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日本が日本であるために

 

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2017年衆議院選挙を前にして(1) 


 平成29年(2017年)衆議院議員選挙の候補者が10月10日に公示されました。

 そう言えば、私が選挙のあるたびにいつも注目するのは「投票率」です。ただ、こう言うと絶対に誤解されると思うので言っておくと、私は「投票率が高いことを願って、投票率に注目している」のではありません。

 私の注目の仕方は、
「投票率が低いことを願って、投票率に注目している」
 のです!

 世の中では何か、「投票率の高い方が民主主義的で良い」みたいなことが前提されているように思われます。でも、私は「投票率が高い方が民主主義が直接的になってしまう……から悪い」というふうに思うのです。
 
「投票率が高くなると、民主主義が直接的になってしまう」

 というのはこういうことです。
 まず、よくよく考えて欲しいのは、「投票率が高い」ということは「いつもは選挙に行かないヤツが、その時の選挙では投票所へ足を運ぶ」ということを意味するわけでしょう。
 ということは、その率の増えたぶんは「投票する周りのシガラミ」を持たない「市民的大衆人」の(どんなに好意的に言っても)「好き勝手な判断」であることを意味します。
 つまり、これが「浮動票」というものです。
 逆に言うと、浮動票というのは、地域や産業のシガラミを持たない「バラバラな市民的大衆人」の「好き勝手な判断」であるからこそ、一般的に邪悪なものなのであります。
 そもそも、こうしたシガラミを持たない(持てない、可哀想な)彼らの多くは、普通は選挙など行きません。
 で、理論上、こうした人間たちの最もマシな政治判断は、
「選挙へ行かないこと」(あるいは、白票を投じること)
 なのです。
 この場合、当然「投票率」は低くなる。ので、選挙なんて信じない私は、投票率が低いことだけを願って選挙を見ているのです。
 でも、そんな市民的大衆人たち(浮動票)も、自分の無前提で勝手な判断か、メディアの流行に流されてか、選挙へ行くことがある。
 バラバラな市民的大衆人が、日曜日に家で寝ているんではなく、わざわざ投票所へ足を運ぶ状況とは、どんな状況か?
 それは、
「市民的大衆人の関心をくすぐる、なんらかの『選択性』が世論的、政局的に盛り上がった時」
 でしょう。

 具体的にどういう状況がそれにあたるか。
 たとえば、昔、小泉純一郎とかいう輩の「郵政解散選挙」という乱チキ騒ぎがありましたね。(※これは私のちょうど20歳の頃で、悪い意味で鮮烈な印象があります。もう誰も本気で日本をやって行こうとは思っていないことが知れた出来事でした)
 その後、麻生政権を滅ぼし民主党政権を作りだした「政権交代選挙」というのもありましたね。(※あれはリーマンショック後のことでしたから、世の大人は子供世代のことなんぞちっとも考えていないということが分かった出来事でしたね)
 あるいは90年代に遡って、(私は小さくてほぼ記憶にないのですが、)小沢一郎が選挙制度改革を大義に主導した選挙で、非自民連立内閣を形成した時も、おそらくそういうことだったのではないでしょうか?
 これらの選挙は、極めて高い「投票率」があったらしいですが、すべて「大失敗」の選挙でした。
 まあ、もっとも。もし「民主主義」というものが最上の目的として設定されて、
「一人一人の国民が、より多く政治的判断を下す」ことによって「政府を制限する」
 ことが、最も高い価値を有すると思考的に「設定」していれば、「政治制度改革」も「郵政解散選挙」も「民主党政権交代選挙」も、すべて「良いモノ」ということになるでしょう。
 でも、政府、政治の大目的は、
「天皇を中心とした文化圏(日本国家)を、千年先も存続させようとすること」
 なのですから、「民主的な制度」がその「手段」となる位相はあるにせよ、上の例のごとく「民主主義によって政府(権力)を制限することそのもの」が「目的化」してしまった政治力学は、政治s力学としても「大失敗」だし、政策的に見てもやはり大失敗を引き起こしているのです。

 その証拠に、当時はずいぶんと世論で喝采されていたらしい政治制度改革ですが、特に安部政権下になってからはみんなが「小選挙区制度がマズかった」「政治資金規正法がマズかった」と言うようになっていますでしょう。
(※頑固なヤツは知らんですけど)
(※また、今マズかったと言っていたヤツが、当時世論に迎合していなかったかというのも非常に怪しい気がします)

 あるいは、今や郵政民営化がよかったなんて言うヤツはいないし、民主党政権がよかったなんて言うヤツもない。
(※これも頑固なヤツは知らんし、当時世論に迎合していなかったかどうか怪しいというのも同じ)

 で、これらの選挙で投票率が高かったのは、周知の事実でしょう。
 つまり、こうした選挙では、日曜は普段家で寝ている市民的大衆人がたくさん投票所へ行ってしまっていたということになる。
 
 そして、何故、彼らは投票所へ行ったのか。
 そのポイントは世論の盛り上がりの「風」という言われ方もしますが、より根本的に言えば、『選択性』です。
 つまり、
「自民党か、非自民連立か」
「郵政民営化をやるか、やらないか」
「自民党か、民主党か」
 こういう選択性があるときに、市民的大衆人(浮動票)は羽虫のように投票所へ行くのです。

 つまり、近代的な自我の増大した市民、大衆は、「何か直接的に選択したい」のです。
「俺にも何か選ばせろ!」
 と、こういうわけ。
 ゲロ以下の、餓鬼のように、醜く、低劣に。
 また、マスメディアは大衆の消費選好を満たすために番組をしつらえるのであるから、大衆はマスメディアに騙されているのではなく、マスメディアが大衆の求めるところを提供する方が先で、大衆は後から「マスメディアに騙されたのだ!」という保険の効くことを狡猾に意識しながら、ノーリスクで選択権を行使するというわけ。

 一方、毎回ほぼ強制的に投票所へ足を向けざるをえない「庶民」はそうではありません。
 国家、産業、共同体のシガラミ(中間団体)を持った「庶民」というのは、別に自分自身の勝手な判断で投票するのではありませんね。
「あの人は自分の地域に貢献した家の人だから」
「自分の家は代々あの政党に投票しているから」
「家長があの人に投票するから一家で投票する」
「あの人は、自分の会社と繋がりのある人だから」
「自分の所属する産業や組合が支持している政党だから」
 ……庶民は、そういう「シガラミ」によって投票するのであって、だからこそ間接性が担保される。
 で、間接性が担保されて初めて、民主主義という最悪な制度は、かろうじて最悪を免れえる可能性が残るわけです。
 だから、原理的に言って、投票権はそういう「庶民」にだけ与えられているべきなのであって、
「直接的に政治選択をしたい」
 などと構えているゲロ的な「市民的大衆人」からは、そのケンリをはく奪して然るべきなのであります。

 ◆

 まあ、これを区分けする方法がないから不可能なのですが、理論上はそういうことになりますでしょう。

 そして、理論上のことを確認しておくことはとても重要なことです。



(続く)


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