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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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part3減反政策の廃止について~米の生産と価格の調整への擁護 

「part2減反政策の廃止について~米の生産と価格の調整への擁護」
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-142.html
の続きです。

 この回で一度論を区切りますが、コメについてはこれからも論じて行きたいと思います。


 今回は、とにかく既得権益が嫌いだ……という人には無理にとは言いません。が、別にそうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れなきよう、押してから読んでいっていただけると嬉しいです。






fuji



 さて、前回述べてきたような、政府の補助金や農協による価格維持、産業体の維持を、世間一般では『既得権益』といって蔑んでいるわけですけど、では、一体全体どうしろというのでしょうか。
 そう。大衆世論の論調では、それら「政府や農協の生産調整、価格調整」を取り払って、「自由な市場での需要と供給によって諸価格が決定される」のが、「民主的かつ効率的で合理的だ」というように考える風潮が根強く蔓延っているのです。
 だって、要は「自由市場で価格が決まるならもっと米価は安いはずだから、価格を維持しようと農協は生産調整で横槍を入れること自体が、既得権益だ」と、考えるわけでしょう?

 しかし、このように「政府の介入や既得権益を排除し、自由市場における自然発生的な需要と供給によって決定された価格を持って適正とする」という向きを、「自由民主主義という『理想』と、経済における『現実』の効率性を、『両立』させる魔法のツール」と考えるのは、間違っているのですよ!
 もっと率直に言わせてもらえば、間違っている上に、偽善的で、欺瞞的で、低劣で、醜く、浅ましく、愚かで、虚飾的な、甚だ都合の良い大衆理論でしかないのです。

 ここでは何をおいても、「自然発生的に起こった需要と供給が均衡したもの」こそが「適正価格」であるという発想自体が、酷い思い込みであることを指し示しておかねばなりません。いや、需要と供給によって価格が決まっていく市場の機能が存在すること自体を否定しているわけでわけないのです。ここで考えていただきたいのは以下の二点。

 一点目は、諸需要と諸供給は、「個々人から自然発生的」になど起こりえる事など絶対にありえず、必ず「ヒエラルキー、コネ、シガラミ、環境に左右される価値観」といった社会的な要因に基づいて需要、供給が決定されているということ。つまり、需要や供給は、「諸個人が諸個人から発して、諸個人の合理的な選択として帰結するもの」ではなく、「抑圧的、偏見的、硬直的な社会的枠組み(コミュニティー)の中で、はじめて需要や供給が成り立つ」のであるから、「社会のシガラミに囚われない、個々人から自然発生的に起こる需要と供給」というもの自体が、絶対に存在不可能だということです。
 もし、「社会のシガラミに囚われない、自然発生的な需要と供給」などというエセSFティックなものが存在するとすれば、自由民主主義は経済の上でも完結し、世界の統一的な秩序となって戦争はなくなっていく……という話になるわけですが、そんな『お花畑的資本主義』は、ほとんど大衆夢物語でしかないのです。

 二点目は、ある時点での『需要』と『供給』が生む均衡価格は、果たして『適正』なのかどうかは分からない、という事。
おおよそ、そうした『均衡価格』がハナッから「民主的で適正である」という前提があるからこそ、「市場均衡価格」=「適正価格」といったような捉え方がされるわけですけれども、一点目で述べた通り、そのような『民主性』は殆ど空理空論であるから、実のところ、こういった前提は成り立ちようがないわけです。
 つまり、「まず、市場の需要と供給があり、その均衡したものが適正価格」なのではなく、「まず、『適正価格』というものが社会的に先入観としてあり、その適正価格へ均衡していくような需要と供給が生じて、はじめて資本主義経済が調和する」と考えるべきだということです。
また、この『社会的先入観としての適正な価格』というものは、「モノとモノ」、「モノと労働力」といった、相対的な価値の『比』としての先入観です。
費用があり、人件費があり、給料があり、食料費があり、衣料費があり、医療費があり……といった、コミュニティーの中で生じるありとあらゆる経済活動における価値の比率についての先入観がまずあって、均衡価格とはその結果論でしかないのですよ。


 しかし、兎に角、できる限り効率的に大量に生産し、価格が下がればそれは消費者の効用であると換算する輩からすると、「米の価格の下落」は「良いこと」であると考えるわけです。



 しかし、コメの価格が下がる事は、常に良いことなのでしょうか?
 自由市場で決定されることが民主的である……という浅はかな理屈は、コメの場合においては明確に現実から逸脱していることが見て取れます。

 というのも、もし、コメの生産量が、「長期的に間断なく、毎年予測しうるもの」であり、「参入するのも、撤退するのも容易である」ならば、「価格競争で非効率農家が淘汰され、コメ産業自体が、需要にあわせた供給へと収束していくか、競争力をつけて海外へ打って出る」というような与太話も成り立つのでしょう。が、コメ……だけではなく農産物の生産量が「長期的に間断なく、毎年予測しえ」たり、「参入や撤退が容易に成せ」たりするはずがないんですよ。物理的に。
 農業は、土地の具合や天候に大きく左右される産業です。つまり、豊作かと思えば、凶作の場合もあるわけです。現在は、コメはおおよそ毎年供給過剰なわけですけれど、それでも数十年に一度は酷い凶作にみまわれたりするわけです。

 だのに、それをまったく自由な市場において、「農産業の既得権益」の介入を許さない需要と供給の均衡価格によって、毎年の米価が決まったとすれば、コメの価格が、天候や土地の具合に左右されて、「急激に上がったり、下がったり」するわけですよ。(こういった動的な現実を、経済の諸モデルが網羅しきれていないことは、今更口うるさく言及するまでもないでしょう。)

 こういう性質があるから、農産物の先物取引は投機の気を帯びるわけですけれど、とりわけ、我々日本人のほとんどすべての家計において恒常的に支出される『コメの価格』は、経済全体にめちゃくちゃ影響を及ぼすのです。
 だって、家計で消費されるコメを買うお金は、一体どこから来るかといえば、多くは給料から来るわけです。
 そして、給料、人件費の決定というのは、様々な要素が考えられますけれど、「おおよそ、これくらいの給料があれば、生活を成り立たせることが出来るだろう」という社会的な感覚が無視できないはずです。
何故なら、労働力というものは、物理的に「その労働力がどの程度の力を発揮するかは、実際に働いてからでなければ判明しない」ので、雇用条件はおおよそ「社会的な偏見」に依拠せざるをえないからです。
社会的な偏見というのは、学歴や経歴であったり、コネであったり、縁故であったり、容姿であったり、人当たりであったりするわけですが、道徳的な偏見……つまり、「生活の水準や維持」に鑑みた偏見に基づいて、労働価格が一定範囲に収まる事が常識化されているという所も含めての事です。
 良い悪いを置いておいて、物理的に、現実的に、我々はそういう『社会的先入見』に基づいてしか経済をやっていけないわけですけれども、労働価格が「生活の水準や維持」と無関係には決定されないという以上、それは「生活に必ずかかるであろう物の値段」が無関係ではないことにもなってくるわけです。(そんなものは不合理だと言ったって、社会に存在する人々は、別に合理的に生きようなどと考えて生きているわけではないので、そういったものを改変しようとしたって不可能なのですよ)

 さて、コメの話に戻るわけですが、我々は生活様式的に、確実に毎年大量のコメを消費します。
つまり、米価は、家計の消費の基準に組み込まれているわけです。そうなると、給与の基準となる『先入観』にも、(意識的か無意識的かは分かりませんが)当たり前のごとく組み込まれているはずでしょう。

 米価はまさに象徴的ではありますけれど、物価は給与と連動します。とりあえず現在の米価の下落は、デフレーションの大きな一因となってしまっているでしょう。
 しかし、ここで言いたいのはデフレの事というよりは、『コメ』のように諸家の生活様式と密接に関わるモノの値段は、とりわけ『安定的』でなければ、経済全体を調和させるに必要な様々の前提を共通了解として取りえなくなってしまうというぜ……という事です。

 価格というものは、「ある程度硬直的に安定していなければならない領域」と「別にそうでもない、自由市場に任せて良い領域」とがあるのです。常識的に考えれば当たり前のことでしょう。


 それを、「産業の性質」や「国家の属性を帯びた生活様式」との関わりといった所を無視して、何でもかんでも「既得権益を取り払って自由市場で価格を決定させれば、競争によって価格が下がって、消費者が得をして、民主的である」とする大衆世論の風潮には、本当に辟易とするのです。

 「既得権益、既得権益」と、ピーピー五月蝿いですけれど、国家の中にあって、経済の中にあって、産業、業界の中にあって、「既得権益に属していない人」なんて幸せな人物は存在しないのです。
その「既得権の大きさ」には、確かに濃い薄いがありますけれど、それはむしろそうあってもらわねば困るものです。何故なら、産業というものは平等であってはならないからです。
 だって、国家、社会の基盤になるような産業においては、それはそれなりに安定的、持続的に運営されていなければ困るに決まっているでしょう。基盤が、「今日は上がり調子、明日は下がり調子」といった風体では、その上に乗る他産業が成り立つ前提すら毀損されてしまうではありませんか。

 我々は、そういったことを、「産業の権威」とか「ヒエラルキー」といった先入観に基づいて、常識的に理解してきたはずです。
 こうした、権威やヒエラルキーは、「合理性によって打ち壊されるべきだ」とするのが、素晴らしい事のようにのたまう輩が本当に多いわけですけれど、そんなルサンチマンは今すぐ捨て去ってしまいましょう。

 一見うっとおしく思われる『権威やヒエラルキー』という不合理に、歴史の英知が含まれている……という保守論からは、こと経済においてであっても逃れられないのですから。






(了)




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