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大学改革と純粋近代的教育観 

 今後、しばらく日本国憲法についてやって行こうと思っているのですが、それと平行して、教育・学問についてもやってみようと思います。
 と、申しますのも、大学改革というのがどうも厄介な話であるということを聞き、自らの学生時代の経験も思い返すうちに、「なるほど、これは気にくわない」と日に増して思うようになってきたからであります。
 大学改革……これは様々な批判の仕方が可能な愚挙です。グローバリズムや新自由主義を内包してもいるし、特権を剥奪しにかかるルサンチマンから起こっているとも糾弾できる。

 しかし、私は、私なりの「大学改革論へのアンチテーゼ」を構築してみたいと思います。それは、「純粋近代的な教育観への批判」という指針です。

 私がこの指針にこだわるのは、「閉鎖的な大学のあり方を開放し、より世間の請求する人材を効率よく育成できるようにする」という大学改革の態度を、世間一般の人はおろか、大学の人ですら「良い事」という風に思いながら進めている様子だからです。つまり、悪くしようと思って悪くしているわけではなくて、良くしようとして悪くしているから、余計にタチが悪いということ。
 さらに、実のところそうした大学改革に懐疑的な思いがあっても、彼がそれまで「純粋近代」を礼賛する文脈で研究を進めてきた教員であれば、なかなかこれに反発するということはできない。何故なら、今までそういった社会観で理論を構築してきておきながら、自分の所にお鉢が回ってきた途端に転向するなどという振る舞いはさすがに取れないからであります。

 こうした事情によって、大学改革という大学の人の首を絞める改革を、大学の人が反発していかれないのです。ですから、大学外にある者が「純粋近代的な教育観」という所まで立ち返って、それが大学改革という指向を礼賛する根本問題である事を指し示す事に何かしらの意義があるように思われたのであります。

(ただ、今回はまだ論が錬れていないので朧なところもあるかと存じます。順次、論を洗練させていきますので、今日はとりあえずその骨子を)


 大学改革が喫緊の課題である……と考えるお方には無理にとは申しませんが、別にそうではないという方は、どうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいっていただけると嬉しいです。




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 そもそも、我々が今当たり前と思って享受し、子や孫らへ受けさせているような学校教育といったものは、種類として随分新しいものです。勿論、日本では、江戸時代から寺子屋があって町人は奉公へ出ると読み書き算盤をならっていたらしいから、庶民の識字率は相当の水準でありました。それは立派なことでありますが、こうした教育は近代以降のそれとは種類が違うのです。
 我々現代人が受けてきたのは、おおよその国民に何年も均質な義務教育を施すという「国民教育」でしょう? 国民教育などという事をしはじめたのは、日本に限らずその国が「近代主義(モダニズム)」というものを受け入れたり、受け入れざるをえなくなってからのことです。それは当たり前で、国民国家という感覚は近代のものなのですから。また、その国民教育における目的は二つに分けられます。
①「国家を全体として近代合理的に回す為には、大多数の民に『国民』としての質が求められるから」
②「個人が、近代合理的に回転する国家においてその恩恵を享受するには、『国民』としての質が求められるから」
 つまり、「近代社会の合理性の為」という側面と、「それによって個人が近代社会の恩恵を受ける為」という側面から、広く均質な教育が求められるようになるわけです。

 ここでは、こうした意味での教育を『近代的教育』と呼びましょう。



 対して、そうした近代主義の始まる前、学問やお勉強というものは概ね特権階級のものでした。
 というのも、日本の武士や西洋の貴族といったような特権階級は、百姓と比べれば暇だったのです。(勿論、平時においてはということですが)そうした立場の武士や貴族は平時が続けば次のように考えるものです。
 百姓農民が生産したモノの上で禄を噛んでいる以上、特権階級は彼らを指導する責任がある……と。そして、百姓農民を指導する為にはその実践的な術や文化的な教養を学ばなければならない。それが学問です。
 こういった考えは、日本では武士道の走りである山鹿素行が言っていますし、西洋ではノブレス・オブリージュという言葉に貴族の持つべき責任という感覚が顕れています。また、「school」の語源である「スコラ」というギリシア語の意味は、「暇な時間」とか「暇な時間をつぶす場所」という意味がある。つまり、学問というのは、労働を免れた暇な人間がやる「真剣な遊び」だったのです。

 ここでは、こうした特権階級による指導の術や文化的教養としての学問を「前近代的学問」と呼びましょう。



 さて、保守派を自称する私は、この「近代的教育」と「前近代的学問」を並列させた時、どのようにこれらを考えるべきでしょうか。
 もし、保守思想というものを、「近代というものを引き受けつつ、近代への懐疑を失わない者」と定義する事を許してもらえるのであれば、それは「近代的教育」と「前近代的学問」の均衡をこそ目指すべき学問・教育の道であると言えます。
 つまり、平民的な庶民に対する「国民教育」と、特権階級的な真剣な遊びとしての「学問」を、社会の中で調和せしめるように目指していくべきだという事。

 これに対して、「大学改革」の理念は、近代合理的な社会とその便益を受ける平民の為に広く均質な教育を求める国民教育……つまり、「近代的教育」の方しか念頭においていないのです。
 そうした、社会を一側面でしか捉えない近視眼的態度が……純粋近代的なモノの見方に収束していく大衆礼賛の気色が、私は嫌でたまらない。もし、そのように社会を一側面で捉えたならば、社会はごくスマートに、無駄なく、矛盾なく調和していくように見えるでしょう。つまり、研究者の時間的余裕、様々な学部、学科、研究、大学の自治閉鎖性……といったモノが無駄であり、矛盾であるように見えてくるでしょう。ズルイ既得権益に見えてくるでしょう。
 しかし、それらは無駄じゃあないのです。
 実を言うと、国家、社会は我々が思う以上に複雑なものですから、そうした前近代的な学問的特権を付与された層は必要なのです。また、そうした特権は、多少の余分で与えられていても、不足しているよりは遥かにマシであると言えます。

 卑俗な平民の請求に晒されず、ただ「真剣に遊ぶ」という事をする層は、絶対に必要です。
 私は、こうした前近代的学問の特権を断固擁護していく所存であります。


(了)
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