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日本が日本であるために

主に政治、経済、時事、国家論についてなどを書きます。日本が日本である、ということを主軸に論を展開していきたいです。

 

愛国心について! 

 今回は、愛国心について、俺なりに整理して書いてみました。




今回は、愛国心についての記事ですから、「我こそは愛国の徒である!」という愛国者から、「普段から愛国、愛国騒ぐのは好きじゃない」といったツンデレ的愛国者にいたるまで、遠慮なくランキングにご協力ください。
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 俺たちの世代……と、いってもいろいろいますけど、たいていは「愛国か、反日か」などという意識に関わりのないところで育っています。
 現代では、「個人個人の『安全(命)と便益』を担保する、便宜的な組織」これが『国家』であると捉えられているし、その前提の下で俺は育ち、今の子供も育っています。
 その世界観には「愛国」も「反日」もなく、ただ「個人」と「地球」と「人類」があるだけ。それが、好意だろうが反発だろうが、『国家』というものに「こだわり」のあることそのものが、おおよそ異質で、おどろおどろしいものである……という感覚です。


 こうした「個人」「地球」「人類」といった世界観の中で、『価値』や『善』を思考するのは、極めて困難です。
 確かに人間は、「個人の欲望を満たす」という命題を追っているうちは『価値』をそれに置くことができます。例えば、労働、創造意欲、知的興奮、性的興奮、恋、スポーツ、趣味などに、強烈なこだわり、思い入れがあれば、その個人の『価値』はそこへ集約していくし、価値は個人的な善の基準を形づくります。
 そこでは、たとえ「個人」「地球」「人類」といった寂しく悲しい世界観の下にあろうと、そんなことは端論でしょう。何故なら、欲望が価値を、価値が善を形づくるのであれば、その個人の主な世界は、実のところ「強烈にこだわる欲望」の方にあるわけです。すると、この個人には、個人として別な世界観を持つことができます。
 勿論、その価値や善の基準は、酷く限定された、共有する範囲の狭い価値や基準です。それでも、「人それぞれが、自分自身の考え方に従って生きるべきだ」といった相対主義的な見地から見れば、それでも良いと言うこともできます。
 もし、個人のそれぞれが、その欲望に対し「強烈にこだわり続ける事」ができるのであれば……


 しかし、ほとんどの人間は、なんらかの「個人的な欲望」について「強烈にこだわり続ける」などという事はできないものなのです。
 そして、こうした『個人』が「強烈な欲望」を持てなかったり、失ったりした場合に残るのは、価値や善の無い「個人」「地球」「人類」という寂しく悲しい空っぽな世界観だけでしょう。


 すると、人は概ね、「誰かのため」「何かのため」ということを想わずにいられないわけです。
 それが、家族や友人、恋人などなどの「思い入れのある他者」である事はよくあることですね。

 でも、さらにもうひとつ考えると、もし俺が「誰かのため」に生きるとしたら、「その誰かは、何のために生きるのか」という問いが出てきます。
 きっと、その「誰か」は、また「誰かのため」に生きるんでしょう。そのまた誰かも誰かのために生きて……という連なりの上でしか、人間は生きていけないんだと思います。

 そういった「誰かのために生きる」という横軸の繋がりと時間的な積み重ねが、様々なレベルの集団を歴史的に形作っているのだとすれば、やはり「人間は帰属レベルに応じて集団のために生きているのだろう」と、結論付けないわけにはいかないわけです。
 その、帰属集団の最終レベルが『国家』なんであって、そうなると、「自分がその国家に帰属している」という強制された運命に対して、何らかの「意地」や「こだわり」があって然るべきだし、それこそが人間らしさというもんだと考えるのです。



 ……なんだか、いい話風に論じていますが、その「自分の帰属集団へのこだわり」というのは何も「愛」だけとは限りません。「憎しみ」だって意地やこだわりです。
 つまり、国家に対する感情というのは、『愛』と『反発』があって当然だということです。

 これを認めないで「人と人との繋がり」を『愛』だけで捉えてしまうと、「国境を越えた繋がりも、愛で何とかなる」といった理屈に繋がってしまいかねません。



 そもそも俺は、「自分には愛国心があります」などと声高に表明する台詞を聞いても、全然信用することができません。
 だって、自分が生まれながらに強制された、帰属集団に対して、「愛おしさ」だけ感じて生きている野郎など存在するはずないじゃないですか。絶対に、「半分は憎ったらしくてしかたない」と感じているに決まっているのです。

 例えば、「僕の尊敬する人は、父です」というような台詞は社会的な台詞であって、誰もそれが本心を正鵠に射た台詞であるなどとは思わないでしょう。そいつだって、絶対に、父親に対して反発や憎しみも持っているはずなんですから。だけど、もう一方で、「親なんてどうでもいい」だなんて偽悪も、到底信じられるものではありませんね。そこには絶対に、親に対する愛着のようなものがあるはずですから。


 国家についても、『国』という、個人の意志で選択したわけではない、生まれながら強制的に属している集団に対して、「どうしようもない愛着」と「どうしようもない反発」があるに決まっているのです。
 俺は、この「国家に対する愛着と反発」の事を、まとめて『愛国心』と呼ぶべきなのではないか、と思っています。



 さらに、果たして我々は、こういった「愛着と反発」を、日本の国境を越えた所のエリアに、感じる事はできるか……と考えてみます。
 すると、他国や数カ国の陣営、或いは地球といったモノに対し、「愛着と反発」を同時に抱いている奴など、ほとんど世の中に存在しない事が分かります。
 特定の国々が好き、とか、特定の国々が嫌い……といった話しはあるのでしょうが、そこに「愛着と反発」が同時に含まれることはないでしょう。

 これが、我々にとっての最終帰属集団が『国家』である、ということの紛れもない証拠です。
 また、この排外的な先入見をこそ『国境』と呼ぶべきものなのだと、俺は考えます。



(了)



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