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日本が日本であるために

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新自由主義と日本国憲法 

 前回提示した日本国憲法の問題。今回は、この問題と、経済における新自由主義的な思想形態の問題との類似性を論じてみたいと思います。


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 新自由主義的な経済の発想が日本国憲法的であるのは当然といえば当然の話で、日本国憲法の理念が時代を経る度に理想の前提とされた社会では、その範疇から出てくる経済思想も日本国憲法的になっていくに決まっているのであります。そして、日本国憲法的経済思想とは、概して、ヒューマニズムとしての『社会主義』と、個人主義としての『新自由主義』なのです。

 このように言うと、「時代を経るごとに憲法の改正の機運は高まっているし、昨今では集団的自衛権の話も出てきているじゃあないか」とおしゃられる方もいるかと存じます。が、それは、おもに九条の話なのであって、もっといえばそれも単なる安全保障の具体的技術論でしか論じられていないのが現状です。

 そして、前回から強調して論じているのは二章九条二項ではなく、とりわけ三章の『国民の権利及び義務』の問題性なのです。三章においては、問題視する声が保守であろうと革新であろうと少なく、そして時代を経るごとに当たり前の理想として社会の前提とされてきてしまっているように思われます。ともすれば、「九条改正」を声高に叫びのたまわっている者ですら、三章的な発想を「進歩の光の先」と前提して話を始めていたりするわけであります。


 この三章(第十条から四十条で構成される)においては、国民(前回述べたように日本国憲法においては、単に日本国籍をもった人間)の権利を、概してこのような基調で描いています。
 それは、「平等に『人間の権利』なるものを享受すべきはずの諸個人の『自由』は、政府によって侵されない」というものです。
 まずそうした諸個人の自由があって、けれどそうした中では「公共の福祉に反する事」が生じるであろうから、そこにおいてのみ「人権」は制限される……というまとめ方がされているのであります。

 つまり、三章に基づくと、「諸個人の自由」と「公共の福祉」の均衡が、「国民の権利」であるということになる。


 ただ、これがそれなりの整合性をもった論理として通用するためには、個人といったものが「個人から起こり、個人に帰結する選択や信条を保持しうる」という前提がなければなりません。しかし、そんな状態は現実的に想定しえないのです。
 もし、ある一時を切り取って「個人」を観察すれば、それは個人が個人の内から独立して選択や信条を発露しているように見えるでしょう。ですが、通常、人間は時間的流れと状況の中に組み込まれて存在しているはずなのですから、個人の思考なり選択はそうした環境の持続の中で発露されているはずなのであります。つまり、個人が個人として思考するという状態が存在する時点で、その個人の心身の内に、他の個人や様々なレヴェルの社会との関連性が組み込まれていると考えるのが適切なのであります。

 このことを踏まえれば、まず個々人の自由な選択や信条があって、それが全体の益を害する(公共の福祉に反する)場合には制限される……という社会契約的な筋立ては、思考実験としては可能なのかもしれませんが、現実の国家の法のあり方を示すものとしてはあまりに地から足が離れすぎている事が分かるでしょう。これは、「個人主義が自己中心的で倫理的にケシカラン」などという話以前に、人間の現実的あり方を包括的に捉えていないという意味から非科学的であるともいえるのです。


 もしかすると、世間では上のような事を言うと「屁理屈だ」と糾弾されるのかもしれません。
 何故なら、「個人個人の選択や信条が、個人で帰結していないからといって、個人の自由(人権)を政府なるものの判断で制限して良いという話にはならない」という反駁が可能だからです。
 こうした反駁が生じるのは、自由を制限する「公共の福祉」というものが明瞭に、それこそコンピュータや計算モデルで合理的に算出しうる、という誤解があるからなのだと思われます。
 というのも、もし、「公共の福祉」の基準が人間にとって画一的に明瞭であるならば、「その基準に則ること以外には集団に縛られる事なく個人が発露できる」ということになるからです。すると、そうした数値的に「明瞭」であると言い張る基準以外の、「伝統、権威、偏見、差別、道徳」といった個人を抑圧しているかのように見える諸々の社会的先入観を、「不合理な矛盾」として排除していこうとする傾向が生まれるのです。

 こうした傾向は、現在の自由民主主義的な政治的態度に最もよく見て取れます。つまり、「公共の福祉」の基準は「多数の世論」であると。
 これは、「人々が理性的(合理的、悟性的)な態度を持てば、多数者は多数の不利益になるような主張するはずはないから、そこそこベターな基準が生まれるはずだ」と考える態度であります。しかし、先にも言ったとおり、合理というものの基準が人間一般にとって明瞭でない以上、それが「多数の意見」だからといってベターであるという根拠にはなりません。




 そして、こうした形の問題は、現在の経済論における態度に最も良く顕れているのです。

 例えば、社会主義の場合、「諸個人に対する分配を均一化する」というのが公共の福祉なわけです。また、その「均一化」はとどのつまり物質的な部分において突き詰められるのは、強度の合理的な計画を構築するためには数値的に明瞭でなければならないという事情によります。
 ただ、こうした社会主義の計画経済の発想への傾斜は、「日本国憲法三章」から生じる経済論としては比較的に特殊な順路を辿ったもののはずです。

 むしろ、日本国憲法三章のような思想が素直に受け入れてしまうようになると、やはりそれは「新自由主義」とか「市場原理主義」または「新古典派経済学」といった種類の考えが蔓延って当然なのです。なぜなら、「新自由主義」と「憲法三章」における理念の親和性が極めて高いからであります。平成という時代は、戦前なる価値観が世代の交代によって霧散し、日本国憲法の発想が純粋化されていく時代であるとも言えるわけで、そんな悲劇的な時代に新自由主義が流行るのは運命としての進歩(没落)なのかもしれません……

 まず、先に示した個人観でありますが、ああした個人観は、経済学における合理的な諸個人の前提と極めて類似しているものであります。つまり、完全情報的に、消費者は自らの選択による効用の具合を察知でき、生産者はその消費者の行動を察知できて生産されたものは必ず売れる……といったような。
 新古典派的な経済モデルの中で前提とされている個人観は、「個人個人の選択が、個人で帰結している」ということを前提としています。そして、数値モデル化の便宜の為に(あるいは政府批判の為に)、まるで自然状態における諸個人にいきなり物凄い合理的判断能力が与えられたかのような世界を想定してしまっているのです
 こうした人間観の下では、自由市場にて、ある売買が行われた場合、売買が行われたというだけで社会的益であるということになってしまう。何故なら、「売り手も買い手も個人で自由な選択したのだから、売り手と買い手双方の益であるに決まっている(もしくは平均的にはそうだ)」という考えが根本にあるからであります。そして、その根拠は、「諸個人は『平均的』には、合理的に行動するはずだ」とする個人観にあるのです。
 仮に、そうした態度に基づいて社会を俯瞰してしまうと、そうした個々の自由な市場取引を制限する「伝統、権威、偏見、差別、道徳」といったものは、「改革されるべき社会の矛盾」ということになってしまいます。この場合の「伝統、権威、偏見、差別、道徳」を具体的に言えば、「政府による規制、政府による支出、産業の既得権益、人間社会上のコネやヒエラルキー、地域の風土的シガラミ」といった『構造』の事になります。
 こうしたわけで、新自由主義は、「規制、公的支出、既得権益、コネ、シガラミ」に色濃く関わる分野(政治、官僚組織、産業組織、組合などなど)を、経済から排除していこうという市民革命的な傾向を帯びてきてしまうのであります。そうした意味で『構造改革』とは、ルサンチマンに基づく「経済的な市民革命」とも言い表せるのではないでしょうか。(もちろん悪い意味で言っているのですけれど)

 勿論、新自由主義的な者であっても、政治の領域を完全に排除しようとする者は稀です。(それでは無政府主義になってしまいますしね)
 しかし、新自由主義における政治の役割は、「公共の福祉」として算出されます。この意味では、社会主義や憲法三章と同様、公共の福祉なるものが明瞭に算出しうるという前提に立っているとも言えるのです。

 つまり、一見全く逆の態度であるかのように見える新自由主義と社会主義は、「現実世界から遊離した個人」という個人観と、「社会益というものが人間一般に明瞭で、かつ合理的に算出しうる」とする全体観という所で、ほとんど双子のような類似性を持つのであります。それでも結論が違ってくるのは、やはり社会益というものは人間一般に明瞭ではないという事の証明でもあるのではないでしょうか。




 私は、日本国憲法が嫌いで、社会主義が嫌いで、新自由主義が嫌いであります。
 しかし、日本国憲法が嫌いなのは「九条があると、自らの生命と財産が脅かされそうだから」ではないし、社会主義が嫌いなのは「弱者が保護されて、能力のあるものがワリを食うのが気に食わないから」ではない。そして、新自由主義については「弱者が可哀想だから」というヒューマニズムで嫌っているのではないのです。

 私がこれらを嫌うのは、これらがほとんど同じ「人間への誤解」を孕んでおり、そして一様にキレイ事めかした偽善だからなのであります。

 人間の個々人は、意識の上に現実世界を経験して、その経験との関わりの中で思考(言葉)を形成していきます。ですから、個人の中にはあらゆる単位の「社会的全体」であったり「社会的偏見」が既に内包されているのです。
 また逆に、社会や全体の方も、そうした諸個人の反応によって形成されているわけであるから、いついかなる時も『社会益』といったものは不明瞭なのであります。

 勿論、『全体の社会益』というもののヴィジョンがなければ、それは諸個人の内面においても懐疑主義(ニヒリズム)に陥ってしまうでしょう。

 ただ、「社会益とは人間一般に不明瞭である」という事を認めながらも、それを捉えようとする意思を持った者であれば、各々の社会体の歩んだ『経緯』やそれを反映する『構造』へ着目するほか手がないと気づくはずです。つまり、集団の『歴史的経緯』や『伝統』に、何かしらの社会益の基準が不明瞭ながらも見て取れるのではないか、という考えに至るはずなのです。
 こうした集団の歴史的経緯や伝統に含まれる『基準』とは、基本的に抽象的レベルでしか表すことのできないものであるが故に数値化できません。しかし、経済にしろ、軍事にしろ、政治にしろ具体的な実践を論じる場合においても、その抽象レベルのでの前提が集団の中で歴史的に通低していなければ、到底成り立つものではありません。

 それを「成り立つ」と言い張るのが、日本国憲法であり、社会主義であり、新自由主義であるから、「そんなものはキレイ事の嘘っぱちである」と大きな声で糾弾しないではいられないのであります。



(了)
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