07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

      TOP > ARCHIVE - 2017年08月  
  

ネイション・ステイツにおける政府の大事 


 我々が『国家』と思っている近代以降の国家は、『国民国家』=『ネイション・ステイツ』と言われます。

 ネイション・ステイツは、

 ネイション=国民

 ステイツ=政府

 と訳されたりもする。


 これで正しいのだけれど、時としてこういうふうに前提される場合が見られるのが、私は気になります。

 すなわち、

『ネイション(国民)を重んじるべきで、ステイツ(政府)を重んじるべきではない』

 というような。


 でも、別に、ネイションが国民で、ステイツが政府だからと言って、

「ネイションがイイモン」
 で、
「ステイツが悪モン」

 とか、そういうものではないはずなのです。


 そこらへんのところ勘違いしてはならないのではないでしょうか。

 もちろん、現在の日本政府組織のような政府=ステイツ(政府)は、この土地で生まれて死んでとする国民(ネイション)を保護するためにある。

 しかし、よぉく考えてみれば、そんなステイツという形式が必要なのは、一重に「世界が狭くなった」からでしょう。

 逆に、この地球上に日本だけしかないのであれば、強力な中央集権性を持った政府などいらないのです。

 封建時代で十分ですよ。

 でも、現実には、地球上は科学技術によってどんどん狭くなって、ステイツを維持しなければ、ネイションは溶けて流れてしまうでしょう。



 すると、

「ステイツ(大きくて強い集権的政府)」

 が必要だから、

「ステイツをこしらえられるような、ナショナリズム(国民的団結)が必要である」

 というベクトルも、同時に潜在していると考えられなければならないはずでしょう。



 つまり、

1「ネイション(国民の歴史)」のための「ステイツ(政府)」

 というベクトルがある一方、

2「ステイツ(政府)」のための「ネイション(国民の団結)」

 というベクトルがセットになった相互循環が、

『ネイション・ステイツ』

 という現象なのです。



 でも、「国民のための政府」はどちらかと言えば近代的なケンリを、「政府のための国民」は近代的なギムを要するものだから、

「ネイションのためのステイツなのだ(国民のための政府なのだ)」

 の論理ばかりが用いだされて、果ては

「ネイションは良いモノ」
「ステイツは悪モノ」

 というような姿勢が前提されてしまうようにもなりがちになるのではないでしょうか。


(了)


関連記事
スポンサーサイト

Category: 経済:思想、政府の役割

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 0