09 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

TOP > 未分類 > title - 3月2日(澪標)      
  

3月2日(澪標) 

 大衆礼賛の風潮による、(国)民主権および、民主主義と市場原理主義への批判を、誰に向けて話すべきか……あるいは、文芸として誰へ語りかける体裁を整えるべきか。

 それは、現代の第一権力者であるところの大衆そのものにではなく、むしろ『知識人』と『統治人』へ向かって話しかけるべきなのでしょう。
 つまり、知識人に向かっては「民に向かって寧言を弄するのは止せ」と。統治人へ向かっては「統治者が持っていて然るべき正統かつ正当なる権限は、自信を持って行使せよ」と。



 知識人や統治人……あるいは知識階級の人々へ向けて、こうした文章を書くわけですから、それなりの装丁と説得力と威嚇が必要になってくるでしょう。
 私は、文章をそのように洗練していかねばなりません。


 あるいは、私は、私の文章が広告の裏紙に書く落書きで終わらぬように、authorize(権威付け)をしなければならないのかもしれません。
 最も単純なのは、私自身が権威を纏う事です。しかし、これは単純だが簡単ではありません。私の環境と若かりし日の放蕩が、それを限りなく不可能たらしめてしまったのであるから、自業自得でしょう。

 では、現在の言説のほぼ大半がそうであるように、まずは大量の人々からの支持を纏って、自らの言説を明るみに出すというのはどうでしょうか。

 世の中には、ほとんど文章というものを読み書きできない層の人々というのは実在し、どんなに少なく見積もっても半数以上の現代日本人はそうであると言って差し支えないでしょう。
 そうした人々は扇情的(sensational)で激烈だが画一化された言説へ群がるものです。あたかも、街灯に群がる虫のように、けばけばしい光の方へぱぁーっと、反射的に群がってゆくのであります。
 つまり、人々のそういう性質を利用し、筆先より光を放って、量を集めて、量そのものを権威とするのはどうか、という事。

 ただ、私はそれが嫌で嫌でたまらないわけです。

 例えば、韓国人の悪口を言うくらいの迎合はやぶさかではありませんが、惚れ惚れするほど上手に韓国人をコケにする人は沢山いるし、私自身はそれほどそうした手合いの遊戯には熱中できそうにもない。そんなに面白いものだとは思えないからであります。
 また、政策的、経済的諸問題について、大衆礼賛ーーそれが人間性であろうが、国民性であろうがーーに迎合するくらいなら、舌を噛みきった方がマシです。
 というか第一、私にそうした才があるとは思われません。


 そうなると、現状、私がとるべき方向は、文章を洗練させ、literacy(読み書き能力)のある人々をことごとく惹きつけて権威とする……ということになってきます。
 それは、論理性、理論性、学術性、文学性、表現力、品位、時事性、実践性、などにおいて総合的に高度な精度を保持してゆく研鑽の事であります。私は、そういったファクターの、今まで粗の目立った所について、改めて見直す必要があるのでしょう。

 勿論、そうした研鑽をすれば、literacy(読み書き能力)のある人々を惹きつける事ができるのか、といえばそうではありません。それには圧倒的に才というものが必要です。
 しかし臆面もなく言えば、私には、ヒトが生まれ持っているべき不可欠な要素の多くに欠けているという事と引き換えに、一片の奇妙な才があるのです。
 この澪標があるからこそ、そこへ身を尽くしてみるかという気分が起こり、その気分にせっつかれて書いている次第であります。
関連記事
スポンサーサイト

Category: 未分類

tb 0 : cm 1   

コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

# |  | 2014/03/02 17:12 [edit]

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://shooota.blog.fc2.com/tb.php/151-ac583072
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)