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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2017年06月  
  

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グローバル化とグローバリズムの違い 


 世間では、

「グローバル化(グローバリゼーション)」

 と

「グローバリズム」

 は同じような意味で使われることが多い。

 これは教科書などでさえ用法が曖昧だったりします。

 ですが、これら2つは、ちゃんと区別をつけて使用すべきだと思います。


障子


「グローバル化」

 というのは、「観察者」視点でその現象を指し示す言葉です。

 すなわち、

「(国境を無視して)地球規模的に、情報、モノ、人、資本が移動するようになってきている『現象』」

 というふうに、社会的な「現象」を指す名詞でしょう。

 この単語そのものに価値判断はないのであって、つまりこれだけでは「良い」とも「悪い」とも言っていないという名詞なのです。

 これは例えば、台風という名詞が、「熱帯低気圧の発達した現象」を指し示す名詞であるのと同じです。

 すなわち、当然ながら、このグローバル化という現象をどう見るかは前後の文脈によって変わる。


 ◆


 逆に、「グローバリズム」というのは、「特定の進歩観」を前提した「イズム(主義)」を表す言葉です。


 すなわち、

1 (国境を無視して)地球規模的に、情報、モノ、人、資本が移動するようになれば……

2 ……情報、モノ、人、資本は(平均として)個々の合理的判断の下に均衡するから、地球全体として効率的な資源配分(パレート最適)が実現するはずだ……

3 ……ということを大義名分として、この大義名分の下に決定せられると想定される「価格決定」や「情報、モノ、人、資本の移動」が、「最も正当である」と前提して……

4 ……各国の政府が、国家の産業や地域の既得権益を保護するために敷く規制を「不正当なもの」として糾弾し、これを剥奪しようとする『主義』。

 というふうに、「人類」の「進歩観」としての合理体系を有したイズム(主義)を指し示す名詞です。


 ですから、この単語には、グローバル化という現象を指す意味に加えて、

「グローバル化を進歩として前提し、その実現のために経済から国家を退場させようとする主義」

 という意味合いがある以上、その主義の上では「グローバル化」は「肯定すべきものである」と前提されていることになります。

 また、この主義の上では多分に、

「人間が合理を基礎に、国家から逃れられること」

 を肯定的に見る、ホモエコノミクス(経済人)としての人間性礼賛が底流にあるのです。


 ◆


 で、問題は、なぜ「一般的に広く」この両者が曖昧な使われ方で、同一視されているか……というところです。

 それは、日本人の多くが、別に主流派経済学者でなくとも、新自由主義者でなくとも、経済学を学んでいなくとも、

「ナチュラルにグローバリスト(グローバル主義者)」

 だからであろうと、私は強く疑っています。

 つまり、グローバリズムという語を「イズム(主義)」として理解できないのは、もはや日本人にとってそれが当たり前すぎる「進歩観」として、無自覚的に埋め込まれてしまっているからではないか、ということ。

 無自覚的に当たり前の進歩観として前提しているものを「イズム(主義)」として相対化するのは難しいことです。

 それは、民主主義を「イズム(主義)」として相対化するのが難しい のと同じです。



 あるいは、こういう可能性もあります。

 つまり、日本人の多くは、ある社会現象が起これば、それに従って進んでいくのが「人類の進歩」であると前提してしまっているという可能性です。


 と言うか、「人類は進歩するものである」というストーリー、

「進歩主義」

 が、多くの日本人の脳の底に前提されてしまっているから、

「進歩する人類の起こす社会現象は、大枠でいって正しい」
 
 という回路が、ほぼ無自覚的に埋め込まれているから、


「民主化」という現象が起これば同時に「民主主義」が進歩観として前提されるので「民主化と民主主義」という言葉の区別がされなくなる

 のと同じように、


「グローバル化」という現象が起これば同時に「グローバリズム」が進歩観として前提されるので「グローバル化とグローバリズム」という言葉の区別がされなくなる

 という話なのかもしれません。


(了)


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Category: 経済:反グローバリズム

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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内閣支持率を調査するという不道徳   


 安倍内閣の支持率は未だ高い水準を維持しているらしいですね。
 
 加計学園問題で少し下がったらしいですけれど、毎日新聞以外ではそれほどでもないという。
 
 たぶん、世の中の大多数の人は安倍さんしか政治家の名前を知らないので、(あるいは、「世の中の大多数の人は安倍さんしか政治家の名前を知らないだろう」と大多数が見ているので)
 
「他にやれる人がいない」
 
 などと思うのでしょう。
 
 本当は、他にやれる人がいないだなんてことは絶対にないと思いますけれどね。
 
(もちろん、安倍さん以外なら誰でもイイというわけにはいかないし、政党としての政権担当能力という意味で「自民党政権であること」は必要条件ですが)
 
 
 
 でも、そーゆー具体的な話の前に、そもそもこうして
 
「内閣支持率を調査すること」
 
 そのものが議員内閣制の下では「不道徳」であるということを我々は知らねばなりません。
 
 我々の犯してきた多くの間違いは、8割方こうした「前提」からして間違っていることから発生しているはずだからです。
 
 
 カメラ

 
 
 言うまでもなく、我々は議員内閣制度の前提で国家全体の政治をまかなってきました。
 
 議員内閣制度とはすなわちこういう話です。
 
 
 
1 まず日本国民全員が各選挙区などから「国会議員(立法府)」を選ぶ。
 
2 で、その国会議員が「内閣総理大臣」を選出する。
 
3 天皇が内閣総理大臣を任命する。
 
4 内閣総理大臣が「内閣(行政府)」を形成する。
 
 
 つまり、我々一人一人が配分されていて然るべき政治権力は、1の「国会議員(立法府)」を選ぶというところ「のみ」のはずなのです!
 
 
 なぜこんなふうにするかと言えば、大きく分けて二つあります。
 
X 「立法府」と「行政府」の連絡を担保するため。
 
Y 「民主主義」に「間接性」を担保するため。
 
 です。
 
 
 
 今日は特に「民主主義に間接性を担保する」ということに着目しましょう。
 
 上記のように、議員内閣制度では、国民の一人一人が「直接」に「行政」へ介入しないようにすることが可能です。
 
 つまり、「直接民主主義」を制限し、民主主義に間接性を保たせる工夫なのですね。
 
 だから、そもそも国民の一人一人が総理大臣を直接的に「支持する」とか「不支持だ」とかピーピー述べ立てては、せっかくの間接性がだいなしでしょう?
 
 
 
 この、「だいなし……」ということの意味をもう少し具体的に詳らかにしてみます。
 
 たとえば、ある時に内閣支持率が高水準だったとする。
 
 すると、
 
A「内閣総理大臣や党執行部」
 
 と
 
B「国会や自民党」
 
 という力関係において、Aの力が「世論の支持」の背景を背負って増大します。
 
 
 つまり、例えば「内閣総理大臣が世論で人気のようだ」となったら、「党の意見」をある程度無視してしまえる。
 
 とりわけ小選挙区制度が採用されてしまっている現在では、「党の存立」そのものが「内閣総理大臣の人気(内閣支持率)」の如何によって左右されてしまうケースが多くなってしまっています。
 
 
 この場合、「党内の意見」の方も各選挙区や産業既得権益の代表(政党=Party)という意義をきれいサッパリ忘れて、内閣総理大臣が人気を得ている内容に沿うよう屈服するようになる。
 
 とりわけ、政治資金規制法の改正後は、政党助成金や党の公認が非常に大きな意味を持つようになってしまっているので、すなわち(総裁を中心とした)党執行部の権限が増大していることになっています。
 
(政治資金規正法の問題は、「政党をまかなうために税金が使われるなんてオカシイ」みたいな安っぽい話ではないんです!)
 
 こうした状況では、内閣総理大臣は、党や国会の力を排除するために、「内閣支持率(世論の人気)」を得ようとする。
 
 というか、そうせざるを得なくなっていて、逆に「内閣支持率(世論の人気)」を得ていない内閣の政権基盤は極端に脆弱になってしまっていたし、党そのものの存立にも大きくかかわってきてしまう。
 
(くどいようですが、小選挙区制度を採用してしまったのでより一層!)
 
 言い方を変えれば、そーゆー内閣総理大臣でなければ、一定期間政権を維持できなくなってしまっているのです。
 
 
 
 でも、これってようするに事実上は「首相公選」と何ら変わらない、世論による直接的な民主主義が実現されてしまっているということになるでしょう?
 
 つまり、「世論の圧倒的なパワー」が「内閣総理大臣」を支配し、「内閣総理大臣」が「自民党」を支配する力学が大きすぎるので、結局のところ世論が直接政治を執ってしまっているのと何ら変わりのないことになってしまっているということです。
 
 
 
 そして、むしろ
 
「それでいいのだ」
 
 としてきたのが、平成のインテリ連中であり、政治制度改革に乗っかって来たすべての大人たちであり、民主主義者たちなのです。
 
 すなわち、自民党の部分部分の意見を排除して、世論が直接政治に介入するのを「進歩」として前提してきた、「ナチュラルな民主主義者」たちです。


 ◆


 このことがまず不道徳であった……という反省から始めなければ、安倍首相の問題も何も解けないのです。
 
 すなわち、本来我々一人一人は「内閣、行政」へ直接口を出すケンリなどないのであるが、首相を中心に内閣、行政の方が「世論全体の雰囲気を直接導入する気配」が濃厚であるならば、そのことを糾弾する限りにおいて万やむを得ず直接糾弾しないわけにはいかない……というのが現状最も正当性のある組み立てではないでしょうか?
 
 そして、この正当性を担保するためには、それこそ是々非々というか、「腑分け」や「論理」「そもそも論」など言葉にこだわる必要があり、「乱暴を避ける気力」を手放さないことが求められるはずなのです。
 
 だって、簡単に言えば、
 
「安倍首相が乱暴を言うからと言って、私が乱暴を言って良いという話にはならない一方、乱暴を乱暴と言わないと世の中オカシなことになる」
 
 のであるし、そういうことの基準は、例えば議員内閣制度とか、過去の制度や構造を引用し、そこから現状いかに逸脱しているか、またどこまでの逸脱が不正当と見積もられるべきかを丁寧に論理立てられて初めて生じるはずでしょう。



(了)
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Category: 政治:安倍「批判・擁護」問題

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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東京都議選(2017)と大衆力学に与する公明党 

 
 7月2日開票の東京都議選が、先の6月23日に告示されました。
 
 定数は127(過半数64)で、259人の立候補があるようです。
 
 
 注目されているのは、「自民党(現有議席57)」と「都民ファーストの会(現有議席6)」の攻防です。
 
 その中でまず目立つのは、公明党(現有議席22)の問題だと思います。
 


  
 《覆面シンガー三沢カヅチカ、衝撃デビュー!作詞:適菜収》



 と言うのも、公明党は今回、自民党を裏切って都民ファーストの会と相互推薦をしております。
 
 つまり、都民ファーストが注目を集めているから、今は都民ファーストと協力しておいた方が生き残れると判断したからでしょう。
 
 ちなみにこれに類似した昨今の例をあげると、公明党は大阪でも維新の会へすり寄って、住民投票で否決されたはずの大阪都構想の再度の法定協議会設置に与しています。
 
 だのに、いけしゃあしゃあと国政では自民党に追従している。
 
 すなわち、公明党は「各地、各場面でその時々の強いものに媚びへつらっている」だけなのです。
 
 
 ・
 
 
 とは言え、私は別に公明党そのものを別段非難したいのではありません。
 
 こうしたことが問題なのは、公明党の阿諛追従が、常にその場その場で人気の出た改革騒ぎを後押しする力学となるということです。
 
 というのも、既存の権力構造から権限をはく奪する「平成的な改革」における「敵」は、時の流行りによって「あの既得権益を滅ぼせ!」「この既得権益を滅ぼせ!」とて移り変わってきましたが、その流行の中心では「既得権益を打破する改革者」への「人気」として発露されているケースが散見されてきました。
 
 だから、「流行を捉えた改革」を言えば、人気者になり、浮動票を中心にそれなりの票を得ることができる……というのが、国政では小選挙区制度導入以降顕著になった大衆力学であり、都市部の地方選挙ではより過激にその傾向が見て取れたのであります。
 
 大阪における維新の会などはまさにそれでしょう。
 
 
 
 さて、この都議会選挙も、小池新党たる「都民ファーストの会」と「公明党」の併せた議席が過半数を超えて、
 
「都議会改革」
 や
「都庁の役人組織の改革」
 
 をやれるかどうか……が大きな焦点になっています。
 
 
 すなわちこれは、「自民党の旧来的な都議会構造や役人から権限をはく奪する」というような使い古された……また、これまで平成の間、何度も失敗してきたストーリーを、東京の高度に大衆化された市民たちが性懲りもなく欲しているということです。
 
 一方、小池知事は豊洲新市場に関するちゃぶ台返しの失態を他党から厳しく追及されておりますけれど、そして、おそらく都民は豊洲の件については「マズい話だった」と心の奥では思っているのでしょうけれど……いや、そう思っているからこそ、
 
1「豊洲の件は置いておいて」
 
2「より大きな話の都議会改革や役人改革について考えよう」
 
 というような精神的逃げ道に流れ込む可能性が非常に高いのではないでしょうか。
 
 
 こうした浮動票的な大衆力学に対して、「安っぽい改革ストーリーからは距離を保っておこう」とする常識的な固定票層が、どれだけ旧体制を保守できるか……という攻防でもあるはずなのですが、そこで公明党の力学が、改革大衆、浮動票側へゲタを履かせてしまうという話になっている。
 
 公明党だけが悪いのではないですけれど。
 
 
 
 ただ、特に国会議員の応援演説では(国会議員は自分には直接関係するものではないから)、当の自民党すらこれに引きつられる形で「改革」を述べ立ていたりするのだから、「選挙」というのはいつでもどこでもおおよそ悪いことしか起こらないものだなあ……とつくづく思います。
 
 
(了)


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Category: 法制:規制緩和批判

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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人手不足騒ぎのチャンスと罠 


 昨今、人手不足ということがいわれております。

 すなわち、団塊の世代が引退し始めておおよそ十年。

 一方、少子化が進んでいるので、新卒数は減ってきている。

 ということは全体を見ると、

「引退する数」>「新入社員」

 となって「現役世代」の絶対数が減ってゆく……というものです。


レゴ






 このことはずっと言われていたのだけれど、昨今の有効求人倍率の上昇を受けてか、

「人手不足騒ぎ」

 とも言える騒がれ方をしているのが非常に気になります。

 それは、どちらかと言えばネガティブに、

「現役世代~人で、引退世代~人の暮らしを負担しなければならない」

 などと言われてきた、その筋を再燃させるという形で。


 ◆


 しかし、私はこの「人手不足」は現今の(経済問題、大衆社会問題、政治問題を含んだ)長期デフレ状況においては、

「チャンス」

 の要因と見ます。

 何故なら、「人手不足」はデフレギャップ(潜在供給力の過剰)を是正する要因になるはずだからです。



 第一に、労働市場が売り手市場になれば、当然、全体としては給与が(名目値で)上昇するわけで、所得に裏打ちされた需要が増える要因になる。
(また、人口の減り自体は少ないので、ありがたいことに老人たちは資産と年金で需要だけはしてくれるのです)



 第二に、人手不足で供給サイドが不足し、総需要がこれを上回る状況になれば、

「(1人が1時間あたりに取り扱える仕事量を改良していかなけれなならないという意味での)生産性」

 が、これまた需要(投資)される要因になる。
(※この投資需要増には、政府規制の強化が必須)



 これらの力学が循環し、「一定期間(例えば1年間)における全体の取引回転量」(GDP)を高めることができれば経済成長できるので、国家全体としてはそれで良いでしょ。


 つまり、この「国家の経済全体のフロー(流れ)」という観点でいけば、

「求人」>「求職」
 と、
「潜在供給」<「総需要」

 は、むしろ「国力増進に資す、適切な状態」と言えるのであります。


 ◆


 余談ですが、団塊の老人たちは、「いつまでも現場に残って年甲斐もなく口を出す」のではなくて、「引退して金を使う(需要する)」ことこそ、若者のためになり、国家のためになる……ということでもあります。

 すると、社会保障は、「ベーシックインカムや若者向けの社会保障」などではなく、むしろまず「引退世代の老人の暮らしをより保全すること」こそが、「若者に良質な労働環境と土地や国家に埋め込まれ得る席を用意する」ことにも繋がるはずでしょう。

 そして、これは一重に、「国力の増進」のためにはそうあらねばならないということなのです。


 ◆


 しかし、これは一つ扱いを間違えば罠になります。


 すなわち国家全体のフロー(流れ)を見ず、これを

「消費者効用目線=供給力の観点」

 で「のみ」捉える形で対処しようとすれば、

「外国人労働者受け入れ」
「規制緩和」
「ベーシックインカム」
「むやみな女性の活用」
「むやみな老人の再雇用」

 など、昨今まことしやかに再燃している安っぽい議論に足元をすくわれることになる。

 そうなれば、せっかくのチャンスをふいにし、文化は破壊され、日本の国力もこのまま地に堕ちることとなるでしょう。

(で、たぶんそうなるんでしょうけれど。)


(了)

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Category: 経済:デフレ問題

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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AIと技術的失業の、ナショナル旧産業への帰結 


 技術が進歩して、技術が人間の仕事を代替するようになって失業が産まれる……という力学を、ケインズは「技術的失業」と呼んだそうです。
 
 たとえば、今まで10人でせんべいを作っていた工場に、全部オートマチックにせんべいを作る機械が開発されたとする。
 
 すると、せんべいを作る上で必要とされる仕事はボタンを一つ押すだけの1人分の仕事だけになり、残りの9人は仕事がなくなりますでしょう。
 
 これを社会全体の話として考えると、要は、技術の進歩に伴う市場における分配の不整合の話ということになります。
 
 
 
 母子

 
 
 ただ、技術的失業は、「残りの9人が新たな職へ就けるようになれば良い」という話に、全体としてはなります。
 
 また、技術は旧来の仕事を減らすかもしれないが、新たな仕事を生み出す……というイメージも共有されていました。
 
 これは実際にそうなって、たとえば、機械が導入されて工場労働者(第二次産業)の必要数が全体として減ったとしても、事務、営業、デスクワークやサービス業(第三次産業)の必要数が増えれば仕事、席は創出されることになる。
 
 ですから、みんな学校では、「経済が進むと、第一次産業→第二次産業→第三次産業……と重点が変わってくる」と習いましたでしょう。
 
 
 
 しかし、今度はコンピューターができて、スマートフォンができて情報社会になると、第三次産業の仕事もコンピューターに奪われることになる。
 
 すなわち、工場労働者が機械に仕事を奪われたのと同じごとく、デスクワークやサービス業がITに仕事を奪われるという話になった。
 
 たとえば、税理士、会計士などは、コンピュータの高度な会計ソフトがこれを代替してしまって厳しい状況が続いている……というのは、もし自分で個人事業などやられていたらすぐわかることでしょう。
 
 だって、個人事業レベルならば帳簿も確定申告も、少しパソコンで伝票を打てば素人にでも簡単に出すことができるご時世ですから。
 
 あるいは、下級役人や会社組織でも数々の人間がやっていた諸事務は、コンピュータのおかげ(せい?)で、以前よりはるかにわずかな人員でこれをこなすことができているのであろうことも容易に想像できることです。
 
 つまり、社会全体で言うと、コンピュータがサラリーマンから仕事を奪ってゆくというのが21世紀の紛れもないイチ力学としてあった。
 
 
 
 では、このサラリーマンの席が減った分、あらたに創出される仕事というのはなんだ……というと、おおよそ
 
「人には、まだそのITを創る側の仕事があるじゃないか」
 
 という話になった。
 
 まして、インターネットだからグローバルで、クリエイティブな感じがしてカッコいいので、期待感は膨れ上がります。
 
 ……そうやって、膨らんでいったのが2000年代のITバブルだった。
 
 時価総額が何百億とか言って、これを背景にベンチャー企業が膨大な資金調達を行って、結局野球チームやテレビ局を買って失敗する、みたいな騒ぎは記憶に新しいはずです。
 
 この00年代の時点で、そもそもIT産業、IT事業に、全体としてはそこまでの席、仕事なんてない……ということがバレていたワケですが、昨今まるでこのことがなかったかのようにITイノベーティヴに浮かれているのは、まったくなんという記憶力の欠如かと驚かれることです。
 
 
 
 しかも、さらに言えば、昨今はAI(人工知能)というのがもてはやされだしました。
 
 これは肯定的にせよ、否定的にせよ、
 
「人の仕事をこれまで以上に劇的に減らす」
 
 ということで、見解は一致しています。
 
 
 
 これを否定的に見る見方は、「とうとう人間のやる仕事がなくなって、みんなが失業者になる」という暗い見方です。
 
 肯定的に見る見方は、単に「とうとう人間のやる仕事がなくなって、みんな遊んで暮らせるようになる」という楽観的な見方です。
 
 後者は、例えば

「人間の仕事がなくなれば、ベーシックインカム(最低所得保障)などの社会保障で分配すればよい」

 というような中学生じみた発想が知識階級にすら(知識階級だからこそ?)まかり通るようになった背景でもある。

(※嘘みたいな話ですが、「AIで失業が増えるからベーシックインカムで解決」みたいな議論は最近随所で見られます。例えば、
AIで失業 ベーシックインカムは正しい解決策か』)


 ◆

 
 しかし、私は、AIがいくら発達しても、人間のやる仕事は「本質的には」充分に残されていると確信しています。
 
 根拠は、「人間が本質的には国家を基礎に生きている」というところにあります。



 具体的に言うと、一つに旧産業の職はむしろ人手不足にあるということ。
 
 土木建築現場の作業員やトラック運転手、あるいは飲食店員など、機械で代替できない現場の肉体労働というものは、この現実の複雑さを見れば無数に残るはずです。
 
 そして、分配というならば、こうした職種に対して給与所得が大きく割り振れるように「政府規制を強化」していく方が、単純な社会保障よりも労働の活力に資す上に、国力の増進にも資するはずなのです。

 
 
 もう一つは、判断する者としての公務員です。
 
 AI(人工知能)やITでは絶対にできないのは、「公に判断したり、需要する」ということでしょう。
 
 だって、AI(人工知能)には、「国家や人間にとってなにが大切か」という価値判断は論理的に言ってできませんから。
 
 仮にしたとて、AIが「超人間的」な判断で「それが国家にとって大切だ」と言っても、人間視点ではその価値判断が正しいかどうかを確かめる術はない以上、これに従うわけにはいきません。
 
 つまり、人間が……というより、有機的な人間組織が「状況判断」するとともに循環するのが国家である以上、それは「我々が判断した」ということそのものが求められるものであり、仕事なのです。
 
 そして、国家は膨大で複雑ですから、多くの部門や地方に分かれ、各単位ごとに微細な判断をしてゆかなければならない。
 
 各省庁、各部門、各地方で、より細かく、さまざまな領域へ「(市場経済から超然した)国家」としての判断の効くよう、人員を増強して行く必要があります。
 
 むしろ、技術の進歩で社会はより複雑になり、グローバル化から国家を守る必要がある中では、より「市場から超然した行政、公共機関」を二重、三重、微細に張り巡らさなければならないはずです。

 つまり、技術が進めば進むほど、より多くの役人が必要になるのは当然の帰結なのです!


 
 すなわち、機械化、IT化、そしてAI化の押し進めてきた、「技術が人間から仕事を奪う」という流れは、「市場経済で必要とされる労働力の需要」を奪うということだけなのです。
 
 でも、それは国家として必要な仕事量を減らしているとは限りません。
 
 ならば、技術の進むことで「市場経済で必要とされる労働力需要を奪われた」後に復活すべきなのは、
 
「旧産業」と「国家」
 
 であり、そうでなければ我々は格差を公正せしめることもできなければ、価値を創出することもできないはずなのです。
 
 
 そして、問題は! その旧産業と国家に「超市場的」な価値基準を、全体として想定できるかどうかであり、これは根源的には一重に「ナショナリズム」の如何で決まる……としか言えないでしょう。
 
 
 
(了)
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Category: 経済:思想、政府の役割

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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「ニュートラルな知識人」こそ、右翼や左翼よりも邪悪 

 

 現今の日本国家を蝕むもの、それは確かに「ウヨク」であったり「サヨク」であったりする部分もあるかもしれません。
 
 でも、そんなニッチな連中よりも、もっと気の遠くなるほど膨大で、低劣で、反国家的なものは、
 
「ニュートラルな知識人(ソフィスト、詭弁家)」
 
 というものです。
 
 
馬2

 
 
 昨今、右や左の時代は終わった……ということが言われたりもする。
 
 なるほど、確かにそれはそうでしょう。
 
 それは、「右は右の狭い世界」で「左は左の狭い世界」で閉じこもり、お互い都合のイイことばっかり言っているので、保守は「愚鈍」に、リベラルは「屁理屈」に堕して、「普通の人」から見れば甚だ非常識に見える……という、かなり昔から生活民の中では察知されているごく常識的な話でもあります。
 
 特に「冷戦」が終わって、「自由主義」と「社会主義」という対立軸すら失われれば(そんなもの失われて良いのですけれど)、左右の議論とは「単なる趣味」に堕す気配が濃厚になることは、論理的必然とも言えるでしょう。
 
 そして、実際そうなのです。
 
 たとえば、「右!」っというメディア、「左!」っというメディアなんて、ハッキリ言ってせまい市場ですよ。
 
 
 どう見ても一般的に、今の世の中の雰囲気を作っているのは、
 
「右とも左ともつかないニュートラルな知識人」
 
 というものです。
 
 
 そりゃあ一般の「社会人的処世」というものを考えれば当然の話です。
 
 だって、現今の社会人的処世では「右っぽい右の議論」「左っぽい左の議論」など、むしろ「場」を凍らせるだけでしょう。
 
 なのだから、狡猾な知識階級の大多数は、
 
「ニュートラルな知性」
 
 を演じるのが最も都合がイイと思うに決まっているじゃあないですか。
 
 
 ◆
 
 
 さて、問題はここです。
 
 と言うのも、確かに、
 
「右や左の時代は終わった」
 
 というところまでは現状認識の再確認であり、何度も再確認すべきところでありましょう。
 
 
 ただ、右や左ではない、
 
「ニュートラルな知性」
 
 というのが、「右」や「左」以上の「邪悪」であることに、これまで我々「日本国民」は無警戒すぎでした。
 
 
 
 そもそも、「ニュートラルな知性」とは言え、それはほんとうにニュートラル(中立)というのではありません。
 
 そんなものは人間に体現しようがありませんから。
 
 ただ、それが(右でも左でもない)「ニュートラルな知性」と前提されるのは、「合理」を「中立」の基準においているからです。
 
 でも、「合理」というのは、合理そのものから「価値」は出てきませんので、ほぼ無自覚に「合理の前提となる価値基準」が暗黙に了解されているワケ。
 
 そして、その暗黙の価値基準には、
 
「単なる一人一人の人間の命や、快楽・不快の総和」
 
 を「最終価値」に置くことになっている。

 
 
 この最終価値を基礎に「合理」を組み立ててゆくのが、
 
「ニュートラル(中立)」
 
 で、
 
「知性的である」
 
 という話に、何となくなってしまっているのです。


 ◆


 そして、この前提に従い合理をしつらえるのが、知識人であり、専門人なのです。
 

 と言うか、我々一人一人は

「イチ社会人」
 
 たるもの、
 
「単なる一人一人の人間の命や、快楽・不快の総和を前提して『合理』を組み立てた体系の流行」

 に敏感でなければならない……ということになっていますでしょう。

 職場や、電車や、喫煙所での「社会人としての処世」をやりくりするためには!



 ので、必然「ニュートラルな知識人」というもののニーズも、こうした大衆社会的に確保される。

 また、政府組織も「民主主義」であるからして、この

「ニュートラルな知識人と、知識の大衆消費の邪悪な循環」(大衆世論)

 に屈服するハメに陥っているワケです。


(これはもちろん、みんな無自覚のことでしょうけれど、「言われりゃあ気づく」という程度には自覚的なんじゃあないですか。)


 ここまで来ると、

「単なる一人一人の人間の命や、快楽・不快の総和という価値前提」

 そのものを問うことは絶望的に困難になってきます。

 もしこの価値前提に刃向かおうとする者があらば、大多数は「わからないフリ」か「キチガイ扱い」してうやむやにするに決まっているのです。


 ◆
 
 
 でも、私から見れば、こうした空疎な前提を基礎に合理をしつらえる
 
「ニュートラルな知識人」
 
 こそキチガイであり、
 
「19世紀以降、せまくなってしまった地球の中で、それでも日本国家を千年先まで続かせようとする正統な全体事業……に仇する者たち」
 
 にしか見えないのです。
 
 
 
 そして、現今では、こうした「ニュートラルな知識人」は、自覚的にせよ無自覚的にせよ、ぼぼ例外なく「土地的、封建的な既得権益」を嫌う「構造改革論者」であり、「国家を時間制限付きのもの」として前提している。

 なるほど、国家は時間制限付きのものかもしれないが、その運命に刃向かうのは「国民の歴史的義務」であり「政府存立の大義」であるはずです。



 でも、大衆はこれを放棄しておける「前提」を基礎にした合理を好むワケ。

 土地や国家に縛られなくって済む前提が合理によって支えられれば、国民の歴史的義務を放棄しても自分で自分をイイ人であると思っておけるから。

 だから、知識人は、大衆の好む前提の上で、自分の専門的見地から合理をしつらえる。

 そして、そのニュートラルな合理が、前提を補強するワケ。

 つまり、「前提によって合理がしつれらる」のではなく、「合理によって前提が補強されている」のです。


 ◆

 
 すなわち、ニュートラルでナチュラルに売国する者たち……それが、
 
「右でも左でもないニュートラルな知識階層」
 
 であり、私の生涯の「敵」なのです。
 
 
 
 この「敵」と闘うためには、むしろ彼らを圧倒するほどの「知性」が必要になる。
 
 でも、問題は、その「知性の積み方」を誤ると「ミイラ取りがミイラ」で、知らず知らずのうちに自分が「ニュートラルな知識人」になっちまう危険性が容易に察知されるのだから、そこには第一級の注意を要するのですけれど……。
 
 
(了)
 
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Janre: 政治・経済

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経産省若手官僚120万DLレポートに見える古くさい平成大衆根性 


 私は昭和59年生まれだから、物心つけば平成で、その後ほとんど平成を生きてきたわけだけれども、

「平成の大衆人」

 というものがこの世で一番大嫌いです。


 ……と言ってもなかなか抽象的でわかりずらいと思うのですが、この度、かっこうの

「古くさい平成大衆サンプル」

 を見つけました。


 それは、経済産業省の若手官僚が

『不安な個人、立ちすくむ国家 ~モデル無き時代をどう前向きに... 』

 と題して発表しているレポートです。


 何やらこのクソレポートがマスコミ、ネット界隈で話題のようなのですが……


橋1



 私、こういうレポートがあるということを今日拝見したばかりで、一読して今まさに

「ゲロ」

 を吐きそうになったばかりのところです。

 誰がこの低劣な心持ちをわかってくれるでしょうか?(反語)

 こうした「知識人の大衆性」に対するムカつき、苛立ちこそ、私がブログなんて書いている根元の理由でもあります。


 ◆


 ざっくり言ってこのレポートは、第一に

A「社会が液状化して、個人がバラバラになって不安が増幅している」

 ということを言う。

 それはそうだからよいとして、だったらどうすべきか……と言えば、

B「バラバラな個人にもっと選択肢を与えなければならない」

 と言うワケ。



 でも、社会が液状化して個人がバラバラになってしまったのだったら、「社会や共同体を再形成して、国家としてまとまっていかなければならない……」と考えるのが、本来の

「統治者目線」

 というものでしょう。

 それが、

「昭和とは違って社会が液状化して『昭和すごろくのコンプリート率が下がっている』から、バラバラの個人のあーしたい、こーしたいをより実現できる社会にしなければならない」

 ということを言っているに過ぎないのは、あえて「テンプレ若者」を演じているようにしか見えぬほど安っぽく、生臭い。

 到底20代、30代の大人の見解とは思えぬガキっぷり。

 だって実際、液状化した社会で、より個人をバラバラにすれば、さらに社会は液状化し、日本国家が溶けて流れていっちまうだけでしょう。


 ◆


 さて、この論筋を下支えしている前提は、

「少子高齢化で人口減少しているから、社会が液状化している」

 という使い古された筋です。


 で、

「世界では少子高齢化に対応して多用な選択肢がしつらえられている一方、日本は年寄りが人口の増えていた旧来的な昭和システムにしがみつき、若者の選択幅が狭められている」

 みたいな話にしたてられているワケ。



 しかし、まずこの、
「少子高齢化だから、社会が液状化するのは必然 」
 みたいな「前提」は根拠薄弱で、薄弱な根拠をとっとと「前提」とすることでゴマカしているところは卑怯というものです。

 もっともこの卑怯はきっと無自覚で、「なんでもかんでも少子高齢化と人口減少のせいにしてりゃ話がまとまる」的な大衆力学が背景にあるからこそ許される前提だから、まさに「平成の優等生的」とコキ下ろしておく他ないでしょう。



 さらに、それでは、かように社会の液状化に対して「個人、個人、個人、個人」とやって、

「狭くなる地球の中で日本国家を千年続かせること」

 は可能なのでしょうか?

 そういう問題意識は「皆無」なのです。

 むしろ、その先に想定されているのは「国家から自由になる個人」であり、「国家はいつかなくなるもので、それで何が問題だ?個人の選択肢のための国家だろ」というような未来観が前提されている。

 公に仕える僕……すなわち、天皇に仕える政府官僚のあり方としては、甚だ軽薄でカッコ悪い「あり方」と評す他ありません。


 ◆


 もし、「少子高齢化」が「社会を液状化」させていて対応が必要なのだとすれば、それは

「そういう世代構造でも共同して国家をやっていける共同体構造を再建すること」

 であり、

「こうした共同体構造を再建するための、大きく、層の厚い政府構造をしつらえること」

 のはずです。



 だのに、彼らの政府観ときたら、

『個人の人生の選択肢を支える』

 ものとしてのみ前提されているのです。

 ハナクソの方がまだ重みがあるというものでしょ。



 また、彼らは、
『共通目標を政府が示す』
 ことも言うには言うが、それも結局、
個人の『多様な人生』
 を最終価値として、
「個人の多様な人生の幸福を実現するサービス機関」
 として、政府の大義を設定しているのです。



 これは暗に、「国家を続かせる」という政府の最大目的を「放棄」していることでもあります。

 彼ら「政府をやっている人」なのに!


 ◆


 ただ、誤解して欲しくないのですが、私は経済産業省(旧・通産省)という組織そのものは、国家にとって非常に大事な官僚組織のひとつであると考えています。


 むしろ、現今こんな稚拙なレポートをやるような若手が30人もばっこするほど官僚組織が(大衆にイジメられて)疲弊しているなら、それこそ「日本ヤバイ」なので、こんなクソレポートに従うよりも、

「官僚の給与と採用を2倍にして、もう少しまともな人材を集める」

 という私の提言に従った方が、絶対に国家のためになると思いますよ?


(了)

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Category: 経産省「次官・若手プロジェクト」批判

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Janre: 政治・経済

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「橋下徹入閣説」や「9条2項据え置き改憲」に見える大衆的改憲論 


 私は、「日本国憲法」というものは、
 
「日本という天下観を時間制限つきにすることと引き換えに、一時一時のニホン人が(属)国民主権のウマ味を当たり前のものとしてしゃぶりつつも、イイ人であるフリをしておくための章典」
 
 と見ています。

 
 つまり、日本国憲法とはクソッタレ憲法なのです。
 
 
 ただ、しかし、だからと言って、
 
「憲法が改正されればなんでも良い」
 
 というわけにはいかないに決まっています。


20170612142005336.jpg


 とりあえず、前提の確認から。

 日本国憲法をどーにかするには理論上、以下の二つの道筋があります。


X 憲法を「超法規的」に廃止する

Y 憲法96条の「改正条項」に従い法的に改正する


 まず私は、Xの「超法規的」な議論がもっと必要だと思うし、それには「暴力による解決」の可能性も、真剣に考えられられていなければならないと思います。

 そもそも、「日本国憲法」が暴力によってしつらえられたものならば、原理的にはその廃棄もまた暴力によってしか成されようもない……ということは、三島由紀夫のクーデター未遂を持ち出すまでもなく、いわば「人類普遍の原則」であり、個人の良心、ヒューマニズムに問えば、ある種常識的なことであります。



 ただ、暴力は痛いし、人を殺すのは怖いので、今生きている我々はイモを引いてヤれていないというだけのことでしょう。

 また、実際に暴力行動を起こしてもいない者がいくら「憲法を廃棄するための暴力」を訴えても、キャンキャン吠えてるだけという話になってしまう……という難しい問題もある。



 ですから、「政治」が法の論理の延長線上で働き、「政治家」の存在が日本国憲法に依拠するものである以上、やむをえず

Y「96条の改正条項」

 に従った改正の議論も経路のひとつとして考えなければならない……というところまでは認めざるをえないでしょう。

 そりゃあ一瞬一瞬の短期的な現実を継続して執り行うための「政治」や「政治家」の「現実」も、とても重要なものだからです。



 しかし、それでも「96条の改正条項」による改正というものは、理論上「日本国憲法の論理の中での憲法改正」に閉じ籠ったものである以上、それ相応の危険性……すなわち、

「日本国憲法を、より日本国憲法にする危険性」

「(属)国民主権の都合を事後承認してしまう危険性」

 を孕むものであることがわかられていなければなりません。



 そういう意味では「96条改正条項」での憲法改正の議論でもやはり、

「本筋であれば、日本国憲法は暴力によって廃棄されるべきである、けれどもそういうわけにもいかないから……」

 という前提を「常識」として共有した上で議論されて然るべきなのです。


 ◆


 さて、そこまで確認した上で、改正条項を見てみましょう。

 皆さんご存じのように、改正条項で謳っている改正の要件は、

・衆議院と参議院の両方で3分の2以上の賛成が必要

・国民投票で過半数の賛成が必要

 ということになっています。



 ここで、まずよくよく考えていただきたいのは、前提がこのような場合、思考経路としてはまた二つの道筋が生じてくるということ。


 すなわち、


a 「~という改正が必要」
   ↓
 だから、
「衆参3分の2」と「国民投票の過半数」を得なければならない」


b 憲法改正には 「衆参3分の2」と「国民投票の過半数」を得なければならない」
   ↓
 だから、
「~という改正にしなければならない」


 という二つの経路。



 で、もし憲法改正議論が「b」の道筋に堕せば、必ず「大衆迎合」が起こることは火を見るより明らかでしょう?

 だって、

「憲法を改正することそのもの」

 が目的化すれば、

「衆参3分の2と、国民投票の過半数を得ること」

 が、目的化することと同義じゃないですか。


 ◆


 そもそも、言うまでもなく「政府の目的」とは、

「狭くなる地球の中で、日本国家を千年先まで継続させようとすること」

 でなくてはなりません。
(※実際には200年先までも続かないとは思いますけれど、「続かせようとすること」にのみ政府の最終的な大義があるということ)

 ですから、憲法をどーにかしようとするその内容もこの大目的に資するものでなくてはならないはず。

 が、

「衆参3分の2と、国民投票の過半数を得るため」

 が目的化してしまうと、むしろ本来の目的を棄損してしまう可能性が非常に高くなる。

 と言うのも、
1「衆参の3分の2を無理矢理まとめようとする力学」
 や
2「国民投票で過半数を動員する大衆迎合の力学」
 が、国家の大義からの乖離として働く危険性が容易に推察できるからです。

(言い換えれば、96条による憲法改正という「強い民主主義」が「国家を棄損する」ということ。)


 ◆


 もちろん、「bの現実」を踏まえての「aの理想」でなければ、

「じゃあ暴力でやれば?」

 という人類的原則論へ戻ってしまいます。
(結論としてそれならそれでも良いですけれど)



 ですから問題は、
「衆参3分の2と、国民投票の過半数を得るため」
 という「目的化」に、どれほどの行きすぎがあるか……つまり、「理想」と「現実」の間で、どれほどの「偏り」が認められるかということになるでしょう。



 で、私から見ると、昨今のそれは明らかに「現実主義」とも言える傾きを強くした改憲論がばっこしているように見えます。

 しかも、それは単に中国や北朝鮮、テロの驚異から

「俺の生命と財産を守れ!政府!」

 と言うだけの「一人一人の日本人の短期的な都合に『迎合』する」という意味での「現実」であるがゆえに、「日本を千年先まで続けようとする」という「日本国民の義務」に反する改憲論である可能性が非常に高い。



 その証拠として提出できるのは、



 官邸の「日本維新の会」との連携に下心を見せ続けている政治的態度。


 安倍首相の言う、
「9条2項を据え置いた上で自衛隊を明記する」
 という属国体制を事後追認する改憲論の内容。

 ……が上げられます。



 Aは 、1「衆参の3分の2を無理矢理まとめようとする力学」 に対応し、

 Bは、 2「国民投票で過半数を動員する大衆迎合の力学」 に対応する。


 その結果、

 Aで「手続き的」に国家を棄損し、
 Bで「内容的」に国家を棄損する改憲論に成り下がっている

 ……と、評すのがだいたい正しい表現のような気がします。


(了)

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Category: 憲法:日本国憲法問題

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Janre: 政治・経済

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そもそも「骨太の方針」は民主主義的すぎる   

 
 今では毎年のように経済財政諮問会議が「骨太の方針」を出して、省庁(役所)を縛る方針を出していますけれど、これはみなさんご存じのように「小泉純一郎首相」の時代からのことです。
 
 だから、別に伝統的な制度でもなんでもない。
 
 
 で、そもそもこの
 
「経済財政諮問会議」
 と
「骨太の方針」
 
 って制度は、良いものなのでしょうか?
 
 
 私はあまり「民主主義的」なこの制度は
 
「不必要かつ有害」
 
 だと思っています。
 
 
 ガール1


 
 
「経済財政諮問会議」と「骨太の方針」が民主主義的すぎる……というのは、小泉政権のことを考えてみればよりわかりやすいです。
 
 
 そもそも経済財政諮問会議で「骨太の方針」を出し、各省庁へ強い影響を及ぼし始めたのは、小泉政権からのこと。
 
 
 これは
 
「聖域なき構造改革」
 
 というヤツの一環だった。
 
 
 どういう意味合いで言われていたかと言うと、
 
A「官僚組織」
 
 への
 
B「抵抗勢力(自民党)」
 
 の影響を排し、
 
C「(支持率の高い首相が率いる)内閣」
 
 が方針を決め、これに従わせる……という話だった。
 
 
 
 そして、こうした話はいわゆる、
 
「既得権益の打破」
 
 として礼賛されてきたワケ。
 
 
 
 これは、例えば「郵政改革」と構造は同じなので、その方がわかりやすいでしょう。
 
 郵政改革とは、
 
1 「自民党の郵政族」と「郵政」が既得権益でケシカラン
 
2 「国民」は「首相の政策」を支持している
 
3 故に、国民の支持する政策によって、既得権益が打破される
 
 というガキのようなストーリーの上で成り立っていました。
 
(そー言えば、今ならみんな「郵政民営化騒ぎは低劣だった」と、口に出さないまでも心うちでは思っているでしょ?でも、同じようなことをそれ以後ずっと続けているのがニッポン人なので、この点において「ニホン死ね」というのはマジで思います。)


 
 で、「経済財政諮問会議」と「骨太の方針」というのもそうなのです。
 
 すなわち、
 
 
1 「旧来的な自民党の各勢力」が「省庁」と繋がると既得権益でケシカラン
 
2 「国民」は「首相」を支持している
 
3 故に、国民の支持する「官邸」によって「省庁」を縛る「太い骨」をめぐらし、「旧来的な自民党」を排除する。
 
 
 
 こういう話だったのですよ。
 
 
 
 その証拠に、2017年の骨太もどのような内容になっているかと言えば、
 
「世論で広く通りの良いものとされる議論」
 
 を全部突っ込んだという形になっている。
 
 
 
 つまり、
 
1 「民主主義」が「官邸」を支配する。
 
2 「官邸」が「自民党」を排除する。
 
3 「官邸」が「官僚」を縛る。
 
 このような形で、おおよそ
 
「直接民主主義」
 
 が、まかり通ってしまっているというのが昨今の出来事なのです。


(了)

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Category: 経済:思想、政府の役割

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Janre: 政治・経済

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2017年骨太の方針、素案からの変節~閣議決定で急激な移民推進論調へ 


 先日、経済財政諮問会議を経て「素案」の出ていた「2017年骨太の方針」が今日「閣議決定」されました。

 しかし、素案から閣議決定へ至る間に「削除・変更」された箇所で、致命的な部分があります。

 それは、より「移民政策容認」の色彩を強めたというところです。


都市1


 まず、「2017年骨太の方針」の「素案」でも「閣議決定」でも「高度外国人材(?)」は積極的に受け入れる……と言っている点は同じです。

 これだって問題ですが、
 素案から閣議決定にかけて削除、変更されたのは、

「専門的・技術的分野とは評価されない分野の外国人材の受け入れ」

 について。

 つまり、

「単純労働力としての外国人」

 についてです。


 ◆


 で、「単純労働力としての外国人の受け入れ」について、「素案→閣議決定」でどう変わったか。


 まず、素案には、以下のような文言がありました。



【内閣府、2017年骨太素案、第2章(1)働き方改革
⑤ 外国人材の受入れ】


> 専門的・技術的分野とは評価されない分野の外国人材の受入れについては、ニーズの把握や経済的効果の検証だけでなく、日本人の雇用への影響、産業構造への影響、教育、社会保障等の社会的コスト、治安など幅広い観点から、国民的コンセンサスを踏まえつつ検討すべき課題である。

> 経済・社会基盤の持続可能性を確保していくため、真に必要な分野に着目しつつ、外国人材受入れの在り方について、総合的かつ具体的な検討を進める。このため、移民政策と誤解されないような仕組みや国民的なコンセンサス形成の在り方などを含めた必要な事項の調査・検討を政府横断的に進めていく。



 ……つまり、素案の段階では、「専門的・技術分野での外国人受け入れ」は従来通り前向きであったものの、少なくとも「単純労働力としての外国人受け入れ」には、

1「国内経済構造への影響を踏まえる」
 や
2「移民政策と受け取られないようにする」

 ということが言われていたわけです。



 しかし、閣議決定では、これらが

「削除」

 され、代わりに以下の文言だけが加わりました。



【内閣府、2017年骨太素案、第2章(1)働き方改革
⑤ 外国人材の受入れ】

> さらに、経済・社会基盤の持続可能性を確保していくため、真に必要な分野に着目し
つつ、外国人材受入れの在り方について、総合的かつ具体的に真摯に検討を進める。


 ◆


 ……まとめると、素案で言われていた、

1「国内経済構造への影響を踏まえる」
 や
2「移民政策と受け取られないようにする」

 は、削除され、

「外国人材受け入れの在り方について、総合的かつ具体的に真摯に検討を進める」

 ということになってしまったというわけ。

 いつのまにか!



 今日は解釈抜きに、骨太の方針がそーゆー態度に出始めたという「事実」だけを強調するに留めます。


(了)

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Category: 経済:反グローバリズム

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加計学園問題、国家戦略特区こそ悪い 


 世の中の人たちはいろいろ信じられないことを言うけれど、

「とにかく官僚組織から権限を取り上げろ!」

 みたいなストーリーは、少なくとも私にとって中学生くらいの時から信用ならないものでした。


20170609160040603.jpg


 私の中学生くらいと言えば、時代は「行政改革」が流行っていた90年代後半だったでしょうか。

 確かに思い起こしてみれば、当時の大人たちは中学生がヒクぐらい、

「公務員や官僚組織へのヘイト」

 を燃やしまくっていました。

 潰れるはずのない銀行が潰れ、リストラが横行して……という時代で、

「民間が苦しんでいるのに、公務員は涼しい顔しやがって」

 みたいなこと、ばっっっっっかり言っていました。

 私はその「醜さ」を決して忘れないようにしようと思ったし、このツケはきっと自分が大人になった時に払わされるに違いないとも思ったものです。

 ただ、中学生の時は、自分が大人になってもツケを積み続ける時代が続くなどとは思ってはいなかったですけれど、それはまだガキだったから世界に楽観的だったのでしょうね。

 こうして、2000年代に入るともっと狡猾に、

「公務員は不合理である。何故なら市場原理が働かないから」

 という、さらなる市場原理至上主義のおぞましき時代へ突入していったのでした。


 ◆


 その後も、平成の処世では一貫して、

「とにかく官僚組織から権限を取り上げよう」

 という「ストーリー」が重大な「ベタ」として機能してきました。

(それは、驚くべきことに政府官僚自身もこのストーリーで官僚権限を手放してきたらしいのですけれども!)



 このベタなストーリーは、「政府規制の緩和論」が一般論として礼賛されてきた背景でもあります。

 これは極めて子供っぽい力学で、例えて言うなら、

X「仮面ライダーの暴力」
 が
Y「悪の組織」

 に対して振るわれているから、チビッ子から喝采を受けるのと同じく、

X「規制の緩和」
 が
Y「官僚や既得権益」

 の判断権限を剥奪するものだから、大人たちは溜飲を下げる……という構造があるワケ。



 こう言うと、「世の中の大人はそんな単純じゃない、バカにするない」と、おっしゃるかもわからないが、単純なものは単純なのだから仕方ありません。

 そりゃあフツーの大人だって個々人が限られた範囲内で熟考する場合にはそれなりに大人な態度も発揮しようものですが、「大衆」という大量の力学となった場合はそれくらい単純なのです。

 で、その大量の社会力学であるところの「大衆」の「ガキ理論」を専門的見地から援護するのが、

「知識人」

 というものです。

 ですから、「大衆」がいかに単細胞でガキめいているかを知るには、知識人、専門家を見れば証拠立てられる。



 たとえば、昨今は「加計学園問題」というのが流行っておりますけれど、これに対しこんなことをのたまうヤカラがある。


 すなわち、

「加計学園問題は精査すればよいが、国家戦略特区そのものは悪くない」

 ……と。


 どーゆー理屈かというと、

1 「国家戦略特区は規制緩和策である」

2 「規制緩和は官僚から判断権限を剥奪するものである」

3 「だから、国家戦略特区そのものは悪くないんである」

 と、こういうわけです。


 例えば、


・『加計学園問題の本質は何か 〜このままでは政府の勝ちで終わるだろう
既得権維持派が何を言っても…』
(髙橋 洋一)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51813

・ 『加計学園問題、国家戦略特区が悪いのではない』
(駒崎弘樹)
https://news.yahoo.co.jp/byline/komazakihiroki/20170606-00071771/


 など。


 でも、上記の三段論法が成り立つには、

「官僚組織から判断権限を剥奪すること」が「一般的に正しい」

 という前提でなければ成り立たないでしょう。

 冷静に考えればそんな前提が全体として成り立つだなんてあり得ないわけで、少なくとも「政府規制の強化すべきところ」と「政府規制を緩和すべきところ」の両方があるにきまっている。

 また、その「判断」を一体だれがするのかということも簡単な話ではないに決まっています。

 官僚の判断より、市場や専門家や民主主義が正しいなんて、誰が決めたんですか。

 専門家や民主主義(官邸)がそう言っているのだとすれば、そりゃあ「自分が正しい」と言っているに過ぎません。



 それでもその前提が通用するのは、知識人が人々の「大衆的」な精神に媚び、魅惑しうるストーリーを前提してから、論理を組み立てるからです。

 つまり、「官僚組織から判断権限を剥奪しろ!」という大衆ストーリー。



 この場合、彼ら「専門家」は、複雑で膨大な国家を、その限られているはずの個人の視野(スペクト)で裁断し、

a「官僚が不合理な規制を敷いている」
b「既得権益があるからだ」

 というストーリーを二、三仕立て、さも一般論として適用できるかのごとく

「ほら、やっぱり政府官僚による規制は緩和しなきゃならんでしょ(=官僚から判断権限を剥奪しなきゃならんでしょ)」

 と言い、

「政府官僚による規制一般」を「敵視」する古カビの生えた「平成のベタなストーリー」を反芻させた上で、その前提で、

「国家戦略特区は悪くない、何故なら規制緩和だから」

 とやるワケです。


 それで、みんな「そうだ、そうだ」とやるわけでしょ。

 これが国家を蝕む「大衆」というものです。


(了)

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Category: 時事:加計学園問題

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構造化した「構造改革」 


 構造改革……という言葉が流行らなくなったのは、構造改革が今やあまりに常識化してしまい、あえて「構造改革」などと言う必要がなくなってしまったからかもしれません。

 つまり、構造改革が国家の構造の一部になってしまったかのように。

 もしそうならば、国家はおしまいですね。


水晶



 構造改革というのは、

 国内においては「規制緩和」
 国外に対しては「貿易障壁を取り払う」

 ……ことによって国内構造の改編を起こし、供給サイドで効率化せしめる改革と言われ、特に小泉政権以来、急激に推し進められてきました。


 ただ、「規制緩和」と「貿易障壁を取り払う」というのは、よくよく考えてみると同じことです。

 すなわち、規制緩和も自由貿易主義も、

「政府の分権構造から統治権力を剥奪する」

 という形で行われるものだからです。


 結論から言えば、「政府の分権構造から統治権力を剥奪するものとしての構造改革」は、国家を強くするという観点から見て、

「あやまち」

 であった。


 何故なら、政府の構造から統治権力取り上げるということは、何らかの国家的「既得権益」に浴しながら生きているすべての各日本国民の構造から権力を剥奪することでもあったから。


※そして、それは「郵政改革」「聖域なき構造改革」の失敗により2000年代には雰囲気的には共有された反省であった。だからこそ、高橋洋一のようなリフレ派(上げ潮派)や竹中平蔵一派は福田内閣以降一線から退出していたでしょう。また、民主党政権の誕生にも、こうした小泉、安倍の新自由主義の反省からだという話ならば3パーセントほどは頷けるところもあった。(私、民主党に投票したことはないですけど)
ただ、実際には民主党も「政治主導」「仕分け」「コンクリートから人へ」などと言って構造改革を押し進めたのですが……。
これが第二次安倍政権前までの構造改革史で、つまりずっと同じようなことを繰り返しているんです。


 ◆


 そもそも政府の構造というのは、ざっくり言って「自民党」や「官僚」の構造でした。

 自民党は地方や産業の権益を代表する形で政治的な「既得権益構造」を構成し、官僚、省庁は組織として複雑で膨大な国家の行政を分担して国家全体を回してきた。

 で、よくよく考えてみれば、こうした
「既得権益」
 と呼ばれるものの諸構造は、日本国民の誰しも多かれ少なかれ浴していたものでした。

 だって、なんらの地域、産業に帰属せずして生活する者はないんですから。



 でも、そのことに気づかなかったのは、「各既得権益構造が、他の既得権益構造を叩く」ということをしてきたからです。

 例えば、郵政民営化では、郵政や自民党の郵政族の「既得権益」をみんなで叩いていたわけですが、その叩いていた日本国民のそれぞれも何らかの「既得権益」に浴している……といった具合に。



 だから、日本国民はいつからか、

「自分が浴していている既得権益以外の既得権益はズルだ」

 と考えるようになったというわけです。



 そして、こうした日本人の俗悪な精神を集約して、理論的な正当性を与えるのが「知識人」というものです。

 知識人は、「規制緩和」という便利な言葉で、「政府と既得権益の構造」から、「統治権限の剥奪」を請求してきた。

 これは一見、「権力から権限を剥奪して、非権力へ権限を解放している」感があるから良いことに見られがちですが、そうではありません。


 規制緩和論というのは「権力と非権力」という話ではなく、理論上、

「土地や産業に埋め込まれていない滞在人(大衆人)」

 が、

「各土地、各産業に埋め込まれた国民」

 から、その前提構造を奪い取るという話なのです。



 だって、

「各土地、各産業に埋め込まれた国民」

 というのは、当たり前ですが「政府の統治機能(省庁)」「政治的権力(自民党)」と深く地繋がりなのです。

 だから、統治と政治権力の構造なしには国民的な地域も産業も存立しえない。

 その各国民組織の「構造」を維持するため、官僚組織による「規制」と政治的な「既得権益」があったわけですから。



 だのに、これを「緩和して、緩和して、緩和すれ」ば、国家のあらゆる地域構造や産業構造はバラバラの無前提に堕すはずでしょう。

 そして、この「バラバラ」を好むのが「知識人」=「大衆人」=「滞在人」なのです。

 知識人は、産業や地域に埋め込まれていない、都市市民的な「疎外者」である場合が多い。

 彼らは、自分が土地的な価値に組み込まれていないから、土地的なものに組み込まれた人々の「あり方」へ異様な「敵意」を燃やします。

 その敵意はおおよそ嫉妬からくるのでしょうが、彼らはそのことに無自覚で、むしろ「規制緩和によって非権力者を権力者から解放する」とすら考えている。

 その際、そこへ正当性を付与するのは「民主的」という俗悪なイデオロギーです。



 こうした「知識人を中心とした大衆人」と「外国の市場解放圧力」が(いわば「無自覚な売国」的に)結託した形で

「政府の統治組織や既得権益的政治権力から権限を剥奪する改革」

 が、

「規制緩和」「グローバル化」「構造改革」

 という方向性だったのでした。


(了)


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Category: 経済:思想、政府の役割

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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『進撃の庶民』様について 


 今日は久しぶりによそ様のブログ評を。


 私がいつも参考にさせていただいている政治系ブログの一つに、『進撃の庶民』様という人気ブログがあります。

 進撃の庶民様は、ナショナルな「庶民」として「大衆世論(安倍内閣)」へ反逆し「反・グローバリズム」「反・新自由主義」の論調を取っているとても貴重なブログです。


レッサーパンダ1



 進撃の庶民様は、どうやら複数人数でブログを運営されているようで、かつ、『国家戦略特区blog』のみぬさよりかずさんなど複数のブロガーが定期的に寄稿なさっていたりなど、活気もあります。

 そして、このブログ周辺の方はコメントする読者も含めて、三橋貴明さんや藤井聡さんの言説に影響を受けた方が多いようです。


 かく言う私の書いているこの弱小ブログ『日本が日本であるために』も、もともと藤井聡さんや西部邁さん、中野剛志さんらの言論から甚大な影響を受けて始めたブログです。

 ですから、自由貿易主義や規制緩和などの「構造改革路線」がきっと日本国家をますます脆弱にし、霧散させてしまうであろう……という危機意識を共有するものと自負しております。

 その点、進撃の庶民様とも問題意識を同じくするものと考えておりました。

(また、当ブログは以前より進撃の庶民の推奨ブログにしていただいており、お世話になっております)


 ・


 そこで恐縮ながら、私から見た、『進撃の庶民』様の強みというものを考えてみたいと思います。

 進撃の庶民の強みとは何か。

 それはすなわち、

「ある一定の前提(反・構造改革)を共有する者たちがそこそこ団結し、ブログという庶民にも可能な形式で言論活動を行う舞台になっている」

 ところでしょう。


 ・


 そもそも、庶民がなにか国家のために思想を練ったとて、これを発表する機会というのはなかなか想定しえませんでした。

(庶民に思想発表の場が必要かどうか自体にも議論はあるでしょうけれど)

 そこへIT社会化で、庶民もブログなど発表の機会を得はした。

 ところが、だいたい庶民がブログで思想を発表してみても、ほとんどの場合、

「書いても、誰も読んでねー」

 ってなりますでしょう。

 そりゃあそうですよ。

 ブログは、誰でも気軽に発表可能な媒体ではあるけれど、でも、どこの馬の骨だか知れないヤツの書いた文章なんて誰も読みゃあしません。

 そりゃ芸能人が書いたブログとかなら人は集まりますでしょうけど、それはそいつが芸能人だからでしょう。



 これに対して、

「誰も読まなくても、自分の純然たる思想のための思想を書ければ良い」

 ……というなら、そもそもブログなんぞへ発表せず、フランツ・カフカのように神へ向かって書いていれば良い。

 ブログへ発表をしておきながら「純然たる思想のための思想」なんてありえません。

 ブログへ考えを発表している時点で、「自分の思想で他者へ影響を与えよう」とする肥大化した自意識があることは歴然で、すべての公開ブログには「思想」以外にも多かれ少なかれ「人に読んでもらおう」という意図が入り混じっているはずなのです。


 しかし一方、人に読んでもらうことだけ考えて書くのであれば、それこそ市場の大きい「反サヨク」や「反ウヨク」の記事で数を動員するのが最も効率的であろうし、そこまで行ったら「芸能記事」や「IT便利記事」とかの方が良い……という話になるでしょう。

 あるいは、単に「芸能記事より政治経済の記事の方が頭良さげに見てもらえそう」という邪悪な目的意識があって、その範囲内で数を動員するためには「反ウヨク」「反サヨク」「在日、韓国叩き」「反民主党」「反安倍」などが最も効率的であると想定しているだけならば、それは芸能記事やIT記事で数を動員するブログ以下の俗悪であると評さなければ済まなくなる。

 ……とは言ってもやはり、そんなこだわりばかり持っていたってブログに閑古鳥が鳴くだけかもしれない。

 最初から有名人でもない限り。


 ・


 ブログに限らず、表現にはそういう葛藤があるのは明白でしょう。

 すなわち、現実の表現者は、

1 自分の思想

2 他者へ影響を及ぼそうとする意識(工夫)

 の二面を睨みつつ「総合」する作業をほぼ無自覚にやっているはずなのです。

 また、その総合に均衡が失われれば、(もともと悪意を持っていなかったとしても)A「他者へ影響を及ぼすことのみが過剰に目的化し、図らずも言葉が嘘や詭弁にまみれていってしまう」か、B「自閉的に自己の思想に閉じ込もってしまう」か、あるいはその両方かしてしまうのです。

 だから、言論というのは(たとえアマチュアでも)おそろしいことなのです。


 ・


 ここで、進撃の庶民様の話に戻りましょう。

 寄稿も含め複数人数で団結してみんなでブログをやっていくという強みは、

1 「団結には、団結の前提がある」

2 「複数で力を合わせた方が影響力を得やすい」

 にあると思います。

 これは個人に照らすと1が「思想」で2が「他者へ影響を及ぼそうと言う意識」ということになりますが、この性質は個人であろうが集団であろうがだいたい同じでしょう。

 ただし、「団結の前提」は団結しているからこそ確固なものになり得るし、「複数人数で力を合わせること」は更新頻度や記事の多視点化から見ても力になります。



 つまり私は、おそれながら進撃の庶民様にこういう期待を抱いていたのです。


 すなわち、

「数を動員し、影響を与えるブログであること」

 については、分担・協力作業によりそれなりの余裕が担保された上で、

「前提の領域内では各個自分が正しいと思うことを言う」

 ことによって、

「単なる『バズる』や『検索流入』のようなネット動員の論理から距離を取った言論が可能」

 になり、あわよくば読み手コメントも含めて

「論壇化」

 して、

「ナショナリズム」
「反自由貿易主義」
「反規制緩和」
「積極財政」

 の前提、土台の上で論を重ねようとする輪が広がってゆくのではないか……。

 という期待です。


 ・


 ですから、森友学園問題で安倍打倒……も、その運動の「大目的」が、
「庶民」として「国家」を想うことであり、
「ナショナリズム」
「反自由貿易主義」
「反規制緩和」
「積極財政」
 の「国家的な必要を訴える」というところにあるのならば別に文句のあるところではないのです。



 庶民が国家を想い、

「ナショナリズム」
「反自由貿易主義」
「反規制緩和」
「積極財政」

 が必要だから、

「安倍を倒さなければならない」

 から、

「森友学園問題を手段とする」

 というのなら筋として通るからです。



 でも、それはとても微妙な話で、実は、

単に「安倍打倒を言えばチヤホヤしてもらえるから」

 とか

単に「森友騒ぎで戦前コスプレ保守を踏み絵にしておけば、徴兵される可能性が1%でも減るから」

 という方が「目的化」して、

 庶民として国家を想う

「ナショナリズム」
「反自由貿易主義」
「反規制緩和」
「積極財政」

 という当初の目的が「手段」として凋落する危険性は、実際そうであるかは別としても、論理的にありえることでしょう。

 だからと言って、進撃の庶民に関わる人みんながそうだとは思いませんし、あれだけ人の集まる有力ブログだからこそ、当然中にはそーゆー心の領分を持ったヤツが出てきてもおかしくないよね……ということを申し上げているだけです。

 そうなれば、自分がそもそもどういう人に影響を受けて物事を考えてきたかすら忘れて、やたら先鋭化したことをおっしゃる方も出てくるでしょう。



 ……ただ、それは運動として展開されている分、仕方のないところなのかもしれないとも見ます。

(なんだか傲慢な言い方になってしまって恐縮ですが)

 それから、「加計学園問題での安倍追求」は両手をあげて賛成ですし、『進撃の庶民』様については引き続き愛読し、影ながら応援させていただこうと思っている次第です。


(了)

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人口が減少しても国家は強くできる(前編) 


 日本は少子高齢社会で、2XXX年までに人口はこれだけ減少しているだろう……

 といういうようなことは、私の子供の頃から言われておりました。

 で、

A 日本はどーせ人口が減ってうだつが上がらないようになるんだから、国家や結婚にこだわるのはやめて、自分の好きなように生きたらいいじゃないか……

 とか、

B いやいや、国家のために人口を増やすべきだし、第一、家族には個人的欲望以上の価値があるのだ……

 などという下品な二言論が前提されてきた。

 Aはリベラルに、Bは保守派によく見られる態度です。

 これに対して本論は、上のAもBも家族観や個人観からして間違っているし、第一「人口が減少しても国家を強くすることはできる」ので「まず、国家を強くしようと思えよ!」と結論付ける筋で展開します。


広野


 ただ、まず私がより感情的にも「嫌悪」を覚えるのは、 やはり

A「個人を結婚に縛り付けるな」

 というリベラルッチクな発想の方です。

 この場合「結婚」が忌避されるのは、単に「結婚によるさまざまな困難や制約」が「個人のあーしたい、こーしたい」という欲望を実現させる障壁になるから嫌だ……というツマんねえ動機からでしょう。

 例えば、(フェミニズムのすべてが間違っているとは言わないが)フェミニストの、

「女に『女らしさ』や『結婚しなければならない』を押し付けるな」

 というのは、「そいつ個人が結婚しない道を選ぶ」という以上の話になってくるのです。

 だって、そいつ個人が結婚しない道を選ぶのであれば、別に黙ってそうすりゃあいいでしょ。

 でも、そのような「形式への敵意」を表現、発言として表明するということは、

「結婚という形式から個人が縛られない社会」

 すなわち、

「個人を制限する社会形式を取り払うこと」

 が、格率的な価値基準として社会で流通してしかるべきであると、勝手に前提していることになる。

 これは安っぽいヒューマニズム、人間性礼賛であるのみならず、

「なんでお前が勝手にそんな前提敷いて良いことになってんだよ」

 というところに最も反感を覚えます。

(※それでもフェミニズムにも一理あると思われるのは、女が文化的な意味で女であるための社会的前提が崩れているので、「じゃあ女はどうすりゃいいんだよ!」という不満がその根幹にあるとすれば仕方ないように思われるからです)



 あるいは、昨今、「LGBTの擁護」が流行っているようですね。

 私は別にLGBTそのものを差別する気はないですけど、

「LGBTを擁護してた方がなんか進歩的で、偏見に縛られていない感がする」

 みたいな処世でLGBTを擁護する雰囲気には吐き気がします。

 で、そういうLGBT擁護の雰囲気は、

「文化的な男らしさ、女らしさの偏見(ジェンダー)」

 を敵視し、

「自分がやりたいようにやれば良いんだ」

 という価値基準を、これまた勝手に前提し始める。



 でも、「自分がやりたいようにやれば良い」では、本当の意味で個人の心は救われないのです。

 個人の心は、無自覚に前提している無数の慣習的偏見を基礎に成り立っているのであって、

「何に従い、何に刃向かうか」

 という判断の中に個人というものはある。

 そうでなければ個人は融解し、ニヒリズムへ漂着するのみでしょう。

 だから、慣習的偏見や社会構造から個人を自由するリベラルな発想は、その「個人」をすら救いはしないのです。



 でも、それはよくよく考えてみれば当たり前のことですね。

 何故なら論理上、自由は「手段」としては有効な場合もあるが、「価値目的」として格率的に昇華できるものではないからです。

 まあ、ミュージシャンで27歳で死ぬとか、サイコパスであったりすればまた話は別なんでしょうけれど。

 あるいは、ドラクロワの『サルダナバロスの死』という恐ろしい絵があるのですが、これは、敵に火のかけられた宮殿で裸の女たちが阿鼻叫喚している最中、暴君は悠然とベッドへ腰掛け、死を待っている……という絵なのですけれど、このように

「自分の生存範囲で快楽を最大にし、不快を最小にする」

 ことを生の最大目的と腹を括れれば、自由主義は整合するでしょう。

 私にはおそろしくって無理ですけれど。

(※ちなみに、この家族形式に対するリベラルの問題構造は「構造改革」の構造とだいたい同じなのです)


(つづく)


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Category: 社会:現代社会批評

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地方創生「シャッター街課税強化」の欺瞞~まず大店法の規制緩和を反省せよ 


 先月5月29日。

 官邸に「知識人(?)」を集めて地方創生をワチャワチャ話し合う会合が開かれたそうです。

 そこで、地方創生施策の基本方針案として、

「空き店舗への課税強化」

 の検討が上がったらしい。


 でも、そもそも地方でシャッター街が急増したのは、冷戦が終わる頃、「日米構造協議」で「大店法の規制緩和」を呑んだからでしょう。

 まるでそれがなかったことのような前提で、

「シャッター閉めてると税金取るぞ!気合い入れろ!」

 みたいに発破かけても、(平均して)個人商店が大型ショッピングモールなんかに敵うわけないじゃないですか。


風鈴1



 こんなふに言うと、

「そんな悲観的なことを言うな!個人商店だってイノベイティブなアイディアで生き残れる道はあるはずだ!」

 みたいなことを言うヤツもいるかもしれませんが、「ムチャ言うな」って話です。

 そりゃあ、中には「イノベイティブなアイディア」なるもので生き残るヤツも出るかもわからないが、全体として生き残らない方が多かったら意味ないでしょ。

 地方の商店街の意味合いは、

「各地方の商店街や小規模小売り事業が成り立ち、共同体の網の目を構築していた」

 という全体的な価値にあるのであり、このような「網の目」をリソースとして国家の「市場」と「政治」が成り立っていたということなのです。

 だから、

「うまいことやれば生き残れる」

 では、「だからなに?」って話なのです。

 地方の商店街が疲弊しているという問題は、別に「彼ら一人一人が可哀想」みたいな話ではなくって、

「地方の共同体が霧散すれば、国家の政治も経済も回らなくなる」

 という「国家」の話なのですから。


 ・


 また、もちろん東京など人がたくさんあれば分母が多く、公共交通機関も網の目だから、個人商店もまだ成りってゆける。

 けれど、そうではない地方の商店街はもはや壊滅状態です。

 ノスタルジックなセンチメンタリズムで「シャッター街の合間で細々とやる御婆ちゃんのお店」みたいなのへ行くこともあるにはあるにせよ、それはいわば外人が寺や神社をありがたがっているのと同じであり、まったく空疎な大衆市民の「観光」として選好しているに過ぎないでしょう。

 すなわち、「埋め込まれたもの」や「埋め込まれたものとの繋がり」としての商店街の「価値」はここ2、30年で決定的に失われてしまったのです。


 ・


 何故、地方の商店街がシャッター街化し、その共同体的価値が失われてしまったか。

 車社会化や核家族化、大衆社会化、高度情報社会化、その他共同体の消失などあらゆる事情が考えられますが、商店街に限って言えば

「大店法の規制緩和」

 が最も大きな要因であると見るのが妥当でしょう。

 正確には「1992年の大規模小売店舗法の改正」というものです。

 それまで、各地方の商店街などは政治的には地方の利権構造を作り、議員を送り込むことで中央の政治へ関与してきました。

 そして、大型ショッピングモールのような大資本による小売店に対しては、「規制」をかけてきた。



 これは正当な話で、だって資本を集中させて「価格」と「種類」と「消費者へのチヤホヤ」を効率的に「供給」すれば、商店街の個人小売店は絶対に勝てません。

 それは「正当な競争ではない」のであって、また「過剰な消費者チヤホヤ」なのであるから、「規制」されて妥当な領分でもあったのです。

 我が国の商慣習上では!

 また、この各地方の共同体は流通の組織とも連動しており、「卸し」や「メーカー希望小売価格」などの慣習とも繋がりがありました。

 昨今、アマゾンなどのEコマース事業における宅配料金の問題、ヤマトの過剰サービスの問題があがっていますが、それだって元を正せばここと繋がりがあるのです。


 ・


 では、何故その「大店法」が改正されてしまったのか。

 それは「日米構造協議」というアメリカの市場開放要求に、日本が屈服したからです。

 アメリカは、

「そうやって商店街の維持のために規制をかけたりしているのは、日本市場の閉鎖性であり、貿易障壁である。規制を緩和して市場を開け」

 と言って、日本の商慣習にまで口を出し、その改変を要求してきました。

 で、時はちょうど冷戦が終わる頃で、(私自身はまだ幼稚園生だったのでわからないのですが)おそらく日本人は

「冷戦が終わっても、アメリカに守ってもらいたい」

 と思っていたのでしょうね。

 だから、日本の一部を「切り売り」して、他の人たちは「徴兵される確率を1%でも下げておきたい」と思っていたのだと推測します。

(何故そう思うかと言えば、今がそうだからですけれど)



 だから、日本人で「個人小売店をやっていなかった人たち」は「個人小売店をやっていた人たち」を裏切り、切り捨て、アメリカへ売り渡したわけです。

 で、きっとそういう「格好の悪さ」をごまかす必要があって、「構造改革」というのを「経済的合理」の下に正当化する力学になっていったのではないでしょうか。

 また同時に、こうした構造改革の抵抗勢力となる「地方を代表する代議士の集まりという意味での自民党」をぶっ壊すことに正当性が必要とされたと見れば、90年代に「政治制度改革」が求められてしまったことにも繋がりが見えてきます。



 つまり、大店法の規制緩和のような「国家の切り売りをして自分だけ助かる」ということを国民レベルで「ごまかす」ためには、

「土地的なるものへの敵意」

 が正当化される必要がでてきますでしょう。



 そして、土地的なるもの、商店街のような地方の共同体の存在は、さまざまな既得権益や、政治や、コネや、閉鎖性を伴いますが、そういうものを嫌うのは2種類います。

1 外資

2 疎外者としての大衆市民

 です。

 すなわち、「外国の企業」と「土地の共同体に組み込まれて育たなかった日本人」が、口裏こそあわさなかったものの、「日本の土地的なるもの、共同体の網の目」に対する「敵意」を大いに発揮してきたというワケ。

 でも、そうやって発揮できる状況を作りだしたのは、

「冷戦が終わっても、国家の切り売りをして徴兵される確率を1%でも下げる……ということを国民レベルでごまかす」

 と解釈する他ない。

 こうして日本社会はますます大衆化して空疎さと無価値感の地獄を味わうことになったわけですが、それはだいたい「自業自得」とも言える話なのかもしれません。


 ・


 以上を踏まえて、それでも日本を続けるというのであれば、やはり「地方」の共同体を再興せねばならないという話になってくる。

 しかし、その「地方創生」の話も「構造改革」の筋上での再興観だから、価値基準は「消費者選好」であり、「外人が寺や神社やアニメをありたがる」ような観光視点でしかない。

 というか、その構造改革路線はもはや「常識」として昇華されてしまって、誰も「大店法の規制緩和に対して罪悪感を覚えておく」ということすらしなくなっているので、

「シャッター降ろしている店舗に税強化すれば、シャッター開けるだろ」

 みたいな安易な話ができるのでしょう。



 そうではなく、本当に地方の商店街を再興し、共同体の網の目を再構築するのであれば、まず、

「大店法の規制を強化」

 しなければならないのではないでしょうか。



 そのためには、構造改革的なX「供給力と消費者目線」から脱し、Y「消費力と供給者目線」が必要になるのですが、そこがなかなか理解されないのでしょうね。


(了)

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Category: 法制:規制緩和批判

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Janre: 政治・経済

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今話題の「債務対GDP比の改善」には「プライマリーバランスの悪化」が必要 


 6月2日、経済財政諮問会議で今年の骨太の素案が出たそうです。

 そこで、「PB黒字化目標」と共に「債務対GDP比目標」を『併記』する方針だということが報道されております。


眠れる



 私は、「プライマリーバランス目標は撤廃すべきだ」とは思いますけれど、この度「債務対GDP比目標」が言われる運びになったのはプライマリーバランス目標至上主義に対する大きなアンチテーゼだとも思います。

 特に、債務対GDP比が「経済財政諮問会議」で言われ、「骨太の方針」に盛り込まれるというのは、来年度の予算に小さくない影響を及ぼすことが期待されます。

 まず、各省庁の概算請求において債務対GDP比を考慮しなければならなということは「単に予算を削ればよい」とはいかない……と意識されるべきということであり、また、そうなる可能性もなくはないからです。(省庁に勤めたことないので想像ですけど)

 プライマリーバランスではなく、(国際標準として使用されている)債務対GDP比を目標とすべき……ということは、先月『プライマリーバランス亡国論』を出版された藤井聡内閣官房参与が訴えてこられた事実ですけれども、これは非常に大きなことだったように思われます。



 もちろん、私にはこれによってどれほど財政赤字が拡大されるかは見当もつきません。

 しかし、小泉政権下以来官邸の構造改革の出城として省庁や自民党を締め上げ予算を取り上げる側だった「経済財政諮問会議」で、正しいことを盛り込ませるのは難しいに決まっていて、

1「財政再建には経済成長が必要」

 という意味合いを持つ「債務対GDP比」が言われるのは驚きに値すべきことと存じます。


 ・


 ただ、実を言うと

1「財政再建には経済成長が必要」

 は、安倍首相も第一次安倍内閣時代から強調してきたことでありました。

 それでもデフレが脱却できないのは、

1「財政再建には経済成長が必要」
 ↓
2「デフレを抜けて経済成長するには赤字財政が必要」

 というところでいつもいつも躓くからです。



 ・



 そう、安倍政権では

1「財政再建には経済成長が必要」

 はそれなりに認めてもらえるのです。

 税収は税率だけではなくて名目GDPによるし、債務の意味合いも名目GDPに対する比率によって変わる。

 これくらいは中学生にもわかるし、ホシュ派の安倍さんとしては、リベラルの

「日本はもう経済成長できないし、する必要もない」

 という筋を認めるわけにもいかないでしょうから。



 でも、肝心の肝の肝は、

2「デフレを抜けて経済成長するには赤字財政が必要」

 の方なのです。

 金融政策でごまかさず、「どれだけ赤字財政を積めるか」=「どれだけプライマリーバランス赤字を大きく出せるか」が、デフレからの脱出速度を決める「すべて」なのです。


 ・


 まず理論上、併記されるとはいうものの「債務対GDP比を改善するため」には「プライマリーバランス目標を達成してはならない」のですが、そのあたりの優先順位がどう言われていくかに注目しようと思います。

 まあ、私の予想は、「プライマリーバランス目標と債務対GDP比の改善は両立する」というデマがはびこる……というものですが。
(もちろん両立しないのですよ!)


(了)


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Category: 経済:デフレ問題

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女性宮家などと言っていないで、皇室典範を皇室へお返し申し上げるべき 


 昨年の陛下のお言葉を受けて、政府は専門家会議で譲位の特例法を議論してきました。
 
 私はそもそも、この専門家会議ごときが皇室のなさりようをあーだこーだ議論するなどという時点で非常によろしくないことに思われます。

 いえ、これは小林よしのりさんの言うような「特例法ではなく恒常法制化すべし」という話をしようというのではありません。

 そうではなく、我々日本国民は、陛下からあのようなお言葉を賜ったからには、ただちに「皇室へ皇室典範をお返し申し上げる」ということでこれにお応え申し上げるべきだったのです。



ピンク菊


 そもそも、昨年の今上陛下のお言葉は、それこそ「戦後レジーム」の問題の延長線上にあります。

 と言うのも、GHQ占領以後、皇室典範は「民主的な法律」として位置してしまうようになりました。

 よって、皇位の継承における陛下の御意向を畏れ多くも「民主的な法律」ごときが縛ってしまうことになった。

 根本問題としてこの「戦後レジーム」があるので、陛下ご自身の御意向で譲位されることがままならず、故に、あのような異例な形でお言葉を発せられる他なかったわけでしょう。

 これはいわば、

「戦後レジームに抱きつく国民のせいで、皇室が皇室のことをお決めになる当たり前の権限を剥奪されてきた」

 ということです。

 皇室は一貫して国民に対して寛容すぎるほど寛容であらせられたけれども、事が陛下の御高齢という自然明らかなことに差し迫り、「摂政は良くない」という皇室の長としてのご判断があらせられるのだから、「民主的な法としての皇室典範の位置付け」というかねてよりの懸案はもはや緊急の課題となった……ということのはずなのです。


 ・


 そもそも、「民主的な法」というのは「政治」的な領域ですから、宮中……すなわち「皇室のなされよう」については介入してはならないはずなのです。

 現代人は、
 
「天皇による政治介入」
 
 のことには目くじらをたてるクセに、逆に、
 
「政治による皇室への介入」
 
 を避けなければならないことについては、極めて意識が欠如しているように思われます。



 でも、よくよく考えてみて欲しいのですが、「皇室のことは皇室でお決めになる」ということと「天皇は政治に関与しすぎない」ことは、『セット』として考えなければ論理的に成り立たち得ませんでしょう。

 だって、もし皇室へ政治が介入できるのであれば、皇室へ政治が介入した領分において天皇は政治性を帯びるのであって、天皇へ政治関与させないという話も成り立たないのですから。



 そして、それが民主主義の場合、

「民主主義による皇室への介入は避けなければならない」

 という態度なしに、

「天皇の政治への不介入」

 は考えられないのです。


 ・


 ですから、まず、我々は陛下のお言葉を受け、

1 「民主主義によって皇室を縛ってきたことを恥じ」

2 「ただちに皇室典範を皇室へお返し申し上げる」

 べきであった。

 これは、別に憲法改正ほど重たい腰ではないはずです。

 すなわち、政治(民主主義)による皇室への介入をやめるべき……あるいは緩めるべきだった。



 ところがこれを逆に、(特例法にせよ恒常法にせよ)「譲位に関する法律」を上書きすることによって応じようとしているので、

「政治(民主主義)による皇室への介入」

 が、さらに強まる結果になっているのです。



 その証拠に、その結果の帰結として「女性宮家の附帯決議案」などという「皇室への、政治(民主主義)による強烈な介入、影響」を導く結果になったでしょう。

 これは単に「女性宮家の議論を要求した民主党議員が悪い」というよりは、

 そもそも

「皇位継承を法律的な次元で議論している」

 ことそのものが誤りだということなのです。

 つまり、この問題は、

「安倍政権だからここまで対応できた。悪いのは女性宮家にこだわる民主党のヤツだ」

 ……では済まないのです。

 安倍首相も、かつて戦後レジームからの脱却などと言っていた割に、千載一遇の機が巡ってきたところでも皇室典範を皇室へお返しすることなく、あまつさえ専門家の議論なんて始めた罪は非常に重いと言わねば済まない。

 フツーに考えても、専門家の議論なんて始めてしまうと、それから余計なことを言い出すヤツが出てくるのは当たり前でしょう。

 実際、

「象徴天皇としての務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくこと……」

 という、そもそも陛下が皇室視点で「自分たちが国民のためにする仕事に途切れがあってはならない」という意味合いでおっしゃっていたお言葉が、いつのまにか世の中では、

「安定的な皇位継承」
 =
「法律として規定された天皇が続くこと」

 という話にすり代わってしまっています。



 法律としての議論上で天皇が続けばよいのであったら、そりゃあ「女系天皇」でも「選挙で選ばれた天皇」でも法律に規定されていさえすれば良い……という話に理論上なってしまうでしょう。

 でも、仮に法律でそう規定されても「女系天皇」や「選挙で選ばれた天皇」は天皇ではありませんね。



 だから、これは民主的な法律として議論してはならない領域なのです。

 他のさまざまなことでは「議論が大事」は認めますけれど、ことが天皇、皇室のなさりように至っては「法律的に議論してはならない領域」なのです。

 法律の最高次元の限界は、「天皇は日本国と日本国民統合の象徴」ということと「(皇室のお決めになった)皇室典範を国会で承認すること」までで、皇室典範や皇室そのもののあり方を法律の範疇にいれてはならないのです。

 そこは本当に大切な線引きなのですよ。


(了)


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Category: 皇室

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タバコは「命はそこそこ粗末に扱うべき」という常識を社会で共有する機能を果たしてきた 


 最近、またさらに強いタバコ規制の動きが出ています。

 私は喫煙者ですが、「喫煙者のタバコを吸うケンリ」など、どーでもイイと思っています。

 しかし、ざっくり言えば「嫌煙」の社会的モチベーションが「生命尊重主義」にあるであろうことが明白なので、そこがスゲー気にくわねーのです。


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泡


 そう言えば、私の子供の頃、タバコの煙は生活の一部でした。

 家ではオヤジがタバコ吸ってて煙で輪っか作ったりしていたのを覚えている。

 街では電車の車両の中でもタバコを吸っていたでしょう。

 私が子供の頃、副流煙なんてバリバリに吸っていたわけです。

 私はこのタバコの煙のある風景を見て、「命はそこそこ粗末に扱うべきもの」という常識を、みんなで共有しているのだと思っていましたよ。

 そして、それはかなり心救われることだったのです。



 嫌煙は、社会が「過剰な生命尊重」へ陥っている左証だと思います。

 というか、生命尊重くらいしか社会が価値を感じられなくなっている全体的な精神の欠乏なんじゃないでしょうか。

 しかも、それはかなり欺瞞的で、「生命そのもの」よりも「生命尊重の『態度』を共有する」方に、みんな目的をおいているのではないかとも思われる。


 他にも、

1 本当に言うほど副流煙が害悪であるか相当疑わしい

2 オリンピックもあり、WHOからいわれているから……というグローバルな力学が強すぎる

3 電子タバコはイイという風潮が浅はかすぎる
(「電子タバコの害悪」<「タバコ」である証拠はないのです)

 など、ムカつきポイントはありますが、一番重大なのは嫌煙のモチベーションが「生命尊重主義の徹底」にあるに違いないということです。

 嫌煙社会の「生命尊重の徹底」が人間に与える精神的健康被害は、副流煙の健康被害より大きいかもしれないだろと声を大にして言いたい。


 まあ……ただ、もはやタバコの煙のない風景が常態化してしまった昨今では、それほどこだわってもしかたないのかもしれませんね。

 私はタバコ、やめませんけど。

(ましてや電子タバコなんて気色悪くて絶対イヤです!)


(了)

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Category: 社会:現代社会批評

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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