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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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3月1日(生活という政治行為) 

 そもそも、民主主義や市場原理主義といった『多数者礼賛の主義』への批判を多数者へ向けて説くというのは、全くの無意味とは言わないまでもやはり不毛な事なのかもしれません。

 というのも、多数者……大衆、一般国民といったモノを実質上構成している一人一人の庶民、生活民は、特に強くケンリを請求している積もりはないからです。だいたい多くの個々人は、慣習や習慣による慣性によって生活をし、刺激による反射によって経験する世界に彩りを持たせる……といった具合なのですから。

 ただ、私はこの類の人々(庶民)の有り様を否定する積もりはありません。というのも、それぞれの生活民が、家族で、学校で、会社で、地域社会で、それぞれの仕事や生活を日々こなすという事はそれだけで充分すぎるほど政治行為であり、国家と経済に貢献しており、国民的義務は果たせているからです。

 しかし、こうした生活民による選択の、多数の支持を得た財やサービス、そして政策が、上等なものであるかは別の話であります。
 あるいは、『生活民の多数による選択』を上等にせしめんが為に生活民そのものを『啓蒙』するなどという事が、多数による選択を上等にするわけもありません。これが上手くいく為には、啓蒙が指し示す光の先が完璧かつ画一的である必要があるからです。完璧な理屈など存在するわけはないし、国家、社会が画一的な理論で回るはずもないでしょう。

 生活民の多数による選択が、常に下等なものである……とは言いませんが、生活民の多数(大衆)の選択に任せて良い領域には限界があると、少なくとも考えるべきなのです。
 これはつまり、国民主権(日本国憲法上、厳密には人民主権)の考えの否定であります。民の主権は、制限されるべきなのです。

 では、民の主権は、何によって制限さるべきなのか。
 もっと言えば、民なるものの選択の自由を規制する領域は、いかなるものが支配するのが正当であるか、という問いです。

 それは二つにあって、一つは、「自生的な秩序」であり、もう一つが「組織的な統治」であります。


(つづく)
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