は「自民党の構造」は大切だと思うからです。

 さらに言えば、日米構造協議以来の「構造改革路線」の「断行」も、その裏でひっそり続けられてきた。


 ただ、これらは安倍首相だけの問題ではないということも確かなのです。

 例えば、現在内閣が自民党の構造を無視できるのは、先程も言った通り、党執行部の力が相対的に上がったから。
 これは小泉首相時代から同様のことです。

 では何故、党執行部の力が強くなったかと言えば、政治資金規制法と政党助成金によって党議拘束される力が強まり、自民党議員が派閥より党執行部の顔色を窺わなければならなくなったからでしょう。

 政党助成金については、

「国民の税金で政党を養うなんて!」

 的な批判は多くされましたけれど、「自民党の派閥や族議員を疲弊させる」という批判はあまりされていなかったように思いますよ。
 みんな自民党の派閥政治や俗議員を「悪者」扱いしてたじゃないですか。

 この大衆力学がなかったかのように、事を安倍晋三個人の問題に集約するのは卑怯ですよ。
 だってそもそもは、政治制度改革とその方向性の継承で、みんな間違ったキレー事を言い続けてきた結果がこれなんですから。
(※安倍首相個人の人間性に問題があることも否定しないけれど)


 すなわち、(小選挙区制度の問題はまたやりますけれど、)「政治制度改革」というもののなれの果てが小泉首相を産み、同じ構造で安倍首相が元気を出しているという話なのです。

 だから、この政治制度改革の反省なくして、安倍政権の反省はできない。

 言い方を変えれば、「政治制度改革」に蔓延る民主的な「思想」を反省する意味合いで安倍政権を反省するという筋道を立てなければならないのであって、単なる「安倍憎し」では意味がないということでもあるのです。



Category: 政治:政治制度改革批判

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「国債が破綻する論(デマ)」のモチベーションは反政府 


 日本の国債が破綻する……という流言飛語は、大衆の反政府的なモチベーションが元にあります。

 この「国債が破綻する」というデマは、私が中学の二年か三年の時、小渕政権の頃から言われていたことです。笑っちまいますが、ほんとうにその頃から「あと~年で国債は破綻する」と言われていたのです。
 私も高校生くらいまでは「そんなもんかなー」っと思っていましたが、20歳くらいになると、これは「大人のウソ」だということがわかった。

 そもそも、大人というのは国家を嫌い、政府のことはもっと嫌う性質を持つものだということは、小学生の頃から知っていました。
 大人たちは「処世」として、あるいは世の中で傷ついた心を「癒す」ために政府を嫌う。
(※でも、影に「そこから超然とした政府の人」がいるから日本は回っているのだと思っていましたが、それは勘違いでした。その頃にはそんな立派な存在は多分なく、単なる慣性によって社会が回って、政府を含めた全員が政府を嫌い、順当に没落してゆくという段階にあったに違いないのです)


 国債が破綻する……という流言飛語も、その一形式です。

 世の中で流通している最もメジャーな反政府的形式は、

「政府(権力者)は、国民の税金を無駄遣いしている!」

 というものです。

 で、国債が破綻するということにしておけば、「政府が無駄遣いをしている」という糾弾の一根拠にすることができてメシがうまいというのが一つある。


 さらには、これは「政府を制限する」という民主主義的なイデオロギーとも関係があります。

 すなわち、「国債が破綻する(デマ)」を言うことで、「政府機関の支出を制限する」ことが民主的に可能というわけです。


 で、一方、現代は嫉妬を祖にしたデマに踊る大衆による民主主義の時代ですから、「政府をやる人」も「政府権力を制限する振る舞い」をやらねば存立しない。

 だからほぼ無自覚的な処世術の一つとして、「国債は破綻する」→「政府は財政規律を守らなければならない」という型が「社会人」として身に付くのです。
 これは、上から下、右から左まで全員そうなのです。


 本当は、もっと国債を発行して、もっと財政を支出して、政府需要によってお金の回転スピードを上げれば、そのスピードに準拠した民間投資と消費が信用創造(民間の借金)と共に少なくともデフレくらいは克服でき、それなりの経済力は維持できたはずです。

 でも、一瞬間一瞬間の社会人たちがそんなふうに考える思考回路を持たないことも、この十年くらいで痛いほど理解しました。
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戦前コスプレ保守について 


1 当たり前だが、今は戦前にはならない。
(これは「今を戦前にさせない」と言う左翼にも共通した滑稽さであるけれど)

2 そもそも「戦前は素晴らしかった」と言った時、そのひとつひとつが極めてテンプレートに過ぎる。

3 また、そのテンプレートの多くは欠陥が多すぎで、「純粋近代に刃向かうものとしての戦前を言いつつ、韓国を近代化させたのは日本だと自慢する」という矛盾や「大東亜戦争の目的は結局なんだったのか」についての解釈の非論理性は、リベラルからすると格好の餌食。
 さらに、「特攻隊を裏切り、本土決戦前に降伏した罪」などについてはゴマカシまくって筋立てない都合の良さ。

(※ちなみに、昨年の今上陛下の御言葉にただちにお応え申し上げ、皇室典範を皇室へお返し申し上げるべきだったのはこのことと関係する。そもそも、大東亜戦争で「後に続く者を前提に先に死んだ者」を裏切ってまで降伏したことに一縷の理があるとすれば、それが「勅」であったから。でも、ここには坂口安吾の言うような可能性がある。すなわち、「天皇陛下がおっしゃるのであればやむをえない……という体で、実は天皇が降伏を命じてくれてホッとしていた」という低劣な可能性である。でも、これまでは当然「そうではない可能性」も微かにあった。しかし、昨年の今の天皇陛下の御言葉にこうもグズっているとなると、結局のところ我々はなにか刹那的に都合の良いときだけは御聖断を仰ぐけれども、そうでもないとき、それこそ「GHQにより皇室典範が法律の系列下に置かれてしまっているという戦後体制からの脱却」などに関しては都合が悪いからグズる国民だ……と解釈せざるをえなくなる。すると、あの時もやはり単に「先に死んだ者を裏切る」ということを天皇のせいにしていただけだったという話になってしまうのである!)

4 その意味でこういう手合いは、「幕末、戦国武将、平安ロマンなどに都合の良いファンタジーを感じ、様々な二次設定をこしらえてしまう歴史オタク」と根本的に変わらないがゆえに「コスプレ保守」と区分するのが適切。


5 このことからも昨今保守派(?)の想っている「戦前」とは、単に「今の感覚から見て都合の良い『戦前』のイメージ」である疑いが強い。

5 ただ、そこでこうした「都合の良い『戦前』のイメージ」 を「戦前そのもの」とみなして反発するのは筋違いである。この場合、「今の感覚から見て都合の良い戦前のイメージをしつらえる『態度』そのもの」に反発することが大事になってくる。
 例えば、永遠のゼロやAPPA懸賞論文、少し前に話題になった森友学園塚本幼稚園の表現するものを「戦前」とみなして反発すると、一方でその「今の感覚で過去を裁断して作り出した安っぽいイメージ」自体は継承した上で反発することになってしまう。ムカつきポイントは「今の感覚で過去を裁断して自分に都合の良いイメージを作っているヤツらの『態度』そのもの」なのである。
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